
JAMA-BAND STORY
VOL.13 2004 遂に自立
前の年の12月拾得出演〜1月のCAM’SのOLDでの出演から、2003年に動き始めていた「県外でのライヴ展開」が、みんなにも現実的になったのです。身近に感じるようになったというか。で、1月最初の練習では、4月くらいまでのライヴを2回くらい決め、あとは大阪や神戸のブッキング次第という風に考えたと思います。ただ、4月にまたCAM’Sとジョイントを和歌山でやったので、その返礼で7月に拾得に2回目の拾得が決まって、京都は出れている嬉しさがあったな。
で。ライヴのための練習を進めつつ、柳生に春先にライヴハウスのアドレスを送り、そっから5つくらい、大阪のハコにCDの音資料を撒いてもらったのです。そして、僕らにとっては運命的な出会いがやって来ました。そう。大阪:茨木のジャックライオンというハコです。6月か7月くらいかな、ハコのマネジャー、真柴さんから柳生に電話があって、CDには感激した、ぜひやってくれ。とのこと。で、まずその前の大きなハードル・7月の拾得を超えてから、大阪対策でもしようと思ってたのです。ところがもうひとつの大きなイベントが夏にやってきたのでした。パーディさんのイベントです。
今回の来日・およびイベント企画には、当初僕とコバヤシが参加していたのですが、事前のいろいろな準備は手伝ったものの、直前に風邪ひいてえらいことになって、結局ジャマーからは柳生とコバヤシ・イカテンが運営にかかわりました。柳生にとっては、パンチョモラレスやパーディさんの近くで、ミュージシャンシップ溢れる振る舞いを体験したことがものすごい財産になったと、これは今でもそういうもんな。 そのイベントが15日から18日、で、いよいよジャマーとしては初の大阪でのライヴに突入でした。
9月19日は、そんなんでパーディ’sショックを持ったまま全員が一台の車での大阪行き。着いたら僕らよりは若いけど、30代後半からの2つのバンドが。なかでも、「リッチー坂本とドビンボウ」という、リッチーブラックモアとレインボウの完全コピーバンドが、その卓越した演奏力と、なによりロックなキモチまでコピーしたかのようなパフォーマンスで、本当にびっくりしたのでした。
ジャンクライオンでのジャマーは、長く和歌山だけでやってきた僕らが、前年の京都では半信半疑だった「ウケる状態」が、実は大阪でもそうであった点で、いい意味でショックでした。かつて京都・大阪の音楽レベルの高さはものすごいものがあっただけに、僕らのライヴで大喜びするお客さんや関係者を「ほんまかなあ?」と疑ったのでしたが、この日のジャックで、僕らはおもしろいんやって思えるようになったんです。これは、本当に大きな一歩でした。ジャックの場合は、マネジャー・真柴君のポリシーが僕らとかなり近いことも、現在までイイ関係を続けている原因のひとつで。
ジャックが終演後すぐに、12月12日を決めました。一年前のこの日は、初めて拾得に出た日。やっぱり感慨深いものがありました。京都・大阪で、2回づつライヴをやって、どちらも2回目の方がお客さんが多くて。勝因のもう一つは、やっぱりリズムセクションの安定感が、03年9月までと全然違うところでしょう。柳生の太鼓は、04年は練習ごとに良くなってきたし、イカも柳生とのコンビネーションをかなり意識するようになり、その辺から、特に8月の和歌山:ラヴァーソウルでのライヴあたりからは、ライヴでも凄くラクになっていたのです。
みんなが個々の練習を、課題を持ってしていました。それを土曜に持ち寄ると。だから、3時間があっという間です。音しか出さない練習。休憩が殆どない練習。そんなことを横目で見ながら、オモロイ事考えているのがキンちゃんでした。奴は、みんなに刺激を受けてか、遂に仕事先の東京で、あの「入道VO教室」で歌を習い始めたのでした。その辺から、入道さんとの連絡も復活して。いよいよ面白くなってきた2004年でした。
こうやって書いてみると、じわじわと今までやってきたことや作ってきたものが、何かに向かって結実していっているような気がしています。それは何なのか。自分達では分かりません。ただ、イカ以外の全員が、高校までに知り合ってバカやっていた事が、ここに来てエライ意味を持っていることに気がつきます。近所のガキが集まって始めたバンド。それが、数十年も続くと、そのあいだにあったこと全てに意味があり、また、意味がないことに気がつきます。
そんなこんなで、2004年は、前年に続きまたステージがひとつ上がったところでプレイできるようになりました。特に
オオサカのお客さんのあのノリ!あれは僕らを育ててくれています。で、2005年。新春から、えらいことが決まったのでした。
text by あにき
つづく
VOL.12 2003年 覚醒
この年、作ったCDをやっぱり売りに行こうかってなってて。年頭の練習で、半年分くらいのライヴスケのあらかたを決めてしまってね。手始めに2月、4月、6月をOLDでやって、奇数月を京阪神でって、本腰入れてライヴハウスを探し、音を送り、日程の調整にはいったんです。ところが、最近のライヴハウスは横着というかなんというか、確か柳生と僕とで8つくらいのところに連絡とって、電話で連絡あったのが3つやったんとちがうかな。んで、まあボチボチいこかって、気持ちを持ち直して、難波ベアーズとの交渉に入ったのでした。
そうこうしている内に、金ちゃんが東京でシゴトする準備に入ってって、今の生活パターン=土日は和歌山、平日は東京 になってね。その事が練習時間の貴重さを浮き立たせる事になっていったのです。それに、5月にネットで奇跡的にCAM’Sのページからコーヘーちゃんとまず連絡が取れ、あとは連鎖で衛くんと杉浦君たちとの連絡が復活したのでした。その辺から、つまり初夏のあたりから、なんとなくざわつき始めた京都との関係は、7月、ついに9月にOLDでCAM’Sとライヴする事に結実していきます。これが、ジャマーを大きく変える出来事になっていくのでした。
CAM’Sは、それこそ60年代後半から70年代にかけて、京都のシーンで活躍していたメンバーが中心の、高いミュージシャンシップとオリジナリティをもったすごいバンドで、その中の衛くん・杉浦さんとは、僕はバンドを作りかけたこともある友人です。長く彼らの音は知らなかったのですが、この9月にOLDで見た時にその健在振りとさらに大きくなっていた音楽への愛情が、僕には大きな勇気になったのですが、他のメンバーもそのすごい演奏力にぶっ飛んだのでした。中でも、リズム隊の2人に、柳生は完全に影響を受け、自分のドラミングをイチから見直す大きなきっかけになったのです。 これは、もの凄く大きいことでした。
なにしろ、杉浦君・河村さんのドラム観を、全部吸収しようとしていったのです。2人とも素晴らしいプレイヤーですから、懐も深く、柳生に時間の許す限り色んな事を教え、それはこの後の数回のCAM’Sとのライヴ時にもずっと続いていくことになります。柳生にとっては初めての師匠が出来たのです。同じように、ギターの多田さんのプレイには、ヒロジが影響を受けていきます。
CAM’Sのライヴは圧倒的だったのです。それは9月に初めて見た人全員が吹っ飛んだくらい。あまりの熱狂に、これはすぐまた来てもらわないとイカン!もっと多くの人に、そう思って、すぐに10月に来てもらったくらいにね。んで、彼らも和歌山での受け方を喜んでくれて、12月の拾得に、今度はジャマーを呼んでくれたのでした。
12月12日の拾得。この日のライヴも、僕らにとっては画期的なもの、ターニングポイントになるものとして、記憶から消えないでしょう。30年以上の歴史をもつ、西のライヴハウスの老舗。ブルーズブーム発祥の地です。ジャマーはここで、CAM’Sのお客さんにウケました。その事が大きな自信になって、ますます個々の練習を続けていく事になります。
このように、2003年は、ジャマーにとっては大きな転換があった年でした。特に10月以降の柳生のドラミングの劇的変化は、今まで出来なかったルーツっぽい曲がどんどん出来るようになってきた事や、安定感のあるバンドサウンドになっていくきっかけになったのです。1人づつの練習量が格段に増えました。毎週土曜の練習は、自然に3時間まるまる音を出している練習に変化しました。 毎日の体力作りをするメンバーも出てきました。これらすべては、CAM’Sの影響です。彼らの音楽に対する敬意が伝染したようでした。
text by あにき
つづく
JAMA STORY VOL.11 2001―2002 CDを出した
きっかけは何やったか。多分金ちゃん・コバヤシ・ヤギュウの学年が、高校の同窓会をやろうと、彼らに持ちかけてきた事だったと思うのです。言ってきた人は、ジャマーのライヴをその中でやって欲しいという事だったと思います。で、金ちゃんが、それなら逆にライヴハウスで同窓会やったらええやんか、と提言、OKになったということがありました。で、その話を練習に持ってきたのが2002年の1月くらいで、練習のときに金ちゃんが「どうせならライヴレコーディングしよっか。」と言い出したのでした。
ジャマーでの録音は、94年くらいにスタジオでデモテープ取ったことあって、そのときにも金ちゃんが同時録音でないといややという事だったので、セーノでやったのですが、楽器の者にしたら、これは緊張するのよね。やり直しできんから。マルチトラックなら差し替えという手はもちろんあるけど、それは24トラック以上を同時録音できるときの話。それに、まあそこまでこる必要もないよなあ、デモやったらと、その練習のときはOK出したのでした。
で、練習を重ねて行くうちに、なんか知らん間に金ちゃんはその音源でCDを作りたかったらしくて、OLD TIMEに録音機材を持ち込んでオペつけてDATに取る算段を始めたので、「そうかあ。CD出すのかア。」とみんなも思い始めたという。つまり、僕らはCDリリースについてはそんな自覚的ではなかったのですね。ただ、反対はしなかった。
それは、ひとつは曲作りのグレードがひとつ上がった状態にバンドがなってたこと。その話をしている時にも、テーマがあったらすぐに曲が出来るようなノリはまだ続いてたし、イカの加入での演奏力のアップ現象で、アレンジの仕上げも速くなってきてたのです。
それと、新しい若いファンが出来始めてて、彼らが音源をほしがってることもありました。これに関しては、正直、きちんとしたものを渡したいという気もあったのですが、僕らをライヴで見て気に入ってくれてるんやから、ほぼ同じ状態の温度のものを渡したほうが、伝わるやろうと思い、このライヴのCD化はOKになりました。
いったん目的が出来たら、後は練習です。課題があったらそれをこなしていくのは、メンバーの得意技です。4月29日までは、いつものペースは変えずに、でも、個人練習をそれぞれがこなしながら、当日になりました。
会場のOLDTIMEのPAはそのままライヴ用に、それとは別にもう1セット録音用にフルのシステムを持ち込んで、橋本君という若いけど優秀なオペ・マンに仕切ってもらって、本番のみをRECってもらいました。僕らが演奏したのは、全部で13曲くらいで、やり直ししてません。だから、演奏がどうしても許せないものはあのCDには入れてません。本来的な意味でのライヴ・アルバムにしたわけです。
録音されたマスターを、金ちゃんの事務所ではじめて聴いたときに、思いのほかいい感じで出来ていたんで、これやったらCDもええなあ、と思ったのでした。ああいった、フツーの環境で聞いてどうなのかって凄く大事で、そこをクリアできたのが嬉しかったな。
その後、そのマスターは、大阪でマスタリングされ、プレスされていきました。ジャケのデザインは、みんなで練習時に決めました。特に表紙のロゴは、あのカタカナのフォントを見た瞬間、これしかない!と、僕の一存で決定しました。実は他のロゴってのが、サーフショップによくある、あのメタリックな英字だったので、サイアクやーと。
10月のあたまだったか、パッケージされたCDが届いたときは、やっぱり嬉しかったですね。それはみんなそうだと思います。後は売るだけ、みたいな。思いのほか売れているから、それも嬉しいし。まあ、全体の流れは家内制手工業なんで、販売も手売りですけど、ライヴをやると必ず10枚くらいは売れます。それが嬉しいんよな。
11月には発売記念ライヴをやって、かなり盛り上がりました。地元紙全部にも取り上げられて。そこからの売り上げもまあありましたね。でも、僕らは見てもらって初めて買ってもらえる類のバンドなんで、ボチボチ売っていこうと思ってます。もうすぐモトは取れるところまで来たんで。
この、一連のCD製作〜販売を大きな流れにしながら、2002のジャマーはもうひとつ大きな動きを抱えました。としたか君AIDです。
としたかくんは、心臓移植が必要な青年で、彼を救うための活動はそんなに大きくされてなかったのです。なので、僕らの出来る範囲で、彼のことをまず知ってもらうことから始めていき、最終の必要額の募金活動のお手伝いをさせてもらいました。
真夏のマリーナ・シティで、僕らやひろよ、まちこさん、MA−やユーコ、いできち達と募金の呼びかけとか、OLDの店長とオネさんの「としたかAID」ライヴとか。本当にみんな、できることを数ヶ月にわたってやっていきました。 この動きは、僕らや友人達にとって、意義の大きなこととして今後も残っていく事と思います。
・・・そうやなあ。2002年は、いろんな重たいことを考えながら練習に行ったりライヴしたりという事が多かったなあ。そのことからか、出来てくる歌も、金ちゃんの歌詞がどんどん重くなっていきました。ま、でも、あいつの歌詞は最後に楽観があるから、暗くはならないんでOKなんやけどね。
それと、やたらお客さんが見に来てくれる状態が11月まで続きました。いろんな点での露出が多かったので、新しい人たちが来てくれるようになってきたのでした。これもうれしかったなあ。
番外編:最近のバンドのうた 2002.02
ちょっと思うところがあって、ここ数日94年くらいから数年間のJAMAのライヴテープを聴いていました。きっかけは、ボーカルの感じがそのころと変わってきてるかも知れんなあと、この間の練習で感じたことでした。
びっくりしたのは、まだ8年くらいしか経っていないのに、なんと若い声で歌っているのだろうということでした。ライヴでは今でもそうなんですが、僕らはヤブレます。それは、イキオイがあまっての事であることが多いのですが、このころのは今よりももっと態度がアグレッシヴでおもろい。でも、ちょうどその頃のサウンドがPOP志向になってたので、なんかおしゃれなアレンジやのにむちゃくちゃやってる変なバンドですね。サウンドと態度があってないみたいな。
たぶん、その頃は、まだまだ僕らにとっても音楽は非日常な事だったんでしょう。いわゆる生活から離れている物という意味で。だから、きれいな事を可愛らしいサウンドで歌っています。
2000年に再結成してから出来てきた歌ってのは、そうじゃないものが多いのです。ほんと、生活の延長と言うか雑感というか。街の概観を歌うのではなく、街の人間を歌ってるものが多いように思います。僕らの曲作りは、大体練習のときにテキトーなコードでジャムってて、それにメロを誰かが歌いだし、金ちゃんがそれを聴いてて詞を乗せて歌う事が多いのです。だから、全員で作っていく感じです。詞の言葉も、金ちゃんは僕らを見ながら書いてるんですから、僕らの間接的な言葉でもあると思います。そんな作り方を、もうずっとやってきてるんですが、その8年前のはPOPだったのです。で、今はこれ、紛れも無いロックです。
イカテンが入ってからのJAMAは、最初なかなか形にならなかったのでした。それはそうです。あいつはあいつのタイム感で生きてきたし、僕らも僕らでやってきたから。でも、それが良かった。出会いかたがそんな風に正直だった分だけ、お互いの音の言い分を不器用に擦りあわせていく練習になり、結果また新しいノリが生れました。あいつも無理せず・僕らも無理せずに手に入れた新しいグルーヴ。
これはこれで強力です。 街の人間を歌うのにふさわしい、骨太なビートがやっと出来ました。
ノリが変わったことで、僕のもつギターも変わりました。ヒロジもです。この新しいグルーヴにふさわしい音が出る組み合わせを1ヶ月くらい探してて、ぼくがレスポール・モデルを持ってきた同じ日に、偶然ヒロジもストラトを持ち込みました。この組み合わせは、長くやってきた中でも最高に近いアンサンブルを作りつつあります。
ヴォーカルの感じは、やたらシャウトしていた8年前に比べると、うそのない・無理のない歌いかたになってます。重いビートと呼応するように、言葉をはっきり聞かせる事を第一義にした、重心の低いヤブレ方。でも、最近の方がすご味があるのは、まさに僕らの生活から出ている言葉が多いからでしょう。
とにかく、ここ数ヶ月の練習は、バンドサウンドのコアになるベースというパートの新しい個性が、他のパートと化学反応を起こし、面白い色が出て来た期間でした。
今までのJAMAのファンだけじゃなく、全く僕らを知らない人にもぜひ聞いてもらいたい音に、JAMAはなりました。
3月のライヴは、ほんと必見ですよ。
JAMA STORY VOL.10 2000-2001 転がる石のように
キシを迎えた新生JAMAは、もうはじめから面白かったのです。ロックをやっていくのに大切な初期衝動が戻ってきたのでした。2000年に入ってからの活動は、主には練習とOLD TIMEのライブでしたが、その練習でどんどん新曲が出来ていきました。それは最初、3コードくらいのセッションから始まるのですが、キンちゃんはもうその時点から歌詞を作りながら歌い始めます。 メッティの頃からそうして曲を作ってきたので、僕らはそんなに驚きませんが、やはりキシにとってはおおビックリだったようです。 コトバは生き物なので、歌詞はその時々に変わってもOKっていうような感覚は、ほんの4つ位下のキシですら知らなかったようです。
2000年春先、うれしいことがありました。ヒロジが戻ってきたのです。それも、ヤツのやりたかったギターで。この事で、JAMAはより濃い内容のステージを届けられるようになりました。音楽的な充実もそうやけど、それ以上にアッパーな気持ちをもって練習からライブまでを過ごせる。これはとても大きな事です。ヒロジは、1982以来の仲間です。そいつがそこにいるというだけで楽しいという存在なのです。これは、大きいよ、とてつもなく。
この事が、JAMAをよりオープンな場にした事は間違いありません。 楽しい場には人が集まる。なので、春以降のライブは、かつてない観客動員を記録していきます。 バンドやってる人・市の職員・主婦・若い友達・おまけに市長まで常連になって、2000年のライブはどれも大賑わいでした。
幾つか忘れられないライブがあります。 1つは夏にやった泉州たまねぎファイターズとのジョイント。 彼らも社会人になってからずっとバンドとともに生きてきた人達です。1982年にメッティーが彼らに出会ってから、ずっとバディとして意識しつづけていた最高のロック・ピープルです。そんな彼らとの久々のジョイントでは、ライブが終わった後のせんたまのアンプラグドも含めて、「ああ、おれらもこれで良かったんや。」という確認と、お互いに若い心を持ちあえてることを祝福できました。
もうひとつは、政治家と彼らを取り巻く人達のど真ん中で、僕らの和歌山の歌をバクハツさせた石泉閣でのライブ。1曲めからお客全員に「おまえらのやり方、考えろよ。」と歌っていきました。若い運動員達が熱狂し、知事は腰を浮かし、近隣からは苦情の電話が殺到した良いライブでした。悪い事はわるい。ロックバンドがそう言わなくなってから、もうかなり時間が経っています。今更歌でそんな事をやっても、何も変わりません。でも、僕らはいやなんや。自分のステイトメントをきっちり残すことで、この街で暮らしていきたいんや。 そんな事を考えながら、爆音でギターを弾いてました。
2001年の1月4日には、JAMAとブルマンのみんなでスタジオに集まって新年練習をやりました。これがエライ盛り上がりで、やっぱりおれらの正月はこんな形で始まるのがベストやなあと確認しました。ブルマンの女の子たち+キンちゃんのラインダンスや、高田君が加わったブルーズは、見てて最高に楽しかったし。
2001年になると、僕らは練習している事が最高に楽しくなっていました。それは、出来あがる曲のクオリティがどんどん高くなり、新しいタイプの歌がどんどん出来てきたからです。これは、僕もヤギュウもヒロジもコバヤシもキンちゃんもこの町も、日本の大変革の中に巻き込まれていく事を実感できたからだと、今では思います。気がついたら、この街の政治・経済・文化の古い体質が疲弊していました。どんどん更地になる市街地。つぶれる老舗。そんな中で、僕らは元気でした。それは、やはりお金やない人のつながりで楽しさを膨らませてきたからでした。その事が余計にライブでの観客動員に現れます。 きっかけは、ナンの得にもならないオンガク。でも僕らは、それを通じてたくさんの友人を作れたし、自分を掘り下げられました。 僕は、2001年ほどオンガクをずっとやってきて良かったと思った年はありません。 自分にパワーを与えてくれる最大の動機。恐らくは、メンバー全員がそんな事を体感した年ではなかったかな。
10月にはもうひとつうれしい事がありました。旧友で、メッティーのギタリストだったマカセ君が、JAMAのステージに僕の代わりに立ったのでした。僕はそのひ仕事で、彼の入ったJAMAをテープで聞いたのですが、メッティーからは遥かに上手くなったギターで、でも、他のメンバーと上手くマッチする良いギターを弾いていたのでした。 彼も、この10数年を有意義に過ごしてきたのでしょう。ギターの音がそれを語ってました。
また、この日のライブではさらに、同じ会場で若い友人のJIN&GOのライブがあり、彼らはJAMAのステージに参加もしました。 20歳そこそこの2人は、色んな事を経験しながらこれからも歌っていくのでしょうが、久々に応援したいバンドに出会えたことも、うれしい事のひとつです。歌がね、いいんだわ、久しぶりに。
そして11月。 キシ君がしばらく休むことになりました。 自分の生きたい方向を模索しながら、JAMAの再結成以来ベースで参加していたのですが、なかなかやりたい事が考えられない状況があって、それならいっそバンドも離れて、まったくの一人で考える事からはじめようと言う事です。僕らは、まだあと数十年という時間を過ごしますから、これも良い選択だと思います。
で。イカテン(@ブルマン)にベースを頼みました。 もう、僕らのニュアンスを伝えられる人は、キシのほかには彼女しかいないだろうと思い、他をゼンゼンあたらず声をかけました。 幸い嫌がらずに引き受けてくれて、11月からはこのメンバーでやってます。
このように、この2年間は人の新陳代謝も含めて、色んな事が大きく変わった期間でした。まあでも、僕らの変化より国の変化や仕事という概念の変化・経済の変化のほうが、後になってみたら大きかったという認識をもつでしょう。そんな中でバンドをやっている僕らにも大きな変化の影響が来たというほうが正しいと思うな。 時代は変わった、だから僕らの一部も変わった。そういうことでしょう。
ヤギュウはこの2年でダイエットに成功したし、洋楽も真剣に聴き始めました。ヒロジはPCに精通していました。コバヤシはピアノが上手くなりました。キンちゃんは、市の文化イベントを仕切る組織を立ち上げ、成功させました。僕は大きな音楽イベントを2本やり遂げました。 そう。僕らは常に意識が動いている奴らの集まりなのです。 だから、若い心でいられるのです。 ライク・ア・ローリン・ストーン。 もう少し走ってみます。
text by:あにき (つづく)
2001 7.07 JAMA ON THE STREET

掲示板でのやり取りでもあったように、どこかでストリートをやろうという動きはJAMAの中にずっとあって、それはもう十数年まえからあったことで、でもブショウモノばっかのメンバーですから、なかなか本気になれなかったのです。
でも、最近はやれる楽器も沢山出てきて、ポータブルなアンプやエレキギター・ベースもあり、KYEはカシオトーンのようものもあり、バンド編成をそのまま気軽に持ち出せるものがまわりにそろったので、いこうかと。 で、ヒロジはいなかったのですが、まあ、下見のつもりでマリーナに。
いやあ。でも、会場が路上というのはおもしろいよ。色んなことが突然起こるから。この日は、僕らの演奏していた斜め後ろの店で披露パーティーがあって、そこでとんでもないことがあったみたいで、若い男が2人飛び出してきてけんかが始まったことがきっかけで、パトカーがくる騒ぎになっていったので、結構いた通行人はみんなそっちに気を取られていったみたい。 それでもお構いなしに歌ってたら、そのパーティの多分主催者の若いコたちに「ちょっと小さな音でやってくれませんか」と頼まれたから、「ああ。」とかいって、そこでこの日の演奏は終わり。 なーんか気がそがれた、って感じ。
でも、下見がてらのライブは、それなりに面白かった。マイクなしで、カウベル+ピアニカ+ナマギ+ゾーさんベース+ボーカルの編成は、80年代のイギリスにこんなバンドあったよなあ、って雰囲気のサウンドです。 お客さんがまっさらな人ばっかりってのが、いまのJAMAにはうってつけでしょう。 ここで気に入ってもらえるかどうか。それこそが和歌山を歌うバンドの真骨頂なのですから。
できれば来週も土曜日の22:00以降はマリーナで行きたいもんです。
メンバーと楽器をパワーアップして。
00/07/08
最近のJAMA (7)
まあ、ライヴが近いし、今日は練習で6人全員が集まれたんです。で、ここ半年ほどでなんと10数曲出来てるところからの選曲をしながらの練習。
ひろじもだいぶんギターになれてきて、ソロでは最近よく聴いているBBキングのフレーズを出してきてました。やっぱりおもろいで。このメンバー。ただ、僕ら下手な割に練習をつめてしないので、雰囲気勝負のところがあります。今日はでも、その雰囲気がバッチリだったんで、全曲気持ちよくやれたな。
16日にセンタマとジョイントをしますが、まあテクでは勝てないので勢い勝負ですわ。 ライヴにでもいったろかいって人、僕らの時は笑ってもらえたら幸いです。
2000年6月8日
この下の内容に対して、すかさずキシ君からメールあり!
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最近のJAMA−(6) 2000.6月4日
久しぶりに全員での練習。 きんちゃんが注力してる和歌浦プロジェクトもいよいよ本格的に動き始めようとしています。なんかそんな話もしながらの練習ではありましたが、僕が休んだ前回の練習でまたもや柳生が曲を作ってきてて、この下のエピソードを元にしたものでした。これがなかなかいい感じで、練習してて気持ちよかった。
それとなつかしフォークの曲をなんやかんややってる中で、久しぶりにやってもええんちゃうのという曲が出てきました。で、最初その曲をフォークロックみたいな感じでやってたんやけど、テンポ落としてやったらバッチリ良くなったんで、採用! 何の曲か? お楽しみ!僕も大好きな曲です。
再結集してから、まだそんなに練習できてないのに、もう曲だけはどんどん出来て、イマはもう15曲くらいあるんちゃうのかな。まあ、これがJAMA−ですわ。僕はJAMA-には一人で曲を作って持っていくことはあんまりしない。練習中にその場で考えてみんなで作るほうがオモロイから。だから、今回の一連の柳生シリーズはちょっと新鮮やな。
これでヒロジがまた作り出したら、いい感じになると思います。・・・7月のセンタマとのジョイントまでに、上手く練り上げてみんなに聴いてもらいますんで、お楽しみに。
ところで。最近のキシ君、ちょっとついてないちゅうか。豆くってて前歯を折ったり、農作業でギックリ腰やったり。僕が思うに、例のパーディさんのイベントが終わって気が抜けてんのとちゃうかな。ちょっと太ったようにも思うし。 キシ、ぼちぼち目を覚ませよ。
ではまた。
最近のJAMA−(5) 柳生ハウスーこの原稿は柳生からのメールですー
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裏の畑はだだっ広い砂利の駐車場になり、町全体にあの色あせたような、古ぼけた雰囲気はなくなっていた。柳生ハウスで毎日のように繰り広げられた、狂気のライブから早いもので、もう20年以上が過ぎ去っていた。自分自身がまだ音楽を楽しんでいるということもあり、今のJAMA-の原点であるこの町は、自分のなかでは不滅のような思いがあった。
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・・・俺もヒロジもきんちゃんもこばやしも湯川も、おんなじ思いやで、柳生。
2000年05月16日
最近のJAMA−(4) 貴志君の自宅
今日は休みでした。で、「だれか休みの人、いないかなあ。」と思い、キシ君に電話すると、やつも今日休みとの事。で、会いに行くことにしました。・・・やつが住んでいるのは貴志川町といって、和歌山市に隣接したベッドタウンです。あらかたの場所を聞いて車を走らせました。適当なところで喫茶店に入り、再度電話したら、やつが来てくれました。
その店で1時間くらい今回のイベントのことを2人で振り返っていたのですが、どうしても見せたいものがあるというので奴のうちに行くことになってね。その店からは5分ほどの自宅に。・・・通された部屋をみたぼくは思わず「帰ろ。」と背中を向けかけました。壁一面に、今まで自分が参加したバンドの写真がびっしり。約500枚くらい。空いているスペースには、こないだサインをもらったTシャツやベースがかけてある。2人の子どもはちょっと部屋をのぞきに来て、すぐに退散。ああ、ここってキシ一人の部屋なんや!それにベッドまである!あれぇ・・・。
「JAMAーのコレクションをどうしても見せたい!」という思いがどんどん伝わってきます。で、見せられました、こないだの5.2のライヴ・ヴィデオ。かけながらやつは、MCを全部言うわけよ。で、一人で笑い転げてる。時間は午後4時。コワイでしょ?何でそんなに好きなん?って聞いたら、奴は「だってこんなストレートなバンド、ないっすよ。音楽性とかどうのこうの一切いわない、音だけ出して笑いをとる。最高っすよ!」とのこと。・・・ちなみに今、奴の最大の後悔は、5.2の2部なんてやるって知らなかったから、80分テープ1本しか録画できていないことに対して、だそうです。 あたりまえや。俺も2部なんて考えてなかったもーん、1部終わるまでは。
貴志君、JAMA−をぜーんぶ記録しようって言うのはかなり難しいで。だって俺ら、なーんも考えてないもーん。
2000年04月30日日曜日
最近のJAMAー(3) わっかるかなー?
今日は、ライヴ前の練習でした。ヒロジ復帰の2回目。ヤツは例の楽器屋で衝動買いしたアンプを持ってきてた。他の人はどう思ったか知らないけど、僕はあのアンプを見たときにヒロジやなー、と思いました。チャンプみたいなちいさいフェンダー。でも馬力があって、バリバリの音がする。100Wのヤツを小さい音で鳴らすんじゃなくて、小さなアンプをフル10でならすのが、僕らの流儀なんや。そのほうがすっきりするから。ええ音してました! ブルーズマンの音。 もうこれで勝った、今度のライヴ!と思いました。
今日はキンチャンの会社の若いヤツが見に来てました。唖然としてた。「なんや、このおっさんら!」みたいな。サッカー・ウェアのおっさん、セッタはいたジャージのおっさん、全力でスティック折りまくるおっさん、変にキーボードのうまいおっさん、奇声を発するおっさん、なりはでかいのにペコペコしてるおっさん・・・・。一昔前なら、新世界の将棋屋あたりにたむろしてたような、曲がったおっさんらが、おもいっきしロックしてる図は、やっぱショックやったみたいです。
にーちゃん、わしら、あんたらより子供やで。わかるかなー?この意味。
2000年04月26日水曜日
最近のJAMAー(2) ヒロジに関する噂
こないだもBBSに書いたけど、ついに戻ってきました、我が弟ヒロジ。実はこの数年は、彼の子供たちがサッカー・クラブに入ってて、なんでも最近の少年スポーツサークルは、チーム運営からなにからほぼ全てを父兄たちの手でやらないといけないらしく、そっちに注力していたらしい。そのチームに子供を今も在籍させているイトコの敬子は、「ヒロジ君たちの父兄会はしっかりしていて、かなり活発に動いていた。」といってたから、相当そのサークルで活躍した模様です。
で。こないだの復帰後初の練習のときは、待ってきたギターがあんまり長い間弾いてなかったんで、接点部分が馬鹿になってて「ガリ」というノイズが出まくりということもありナーバスになってたり、曲も覚えないといけないしで、結構ヤツには忙しい練習だったんで、あんまり話せなかったのですが、後日ちょっといい話をきいたので、紹介しておきます。
それはヒロジが曲を覚えるために練習テープを「JAMAーおたく」キシ君に借りるべく、キシ君の職場にいったときの話です。ヤツがキシ君に語ったところによると、「イヤー、久しぶりにめちゃおもろかった。あんまりおもろかったんで、フェンダーのアンプを買ってきたで!ギターもメンテしたし、練習もしてるで!」 ・・・キシ君が、ヒロジの前パートであるベースをやってる事について聞いたところ、「いや。僕はギターで戻るんや。」ときっぱりいったそうです。
この「すぐアンプを買う」とか「練習してる」とかの衝動性が、どーもコバヤシやキシにはウケたらしい。僕は「おお、やる気やな!」としか思わんかったけどね。・・・まあ、とにかく、ライヴがたのしみです。
最近のJAMA−(1) 2000年 4月17日
やっぱびっくりするのは、ヤギューが曲を作ってくる事ですね。いままた新曲を2曲ほどやってますが、1曲はヤギューのやつ。で、僕が練習に行ったときにはもう、曲として出来てました。なんだか懐かしい感じのバラードなんですが、いいですよ。
あと、キシ君のJAMA−へののめりこみ。これは、ひどい。自分のPCを家に買って(なんとVAIOだ!)、ヴィデオを編集しながらその画像を写真にして数十枚部屋に飾ってるという。それだけではなく、CDを作ってしまったという。もう、絶句。参加してるバンドながら、
何でそこまでできるのかわからんぞ、おれには。
キシ君はJAMAのファンだったそうです。だから「入れへんか。」と僕が誘った瞬間から、生活が変わったそうです。それ以来、練習はやすみなし、曲の覚えはぴか一、のめりこみ度もダントツという日々が続いています。今度、5月2日にライヴをやるんですが、それもバンバン宣伝してます。
まあ、そんなこんなで、相変わらず週一回、南方君とこで練習はしてます。 ウルサイデー、音は。
VOL.1 1975-81 柳生ハウスの人々.-この原稿は柳生ママ<サキちゃん>に捧げます-
75年の冬。大学1年の僕は、高校のときのクラブの後輩、柳生の家に行った。そこでみんなで集まってオモロイことやるんでけーへん?と言うことだったので。これがすべての始まりでした。
そこで繰り広げられてた阿鼻叫喚の世界。ベッドの上がステージになり、深夜までマイクを通して絶叫するみんな。中にはほとんど酒すら飲んでない奴もいるのに、高校生特有のナチュラル・ハイ状態。しかも受験直前。聞いたら,こんなこと週に2・3回やってるという。特に後輩で主催者の柳生は、ほぼ毎晩こんな状態で、お父さんとお母さんも巻き込んでの全員での大騒ぎ。警察の尋問も何回か出るほどのバクハツ振りでした。しかも全員男子。「うおー!」といいながらそこで寝てしまう奴続出。ほんとに、こんな壮絶な、ルールのない、終わりのないライヴはもうないでしょう。僕は1発で気に入って、行ける時は柳生のうちに行くようになりました。
何しろ、何らかの形でウケないことには止めさせてくれないわけです。それは誰がやっても。楽器が上手いとかうたがうまいとかは5の次くらいで、それで勝負したいならよっぽど聴かせないとだめ。もちろん、僕のようなゲストにはやさしいんやけど、他の奴らはみんな基本的に友だちなんで、ボコボコに言われる。コバヤシや、湯川なんかは楽器がある程度弾けるから、余計にきついあたりをされるわけです。ヒガミで。これがオモロイ。「へ、ヨガ(コバヤシ)、ちょっと弾けるからってええかっこすんな!笑わしてみぃ!」とかやじられる。湯川なんかはクレバーやから、その辺グループサウンズの完全コピーという必殺技ですり抜けたけどね。楽器なんかデキンでも、なんかオモロイ技とかネタ持ってるやつはその場ではヒーローになって、アンコールが出るわけです。だから、アブナイネタも続出でした。そんな宴会ライヴって、人間関係できるやん?で、ここで、キンちゃんとかコバヤシとか柳生の「素」を僕は見たのでした。
その後、みんなは大学に進学し、それぞれの4年くらいを東京や大阪や京都で過ごします。でも、勿論休みになると柳生ハウスに集まってきて例の大騒ぎになるわけです。
で、みんなが大学も卒業する予定の81年の正月に、僕は弟と柳生ハウスにいったのです。キンちゃんはもう社会人になって就職してました。コバヤシは大学を卒業して、アメリカに行く為に一時的に帰ってきてました。柳生も教師になる前のテンポラリな仕事をやってました。ヒロジ(オトウト)は実家の商売をやってました。それとマツイ君がいました。みんなで話して盛り上がってきて、「そうやバンドやろうぜバンド!」となったのです。僕はそのとき京都に住んでて無理やから「やれー、やれー」と煽ってました。そうして出来たのが「ザ・メッティー・チャイルド」という、ゴキゲンなバンドです。
なにしろ、この時点でマツイ君はベースを弾いたことがない。キンちゃんはバンドのヴォーカルははじめてで、音楽をあんまり知らんという成り立ちなのに、結成一週間でTVに
でたんちゃうかな。それも、司会が諸口アキラさんという、バンドマン出身の番組にでて、彼に激賞されます。どんな音かというと、ブルーズやR&Bをやりたいけどヘタで出来ないから、ヴォーカルのキャラと曲のバクハツ性で勝負するというか…。わかるかなこれで?はっきり言って「ウケねらい」ですわ。でも、コバヤシや柳生、ヒロジはプレイしてたから随所に黒いニュアンスはあるという。…僕もこのバンドは、イッパツで気に入りました。このときに、「ボーカルって、音楽知らんでもかっこええんやなー!」ってマジ思った。
誤解しないように言うけど、キンちゃんのカッコよさは、自分の歌いたいことを全身で歌う事と、歌詞の視点が日常生活にしかないことからのリアルさ。例えばこの当時のオリジナルのタイトルは「そんな江本の独り言」「藤田」(阪神の選手です)「ばあちゃんON MY MIND」。どうです?ちょっと聞きたいでしょ?
とにかく、この初期メッティー・チャイルドは、玄人受けするバンドでした。というのは、長いこと音楽をプレイしている人は、その経験からドンドン不自由になっていって、始めたころの「ヘタでも思いっきりやる!」自由さやかっこ悪さを忘れていくんです。そこに自由で・めちゃくちゃで・でも正直なこのバンドの空気が入ると、その場の風通しがよくなるんですね。だから、スタレビや他のプロの人達からも「イイェー!」と声がかかる。アマチュアの最高のスタンスを、初めから持ったバンドでした。
それと、キンちゃんのバンド歴がないことが大ラッキーでした。普通ライヴ出るのは、ある程度練習して音が固まってからって思うやん?この人達は無謀にも結成1ヶ月でなんと週一回のそれも土曜日の2ステージ構成でのライヴを決めてきたのでした。これは、結果は大正解となります。僕が知る限り1年以上そのスケジュールをこなしたはずですが、観客動員も初めから毎回満員という状態で、見に行くたんびに知らない曲をやってました。お客さんも身内じゃない女の子たちまで巻き込んで、1年後には結構地元では有名なバンドになっていました。なんといってもキンちゃんのライヴ・パフォーマンス!それと、メンバー全員での曲作り。さらに、みんな若かったからしょっちゅう一緒にいるというチームワーク。これらが本当に魅力のある、普通の人まで巻き込むパワーをもったバンドになった要因だと思います。