マグマの行方 − たどんとちくわ −

大阪通信018 99/01/28



 市川準がこれまでの穏やかなトーンの作風を捨てて冒険したという異色作「たどんとちくわ」。大人がキレる話であるらしい。劇場でのちくわプレゼントにひかれたわけではないけれど、正月の2日から張り切ってでかけた。
 CM作品でたとえるなら「タンスにゴン」的な毒とユーモアがちりばめられたものになっているのでは、と勝手に期待してはみたものの、今回はハズレかも、という予感もあった。
 
 タクシードライバーが客(自称たどん屋)に向かって発砲する「たどん篇」と、売れない小説家が殺人を犯す「ちくわ篇」。小説家が殺戮をくりひろげる、映画全体のクライマックスともいえるシーンで、わたしの期待感の細い糸はふつりと...切れた。
 なんなの、あの「血」は?
 「血」とは、いうまでもなく小説家によって血祭りにあげられていった犠牲者たちの「血」である。ピンク、オレンジ、青、緑、紫...。そんなあざやかな色の血が、ホースで水を撒くように吹き出す。その量といい、吹き出し方といい、タイミングといい、つくりが雑でなんかマヌケな気分にさせられる。美しくない、愉快でない、少しも気が利いてない。それともあの間の悪さや妙なズレはねらってのこと?だとしたら何をねらったの?
 血や暴力を笑う「いけない楽しさ」を堪能するどころか、頭の中に疑問符がちらついてちらついて。
 
 一方「たどん篇」には結構ココロを掴む部分も多かった。
 タクシー運転手は、一日中フロントガラスを流れる街の風景をながめて暮らすなかで、いいようの無い疎外感や焦燥感をつのらせていく。
 「何もかもが自分の目の前を流れていく。いや、流れていくのは自分のほうかもしれない」というつぶやきも心に残る。また、タクシーにうつるビルや歩道、ひと、ショウウィンドウ、街路樹やなんかの短いカットの積み重ねが、運転手の日々のカナシサを伝えてくるのだ。
 そしてわたしは、流れ流れてとめどもない自分自身の日々のことなどに思いを巡らせないわけにはいかなくなる。きっとわたしも小さなイラだちを積もらせながら暮らしている。たまったマグマを一気に吹き出させる自分を思い描くこともある。
 少年はポケットにナイフを、中年運転手はトランクにトカレフを。さて主婦は何を隠し持とうか。
 
 自称たどん屋の愛人やちくわ小説家のえじきにならずに生き残った老婆の存在は、人間のしたたかさと温かさを感じさせて、とてもいい。うーん、そうだ、いいところはいろいろあるのになあ。残念だ。市川さん、もう冒険しないでください。
 
 それにつけてもシネ・ヌーヴォ梅田。10年ぶりくらいに来たけれど、ほんと穴蔵って感じの映画館である。せまいロビーには上映作品関連の雑誌や新聞の記事を切り抜いたのがはってあったり、原作の文庫本が、誰でも手にとって読めるようにぶら下げてあったりする。ご丁寧に本物の「たどん」も置いてあった。でもなー、申し訳無いけど、ワタシ、においがつらかった。あそこって、場内にお手洗いがあるのだ。こんなに映画への愛にあふれるところなのに、これは痛い。







Emico Y.





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