書道偉人物語


 12   王義之  下
 会稽郡(かいけいぐん)の内史となった王義之は、その土地の人々のために一生懸命働きました。大飢饉に見舞われた時も、すぐに郡の役所の非常用の倉庫を開いて人々に分け与え、中央政府からの厳しい税の取り立てには、負担を軽くするようにと、人々の苦しい様子を手紙で訴えました。当時、中央政府には、王義之の仲の良い友達だった謝安が尚書僕射という、内務省の次官に当たる重要な職についていたのが、とても幸いでした。中央政府との交渉には、謝安が何かと応援してくれたのです。その頃王義之が謝安にあてた手紙には、「君の助けがなかったら、会稽郡の人々は皆、東シナ海に身を投げて自殺を図らなければならぬところだったよ。本当にありがとう」などとあります。こうした二人の友情の絆は、死ぬまで変わりませんでした。一方、会稽郡での王義之の楽しみといえば、美しい自然と接することでした。こういう王義之の心境から生まれたのが「蘭亭の会」です。永和九年(西暦353)3月3日、会鄭郡山陰県の名所だった蘭亭に、謝安をはじめとする41名の友人たちを招待し、曲水の宴を催しました。これは、庭に曲がりくねった細い流れを作り、上流の方から酒をついだ杯を浮かべて流し、それが各々の自分の目の前に流れてくるまでに詩を作らねば罰としてその酒を飲まなければならないという、一種のゲームでした。この時は王義之も、随分お酒を飲みました。そしてそこで、皆が作った詩の序文(前書きの文章)を作り、筆をとって一気に書き上げたのが、あの有名な「蘭亭序」なのです。王義之はのちになって、何回もこの蘭亭序の書き直しを試みたのですが、どうしてもあの宴の日に書いた以上のものはできなかったそうです。
 ところで、王義之と言えば、20世紀の現代でも”書聖”(書の神様)と呼ばれていますが、その彼も若い時分には、それほどでもなかったようなのです。でも、若い時から後漢時代の張之の草書や魏の鐘?(しょうよう)の楷書を手本として、一生懸命修行を重ね秀れた書を生み出しました。しかし、彼の”書聖”としての名を高めたのは、何といっても、皆が尊敬する芸術性と実用性を兼ね備えた品格のある書の型を作り上げたからでしょう。 
 もう1つは王義之が楷書や行書や草書といったいろいろな書体を、完璧なまでに自分のものにした点です。特に書く場合に早く書けて、読むのに難しくない行書体を、美しく見事に完成させ、のちの人々の手本となった功績は、見逃してはなりません。
 終わりに、王義之の息子たちにも触れておきましょう。
 王義之には7人の男の子供がいました。中でも王献之は若い時から字が上手で、その名は全国にとどろき、人々は王義之と合わせて2人のことを二王と呼ぶほどでした。又、王献之はとても自信家で、父にライバル意識さえ持っていたようです。



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