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日本膨張悲劇の最初の飴・
大連といえば思いつくのはアカシア、しかし、4月半ばではまだ早かった。みずみずしい緑の葉で街を彩るはずのアカシアの木はまるで化石の森のよう。やはりこの街を訪れるのは5月から夏にかけてがいいようだ。
大連は東北の小上海、中国東北部の出入り口として繁栄している。唐代はじめ、大連は「三山浦」とよばれる小さな漁村に過ぎなかった。ここには上質な青泥があると伝えられ、人々はこの地を掘り起こし家を建てた。掘り続けた結果、やがてここは窪地になり、明清代以来、大連は「青泥窪」と呼ばれるようになった。十九世紀末、清朝政府は帝政ロシアに大連・旅順を租借する条約を結ぶ。大連・旅順が近代化するのはこれからである。ロシアはここを「ダーリニー」(達里尼)と呼んで、都市化を推進した。1905年、日本はこの街の名称を「大連」とした。ここは日本の大陸侵略の入り口として繁栄した。タイトルに付した「日本膨張悲劇の最初の飴」は高村光太郎の詩から取ったものである。
ここを訪れる日本人は、大連をたいへん好きになる。DNA がそうさせるのであろうか。
万里の長城の東端、老竜頭と山海関を見てから、山東半島に渡るため、ルート上、大連を通過しただけで、この街をとくに見たいとは思っていなかった。だが、ここを発つときは、この街が好きになっていた。
2002年4月15日 アカシアの街ー大連へ 前夜の22時に秦皇島を発った寝台バスは、深夜の道を突っ走った。朝の2時半にトイレストップがあった。ビールを飲んでいたせいかよく出た。寝台バスでは、トイレストップがいつでも気になっておちおち眠れないが、今夜は比較的によく寝られた。
早朝 6時半、バスはほぼ予定どおり大連に到着した。しかし、どのターミナルに到着したのか分からない。バスのステップを降りると、もうすでにタクシーの運転手が自分のトランク持っている。
「どこまで行くの」
「迎賓大厦」
タクシーはすぐ走り出したが、しばらく走ってから携帯で電話して番地などを聞いている。長江路541号だというので、引き返した。長江路は長かった。メーターは11.20だったので12元渡した。後でよく考えてみると長距離ターミナルから出て、それを引き返したのに過ぎないのではないか、そうすると大悪党だ。電話は演技だったのか。迎賓大厦は長途汽車站のほとんど隣で、あきれるほど近いのである。もともとバスターミナルに近いところがいいというので、迎賓大厦を選んだのだ。ホテルに入って、多人間はあるか、一床はいくらかとたずねると、50元という。これは高くなったなと思ったが、それも無理ないことと目をつぶった。タクシー運転手から「これが迎賓大厦です」といわれたときは、ぎくっとした。まさに倒産寸前で手当てもままならない感じである。玄関のドアさえよくあけられない。ほとんど廃屋だ。それでも一応は部屋を見てみようと、フロントに頼んだ。4階まで歩いて上がるのは大変だった。多くの部屋に差し押さえの紙が貼ってあった。
「おや、おやこの部屋も、この部屋も差し押さえか」
いくつか差し押さえられていない部屋があった。そのうちのひとつの部屋を見せて貰ったところ、部屋がふたつあり、それぞれにベッドがひとつ置いてある。部屋も広いし、浴槽つきで熱水も24時間出るというので、安全に若干の不安はあったが、ここに決めた。
旧時、客を殺して金品を奪う怪しげな旅籠(はたご)を中国語で「黒店」(ヘイディエン)といったが、あとで考えてみると、人気(ひとけ)のないこのホテルにひとりで泊まったのは、危険なことであった。
案内してきた服務員は「部屋を一人で使うか」と、包房をそれとなく勧めてきたが、「相部屋でいい」と50元前金で支払った。結局、相方は来なかったので、部屋は一人で使えた。すぐお風呂に入り、洗濯もした。長距離のしかも夜間の移動の後で、気分がほぐれた。
承徳でしなかった一日ゆっくりするのを、ここでしよう。長旅では時にこうした休息日が必要だ。
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大連港切符売り場 大連港待合所
9:30 体制を整えてから外出。まずは大連港に行って、烟台までの船の切符を手に入れる必要がある。ホテルを出てすぐのところにあるキオスクで市内地図を買った。しかし、自分がいまどこにいるのか見当がつかなかった。フロントに聞いた706路のバス停をようやく見つけ出し、そこに待っている人たちに聞いてみたが、706路のバスが埠頭に行くわけではないらしい。三八などというので、びっくりしたが、後でよく見ると、三八広場というのがある。この街には五五街とか七七街だとかが多い。もう面倒なのでタクシーにした。とにかく港に行って切符を手配しなければならない。11.20元だったが、50元札を出したら39元おつりをくれた。やはり、端数は切捨てらしい。切符売り場に行って見ると、豪華船というのが別の窓口にあったので、写真を見てそれにした。
1等 2人室 522 (260) [580]
2等 2人室 212 (160) [280]
3等 4人室A 150 (110) [180]
B 140 (100) [160]
大部屋 90
座席 48
(注)かっこ内の料金は普通船。日式一等という和室もあった。三等Aを買った。三等Bとの違いは、どうやら海が見える窓が付いてる、付いてないのようであった。一泊の宿賃を考えれば、安いものだ。
切符売り場の隣の旅行社で、大連旅順一日というのに日本人は参加できないのかと聞いたらだめだという。その隣に航空券売り場があったので、そこのインフォメーションで聞いたら、CITS(中国国際旅行社)の番号を教えてくれ、ここは日本部だから日本語で話せるからと親切に教えてくれた。電話してみると違っていた。「歩き方」の番号を回してみたら、ファックスの信号が戻ってきた。もう旅順は諦めた。往復100キロほどあるというし、それで203高地、水師営くらいしか見られないという。日本人は規制されているようだ。
地球儀のモニュメントが目印の友好広場と中山路
瀟洒な自然博物館
そこで観光複線に乗ってみた。801路は大連港から自然博物館まで、中山広場ー友好広場ー人民広場ーオリンピック広場(人民体育場)ー黒石礁ー自然博物館と、街の中心を通って走る。2元 街の様子とおもな見所はこれで何とかつかめた。街路樹のプラタナスはまだ枯れ木のままだ。街の木、アカシアはどこにあるのだろうか。自然博物館は海に面していた。もうお昼なので、このあたりにレストランでもあったらいいなと思うがない。若い男女が連れ立ってきているのが目立つ。そういえば、今日は日曜日だ。星海公園はガイドブックに載っている観光名所であるらしいので、そこに行こうとバス停に行くと、バスがちょうど発車してしまったところだった。ディスパッチャーに聞いたら、そこを入って行けばすぐ公園だというので歩いた。距離はずいぶんあったが、ここは歩いてよかった。もと日本人が住んでいたかどうかはわからないが、ちょっとした家が並んでいる静かな住宅街だった。1894年日清戦争(中国では甲午戦争と呼ぶ)が勃発し、大連は日本軍に占領された。その後、1897年にロシアがここを租借して、支配下に置いたが、日露戦争の勝利、その後のポーツマス条約の締結により、大連・旅順は再び日本の支配するところとなり、1904-1945年のほぼ40年間大連は日本の植民地であったのだ。
「そうか、半世紀前は大連は日本の街だったんだ」
そんなことなどを想いながら、この街をゆっくりと歩いた。その後の半世紀で、この街はどう変遷したのだろうか。与謝野晶子は、ここを訪ね、こう歌った( 昭和5年刊「満蒙遊記」)。
ふるさとの夢より若くなつかしき祭の朝のアカシヤの風
12:50 渤海湾に面した星海公園は、時期柄、まだ活気はなかった。これも与謝野晶子の作である。(同上)
星の身の変りはてたる岩と聞くそのあたりにもしら波の立つ
公園は、夏の観光シーズンを前に、あちこち補修をしている。入場料10元を払って中に入ることもないので、外からだけ眺めて、22路のダブルデッカーで街の中心地、盛り場の青泥窪橋に戻った(ここにはまだロシア時代の名が残っていた)。1元 途中、高尓基街はプラタナスのきれいな並木道だった。いまはぶざまに玉をぶら下げた枯れ木の並木に過ぎないが、時期がくれば見事な並木道に変身するに違いない。ある季節に美しい限りを尽くすということは、その時期をはずした場合の落胆は、落差が大きい。季節の果たす役割は大きい。
(注)星海公園はもと星ヶ浦公園と呼ばれた。青泥窪はもとダーリニーとロシア人が呼んでいたところで、日本人が大連と名づけたいわれの場所である。ちょっとしたショッピング街だが、横道には小さな食堂が軒を連ねている。冷面が食べたかったので、朝鮮系の店を探してみたが、分からないので適当な店に入ってみた。が、ここの冷面はおいしかった。面の腰もしっかりしていて歯ごたえがあった。キムチときゅうりが適当に入っていて、つゆもやや甘かったもののおいしかった。ビールと込みで5元だった。最初、情報検索にあったSincere百貨に入ったが、台湾小吃などがある食堂街の7階はちょうど補修中で、閉鎖されていた。
14:00 勝利広場まで出て、地下道街を歩いてみた。日曜日のせいか若い女性の姿が多い。人でいっぱいだった。おしゃれが好きな娘さんたちが多いようだ。大連はまたファッションの街とも呼ばれている。駅前広場に出てみると、残念ながら駅は現在補修中で、その全容は見られなかった。
とすると次の目当ては、中山広場の大連賓館である。中山路を歩いて下って友好広場を抜けると、すぐ中山広場だ。ここは日本人が広場と呼んでいて、日本による植民地時代に、いろいろな様式の先端的な建物を建てたところで、なかでももと大和ホテルと呼ばれていた大連賓館は名を知られている。
この広場を囲む建物は、こうだ。
対外貿易局←警察署
大連寶館←大和ホテル
中国人民銀行←朝鮮銀行
中国銀行←横浜正金銀行
中国工商銀行←大連市役所
大連賓館(旧大和ホテル)
中国銀行(旧横浜正金銀行) 中国工商銀行(旧大連市役所)
このほか、この広場以外の場所にも、日本の植民地時代の面影を残す建物がいくつか現存している。
図書館←西本願寺 バス 23路終点「解放街」
大連京劇団←東本願寺 バス 23路終点「解放街」の東
大連外語学院←大連神社 バス 23路終点「解放街」
大連市人民政府←関東州庁 人民広場そのむかし大和ホテルと呼ばれていた大連賓館に入ってみた。1905年にオープンされたとあるが、現存の建物は多分1920ー30年前後に建てられたものだろう。しかし、いま見るといかにも古ぼけていて、ここに泊まろうなどという気は起こらない。これでは商売にはならないだろう。あのライトが設計した帝国ホテルの旧館は、1922年完成だが、1967年に旧館は取り壊してしまった。帝国ホテル旧館には、一度だけ泊まったことがある。すべてにアメリカンスタイルで、ベッドも浴槽もとても大きかったことだけ記憶に残っている。取り壊された旧館のバーにはよく出かけた。部屋もバーもロビーも新館よりずっと雰囲気が良かった。いまは岐阜県にある明治村に移されて保存されている。旧大和ホテルのこの建物も歴史的な意味はあるだろうが、このまま残しておくのも酷であろう。
大和ホテルはいまはもう殆ど忘れ去られてしまったが、1931年の九・一八事件後、溥儀が日本人に保護され、長春に居を構えるまでの105日間、ここにかくまわれていた所でもある。長春出身の中国語の老師から、長春には日本の傀儡国家、満州国の皇帝となった溥儀が、長春(当時の新京)に都を定め、いまでは偽皇宮と呼ばれる小さな宮殿に1932年(満州国の建国)から終戦の1945年まで住んでいたということを聞いていなければ、このことは思い出さなかっただろう。
15:00-16:20 大連賓館脇からバスに乗って、大連外国語学院まで行って、インターネットカフェを探した。大学の近くには間違いなくネットカフェがあり、かつ、日本語の利用が可能な場合が多い。案の定、最初に入ったネットカフェでうまく日本語のメールが書き込めた。日本のウエブサイトにもいくつかアクセスした。料金は1時間3元だった。このカフェは満員盛況だったが、暗いのでメモが読めずに苦労した。もうひとつ苦労したのは、外国語学院までは長い坂を登らなければならないことだった。それで、外国語学院を見学することは、坂の途中で諦めた。
後はもうすることがないので、バスでホテルに帰ることにしたが、さてどのバスに乗ればいいのか、うろうろしてしまった。とりあえず中山広場まで歩いて、706路のバス停を探したが見つからない。では、とりあえず駅までバスに乗ればその先は何とかなりそうだと、それを探したが、このバス停のバスがどっちに向いて走っているのかが分からない。そばの男性に聞いたら、駅ならすぐだから歩いたらといわれた。歩けといわれたのは、これで2度目だ。駅までぶらぶら見物がてら歩いたら、たこ焼き屋さんにぶつかった。5(6?)個で4元と書いてあった。客が2人いた。中国人にとっては高価な買い物になると思われるが、結構、客がいるようだ。
駅に出て今度はホテル近くまで行くはずの411路のバス停を探したが、駅前広場のターミナルにはない。係員に聞いたらもう一ブロック行ったところから出ているという。そこまで歩いたが、ここまで来てしまえば、ホテルはもうすぐだろうと歩いたら結構歩き出があった。
ホテル付近で缶ビール2個(5元)、別の店で瓶ビール2.5元を買って部屋に戻った。このホテルには相変わらず他の客はいないようだ。人の出入りしている様子がまったくない。正面のガラスが一枚外されていてそこから出入りできるようになった。もう18時近くになっていた。
とにかくビールを飲んで一休みした。日記をつけたが、なかなか先に進まない。いったんたまってしまうとこれが大変なのだ。
20:00 夕食に何か食べてみるかと、外に出た。いったん外に出るとなると、部屋に戻るのに、また4階まで歩いて上らなければならないので、決心がいる。これが大変億劫なのである。すぐ隣がピザの店、その隣が韓国料理、向かいに小さな餃子屋、その先にも小さな食堂があったが、どれも食欲を誘わない。意を決して最初の餃子屋さんに入りかけたが、蝿が頭にぶつかったので、一歩入っただけで出てしまった。それではやむをえないとピザ屋さんに入ったが、ここの若い男性は日本語を話した。韓国系らしい。メニューを見ると45−65元とどれもこれも高い。こんなに高いのといったら、大きいピザですからとの答えだった。ピザにこんなに高い金も払いたくなかったので、ごめんねといって店を出てしまった。
20:30 風呂はもちろんシャワーも浴びずに、日記付けに精を出した。日記がたまりだしたので、精を出さないとどんどん雪だるま状態になりそうだが、疲れたのでもう寝る。22:30 昨晩はバスに乗りこんだのが、22時でそのまま寝ざるを得なかったが、このところ零時前に寝たことはなかった。
迎賓大厦 大連市西崗区長江路541号 双人間標準間(トイレ、浴槽、テレビ付き) 50元/床 ひとりで使用するときは100元/間 大連長途汽車站至近 ただし、ここに宿泊したとき、すでに廃屋状態であったので、いまでも生き延びているかどうかは保証できない。
2002年4月16日 日露戦争の爪痕ー旅順へ 昨夜はよく寝た。やや寒かったが眠りを妨げるほどでもなかった。5時頃蚊が攻めてきた。そういえば蚊取り線香のことは失念していた。
7時半になったので、開水を貰いに出たところ、ズボン下の男性が出てきた。やかんを下げてきて、水を入れていた。開水といったら、魔法瓶をよこせと、やかんと一緒に持って、別の部屋に向かった。しばらく廊下で待っていたら、熱いお湯を入れて魔法瓶を持ってきてくれた。ここには誰も泊まっていないのかと、昨夜は不安だったが、人がいたのだと思った。どうもホテルの経営に関係している人らしかった。
9時ホテルを出て、旅順に向かった。今朝、ガイドブックを読んでいたら、一日観光に参加しなくとも、自分でバスに乗って行き、先でタクシーをチャーターすればいいのではないかと思い始めて、その気になった。事前の情報では、いやに日本人には制限的な様子だったので、半ば諦めていた。観光バスには断られているし、ひとりで勝手に歩き回らない方がいいと、いわれてきた。事実、旅順が西側記者に公開されたのは、ようやく1996年5月のことで、その時には203高地は取材許可が下りていない。
( 2004年現在でも日本人にはアクセスの制限があるようなので、注意されたい。わたしは知らずに規制区域に入ってしまった。2006年6月、旅順口区の関係者が日本企業に対する説明会で、2006年中には同区の軍事施設周辺を除いて、全面開放する計画であると述べているので、年内にはいずれ全面開放されることになろう。)
旅順は軍港で、アクセスが制限されており、写真撮影なども注意した方がよいといわれていたこと、もうひとつは、1894年11月、日本軍によって中国人老若男女2万人が旅順で大虐殺されたといわれている歴史的な背景もあって、旅順行きはたいへんに緊張した。だが、やはり超有名な歴史的地域であるので、どうしても行ってみたかった。
それでフロントで聞いたら、隣のターミナルからバスが出ているから、行ってみろといわれ、行ってみるとそのバスがすぐ発車するところだった。8元 今日は朝からついている。
9時20分に大連を出て、旅順の汽車站に10時に着いた。すぐタクシーの運転手に囲まれた。ここと、ここを回って100元という。自分はここと、ここを回りたい。しかし、100元は高すぎる、と粘って80元でどうだというと、それで結構となりそのタクシーに乗った。確かにたくさん走った。それにバスでは回れるところでないので、80元も仕方ないことだと納得した。一人旅で一番金のかかるところである。
水師営会見所は、まったく質素なこじんまりとした建物だった。わずかこの古い家を一軒見せるだけで、40元も入場料を取るとは、日本人対象だからだろう。中国人がここに来るはずもない。事実、中国の旅行社の観光案内には、まったくリストされていない。粗末な民屋ひとつを見るのに、こんな高い入場料を取る観光スポットをどこでも見たことがない。日本人観光客が三人やってきた。日本語のガイドがついていた。そのほかは観光客もなく、ひっそりとしていた。
水師営会見所
露軍委員控室 日本軍委員控室
小さな長方形の粗末な平屋にはいってみると、なかは真ん中の通路で両側に仕切られて、建物の左側が露軍委員控室、右側が日本軍委員控室に使われたと書かれている。乃木将軍とステッセル将軍との会見は、露軍委員控室の方で行われた。室内には乃木とステッセルの旅順開城議定書がサインされたという長方形の机も置かれている。 しかし、その当時の建物は文化大革命で破壊されてしまい、現在の建物は1996年に当時の資料をもとに再現されたいわばレプリカであって、原物ではない。
なぜ、日本人はこうも水師営会見所を見たがるのだろうか。多分に日露戦争の勝利の象徴として見るためだろう。日本人がこの水師営を見るとき、ロシアとのはげしい戦いを勝ち取った勝利の眼であるが(水師営の会見を美化したこんな唱歌さえある。ここ)、避暑山荘のところでもそうであったように、中国人にとっては、あくまでも列強による強圧と、当時の自国の愚かな施政者に対する大いなる批判の対象として存在しているのだ。中国語の説明にはこうあった。「2つの帝国主義列強は中国の侵略が目的であり、旅順においても人民に多大な被害を与えた。我々は後世のためにこの遺跡を残す」 「日露戦争中、旅順人民は深い害を受けた。良田・家屋が破壊され、多数の百姓が家を失った。」 日本人の軽々しい行動は、中国人のはげしい憎悪を増幅しかねないだろう。
ただし、日本側には、こんな証言も残っている。
「余談ニナリマスガ旅順デ山路(山地の誤り)将軍ガ非戦闘員ヲモ捕ヘテ惨殺シタト云フコトガ当時新聞デ大分(だいぶ)八ヶ間敷(やかましく)ナッタコトガアリマシタガ是レハ旅順戦ノ初メ我ガ騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬(名は徳次)中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口(そうこう)カラ石ヲ入レ或ハ睾丸ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此(かく)ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪徐(せんじょ)セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨亦惨、旅順港内恰モ血河ノ感ヲ致シマシタ」(『明治二十七八年戦役余聞戦役夜話』第一師団司令部付き通訳官向野堅一)
水師営から203高地に回った。203高地には日本人、中国人がたくさん来ていた。ここはいま旅順国家森林公園203景区と呼ばれている。入場料30元 駐車場でタクシーを降りると、たちまち駕籠かきに囲まれた。100元だという。これほどの坂道で100元とはふざけている。これも日本人対象の料金だ。付きまとってうるさい。不要と大声で三回叫んでやった。ようやく退散して、ほっとした。
203高地は、1898年にロシアが構築した要塞。ここは旅順で一番高いところで、海抜は203メートルある。だから203高地と呼ばれた。ロシア軍がたてこもった難攻不落振りがよくわかる。1904年8月両軍が烈しく戦った。うそかまことか、ここはもと海抜206メートルあったが、激しい砲撃のために頂上は3メートルも吹き飛ばされ、海抜203メートルになってしまったというほとの激しい攻防であった。「鉄血山を覆うて、山形改む」乃木希典指揮下の日本軍は、155日にわたる激戦の後ここを占領した。両軍に多くの戦死者を出したが、とくに日本軍に多数の犠牲が出た。(大連の大和ホテルのオープンは1905年である。)
野戦、攻城、屍、山を作(な)す。
慚(は)づ、我、何の顔(かんばせ)あつて、父老を看(み)ん。
( 乃木希典「凱旋、感有り」)
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頂上に砲弾型の慰霊碑が建っている。乃木将軍が「爾霊山」(にれいさん)と名づけた。「爾」は「汝」、君の御霊に捧げるという意味と、二〇三を巧みにかけたものである。中国語で読んでも、爾霊山(Er-ling-shan)は203(Er-ling-san)に音が通じている。 乃木希典の次男保典もここで戦死した。その慰霊碑もあるが、そこまでは見に行かなかった。
爾霊山険なれども豈に攀(よ)ぢがたからんや 男子功名克艱を期す 鉄血山を覆て山形改む 万人斉しく仰ぐ爾霊山 乃木大将が詠んだ詩である。
漱石が文壇にデビューした「吾輩は猫である」は1905年1月「ホトトギス」に発表されている。その執筆は日露戦争とリアルタイムに進行した。このなかで「旅順が落ちたので市中はたいへんな景気ですよ」と日本国民の祝勝気分を表すと同時に、「ぼくの小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷した者の名前が列挙してあるのさ。その名前をいちいち読んだときにはなんだか世の中が味気なくなって、人間もつまらないという気が起こったよ」ともいわせている。
与謝野晶子は旅順攻略軍にある弟にあて、あの有名な反戦歌「君死にたまふことなかれ」を詠った。
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。(注)「旅さきざきの詩」に「君死に給ふことなかれ」の詩の全文を掲げてある。 一説にはこの戦いで日本軍は13万人を動員し、6万人の死傷者を出したという。以って銘すべしである。
のちにここを訪れた与謝野晶子の歌である。(昭和5年刊「満蒙遊記」より)
われも立ち士の列伝を説くも立つ旅順の山の二百三尺
晶子には白玉山を詠った歌もある。(同上)
円かなる白玉山の塔の廊月の如くに冷たかりけれ
白玉山は203高地からみると東南に当たり、湾の近くにあるが、ここには立派な表忠塔という慰霊塔があると聞いていた。これは東郷元帥と乃木大将が唱道して建立したもので、1909年に完成している。塔の高さはほぼ67メートルあるという立派なものであるらしい。ここからは湾と街の素晴らしい俯瞰が得られると言う。中国のある旅行社の案内では、旅順の名勝古跡、景勝点の一番にここをあげている。ここに行かなければ、旅順に行ったことにはならないと極言する人までいる。間違いなく大連・旅順の十大スポットのひとつである。行ってみたかったが、時間の関係で割愛せざるを得なかった。(ここには兵器陳列館もあり、1994年には愛国主義教育基地とされている。日本人には制限区域であるかも知れない。運転手には聞いていない。運転手は私を日本人として意識していなかったか、あるいは、故意に意識していなかっただろう。)
北原白秋の少国民詩集「満州地図」(昭和十七年刊)には、こんな歌もある。
白玉山、爾霊山
旅順を一目見たいなら
白玉山へ駈足で。
爾霊山を仰ぐには
馬をとどめて背伸びしな。
白玉山なら表忠塔、
爾霊山なら血汐雲。
山上には強い風が吹いていた。白玉山の表忠塔が望遠鏡で見えるかと期待していたが、埃が舞い上がっているせいか、遠くがはっきりと見えない。ここから山や海がよく見えるはずなのに、たくさん撮ったビデオ、写真もはっきりとしないだろう。
悲しくもこの世ならざるところより霧の寄せくる旅順口かな 晶子
旅順港をはっきりとこの目で見たいと思ったのは、子供の頃、よく聞かされた軍神広瀬中佐の「杉野はいずこ」の話である。これは戦争の美談である。こうして、日本の小国民の愛国心と闘争心をあおったのであった。( 「軍神・広瀬中佐」はここ)
出でましてかへります日のなしときく 乃木靜子
明治天皇御崩御の時、乃木希典とともに殉死した妻静子の歌である。希典が戦死することの覚悟を詠ったものであろうが、これほどの多くの戦死者を出したことについて、どれほど胸を痛めたことであろうか。明治の女、静子の面目躍如といった文章が残っている。
「閨中に入るときは必ず幾年の末までもはじめての如く恥しき面色を忘れ給うべからず・・・殿御用事にかかり給いなば、殿御の胸に顔をしかと差当て、しかと抱きつつ腰を余り動かし給うべからず。 また、如何に心地よく耐りかね候ときも、たわいなき事を言い、 又は自分より口を吸い或いは取り乱したる声など出し給うべからず」
乃木将軍夫人から姪への「母の訓」 の一節である。いま読むと微笑ましい気持になる。しかし、この「母の訓」は色事についてのみ書いたものではない。つぎの一節をかみしめて思い起こす。
「御家大事ともならむ時は能く其心を鎮めて殿御に従ひ奉り、武門の習ひにて討死ともあらん時は女々しき御挙動なく潔く殿御と共に御自害遊ばされ、末代の誉れを残し給ふべし。」
203高地を降りてから、蛇島自然博物館に行った。入りたくなかったが、折角来たのだからと、一見してみた。各種の蛇が展示されていた。15元 ここは見なくてもよかった。
12:10-12:40 旅順博物館は1917年に日本が建てた元関東都督府満蒙物産館である。しっかりした建物で、天井も高く、展示もなかなかのものであった。戦争にかかわる展示はなかった。もっとも分館には入っていない。商代青銅器(前16-11世紀)から始まり、各時代の美術工芸品が多数展示されていた。比較的に新しいのによくこれだけ集められたものである。トルファンで発掘されたミイラもも六体展示されており、毛髪がはっきりしているのが特徴である。(大谷探検隊の収集品の一部が流出したといわれている。旅順博物館と大谷探検隊はここ)
焼き物、細工物、書画、いいものがたくさんあった。書画室では近づくと照明が明るくなる上海博物館方式であった。新彊で発掘された泥塑像もあった。博物館の正面玄関にかかる扁額は、郭沫若が揮毫したものである(その扁額はトップの写真にある)。
日露監獄というところにも行ったが、4月2日から補修に入っていて、閉鎖されていた。正面の写真だけ撮って引き返した。外から見る監獄の建物は、なかなかがっしりとしていた。1900年代の始めにロシアが建て、日本が増築したものである。1909年、ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した朝鮮独立運動家、安重根はここで処刑された。
もうひとつの激戦地、東鶏冠山にも行ってみたいといった。北原白秋の歌が心に残っていた。かれは満鉄の招待を受けて、昭和4年3月末から40日ほど満蒙を訪ねており、その折りの歌を満蒙風物唱にまとめた。
寒月は谷を埋むる屍にまた冴えたらし或はうごくに (東鶏冠山)
が、運転手は同じようなものだからといって連れて行ってくれなかった。開放されていないか、あるいは、許可が必要なのかも知れない。
13:10 汽車站に戻った。80元払って運転手と別れた。切符売り場で大連というと、大連のどこだと聞き返された。さて長途汽車站だけに行くわけではないらしい。長途汽車站といってもわからない。インフォメーションに行って聞いてみろといわれ、行って聞いた。北岡橋行きに乗れ、いま発車するところだといわれ、大急ぎで切符を買いバスに乗りこんだ。バスはすぐ発車した。来るときも帰るときもバスは少しも待たずに済んだことになり、まことに幸運だった。
バスの中では、さすがに疲れて寝てしまった。終点まで行かずに、ホテル近くの長江路で降ろしてもらい、韓国料理店に入ってみたが、これといって食べたいものもないので、昨夜いったん入りかけた餃子屋さんに行って、水餃を食べた。入ったらいきなりシェンマジャオと聞かれ、まごついた。黒板を指していうので、ああそうか、と牛肉を頼んだ。一皿35個から22個まであった。もちろん、22個の一番小さい皿を頼んだ。5元 ビール2元 ほかの人はニラを頼んでいたようだった。牛肉は脂身の多いところを使っているようで、噛むとつゆが中から出てきた。おいしかったが、一種類では飽きる。だが、一人では致し方ない。
ホテルに戻ると15時だった。少し休んでからお風呂に入った。たいへん風が強い。窓ガラスが震えている。こんな日に船とは不安だ。第一、出航するのだろうか。行ってみるより仕方ない。だめならこのホテルに戻ればよい。日程は余裕がある。このホテルでなければならないという理由もないから港近くに宿をとってもいい。
不安に駆られながら、烟台行きの船に乗るべく、タクシーで大連港に向かった。
大連(長途汽車站)ー旅順(汽車站)(61km) 所要時間40分 8元
大連ー烟台 夜行船(豪華船) 20:00発 翌朝着 三等A 4人部屋(二段ベッド)テレビ、洗面台、ソファ付き 海が見える窓がある。220V60Hの電源あり。150元
(2004.10.01)
つぎの「烟台」旅游記を見る
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