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晋書 / 紀 / 卷二 帝紀第二 / 世宗景帝

  1. 景皇帝諱師、・・・
  2. 宣帝之將誅曹爽、・・・
  3. 魏嘉平四年春正月、・・・
  4. 五年夏五月、・・・
  5. 正元元年春正月、・・・
  6. 三月、・・・
  7. 天子以玄・緝之誅、・・・
  8. 是日、與羣臣議所立。・・・
  9. 癸巳、天子詔曰・・・
  10. 又上書訓于天子曰・・・
  11. 十一月、・・・
  12. 二年春正月、・・・
  13. 鎮東大將軍毌丘儉・揚州刺史文欽舉兵作亂、・・・
  14. 甲申、次于イン橋、・・・
  15. 帝屯汝陽、・・・
  16. 初、帝目有瘤疾、・・・
  17. 二月、・・・

 

     世宗景皇帝・司馬師

 景皇帝は諱を師といい、字は子元、宣帝(司馬懿)の長子である。
 生まれつき風貌すぐれ、落ち着きがあって大きな知略をもっていた。
 若くして名声を知られ、夏侯玄・何晏と名声をひとしくした。
 何晏は常に称えて言った。「よく天下の務をなすのは、司馬子元その人である」
 魏の景初年間、散騎常侍を拝し、累進して中護軍に遷任した。
 任用の規則をさだめ、功績以外を基準としなかったので、官吏は私心をもたなかった。
 宣穆皇后(張氏。景帝の生母)が崩ずると、喪に服して至孝をもって聞こえた。

 

 宣帝が曹爽を討とうしたとき(正始十年249)、深謀秘策をめぐらせ、ひとり景帝だけとともにひそかに画策し、文帝(司馬昭)はこのことを知らず、夕方いままさに実行しようというときになって告げられた。
 人をやって様子をうかがわせると、景帝はいつもどおりに寝ていたが、文帝は落ち着いていられなかった。
 翌朝兵を動かして司馬門に入り、内外を制圧して、整然と陣を置いた。
 宣帝は言った。「この子は非常に立派だ」
 もともと、景帝はひそかに死士三千人を養い、人々の間に散在させ、ひとたび事があれば集まって、だれもどこからやって来たか分からなかった。
 事態が収まると、功績によって長平郷侯・食邑千戸に封ぜられ、まもなく衛将軍を加えられた。
 宣帝が薨去したとき(嘉平三年251)、人々はみな「伊尹がなくなったので、伊陟が事業を継ぐだろう」といい、天子(曹芳)は景帝に命じて撫軍大将軍として輔政させた。

 

 魏の嘉平四年(252)春正月、大将軍に遷任し、侍中を加えられ、持節・都督中外諸軍・録尚書事となった。
 百官に命じて賢才を推挙し、長幼を明らかにし、貧窮者や孤独者を救恤し、廃滞をただした。
 諸葛誕・毌丘倹・王昶・陳泰・胡遵が四方に都督としてあり、王基・州泰・ケ艾・石苞が州郡をつかさどり、盧毓・李豊が官吏選抜を掌り、傅嘏・虞松が計謀に参画し、鍾会・夏侯玄・王肅・陳本・孟康・趙鄷・張緝が朝議に預かり、四海みな心をそそいで、朝野とも肅然とした。
 あるひとが制度を変更したいと願い出ると、景帝は言った。「『不識不知、順帝之則』とは、詩人の美とするところである。三祖(太祖武帝・高祖文帝・烈祖明帝)が制度をさだめられており、それに遵うべきである。軍事でないかぎりは、妄りに改革すべきではない。」

 

 五年(嘉平五年253)夏五月、呉の太傅・諸葛恪が新城を囲むと、朝議では敵が兵を分けて淮水・泗水のあたりに侵入していることから、各地の水路を防衛したいと考えた。
 景帝は言った。「諸葛恪は呉で新たに政権を獲得したばかりで、一時の利を求めて、合肥へ押し寄せ、万一の幸運を願っており、すぐにでも青州・徐州の災いとなるだろう。そのうえ水路は一つではなく、多くの箇所を守るには兵を大勢つかうことになり、少なくすれば防御に不十分だろう」
 諸葛恪はやはり合肥に攻め寄せ、これまで同様の大軍であった。
 そこで景帝は鎮東将軍毌丘倹・揚州刺史文欽らを派遣して阻止させた。
 毌丘倹・文欽は攻撃したいと要請したが、景帝は言った。「諸葛恪はよろいを纏めて深く侵入し、死地に兵を投じて、その軍にはたやすくぶつかることはできない。そのうえ新城は小さいながらも堅固で、攻撃したところで落とすことはできない」
 そこで諸将に命じて防塁を高くして敵を疲弊させた。
 対峙すること数ヶ月、諸葛恪は城を攻めたが力及ばず、多くが死傷した。
 景帝はそこで文欽に命じて精鋭を率いて合楡に行かせ、敵の帰路をさえぎり、毌丘倹には諸将を統率させて後続とした。諸葛恪が恐れて遁走すると、文欽が逆撃し、大いにうち破り、一万余の首級を挙げた。

 

 正元元年(改元までは嘉平六年254)春正月、天子(曹芳)は中書令李豊・皇后の父光禄大夫張緝・黄門監蘇鑠・永寧署令楽敦・冗従僕射劉宝賢[1]らと謀って太常夏侯玄を景帝に代えて輔政させようとした。
 景帝は密かにこれを知ると、舍人王羨に車で李豊を迎えにゆかせた。
 李豊は強く迫られたため、王羨についてやってくると、景帝はその罪を数えあげて責めた。
 李豊は禍が及んだと分かると、悪言をならべたてた。
 景帝は怒り、勇士に刀でもって李豊を殺させた。
 夏侯玄・張緝らを逮捕し、三族皆殺しとした。
[1] 劉宝賢 魏志夏侯玄伝・通鑑七六いずれも「劉賢」と記す。

 

 三月、天子にほのめかして皇后張氏を廃すと、詔が下った。
「姦臣李豊らはつねに謀をめぐらせ、秘かに凶悪な陰謀を構えていた。大将軍は天の法則を正して、これを実践して誅罰をくだした。周勃が呂氏に勝ったのも、霍光が上官氏を捕らえたのも、どうしてこれ以上であろうか。そこで邑九千戸を加増し、これまでと併せて四万戸とする」
 景帝は謙譲して拝受しなかった。

 

 天子は夏侯玄・張緝の誅殺以来非常に不安であった。
 景帝もまた制御しがたいと考え、秘かに廃立を謀り、そこで密かに魏の永寧太后(明元郭皇后)にほのめかした。
 秋九月甲戌の日、皇太后が命令を下した。「皇帝はすでに成人しているのに、政務を視ず、寵愛の者に耽溺し、女徳を汚し、日々役者を近づけ、悪行をほしいままにし、六宮の家人を内房にとどめ、人倫の秩序を壊し、男女の節を乱した。つまらぬ者どものために、社稷を危うくしており、宗廟を奉ずることはできない」
 景帝は群臣を招集して会議し、涙を流して言った。「太后のご命令はこの通りだ、諸君は王室をどうするつもりか?」
 皆が言った。「伊尹は太甲を追放して殷に安寧をもたらし、霍光は昌邑王を廃して漢に平安をもたらし、権力で社稷を安定させ、四海を清めました。殷漢二代が昔これを実行し、明公(あなたさま)が今ことに当たろうとしており、今日の事は、ただご命令に従うのみです」
 景帝は言った。「諸君の意見は重く、どうしてこれを避けようか?」
 そこで群臣とともに皇太后に奏上した。「臣(わたくし)らが聞くには天子たるものは、もろもろを育み、万国を安らかにするものです。皇帝は成人しながらも、政務を視られず、日々つまらぬ俳優の郭懐・袁信らに裸で淫戯をさせておられます。広望観において遼東の妖婦の格好をさせて、道行く人は目をおおわぬ者がないありさまです。清商令の令狐景が帝をお諫めすると、帝はその体を焼かれました。太后が合陽君(郃陽君 太后の母・杜氏)の喪に服しておられたとき、帝は喜びうかれておられました。清商丞の龐熙が帝をお諌めしましたが、帝は聞き入れられませんでした。太后が北宮に還られて、張美人を殺してしまわれると、帝はひどく怒り怨まれました。龐熙がお諌めしても、帝はお聴きにならず、龐熙を糾弾されました。文書が届いても、帝は目を通されませんでした。太后が帝に式乾殿で学問を受けるよう命じられても、帝は従われませんでした。これでは天の秩序を継承することなどできません。臣らは漢の霍光の故事により、皇帝の璽綬を収め、斉王として帰藩させるよう請願いたします」
 奏上が許可され、有司が太牢の犠牲をささげて宗廟に報告し、王(斉王=天子・曹芳)は副車に乗り、群臣は西掖門まで従った。
 景帝は泣いて言った。「臣はこれまで代々厚い処遇を受け、先帝が崩御されるとき、遺詔をもって託されました。臣は重任を忝くしながら、お上の可否をただすことができませんでした。群公卿士は、遠く古典を参考にし、社稷のために深慮し、皇位を安寧にするため、宗廟に使いしていけにえを捧げました」
 こうして使者に節を持たせて護送させ、河内の重門に(斉王を)住まわせて、郭懐・袁信らを誅殺した。

 

 この日、群臣と天子としてだれを立てるか会議した。
 景帝は言った。「ただいま宇宙はいまだ清められず、二つの敵(呉と蜀)が力を競っており、四海の主は、賢哲さが必要とされている。彭城王拠は、太祖のお子であり、賢く、仁聖明允で、年齢は、皇室の長老である。天子の位は重いものであるゆえ、才能ある人を得なければ、天地四方を安んずるに不足するだろう。」
 そこで群公とともに皇太后に奏上した。
 皇太后にとっては彭城王が先帝(明帝)の叔父にあたることから、昭穆の序(子が父を敬う)からいって継続にならず、烈祖(明帝)の世は永遠に継承者がいなくなってしまう。東海定王(曹霖)が、明帝の弟であるので、その子の高貴郷公髦を立てたいと考えた。
 景帝は強く争ったが成果なく、そこで皇太后の命令に従い、使者を派遣して高貴郷公を元城に迎えて即位させ、改元して正元とした。
 天子(曹髦)が玉璽を手にしても怠惰で、足を高く挙げるようなありさまで、景帝はこの様子を聞いて憂えた。
 そこで大勢があつまる会議のはじまるまえに、景帝は天子に訓じた。「そもそも聖王は重々しさを第一とし、正本は敬しさを第一とするのは、古人の慎む所です。明日の大会議に当たって、万衆が見たいのは穆穆たる様子であり、公卿が聴きたいのは玉振の音(完成された様子)です。詩経に『示人不佻、是則是効』といい、易経に『出其言善、則千里之外応之』といいます。礼儀が周到に備わっているとしても、なおつつしみ深くすべきで、それによって四海はうやうやしく式典をあがめるでしょう」

 

 癸巳の日(十月八日)、天子は詔した。「朕が聞くに創業の君には、必ず股肱の臣があり、守文の主には、頼るべき匡佐の輔がある。この故に文王・武王は呂尚・召公の受命の功を顕彰し、宣王は山甫にたよって中興の業をわがものとした。大将軍(司馬師=景帝)は代々明徳をつみかさね、天期に応じて輔導をなした。天が険難をもたらし、帝室が多難であったとき、斉王は政治をつかさどって、典礼にしたがわなかった。公(大将軍・司馬師)は正義を踏み行い忠義を実行して、もって中夏の地を安んじ、規範は百辟(多くの君主)を正し、庶事を総監した。内に賊徒を砕き、外に悪人を鎮め、日が傾くまではたらき、早朝までほねをおった。声望は上下に光り輝き、勲功は四方にゆきわたっている。深く重大な問題事をかんがえ、先頭にたって明策を建て、権力で社稷を安定させ、朕の身を援け立てて、宗廟は安寧を得、万民は慶んだ。伊摯が殷の国を保ったのも、周公旦が周の王室を寧んじたのも、大したことではない。朕はこれを甚だ嘉する。そもそも徳のすぐれた者は位が高く、功の大きい者は禄が厚いのが、古今に通じるきまりである。そこで位を相国に登せ、邑九千戸を加増し、これまでと併せて四万戸とする。号を昇進させて大都督とし、黄鉞を仮し、入朝のさいには小走りせず、奏上のときには名のらず、剣を帯びて上殿することを許す。銭五百万・帛五千匹を賜い、大いなる勲功を顕彰する」
 景帝は相国の位を固辞した。

 

 また上書して天子に訓じた。「荊山の璞は美しいとはいっても、磨かなければ宝物としての価値を成しません。顏回・冉求の才能は優れているとはいっても、学ばなければ度量を広げることはできません。仲尼(孔子)はこう言っています。『予非生而知之者、好古敏以求之者也』 黄帝軒轅氏五代の主君を仰ぎ見るに、天命に則らないことはなく、顓頊(黄帝の孫)は緑図に学問を受け、高辛氏(黄帝の曽孫)は柏招に道を問いました。周の成王に至って、周公旦・太公望が補佐をしたので、よく経を離れて志を辯じ、人道を安んじて作業を楽しいものとしました。それゆえに、上は君道が明らかで、下は万民が順うのです。刑罰を執行せずにすむ世が隆盛するのは、実にこれにかかっています。先王が下問されたことに倣って、しばしば政庁で学問の講読・暗誦を聞かせ、日々典謨(二典三謨)にあるようなすぐれた言葉を側においてください」
 この当時天子が頗る派手に着飾っていると、景帝はまた諫めた。「端緒に立ち初めて政務をなさるについて、質素をとうとぶべきであります」
 こちらの諫言も併せてつつしんで受け入れた。

 

 十一月、白気が天に現れた。

 

 二年(正元二年255)春正月、彗星が呉楚の分野に現れ、西北に天をよこぎった。

 

 鎮東大将軍毌丘倹・揚州刺史文欽らが叛乱し、皇太后の命令といつわって郡国に檄を飛ばし、西門の外で祭壇を築いて盟約し、それぞれの子四人を呉に人質として送って救援を請うた。
 二月、毌丘倹・文欽は六万を率いて、淮水を渡って西行した[3]
 景帝は公卿と征討の計画について会議し、朝議の大勢は諸将を派遣して撃破すべしというものであったが、王粛および尚書傅嘏・中書侍郎鍾会は景帝に自らの出陣を勧めた。
 戊午の日、景帝は中軍歩騎十余万を統率して出征した[4]
 昼夜兼行の倍速で行軍し、三方の兵を呼び集め、陳・許のあたりで会同した。
[3] 二月儉欽帥衆六萬渡淮而西 魏志高貴郷公紀では毌丘倹・文欽は二年正月十二日乙丑の日に挙兵したとあり、魏志毌丘倹伝の注に引く文欽が郭淮に与えた書簡には「小人以閏月十六日別進兵、就於楽嘉城討師」とあり、高貴郷公紀には閏月己亥の日に文欽を樂嘉で破り、甲辰の日に毌丘倹の首を斬ったとある。考察:この年は閏正月があり、己亥の日が閏正月十六日、甲辰の日が二十一日で、毌丘倹・文欽の挙兵と敗北はいずれも二月になる前のことである。こうしたことから、二月というのは、恐らく誤りであろう。
[4] 戊午帝統中軍歩騎十餘萬以征之 考察:「戊午」は二月六日で、このとき毌丘倹・文欽はすでに敗れている。沈家本三國志瑣言は「戊午」は「戊寅」の誤だとしている。毌丘倹・文欽は正月十二日に挙兵し、司馬師は正月二十五日戊寅の日に出征したという、この説は妥当である。こうしたことから、「二月」は不要で、日付もまた誤っている。

 

 甲申の日、イン[さんずい+隱]橋にたどりつくと[5]、毌丘倹の部将の史招・李続が相次いで降服してきた。
 毌丘倹・文欽が項城に移動すると、景帝は荊州刺史王基を派遣して南頓に拠って毌丘倹に当たらせた。
 景帝は塁壁を高くし守りを固めて、東方の軍が参集するのを待った。
 諸将は進軍して敵の城を攻めたいと請うたが、景帝は言った。「諸君はその一を得て、未だその二を知らず。淮南の将士にはもともと反乱の意志はない。また毌丘倹・文欽は縦横家の事跡をまね、張儀・蘇秦の説に習って、周囲が必ず呼応すると思っている。しかし事態が起こったときも、淮北は従わず、史招・李続は前後して瓦解した。内部から離反し外部は反発し、自ずから敗れることは知れている。困窮した獣が戦いをのぞみ、早めに戦うことはその意志に合致している。(戦った場合、)必ず勝つとはいえ、負傷者もまた多くでる。そのうえ毌丘倹らは将士を誑かして、何もかもが偽りであるから、少し時間をおけば、詐が自ずと露になり、戦わずして勝つであろう」
 そこで諸葛誕に豫州の諸軍を督させて安風から寿春に向かわせ、征東将軍胡遵に青・徐の諸軍を督させて譙・宋のあたりに行かせ、敵の帰路を絶った。
[5] 甲申次于イン橋 甲申の日は閏正月一日である。イン橋に着いたのと司馬師の死は、ともに閏月の間の事である。本文には「閏月」の二字を「甲申」の上におくべきで、通鑑七六のとおりである。

 

 景帝は汝陽に駐屯し、兗州刺史ケ艾に泰山の諸軍を督して楽嘉に進ませ、弱く見せかけて敵を誘った。
 文欽が進軍してケ艾を攻撃しようとすると、景帝は軍勢を潜行させ馬に枚を含ませ(声がもれないようにし)て、楽嘉へ直行し、文欽と遭遇した。
 文欽の子の鴦は、年齢十八歳で、勇気は全軍の筆頭であり、文欽に言った。「敵が態勢をととのえる前に、城から鼓を打ち鳴らして、攻撃すれば打ち破ることができるでしょう」
 計画が実行され、三度鼓を打ち鳴らしたが文欽は呼応することができず、文鴦は撤退したし、ともに東方へ引いた。
 景帝は諸将に言った。「文欽が敗走したぞ」
 精鋭に命令して文欽を追撃させた。
 諸将はみな言った。「文欽は老巧の将で、文鴦は若くして優秀で、撤退して城内にこもり、いまだ利を失ったとはいえず、敗走はしないでしょう」
 景帝は言った。「一度鼓舞して士気はあがり、二度して衰え、三度して尽き果てる。文鴦が三度打ち鳴らしたが、文欽は呼応せず、その態勢はすでに屈服しており、どうして敗走するまで待つ必要があろうか?」
 文欽が遁走せんとすると、文鴦は言った。「敵の軍勢を挫いてからでなければ、撤退はできません」
 そこで精鋭十余騎とともに敵の全軍を挫いて陣営を攻め、向かうところ皆なびき伏し、ようやく退いた。
 景帝は左長史司馬lに精鋭八千騎を統率して追撃させ[6]、将軍楽綝らに歩兵を率いてその後に続かせた。沙陽に着くころには、文欽の陣をたびたび攻め、矢は雨のごとくふりそそぎ、文欽は盾で身を隠して逃げた。
 文欽軍を大破すると、敵勢はみな武器を捨てて降服し、文欽父子は麾下とともに逃走して項を保持した。
 毌丘倹は文欽が敗れたと聞くと、軍勢を棄てて夜のうちに淮南へ逃げ去った。
 安風津都尉が毌丘倹を追って、斬り、京師へ首級を伝送した。
 文欽は呉へ奔り淮南は平定された。
[6] 司馬l 通鑑七六作「司馬班」.

 

 もともと、景帝は目に瘤があり、医師に割らせていた。
 文鴦が攻め寄せてくると、驚いて目が飛び出た。
 全軍が動揺するのを懼れて、事を伏せるために覆って隠した。
 痛みはひどく、覆いを噛み千切って破ったが左右のものは事情を知らなかった。
 閏月、容態が悪化し、文帝(景帝の弟・司馬昭)に諸軍を統率させた。
 辛亥の日、許昌において崩じ、時に四十八歳であった。

 

 二月、景帝の喪列が許昌から帰還し、天子は喪服で弔い、詔した。「公(大将軍・司馬師)は世をおさめ国を安んずる勲功と、騒乱を平定する功績があり、国を大切にして国事のために死去したので、特にあつく礼を加えるべきである。そこで公卿に議論を命ずる」
 有司は議して、忠義心によって社稷を安定させ、功績は天下を安んじるものであることから、霍光の故事に依って、大司馬の称号を大将軍の上に加え、邑五万戸を加増し、武公と諡すべきとした。
 文帝(司馬昭)は上表して謙譲した。「臣の亡父(司馬懿)が丞相・相国・九命の礼をお受けせず、亡兄(司馬師)が相国の位をお受けしなかったのは、(丞相の官が)太祖(曹操)がずっと就任しておられた地位だからであります。いま諡をいただくところ二祖(武帝と文帝?)と同様の形式では、畏れ多いところです。むかし蕭何・張良・霍光はそれぞれ補佐の功績があって、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。すべて文武の意味をこめて諡されましたので、蕭何らの例に依拠して(一字を)加えていただきとうございます」
 詔がくだって許可され、忠武と諡された(舞陽忠武侯)
 晋国が建てられると、追尊して景王とした(咸熙元年264)
 武帝(司馬昭の子・司馬炎)が禅譲を受けると、尊号を奉って景皇帝とし、陵墓は峻平とし、廟号は世宗とした。


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