現在の日本では、ほぼ100%近いの子どもたちが、何らかの形で学校で行われる教育を受けています。教育を論じる方々の多くは、自分が受けてきた学校教育のイメージを土台として論じられていて、それぞれ受けてきた教育が「同じ教育」であるかのように錯覚し、不毛な論議を戦わせているなと思うことがあります。このように書くと、学習指導要領や教科書が同じなら、受けてきた教育は同じと言っていいいはずであると思われたり、私が書いていることが単に教員の指導の違いによる教育の差について言っているのだろうと思われたりすることもあるでしょうが、ここでは両方とも違います。
「人は教育によって変化する」ということが無条件に信じられているようなところがありますが、まずはそこから疑ってみてください。つまり、教育は可能かどうかということです。これまで長い歴史の中で学校教育という営みが行われてきているのだから、学校教育にはある一定の効果があることは間違いないのでしょう。しかしその効果のほどは、他の方法で行った(行わなかった)ときとどれだけ違うのか。あるいは、同じ学習指導要領や教科書、担任の授業を受けていたとしても、それによって得られたことが同じであると言えるのか。もしかすると、同じ空間と時間を共有した思い出が残っているだけで、学習したはずの内容はほとんど残っていないのではないか。というようなことも考えられるのですから、とても心もとないところがあります。そんな心もとない、ノスタルジックな思い出をもとにした教育論議は、不毛なものになって当然です。お互いの中にある「思い出の学校像」や思い出をもとにした「理想の学校像」が違うからです。
一方で、教員の方も教育研究の方法が確立されている訳でなく、経験と勘に頼った指導や児童理解に終始している場合があり、ペーパーテストの結果や授業への反応から「わかった」子が多かったとか、よい授業だったと考えている場合が少なくありません。大切なことは、授業を通して子どもたちの中に何が構成されたかを把握することです。そして、それをもとに次の指導を計画し実践することです。「楽しい授業だった」とか「わかりやすかった」とかいう子どもたちの感想を求めるだけの授業展開では、単に「思い出作り」をしているだけで、本当に力がついたかどうかは疑わしいと思います。もちろん、教員の経験や勘が全く価値がないという訳ではありません。授業がうまく流れた、子どもたちが生き生きと取り組んだことばかりに目が奪われて、実は「わかっていない」「できていない」ところがあるということに目がいかなくなってしまうのがいけないのです。
授業の中では、たくさんの「わかった」と「わからない」が同時に存在します。それは、個々の子どもたちの間でもそうですが、1人の子どもの中でも「わかった」と「わからない」が同時に存在するのです。残念ながら、このことをはっきりと測定する方法は確立されていません。ですから、私たちはペーパーテストや子どもたちの反応から「こんなことがわかったのだろう」と推測することしかできないのです。そして同時に、「わかっていないことが存在する」ということを意識する必要があります。測定が不可能だから、二つの相反することが同時に存在して、両方のことを考え合わせて研究を進める必要があるのです。
教育を議論するときも同じことが言えると思います。例えば「よい先生」と言われる人が万人にとってよい先生なのか、逆に「ダメな先生」がすべての人にとってダメな先生なのか。そういう二元論的な視点での論議は、不毛なものになっていきます。どんなに優れた教育と言われる方法であっても、必ずダメなところがあります。学校に嫌な思い出があったり、我が子がかわいくて仕方がないと思ったりしてか、ヒステリックな学校批判をしている人がいますが、教育にはよいも悪いも同時に存在し、それは不可分であり避けられないものであるということを認識していただく必要があると思います。教育に「絶対」はないのです。
今の日本の学校教育は、些末なことを注視しすぎていて、教育全体のビジョンが描けていないと思います。重箱の隅をつつくような批判に対していちいちに過剰な反応をして、筋を通すべきところも全く通っていない、いわばパッチワークのような場当たり的な教育になってしまっていると思います。よい面も悪い面もすべて想定した上で、「こうしていく」という一本筋の通った方向性を示し、学校教育をマネジメントする必要があると考えています。これは、現場の仕事ではありません。もし、「現場でやるべき」と考えるなら、学校教育に関わる権限を大幅に学校現場へおろしていく必要があると考えています。
こうした学校教育の現実を直視せず、知ろうともしないで思い出の中の学校像をもとにした二元論的な視点での論議を続けているから、教育論議は不毛なのだと思います。
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