真実の仮面を被ったウソは上手につくべし

大阪通信020 00/02/03


●君は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』に恐怖を感じたか

 『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を観た.
 「ブレアの魔女の伝説が残るといわれる森.大学生3人が,その謎を解くため,ドキュメンタリー映画撮影チームを組んで,森へ入っていく.しかし,彼らは失跡し,撮影されたフィルムとビデオテープのみが発見された.」
 久しぶりに,情報誌の紹介文にビビっときてしまった.映画は,このドキュメンタリー・フィルムで構成されると言う.ますます期待が大きくなる.
 冒頭,紹介文と同様のクレジットが流れる.ここで,私は大きな勘違いをしてしまう.発見されたフィルムを元に,何らかの謎解きが,映画の後半に用意されるのだろうと思ってしまったのだ.しかし,途中で時計を見た私は,映画が最後まで,ドキュメンタリー・フィルムで構成される,この手法によって語られることを知る.おいおい,ちょっとそれは,思っていた方向と違うぞ.
 結局,謎は解明されなかった.謎解きを期待していた,私のようなおろかな観客は,大いなる肩透かしを食らう.しかし,制作側は,確信犯だ.「どうぞ,肩透かしを食らうなら食って下さい.そういう映画じゃありません」という,皮肉めいた笑いが目に浮かぶ.
 そう.肩透かしを食らうのは,映画の形を決めてしまっていた観客が悪い.それに,謎解明部があったからといって,面白くなっていたかは疑問だ.
 しかし.しかしである.
 彼らが,この映画で表現したかったものは何だったのか.劇映画の作法を拒否し,それに挑戦するかのように,この手法を最後まで貫いたのは何故だったのか.私は推測する.モンタージュや効果音で飾られた,一般の劇映画における作られた怖さとは異なる,リアルな緊迫感,恐怖感を描きたかったからではないのか,と.
 しかし残念ながら,私はこの映画に恐怖を感じなかった(ま,緊迫感はあるけどね).


●上手なウソ,つけてる?

 この映画はフィクションである.説明するまでもなく,映画を構成するドキュメンタリー・フィルムと記録ビデオは,監督の意図のもと撮影された虚構=ウソである.ただ,ドキュメンタリーという,真実の仮面を被ってウソをつこうというのだから,このウソは,極めて上手につく必要がある.
 それから,この映画は,劇場用映画=商業映画である.ドキュメンタリーといっても,子供の運動会ビデオのように漫然とした映像や構成であっては,一般の観客はたまらない.話の核となる部分は,しっかりとカメラに納められ,いらない部分は,編集で切り取られている.そういうわかりやすい構成が,商業映画には望まれる.コアな観客の立場で言えば,その辺はどうでもよいことなのであるが,制作側は当然,商業映画として成り立たせるつもりで作っているだろう.
 しかし,この2つの問題を両立させようとしているところに,この映画のひずみを感じてしまうのだ.
 例えば,主人公の女性監督は,かなりの極限状態にあってもフィルムを回し続ける.仲間が怒って撮影をやめさそうとしても,なかなかやめない.彼女の性格や映画に対する情熱は,言葉で説明されるわけではなく,このフィルムを回し続けるという行動によって描かる.この辺りは,なかなか心得ている.しかし,映画にドキュメンタリーの手法を用い,かつ,劇場用映画として成立させるためには,彼女の人物像はこうでなくてはならなかった(登場人物に最後までフィルムを回し続けてもらわないと,話の核が押さえられない=劇場用映画として成立しない).
 これって上手なウソ?私は,あざとさを感じてしまう.
 ラストで,残された2人が,それぞれ8mm(?)カメラとビデオカメラを持って,空家に飛び込んで行くが,このシーンについては説得力にも欠ける.ラストシーンは,今までにない極限状態だ.先を走る男に「おいて行かないで」と口では叫んでいるのに,ファインダーを覗きながら走っているなんて,なんという落ち着きようだ.
 これって上手なウソ?


●でも,作法無視って魅力的

 観客にちょっとでも引かせる,ウソを感じさせた時点で,この映画は負けだ.引いた観客は,恐怖感など感じるわけがないから.
 結局,このような手法で,恐怖(でも何でも)を表現することは無理なのか.
 いやいや.もっと,上手なウソのつき方があるような気がする.でも,次は2番煎じになるから,それはやめてほしいね.
 今回の映画は,私にはもうひとつだったけど,作法を無視している作品って,ちょっと期待してしまう.そういう意味では,これからも,こういった類の映画が出てきてほしいな.




Toshiro Y.





このコーナーへのご意見・ご感想はyamano@home.email.ne.jpまで





大阪通信へ

トップメニューへ