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太祖文皇帝・司馬昭
文皇帝は諱を昭といい、字は子上、景帝(司馬師)の同母弟である。
魏の景初二年(238)、新城郷侯に封ぜられた。
正始のはじめころ、洛陽典農中郎将となった。
このとき魏の明帝の奢侈の後をうけて(奢侈の風潮があったが)、文帝はわずらわしい事を除去し、農繁期に徴用などしなかったため、万民は大いに喜んだ。
散騎常侍に転任した。
大将軍曹爽が蜀を征討したとき(正始五年244)、文帝を征蜀将軍とし、夏侯玄(征西将軍・都督雍涼諸軍事)にしたがって駱谷から出撃させ、興勢に宿営した。
蜀将の王林が文帝の陣営を夜襲したが、文帝は床についたまま動かなかった。
王林が撤退すると、文帝は夏侯玄に言った。「費禕(蜀の大将軍・録尚書事)は天険に拠ってかたく守り、進撃しても戦闘することはできず、これを攻めても勝つことはできません。すみやかに軍を還し、次の計画を立てるべきでしょう」
曹爽らが引き返すと、やはり費禕は兵を率いて急行して三嶺に赴いたので、要害の地を奪い合ったすえにようやく通過することができた。
帰還すると、議郎を拝した。
曹爽が誅殺されるとき(正始十年249)、手勢を率いて二宮(皇太后の宮殿など?)を守衛し、功績によって邑千戸を加増された。
蜀将の姜維(衛将軍・録尚書事)が隴右に侵入すると(改元して嘉平元年249)、征西将軍(都督雍涼諸軍事)(*1)郭淮が長安から来てこれを拒んだ。
文帝は安西将軍・持節に進み、関中に駐屯して、諸軍を指揮した。
郭淮が姜維の部将・句安(牙門将)を麴に攻めたが、しばらくしても決着がつかなかった。
そこで文帝は進出して長城に拠り、南進して駱谷へ赴いて(漢中を衝くと見せかける)陽動をかけた。
姜維は恐れ、後退して南鄭(漢中郡の治所)を保持したため、句安の軍は支援が絶たれて、軍勢を率いて降服した。
安東将軍・持節に転任し、許昌を鎮守した。
(*1) 征西將軍 この年はじめまで、征西将軍・都督雍涼諸軍事にあった人物は夏侯玄だった。しかし、曹爽の失脚によって京師に呼び戻され、前将軍・雍州刺史の郭淮がその後任となった。
大軍が出征して王淩を討伐したとき(嘉平三年251)、文帝は督淮北諸軍事として、部隊を統率して項に出た。
(功績により)邑三百戸を加増され、金印紫綬を貸し与えられた。
まもなく号が都督へと昇進し(督から都督へ進んだ)、征東将軍胡遵・鎮東将軍諸葛誕を統率して呉を討ち(*2)、東関で戦った(嘉平四年252)。
胡遵・諸葛誕が敗れ、(上級指揮官であった文帝は)連座して侯爵を失った(このとき新城郷侯だった)。
(*2) 統征東將軍胡遵・鎮東將軍諸葛誕伐呉 司馬昭の官位は、このときまだ安東将軍であった。本来なら安東将軍は、征東将軍・鎮東将軍よりも格下だが、このときは都督として征東・鎮東を指揮して、揚州方面の最高級司令官となっている。
蜀将の姜維がまた隴右に侵入し(嘉平六年254)、狄道(隴西郡の治所)に攻めかからんと大声で触れまわった。
文帝は行征西将軍(代行) (*3)として、長安に到着した。
雍州刺史陳泰は賊軍(蜀軍)に先んじて狄道を占拠したいと考えたが、文帝は言った。「姜維は羌族を攻めて、人質を収め、穀物を集めて倉庫を作りおわってから、転進してこちらへやって来たのであり、本来の目的は塞外の諸羌族を支配下にして、後年の(侵入の)資本とするものである。もし実際に狄道に向かうのなら、どうして大っぴらに宣言して、敵に知らせるのか? いま声を揚げて宣言しているのは、帰還したいからなのだ」
姜維はやはり陣営を焼き払って退去した。新平の羌胡族が叛乱すると、文帝が撃破して、軍威を霊州(北地郡に霊州県があるが、別の意味があるか)に耀かせ、北方の敵は震え恐れて、反乱者はことごとく降伏した。功績によってまた新城郷侯に封ぜられた(先年に削られたのと同じ爵)。
(*3) 行征西將軍 西方戦線では、嘉平元年(249)に郭淮が征西将軍・都督雍涼諸軍事に任命され、翌年に車騎将軍・都督雍涼諸軍事に昇進した。当時は征西将軍が空いており、司馬昭は本官は安東将軍のままで征西将軍を代行した。
高貴郷公(曹髦)が即位すると(嘉平六年=正元元年254)、天子廃立の計画に参与したことから、爵位を進めて高都侯(上党郡高都県)とし、二千戸を加増された。
毌丘倹・文欽が叛乱すると(正元二年255)、大軍が東征し、文帝は中領軍を兼ねて、洛陽に留まって鎮守した。
景帝が危篤になると、文帝は京都(洛陽)から駆けつけて、衛将軍を拝した。
景帝が崩ずると、天子は命じて文帝を許昌に鎮守させ、尚書傅嘏に全軍を統率して京師に帰還させるようにした。
文帝は傅嘏と鍾会の策を用いて、みずからが軍を率いて帰還した。
洛陽に到着すると、官位は大将軍に進み、侍中を加えられ、都督中外諸軍・録尚書事となって、政務を補佐した。
剣を履いたままの上殿をゆるされたが、文帝は固辞して受けなかった。
甘露元年(256)春正月、大都督を加えられ、奏上のときに名乗らずともよいとゆるされた。
夏六月、爵位が(高都侯から)高都公に進み、七百里四方を領し、九錫を加え、斧鉞を貸し与え、号を大都督に進められ、剣を履いたままの上殿をゆるされたが、また固辞して受けなかった。
秋八月庚申の日、黄鉞を貸し与えられ、三県を加増された。
二年(257)夏五月辛未の日、鎮東大将軍諸葛誕が揚州刺史楽綝(右将軍・広昌亭侯楽進の子)を殺し、淮南で叛乱し、子の諸葛靚を呉に人質として送って救援を請うた。
会議ではみなが速やかに討伐したいと請うたが、文帝は言った。「諸葛誕は毌丘倹が軽々しく行動して失敗したことから、今度は必ず外部で呉と連携しているはずで、そのため変事は大規模で時間がかかるはずだ。わたしは四方の軍勢と力を合わせたうえで、全力で敵を制する」
そこで上表した。「むかし黥布が叛逆すると、漢の高祖が親征し、隗囂が離反すると、光武帝が西伐し、烈祖明皇帝(曹叡)はみずから輿に乗ってお出ましになりました。みなそのために士気を奮い立たせ、武威を耀かせました。陛下には暫く軍隊に臨御して、将士に天威を宿らせていただきたいとおもいます。いま諸軍は五十万ほどで、大軍をもって寡勢を撃つので、勝てないことなどありません」
秋七月、天子と皇太后(明元郭皇后)を奉じて東征し、青・徐・荊・豫の兵を集め、関中の遊軍を引き抜いて、すべて淮北に会同させた。
軍が項に到達すると、廷尉何楨[8]に節を貸し与えて、淮南に派遣し、将士を慰撫させ、順逆の理非を明らかにして、誅罰・褒賞を示させた。
甲戌の日、文帝は軍を丘頭に進めた。
呉は文欽・唐咨・全端・全懌ら三万余人を派遣して諸葛誕の救援に来させ、諸将は迎え撃ったが、防げなかった。将軍李広は敵と出あっても進撃せず、泰山太守常時(太常・光禄大夫・贈驃騎将軍・高陽郷侯常林の子。魏志常林伝では「常旹」)は病と称して出征しなかったので、ふたりとも斬って見せしめにした。
[8] 何楨 晋書何充伝と魏志斉王芳紀に引く魏書では「何禎」と記述する。
八月、呉将の朱異が兵一万余人を率いて、輜重を都陸に留めおいて、軽装の兵だけで黎漿に到達した。
監軍石苞・兗州刺史州泰が防禦し、朱異は撤退した。
泰山太守胡烈は奇兵をもちいて都陸を襲い、呉の軍糧を焼き払った。
石苞・州泰はさらに進んで朱異を攻撃し、大いにうち破った。
朱異の残兵はひどく飢え、葛の葉を食べてしのいだが、呉側では朱異を殺した。
文帝は言った。「朱異が寿春にたどり着けなかったのは、当人の罪ではないのだが、呉のほうで殺してしまったのは、寿春にわびて諸葛誕の決意を堅くさせ、救援の望みをつながせるためである。もしこうしなければ、諸葛誕は包囲の突破をこころみ、のちの運命を決しただろう。大軍では持久できず、食餌を少なめ人数を減らして、他日の事変があることを期待しているという。賊軍の兵糧事情をみるに、この三箇月(?)をこえないだろう。いろいろな方法で敵を撹乱し、敵の逃走に備えるべきで、これぞ勝利の計略である」
そこで命じて城を包囲し、疲れたものや病の者を分離して淮北に送って養い、軍士には大豆をひとり三升ずつ支給した。
文欽はこの様子を聞くと、やはり喜んだ。
文帝はいよいよ弱々しい形勢を見せて、多数の間者を放ち、呉の救援がすぐに到着すると言いふらした。
諸葛誕らは軍糧制限をゆるめて多く食したため、城中は俄かに軍糧が乏しくなった。
石苞・王基がそろって攻撃したいと請うと、文帝は言った。「諸葛誕の反逆の計画は、一朝一夕のものではない。軍糧を集めて堅く守り、外では呉人と結託し、自らは淮南を拠点としている。文欽とは悪事の計画を通わせていて、すぐに逃げるようなことはない。今もし急いで攻撃すれば、遊軍の力を損なうことになる。外から賊軍がきて、表裏に敵を受けることになり、これは危険な方法だ。いま三度反逆して孤立した城に籠っており、天はやつらを同士討ちさせるだろう。わたしは持久策をとって敵をつなぎとめ、三方を堅く守っておく。もし賊軍が陸から攻めて来れば、軍糧は必ず不足するので、わたしは遊兵・軽騎をひきいて補給を絶ち、戦わずして外敵を破るだろう。城外の賊が敗れれば、(城内の)文欽らは必ず捕虜となるにちがいない」
全懌は母(全公主・孫魯班)が、孫権の息女であったが、呉で罪を得たため、全端の兄(全緒)の子・全禕[9]と全儀がその母をつれて亡命してきた。
全儀の兄・全静はこのとき寿春にいたが、鍾会の計略により、全禕・全儀の手紙をもって全静をあざむいた。
全静兄弟五人は配下を率いて、来降し、城中は大いに驚いた。
[9] 全端兄子禕 魏志鍾会伝と通鑑七七では「禕」を「輝」と記述している。
三年(258)春正月壬寅の日、諸葛誕・文欽らが城をでて包囲軍を攻撃し、諸軍が迎え撃って、敗走させた。
もともと諸葛誕と文欽は心中協力関係が良好でなかったが、事態が切迫してくると、互いに二心があるのでは疑いだした。
文欽が諸葛誕と計画をたてたときに逆らったことから、諸葛誕は手にした刀で文欽を殺した。
文欽の子の文鴦は諸葛誕を攻撃したが、勝てず、城壁を乗り越えて降伏してきた。
文鴦を将軍にし、侯に封じて、城の周囲を廻って呼びかけさせた。
文帝は城壁の弓兵が発射しないのを見て、諸将に言った。「攻撃できるぞ!」
二月乙酉の日、攻撃して陥落させ、諸葛誕を斬り、三族皆殺しとした。
呉将の唐咨・孫曼・孫弥・徐韶[10]らはみな配下を率いて降伏したので、上表して爵位を加え、飢えた者や病の者に食料を与えた。
あるひとは呉兵は(生かしておいても)やくにたたないので、穴埋めにすることを請うた。
文帝は言った。「もし逃げて生還すれば、中国の弘大さを知ることになるだろう」
こうして三河(河南・河内・河東)に移送した。
[10]徐韶 三国志に「徐韶」は無い。魏志陳留王紀・呉志孫晧伝に「徐紹」が有り、「呉寿春降将」と係り、通鑑七八も同じ。本巻の下文にまた「劭」と記述するが、「韶」・「紹」・「劭」これは同一人である。
夏四月、京師に帰還し、魏帝(曹髦)は丘頭を武丘へと改名させて、武功を顕彰した。
五月、天子は并州の太原・上党・西河・楽平・新興・雁門と司州の河東・平陽しめて八郡、七百里四方を以って、文帝を封じて晋公とし、九錫を加え、官位を相国に進め、晋国に官吏を置かせることにした。
九たび辞退して、ようやく沙汰止みとなった。
そこで邑一万戸を加増して、三県を食邑とし、諸子のうち爵の無い者をすべて列侯に封じた。
秋七月、前世代の名臣・元功・大勳の子孫を記録し、才能に応じて任用するように奏上した。
四年(259)夏六月、荊州を分割して二人の都督を置き、王基は新野に鎮守し、州泰は襄陽に鎮守した。
石苞を都督揚州諸軍事、陳騫を都督豫州諸軍事、鍾毓を都督徐州諸軍事、宋鈞を監青州諸軍事とした。
景元元年(改元までは甘露五年260)夏四月、天子はまたも文帝に前回のように爵秩をあたえるよう命じたが、また辞退して受けなかった。
天子は文帝が三代(司馬懿・司馬師・司馬昭)にわたって国事を宰領しており、政令が自分から発していないことから、心情を平安にできず、また廃位の辱めを受けるのをおそれて、百官を召して軒に臨んだときを利用して罷免しようとした。
五月戊子の日(6日)の夜、(天子は)冗従僕射李昭らに陵雲台へ兵士を集めさせ、侍中王沈・散騎常侍王業・尚書王経を召しよせ、懐から黄素にかいた詔書を取り出してかれらに示し、厳しく警戒して朝を待った。
王沈・王業は文帝のもとへ駆けつけて報告し、文帝は護軍賈充[11]らを召しよせて備えとした。
天子は事が露見したと知ると、近臣を率いて相府(司馬昭の官舎)を攻め、討伐すべき者がいる、敢えて動くものは一族ごと誅殺すると呼ばわった。
相府の兵が停止して応戦しないでいると、賈充は諸将を叱咤した。「公(司馬昭)がおまえたちを養っておられるのは、まさに今日のためだぞ!」
太子舍人成済は武器を抜いて天子の先払いを侵犯し、天子を刺すと、刃が背中へ突き出し、天子は車中で崩じた(己丑7日)。
[11]護軍賈充 賈充の官位は、晋書武帝紀・賈充伝・魏志高貴郷公紀の注に引く漢晋春秋・賈逵伝・鍾会伝また通鑑七八すべて「中護軍」と記述する。「中」字が脱していると疑われる。以下同じ。
文帝が百官を召しよせて事件について相談したが、尚書僕射陳泰(司空・録尚書事・潁陰侯陳羣の子)は来なかった。
文帝はその舅の荀顗をやって輿を送り、曲室にひきいれて、言った。「玄伯(陳泰の字)どの、天下はわたしをどうしようというのか?」
陳泰は言った。「ただ賈充を腰斬するしかなく、(そうすれば)少しは天下に謝罪できるでしょう」
文帝は言った。「卿は改めて別の手段を考えてくれ」
陳泰は言った。「ただ上策があるだけで、次善の策はありません」
こうして(結局は)罪を成済に着せて斬った。
太后が命じた。「むかし漢の昌邑王は罪があって廃位して庶人とされたが、この子(皇帝・曹髦)もまた庶人の礼式で葬るべきであり、内外にその所行を知らしめよ。尚書王経を殺せ、わたしを裏切ったのだから」
戊申の日、文帝は奏上した。「故高貴郷公(曹髦。皇帝と呼んでいない)は身近の者を引き従え、刀を抜き鼓を打ち鳴らして臣(わたし。司馬昭)のところへ向かわれ、臣は兵刃を接することを懼れて、ただちに将士をいましめて傷つけてはいけない、命令に背くものは軍法によって処罰するといいました。騎督成倅の弟の太子舍人成済が兵士らの中に入ってゆき、公(高貴郷公)を傷つけて死に至らしめました。臣が聞くに人臣の節は、死すとも二心を抱かないことで、上に事える義は、敢えて難を逃れないものとのこと。前に変事が発生したとき、禍はばねをはじいたかのようで、身を委ねて死をうけいれる覚悟で、ただただご裁断にしたがうつもりでした。しかしこの策謀は、皇太后に危険を及ぼさんとして、宗廟を顛覆させるものでした。臣は忝くも天子を補佐する任に当たり、国を安んずることに道義があるので、駆けつけてお諫めしようとしましたが、御輿に近づくことができませんでした。ところが成済が妄りに陣中に踏み入り、大それた事変をおこしてしまい、痛恨の極みで、五臓が張り裂けそうです。成済は国家を犯し法律を乱し、その罪は誅殺をのがれられないもので、成済の一族を収監し、廷尉に送って裁かれますように」
太后はこの言に従い、成済の三族を皆殺しにした。
公卿と議論して、燕王曹宇(魏の文帝曹丕の弟)の子・常道郷公曹璜(即位して曹奐と改める)を立てて皇帝とした。
六月、改元した(景元元年)。
丙辰の日、天子(曹奐)は文帝の官位を進めて相国とし、晋公に封じて、十郡を加増し、九錫を加えること前回(甘露三年五月)の如くし、甥や従弟たちで侯となっていない者を亭侯に封じ、銭一千万と帛一万匹を賜ることにした。
文帝が固辞したため、沙汰止みとなった。
冬十一月、呉の吉陽督蕭慎が鎮東将軍石苞に手紙を送って偽りの投降を申し入れ、出迎えを求めた。文帝はそれが詐計と察知すると、石苞に命じて外面上は出迎えの様子を示し、内々に備えをさせた。
二年(261)秋八月甲寅の日[13]、天子は太尉高柔を使わして文帝に相国の印綬を授け、司空鄭沖[14]に晋公の茅土と九錫を届けさせたが、文帝は固辞した。
[13] 八月甲寅 八月は丙子が一日で、甲寅は無い。
[14] 司空鄭沖 魏志高貴郷公紀に拠ると、甘露元年に鄭沖は司空から司徒にかわっており、ここで司空と記述するのは、恐らく誤りである。
三年(262)夏四月、粛慎国が楛の矢・石のやじり・弓甲・貂の皮などを献上しに来た。天子は命じて大将軍府に移させた。
四年(263)春二月丁丑の日、天子はまたも文帝に以前どおりの命令を下したが、またも固辞した。
三月、詔して大将軍府に司馬一人・従事中郎二人・舍人十人を増置した。
夏、文帝は蜀を征伐しようと、人々に諮った。「寿春を平定(諸葛誕の叛乱)して以来、六年のあいだ戦争は休止し、兵を治療し鎧を修繕して、二虜(呉と蜀)をほろぼそうとしている。呉を平定するために計略を立てるとなると、軍船を作り、水路を通って、莫大な手間をかけねばならず、これは十万人で百数十日もかかる大事業である。また南方の風土は湿気が多く、間違いなく疫病が発生するだろう。先に蜀を平定すべきで、三年の後、巴蜀から順流の勢いにのって、水陸を並進すれば、これぞ虞を滅ぼし虢を定め、韓を併呑して魏を併合するごとき形勢である。蜀の兵士を数えるところ九万ほどで、成都を守るもの及び諸郡の備えは四万を下まわらないだろうから、そうなれば残りの兵は五万を超えることはない。姜維(蜀の大将軍)を沓中に繋ぎとめて、東方を顧みることもできないようにし、直ちに駱谷を突いて、無防備の地に進出し、漢中を襲撃する。あちらが弱兵で守備しているのなら、勢いからいって必ず逃げ散るはずで、敵の頭と尾は断ち切れることになる。大軍を挙げて城を落とし、精鋭を派遣して郊野を攻め取れば、剣閣は守りを固める暇もなく、関頭は保持することができないだろう。劉禅は暗愚なので、国境が破れれば、男女とも震えおののき、滅亡は明白となる」
征西将軍(都督隴右諸軍事)鄧艾はまだ敵に隙がないと思ったので、くりかえし異議を陳べた。
文帝はこれを心配して、主簿師纂を鄧艾の司馬に任じて説得させると、鄧艾は命令を受け入れた。
こうして四方の兵十八万を呼び集め、鄧艾には狄道から沓中にいる姜維を攻撃させ、雍州剌史諸葛緒には祁山から武街に進軍して、姜維の帰路を絶たせ、鎮西将軍(都督関中諸軍事)鍾会には前将軍李輔・征蜀護軍胡烈らを率いて駱谷から漢中を襲撃させることにした。
秋八月、軍が洛陽を進発し、大いに将士をねぎらい、軍勢に勝利の誓いをたてた。
将軍鄧敦がまだ蜀の討伐をすべきでないと申し述べたので、文帝は斬ってみせしめにした。
九月、天水太守王頎に姜維の軍営を攻撃させ、隴西太守牽弘にその前で迎え撃たせ、金城太守楊欣を甘松に往かせた。
鍾会は部隊を二つに分けて、斜谷より進入し、李輔には楽城の王含(蜀の監軍)を包囲させ、部将易愷に漢城の蔣斌(蜀の護軍)を攻撃させた。
鍾会はまっすぐ陽安を目指し、護軍胡烈は関城を攻め落とした。
姜維はこれを聞くと、引き返して、王頎は姜維を追撃して彊川で破った。
姜維と張翼(蜀の左車騎将軍)・廖化(蜀の右車騎将軍)は軍を合流させて剣閣を守り、鍾会がこれを攻撃した。
冬十月、天子は諸侯が献上のためにあつまったときに、くりかえし以前の命令を発した。
朕は徳が寡いながらも、天序を継承し、わが祖宗の大事業を嗣ぐことができた。家は多くの災難に遭い、教訓についても明るくない。さきに悪逆の者がしばしば立ち上がって、国土を荒らして国内を侮り、四海が滅びさって、三祖の大事業が破れるのを非常に懼れている。
公(大将軍・高都侯司馬昭)は徳義と明哲を身につけ、英明のほどはまことに深く、武文を教えひろめ、代々輔導の任をうけて、皇家を輔弼した。風に櫛り雨に沐して(外で風雨にさらされる)、征伐にめぐりまわり、王室のためにほねをおって、二十有余年になる。先人を助けて、大政を裁断し、正しくないものを整えて、社稷を安定させた。毌丘倹・文欽の乱におよび、公は人民を安心させ、命令を分け与えて軍を興し、四方の法を整え、これらを集めて淮浦を平定した。そののち巴蜀がしばしば侵入し、西方は平静でなかったが、公は奇策を授けて、千里のむこうで勝ちを収めた。こうして段谷の戦いで、すきに乗じて大勝し、将を斬り旗を抜き取って、首級は一万を数えた。孫峻が中華を乱し、徐州のあたりに侵入すると、戦車が道路を先行し、威光が先に行き届いて、黄鉞(征伐の権限を示すおの)がまだ到達するまえに、賊の首魁は逃げ去った。孫壹が不和を生じ、みうちで疑いはじめると、遠方を照らすごとく、微妙な奇策をたてて、遠人を王命に帰服させ、中華の南方に藩国を作り、精鋭を授けて、出征につとめた。諸葛誕が天をあなどり反逆をなすと、楚の地で挙兵し、文欽・唐咨は罪をのがれて(呉に身をよせて)いたが、悪心を等しくして、賊徒を指揮し、寿春に入って、淮山に拠りすがって、王命を拒んだ。公は甲冑を身にまとい、つつしんで天罰を執行し、深く謀って廟算し、志を養い時に韜晦した。奇兵が震撃して、朱異を砕破した。機会に応じた霊妙な変化で、全琮(の一族)は降服した。叛乱を鎮め愚昧のものを攻めて、堅城も守りきることはできなかった。九度征伐する弘略を身につけ、五種の兵器を正しく用いる方法を究めた。極まりない武勇で戦って、大敵を殲滅し、旗は二度と立たず、悪人の首魁は首を差し出した。強呉の優秀な臣を収容し、亡命してきた賊徒を係留した。(投降者は)腕を縛り膝を屈して、下吏に命を委ね、捕虜・斬首は十万におよび、死体を積み上げて丘のようになった。宗廟の恥辱をすすぎ、庶民の難儀を救った。地方を掃討して、呉・会稽に威信を及ぼし、ついに武器を収めて、我が領土を安んじ、天地の鬼神でさえも、捕獲できないものはない。さきの王室の難儀では、身近で事変が起こったが、公の霊威に頼って、難事をおさめた。宗廟は危険にさらされながらも安定することができ、社稷は墜落しながらもふたたび安寧となった。忠義は皇天を正し、功績は天地四方を救った。そこで古代の教えにならい、諸々の典籍を参考にして、公に命じて位を高めて相国とし、羣后に加え、墟地に行って土地を開かせるため、晋の地域に封ずる。斉・魯をたてて、帝室の藩屏としたとおりである。しかし公は遠慮謙遜し、深く謙譲の美徳をふみ行って、策命を固辞すること、八・九度にもおよぶ。朕が謙譲の美徳を尊重し、礼儀を抑え制度をそこねて、公の志を顕彰して、いま四年になる。上は古代の諸侯を封建する法典にそむき、下は万民があおぎ慕うところにさからっている。
思うに公は王法をつつしみ、大道をきわめ、純朴をうやまい、夫役を減らし費用を節約して、農業を勧め、天下はやすらかに治まった。老人たちは尊び養われ、連添いのない者たちはめぐみの施しをうけて、仁愛の風が中夏の地に興り、めぐみは遠い荒地にまで行き渡った。こうして東西南北の蛮夷は、狂暴・狡猾にして貪欲・剽悍で、代々侵入してきて讐なしてきたのだが、みな徳義に感じ入り恩恵をしたって、塞の門をたたいて服属してきて、ある者は命を委ねて貢納し、ある者は官吏を派遣してくれることを申し出た。九服の外の、絶域の民で、久しく服属したいと思っていた者は、みな海をわたってやって来て、王徳を鼓舞し、前後にわたって服属してきた者は八百七十余万人におよぶ。天下の片隅の遠方にあっても、服属したくないと思うものない。西方から遠路にもかかわらず、越裳が通訳を重ねて朝貢し、礼儀を踏み外さなかった。朕の身をたすけ、万国をただして、外国をいつくしみ靖らかにし、八方をやすらかにし救った。庸・蜀はいまだ従わず、蛮・荊は悪事をなすなかで、(公は)秘かに謀り独りで判断して、軍を整えて武をおさめた。将帥を簡閲・訓練し、成功の策を授けて、賊の土地へ踏み入り、時に応じて砕き陥れた。悪賢いものは北へ奔り、首から尾まで震え潰え、戎の首領を捕え、その城邑を屠った。巴・漢では雷が続き、江水(長江)の上流は雲が消え去って、天地は平安になったのは、実にこのような(公の)行動によってである。公は天地四方をおさめる勲功を有し、すぐれた徳をみにつけて、国事全般を総攬し、もろもろの政務を治めた。崇仁をもって五品を重んじ、敷訓をもって六典を盛んにした。しかも早朝から職務に勤め、夜明けから慎み深くはたらいており、尚父(太公望)が文王・武王を補佐したのも、周公が王家のためにはたらいたのも、これ以上ではない。
むかし先王は明徳のものを選んで封建し、諸侯を広めおいて、国土を形作り、五等の制度をたてた。藩国に王城を守らせて、百世までも王位を継承するためである。それゆえ斉・魯の封地は、周のときには広大で、土地は七百里四方あり、所属官吏の制度は諸侯と異なる(格別の)ものだった。(周)恵王・襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は補佐のはたらきがあって、錫命の礼を受け、大いなる徳を輝かせて、後代の規範となった。思うに公の功績は前代の勲功を上まわるものだが、褒賞は古くからの典礼よりも小さく、邑の君主となっているのみであり、人も神も(待遇が不充分で)恨んでいるのだ。どうして公は謙譲して大いなる典礼にしたがうのを引き延ばすことができようか? そこでいま并州の太原・上党・西河・楽平・新興・雁門、司州の河東・平陽・弘農、雍州の馮翊のすべてで十郡をもって封ずる。南は華山に至るまで、北は陘に至るまで、東は壺口(壺関)に至るまで、西は河水(黄河)を越えるまで、封地の規模は、七百里四方で、すべて晋の故地であり、唐叔がこれを受領して、世々盟主となり、諸国を取り締まって、官吏を率いた。ここに茲土(黒い土)を賜い、公を封じて晋公とする。使持節・兼司徒・司隸校尉の武陔(*4)に命じて印綬・策書、金獣符の第一から第五まで、竹使符の第一から第十までを授ける。茲玄土を、白い茅につつんで賜い、爾(なんじ)の国家を建てて、永く魏室の藩屏とさせる。
むかし周に召公がいて、大臣と諸侯を兼ね、(朝廷に)入って傅導役となった。近代では酇侯蕭何がいて、相国の任にあって、漢朝を光りかがやかせた。時に応じた制度・礼法とういことからもこれは正しい。いま公の位を進めて相国とし、緑綟綬を加える。また公に九錫を加える。慎んで以下の命令を聴かれよ。公は大義を広め、典礼を尊び、法刑を整えて、四方をあまねく教えみちびいたので、これにより公に大輅・戎輅(天子の車)各一台と、(これを引くための)玄牡(黒い牡馬)二駟(四匹を二組)を賜う。公は陰陽を調和させ、人々に働きどころをあたえたため、農夫は基本(農業)にたちもどり、農産の豊富を維持できたので、これにより公に袞冕の服を賜い、また靴を副える(*5)。公は徳を広め、下々に恵を与えて調和させ、信義を敬い、上下が調和したので、これにより公に軒懸の楽(楽器)・六佾の舞(舞隊)を賜う。公は宇宙を鎮め、教化をすすめて、海外のものは懐き、荒地のものは服属して、外国に義を行き渡らせて、中国は軌道に乗ったので、これにより公に朱戸(天子用の朱ぬりの戸)を賜い住まわせる。公は優秀な人材を簡抜し、俊才を求めて、多くの士が集まり、行き渡らせたので、これにより公に納陛を賜い(これを使って殿に)登らせる。公は恭しくつつしみ、四周を定めて、悪逆のものを滅ぼし、むごい事はなくなったので、これにより、公に武賁の士三百人を賜う。公は天刑を執行し、大中を救い、天威を明らかにして、不正を糾したので、これにより公に鈇・鉞各一つを賜う。公は六軍を整え、命令に背く不正のものを征伐して、誅殺したので、これにより公に赤い弓一つ・赤い矢百本・黒い弓十・黒い矢千本を賜う。公は神を祀り、祖先を祭って、篤誠の至りで、神明に通じており、これにより公に秬鬯(祭で用いる酒)一卣を賜い、珪瓚を副える。晋国に官吏以下を置くこと、旧例のとおりとする。
謹んで往けよ! 朕の命令に謹んで服し、古典を広め、あちこちを潤わせて、爾(なんじ)の明徳と大いなる天子の命令を全うされよ。
公卿将校はみな相府に参じて説得したが、文帝は礼節をたてに辞退した。
(*4) 原文に姓はないが、推測した。武陔は、列伝第十五に伝がある。
(*5) 亦舃副焉 三国志武帝紀には、後漢献帝が曹操を魏公とする策命が記録されている。そこでは、ここに相当する部分が「赤舃副焉」となっている。「亦」と「赤」のいずれかが、書写の誤りと思われる。
司空鄭沖が群官を率いて(司馬昭に受諾を)勧めた。「喜ばしい命令を拝見いたしましたが、ぬすみ聞くところ明公(司馬昭)は固辞なされているとのことで、沖(わたくし鄭沖)等はこの事を気にかけて、愚かな考えを懐いています。聖王が制度を作り、百代にわたって慣習が受けつがれ、徳功を褒賞する由来となっています。むかし伊尹は、有莘氏のただの侍臣でありましたが、ひとたび成湯を補佐すると、遂には阿衡の称号を担いました。周公は完成した勢いをかり、安定した業によって、曲阜(魯の国都。周公の封地)を光りかがやかせ、あたり一帯を領有しました。呂尚は、磻溪の漁者でありましたが、一旦軍勢を指揮すると、(功績によって)営丘に封ぜられました。これ以降は、功が薄いのに賞が厚い者が、数えきれませんが、しかし賢哲の士は、それでもなお美談だとしています。まして(明公は)先の相国(司馬懿)以来、代々明徳にして、魏室を補佐し、天下を安んじて、朝廷に悪政は無く、人々に悪言は無いのです。前に明公は霊州に西征し、北行して沙漠に臨むと、楡中以西は、情勢をみておののき降服し、羌戎が攻めよせて来ると、回頭して後方へと向かい、東行して叛逆者を誅討して、軍を全うして(明公だけが)独り勝ちをおさめました。闔閭の部将(呉の軍勢を指すか)を捕え、軽鋭の兵卒を捕えて、すぐれた計略をもって、南海に威光を加え、名声は三越を恐れさせて、天下は安らかになり、悪事をなす者はなくなりました。時代にあった習俗をもって畏れさせ懐けたので、東夷は舞人を献上してきました。それゆえ聖上(天子)は昔の典礼や旧い文章を参考になさって、国を開き家を輝かせて、太原(晋国の都となるべき地)をあきらかにされるのです。明公には聖旨をうけたまわり、この幸福を受けられるべきであり、天意と衆望とに合致します。勲功は偉大で、光光たる事かの如くであります。国土が慶びにみちていて、巍巍たる事かくの如くであります。内外が協同していて、過ちも食い違いもありません。征伐をおこなうと、すみやかに江水(長江)をおさめて、呉・会稽を掃除し、西方の江水上流を塞ぎ、岷山を眺望されました。武器をめぐらせ、天下を麾下におさめて、遠方でも服従しないものは無く、近傍でも粛然としないものはありません。たとえ大魏の徳が、唐虞より大きなものだとしても、明公の盛んな勲功は、斉桓公・晋文公を超えています。後から大海に臨んで文伯に謝し、箕山に登って許由に会釈(伝説上の高潔の士に釈明をする)すれば、どうして隆盛しないことがありましょうか! (晋公への任命は)公平の至りであって、誰が(明公と)並び立つのでしょうか。必ずしも慎み深くしてつまらぬ譲徳を守るのが良いとは限りませんぞ」
文帝はそこで命令を受諾した。
十一月、鄧艾は一万余人を率いて陰平から険阻の地を踏み越えて江由に到達し、蜀将諸葛瞻を緜竹で破り、諸葛瞻を斬って、その首を伝送した。
雒県まで進軍すると、劉禅が投降した。
天子は晋公(大将軍・司馬昭)に命じて相国として国政全般を総攬させ、こうして符節をたてまつって(旧官職を返上して)、侍中・大都督・録尚書の官号を除去した。
上表して鄧艾と太尉となし、鍾会を司徒とした。
鍾会は叛逆を謀り、そこで密かに鄧艾を讒訴させた。
咸熙元年(264)春正月、檻車を送って鄧艾を召し寄せた。
乙丑の日、文帝は天子を奉じて西征し、長安に到達した。
この当時魏の諸王侯はすべて鄴城にいたが、従事中郎山濤を行軍司事として、鄴に鎮屯させ、護軍賈充を持節・督諸軍として漢中に拠らせた。
鍾会は蜀において遂に反乱し、監軍衛瓘・右将軍胡烈が鍾会を攻撃して、斬った。
もともと、鍾会が蜀を討伐するとき、西曹属・邵悌が文帝に言った。「鍾会は信用し難いので、行かせるべきではありません」
文帝は笑って言った。「蜀を取るのは掌を指さすほどたやすいことなのに、衆人はみなできないと言っていた。ただ鍾会だけが吾と同意見だった(だから、今回の作戦を任せられる)。蜀を滅ぼした後は、中国(中原・魏)の将士は、人情からいって帰りたいと思うものであり、蜀の遺民は、まだ震え恐れているはずで、たとえ異心が有ったとて、実行することはできない」
結局はその推量のとおりになった。
丙辰の日[15]、文帝は長安から帰った。
[15] 丙辰 正月は壬戌が一日で、丙辰は無い。通鑑七八は二月丙辰としている。
三月己卯の日、文帝の爵を進めて王とし、加増して以前と併せ二十郡とした。
夏五月癸未の日、天子は舞陽宣文侯(司馬懿)に追贈して晋宣王とし、舞陽忠武侯(司馬師)を晋景王とした。
秋七月、文帝は上奏して司空・荀顗に礼儀を定めさせ、中護軍・賈充に法律を正させ、尚書僕射・裴秀に官制を建議させ、太保・鄭沖に総てを裁断させた。
五等爵の制度を建てた。
冬十月丁亥の日、上奏して呉の人である相国参軍・徐劭と散騎常侍水曹属・孫彧[16]を呉に派遣し、孫晧に蜀を平定した事実を説明し、馬や錦などの物品を送って、威懐を示した。
丙午の日、天子は中撫軍・新昌郷侯司馬炎に命じて晋の世子とした。
[16] 相國參軍徐劭散騎常侍水曹屬孫彧 「徐劭」は字が異なるものがすでに前条に出ている。「孫彧」は、この晋書孫楚伝に「孫郁」とある。また魏志陳留王紀に徐紹に散騎常侍を兼ねさせ、孫彧に給事黄門侍郎を兼ねさせるとあるが、官名が合致しない。
二年(265)春二月甲辰の日、クジン[月+句.月+忍]県(益州巴東郡)が霊亀を献上し、相国府に送った。
夏四月、孫晧が紀陟を使者として来聘し、地方の産物を献上した。
五月、天子は文帝に命じて冠に十二個の旒をつけさせ、天子の旌旗を建てて、出入のときに先払いをし、金根車に乗り、六頭だての馬にひかせて、五時副車を備え、旄頭・雲罕を置かせ、八佾の舞楽をさせ、宮殿に鍾をつるす台を作らせ、位を燕王(曹宇。皇帝曹奐の実父)の上においた。王妃の称号を王后に進め、世子を太子として、王女・王孫に爵を与えるときの称号をすべて皇帝の場合と同じにした。
もろもろの煩わしい禁令や時期にあっていない法令は、文帝が奏上して除去した。
晋国に御史大夫・侍中・常侍・尚書・中領軍・衛将軍の官を置いた。
秋八月辛卯の日、文帝は露寝で崩じ、このとき五十五歳であった。
九月癸酉の日、崇陽陵に葬り、諡して文王とした。
武帝が禅譲を受けると、尊号を追贈して文皇帝とし、廟号を太祖とした。
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