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万里の長城の東端をたずねて・
 
山海関--天下第一関、老竜頭
 

(2002年4月)


長城最東端---渤海湾に突き出す老竜頭
 八達嶺の万里の長城を見たとき、ふと思ったのは、この長城の果てであった。その時は、すぐ西の端、嘉峪関が頭に浮かんだ。この万里の長城が砂漠に消えていく姿を是非この目で見たいと思った。思いが叶って、その劇的な場面を目撃したとき、今度は東の端、この万里の長城が海から突如浮き上がってくる姿を見たいと思った。老竜頭である。

 4月、柳絮舞う北京から世界遺産の承徳・避暑山荘を経て、山海関にやってきた。

 山海関は周囲約4キロ、城壁の高さは14米、厚さ7米、4つの城門を有する城関で、創建は明朝洪武14年(1381年)である。明代長城の西端、嘉峪関も雄壮な関城であるが、その城壁は高さ11米、周囲700米であるから、こちらはそれに比べると小さな城といってもいい。

 明代の長城の東端、渤海に突き出た老竜頭が長城の東の起点になる。老竜頭から発した長城は、山海関を経て、すぐ角山に登る。よって山海関は「天下第一関」とも呼ばれている。海に突き出した老竜頭も、山海関から見る角山に竜の如く登る長城も、まるで一幅の絵のようである。それが多くの人を引きつけるのだろう。角山の麓にあり、海に連なっているところから山海関と呼ばれるようになった。

  

2002年4月13日 承徳から秦皇島へ

 朝3時に目がさめた。電灯がこうこうとしていた。昨夜ベッドに横になったら、そのまま寝込んでしまった。3時ではさすがに早すぎるので、眠らなくてもいいからとベッドに横になって目をつむっていた。4月の承徳の夜は冷える。前の晩はジャンパーまで着込んで寝たが、今夜は最初から寒いということはなかった。もちろん布団は二枚かけて寝た。

 7時、朝食用にパンか包子でも買おうと、とりあえずバスターミナルまで出かけた。バスの時刻を確かめようと時刻表を見ると、なんと秦皇島行きは 6:30 7:30 8:00 8:30 となっており、そのあとはどうやら 17:30 までないらしい。まさかそんなことってあるのだろうか。焦った。焦り巻くって、足早にホテルに戻り、荷物をパックしながらターミナルの売店で買ってきたパンをかじりコーヒーを飲んで、ようやく8時にホテルをチェックアウトした。やはり鉄則通り、バスターミナルの近くにホテルをとってよかった。

 8:15 切符を買う。改札口には発車10分前に検票(改札)と出ていたので、そのまま待合室のベンチに腰かけて待っていたら、若い男性が寄ってきて、秦皇島に行くのかと聞かれ、そうだというと、すぐバスに案内された。あの検票の表示は何だったのだろうか。それにしても最近の中国のバスは、客集めに熱心だ。ひとりでも多く乗せようと必死である。

 バスはほとんど定刻の 8:30 に発車した。乗客は6人ほど。しばらく走ってから、承徳西站に停車。ここでトイレに入った。ここはいわゆる典型的なニイハオトイレだった。溝が掘ってあるだけで、人はそれを跨いで座る。お隣との壁もドアもない。

 ここを出ると道の両脇にまんじゅう柳が植えられていて、新芽がきれいだった。バスの中でVCDを見せているが、今朝のは香港もので、英語のせりふが入るせいか、中国語のサブタイトルが出るので面白かった。「我接手」というサブタイトルが出たが、はっきりした意味はわからないが、想像するところどうやら「トイレに行く」といっていたようだった。「接」と「解」はいずれも「チエ」と読み、発音が同じだ ( ただし、四声は異なる )。「解手」は辞書に「トイレに行く」とある。

09:48 司馬台のようなそそりたった山波が見られる。このあたりは存在そのものが長城となる壁のような山々が連なっている。
09:55 興隆県界
10:05 中国では珍しいトンネルに入る。まったくの暗闇。対向車が怖い。しかも、この中の道の舗装が壊れていて車ががたがたする。
10:15 崖崩れで道がふさがれていて、少し迂回する。大量の岩石が崖から落下していた。
10:20 なんという県かわからないが、道路沿いに市がたっていて、人がたくさん群がっていた。
10:30 バスは山の中の道を走る。棚田が広がっている。水はどうしているのだろうか。天水だけで十分なのだろうか
11:00 ポプラ並木がつながっていて、みどりの葉がみずみずしい。

11:20 バス故障で修理ストップ
11:35 いきなり大きな火力発電所が現れる。石炭を積んだトラックが門前市をなしていた。ここはもう遷西県に入った。
11:40 白廟子という表示を通りすぎる。
11:45 遷西ターミナル。ここで茶蛋 ( 味付けのゆで卵 ) を4個買う。2元
12:40 再びバスが故障して15分ほどストップ。
13:00 唐山市 (1976年に大地震があり、多数の犠牲者を出した。)
13:18 またまたバスが故障して20分ほどストップ。故障の原因は先ほどと同じ。このあいだにさっき買った卵をひとつ食べる。今日の昼はこれだけだった。ここは遷安市

 あとから地図でトレースしようと、詳細にメモを取ったが、未だ適当な地図が入手できずにいる。

14:30 秦皇島市域に入る。しかし、この後バスは部落の中の細い道を走る始める。おい、おい、これは長距離バスではなかったのか。その後、広い道に出てしばらくするとなんと北戴河ではないか。ガイドブックではバスで秦皇島まで1時間となっている。結局、秦皇市中心部に入ったのは、かれこれ3時半になっていた。承徳から7時間かかったことになる。

 秦皇市街に入ると、車掌さんが親切にいろいろホテルのことを心配してくれて、あちこち携帯電話してくれたが、みんな高いといって断った。自分の希望は一泊100元以下といったが、そんなところは安全でないからと、まだまだバスを走らせて、あちこち寄っては中に入り聞いてみてくれた。結局、あまりにも悪いので妥協して、中煤大厦に決めた。このホテルは三星級なので、正直いっていいホテルだ。ビジネスで中国に来たときは、最低でもこの程度のホテルに泊まったものだ。冷蔵庫がついている。電話、テレビはもちろんだ。風呂場も清潔で行き届いている。スリッパもちゃんとしているし、石鹸その他も昨日のホテルとは大違いだ。しかし、一泊200元は痛い。( チェックアウトの時、フロントの服務員が、150元と口を滑らせた。もしかすると、バスの車掌に礼金を50元払ったのかも知れない。無料のサービスというのはないものと心得た。)

 

 部屋に荷物を解いてすぐ飛び出して、9路のバスで駅まで行った。もちろん、ただちに次の地点への移動初段を確保するためだ。秦皇島の駅はみすぼらしい。まずは全国鉄道時刻表と市内地図を買う。旅の必需品だ。中国元が残り少ない。駅前に銀行がない。少し先まで歩いて、工商銀行で聞いたところ、中国銀行が300米ほど先にあるからそこに行けといわれたので、急ぎ足に歩いた。17時で閉まってしまうと大変とあせった。持ち金が50元を切っている。旅行小切手を出したら、これはだめ、現金はないのかというので、奥の手のお腹の中にしまいこんでいた現金を出して2万円換えた。レートは613だった。日本円がさらに下がっていた。

 駅に戻る途中、鉄道大厦があったので、そこに寄り値段と部屋を見せて貰った。5割引で138元という。冷蔵庫はないが、そこそこだった。明日の切符が取れないときは、こちらに移ることも考えて、「明天来」といってホテルを出た。まっすぐ切符売り場に行って、大連までの寝台券を聞いてみたが、メイヨーだった。あさってはと聞いたら、まったく調べる気もなくメイヨーだった。ここでは一切取れないようだ。あきらめて、これでは無座の硬座券を買うしかないと腹を決めた。

 駅前の郵電賓館にも寄ってみた。ここはさらに安く120元だったが、ちょっと質が落ちるようだ。だが、120元は魅力だ。駅前広場で写真を撮ったあと、駅前で北京行きバスの呼び込みをしていた青年に大連はとたずねたら、20:30 に寝台バスがあるという。一度云南省の麗江から昆明まで寝台バスに乗ったことがある。これに懲りて、もう二度と乗るまいと思っていたが、背に腹は代えられない。取り合えず明日の夜これを見てから決めることにした。

 駅前通りの屋台でイカを焼いて売っていた。自分の中国のイメージは内陸部のそれであるが、ここは考えてみれば、港町だ。中国で焼きイカを食べる。ちょっと不思議な気がしたが、それを注文した。焼いたイカを肴に青島ビールを飲んだ。ビールは生ぬるかった。焼きイカの味はたれが少し辛かったが、まあまあだった。もっとも思ったほど感激しなかった。それにしてもビールとイカで4元(65円)とはその安さに驚く。イスに腰かけたら何とかいわれて、すぐどんぶりを持ってきた。どんぶりには黄色、白の豆大のものが入っていて、つゆには味がない。周りに座っている中国人は、ほとんどの人がこれを食べていたので、この土地のものなのだろう。何という食べ物か名前は分からない。かれらは一緒に出されるたれに、青ねぎをつけて一緒に食べていた。水で洗ったねぎを生で食べるのは心配だったので、試してみなかった。だからほんとの味は分からない。キムチもついていたので、これをつけ合わせて食べた。これは1元だった。お腹が膨らんだ。ふつうは屋台では食べないが、焼きイカに誘惑されて、つい立ち寄ってしまった。このあとお腹の調子は狂わなかったので、まずまずとしよう。

 今日はなんとしても家に連絡しなければと、フロントでネットカフェを聞いたが、近くにはないという。それでは 163 を試してみようとダイヤルしたが、繋がらない。フロントに話したら、電話をあけてくれ、部屋まで繋がるかどうかを見に来てくれた。繋がることは繋がったが、ログインができない。仕方がないので、22時過ぎに下に降りて行って、公衆電話で国際電話をかけようとしたら、壊れていてだめ。今夜も諦めるかと思ったところで、脇で心配して見ていたホテルの服務員が、別のところにある公衆電話に案内してくれた。これでようやく家に連絡が取れた。このホテルの服務員は、ことのほか親切であった。

 もうすでに眠くて仕方なかったが、明日のこともあり、いろいろ山海関の資料を読んだ。いわく秦皇島は、秦の始皇帝が東巡の折り、この地に滞在され、海の向こうに不老不死の仙薬を求めて、ここから人を派遣されたことからそう呼ばれるようになった。ここはもと独立した島であったが、のちに陸続きになったものである。この辺には50-100万年前にすでに人類が住みついていた。いまから3000年ほど前の商代に孤竹国という国があった。いまなお孤竹城、その他殷商遺址などが残っている。

 伝えられる処によると、秦始皇帝が中国統一後、東巡され、海に至ったとき、斉国人の欄駕という男が面会を求めた。
始皇帝が問うた。
「欄駕とやら、なんぞ」
斉国人は答えた。
「この地の海中に蓬莱、方丈、瀛洲という三つの仙山があります。これらの仙山は時に現れ、時に隠れてしまいますが、出現するときには、楼台亭[木射]がぼんやりと見え、鐘、鼓、笙、簫の音が、高くなったり低くなったりして聞こえて参ります。仙人たちがひょうひょうと雲にのって往来し、飲むのは甘露水、食べるのは長生き不老の薬です。大王さま、もし長生をお望みなら、人を派遣して、この長生不老の仙薬を探しに行かせませんか。」
 始皇帝はこれを聞き終わるや、半信半疑ではあったが、斉人を使わせて薬を探させることにした。
 数日後、斉人が帰ってきて、始皇帝に報告しました。「私めはまったくついてませんでした。仙山は現れるまえに、台風が来てわれわれは吹き戻されてしまいました。」

2002年4月14日 ついに長城東端へ

 昨夜はぐっすり眠れた。やはりよいホテルは落ち着く。5時に目がさめ、6時にお風呂に入りゆったりした。風呂から出ても、ベッドで休む余裕の気持ちがあった。コーヒー、パン、卵2個で朝食。熱いお湯が自分で沸かせるようになっている。このホテルは確かに三星級だ。服務員もみな親切で気を使ってくれる。ホテルを早く出て、一度戻ってからチェックアウトするか、ゆっくり出てすぐチェックアウトするか、少し迷ったが、結局後者にした。こういうホテルではゆっくりしたい。

 9:15 チェックアウト。荷物を預けて、バスで山海関に向かう。バスの乗り換えで少し手間取った。秦皇島から山海関までは10数キロだが、バスなら30分ほどかかる。

 10:30 山海関の南門に到着。例によって輪タクのおじさんが寄ってきて25元でどうだとかいって付きまとわれた。振り払って、北門までゆっくり城内を歩いた。輪タクに乗れば、要領よく回れるが、そうすると彼のペースにはまってしまうので、それが嫌だった。

 嘉峪関は壮大な関城だったが、これほどの城内は持っていない。それだけここが北京攻防の要衝だったことが分かる。南門から北門までゆっくり歩いて25分ほどかかった。横丁はほとんど胡同になっている。その中は表通りとは違って人もほとんどいず、物音ひとつない静けさだった。南門から城内に入ったところは、賑やかな商店街だったが、北門付近は人気もなく、まったく静かなものだった。

 山海関はよく亀の形をしているといわれる。城壁の周囲は約4キロであるが、正四角形ではない。南北と西の城壁は、ほぼ正四角形の三辺をなしているが、東の城壁は両端をやや肩のように突き上げ、城壁の真ん中あたりの東門に甕城(かめじょう。あるいは瓮城)があって、ここが亀の頭に見える。

 山海関の構造はこうなっている。

 まず、東門は鎮東門と呼ばれているが、ここは長城の外側に向いている。だから一番堅固に造られていて、敵が攻めてきたときに敵兵を閉じこめる瓮城を門外に持っている。東門の上には箭楼がある。ここが「天下第一関」と呼ばれるところだ。

 
城外から見た南門                                城内から見た北門

 西門、迎恩門は長城の内側向きになる。
 南門、望洋門はその名の通り海に向かっている。
 北門、威遠門は北彊をにらんでいる。

 長城は城関の東南の角から海に延びて老竜頭に至る。城関の西北から延びる長城は角山に登って、さらに西に延びていく。

 北門から城外に出て長城を見た。城関をはずれるとすぐ土の壁になってしまっている。補修されていないからだろう。長城の城壁の上を歩いてみた。ここから目前の角山の山頂まで連なっている。望遠レンズで覗くと、人が大勢歩いていた。角山は燕山山脈の一角であるが、この山脈を経て延々と遙か西の嘉峪関まで繋がっているのだ。その間に八達嶺、司馬台、金山嶺などがある。ここは海と山を結ぶ長城に造られた関だから、山海関というのだ、ということが実感される。

 
この城壁は西に伸びて向かいの角山を越え、陰山山脈を越え、一万華里はるかな嘉峪関に至る。 

 万里の長城は、その大半が、険しい山の上にある。岩を露出した険しい山は、馬も人も越えるのは困難である。馬と大軍を送り込むには、平地でなければ無理である。城壁を平地に築造しているところは、極西の砂漠の中を除いて、ここしかない。

 山海関の西の城壁は、すぐ燕山山脈に這い上がっているが、東の城壁は平地を伸びて、やがて渤海湾に落ちる。

 長城の北にあった夷狄は、しばしば長城を乗り越えて関内に侵入し、掠奪を繰り返したが、占領を目的とはしなかった。わずかな兵力を繰り出すのであればこれでよい。

 しかし、長城の南に展開する中華の領土を征服するには、数十万を超える兵力を擁した大軍を長城の南に送り込む必要がある。これだけの大軍を移動させるには、どうしても山海関をこじ開けなければならない。

 夷狄が幾世紀の長きにわたって、何度も試みたにもかかわらず、山海関は決して落ちることがなかった。大清国の太祖ヌルハチもヌルハチを継いだホンタイジも中原へ南下を図って山海関を攻めたが、敗退した。

 この難攻不落の山海関がついに破られた。1644年のことである。

 ここに一つの伝説がある。山海関が破られた裏に女性があったという。明史にあるが、その真偽は証明されていない。

 陳円円という、蘇州一の美妓が、北京にあった呉三桂という明の将軍に差し出された。美しいと思った。「女の黒目がちの双眸と、上品な物腰が気にいっていた。」 数日後、呉将軍は遼東の守備につくよう命ぜられ、女を北京に残して、山海関に赴任した。

 時は急を告げていた。明の都は李自成軍によって攻め立てられ、明の崇禎帝は紫禁城の北にある景山の山すそにあった槐の大木に縄をかけて縊死した。紫禁城は主を失った。明の呉将軍は、首都防衛の勅命を受け、急遽、都にはせ参じたが、途中で、都が落ちたのを聞いて、いそいで山海関に引き返して、ここに立てこもった。

 李自成は、呉将軍に李が西安に樹立した大順国新政府に加わるように慫慂したが、呉将軍は二府にまみえずとこれに応じようとはしなかった。李はならば呉を討って、山海関を手中に入れんとして、大軍を派遣した。

 北にドルゴン率いる清の大軍が、南に李の大軍が迫っており、呉は万時休すの状態となった。

 このとき、北京でかの陳円円が李軍の武将劉某に奪われたとの情報がもたらされた。劉憎し、李憎し、かくなるうえは、背後にある清のドルゴンに身を寄せ、一挙に北京になだれ込み、陳円円を取り戻そうと決心した。呉三桂は、北の清軍に内側から山海関の門を開いたのである。

 かくして、難攻不落を誇った山海関を難なく乗り越えたドルゴン率いる清の大軍は、いっきに北京に攻め込み、またたく間に北京を陥れた。 

 呉梅村という詩人が作った「円円曲」という詩がある。その一節にこうある。
 
 鼎湖当日棄人間,  鼎湖(ていこ) 当日 人間(じんかん)を棄つ,
 破敵收京下玉関,  敵を破り 京を収めんとして玉関を下る,
 慟哭六軍倶縞素,  慟哭 六軍(りくぐん) 倶(とも)に縞素(こうそ),
 衝冠一怒為紅顏。  冠を衝いて 一怒するは 紅顏の為なり。 

 かなり長い詩の冒頭の部分である。要旨はこうである。

 崇禎帝がその日この世を去った。 (呉三桂軍は)敵(李自成軍)を破って北京を取り戻すべく山海関を出て、攻撃に打って出た。
 皇帝の死を悼んだ皇帝(呉三桂)軍はみな白の喪服を着て慟哭した。
 (呉三桂は)激怒したが、これは紅顔(美女、愛妾陳円円)ためである。

 呉三桂は、この二句を嫌がって、呉梅村にお金を積んで削除してくれるように頼み込んだが、詩人に断られたと伝えられている。三桂は、自分の行動が、ひとり女性のためであったと後世に伝えられるのを本意としなかったようである。単なる愛情物語では済まされない。明朝の皇帝の仇討ちのためとはいえ、清朝に降伏してその重臣とされた彼の忠誠心の問題であったのである。 呉梅村の「円円曲」全文は、旅さきざきの詩-016 にある。ここをクリック

 北京に攻め上った呉三桂は、陳円円と再会する。井上裕美子著「紅顔」によれば、その模様はこうである。

 ”父らが暮らしていた屋敷は、火こそかけられなかったが、内部は荒れ放題に荒れていた。・・・もともと、勝手知った自宅だ。無造作に足を踏み入れた彼は、人の気配にぎくりとなった。
 「誰か」
 部屋の隅に置かれた榻(とう)から、ゆるやかに立ち上がった人影は、遠い火明かりにも映える華やかな色彩をまとっていた。女である。・・・・・・
 「お忘れでございましょうか」
 女は、消え入りそうな涙声で答えた。
 「円円でございます」・・・・・・
 女の声音は、不安に小刻みに震えていた。・・・黒目がちの両眼が、濡れたようにうるんでいた。”

 山海関を訪ねる前に、わたしは井上裕美子著「紅顔」と「海東青」という二冊の小説を読んだ。これらの小説は、山海関を開け、明から清に乗り換え、中国南部に一時君臨した呉三桂と、清の順治帝の摂政であったドルゴンの物語である。

 これらの二冊を読んで臨めば、山海関の関城と延々と続く長城を、さらに感慨深く眺められよう。

  12:30 第一関に戻った。まずは昼食をした。宮保鶏丁、ご飯、ビールで18元。注文に困ったときは、青椒肉糸、魚香肉絲、宮保肉丁のいずれかを注文するのが、わたしの流儀、いわゆる last resource である。正体はわかっているし、それに店による出来不出来にぶれがないからだ。ビールを注文したら、冷たいビールが出た。もっともビールの名前は秦雪氷ピージョウ、英語で ICE と書いてある。宮保鶏丁はピーナッツが香ばしくビールによく合うのでよく注文する。ただここの宮保はややピーナッツが多すぎたが、まあまあおいしかった。これはまったくはずすことが少ない。

 13:30 第一関の入場券を買おうとしていたら、男が寄ってきて32元も払わなくとも第一関は見られる、老竜頭に行くなら入場料42元払わなくても見られる、しかも42元払っても海岸に降りれないなどといってきた。胡散臭かったが、20元でいいというので、バタバタの三輪に乗ってみた。山海関から老竜頭までおよそ4キロであるから、大約こんなものだろう。

 最初に長城奇観園というところに連れて行かれた。まえに情報で読んでいた通り、いろいろ連れて回るようだ。ここはパスした。つぎに船で海から長城を見るというので、行ってみたが、150元というので30元ならいいが、150元は嫌だといったところ、30元出すなら船で行かずともこの車で連れて行くというので、20元ならいいがというと、20元でいいという。だが、ここで行き違いが生じた。彼は20元上乗せといっており、自分は最初の契約の20元ならいいと思ってOKを出した。

 

 14:15 海辺に車をとめて、しばらく万里の長城の東端を見た。海に突き出たその端は、それほど威厳のあるものではなかった。いうならば至極平凡な長城の一部と見えた。一向に厳しくも、雄々しくもない。人が勝手に想像を膨らましただけかもしれない。だが、奇観ではある。海に突き出したところで、さほどの効果があるとも思えない。しかし、間違いなく、ここが万里の長城の東端であることには違いない。彼はさかんにボートに乗らないかと誘った。何とかという島にいって、老竜頭を海から見て、60元だという。バックリベートがあるのかもしれない。断った。

 第一関に戻って、彼は京山賓館の前に連れて行って、ここで第一関が見えるから写真を撮れという。ここはすでに午前中に通りかかった。ここからでは頭の部分しか見えない。威厳も何もない。「天下第一関」の扁額は見えるが、基部が隠れて偉容がない。「不好」といったら、それでは入場料を払うかというので、もちろんといった。入場券を買って、彼に 20元を渡したらもう 20元出せという。約束は 20元ではなかったのかと突っぱねた。彼は 20元上乗せに同意したではないかと、大変な剣幕でつめ寄ってきた。一切かまわず入場すると、彼もついてきて離れない。いろいろ議論があったが、結局10元小費(心付け)としてやった。彼は納得しなかったが、何とか振り切った。人力車、三輪タクはトラブルになることが多い。 いつも最後になっていろいろ要求してくるのだ。

 
城内からみた天下第一関 ( 東門 )      東門の城外側には瓮城がありとくに堅固な防衛体制をとっている。

 山海関といえば、「天下第一関」。まず、この写真を見ないことはない。第一印象は、殺伐。第一関前の広場はがらんとしたコンクリート打ち。そして、城楼の基壇が大き過ぎるように見える。逆にいえば、城楼が大きく見えない。実際には城台の高さは12メートル、城楼の高さは13.2メートルで城楼の方が高い。が、そう見えない。つまりバランスが悪いのである。あるいはそれは高さから来る感覚より、むしろそれぞれがもつ幅かもしれない。だから、そう雄大には見えない。雄大だな、との印象を持った嘉峪関を調べてみた。城壁の高さは11メートル、城楼の高さは17メートルであった。そして嘉峪関の城楼に掲げた扁額には「天下第一雄関」とあった。ここの扁額は「天下第一関」である。

 城壁に寄り添って、周りの風景を眺めながら、持参したメモを読み、しばし目を閉じてみた。不思議な光景が瞼に浮かんだ。メモにはこうあった。

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 1932年3月1日、満州国が成立した。翌32年1月、山海関で日中両軍の衝突事件が起きた。軍部はこれを機会に熱河への武力侵攻に踏み切り、政府も熱河作戦の実施と国際連盟脱退とを閣議決定した。作戦は2月に開始され、3月に省都の承徳を占領したが、長城線に達すると、関東軍は長城を守備して士気盛んな中国軍に苦戦を強いられた。4月になって関東軍は態勢を立て直し、関内河北に侵入した。5月には北京から50kmの懐柔にまで進出した。5月末には停戦協定が結ばれた。中国軍は河北省東部から撤退し、おおむね長城の線に帰還することになった(塘沽停戦協定)この結果、河北省長城南部のかなりの地域が非武装地帯となった。(東部では寧河あたりまで)(出典:日本20世紀館 p365)

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 日本は戦前、遼東半島を租借地としたが、この租借地が山海関から東にあるところから、これを関東州と名付けた。関東軍の呼称はこれに由来するものである。

 第一関の城壁上を歩いて、東南の角楼まで行き、そこで降りて長城博物館を覗いた。ここは第一関の入場券に含まれている。長城が山の上に伸びているのは「角山」、一方に伸びているのは「老竜頭」までというのが、ここのパノラマ模型図で確認できた。

 17:00 33路のバスで秦皇島火車站に戻った。駅前広場に行ったら昨夜のお兄さんが来て、大連行きに乗るのかと聞くので行くといったら、いろいろいっていたが、結局、50元払って予約した。21時にここで待っていればいいのかと聞くと、ここではない。何とか、何とか、というので、分からないというとすぐタクシーで連れて行ってくれた。タクシー代5元は彼が払った。そこに20:30に来い、夕食はここで食べろというので、さようならしてホテルにタクシーで戻って、20時までホテルのロビーで休んだ。服務員がお茶を入れたりしてくれて気を使ってくれた。服務員の中に英語を話す女性もいて、いろいろ英語で話した。まだ、英語力は十分ではないが、一生懸命だった。真剣な姿がほほえましかった。

 20:00 大連行き寝台バスの乗車ポイントに指定された例のレストランに向かおうとしたが、店の名前を聞くのを忘れていた。地図を書いてタクシーの運転手に説明してくれないかとホテルの服務員に頼んだが、服務員も理解できないらしく、切符を買った人に電話できないかと聞く。それで念のため名刺を貰っていたのを思い出し、服務員に電話をして貰った。すぐ案内人がタクシーで来て、レストランに連れて行ってくれた。名刺を貰っていたのが正解だった。予約金を払うときに、若干不安があったので、名刺を貰ったのがよかった。レストランで青椒肉糸、ビール、チャーハンで夕食。18元 21時半にバスがやって来て、乗客と運転手がここで夕食をした。

 22:00出発。これで秦皇島からさようならした。短い滞在だった。ここに一泊したが、夜行で来て朝着けば、その夜、また夜行でここを離れることも可能だ。バスは一番後部の上のベッドで四人寝るようになっていた。となりが若いご婦人でちょっと緊張した。気になってよく眠れなかった。バスはおおむね舗装道路を走っていたようで、それほど揺れなかったが、時々バタンバタンとした。

中煤大厦(三星) 秦皇島民族路299 Tel:(0335)3858666 Fax:3858686  http://www.zhongmei-hotel.com  e-mail: zmqiantai@hotmail.com(フロント) 

双人間標準間(トイレ、バス、テレビ、電話、冷蔵庫、湯沸かし器付き)200元 部屋、トイレ共にスペース十分で、きわめて清潔である。服務員のサービスも良い。フロントは少し英語を話す。もっとも、予約をインターネットでするのなら、たとえば、http://www.24-hotelchina.com/lzx/hotel_detail.asp?hotel_ID=1086などを利用したほうが、割引価格で予約できる。

(参考)
郵電賓館 120元( 割引後 )駅前
鉄道賓館 138元( 表示価格の50% ) 駅前通り

承徳ー秦皇島 739次 長距離バス 08:31発 15:30着 64.50元 鉄道だと北京経由となり、最速でも8時間以上かかる。

秦皇島ー大連 長距離寝台バス 22:00発 06:00着 120元( 秦皇島火車站前の客引きの案内で乗車 ) 鉄道距離で約550キロ この区間で寝台列車はT225/228次 秦皇島ー大連 22:32--06:00(硬臥 165元 軟臥  254元)がある。

( 2004.09.10 )  ( 2006.10.25改)         

長城最西端「嘉峪関」を見る。            つぎ「大連・旅順」旅游記を読む。


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