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高密文献王・司馬泰

高密文献王の司馬泰は字を子舒といい、彭城穆王司馬権の弟(すなわち司馬馗の子)で、魏のとき陽亭侯となり、陽翟令に補任され、扶風太守に遷った。

武帝が禅譲を受けると(魏の咸煕二年→晋の泰始元年265、隴西王・邑三千二百戸に封ぜられ、游撃将軍を拝した。

地方に出て兗州刺史となり、鷹揚将軍を加えられた。

使持節・都督寧益二州諸軍事・安西将軍・領益州刺史に遷任したが、病と称して赴任しなかった。

安北将軍に転じ、兄・司馬権に代わって督鄴城守事となった。

安西将軍に遷り、都督関中事[11]となった。

太康280-289 武帝のとき)の初、中央に入って散騎常侍・前将軍・領鄴城門校尉となったが、病のために官を去った。

後に下邳王司馬晃に代わって尚書左僕射となった(太康四年283*18

地方に出て鎮西将軍・領護西戎校尉・仮節となり、〔薨去した〕扶風王司馬駿(驃騎将軍)に代わって都督関中軍事となった(太康七年286が、病のために京師に帰還した。

永熙の初、石鑒に代わって司空となり(永煕元年290 恵帝の初年)、まもなく太子太保を領した。

楊駿が誅されるに及んで(永平元年291、司馬泰は楊駿の軍営を領し、侍中を加えられ、歩兵二千五百人・騎兵五百騎を給うことになった。

司馬泰は固辞し、そこで兵千人・百騎を給わった。

[11] 都督關中事 「都督關中軍事」とすべきである。また、この記事は下文の「代扶風王駿都督關中軍事」の重複記事かとも疑われる。

*18) 為尚書左僕射 武帝紀・安平献王伝付下邳献王では、尚書右僕射。

 

 

楚王司馬瑋が収監されると、司馬泰は兵を戒めて今にもこれ(楚王司馬瑋)を救おうとしたが、祭酒(属官)の丁綏が諫めた。「公は宰相の身であり、軽々しく動くべきではありません。また夜中あわただしいので、人を派遣して審問されるべきです」

司馬泰はこれに従った。

司馬瑋はやがて誅され、そこで司馬泰が録尚書事となり(元康元年291、太尉に遷って*19、尚書令を守し(元康六年296、高密王・邑一万戸に改封された。

元康九年299 恵帝のとき)に薨去し、太傅を追贈された。

*19) 遷太尉 元康四年(294)に太尉の石鑒が薨去しており、司馬泰はこの後を受けて太尉となったものか。

 

 

司馬泰の性格は廉静で、音楽・女色を近づけなかった。

宰相となり、大国の租税を食んだにもかかわらず、服飾・肴膳は布衣・寒士(無官・地位の低い者)の如くであった。

簡略をこころがけ、朝会のたびに、かれを知らない者はそれが王公であると気づかなかった。

親につかえて恭謹で、喪中にあって哀戚し、謙虚にへりくだって、宗室の模範となった。

当時諸王では、ただ司馬泰と下邳王司馬晃だけが節制をもって称えられた。

両者は施しをおこなうことこそなかったが、その他の点では比べるものがなかった。

司馬泰には四人の子があった。司馬越・司馬騰・司馬略・司馬模である。

司馬越には独自の伝がある(列伝第二十九)

司馬騰は家を出て叔父の後継となったので、その弟の司馬略が立った。

 

 

高密孝王・司馬略(高密文献王・司馬泰の子)

孝王の司馬略は字を元簡といい、孝敬慈順にして、心おごらず士にへりくだって、若くして父の風があった。

元康291-299 恵帝のとき)の初、愍懷太子(司馬遹。恵帝の長子)が東宮にあって、大臣の子弟や名の知られた者たちから選抜して賓友とし、司馬略は華恒らとともに左右に侍した。

散騎黄門侍郎・散騎常侍・秘書監を歴任し、地方に出て安南将軍・持節・都督沔南諸軍事となり、安北将軍・都督青州諸軍事に遷った。

司馬略が青州刺史程牧に迫ると、程牧はこれを避けて、司馬略がみずから州を領した。

永興304-305 恵帝のとき)の初、ケン[巾+弦]令の劉根[12]が東萊で挙兵し、庶民を誑かして、人数は一万を数え、臨淄を攻略したが、司馬略は阻止できず、逃げて聊城を保持した(光煕元年306

懐帝が即位する(光煕元年306と、使持節・都督荊州諸軍事・征南大将軍・開府儀同三司[13]に遷任した(永嘉元年307

京兆の流人・王逌と長老の郝洛が数千の人数を集めて、冠軍に屯した。

司馬略は参軍崔曠を派遣し将軍の皮初・張洛らを率いて王逌を討たせたが、王逌の偽計にあって、敗れた。

司馬略はあらためて左司馬曹攄を派遣して崔曠らを統率して王逌に迫らせた。

大いに戦ったが、崔曠は後方にあって密かに勝手に退却し、曹攄の軍は後援が無く、戦い敗れて、死んだ。

司馬略は崔曠の罪を赦して、またも部将の韓松を派遣し崔曠らを監督して王逌を攻め、王逌は降伏した。

まもなく開府に進み、散騎常侍を加えられた。

永嘉三年309 懐帝のとき)に薨去し、侍中・太尉を追贈された。

子の司馬拠が立った。

薨去すると、子が無く、彭城康王(司馬釈)の子・司馬紘を継嗣とした。

そのち司馬紘は実家に帰って、司馬紘の子・司馬俊(高密恭王)を立ててその祭祀を奉らせた。

[12] ケン令劉根 「ケン 巾+弦」は原本では「りっしんべん+弦」としているが、ここでは漢書地理志上に拠って改めること、巻十五(地理志下)の校記に見えるとおりである。「劉根」は、恵帝紀・王弥伝ではともに「劉柏根」としている。

[13] 開府儀同三司 下文で「逌降、尋進開府」とあり、この時には先に開府とはならなかったのであり、この六字はおもうに衍文である。恵帝紀に無いのも、また証拠である。

 

 

新蔡武哀王・司馬騰(高密文献王・司馬泰の子)

新蔡武哀王の司馬騰は字を元邁といい、若くして冗従僕射を拝し、東嬴公に封ぜられ、南陽・魏郡太守を歴任して、赴任先で仕事ぶりを称えられた。

中央に召されて宗正となり、太常に遷り、持節・寧北将軍・都督并州諸軍事・并州刺史に転じた。

恵帝が成都王司馬穎を討ったが、天子の軍は敗れた(永安元年304

司馬騰は安北将軍王浚とともに司馬穎の任命した幽州刺史和演を殺し、軍を率いて司馬穎を討った。

司馬穎は北中郎将王斌を派遣して応戦させ、王浚は鮮卑の騎兵を率いて王斌を攻撃し、司馬騰が後続となって、大いに撃破した。

司馬穎は懼れて、恵帝をかかえて洛陽に帰り、司馬騰の官位を安北将軍に進めた。*20

永嘉307-313 懐帝のとき)の初、車騎将軍・都督鄴城守諸軍事に遷り、鄴に鎮屯した。

また天子の駕を迎えた勲功により、新蔡王に改封された(永嘉元年307

*20) 光煕元年(306 恵帝の末年)、東燕王に進む。

 

 

むかし、司馬騰は并州を発って、真定に宿営した。

大雪にあい、平地は数尺ほど積もっていたが、営門の前方は数丈にわたって雪が融けて積もらなかったので、司馬騰は怪しんでここを掘ると、玉馬・高尺許を手に入れ、上表して献じた。

そののち公師藩が平陽の人・汲桑らとともに群盗をなし、清河郡ユ[兪+おおざと]県で挙兵して、人数は一千余人ほどになり、頓丘を寇略した。

〔汲桑は〕成都王司馬穎を葬ることを理由にして[14]、司馬穎の位牌を置いて行動し、張泓の旧将である李豊らとともに鄴を攻めた。

司馬騰は言った。「孤(わたし)は并州に在ること七年で、胡族が〔こちらの〕城を囲んでも勝つことはできなかった。汲桑は小賊であり、どうして憂うるに足りようか」

李豊らが到達すると、司馬騰は守りきることができず、軽装騎兵を率いて逃走したが、李豊によって殺害された(永嘉元年307

四人の子があり、司馬虞・司馬矯・司馬紹・司馬確という。

司馬虞は勇力があり、司馬騰が殺されると、司馬虞は李豊を追い、李豊は水中に身を投じて死んだ。

この日、司馬虞および司馬矯・司馬紹と鉅鹿太守崔曼・車騎長史羊恒[15]・従事中郎蔡克[16](車騎将軍としての司馬騰の属官)は李豊の残党によって殺害され、諸々の名家で流れて鄴に住まっていた者まで、尽く死亡した。

もともと、鄴では府庫が枯渇していたが、司馬騰は資用すること甚だ饒奢だった。

〔司馬騰は〕性格が儉嗇で、恩をほどこすことが無かったので、危急に臨んで、将士に米を数升・帛を一丈ほど賜ったが、人々は不足におもい、遂には災禍に至った。

苟晞が鄴を救援すると、汲桑は平陽へと帰還した。

時に夏の盛りで、遺体は腐敗して識別できず、司馬騰および三人の子(司馬虞・司馬矯・司馬紹)の遺骸は収容できなかった。

庶子の司馬確が立った。

[14] 以葬成都王穎為辭 上文の「寇頓丘」は公師藩による光熙元年(306)の事である。「以葬成都王穎為辭」の挙兵は、汲桑の永嘉元年(307)のことであり、この時には公師藩はすでに死んでいるため、「以葬」の上「桑」字が有るべきである。

[15] 羊恒 「恒」は、各本では「桓」としているが、ここでは宋本に従う。

[16] 蔡克 「克」は、各本では「充」としているが、礼志中・陸雲伝・蔡謨伝では「克」としている。ここでは宋本に従う。

 

 

新蔡荘王・司馬確(新蔡武哀王・司馬騰の子)

荘王の司馬確は字を嗣安といい、東中郎将・都督豫州諸軍事を歴任し、許昌に鎮守した。

永嘉307-313 懐帝のとき)の末、石勒によって殺害され、子が無かったため、はじめ章武王司馬混の子である司馬滔にその祭祀を奉らせ、後に〔司馬滔は生家に還って章武王を継いだため、〕汝南威王司馬祐の子である司馬弼を司馬確の後継とした(建武元年317 晋王司馬睿(元帝)のとき)

太興元年318 元帝のとき)に薨去し、子が無かったため、また司馬弼の弟である司馬邈を司馬確の後継とし(咸和八年333 成帝のとき)、官位は侍中に至った。

薨去すると(太和元年366 廃帝海西公のとき)、子の司馬晃が立ち、散騎侍郎を拝した。

桓温は武陵王(司馬晞)を廃し、司馬晃を免官して庶人となし、衡陽に移した(咸安元年371 簡文帝のとき)

孝武帝は司馬晃の弟である司馬崇を立てて司馬邈の後を継がせた(太元九年384 孝武帝のとき)が、奴僕によって殺害され(元興元年402 安帝のとき)て、子の司馬恵が立った。

宋が禅譲を受けると(晋の元熈二年→宋の永初元年420、国は除かれた。

 

 

南陽王・司馬模(高密文献王・司馬泰の子)

南陽王の司馬模は字を元表といい、若いころから学問を好み、元帝および范陽王司馬虓とともに宗室のなかで称揚された。

はじめ平昌公に封ぜられた。

恵帝の末、冗従僕射を拝し、累進して太子庶子・員外散騎常侍に遷任した。

成都王司馬穎が長安に奔ると、東海王司馬越は司馬模を北中郎将として、鄴に鎮守させた。

永興304-305 恵帝のとき)の初、成都王穎のもとの帳下督公師藩・樓権・郝昌らが鄴を攻めると、司馬模の近臣は謀議してこれに呼応した。

広平太守丁邵[17]は軍勢を率いて司馬模を救援し、范陽王司馬虓もまた兗州刺史苟晞を派遣して救援させると、公師藩らは逃げ散った。

鎮東大将軍に遷任して、許昌に鎮守した。

爵位が進んで南陽王となった(光煕元年306 恵帝の末年)

永嘉307-313 懐帝のとき)の初、征西大将軍・開府・都督秦雍梁益諸軍事に転じ、河間王司馬顒に代わって関中に鎮守した(永嘉元年307*21

司馬模は丁邵の徳(鄴において囲まれたときに、救援してくれたこと)に感じ入り、封国の人に命じて丁邵のために碑を立てさせた。

[17] 丁邵 宋本では「邵」を「劭」と記しており、良吏伝・石勒載記・通鑑八六ではまた「紹」と記す。

*21) 代河間王顒鎮關中 前年十二月に、司馬模が司馬顒を雍谷で殺した。

 

 

当時関中は飢饉で、人民はたがいに食らいあい、そのうえ疫病がはやって、盗賊が横行した。

司馬模の力では統制することができず、そこで銅人や鐘鼎を鋳つぶして釜をつくって穀物を安くしようとしたが、論者はこれを非難した。

東海王司馬越は上表して司馬模を司空として召しよせ、中書監傅祗を遣って交代させようとした。

司馬模の謀臣・淳于定は司馬模に説いた。「関中は天府の国・覇王の地です。いま〔任地を〕安んじることができなかったために召還され、既に〔あなたの〕声望は損なわれています。また公(あなた)の兄弟は大事のために決起して、朝廷に並び立っておられ、もし強ければ専権の罪があり、弱ければ人に制せられるところであり、〔京師へ帰還するのは〕公の利益ではありません」

司馬模はその進言をいれ、徴召に応じなかった。

上表して世子の司馬保を西中郎将・東羌校尉として上邽に鎮守させようとしたが、秦州刺史裴苞がこれを拒んだ。

司馬模が帳下都尉陳安に部隊を率いて裴苞を攻撃させると、裴苞は安定へと奔った。

安定太守賈疋は郡をあげて裴苞を迎え入れ、司馬模が軍司謝班を派遣して賈疋を伐たせると、賈疋は盧水へと退いた。

その年、官位を太尉・大都督に進められた(永嘉五年311 懐帝のとき)

 

 

洛陽が転覆すると、司馬模は牙門趙染[18]に蒲坂を守らせたが、趙染は馮翊太守の官を求めたが得られず、怒って、部隊を率いて劉聰(漢の皇帝)に投降した。

劉聰はその子の劉粲と趙染に長安を攻めさせ、司馬模は淳于定にこれを拒ませたが、趙染によって破られた。

士卒は離反し、倉庫は枯渇して、軍祭酒韋輔は言った。「事態は急です。早く降服して難を免れるべきです」

司馬模はこれに従い、遂に趙染に降った。

趙染はあぐらをかき袂を振り払って(無礼な態度で)司馬模の罪を数えあげ、劉粲のもとへ送った。

劉粲はこれを殺し、司馬模の妃である劉氏を胡族の張本に賜って妻とした(永嘉五年311 懐帝は平陽にあり)

子の司馬保が立った。

[18] 趙染 愍帝紀と劉琨伝では「趙冉」としている。巻五の校記に見える。

 

 

南陽元王・司馬保(南陽王・司馬模の子)

司馬保は字を景度といい、若いころから文才があり、著述を好んだ。

はじめ南陽国の世子を拝した。

司馬模が殺害されたとき、司馬保は上邽にいた(永嘉五年311 懐帝は平陽にあり)

そののち賈疋が死に、裴苞もまた張軌(涼州刺史)によって殺されると、司馬保は秦州の地の全てを保有して、自ら大司馬と号し、詔を受けたとして百官を置いた(永嘉六年312 懐帝は平陽にあり)

隴右の氐・羌はともにこれに従い、涼州刺史張寔(張軌の子。建興二年314に地位を継ぐ)は使者を派遣して貢献してきた。

愍帝が即位すると、司馬保を右丞相とし、侍中を加え、都督陝西諸軍事とした(建興元年313

まもなく官位を相国に進められた(建興三年315

 

 

司馬模が敗れると、都尉陳安は司馬保に帰順し、司馬保は精鋭千余人を統率して羌族を討たせ、寵遇すること甚だ厚かった。

司馬保の部将である張春らはこれを憎み、陳安に異心が有ると謗って、排除するよう請うたが、司馬保は許さなかった。

そこで張春らが刺客を伏せておいて陳安を襲うと、陳安は負傷して、馬を馳せて隴城へと帰ったが、使者を司馬保のもとへ遣わして、貢献は絶やさなかった。

 

 

愍帝が塵埃にまみれる(建興四年316、漢に捕われ平陽に送られる)と、司馬保は晋王と自称した(太興二年319 元帝のとき)

このとき上邽は大変な飢饉で、士卒は困窮し、張春は司馬保を奉じて南安へ行った。

陳安は自ら秦州刺史と号して、劉曜に称藩(藩臣としての礼をとる)した。

張春はまた司馬保を奉じて桑城へ奔り、張寔(涼州刺史)のもとへ投じようとした(太興三年320

張寔は兵を出して司馬保を迎えるようみせて、実はこれを防がせた。

この歳、司馬保は病のために薨去し*22、時に二十七歳であった(太興三年320

司馬保は体格が立派で、かつて体重は六百斤だと称していた。

喜睡(睡眠を好む?)・痿疾(性不能?)のために、婦人を御することができなかった。

子が無く、張春は宗室の司馬瞻を立てて司馬保の後を奉じた。

陳安は兵を挙げて張春を攻め、張春は逃げて、司馬瞻は陳安に降服し、陳安は司馬瞻を劉曜のもとへ送り、劉曜はこれを殺した。

陳安は司馬保の喪をおこない、天子の礼をもって上邽に葬り、諡して元とした。

*22) 保病薨 元帝紀では、部将の張春に殺害されたとしている。

 

 

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