JAMA-BAND STORY



 VOL.13 2004 遂に自立

 前の年の12月拾得出演〜1月のCAM’SのOLDでの出演から、2003年に動き始めていた「県外でのライヴ展開」が、みんなにも現実的になったのです。身近に感じるようになったというか。で、1月最初の練習では、4月くらいまでのライヴを2回くらい決め、あとは大阪や神戸のブッキング次第という風に考えたと思います。ただ、4月にまたCAM’Sとジョイントを和歌山でやったので、その返礼で7月に拾得に2回目の拾得が決まって、京都は出れている嬉しさがあったな。

 で。ライヴのための練習を進めつつ、柳生に春先にライヴハウスのアドレスを送り、そっから5つくらい、大阪のハコにCDの音資料を撒いてもらったのです。そして、僕らにとっては運命的な出会いがやって来ました。そう。大阪:茨木のジャックライオンというハコです。6月か7月くらいかな、ハコのマネジャー、真柴さんから柳生に電話があって、CDには感激した、ぜひやってくれ。とのこと。で、まずその前の大きなハードル・7月の拾得を超えてから、大阪対策でもしようと思ってたのです。ところがもうひとつの大きなイベントが夏にやってきたのでした。パーディさんのイベントです。

今回の来日・およびイベント企画には、当初僕とコバヤシが参加していたのですが、事前のいろいろな準備は手伝ったものの、直前に風邪ひいてえらいことになって、結局ジャマーからは柳生とコバヤシ・イカテンが運営にかかわりました。柳生にとっては、パンチョモラレスやパーディさんの近くで、ミュージシャンシップ溢れる振る舞いを体験したことがものすごい財産になったと、これは今でもそういうもんな。 そのイベントが15日から18日、で、いよいよジャマーとしては初の大阪でのライヴに突入でした。

 9月19日は、そんなんでパーディ’sショックを持ったまま全員が一台の車での大阪行き。着いたら僕らよりは若いけど、30代後半からの2つのバンドが。なかでも、「リッチー坂本とドビンボウ」という、リッチーブラックモアとレインボウの完全コピーバンドが、その卓越した演奏力と、なによりロックなキモチまでコピーしたかのようなパフォーマンスで、本当にびっくりしたのでした。

 ジャンクライオンでのジャマーは、長く和歌山だけでやってきた僕らが、前年の京都では半信半疑だった「ウケる状態」が、実は大阪でもそうであった点で、いい意味でショックでした。かつて京都・大阪の音楽レベルの高さはものすごいものがあっただけに、僕らのライヴで大喜びするお客さんや関係者を「ほんまかなあ?」と疑ったのでしたが、この日のジャックで、僕らはおもしろいんやって思えるようになったんです。これは、本当に大きな一歩でした。ジャックの場合は、マネジャー・真柴君のポリシーが僕らとかなり近いことも、現在までイイ関係を続けている原因のひとつで。

 ジャックが終演後すぐに、12月12日を決めました。一年前のこの日は、初めて拾得に出た日。やっぱり感慨深いものがありました。京都・大阪で、2回づつライヴをやって、どちらも2回目の方がお客さんが多くて。勝因のもう一つは、やっぱりリズムセクションの安定感が、03年9月までと全然違うところでしょう。柳生の太鼓は、04年は練習ごとに良くなってきたし、イカも柳生とのコンビネーションをかなり意識するようになり、その辺から、特に8月の和歌山:ラヴァーソウルでのライヴあたりからは、ライヴでも凄くラクになっていたのです。

 みんなが個々の練習を、課題を持ってしていました。それを土曜に持ち寄ると。だから、3時間があっという間です。音しか出さない練習。休憩が殆どない練習。そんなことを横目で見ながら、オモロイ事考えているのがキンちゃんでした。奴は、みんなに刺激を受けてか、遂に仕事先の東京で、あの「入道VO教室」で歌を習い始めたのでした。その辺から、入道さんとの連絡も復活して。いよいよ面白くなってきた2004年でした。

 こうやって書いてみると、じわじわと今までやってきたことや作ってきたものが、何かに向かって結実していっているような気がしています。それは何なのか。自分達では分かりません。ただ、イカ以外の全員が、高校までに知り合ってバカやっていた事が、ここに来てエライ意味を持っていることに気がつきます。近所のガキが集まって始めたバンド。それが、数十年も続くと、そのあいだにあったこと全てに意味があり、また、意味がないことに気がつきます。

 そんなこんなで、2004年は、前年に続きまたステージがひとつ上がったところでプレイできるようになりました。特に
オオサカのお客さんのあのノリ!あれは僕らを育ててくれています。で、2005年。新春から、えらいことが決まったのでした。

text by あにき

つづく



VOL.12 2003年 覚醒

 この年、作ったCDをやっぱり売りに行こうかってなってて。年頭の練習で、半年分くらいのライヴスケのあらかたを決めてしまってね。手始めに2月、4月、6月をOLDでやって、奇数月を京阪神でって、本腰入れてライヴハウスを探し、音を送り、日程の調整にはいったんです。ところが、最近のライヴハウスは横着というかなんというか、確か柳生と僕とで8つくらいのところに連絡とって、電話で連絡あったのが3つやったんとちがうかな。んで、まあボチボチいこかって、気持ちを持ち直して、難波ベアーズとの交渉に入ったのでした。

そうこうしている内に、金ちゃんが東京でシゴトする準備に入ってって、今の生活パターン=土日は和歌山、平日は東京 になってね。その事が練習時間の貴重さを浮き立たせる事になっていったのです。それに、5月にネットで奇跡的にCAM’Sのページからコーヘーちゃんとまず連絡が取れ、あとは連鎖で衛くんと杉浦君たちとの連絡が復活したのでした。その辺から、つまり初夏のあたりから、なんとなくざわつき始めた京都との関係は、7月、ついに9月にOLDでCAM’Sとライヴする事に結実していきます。これが、ジャマーを大きく変える出来事になっていくのでした。

CAM’Sは、それこそ60年代後半から70年代にかけて、京都のシーンで活躍していたメンバーが中心の、高いミュージシャンシップとオリジナリティをもったすごいバンドで、その中の衛くん・杉浦さんとは、僕はバンドを作りかけたこともある友人です。長く彼らの音は知らなかったのですが、この9月にOLDで見た時にその健在振りとさらに大きくなっていた音楽への愛情が、僕には大きな勇気になったのですが、他のメンバーもそのすごい演奏力にぶっ飛んだのでした。中でも、リズム隊の2人に、柳生は完全に影響を受け、自分のドラミングをイチから見直す大きなきっかけになったのです。 これは、もの凄く大きいことでした。

なにしろ、杉浦君・河村さんのドラム観を、全部吸収しようとしていったのです。2人とも素晴らしいプレイヤーですから、懐も深く、柳生に時間の許す限り色んな事を教え、それはこの後の数回のCAM’Sとのライヴ時にもずっと続いていくことになります。柳生にとっては初めての師匠が出来たのです。同じように、ギターの多田さんのプレイには、ヒロジが影響を受けていきます。

CAM’Sのライヴは圧倒的だったのです。それは9月に初めて見た人全員が吹っ飛んだくらい。あまりの熱狂に、これはすぐまた来てもらわないとイカン!もっと多くの人に、そう思って、すぐに10月に来てもらったくらいにね。んで、彼らも和歌山での受け方を喜んでくれて、12月の拾得に、今度はジャマーを呼んでくれたのでした。

12月12日の拾得。この日のライヴも、僕らにとっては画期的なもの、ターニングポイントになるものとして、記憶から消えないでしょう。30年以上の歴史をもつ、西のライヴハウスの老舗。ブルーズブーム発祥の地です。ジャマーはここで、CAM’Sのお客さんにウケました。その事が大きな自信になって、ますます個々の練習を続けていく事になります。

このように、2003年は、ジャマーにとっては大きな転換があった年でした。特に10月以降の柳生のドラミングの劇的変化は、今まで出来なかったルーツっぽい曲がどんどん出来るようになってきた事や、安定感のあるバンドサウンドになっていくきっかけになったのです。1人づつの練習量が格段に増えました。毎週土曜の練習は、自然に3時間まるまる音を出している練習に変化しました。 毎日の体力作りをするメンバーも出てきました。これらすべては、CAM’Sの影響です。彼らの音楽に対する敬意が伝染したようでした。

text by あにき

つづく


JAMA STORY VOL.11 2001―2002 CDを出した

 きっかけは何やったか。多分金ちゃん・コバヤシ・ヤギュウの学年が、高校の同窓会をやろうと、彼らに持ちかけてきた事だったと思うのです。言ってきた人は、ジャマーのライヴをその中でやって欲しいという事だったと思います。で、金ちゃんが、それなら逆にライヴハウスで同窓会やったらええやんか、と提言、OKになったということがありました。で、その話を練習に持ってきたのが2002年の1月くらいで、練習のときに金ちゃんが「どうせならライヴレコーディングしよっか。」と言い出したのでした。

 ジャマーでの録音は、94年くらいにスタジオでデモテープ取ったことあって、そのときにも金ちゃんが同時録音でないといややという事だったので、セーノでやったのですが、楽器の者にしたら、これは緊張するのよね。やり直しできんから。マルチトラックなら差し替えという手はもちろんあるけど、それは24トラック以上を同時録音できるときの話。それに、まあそこまでこる必要もないよなあ、デモやったらと、その練習のときはOK出したのでした。

 で、練習を重ねて行くうちに、なんか知らん間に金ちゃんはその音源でCDを作りたかったらしくて、OLD TIMEに録音機材を持ち込んでオペつけてDATに取る算段を始めたので、「そうかあ。CD出すのかア。」とみんなも思い始めたという。つまり、僕らはCDリリースについてはそんな自覚的ではなかったのですね。ただ、反対はしなかった。

 それは、ひとつは曲作りのグレードがひとつ上がった状態にバンドがなってたこと。その話をしている時にも、テーマがあったらすぐに曲が出来るようなノリはまだ続いてたし、イカの加入での演奏力のアップ現象で、アレンジの仕上げも速くなってきてたのです。
それと、新しい若いファンが出来始めてて、彼らが音源をほしがってることもありました。これに関しては、正直、きちんとしたものを渡したいという気もあったのですが、僕らをライヴで見て気に入ってくれてるんやから、ほぼ同じ状態の温度のものを渡したほうが、伝わるやろうと思い、このライヴのCD化はOKになりました。

 いったん目的が出来たら、後は練習です。課題があったらそれをこなしていくのは、メンバーの得意技です。4月29日までは、いつものペースは変えずに、でも、個人練習をそれぞれがこなしながら、当日になりました。

 会場のOLDTIMEのPAはそのままライヴ用に、それとは別にもう1セット録音用にフルのシステムを持ち込んで、橋本君という若いけど優秀なオペ・マンに仕切ってもらって、本番のみをRECってもらいました。僕らが演奏したのは、全部で13曲くらいで、やり直ししてません。だから、演奏がどうしても許せないものはあのCDには入れてません。本来的な意味でのライヴ・アルバムにしたわけです。

 録音されたマスターを、金ちゃんの事務所ではじめて聴いたときに、思いのほかいい感じで出来ていたんで、これやったらCDもええなあ、と思ったのでした。ああいった、フツーの環境で聞いてどうなのかって凄く大事で、そこをクリアできたのが嬉しかったな。

 その後、そのマスターは、大阪でマスタリングされ、プレスされていきました。ジャケのデザインは、みんなで練習時に決めました。特に表紙のロゴは、あのカタカナのフォントを見た瞬間、これしかない!と、僕の一存で決定しました。実は他のロゴってのが、サーフショップによくある、あのメタリックな英字だったので、サイアクやーと。

 10月のあたまだったか、パッケージされたCDが届いたときは、やっぱり嬉しかったですね。それはみんなそうだと思います。後は売るだけ、みたいな。思いのほか売れているから、それも嬉しいし。まあ、全体の流れは家内制手工業なんで、販売も手売りですけど、ライヴをやると必ず10枚くらいは売れます。それが嬉しいんよな。

 11月には発売記念ライヴをやって、かなり盛り上がりました。地元紙全部にも取り上げられて。そこからの売り上げもまあありましたね。でも、僕らは見てもらって初めて買ってもらえる類のバンドなんで、ボチボチ売っていこうと思ってます。もうすぐモトは取れるところまで来たんで。

この、一連のCD製作〜販売を大きな流れにしながら、2002のジャマーはもうひとつ大きな動きを抱えました。としたか君AIDです。

 としたかくんは、心臓移植が必要な青年で、彼を救うための活動はそんなに大きくされてなかったのです。なので、僕らの出来る範囲で、彼のことをまず知ってもらうことから始めていき、最終の必要額の募金活動のお手伝いをさせてもらいました。

 真夏のマリーナ・シティで、僕らやひろよ、まちこさん、MA−やユーコ、いできち達と募金の呼びかけとか、OLDの店長とオネさんの「としたかAID」ライヴとか。本当にみんな、できることを数ヶ月にわたってやっていきました。 この動きは、僕らや友人達にとって、意義の大きなこととして今後も残っていく事と思います。


 ・・・そうやなあ。2002年は、いろんな重たいことを考えながら練習に行ったりライヴしたりという事が多かったなあ。そのことからか、出来てくる歌も、金ちゃんの歌詞がどんどん重くなっていきました。ま、でも、あいつの歌詞は最後に楽観があるから、暗くはならないんでOKなんやけどね。

 それと、やたらお客さんが見に来てくれる状態が11月まで続きました。いろんな点での露出が多かったので、新しい人たちが来てくれるようになってきたのでした。これもうれしかったなあ。


番外編:最近のバンドのうた 2002.02

ちょっと思うところがあって、ここ数日94年くらいから数年間のJAMAのライヴテープを聴いていました。きっかけは、ボーカルの感じがそのころと変わってきてるかも知れんなあと、この間の練習で感じたことでした。

びっくりしたのは、まだ8年くらいしか経っていないのに、なんと若い声で歌っているのだろうということでした。ライヴでは今でもそうなんですが、僕らはヤブレます。それは、イキオイがあまっての事であることが多いのですが、このころのは今よりももっと態度がアグレッシヴでおもろい。でも、ちょうどその頃のサウンドがPOP志向になってたので、なんかおしゃれなアレンジやのにむちゃくちゃやってる変なバンドですね。サウンドと態度があってないみたいな。

たぶん、その頃は、まだまだ僕らにとっても音楽は非日常な事だったんでしょう。いわゆる生活から離れている物という意味で。だから、きれいな事を可愛らしいサウンドで歌っています。

2000年に再結成してから出来てきた歌ってのは、そうじゃないものが多いのです。ほんと、生活の延長と言うか雑感というか。街の概観を歌うのではなく、街の人間を歌ってるものが多いように思います。僕らの曲作りは、大体練習のときにテキトーなコードでジャムってて、それにメロを誰かが歌いだし、金ちゃんがそれを聴いてて詞を乗せて歌う事が多いのです。だから、全員で作っていく感じです。詞の言葉も、金ちゃんは僕らを見ながら書いてるんですから、僕らの間接的な言葉でもあると思います。そんな作り方を、もうずっとやってきてるんですが、その8年前のはPOPだったのです。で、今はこれ、紛れも無いロックです。

イカテンが入ってからのJAMAは、最初なかなか形にならなかったのでした。それはそうです。あいつはあいつのタイム感で生きてきたし、僕らも僕らでやってきたから。でも、それが良かった。出会いかたがそんな風に正直だった分だけ、お互いの音の言い分を不器用に擦りあわせていく練習になり、結果また新しいノリが生れました。あいつも無理せず・僕らも無理せずに手に入れた新しいグルーヴ。 これはこれで強力です。 街の人間を歌うのにふさわしい、骨太なビートがやっと出来ました。

ノリが変わったことで、僕のもつギターも変わりました。ヒロジもです。この新しいグルーヴにふさわしい音が出る組み合わせを1ヶ月くらい探してて、ぼくがレスポール・モデルを持ってきた同じ日に、偶然ヒロジもストラトを持ち込みました。この組み合わせは、長くやってきた中でも最高に近いアンサンブルを作りつつあります。

ヴォーカルの感じは、やたらシャウトしていた8年前に比べると、うそのない・無理のない歌いかたになってます。重いビートと呼応するように、言葉をはっきり聞かせる事を第一義にした、重心の低いヤブレ方。でも、最近の方がすご味があるのは、まさに僕らの生活から出ている言葉が多いからでしょう。

とにかく、ここ数ヶ月の練習は、バンドサウンドのコアになるベースというパートの新しい個性が、他のパートと化学反応を起こし、面白い色が出て来た期間でした。 今までのJAMAのファンだけじゃなく、全く僕らを知らない人にもぜひ聞いてもらいたい音に、JAMAはなりました。

3月のライヴは、ほんと必見ですよ。


JAMA STORY VOL.10   2000-2001 転がる石のように

 キシを迎えた新生JAMAは、もうはじめから面白かったのです。ロックをやっていくのに大切な初期衝動が戻ってきたのでした。2000年に入ってからの活動は、主には練習とOLD TIMEのライブでしたが、その練習でどんどん新曲が出来ていきました。それは最初、3コードくらいのセッションから始まるのですが、キンちゃんはもうその時点から歌詞を作りながら歌い始めます。 メッティの頃からそうして曲を作ってきたので、僕らはそんなに驚きませんが、やはりキシにとってはおおビックリだったようです。 コトバは生き物なので、歌詞はその時々に変わってもOKっていうような感覚は、ほんの4つ位下のキシですら知らなかったようです。

 2000年春先、うれしいことがありました。ヒロジが戻ってきたのです。それも、ヤツのやりたかったギターで。この事で、JAMAはより濃い内容のステージを届けられるようになりました。音楽的な充実もそうやけど、それ以上にアッパーな気持ちをもって練習からライブまでを過ごせる。これはとても大きな事です。ヒロジは、1982以来の仲間です。そいつがそこにいるというだけで楽しいという存在なのです。これは、大きいよ、とてつもなく。
この事が、JAMAをよりオープンな場にした事は間違いありません。 楽しい場には人が集まる。なので、春以降のライブは、かつてない観客動員を記録していきます。 バンドやってる人・市の職員・主婦・若い友達・おまけに市長まで常連になって、2000年のライブはどれも大賑わいでした。

 幾つか忘れられないライブがあります。 1つは夏にやった泉州たまねぎファイターズとのジョイント。 彼らも社会人になってからずっとバンドとともに生きてきた人達です。1982年にメッティーが彼らに出会ってから、ずっとバディとして意識しつづけていた最高のロック・ピープルです。そんな彼らとの久々のジョイントでは、ライブが終わった後のせんたまのアンプラグドも含めて、「ああ、おれらもこれで良かったんや。」という確認と、お互いに若い心を持ちあえてることを祝福できました。 

 もうひとつは、政治家と彼らを取り巻く人達のど真ん中で、僕らの和歌山の歌をバクハツさせた石泉閣でのライブ。1曲めからお客全員に「おまえらのやり方、考えろよ。」と歌っていきました。若い運動員達が熱狂し、知事は腰を浮かし、近隣からは苦情の電話が殺到した良いライブでした。悪い事はわるい。ロックバンドがそう言わなくなってから、もうかなり時間が経っています。今更歌でそんな事をやっても、何も変わりません。でも、僕らはいやなんや。自分のステイトメントをきっちり残すことで、この街で暮らしていきたいんや。 そんな事を考えながら、爆音でギターを弾いてました。

 2001年の1月4日には、JAMAとブルマンのみんなでスタジオに集まって新年練習をやりました。これがエライ盛り上がりで、やっぱりおれらの正月はこんな形で始まるのがベストやなあと確認しました。ブルマンの女の子たち+キンちゃんのラインダンスや、高田君が加わったブルーズは、見てて最高に楽しかったし。

 2001年になると、僕らは練習している事が最高に楽しくなっていました。それは、出来あがる曲のクオリティがどんどん高くなり、新しいタイプの歌がどんどん出来てきたからです。これは、僕もヤギュウもヒロジもコバヤシもキンちゃんもこの町も、日本の大変革の中に巻き込まれていく事を実感できたからだと、今では思います。気がついたら、この街の政治・経済・文化の古い体質が疲弊していました。どんどん更地になる市街地。つぶれる老舗。そんな中で、僕らは元気でした。それは、やはりお金やない人のつながりで楽しさを膨らませてきたからでした。その事が余計にライブでの観客動員に現れます。 きっかけは、ナンの得にもならないオンガク。でも僕らは、それを通じてたくさんの友人を作れたし、自分を掘り下げられました。 僕は、2001年ほどオンガクをずっとやってきて良かったと思った年はありません。 自分にパワーを与えてくれる最大の動機。恐らくは、メンバー全員がそんな事を体感した年ではなかったかな。

 10月にはもうひとつうれしい事がありました。旧友で、メッティーのギタリストだったマカセ君が、JAMAのステージに僕の代わりに立ったのでした。僕はそのひ仕事で、彼の入ったJAMAをテープで聞いたのですが、メッティーからは遥かに上手くなったギターで、でも、他のメンバーと上手くマッチする良いギターを弾いていたのでした。 彼も、この10数年を有意義に過ごしてきたのでしょう。ギターの音がそれを語ってました。

 また、この日のライブではさらに、同じ会場で若い友人のJIN&GOのライブがあり、彼らはJAMAのステージに参加もしました。 20歳そこそこの2人は、色んな事を経験しながらこれからも歌っていくのでしょうが、久々に応援したいバンドに出会えたことも、うれしい事のひとつです。歌がね、いいんだわ、久しぶりに。

 そして11月。 キシ君がしばらく休むことになりました。 自分の生きたい方向を模索しながら、JAMAの再結成以来ベースで参加していたのですが、なかなかやりたい事が考えられない状況があって、それならいっそバンドも離れて、まったくの一人で考える事からはじめようと言う事です。僕らは、まだあと数十年という時間を過ごしますから、これも良い選択だと思います。

 で。イカテン(@ブルマン)にベースを頼みました。 もう、僕らのニュアンスを伝えられる人は、キシのほかには彼女しかいないだろうと思い、他をゼンゼンあたらず声をかけました。 幸い嫌がらずに引き受けてくれて、11月からはこのメンバーでやってます。

 このように、この2年間は人の新陳代謝も含めて、色んな事が大きく変わった期間でした。まあでも、僕らの変化より国の変化や仕事という概念の変化・経済の変化のほうが、後になってみたら大きかったという認識をもつでしょう。そんな中でバンドをやっている僕らにも大きな変化の影響が来たというほうが正しいと思うな。 時代は変わった、だから僕らの一部も変わった。そういうことでしょう。 

 ヤギュウはこの2年でダイエットに成功したし、洋楽も真剣に聴き始めました。ヒロジはPCに精通していました。コバヤシはピアノが上手くなりました。キンちゃんは、市の文化イベントを仕切る組織を立ち上げ、成功させました。僕は大きな音楽イベントを2本やり遂げました。 そう。僕らは常に意識が動いている奴らの集まりなのです。 だから、若い心でいられるのです。 ライク・ア・ローリン・ストーン。 もう少し走ってみます。

text by:あにき (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2001 7.07 JAMA ON THE STREET



 掲示板でのやり取りでもあったように、どこかでストリートをやろうという動きはJAMAの中にずっとあって、それはもう十数年まえからあったことで、でもブショウモノばっかのメンバーですから、なかなか本気になれなかったのです。

 でも、最近はやれる楽器も沢山出てきて、ポータブルなアンプやエレキギター・ベースもあり、KYEはカシオトーンのようものもあり、バンド編成をそのまま気軽に持ち出せるものがまわりにそろったので、いこうかと。 で、ヒロジはいなかったのですが、まあ、下見のつもりでマリーナに。

 いやあ。でも、会場が路上というのはおもしろいよ。色んなことが突然起こるから。この日は、僕らの演奏していた斜め後ろの店で披露パーティーがあって、そこでとんでもないことがあったみたいで、若い男が2人飛び出してきてけんかが始まったことがきっかけで、パトカーがくる騒ぎになっていったので、結構いた通行人はみんなそっちに気を取られていったみたい。 それでもお構いなしに歌ってたら、そのパーティの多分主催者の若いコたちに「ちょっと小さな音でやってくれませんか」と頼まれたから、「ああ。」とかいって、そこでこの日の演奏は終わり。 なーんか気がそがれた、って感じ。

 でも、下見がてらのライブは、それなりに面白かった。マイクなしで、カウベル+ピアニカ+ナマギ+ゾーさんベース+ボーカルの編成は、80年代のイギリスにこんなバンドあったよなあ、って雰囲気のサウンドです。 お客さんがまっさらな人ばっかりってのが、いまのJAMAにはうってつけでしょう。 ここで気に入ってもらえるかどうか。それこそが和歌山を歌うバンドの真骨頂なのですから。

 できれば来週も土曜日の22:00以降はマリーナで行きたいもんです。
メンバーと楽器をパワーアップして。


00/07/08

最近のJAMA (7)

 まあ、ライヴが近いし、今日は練習で6人全員が集まれたんです。で、ここ半年ほどでなんと10数曲出来てるところからの選曲をしながらの練習。
ひろじもだいぶんギターになれてきて、ソロでは最近よく聴いているBBキングのフレーズを出してきてました。やっぱりおもろいで。このメンバー。ただ、僕ら下手な割に練習をつめてしないので、雰囲気勝負のところがあります。今日はでも、その雰囲気がバッチリだったんで、全曲気持ちよくやれたな。

 16日にセンタマとジョイントをしますが、まあテクでは勝てないので勢い勝負ですわ。 ライヴにでもいったろかいって人、僕らの時は笑ってもらえたら幸いです。


2000年6月8日

この下の内容に対して、すかさずキシ君からメールあり!

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この間は、失礼しました。自分のように体重が100Kg近くなると
 
腰に負担が、かかりすぐに、グリッといいます。でももうだいじょうぶです。
 
それと、大きなイベントが、終わり気が抜けていると言うご指摘ですが
 
気は抜けてません 歯が抜けただけです。これからもヨロシクお願いします。

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最近のJAMA−(6) 2000.6月4日

 久しぶりに全員での練習。 きんちゃんが注力してる和歌浦プロジェクトもいよいよ本格的に動き始めようとしています。なんかそんな話もしながらの練習ではありましたが、僕が休んだ前回の練習でまたもや柳生が曲を作ってきてて、この下のエピソードを元にしたものでした。これがなかなかいい感じで、練習してて気持ちよかった。 

 それとなつかしフォークの曲をなんやかんややってる中で、久しぶりにやってもええんちゃうのという曲が出てきました。で、最初その曲をフォークロックみたいな感じでやってたんやけど、テンポ落としてやったらバッチリ良くなったんで、採用! 何の曲か? お楽しみ!僕も大好きな曲です。

 再結集してから、まだそんなに練習できてないのに、もう曲だけはどんどん出来て、イマはもう15曲くらいあるんちゃうのかな。まあ、これがJAMA−ですわ。僕はJAMA-には一人で曲を作って持っていくことはあんまりしない。練習中にその場で考えてみんなで作るほうがオモロイから。だから、今回の一連の柳生シリーズはちょっと新鮮やな。

 これでヒロジがまた作り出したら、いい感じになると思います。・・・7月のセンタマとのジョイントまでに、上手く練り上げてみんなに聴いてもらいますんで、お楽しみに。

 ところで。最近のキシ君、ちょっとついてないちゅうか。豆くってて前歯を折ったり、農作業でギックリ腰やったり。僕が思うに、例のパーディさんのイベントが終わって気が抜けてんのとちゃうかな。ちょっと太ったようにも思うし。 キシ、ぼちぼち目を覚ませよ。

ではまた。


最近のJAMA−(5) 柳生ハウスーこの原稿は柳生からのメールですー

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久しぶりに、生まれ育った町、東小二里の柳生ハウスあたりを訪ねてみた。柳生ハウスはもう跡形もなく、毎年3月になるとおいしい実をつけた、サクランボの木もなくなっていた。

裏の畑はだだっ広い砂利の駐車場になり、町全体にあの色あせたような、古ぼけた雰囲気はなくなっていた。柳生ハウスで毎日のように繰り広げられた、狂気のライブから早いもので、もう20年以上が過ぎ去っていた。自分自身がまだ音楽を楽しんでいるということもあり、今のJAMA-の原点であるこの町は、自分のなかでは不滅のような思いがあった。

 

しかし、現実はそうもいかず、この町は変わってしまっていたのだ。
昔、そう20年も以上昔に、へたなバンドのライブが聴ける散髪屋があったことなど、もう誰も覚えてないのかもしれない…。ここですべてははじまり、すべての出会いはここにあったにもかかわらずだ…。

 

時は流れ、時代はうつりかわり、形あるものはすべて消えていく。そして、俺が生まれ育ったこの町も、今はもう跡形もなく、あのころの思い出だけが、風といっしょに夜の空へと流れていった。

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・・・俺もヒロジもきんちゃんもこばやしも湯川も、おんなじ思いやで、柳生。


2000年05月16日

最近のJAMA−(4) 貴志君の自宅

 今日は休みでした。で、「だれか休みの人、いないかなあ。」と思い、キシ君に電話すると、やつも今日休みとの事。で、会いに行くことにしました。・・・やつが住んでいるのは貴志川町といって、和歌山市に隣接したベッドタウンです。あらかたの場所を聞いて車を走らせました。適当なところで喫茶店に入り、再度電話したら、やつが来てくれました。

 その店で1時間くらい今回のイベントのことを2人で振り返っていたのですが、どうしても見せたいものがあるというので奴のうちに行くことになってね。その店からは5分ほどの自宅に。・・・通された部屋をみたぼくは思わず「帰ろ。」と背中を向けかけました。壁一面に、今まで自分が参加したバンドの写真がびっしり。約500枚くらい。空いているスペースには、こないだサインをもらったTシャツやベースがかけてある。2人の子どもはちょっと部屋をのぞきに来て、すぐに退散。ああ、ここってキシ一人の部屋なんや!それにベッドまである!あれぇ・・・。

 「JAMAーのコレクションをどうしても見せたい!」という思いがどんどん伝わってきます。で、見せられました、こないだの5.2のライヴ・ヴィデオ。かけながらやつは、MCを全部言うわけよ。で、一人で笑い転げてる。時間は午後4時。コワイでしょ?何でそんなに好きなん?って聞いたら、奴は「だってこんなストレートなバンド、ないっすよ。音楽性とかどうのこうの一切いわない、音だけ出して笑いをとる。最高っすよ!」とのこと。・・・ちなみに今、奴の最大の後悔は、5.2の2部なんてやるって知らなかったから、80分テープ1本しか録画できていないことに対して、だそうです。 あたりまえや。俺も2部なんて考えてなかったもーん、1部終わるまでは。

 貴志君、JAMA−をぜーんぶ記録しようって言うのはかなり難しいで。だって俺ら、なーんも考えてないもーん。


2000年04月30日日曜日
最近のJAMAー(3) わっかるかなー?

 今日は、ライヴ前の練習でした。ヒロジ復帰の2回目。ヤツは例の楽器屋で衝動買いしたアンプを持ってきてた。他の人はどう思ったか知らないけど、僕はあのアンプを見たときにヒロジやなー、と思いました。チャンプみたいなちいさいフェンダー。でも馬力があって、バリバリの音がする。100Wのヤツを小さい音で鳴らすんじゃなくて、小さなアンプをフル10でならすのが、僕らの流儀なんや。そのほうがすっきりするから。ええ音してました! ブルーズマンの音。 もうこれで勝った、今度のライヴ!と思いました。
 
 今日はキンチャンの会社の若いヤツが見に来てました。唖然としてた。「なんや、このおっさんら!」みたいな。サッカー・ウェアのおっさん、セッタはいたジャージのおっさん、全力でスティック折りまくるおっさん、変にキーボードのうまいおっさん、奇声を発するおっさん、なりはでかいのにペコペコしてるおっさん・・・・。一昔前なら、新世界の将棋屋あたりにたむろしてたような、曲がったおっさんらが、おもいっきしロックしてる図は、やっぱショックやったみたいです。

 にーちゃん、わしら、あんたらより子供やで。わかるかなー?この意味。 


2000年04月26日水曜日
最近のJAMAー(2) ヒロジに関する噂

 こないだもBBSに書いたけど、ついに戻ってきました、我が弟ヒロジ。実はこの数年は、彼の子供たちがサッカー・クラブに入ってて、なんでも最近の少年スポーツサークルは、チーム運営からなにからほぼ全てを父兄たちの手でやらないといけないらしく、そっちに注力していたらしい。そのチームに子供を今も在籍させているイトコの敬子は、「ヒロジ君たちの父兄会はしっかりしていて、かなり活発に動いていた。」といってたから、相当そのサークルで活躍した模様です。

 で。こないだの復帰後初の練習のときは、待ってきたギターがあんまり長い間弾いてなかったんで、接点部分が馬鹿になってて「ガリ」というノイズが出まくりということもありナーバスになってたり、曲も覚えないといけないしで、結構ヤツには忙しい練習だったんで、あんまり話せなかったのですが、後日ちょっといい話をきいたので、紹介しておきます。

 それはヒロジが曲を覚えるために練習テープを「JAMAーおたく」キシ君に借りるべく、キシ君の職場にいったときの話です。ヤツがキシ君に語ったところによると、「イヤー、久しぶりにめちゃおもろかった。あんまりおもろかったんで、フェンダーのアンプを買ってきたで!ギターもメンテしたし、練習もしてるで!」 ・・・キシ君が、ヒロジの前パートであるベースをやってる事について聞いたところ、「いや。僕はギターで戻るんや。」ときっぱりいったそうです。

 この「すぐアンプを買う」とか「練習してる」とかの衝動性が、どーもコバヤシやキシにはウケたらしい。僕は「おお、やる気やな!」としか思わんかったけどね。・・・まあ、とにかく、ライヴがたのしみです。


最近のJAMA−(1) 2000年 4月17日

 やっぱびっくりするのは、ヤギューが曲を作ってくる事ですね。いままた新曲を2曲ほどやってますが、1曲はヤギューのやつ。で、僕が練習に行ったときにはもう、曲として出来てました。なんだか懐かしい感じのバラードなんですが、いいですよ。

 あと、キシ君のJAMA−へののめりこみ。これは、ひどい。自分のPCを家に買って(なんとVAIOだ!)、ヴィデオを編集しながらその画像を写真にして数十枚部屋に飾ってるという。それだけではなく、CDを作ってしまったという。もう、絶句。参加してるバンドながら、
何でそこまでできるのかわからんぞ、おれには。

 キシ君はJAMAのファンだったそうです。だから「入れへんか。」と僕が誘った瞬間から、生活が変わったそうです。それ以来、練習はやすみなし、曲の覚えはぴか一、のめりこみ度もダントツという日々が続いています。今度、5月2日にライヴをやるんですが、それもバンバン宣伝してます。 

 まあ、そんなこんなで、相変わらず週一回、南方君とこで練習はしてます。 ウルサイデー、音は。


VOL.1 1975-81 柳生ハウスの人々.-この原稿は柳生ママ<サキちゃん>に捧げます-

 75年の冬。大学1年の僕は、高校のときのクラブの後輩、柳生の家に行った。そこでみんなで集まってオモロイことやるんでけーへん?と言うことだったので。これがすべての始まりでした。

 そこで繰り広げられてた阿鼻叫喚の世界。ベッドの上がステージになり、深夜までマイクを通して絶叫するみんな。中にはほとんど酒すら飲んでない奴もいるのに、高校生特有のナチュラル・ハイ状態。しかも受験直前。聞いたら,こんなこと週に2・3回やってるという。特に後輩で主催者の柳生は、ほぼ毎晩こんな状態で、お父さんとお母さんも巻き込んでの全員での大騒ぎ。警察の尋問も何回か出るほどのバクハツ振りでした。しかも全員男子。「うおー!」といいながらそこで寝てしまう奴続出。ほんとに、こんな壮絶な、ルールのない、終わりのないライヴはもうないでしょう。僕は1発で気に入って、行ける時は柳生のうちに行くようになりました。

 何しろ、何らかの形でウケないことには止めさせてくれないわけです。それは誰がやっても。楽器が上手いとかうたがうまいとかは5の次くらいで、それで勝負したいならよっぽど聴かせないとだめ。もちろん、僕のようなゲストにはやさしいんやけど、他の奴らはみんな基本的に友だちなんで、ボコボコに言われる。コバヤシや、湯川なんかは楽器がある程度弾けるから、余計にきついあたりをされるわけです。ヒガミで。これがオモロイ。「へ、ヨガ(コバヤシ)、ちょっと弾けるからってええかっこすんな!笑わしてみぃ!」とかやじられる。湯川なんかはクレバーやから、その辺グループサウンズの完全コピーという必殺技ですり抜けたけどね。楽器なんかデキンでも、なんかオモロイ技とかネタ持ってるやつはその場ではヒーローになって、アンコールが出るわけです。だから、アブナイネタも続出でした。そんな宴会ライヴって、人間関係できるやん?で、ここで、キンちゃんとかコバヤシとか柳生の「素」を僕は見たのでした。

 その後、みんなは大学に進学し、それぞれの4年くらいを東京や大阪や京都で過ごします。でも、勿論休みになると柳生ハウスに集まってきて例の大騒ぎになるわけです。
で、みんなが大学も卒業する予定の81年の正月に、僕は弟と柳生ハウスにいったのです。キンちゃんはもう社会人になって就職してました。コバヤシは大学を卒業して、アメリカに行く為に一時的に帰ってきてました。柳生も教師になる前のテンポラリな仕事をやってました。ヒロジ(オトウト)は実家の商売をやってました。それとマツイ君がいました。みんなで話して盛り上がってきて、「そうやバンドやろうぜバンド!」となったのです。僕はそのとき京都に住んでて無理やから「やれー、やれー」と煽ってました。そうして出来たのが「ザ・メッティー・チャイルド」という、ゴキゲンなバンドです。

 なにしろ、この時点でマツイ君はベースを弾いたことがない。キンちゃんはバンドのヴォーカルははじめてで、音楽をあんまり知らんという成り立ちなのに、結成一週間でTVに
でたんちゃうかな。それも、司会が諸口アキラさんという、バンドマン出身の番組にでて、彼に激賞されます。どんな音かというと、ブルーズやR&Bをやりたいけどヘタで出来ないから、ヴォーカルのキャラと曲のバクハツ性で勝負するというか…。わかるかなこれで?はっきり言って「ウケねらい」ですわ。でも、コバヤシや柳生、ヒロジはプレイしてたから随所に黒いニュアンスはあるという。…僕もこのバンドは、イッパツで気に入りました。このときに、「ボーカルって、音楽知らんでもかっこええんやなー!」ってマジ思った。
誤解しないように言うけど、キンちゃんのカッコよさは、自分の歌いたいことを全身で歌う事と、歌詞の視点が日常生活にしかないことからのリアルさ。例えばこの当時のオリジナルのタイトルは「そんな江本の独り言」「藤田」(阪神の選手です)「ばあちゃんON MY MIND」。どうです?ちょっと聞きたいでしょ? 

 とにかく、この初期メッティー・チャイルドは、玄人受けするバンドでした。というのは、長いこと音楽をプレイしている人は、その経験からドンドン不自由になっていって、始めたころの「ヘタでも思いっきりやる!」自由さやかっこ悪さを忘れていくんです。そこに自由で・めちゃくちゃで・でも正直なこのバンドの空気が入ると、その場の風通しがよくなるんですね。だから、スタレビや他のプロの人達からも「イイェー!」と声がかかる。アマチュアの最高のスタンスを、初めから持ったバンドでした。

 それと、キンちゃんのバンド歴がないことが大ラッキーでした。普通ライヴ出るのは、ある程度練習して音が固まってからって思うやん?この人達は無謀にも結成1ヶ月でなんと週一回のそれも土曜日の2ステージ構成でのライヴを決めてきたのでした。これは、結果は大正解となります。僕が知る限り1年以上そのスケジュールをこなしたはずですが、観客動員も初めから毎回満員という状態で、見に行くたんびに知らない曲をやってました。お客さんも身内じゃない女の子たちまで巻き込んで、1年後には結構地元では有名なバンドになっていました。なんといってもキンちゃんのライヴ・パフォーマンス!それと、メンバー全員での曲作り。さらに、みんな若かったからしょっちゅう一緒にいるというチームワーク。これらが本当に魅力のある、普通の人まで巻き込むパワーをもったバンドになった要因だと思います。

(TEXT あにき) 次回に続く。



VOL.2 1999.12.26.再会の練習

 ついにこの日が来た。そんな感じでした。12月12日にコバヤシ宅で集まってミーティングしたときは、貴志君が柳生ととほぼ初対面だったことと、僕ら自身も久しぶりに会ったということもあって、音楽の話がほとんどないものだったので、この26日に音を出すことからまたはじまるなあ、と期待してたのです。柳生もキンちゃんもそれは同じだったみたい。

 僕は仕事の関係で、ついたときはもう開始時刻を30分すぎてました。で、やっぱりなぁと思ったのが、前回ミーティングのキンちゃんの宣言「過去のレパートリー破棄」を忠実に守って、30分で1曲出来てたこと。そう、約束はできるだけ守る。初めだけかもわからんけど。で、その曲「あんただれ」をちょっと一緒にやってから、すぐ次の作曲セッションに。よほど言いたいことがあったのか、キンちゃんの口からはよどみなくアイディアと歌詞が出てきます。で、ちょっといい感じのマイナーR&B風の曲が出来ました。さらに次の曲に進もうということになり準備していると、キンちゃんが買ったMDのバッテリーが×になったみたいでどうするのかわからず、少し停滞。この辺が年齢の風格ですな。僕なんて、いまだMD持ってないもーん。

 この辺からが僕らの真骨頂。調子が出てきました。久々のコンビネーションにも馴染んできてます。貴志君は終始爆笑と驚きの表情で、「どう?こんなん。」と聞くと「いやー、こんな練習はじめてですわ!」と、紅潮した面持ちで喜んでる。そうやろ?これもロックンロールやで!…しかし。柳生は久々のフルパワー叩きなんで、指の皮がピンチになってきてたし、キンちゃんも「いやー、思ってるほど声が出んわ!」と意外そう。そんな事全然関係ない。それにだいたいこのスタジオのつくりが、練習には向いてない思い切りデッドなものなので、かえって無理にプレイするのを抑えるくらいでちょうどええんや。

 で、この日はさらに2曲が出来ました。都合4曲。特に後半の2つは、ちょっとオモシロイで。内容はどれも聞いてのお楽しみ。
練習が終わってからも、特に「あの曲が…」とか「構成は…」とか一切なしで、何時に会場に行くのかとか、ブルマンでも聴いたろかしゃーないな、とか、コバヤシ、本気で弾いてたやんか久しぶりにとかの、相変わらずの減らず口をきいて、ソクさよなら。40越えるとなんやかんや忙しいんでなぁ。特にこの日は、キンちゃんがその足で田辺に帰らないといけなかったので。
 
 個人的な感想は、やっぱごっつラクにプレイできるメンバーやなあということ。それと、意外にも?柳生のドラム、上手くなってたこと。いや、前がどうのこうのじゃなく、さらに安定感とパワーがあったこと。ヤツに聞いてみると、子どもたちと練習してたらしい。なるほどな。子どもに教えるって、楽器上達の一つのコツやもんね。ほら、あいつらっていいかげんな事言っても伝わらんもんね。きっちり教えてやらないと。その過程で教えるほうも勉強できる。だからこっちも良くなる、と。

 ただ!かなりいい感じでおわった練習ですが、一つだけ心配なのは、4曲の内容を覚えているかどうかって事。脳細胞の破壊は、本人の意思とは関係なくどんどん進んでるもんね。アティテュードの部分では、全然心配なし!たぶんいつものでかい態度で、間違ったら平気で頭からやり直すとか、傍若無人な発言があるとか、皆さんの目に余るステージになるとは思うのですが、29日のオールドタイムは間違いなく面白いものになると思います。だって、この日の練習だけでも、爆笑の渦でしたから。

(TEXT あにき)次回に続く

VOL.3 1981-85くらい BAND ON THE RUN!

 メッティ・チャイルドは、すごいペースでライヴをやってました。僕は京都にいて、彼らとは一緒には動いてなかったものの、話はヒロジから沢山聞いてて、とてもみんな仕事をやりながらのバンドとは思えないくらいのペースでライヴを始めていました。ギターにマカセ君が入り、サウンドの充実も図られて、あの当時のシーンの一端を担うバンドになっていきます。
 あのころのメンバーたちは若く、仕事の上でも責任がさほど重くない立場でした。このことがコバヤシ宅に連夜集まって練習したり曲を作ったりだべったりという「一緒に過ごす時間」につながっていきます。スタジオでの練習も週2回くらいやってたんじゃないのかな。とにかく、アイツラはいつも一緒にいた記憶があります。毎週土曜日にはBE-BOPというライヴハウスで2部構成のステージをほぼ全曲オリジナルでやってて、超満員でしたし、日曜日にも練習してたし。
 
 僕もたまに帰ったり仕事で和歌山に来たときは、カオを出してたんですが、とにかく一人ずつにパワーがあってそれが5人ですから、いつも楽しい状態でした。楽しいところには人が集まりますから、ライヴも超満員が続く、と。いい循環ですね。それと、キンちゃんの「バンド知らず」が幸いしてた。プレイする人間の常識では発想できない歌を作っていくんです。「阪神もの」とか「旅行もの」とか「和歌山もの」。まるで地域のミニコミの話題のような題材が歌われていくさまは、「週刊 メッティーチャイルド」でした。それに刺激されて、ヒロジや柳生も歌を作り出す。という風に、すべてがいいほうに転がっていった5年くらいじゃなかったかな。

 実際びっくりしたのが、フツーの人に大きな支持を受けてたこと。OLや同世代の女の子、それにおばちゃん・おじさん。ほら、アマチュアバンドって、そうじゃないですよね。アイツが上手い・カッコイイっていってるのはたいてい音楽が好きな・自分でも楽器をちょっとやる人達が多いじゃないですか。ところが、メッティーはちがった。そんな事わからん人達にバカウケしてる。僕はこのことがショックでした。ステージの見栄えもそんな良くない。力量的にはヘタ。でも、このバンドには今までになかった「人懐っこさ」と「正直さ」があったと思います。ラヴソングにしても等身大の彼らの気持ちが、地元の地名のなかで展開されていく事に、お客さんは共感したのだと思います。
 それと、ボーカルというバンドパフォーマンスのキーマンであるキンちゃんが、社会人としてバランスのとれたひとだったことも大きいでしょう。MCにしても、町の政治や経済のこと、時事ネタがふんだんに出てきてたもんね。

 転がり方に加速がついたメッティー・チャイルドは、オオサカの「泉州たまねぎファイターズ」というやはり社会人でバリバリのバンド活動を行ってた人達と知り合い、そこから多くの知己を得て、地元のバンドとオオサカのアマチュアバンドを集めて和歌浦・カタオナミでフリーコンサートを開催するまでになります。このコンサートでは、僕もソロで歌わせてもらいました。以降数年間、夏のフリーコンサートをキンちゃんが企画運営してシーンの屋台骨を支えていきます。

 80年代初頭の中堅地方都市はどこでもそうだったように、ようやくロックがTVでも流れるようになってはいるものの、依然としてバンドが育っていく場は皆無に近かったのです。アマチュアバンドがプレイできるのは、自分たちでホールを借りてコンサートをやるか、楽器屋さんのステージに立つかくらい。和歌山でも、ライヴをやるにもライヴハウスはたしかBE-BOPだけで、あとはお店を丸ごと借りてコンサート形式でやるしか場はなかったのではないかな。オールドタイムはまだ、アマチュアを出す場ではなかったと思います。だから、場をも自分たちで創っていくしかなかったけど、そんなしんどいことできるパワーは、あのころのメッティ周辺にしかなかったんだろうと思います。70KGを越える重さのフェンダー・ローズのEピアノや、ドラムセット・アンプ類、PAまで、どこでやるにせよ彼らは毎回自分たちで運んでたのです。これはよっぽどプレイしたい人でないと続かないですよ。 僕はこのころのメッティのやってきた事や作った人脈については、今でも頭が下がる想いです。当然、そんな「バンド活動全般」を楽しそうに生きている彼らのもとには、沢山の人達が集まってきたのでした 。

そんな風にバンドとしてすごく幸せな立ち上がりの数年間があったのち、転機がやってきます。コバヤシの脱退です。

(TEXT あにき) 次回に続く





<ヨガ・小林 アフリカへゆく> のまえに

あにきよりバトンタッチしてこのあたりの状況を詳しく私、小野田金司から説明させていただきます。


…のはずだったんですが、本人からクレームがきたんで、いったん掲載を中止します。本人の許諾を得てからまた掲載します。  

1月18日 あにき




JAMA―BAND STORY 4
1985-90     メッティ・チャイルドからJAMA-へ

 このころのメッティは、コバヤシが抜けたあとのKEYとして、アラレチャンやカズメちゃんがいたりしながら、相変わらずライヴを続けてたと思います。実はこのころの彼らのことはあまりちゃんと聞いてないように思います。ただ、全員独身だった彼らも、この少し前からか結婚ラッシュになり、ヒロジ・キンチャン・柳生が家庭を持つようになってました。そんなこんなで、やっぱり若干のペースダウンはあったのでしょう。まあ、これも言い換えれば安定期に入ったともいえるのですが。

 そんな個々の変化もありながら、でも着実なペースでメッティは自分たちのフィールドを大きくしていきます。確かこのころ、ホールコンサートも行い、そこでは一発逆転というバンドとジョイントしてたと思います。で、知らない間にメンバーが増えていたりコバヤシが帰ってきてたりで、僕が87年くらいに会ったときには、以前のメンバーに加えてベース:りゅうくん、パーカッション:バイチョウ、VO:トンちゃん、SAX:中浦がいました。8人か9人のバンドになってたと思います。
 やってる音楽も、もちろんオリジナルなんですが、ちゃんとまとまった楽曲主義になってたというか、たくさんの練習をして1曲を仕上げるタイプのバンドになってました。
「ヘー、グレードアップしてるなー。」と、88年のカタオナミでの野外を見て思ったのかな・・・。ごめん、記憶がちょっと怪しい。とにかく、かなり入り組んだアレンジや構成の音楽をバンドとしてやってました。

 僕は88年の3月に和歌山に帰ってきました。で、半年ほどはあらゆることの様子を見ようと思って何もしてなかったのですが、夏にメッティのライヴを見に行って、キンチャンの誘いに乗ることにしました。もちろん前からやりたかったわけですから、ソク曲を作ったりアレンジをいじったりし始めました。で、この年の暮れから89年の4月くらいまでかけて、メッティはデモテープを作ったのです。それは今でもメンバーの手元にあるのですが、確か10曲近くを4トラックのカセットで工夫しながらいろいろやっていきました。ああ!そうそう、このころや、キンチャンが和歌山放送で毎週ラジオをやりだしたのです。それも1時間番組のDJ。あれもオモロかったなぁ・・・。とにかく僕としてはいろいろとやってみる事が面白かった。キンチャンや柳生は、そのころのメッティをちょっとフットワークが鈍ってるなぁと感じてたみたいです。でも、このころのスケジュールって今から思えば、年間で20本くらいのライヴやイベントに出てたから、これでも10人のバンドとしてはやってるほうなんですけどね。

 ただ、89年の終わりくらいから、そろそろメンバー個々の足並みがちょっとずれはじめたように思います。それは仲が悪いなんて次元ではなく、単に生活のリズムがずれ始めただけのことで、練習にこれなくなってきたメンバーが出てきたのでした。それでもこの編成のメッティを維持するか・それともいったんナシにして、また気持ちを新たにしてやり直すか。キンチャンは悩んだと思います。柳生にせよキンチャンにせよ、仕事の中でも中堅のポジションになってきてたし。
 最終的に、やっぱりライヴをもっと身軽にやっていきたい。この思いがあるメンバーが残る形で、バンドを続けることになったのです。

 で、90年の夏すぎに、JAMA-BANDができました。メンバーは DR:柳生、BASS:ヒロジ、KEY:コバヤシ、G:アニキ、VO:キンチャンの5人。
 「ここからやな、また。」「おお、またここからや。」といいながら、しばらくこれない柳生の代わりにリズム・マシンを鳴らして、JAMAの練習は始まりました。
 みんなもう、とっくに30歳は超えてました。

(TEXT:あにき) 次回に続く

JAMA-BAND STORY 5
1990-91  STAND UP ON YOUR OWN TWO FEET!

夏の終わりごろやったか、FLOWERというお店で金ちゃんとJAMA−BANDについて話したのを覚えてます。金ちゃんは、そんな風にメンバー一人一人に意志確認をし、引き止めも辞めさせもせず自然に残ったメンバーで、このバンドをやろうと思ってたみたいです。その時に僕が確認できたのは、彼が初期メッティの衝動をもう一度創り出すという事に、本気になってるということでした。これは、僕らの当時の環境を考えると難しい事は分かってました。もう、独身じゃないし仕事での責任も重くなってる。それでも、スピード感のある動きをもってバンドを運営できるかどうか。 …「まあ、やってみよか。」と言って、練習は始まりました。
 はじめは柳生が家庭の事情で参加できなかったので、リズムボックスとメンバーで曲を作ろうということで集まったのです。その練習でイキナリ新曲が出来ました。それが「やったらあかん。」というの。これは今のJAMAでやっても、十分にオモロイパワーのある曲です。このことで僕らはノリました。

で、91年の正月に、メンバーが僕んとこに集まって話だけでえらい盛り上がって、とにかく「やっていくんや!」という気持ちが固まったのでした。
 確かこのときにJAMA-BANDという名前になったのです。この由来は、メッティに僕が入ってからは、みんなで結構あほな事をやって人に迷惑をかけてたんです。たとえば練習中にかっこいいアカペラの曲ができたんで、「これは聴かすべきや、誰かに!」とかで盛り上がって、金曜日の深夜12時にアロチの知り合いの店にいって勝手に歌って思い切り嫌われたり、オールナイト・ライヴで僕の好きな歌を酔っ払って歌ってる人がいたので、ステージに上がっていって勝手にマイクとって歌ったり。これも陰でがちゃがちゃ言われてたみたい。僕らはその頃、身内だけで誉めあってる和歌山のアマチュア・シーンが大嫌いでした。だから、僕らのことを邪魔に思う人たちに向かって、ひらきなおったバンド名をつけたかった。「おお、そうや。俺らはおまえらにとっては邪魔者や。」という意味なのです。俺らは、自分たちだけで円陣をくんでいやなことを言わずに新しいお客さんや新しい世界を作ろうともしない、そんなおまえらには邪魔やろな、ってこと。そこからこのバンド名ができました。

多分このときに、横浜でビートルズのコピーバンドを真剣にやってるユカワ君と言うこれまた高校時代からの友達がいるのですが、彼もその場にいて煽ってました。彼のそのバンドは、数々のコンテストに優勝するくらいのビートルズ・バンドで、数年前もなんとジョージマーチンに誉められたというくらいの徹底的な(オタクな)奴等です。で、ユカワには名誉メンバー(盆・正月にはメンバーになる)となってもらいライヴにも出る事を強要し、そこからが本当のJAMA−の始まりになっていきます。

その年の3月くらいに、改名&メンバー・チェンジ後初めてOLDTIMEでライヴをやりました。多分、オールナイトもんだったと思うのですが、お客さんが「待ってたんや−!」と叫んでくれたときは嬉しかったで−!ほんの数曲だったと思うのですが、ちょっとした騒乱状態になってガ−ン!と再デビューできたのでした。
「…普通の事をうたっていきたいんや。和歌山のフツーのことを。それと、フツーの人に見てもらいたいんや。中途半端なミュージシャンには見てもらいたないんや。コンセプトはそれだけ。」といって始まったJAMA−は、こうやって転がり始めました。

 僕個人的にも、ちょっと気持ちを変えようと、それまで弾いてたテレキャスターを置いておいて、新しくヤマハのくさったギターーをノン・エフェクトで使い始めました。こいつがいい音するんやけどね。全然関係ないけどこの頃から何かあったらギターを買う癖が出てきたんです。確かこの90年にヤマハを手に入れたときは、友人のいる楽器屋にいって、「3万しかないねん。ギターくれ!」とゆうと、彼は黙って中古が眠ってる倉庫に連れて行ってくれて、ほこりまみれのそれを出してきた。で、「これでええか。つくりはしょぼいけどええと思うで。」と言ってくれたんで、それに決めたんでした。
 それが僕のJAMA-に対する気持ちの決め方でした。新しいバンドには、新しい楽器っていう。

(TEXT:あにき) 次回につづく



JAMA-BAND STORY  6
1991-92 LIVEとOLD TIME 

このバンドでのライヴは、前回も書いたように91年の春頃が最初でした。そのときにやった曲は、「やったらあかん」以外は、たしか全員がそろって練習した1回目にもう全部できたんじゃなかったかな。コバヤシがこのときのテープを持ってるということなんで、また確認しますけど、たしかオーティスの「お前を離さない」を替え歌でやったり、マイナーブルーズ「朝9時 出勤」なんかがあったとおもいます。

 自分でいうのもなんやけど、出来る範囲で最高のことをやるために、この頃はサウンドを考えていました。一人ずつが僕も含めて下手なんで、ソロの少ない、きめも大きなもの中心のアンサンブル勝負でいこうと。このことが歌をしっかり聴かせることにつながっていったんですけど。
 それと、メッティ時代の曲は、一回止めようという暗黙の了解もありました。やっぱりバンド名が変わってるし、メンバーも変わってる・担当楽器もヒロジなんかはギターからベースをやってもらってるわけですから、新しいバンドなわけです、実質。そうや新しいバンドなんや。と、この初めてのライヴが終わってから僕は思い直した覚えがあります。

 なにをやってもいいんなら、やっぱり歌いたい歌を歌うべきやろな、ボーカルは、と思い、キンチャンに歌いたい歌ないのと聞いたら、彼の大好きな「大塚まさじ」さんの曲が2,3出てきました。その中から「天王寺思い出どうり」をまずやろうかということになりました。それと、夏に向かって海に行きたいなあというのもあって、練習中のセッションでボ・ディドリーのビートから「海」という曲が出来たり。とにかく、新しいバンドなりの新しいナンバーも出揃ってきました。僕個人的には、この「天王寺」と「海」は、練習してても大好きになって行きました。特に「海」は途中で和歌山の海岸の名前がダーっと並べられるノリノリのナンバーだったんで、早くライヴでやりたいなと思ってました。

 それとこの時期のことで忘れられないのが、オールド・タイムというライヴハウスの変貌です。これは「オモロイ人々」の店長のコラムでも触れたのですが、オールディーズのバンドでライヴ・パブみたいな営業だったこの店が、90年くらいから本格的に地元のアマチュアバンドに「場」を提供することを始めてくれたのです。それから僕らはライヴといえばここでやらしてもらってるし、同時期に前向きにバンドをやってた人たちともここで知り合えたし、何より松本店長の人となりとライヴにたいする・ひいてはROCKに対する考え方が僕らに近いものであることで、「拠点」になる場所が確保できた思いをもてました。

 店長は僕らに期待してくれていました。それは言葉ではなく、タイバンする相手にオオサカのかっこいいブルーズバンドやアカペラバンドを組ませてくれたりすることでわかりますやん? もちろん、そこには県外からのバンドにはペイしなきゃいけないから、ある程度動員が読める地元のバンドを組ませるという企みもあったでしょうけど、それも含めて僕らは彼と現在までいい関係でいられてます。特に店長がよく言ってたのが「キンチャンは、あれはほんまに得がたいボーカルやで。」ということでした。そうなんや。店長もライヴハウス・シーンで長い間プレイしてたヒトなんで、キンチャンの特異性がわかるんやね。僕らのバンドを好きになるかどうかは、奴を好きになれるかどうかやもんな。

 そんなこんなで91年の夏にもライヴを数回やり、レパートリーもそこそこ増えてきたのです。お客さんも、いつもいっぱいとはいかないけど、いつでもそこそこは入ってるようになってきました。で、秋頃から練習の間で話してるとよくビートルズの話題になることが多くなってきて、こんだけみんな好きなのなら、ちょっと真剣にやろうかということになりました。久しぶりにコピーもええやろということになったのです。柳生はリンゴが最大のアイドルなんで、バリのりです。どうせなら年末のオールナイトに、湯川君を入れて本気でやろう、それもみんながあんまりやらない曲ばかりやろうとなって、急転直下ビートルズコピーバンドに変身しました。

 本気でシャレをやろうということで、ドライヴ・マイ・カー、ディア・プルーデンス、オリジナルの「ジョンレノン。〜メドレー」、イン・マイ・ライフとプリーズ・プリーズ・ミーそしてツイスト&シャウトを、原曲のサウンド・キーのままで僕らは和歌山で、ユカワは横浜で練習しておいて、1回ユカワをいれて練習し、オールナイトのカウントダウン直後にドカーンとやったわけです。このときのビデオがありますが、もう馬鹿受け。満員のお客さんが立ち上がって踊りだしてタイヘン!特にキンチャンのパフォーマンスは、気持ち悪い踊りと勝手な日本語訳がこの日の売りでしたが、これがもう外人の女の子がビデオカメラの横で絶叫してるような状態を作ってます。

 まあ、最高の年の終わりになったライヴでした。このライヴがあんまり受けたんで、しばらくビートルズ・ナンバーをやっていこうかと、92年の幕開けのライヴも数回はビートルズのほかの曲をやっていくことになります。ただ、やっぱりそれならギターがもう一人いるで、ユカワも横浜帰ったし、となって、ワダはんというオールドの常連さんにギターをやってもらってHELPやBACK IN THE USSR、SHE LOVES YOUを練習していきました。

 ここでおかしかったのは、やはりというかキンチャンが英語をそのままやりたがらなかったので勝手に歌詞を「口走った」ことです。今BASSやってもらってるキシ君なんかは、この頃のライヴで思いっきり笑ってたヒトでした。だってHELPを「タスケテー!
ぼくを、タスケテー!」やもん。演奏してるぼくらの脱力感もすごかったで。

 立ち上がりの1年は、こんな感じでおもしろおかしく、どこにいくかわからん、まさにROCKバンドだったわけです。

(TEXT:あにき) 次回に続く


JAMA STORY VOL.7
1992-3 さて、どうしたもんでしょうか。

 世の中はバブルがはじけかけてました。このころで言えば、94年くらいからはっきりと経済の停滞が和歌山にも影を落とし始めました。練習中の会話でも、「俺とこの昨年対比、60%しかいってない。」みたいな話題が出てき始めた頃やったのを思い出します。そんな中でのバンド活動は、でも、僕ら自身は何ら変わることなく続けてました。

 この2年の特徴は、やっぱりいろんな人とのタイバンに尽きるな。まず、憧れの有山さんのマエでやらせてもらえたこと。でも、このときはあんまり上手くいかなかった。なんか気負ってしまってね。カンケー無いのに。で、4月にASKSという社会人のビートルズバンドをみて、ここで一気に弾みがついたんです。彼らは下手でした。でも、バンドをはじめた頃の熱気や、ビートルズへの愛情を、ながーく持ちつづけている、素晴らしいバンドです。それを見て、原点に返れた気がします。

 で、92年はオールド以外での和歌山城 西の丸やすなのまるといった野外でも、いろんなバンドとともにやりました。これらのイベントもなんか面白かった。フリーコンサートって、お客さんをどれだけ立ち止まらせるかみたいな気合が入るんで、けっこう好きなんです。それに何より野外やから気持ちいいしね。これらのときも面白いバンドがいくつか出て、みてて楽しめた。

それと、そんな中からいくつかの親しいバンドってのが出てきた。僕らの場合はダスゾーちゃんとこがそれに当たります。彼らはR&Bのスタンダードを練習してて、コバヤシがKEYで手伝いに行ってたこともあり、なんか親しくなって、湯浅のお店に一緒にライヴをやりに行きました。

 このときの湯浅ライヴは、印象に残ってます。ニコニコしながらPAをやってくれたのが、あとから知ったのですが尾根さんという人でした。僕はこの人のバンドWAVEは、今でも和歌山で最高にかっこいいことやってると思ってます。それと、今でもこのサイトによく出入りしてるアリダ方面の人たちが、当時はお客さんとして見に来てくれてたんじゃないかな。出来るだけ盛り上がってくれよ、初めての紀南なんやから、と、僕らも前日話しながら臨んだだけに、後半から騒いでくれたのは、ほんま、うれしかったで!その中には、のり、くうねるサンたちもいたのでした。

 とこうかいてくると、いい感じでいけてたようですが、肝心のホームグラウンド・オールドでのライヴには、お客さんは減る一方でした。今から思うと、やっぱり不景気も原因だと思います。当時僕らは33-5歳。友達はそろそろ養育費の中に教育費が入ってくる頃だし、家のローンが始まる人も多かったし。そこに持ってきての不景気で、まだ92・3年あたりでは個人の損失くらいですんでたけど、企業の業績ダウンの兆しはあったもんね、すでに。
だから、この頃の少ないお客さんは、公務員の人が多かった。でも当時の僕らにはそんなことわかりません。だから、なんでお客さんがこないのか、真剣に考えましたもん。
絶対に面白いことやってる自信はあったし。まあでも、そこはアマチュアの強みで、深刻にはならんで済むんで、「もっといい曲をつくろうや。」って話になっていったけどね。

 この頃うれしかったことは、やっぱりオールドの店長がいろんな人とブッキングしてくれたことですね。それも、そんなに入るわけでもないのに、県外のバンドと組ませてくれたことかな。この人は、いつ僕らが行っても「OK!」しか言わなかった。僕はそれがうれしかった。

TEXT:あにき  次回に続く

JAMA STORY VOL.8
1994-7 解散

この間から、ちょうどこの1994あたりに安いカセットレコーダーを買ったので、ライヴをメモ代わりに録音してたんで、そのテープをよく聞いています。前回も書いたように、確かに僕らは決して上手くないけれど、とても面白い事を考えてるバンドだったし、やろうともしてました。

特にこの時期から解散までのライヴでやってる曲は、今聞いても面白い。神戸の震災からの復興を祈念するインターネット・ライブがオールドタイムであったら、その時には「神戸」って言う歌を歌ったり、バブルがはじけてはっきり個人レベルまで影響が出始めた95年あたりからは、バブルで踊った人達のせいでなくしたものがどれだけ大きかったかとかを真面目に取り上げて曲にしてた。演奏も、僕らに出来る範囲で面白い事をやってたと思います。

この時期の和歌山は、阪和銀行の倒産や市長の無残な失墜もあったなあ。「いままで権威であったもの」「明日の象徴であったもの」が崩壊した事による社会不安が、ドカーンと街を覆っていましたものね。これは住んでいないと分からないかもしれないけど、お店ではお客さんが・企業では売上げが目に見えて減っていっただろうし、みんなの遊びの規模がみるみる小さくなっていったし、何より、「消えた知人」が出始めたし。

今から思うと、そんな時期に僕らの歌の内容は「聞きたくないもの」だったのかもしれませんね。でも、僕は絶対に今歌っておくべきだと考えてました。ありのままを。それが金ちゃんの存在価値だし、JAMA−の存在価値なんや。目の前にある世界を僕らがどう見ているかステイトメントをはっきり出していく事。これは避けたくなかった。

多分、当時のJAMA−の曲を聞いてくれた若い子たちには「説教臭いバンドやなぁ」とうつったと思う。でもそれでいい。分からない人に説明する気はなかった。ただ、自分達の住んでいる街や国の事を考えられなくて、あんたに何が出来るというのか。僕は、相変わらず新しいバンドがちょっと話題になると盛り上がり「うまい」とか「へた」とかで騒いでるこの街のシーンが、この頃だんだん嫌になってきてました。

恒例になってきたオールドのオールナイトなんかに出ると、やっぱりウケるんです。でも、僕らだけでライブをやると、お客さんが少ない。別に僕らはこのバンドでの上昇志向は持ってませんから、どうって事ないんです、お客さんの数は。ただ、少ない原因は考えます。それである日、ふっと客席を見ると、知らない人がいない事に気づいて、僕はその日からでした、解散も一つの手やろな、って考え出したのは。

どのみち、休んだとしてもまたいつかやれる確信はあったんで、97年の夏に、結構激しい言い合いをして「解散!」という事にしました。途中、怒鳴りあいになってもんな。で、言いたい事言って終わった。・・・最初、オールドの店長なんかは信じてなかった。でも本当だと分かると「残念や。…ほんまに。」と、ポツンといってくれました。他にも、何でやめるんやとかって声が大きかったのは嬉しかったけど、馴れ合いでやってても仕方ないんでね。あ、大きな前提は、いつか復活するということですよ。そんなん、辞められる訳ないやん。僕ら、バンド・メンバーである前に友達やもん。

その解散の期間、僕は金ちゃんと2回ほど練習しました。小林は柳生と結構長い期間練習してました。ヒロジは、音楽をプレイする事は休みに入りました。でも正月にはヒロジと会うし、コバヤシとはガレージ・ソウルであってたし。柳生とももし会ったら話しをしてたろうし。バンドのメンバーというのは家族のようなもので、離れると「あいつ、どうしてるかな。」とか「あいつもここにいたらよかったのに。」とか、ふっと存在を思い出す時があります。ただ、JAMA−のメンバーはいつでもどこでもそろった瞬間に音楽が出来る気持ちがあったので、僕はそんなに深刻に考えてはいなかったんです。

JAMA STORY VOL.9
1998-1999 復活

 生活ペースってのは怖いもので、毎週金曜日PM10:00からの練習が7・8年続いていたため、しばらくは金曜日のその時間になるとスタジオに向かって走りかけてました。ちょうど帰り道の途中に練習に行っていた僕は、何度も道を間違えていました。
・・・やがて、練習がないのが日常で当たり前になって、その空いた時間を僕はPCに充てていきました。しばらくしてからは、ソロ・プロジェクトであったガレージソウルの練習日になったんですけど。
 
 僕らは、お酒を借りずに本音を言い合える付き合いを10代の後半からしてきたのでした。ですから、金曜日の練習は、高校生たちが集まってワイワイやってるのと何にも変わらなかったと思うし、休憩とかのほんのちょっとした時間に話をするだけで盛り上がるしで、やっぱり1週間の中での大きな時間だったのです。そのことに気づいたのは、98年になり、ガレージソウルで何回かライヴをやり、安定した活動が出来てきてからでした。「ああ、やっぱ大きなものを休ませてるなあ。」と思い出したのです。

 事の是非ではなく、こんな音楽をやろうという意思の下に集まったら、当たり前ですが音楽中心の集団になっていきます。それはそれでいいことだと思うし、むしろみんなはそれを望んでるのでしょう。でも僕の思っているバンドっていう概念は、違うのです。バディなんですよ。仲間なんです。対等で、それぞれ役割をもった、代えがたい仲間なんです。

 はっきり言って、ROCKバンドのサウンドなんてどうでもいいと思ってます。それよりもメンバー全員がステージに出たときに、何かこの集団の磁場が出来てたら、もうそれでOKなんですよ、きっと。でないと、女の子が理屈抜きで生活投げ打ってついてきませんよ。でないと、グレイトフル・デッドのコンサートで、家族ぐるみでアメリカ中追っかけをやる連中はでてきませんよ。みている人・聴いている人は音楽の向こうにあるものを嗅ぎ取るから。「理屈抜きの何か」が、バンドにはあるのです。それは人生を共有する集団への共感ではないかと、最近は思っているのですが。僕は「バンド」っていうのはそんな特別なものだと思っています。 そして、そのことが98年にはっきり再認識できたのでした。

 99年。僕はブルー・マンデーズという練習集団に積極的に参加していきました。それを少し知っていたキンチャンが、JAMA−復活を言い渋っているというのをコバヤシから聞いて、「なーにゆーてんねーん!やるに決まってるやろ!」と言ったのが秋口でした。その時点では、柳生の復活は確定してました。やつは「今度人前でタイコやるのは、JAMAやと決めてた。」と、震えるくらいかっこいい参加の仕方で戻ってきました。ヒロジは、今回残念ながら「まだその気になれん。」ということでした。でも4人復活した。何も言わなくても11月の再結集ですから、照準は年末のオールドタイムのオールナイトです。わかってます。で、ベースを
探しました。さっきも書いたように、僕らの「バンド」の概念を感覚で理解できるやつで、何かひとつセンスのいいヤツ。・・・ヒロジはそんなヤツでしたから。ヤツは弟ながら、音楽に対する審美眼の確かさは時々舌を巻くことがあるヤツだし、人間関係を作ることのセンスは、僕の100倍上手いし。・・・で、消去法で削っていって「これはもう、こいつしかいないかな」と決めたのがキシ君。

 キシ君はブルマンの常連でした。でも、ベースをあんまり弾かないで、みんながやってるのを楽しそうに見ていることが多い人でした。弾いたらいい感じなんですよ、もちろん。でも、ちゃんと状況把握ができるから、違う楽しみ方をしていたんです。フツー出来ないですよね。僕はそこが気に入った。まずちゃんと仕事をしてて家族もあっていいヤツなんですよ、欲しかったのが。プロじゃない場合、プレイヤーのエゴが強すぎるヤツは、長い目で見たら自爆するから。彼は違ってた。で、11月の中ごろに、なにげに「ジャマー、やる?」と聞いたら大喜びで、「ほんまにボクでいいんすかぁ?」って感極まってたんで、心の中では(そんなたいそうなもんちゃうで!)と思いつつ「うん、やってみようや。」となりました。

 ライヴを終えて、ぼちぼち練習してる今、彼にいって良かったなあ、と思ってます。彼もOVER 40なんやけど、僕らの中では一番年下なんで、ちょっとパシリ入ってて気の毒なところもあるけど、本人はご満悦状態なんで、まあいいでしょう。

 
TEXT:あにき 次回に続く