
晋書 / 紀 / 卷二 帝紀第二 / 世宗景帝師
世宗景皇帝・司馬師
景皇帝は諱を師といい、字は子元、宣帝(司馬懿)の長子である。
生まれつき風貌すぐれ、落ち着きがあって大きな知略をもっていた。
若くして名声を知られ、夏侯玄・何晏と名声をひとしくした。
何晏は常に称えて言った。「よく天下の務をなすのは、司馬子元その人である」
魏の景初年間、散騎常侍を拝し、累進して中護軍に遷任した。
任用の規則をさだめ、功績以外を基準としなかったので、官吏は私心をもたなかった。
宣穆皇后(張氏。景帝の生母)が崩ずると、喪に服して至孝をもって聞こえた。
宣帝が曹爽を討とうしたとき(正始十年249)、深謀秘策をめぐらせ、ひとり景帝だけとともにひそかに画策し、文帝(司馬昭)はこのことを知らず、夕方いままさに実行しようというときになって告げられた。
人をやって様子をうかがわせると、景帝はいつもどおりに寝ていたが、文帝は落ち着いていられなかった。
翌朝兵を動かして司馬門に入り、内外を制圧して、整然と陣を置いた。
宣帝は言った。「この子は非常に立派だ」
もともと、景帝はひそかに死士三千人を養い、人々の間に散在させ、ひとたび事があれば集まって、だれもどこからやって来たか分からなかった。
事態が収まると、功績によって長平郷侯・食邑千戸に封ぜられ、まもなく衛将軍を加えられた。
宣帝が薨去したとき(嘉平三年251)、人々はみな「伊尹がなくなったので、伊陟が事業を継ぐだろう」といい、天子(曹芳)は景帝に命じて撫軍大将軍として輔政させた。
魏の嘉平四年(252)春正月、大将軍に遷任し、侍中を加えられ、持節・都督中外諸軍・録尚書事となった。
百官に命じて賢才を推挙し、長幼を明らかにし、貧窮者や孤独者を救恤し、廃滞をただした。
諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰・胡遵が四方に都督としてあり、王基・州泰・ケ艾・石苞が州郡をつかさどり、盧毓・李豊が官吏選抜を掌り、傅嘏・虞松が計謀に参画し、鍾会・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙鄷・張緝が朝議に預かり、四海みな心をそそいで、朝野とも肅然とした。
あるひとが制度を変更したいと願い出ると、景帝は言った。「『不識不知、順帝之則』とは、詩人の美とするところである。三祖(太祖武帝・高祖文帝・烈祖明帝)が制度をさだめられており、それに遵うべきである。軍事でないかぎりは、妄りに改革すべきではない。」
五年(嘉平五年253)夏五月、呉の太傅・諸葛恪が新城を囲むと、朝議では敵が兵を分けて淮水・泗水のあたりに侵入していることから、各地の水路を防衛したいと考えた。
景帝は言った。「諸葛恪は呉で新たに政権を獲得したばかりで、一時の利を求めて、合肥へ押し寄せ、万一の幸運を願っており、すぐにでも青州・徐州の災いとなるだろう。そのうえ水路は一つではなく、多くの箇所を守るには兵を大勢つかうことになり、少なくすれば防御に不十分だろう」
諸葛恪はやはり合肥に攻め寄せ、これまで同様の大軍であった。
そこで景帝は鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽らを派遣して阻止させた。
毌丘倹・文欽は攻撃したいと要請したが、景帝は言った。「諸葛恪はよろいを纏めて深く侵入し、死地に兵を投じて、その軍にはたやすくぶつかることはできない。そのうえ新城は小さいながらも堅固で、攻撃したところで落とすことはできない」
そこで諸将に命じて防塁を高くして敵を疲弊させた。
対峙すること数ヶ月、諸葛恪は城を攻めたが力及ばず、多くが死傷した。
景帝はそこで文欽に命じて精鋭を率いて合楡に行かせ、敵の帰路をさえぎり、毌丘倹には諸将を統率させて後続とした。諸葛恪が恐れて遁走すると、文欽が逆撃し、大いにうち破り、一万余の首級を挙げた。
正元元年(改元までは嘉平六年254)春正月、天子(曹芳)は中書令李豊・皇后の父光禄大夫張緝・黄門監蘇鑠・永寧署令楽敦・冗従僕射劉宝賢[1]らと謀って太常夏侯玄を景帝に代えて輔政させようとした。
景帝は密かにこれを知ると、舍人王羨に車で李豊を迎えにゆかせた。
李豊は強く迫られたため、王羨についてやってくると、景帝はその罪を数えあげて責めた。
李豊は禍が及んだと分かると、悪言をならべたてた。
景帝は怒り、勇士に刀でもって李豊を殺させた。
夏侯玄・張緝らを逮捕し、三族皆殺しとした。
[1] 劉宝賢 魏志夏侯玄伝・通鑑七六いずれも「劉賢」と記す。
三月、天子にほのめかして皇后張氏を廃すと、詔が下った。
「姦臣李豊らはつねに謀をめぐらせ、秘かに凶悪な陰謀を構えていた。大将軍は天の法則を正して、これを実践して誅罰をくだした。周勃が呂氏に勝ったのも、霍光が上官氏を捕らえたのも、どうしてこれ以上であろうか。そこで邑九千戸を加増し、これまでと併せて四万戸とする」
景帝は謙譲して拝受しなかった。
天子は夏侯玄・張緝の誅殺以来非常に不安であった。
景帝もまた制御しがたいと考え、秘かに廃立を謀り、そこで密かに魏の永寧太后(明元郭皇后)にほのめかした。
秋九月甲戌の日、皇太后が命令を下した。「皇帝はすでに成人しているのに、政務を視ず、寵愛の者に耽溺し、女徳を汚し、日々役者を近づけ、悪行をほしいままにし、六宮の家人を内房にとどめ、人倫の秩序を壊し、男女の節を乱した。つまらぬ者どものために、社稷を危うくしており、宗廟を奉ずることはできない」
景帝は群臣を招集して会議し、涙を流して言った。「太后のご命令はこの通りだ、諸君は王室をどうするつもりか?」
皆が言った。「伊尹は太甲を追放して殷に安寧をもたらし、霍光は昌邑王を廃して漢に平安をもたらし、権力で社稷を安定させ、四海を清めました。殷漢二代が昔これを実行し、明公(あなたさま)が今ことに当たろうとしており、今日の事は、ただご命令に従うのみです」
景帝は言った。「諸君の意見は重く、どうしてこれを避けようか?」
そこで群臣とともに皇太后に奏上した。「臣(わたくし)らが聞くには天子たるものは、もろもろを育み、万国を安らかにするものです。皇帝は成人しながらも、政務を視られず、日々つまらぬ俳優の郭懐・袁信らに裸で淫戯をさせておられます。広望観において遼東の妖婦の格好をさせて、道行く人は目をおおわぬ者がないありさまです。清商令の令狐景が帝をお諫めすると、帝はその体を焼かれました。太后が合陽君(郃陽君 太后の母・杜氏)の喪に服しておられたとき、帝は喜びうかれておられました。清商丞の龐熙が帝をお諌めしましたが、帝は聞き入れられませんでした。太后が北宮に還られて、張美人を殺してしまわれると、帝はひどく怒り怨まれました。龐熙がお諌めしても、帝はお聴きにならず、龐熙を糾弾されました。文書が届いても、帝は目を通されませんでした。太后が帝に式乾殿で学問を受けるよう命じられても、帝は従われませんでした。これでは天の秩序を継承することなどできません。臣らは漢の霍光の故事により、皇帝の璽綬を収め、斉王として帰藩させるよう請願いたします」
奏上が許可され、有司が太牢の犠牲をささげて宗廟に報告し、王(斉王=天子・曹芳)は副車に乗り、群臣は西掖門まで従った。
景帝は泣いて言った。「臣はこれまで代々厚い処遇を受け、先帝が崩御されるとき、遺詔をもって託されました。臣は重任を忝くしながら、お上の可否をただすことができませんでした。群公卿士は、遠く古典を参考にし、社稷のために深慮し、皇位を安寧にするため、宗廟に使いしていけにえを捧げました」
こうして使者に節を持たせて護送させ、河内の重門に(斉王を)住まわせて、郭懐・袁信らを誅殺した。
この日、群臣と天子としてだれを立てるか会議した。
景帝は言った。「ただいま宇宙はいまだ清められず、二つの敵(呉と蜀)が力を競っており、四海の主は、賢哲さが必要とされている。彭城王拠は、太祖のお子であり、賢く、仁聖明允で、年齢は、皇室の長老である。天子の位は重いものであるゆえ、才能ある人を得なければ、天地四方を安んずるに不足するだろう。」
そこで群公とともに皇太后に奏上した。
皇太后にとっては彭城王が先帝(明帝)の叔父にあたることから、昭穆の序(子が父を敬う)からいって継続にならず、烈祖(明帝)の世は永遠に継承者がいなくなってしまう。東海定王(曹霖)が、明帝の弟であるので、その子の高貴郷公髦を立てたいと考えた。
景帝は強く争ったが成果なく、そこで皇太后の命令に従い、使者を派遣して高貴郷公を元城に迎えて即位させ、改元して正元とした。
天子(曹髦)が玉璽を手にしても怠惰で、足を高く挙げるようなありさまで、景帝はこの様子を聞いて憂えた。
そこで大勢があつまる会議のはじまるまえに、景帝は天子に訓じた。「そもそも聖王は重々しさを第一とし、正本は敬しさを第一とするのは、古人の慎む所です。明日の大会議に当たって、万衆が見たいのは穆穆たる様子であり、公卿が聴きたいのは玉振の音(完成された様子)です。詩経に『示人不佻、是則是効』といい、易経に『出其言善、則千里之外応之』といいます。礼儀が周到に備わっているとしても、なおつつしみ深くすべきで、それによって四海はうやうやしく式典をあがめるでしょう」
癸巳の日(十月八日)、天子は詔した。「朕が聞くに創業の君には、必ず股肱の臣があり、守文の主には、頼るべき匡佐の輔がある。この故に文王・武王は呂尚・召公の受命の功を顕彰し、宣王は山甫にたよって中興の業をわがものとした。大将軍(司馬師=景帝)は代々明徳をつみかさね、天期に応じて輔導をなした。天が険難をもたらし、帝室が多難であったとき、斉王は政治をつかさどって、典礼にしたがわなかった。公(大将軍・司馬師)は正義を踏み行い忠義を実行して、もって中夏の地を安んじ、規範は百辟(多くの君主)を正し、庶事を総監した。内に賊徒を砕き、外に悪人を鎮め、日が傾くまではたらき、早朝までほねをおった。声望は上下に光り輝き、勲功は四方にゆきわたっている。深く重大な問題事をかんがえ、先頭にたって明策を建て、権力で社稷を安定させ、朕の身を援け立てて、宗廟は安寧を得、万民は慶んだ。伊摯が殷の国を保ったのも、周公旦が周の王室を寧んじたのも、大したことではない。朕はこれを甚だ嘉する。そもそも徳のすぐれた者は位が高く、功の大きい者は禄が厚いのが、古今に通じるきまりである。そこで位を相国に登せ、邑九千戸を加増し、これまでと併せて四万戸とする。号を昇進させて大都督とし、黄鉞を仮し、入朝のさいには小走りせず、奏上のときには名のらず、剣を帯びて上殿することを許す。銭五百万・帛五千匹を賜い、大いなる勲功を顕彰する」
景帝は相国の位を固辞した。
また上書して天子に訓じた。「荊山の璞は美しいとはいっても、磨かなければ宝物としての価値を成しません。顏回・冉求の才能は優れているとはいっても、学ばなければ度量を広げることはできません。仲尼(孔子)はこう言っています。『予非生而知之者、好古敏以求之者也』 黄帝軒轅氏五代の主君を仰ぎ見るに、天命に則らないことはなく、顓頊(黄帝の孫)は緑図に学問を受け、高辛氏(黄帝の曽孫)は柏招に道を問いました。周の成王に至って、周公旦・太公望が補佐をしたので、よく経を離れて志を辯じ、人道を安んじて作業を楽しいものとしました。それゆえに、上は君道が明らかで、下は万民が順うのです。刑罰を執行せずにすむ世が隆盛するのは、実にこれにかかっています。先王が下問されたことに倣って、しばしば政庁で学問の講読・暗誦を聞かせ、日々典謨(二典三謨)にあるようなすぐれた言葉を側においてください」
この当時天子が頗る派手に着飾っていると、景帝はまた諫めた。「端緒に立ち初めて政務をなさるについて、質素をとうとぶべきであります」
こちらの諫言も併せてつつしんで受け入れた。
二年(正元二年255)春正月、彗星が呉楚の分野に現れ、西北に天をよこぎった。
鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽らが叛乱し、皇太后の命令といつわって郡国に檄を飛ばし、西門の外で祭壇を築いて盟約し、それぞれの子四人を呉に人質として送って救援を請うた。
二月、毌丘倹・文欽は六万を率いて、淮水を渡って西行した[3]。
景帝は公卿と征討の計画について会議し、朝議の大勢は諸将を派遣して撃破すべしというものであったが、王粛および尚書傅嘏・中書侍郎鍾会は景帝に自らの出陣を勧めた。
戊午の日、景帝は中軍歩騎十余万を統率して出征した[4]。
昼夜兼行の倍速で行軍し、三方の兵を呼び集め、陳・許のあたりで会同した。
[3] 二月儉欽帥衆六萬渡淮而西 魏志高貴郷公紀では毌丘倹・文欽は二年正月十二日乙丑の日に挙兵したとあり、魏志毌丘倹伝の注に引く文欽が郭淮に与えた書簡には「小人以閏月十六日別進兵、就於楽嘉城討師」とあり、高貴郷公紀には閏月己亥の日に文欽を樂嘉で破り、甲辰の日に毌丘倹の首を斬ったとある。考察:この年は閏正月があり、己亥の日が閏正月十六日、甲辰の日が二十一日で、毌丘倹・文欽の挙兵と敗北はいずれも二月になる前のことである。こうしたことから、二月というのは、恐らく誤りであろう。
[4] 戊午帝統中軍歩騎十餘萬以征之 考察:「戊午」は二月六日で、このとき毌丘倹・文欽はすでに敗れている。沈家本三國志瑣言は「戊午」は「戊寅」の誤だとしている。毌丘倹・文欽は正月十二日に挙兵し、司馬師は正月二十五日戊寅の日に出征したという、この説は妥当である。こうしたことから、「二月」は不要で、日付もまた誤っている。
甲申の日、イン[さんずい+隱]橋にたどりつくと[5]、毌丘倹の部将の史招・李続が相次いで降服してきた。
毌丘倹・文欽が項城に移動すると、景帝は荊州刺史王基を派遣して南頓に拠って毌丘倹に当たらせた。
景帝は塁壁を高くし守りを固めて、東方の軍が参集するのを待った。
諸将は進軍して敵の城を攻めたいと請うたが、景帝は言った。「諸君はその一を得て、未だその二を知らず。淮南の将士にはもともと反乱の意志はない。また毌丘倹・文欽は縦横家の事跡をまね、張儀・蘇秦の説に習って、周囲が必ず呼応すると思っている。しかし事態が起こったときも、淮北は従わず、史招・李続は前後して瓦解した。内部から離反し外部は反発し、自ずから敗れることは知れている。困窮した獣が戦いをのぞみ、早めに戦うことはその意志に合致している。(戦った場合、)必ず勝つとはいえ、負傷者もまた多くでる。そのうえ毌丘倹らは将士を誑かして、何もかもが偽りであるから、少し時間をおけば、詐が自ずと露になり、戦わずして勝つであろう」
そこで諸葛誕に豫州の諸軍を督させて安風から寿春に向かわせ、征東将軍胡遵に青・徐の諸軍を督させて譙・宋のあたりに行かせ、敵の帰路を絶った。
[5] 甲申次于イン橋 甲申の日は閏正月一日である。イン橋に着いたのと司馬師の死は、ともに閏月の間の事である。本文には「閏月」の二字を「甲申」の上におくべきで、通鑑七六のとおりである。
景帝は汝陽に駐屯し、兗州刺史ケ艾に泰山の諸軍を督して楽嘉に進ませ、弱く見せかけて敵を誘った。
文欽が進軍してケ艾を攻撃しようとすると、景帝は軍勢を潜行させ馬に枚を含ませ(声がもれないようにし)て、楽嘉へ直行し、文欽と遭遇した。
文欽の子の鴦は、年齢十八歳で、勇気は全軍の筆頭であり、文欽に言った。「敵が態勢をととのえる前に、城から鼓を打ち鳴らして、攻撃すれば打ち破ることができるでしょう」
計画が実行され、三度鼓を打ち鳴らしたが文欽は呼応することができず、文鴦は撤退したし、ともに東方へ引いた。
景帝は諸将に言った。「文欽が敗走したぞ」
精鋭に命令して文欽を追撃させた。
諸将はみな言った。「文欽は老巧の将で、文鴦は若くして優秀で、撤退して城内にこもり、いまだ利を失ったとはいえず、敗走はしないでしょう」
景帝は言った。「一度鼓舞して士気はあがり、二度して衰え、三度して尽き果てる。文鴦が三度打ち鳴らしたが、文欽は呼応せず、その態勢はすでに屈服しており、どうして敗走するまで待つ必要があろうか?」
文欽が遁走せんとすると、文鴦は言った。「敵の軍勢を挫いてからでなければ、撤退はできません」
そこで精鋭十余騎とともに敵の全軍を挫いて陣営を攻め、向かうところ皆なびき伏し、ようやく退いた。
景帝は左長史司馬lに精鋭八千騎を統率して追撃させ[6]、将軍楽綝らに歩兵を率いてその後に続かせた。沙陽に着くころには、文欽の陣をたびたび攻め、矢は雨のごとくふりそそぎ、文欽は盾で身を隠して逃げた。
文欽軍を大破すると、敵勢はみな武器を捨てて降服し、文欽父子は麾下とともに逃走して項を保持した。
毌丘倹は文欽が敗れたと聞くと、軍勢を棄てて夜のうちに淮南へ逃げ去った。
安風津都尉が毌丘倹を追って、斬り、京師へ首級を伝送した。
文欽は呉へ奔り淮南は平定された。
[6] 司馬l 通鑑七六作「司馬班」.
もともと、景帝は目に瘤があり、医師に割らせていた。
文鴦が攻め寄せてくると、驚いて目が飛び出た。
全軍が動揺するのを懼れて、事を伏せるために覆って隠した。
痛みはひどく、覆いを噛み千切って破ったが左右のものは事情を知らなかった。
閏月、容態が悪化し、文帝(景帝の弟・司馬昭)に諸軍を統率させた。
辛亥の日、許昌において崩じ、時に四十八歳であった。
二月、景帝の喪列が許昌から帰還し、天子は喪服で弔い、詔した。「公(大将軍・司馬師)は世をおさめ国を安んずる勲功と、騒乱を平定する功績があり、国を大切にして国事のために死去したので、特にあつく礼を加えるべきである。そこで公卿に議論を命ずる」
有司は議して、忠義心によって社稷を安定させ、功績は天下を安んじるものであることから、霍光の故事に依って、大司馬の称号を大将軍の上に加え、邑五万戸を加増し、武公と諡すべきとした。
文帝(司馬昭)は上表して謙譲した。「臣の亡父(司馬懿)が丞相・相国・九命の礼をお受けせず、亡兄(司馬師)が相国の位をお受けしなかったのは、(丞相の官が)太祖(曹操)がずっと就任しておられた地位だからであります。いま諡をいただくところ二祖(武帝と文帝?)と同様の形式では、畏れ多いところです。むかし蕭何・張良・霍光はそれぞれ補佐の功績があって、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。すべて文武の意味をこめて諡されましたので、蕭何らの例に依拠して(一字を)加えていただきとうございます」
詔がくだって許可され、忠武と諡された(舞陽忠武侯)。
晋国が建てられると、追尊して景王とした(咸熙元年264)。
武帝(司馬昭の子・司馬炎)が禅譲を受けると、尊号を奉って景皇帝とし、陵墓は峻平とし、廟号は世宗とした。