top» 朝鮮史(Korea_history_1)

朝鮮史(Korea_history)

  1. 檀君朝鮮(檀君神話)
  2. 箕子朝鮮
  3. 衛氏朝鮮
  4. 原三国時代(BC108 - 4世紀中葉)
    弁韓・辰韓・馬韓・高句麗
  5. 三国時代(4世紀中葉 - 676年)
    百済・新羅・高句麗・伽耶
  6. 統一新羅 (676年-935年)- 初めての統一政権
  7. 渤海(698年-926年)- 高句麗の滅亡後、遺民らが建国した国家
  8. 後三国時代(892年 - 936年)
    新羅( - 935年)
    後高句麗(894年-918年)→高麗
    後百済 (892年-936年)
  9. 高麗(918~1392)
  10. 朝鮮王朝(李氏朝鮮)
  11. 大韓帝国 1897年-1910年(日本の保護国の時期 1905年-1910年)
  12. 日本統治時代(日帝強占期)
  13. 大韓民国臨時政府
  1. 檀君朝鮮(檀君神話『三国遺事』)
    桓因(ファンイン、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(ファンウン)が天下に興味を持ち人間界に興味を持った、
    そのため、桓因は桓雄に天符印を3つ与えた
    桓雄は太伯山(妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り、そこに神市という国を
    おこし、人間の地を360年余り治めた
    その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜
    (ニンニク)20個をあたえ、これを食べて100日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った
    虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ウンニョ)になった
    しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた
    これが檀君王倹(壇君とも記す)である
    檀君は、堯帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した
    以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、壇君は山に隠れて山の神になった、1908歳で亡くなったと云う

      

  1. 箕子朝鮮(BC4世紀頃~BC194)
    『史記』では、
    殷の滅亡後、周の武王は箕子を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じた
    朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条」を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたという
    「犯禁八条」:箕子が教えたとされる、楽浪郡朝鮮県の法的習俗である
    1. 人を殺したものは直ちに死を持って償う
    2. 人を傷つけたものは穀物で償う
    3. 物を盗んだものは、男ならばその家の奴に、女ならば稗とし、もし罪を贖いたければ一人につき50万(銭)である
    首都は王倹城(現在の平壌)
    秦が天下を統一すると、その勢力は遼東にまで及び、これを恐れた朝鮮王否は秦に服属した(BC214)
    その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという
    紀元前195年、燕王廬綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た
    衛満は準王の信任を得て辺境の守備を担当するも、翌年に逃亡民勢力を率いて王倹城を攻落し、王権を奪取して衛氏朝鮮を興した
    ここに40余世続く箕子朝鮮は滅びたとされる、追放された準王は南方の辰国に拠って韓王を称したという
    (濊 BC3C~BC220?)
    吉林省の東部から北朝鮮北西部(農安付近)、韓国江原道にかけて存在した古代の種族
    戦国時代、現在の吉林省長春市の辺りに穢(わい)の名が現れる
    秦時代、穢の名が消えて「夫餘」(ふよ)が代わって登場する
    漢末、句麗の支配下となる
    真番(中・南部)、臨屯(東海岸地域)
  2. 衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)
    『史記』によれば、
    前漢の高祖の時代、満(衛満)も燕から亡命し、千人余りの徒党と共に朝鮮に入った
    そこで、朝鮮の非漢人系住民や燕・斉の亡命者などを取り込み、王険城(平壌)を首都として王位に就いた
    その後は独立国家として振る舞い、朝鮮周辺に覇を唱えたが、孫の右渠の代に、漢の意のままにならないことが武帝の
    逆鱗に触れ、紀元前109年、紀元前108年に遠征が行われ、衛氏朝鮮は滅ぼされた
    その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が置かれ、漢の直轄地になったという
    この頃、辰国(慶尚道地域)が興る
    参考:(王険城(平壌)はBC8~7世紀頃より存在したそうである)

    

  1. 原三国時代(BC108~4世紀中葉)
    (楽浪郡 BC108~AC313)
    中国王朝の直接支配地域、郡治(郡役所所在地)は現在の平壌
    BC82:真番・臨屯二郡の廃止
    BC75:高句麗に攻撃され新賓永陵(遼寧省)に移動し、楽浪郡のみ残る
    AC313:高句麗に滅ぼされる
    (沃沮(夫租) BC200?~3世紀)
    蓋馬大山(蓋馬高原)の東から海浜までに及び、北に挹婁・夫餘と、南に濊貊と接し、その言語は高句麗とほとんど同じと記される
    前漢の玄菟郡の夫租県を中心としていた濊族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた扶余・高句麗・東穢とは同系のものとされている
    始め衛氏朝鮮に帰属していたが、漢の武帝の遠征により楽浪四郡が置かれた際に、沃沮城(夫租城)を玄菟郡の県にした
    そのときより沃沮(夫租の濊族)は玄菟郡の支配下に入り、
    後に玄菟郡の縮小に伴って夫租県が楽浪郡に転属すると、沃沮(夫租の濊族)は楽浪郡に帰属することとなった
    後、3世紀の頃には高句麗に臣従していた
    (夫餘 BC220?~AC494)
    古には、中国からの遺民であるとされる
    元々、玄菟郡に属し、漢末に公孫度が海東地域に勢力を張ると、遼東郡の支配下に入る
    3世紀末に鮮卑族の侵略をうけ、大きく衰退する
    AC494:高句麗に編入される
    (馬韓 BC2世紀末~4世紀中葉)
    のちの百済、西部に位置
    馬韓人は定住民であり、穀物を植え養蚕を行ない、集落に城郭は無く、50数国に別れていた
    言語は辰韓や弁韓とは異なっていた
    (弁韓)
    のちの任那、弁辰(弁辰狗邪国)も12国に別れており、言語は馬韓と異なり辰韓と類同していた
    今の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より西・南の地域である
    辰韓と弁韓とは洛東江を境にして分かれていた
    弁辰(弁辰狗邪国):のちの金官・大加耶・伴跛
    (州胡)
    現在の大韓民国の済州島の古名である
    『三国志』『後漢書』によれば、州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑のように髪を剃り、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い
    牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した
    州胡はこの後、朝鮮の三国時代に耽羅と名を変える
(帯方郡 204~313)
189後漢の末に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、朝鮮半島を侵食して、現在の平壌付近にあった
楽浪郡治を支配下に置いた
204その後を継いだ嫡子・康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡と
称し、土着勢力の韓・濊族を討って、朝鮮半島南半の統治体制を築く
314高句麗に滅ぼされる
(辰韓:秦韓)
のちの新羅、馬韓の東方に位置し、12国に別れていた。言語は馬韓と異なり弁韓と類同していた
今の慶尚北道・慶尚南道のうち、ほぼ洛東江より東・北の地域である
辰韓の12国は「辰王」に属していたが、辰王は馬韓人
BC69《赫居世居西干(1代林氏 BC69~04)》
辰韓(今の慶州一帯)には朝鮮(箕子朝鮮)の遺民が山合に住んでおり、新羅六部(楊山村・高墟村・
珍支村・大樹村・加利村・高耶村)のうち、楊山村から出生し、王となる
004《南解次次雄(04~24)》
014倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪
024《儒理尼師今(24~57)》
036楽浪の兵が北辺に攻め入り、朶山城が奪われた
037高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼし、楽浪の民5千人が新羅に流入
040楽浪から独立していた濊が、新羅の北辺に攻めてきたが、貊国が出兵して打ち負かしたので、貊国と好を通じる
042貊国、禽獣を献上
057《脱解尼師今(4代昔氏 57~80)》
百済の多婁王と蛙山城をめぐって度々戦争
073倭人が木出島に進入
077伽耶と戦って大勝
080《婆娑尼師今(80~112)》
094伽耶の侵入を撃退する(096)
101王都金城付近に月城を築き、居城を移す
102音汁伐国を討伐、悉直谷国・押督国も服属する
104悉直国を反乱したために討伐
105百済の己婁王が新羅に対して和睦を求めてくる
108南方の比只国・多伐国・草八国を併合する
112《祇摩尼師今(112~134)》
113百済の己婁王が使者を送ってきて盟友関係が出来る
121倭人が東部辺境(海岸地域)に侵入してきたが、123年3月には倭国と講和
125靺鞨が浸入してくるも百済の援軍をもとめ退ける
134《逸聖尼師今(134~154)》
137靺鞨の侵入を受ける
139靺鞨の侵入を受け長嶺が略奪
144農業振興と倹約令を発する
154《阿達羅尼師今(154~184)》
167百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜、のち和睦
170百済は再び新羅の国境付近に侵攻
173倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする[三国志の造作?]
184《伐休尼師今(184~196)》
185召文国を討伐
188百済が母山城に侵攻するが撃退
189狗壌で百済と戦って勝利
190百済が新羅の円山郷に侵攻する
193倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入
196《奈解尼師今(196~230)》
201伽耶が講和を求めてくる
209伽耶に浦上の八国が連合して攻めたとき、救援部隊を派遣
210干害
214百済が腰車城を攻めて城主を殺したたため、反撃し沙峴城を陥落
218百済軍が獐山を包囲するも敗走させる
222百済が牛頭州に侵入
224烽山の麓で百済軍と戦って、戦勝する
226干害
230《助賁尼師今(230~247)》
231甘文国を討伐してその地を新羅領内に郡として組み入れる
232倭人が首都金城に攻め入った時には倭人を壊滅
233倭人の兵船を焼き払って撃退
236骨伐国が民を連れて投降、郡として組み入れた
245高句麗の侵入を受け、馬頭柵まで退却
247《沾解尼師今(247~261)》
248高句麗に対して講和を行う
255百済の侵攻するも防御する
262《味鄒尼師今(13代金氏 262~284)》
266百済が烽山城を攻めるが敗走する
278百済が侵入してきて槐谷城を包囲したが、撃退した
283百済が攻め入り、槐谷城を包囲したが、防御する
284《儒礼尼師今(284~298)》
286百済が講和を求めて使者を送ってくる
287倭人が一礼部に来たり、集落に放火して周り、1千人を捕虜にして立ち去った
292倭兵が沙道城を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させた
294倭兵が長峯城を攻めたが、勝てなかった
297伊西国に攻められ首都金城を包囲されるが、竹葉軍の助力を得てこれを退却させる
298《基臨尼師今(298~310)》
300倭国と使者を交わし、楽浪・帯方の2国が帰服してくる
307国号を新羅に戻す
310《訖解尼師今(310~356)》
312倭国王に通婚のための急利の娘を嫁として送る
337国交を開くため百済に使者を送る
345倭国と国交断絶
346倭国が風島を襲撃してくるが倭軍を追撃して敗走させた
(高句麗:高句驪)
BC37?《東明聖王:朱蒙(BC37?~BC19?)》
扶余の金蛙王の庶子とされ、扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国
BC19《瑠璃明王(BC19~18)》
BC09鮮卑を討ち、属国とした
003都を国内城(輯安、現中国吉林省集安市)に移して尉那巌城を築城
013扶余が侵攻してきたが撃退する
014梁貊国を討滅させ、さらに兵をすすめて漢の玄菟郡の高句麗県を奪取
018《大武神王(18~44)》
022扶余へ侵攻して帯素王の首を取り、扶余の帯素王の従弟が族人1万余人を率いて投降
026蓋馬国を征伐、句茶国王が国ごと投降
028後漢の遼東太守が侵攻するも功ならず
032楽浪国へ侵攻して降伏させる
037楽浪国を滅ぼして支配下に収めた
044後漢の光武帝が海路出兵して討伐し、薩水以南が後漢の郡県とされた
《閔中王(44~48)》
045国内の東部で洪水
047蚕友部落の大加戴升ら一万余家が楽浪に行き、後漢に投降
048《慕本王(48~53)》
053《太祖大王(53~146)》
056東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海から薩水に及ぶ
072藻那国を討伐
074朱那国を討伐
118穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲う
121玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張
146遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺す
《次大王(146~165)》
165《新大王(165~179)》
168後漢の玄菟郡が侵攻してくる来ると降伏し、高句麗は玄菟郡に組み込まれる
172後漢が大軍で侵攻してくるが、持久戦で勝利する
179《故国川王(179~197)》
180後漢の遼東太守の攻撃を受けたが坐原でこれを撃退
197《山上王(197~227)》
217後漢の平州から夏瑤が千余家の人々を率いて投降
227《東川王(227~248)》
238魏の司馬懿が公孫淵を討つ際に兵を派遣して援助
245新羅の北辺を侵攻
246魏の毋丘倹に攻め入られ、国都である丸都城を陥落
247平壌城(集安地方の域名)を築いて遷都
248新羅側から使者を送って来たのを受けて新羅と和を結ぶ
《中川王(248~270)》
259魏が攻めてきたが、梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた
270《西川王(270~292)》
280粛慎が侵攻してきて辺境の住民を殺害したので、討伐
292《烽上王(292~300)》
293鮮卑の侵攻を受けるも打ち負かす
296鮮卑再び侵攻するも退却
300《美川王(300~331)》
302三万の軍隊を率いて玄菟郡に侵入し、捕虜八千人を得て平壌に移住させた
311遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る
313楽浪郡に侵入してこれを滅ぼす
314帯方郡を滅ぼす
315玄菟城を攻め、勝利する
320遼東に侵略を試み、慕容仁に撃ち破られる
330後趙のもとに朝貢

       

  1. 三国時代(4世紀中葉~676)
(高句麗)
331《故国原王(331~371)》
334鮮卑への備えとして平壌城を増築
335国の北部に新城を築く
339前燕の慕容皝に攻め入られて和睦を乞い、翌年より前燕に対して朝貢する
342丸都城(山城)を修復し、国内城(平城)を築城し、居所を平壌から移して鮮卑の侵攻に備えた
前燕の慕容皝は大挙して高句麗に攻め入り、故国原王は単身で東方に逃れる
343前燕の臣下となることを誓う
355前燕に高句麗が冊封とされる
3692万の軍隊を率いて百済を攻めたが、雉壌の地で大敗する
371百済の近肖古王が兵3万を率いて高句麗に攻め込み、流れ矢に当たり戦死
《小獣林王(371~384)》
小獣林王はひたすらに国力の回復に努めた
372前秦の苻堅から派遣された仏僧順道を受け入れる
太学をたてて儒教による教育を推し進める
373律令をはじめて頒布
375肖門寺を創建してこれを置き、後れて高句麗に入った仏僧阿道のためには伊弗蘭寺を創建した
377前秦へ朝貢
378契丹の侵略を受けて8部落を奪われる
384《故国壌王(384~392)》
教書を出して仏教信仰の拡大を後押しした
390百済の侵攻により、都押城(平壌市中和郡)を破られるなど、劣勢に陥いる
391《広開土王(好太王:391~412)》
392新羅と友好関係をむすぶ
百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させる
北方の契丹を征伐し、男女500人を捕らえ捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻す
393平壌に9寺を創建して、仏教を奨励
394水谷城を築く
395侵攻して来た百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した
396漢江を越えて進撃して百済の58城700村を攻略し、百済王に隷属することを誓わせる
397[倭が新羅の王都を攻める]
400歩騎五万を新羅に派遣して倭軍を撃破し、任那加羅(金官加羅・駕洛国)まで追撃する
後燕が侵攻してくると、遼東城(遼寧省遼陽地級市)を含めた遼河東岸地域を占領
404倭軍の水軍が帯方界に侵入するも、撃退
407百済を攻撃して6城を攻略する
410東扶余を屈服させる
413《長寿王(413~491)》
414首都の国内城(現在の中国吉林省集安市東郊)に父の事績を記した碑文(広開土王碑)を建造
427首都を国内城から平壌に移す
475百済の漢城(ソウル)を陥落させて蓋鹵王を殺害
492《文咨明王(492~519)》
494扶余王が妻子とともに降伏してくる
新羅と戦って薩水の原で犬牙城に追い詰めたが、百済の援軍のため断念する
495百済の雉壌城を包囲したが、新羅の援軍のため断念する
496新羅の牛山城を攻めたが勝てず、翌年にようやく攻め落とす
498平壌に金剛寺を創建
503百済に攻め入られ、水谷城を落とされる
507靺鞨と共同で百済の漢城(ソウル)を攻めようとしたが、百済軍に迎撃される
512百済に攻め入り、加弗城・円山城を陥落させ、男女一千人余りの捕虜を得た
519《安臧王(519~531)》
523百済に侵攻する
529再び百済に攻め入り五谷(黄海道瑞興郡)で大勝し、首級二千余をあげた
531《安原王(531~545)》
540百済が侵攻して来もこれを撃退する
545《陽原王(545~559)》
548濊の兵を用いて百済の独山城に侵攻するも、新羅の応援により退却
550百済に道薩城を陥落させられ、百済の金峴城を攻撃しているあいだに二城とも新羅に奪われる
551突厥の侵攻に防戦しているときに新羅に十城を奪われる
552長安城(平壌市)の造成を開始
559《平原王(559~590)》
586長安城(平壌市)に遷都
590《嬰陽王(590~618)》
598靺鞨の人々を率いて遼西に進入したが、隋の高句麗遠征(第一次遠征)を引き起こす
607東突厥に使者を派遣してため
612隋の第二次高句麗遠征(100万)では隋軍を壊滅させる
613第三次遠征でも隋軍を退ける
614第四次遠征でも隋軍を退け、隋の衰亡を早めさせるきっかけをつくる
百済からは石頭城で捕虜三千人、新羅からは捕虜八千人と牛鳴山城を得る
618《栄留王(618~642)》
622唐に対して、捕虜の交換を互いにおこなう
624唐から高句麗に道士が派遣され、王は国人とともに『老子』の講義を受ける
625唐に仏教・道教の学生僧を送る
630[唐、東突厥を一旦滅ぼす]
631扶余城から東南の渤海湾に至るおよそ千里の長城を築き、唐の侵略に備える
640[唐が高昌国を服属させる]
642《宝蔵王(642~668)》
644唐、高句麗に侵攻(647,648)
655唐、高句麗に侵攻(658,659,661~662)
668唐・新羅連合軍が高句麗を滅ぼす
669唐、安東都護府を設置
(百済)
346《近肖古王即位》
百済のもとは、馬韓の伯済国で漢江下流域(現、ソウルの江南地区)
369高句麗、百済を攻め雉壌の戦いで敗北する
371百済、高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王戦死
372東晋、百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守にする
384晋から百済に仏教伝来
392高句麗、百済北部を攻め、十余城を落とす
396高句麗、百済を撃ち、58城を奪い、百済王弟を人質とする
397百済、倭国と通好し、太子を人質とする
433百済、新羅と同盟(羅済同盟)
455高句麗、百済を撃ち、新羅が百済を救う
458百済余慶(蓋鹵王)、宋に使者を送り、臣下の叙授を求める
472百済王余慶、北魏に使者を送り、高句麗出兵を求める
475高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す
475百済文周王即位し、熊津(現・忠清南道公州市)に遷都
477百済兵官佐平解仇、文周王を殺し、三斤王を立てる
479《百済東城王即位》
490北魏、数十万騎百済を攻める(南斉書)
495高句麗、百済の雉壌城を攻め、新羅が百済を救援する
501《東城王暗殺され、武寧王即位》
503百済武寧王、倭国に遣使
523《百済聖王(聖明王)即位》
538百済聖王、泗沘(現・忠清南道扶余市)に遷都し、国号を南扶余と号す
554百済聖王、新羅の管山城を撃ち敗死。百済威徳王即位
562高句麗、百済の熊川城を攻撃
584高句麗、百済を攻撃し、新羅が百済を救援する
600《百済武王(600~641)即位》
616百済、新羅の母山城を攻撃
638百済、新羅の独山城を攻撃
641《百済義慈王(641~660)即位》
643百済、高句麗と同盟(麗済同盟)
655新羅、百済の刀比川城を攻撃
657百済、王の庶子41人を佐平の官に任命
660唐・新羅連合軍、百済を滅ぼす
663倭国の百済救援軍、白村江で唐軍に大敗
(伽耶)
伽耶諸国は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた
小国家郡
紀元前1世紀頃に初期形態の国家が形成
3世紀には南東部の金官国(慶尚南道金海市)を中心にした前期伽耶連盟(任那または金海)が成立
(金官国は狗邪国が前身である)
5世紀初めには金官国の勢力は衰え
5世紀後半には北部の大伽耶国(慶尚北道高霊郡)を中心にした後期伽耶連盟が形成
6世紀初めには新羅・百済ともわたりあって独自勢力を確立
562年に新羅に併合
[駕洛国(金官伽耶・金官加羅・任那加羅)]
現在の韓国の慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国である
[大伽耶(大駕洛)]
伴跛(慶尚北道高霊郡)が、一般的には大伽耶を指すものと考えられている
伴跛国が大伽耶となるのは、5世紀後半頃である
[阿羅伽耶:安羅(慶尚南道咸安郡)]
[古寧伽耶(慶尚北道尚州市咸昌)]
[星山伽耶(慶尚北道星州郡)]
[小伽耶(慶尚南道固城郡)]
[多羅(慶尚南道陜川郡)]
[卓淳(慶尚南道昌原市)]
[己汶(全羅北道南原市)]
[滞沙(慶尚南道河東郡)]など
442倭が大伽耶に侵攻するも、百済に救援を求め、これを排除する
479南朝の南斉に使者を送り、冊封をうける
524新羅の侵攻が始まる
562新羅により滅亡
(耽羅:耽牟羅:屯羅)
476百済の文周王に朝貢した
498百済の東城王に服属した
508南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた
660(百済滅亡)
661王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った
662新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった
665日本へ使者を送って来朝した
666王子の始如らを日本に派遣して朝貢した
667佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した
669王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した
日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した
673王子の久麻藝や都羅宇麻らを送って日本に朝貢した
(新羅)
356《奈勿尼師今(356~402)》
364倭の侵入に不意討ちをかけて敗走させる
393倭軍を大敗
377高句麗に随伴して前秦に初めて新羅が朝貢した
382前秦に新羅王楼寒の朝貢(新羅の前身が辰韓の斯盧国であることを前秦に述べた)
392高句麗から王族である実聖を人質として送ってくる
402《実聖尼師今(402~417)》
倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として送った
403百済からも侵入を受ける
405倭国に明活城に攻め入られが、退却しようとする倭軍を撃破
407倭国の侵入を受ける
412高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る
415倭軍と風島(未詳)で戦って、倭軍を退けた
417《訥祇麻立干(417~458)》
431倭人の侵入を受けて交戦(440)
444倭人の侵入を受けて、首都金城(慶州市)を10日余りも包囲される
450高句麗の辺境の首長が狩猟時に殺害し、長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが謝罪を行う
454高句麗が新羅北部辺境に侵入
455高句麗が百済に侵入した際には、救援兵を発した
458《慈悲麻立干(458~479)》
470三年山城を築き、以後朝鮮半島中央部への領域拡大が進む
475高句麗が百済に攻め入り援軍を送るも都漢城は陥落・蓋鹵王も殺害される
479《炤知麻立干(479~500)》
481高句麗・靺鞨が攻めてきたとき、百済・伽耶の援軍を得て追撃
484高句麗が侵入し、百済と協力して追撃
488居城を明活城(慶州市普門里)から月城に戻した
(月城:慶州盆地南よりの南川に沿った独立丘陵)
489高句麗が侵入し、狐山城を陥落
494薩水の河原戦いで百済の東城王が3千の兵とともに救援し、高句麗兵を退却させた
495高句麗が百済に攻め入りが、援軍し高句麗兵を壊滅
496高句麗が侵入して牛山城を攻められ、陥落
500長嶺鎮を倭軍に陥落
《智証麻立干(500~514)》
502殉葬を禁止
503斯羅・斯盧・新羅などと称していた国号を新羅に定める
514《法興王(514~540)》
(これまでは高句麗従属型外交であったが、自立型外交に変化してゆく)
517「兵部」を設置
520律令による官位制度を整える
521百済に伴われて梁に対して朝貢
522伽耶国王との通婚友好をはかる
528貴族層の反対を押し切って仏教の公認
532金官国を滅ぼし、準王族的に優遇した
534興輪寺の建立を開始し、仏教を広めること
540
《真興王(540~576)》
花朗集団の発足をみる
花朗集団:
花朗が率いる朗徒集団であり、貴族の子弟を複数の集団に分け互いに鍛錬しあうもので、その集団の中心人物を花朗と云う
その後、統一戦争においても華々しい活躍をみせる
541百済との同盟
高句麗領に入り、百済と共同して漢江流域に進出した第一歩の「丹陽赤城碑」を設置
548高句麗が百済に攻め込んだときには百済を助けた
549梁から使者、僧覚徳と仏舎利
550高句麗と百済との交戦の時には係争地である道薩城及び金峴城を奪い取った
551高句麗領に侵入し、竹嶺付近の10郡を奪った
高句麗から僧恵亮
553百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城を含む一帯を奪い、漢江流域に新州を設置
554百済・伽耶と連合して管山城に攻め入ったが、連合軍2万9千600を殲滅した
562伽耶(大伽耶)を滅ぼして吸収
564北斉に朝貢して翌年に冊封を受け、571年まで毎年朝貢
565陳から僧明観と仏典1700巻
568南朝の陳にも朝貢
574皇龍寺に丈六仏を鋳造して収め、新羅仏教の中心とす
576《真智王(576~579)即位》
中国に求法留学していた安弘法師が胡僧の摩羅を伴って帰国、百座講会と八関会とを催す
577百済の侵攻を受けるが、撃破する
578百済に対して閼也山城を割譲する
579《真平王(579~632)即位》
602百済との阿莫城での会戦では大勝する
603高句麗が北漢山城に侵入するも撃退する
608高句麗の侵入により牛鳴山城を陥落させられる
611隋に高句麗討伐を求める
612隋の高句麗遠征
百済とは椵岑城・母山城付近で激しく戦うが敗戦する
626高句麗と百済とが和解してともに新羅に当たる状況となる
629高句麗と娘臂城で戦い、勝利を得る
632《善徳女王(632~647)即位》
633西武国境地帯に百済の侵入
635唐から《柱国・楽浪郡公・新羅王》の爵号を継承する
636百済が独山城を襲撃しようとして潜んでいたところを、殲滅
638高句麗が七重城に攻め入が、撃退
640唐の国子監に数多く留学生を派遣
642百済に西部40余城・大耶城も陥落し、高句麗に援軍求めるが得られず
643善徳女王が唐に救援を求めたが、唐の皇族を新羅王に据えることを求めてきた
645唐から帰国した慈蔵法師の発願で皇龍寺の九重塔を創建
647女王の廃位を求めて内乱
《真徳女王(647~654)即位》
唐から真徳女王に対する<柱国・楽浪郡王>の冊封が行なわれる
648百済に侵攻されるが金庾信の活躍で撃退に成功
唐に百済討伐の援軍を願い出、了承を得る
649唐の衣冠礼服の制度をとりいれる
650唐の年号を用いるようにする
651唐制にならった大幅な官制改革を実施
652理方府(立法)を新設
654《武烈王(654~661)即位》
理法府格60余条を制定し、新羅における律令制度の基盤を整備
官位の低い貴族を能力本位で要職につけることで王権の強化にも努めた
655高句麗・靺鞨・百済の連合軍が攻め入って北部辺境の33城が奪われ、唐に救援を求めた
唐、高句麗を攻撃
659百済、侵攻してくる
660唐・新羅連合軍による百済滅亡
661唐・新羅連合軍による高句麗侵攻の途上で病死
《文武王(661~681)即位》
663[百済・倭国連合]と[唐・新羅連合]との[白村江の戦い]で、
倭国の水軍を壊滅させ、百済の再興の望みを断ち切る
666唐に対して高句麗討伐の出兵を求め、唐の高句麗への攻撃が開始
668新羅も唐軍に合流して平壌の長安城を攻め、高句麗を滅ぼす
670新羅、唐と争い、百済故地を収める(~676)
674高句麗王(安勝を報徳王として)、新羅に亡命してきたのを金馬渚に冊封した
676高僧の義湘に浮石寺を創建させる
唐、熊津都護府・安東都護府を撤収する

  1. 統一新羅(676年-935年)初めての統一政権
  2. 渤海(698~926)高句麗の滅亡後、遺民ら(高句麗人とこれに協力した靺鞨人)が建国した国家
(統一新羅)(渤海)
668唐により高句麗滅亡、平壌に安東都護府を設置
高句麗遺民は満洲の営州(遼寧省朝陽)に強制連行される
671唐・新羅戦争始まる
676新羅が朝鮮半島を統一(首都は慶州)
681《神文王(681~692)即位》
682礼部の配下に国学を創立
684安勝の一族の反乱、報徳国を滅ぼす(統一の完了)
686高句麗、滅亡
687祖廟を祭る五廟の制度を整備し、儒教理念の明確化、郡県制の確立
689租米による俸禄制を始める
692《孝昭王(692~702)即位》
697契丹・李尽忠の乱
靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走
唐、契丹族の反乱により安東都護府を廃して、都護府とする
698日本国からきた使者を崇礼殿で引見大祚栄、震国の建国(吉林省敦化付近:東牟山)
699唐への朝貢を再開
702《聖徳王(702~737)即位》
704『最勝王経』
705大門芸が唐に入侍
唐による侍御史を震国に派遣
安東都督府復活
705~706大飢饉
713唐、大祚栄に渤海郡王に冊封
717「十哲七十二弟子図」などがもたらされる
医博士・算博士を創設
719大祚栄卒し、大武芸即位
周辺の靺鞨諸部族を編入する
721渤海への対策として北辺の国境地帯に長城を築く新羅による東北国境での長城建設
722毛伐郡城を築いて日本の賊の侵入を防ぐ黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使
725唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される
726大武芸の弟・大門芸、唐に亡命
727渤海、高仁義らを日本に派遣
蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京
728日本、送渤海使を派遣
731日本の戦船300艘が東部海岸に攻め寄せて辺境を襲ったがこれを撃破
732渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領
733渤海が山東半島に攻め込んだとき、唐の要請により渤海南部を攻めたが、失敗退却する唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗
735新羅、唐より大同江以南の領有を認められる
737《孝成王(737~742)即位》
738唐から『道徳経』を下賜大武芸卒、大欽茂即位
唐との関係を修復する
739遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国
742《景徳王(742~765)即位》
743玄宗自らが注釈をつけた『孝経』を下賜
746渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着
749この頃、旧国より中京顕徳府(吉林省和龍県西古城)に遷都
751仏国寺・石窟庵、築造開始
755この頃、中京顕徳府から上京龍泉府(黒龍江省寧安県東京城)に遷都
757全国各地の地名を唐風に改称
官僚制度も行き詰まりとその矛盾により、官僚への俸給制度を廃止して禄邑制度を復活
759中央官庁とそれに属する官職名についても唐風のものへの改称
762六城を築いて渤海への備えとした唐により大欽茂を渤海国王に冊封
765《恵恭王(765~780)即位》
この頃より新羅国の動揺・衰退がはじまる
768律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立(~780)
774大興から宝暦に改元
777日本の舞女11人を唐に献上
779渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う
780恵恭王、殺害される
《宣徳王(780~785)即位》
785宣徳王、病にて没す
《元聖王(785~798)即位》
上京龍泉府から東京龍原府(吉林省琿春県八連城)に遷都
788官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定める
国の西部で盗賊が現われる
790新羅、伯魚を渤海に派遣
793大欽茂卒
弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位
都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す
中央集権的な官僚制度を整備
794奉恩寺を建て、王宮の西には望恩楼を築く
798唐により大嵩璘を渤海国王に冊封
799《昭聖王(799~800)即位》
800《哀荘王(800~809)即位》
801耽羅国(済州島)からの朝貢
802伽耶山に海印寺を創建
803日本とも国交が再開
804日本から黄金三百両が進上された
805律令体制の没落が始まる
806日本からの使者を朝元殿で引見した
808日本国の使者を厚くもてなした
809摂政の反乱で、哀荘王は王弟とともに殺害される
《憲徳王(809~826)即位》
唐により大元瑜を渤海国王に冊封
810唐に王子金憲章、金銀製の仏像などを献上日本からの最後の第15次遣渤海使
812渤海へ使者を派遣して動向をうかがう新羅が崇正を派遣
813唐により大言義を渤海国王に冊封
816飢饉のため、唐の浙江省東部(170人)・日本へ(200人)の難民発生する
818唐により大仁秀を渤海国王に冊封
819唐の鄆州で反乱が起こると3万の兵を派遣する
各地の賊徒がいっせいに蜂起、鎮圧
821王文矩を日本に派遣
822都督職を歴任した金憲昌が反乱、鎮圧
825金憲昌の子の金梵文が反乱、鎮圧
826大同江沿いにに300里の長城を築いて、渤海の南下の備えとした
《興徳王(826~836)即位》
新羅、渤海との国境に長城を築く
827旧高句麗系の僧丘徳が経典を持ち帰る
828金大廉が持ち帰った茶の種子を地理山に植える
830大仁秀卒、大彜震が即位
咸和と改元
832春夏の旱魃、7月の大雨で凶作
833凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣
唐により張建章の渤海遣使
834奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化「頭品制度」
836《僖康王(836~838)即位》
838金明・利弘らが軍を起こして王の側近の貴族を殺害する反乱、僖康王自殺
《閔哀王(838~839)即位》
839張保皐のもとに集結した祐徴らの一派、祐徴派の金陽軍により閔哀王殺害される
《神武王(839)即位》病に倒れ没する
《文聖王(839~857)即位》
840新羅からの人質や学生あわせて105名の帰国
846張保皐(弓福)の乱起こる
853張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す
857《憲安王(857~861)即位》
858晩霜、干害
859穀物が高騰し、国民が餓える
860憲安王、病にて没す李居正を日本に派遣
861《景文王(861~875)即位》
864日本からも国使を迎える
867王都金城で疫病が流行り、洪水が起こる
869唐に王子の金胤らを派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なう
870王都が地震・洪水、冬には疫病が流行る
873飢餓と疫病が起こる
875《憲康王(875~886)即位》
876皇龍寺で百高座を設けて講義・討論を行なう
878日本からの使者を朝元殿で引見する
882日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する
886《定康王(886~887)即位》
887定康王、病死
《真聖女王(887~897)即位》
国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる
906宰相の烏炤度を唐に遣使
その子の光賛、賓貢に及第
911大光賛を後梁に派遣
918遼に使節を派遣
919最後の渤海使を日本に派遣
924渤海軍、契丹軍(遼国)占領中の遼東に反攻
925契丹軍(遼国)、渤海の扶余府に侵攻
礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず
926契丹軍(遼国)、上京龍泉府を攻略
渤海滅亡、高麗に渤海遺民が多数ながれる
契丹、渤海故地に東丹国設置
928東丹国、遼陽に遷都
929東丹国使、来日
930日本との通交が絶える
以降、東丹国が史料から消滅

  1. 後三国時代(892~936)
新羅( ~935)
887《真聖女王(887~897)即位》
国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる
897《孝恭王(897~912)即位:酒色におぼれる》
大規模な内乱(後三国時代)に突入しており、後百済の甄萱や後高句麗の弓裔などの勢力が急激に領土を侵食していた
(赤袴賊と呼ばれる集団による反乱をみる)
912《神徳王(912~917)即位》
後高句麗の弓裔、後百済の甄萱などの勢力に浸食されるだけ
917《景明王(917~924)即位》
920景明王は王建と好みを通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった
後高句麗(894~918)
902弓裔が後高句麗を興す
904弓裔が国号を摩震とする(911:泰封と改名)
後百済(892~936)
892甄萱が完山に後百済を興す

  1. 高麗(918~1392)
918後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗(首都:開城)を建国する
922高麗、契丹と国交を結ぶ
923高麗、此の頃後梁に入朝する
933後唐の冊封を受ける
935新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、ここに新羅滅亡す
936後百済を滅ぼし朝鮮半島統一
940州府郡県の名号を改める
945王位をめぐり、王規の乱おこる
958文班と武班による両班制度・科挙制度の導入
976
田柴科制度(両班・胥吏・軍人に国家から耕作地と燃料採取地を支給)の創設
この時代の特徴:
上級官僚の貴族化
地方豪族の台頭化
北界(契丹・金など)の軍事体制として、屯田兵の設置
仏教寺院の勢力が強大になり、僧兵の出現をみる
983地方行政機構の整備
993契丹軍、鴨緑江を越えて高麗を侵攻
995州県制を施行する
1009《顕宗の即位》
1010契丹の侵入を撃退(~1011)
1014武臣が乱をおこす
1018地方官制が改められ、郡県制の確立
契丹の再侵入
姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)
1033高麗の長城の建設開始
1076管制、田柴科制改められ、中央管制が確立
1095李資義の乱
1106監務の地方派遣はじまる
1107尹瓘、長城を越えて女真を攻める
1115(女真族の阿骨打による金国の成立)
1126李資謙の乱、金に服属
1135妙清の乱(~1136)、李氏の没落
1145三国史記編纂される
1170庚寅の乱(武人政権の成立、以後武人政権が続く)
1172民衆反乱(~1202)
1174以降、武人政権内での、私兵の組織化が本格化する
1196崔忠献によるクーデター、崔氏政権の始まり
1232モンゴル帝国の侵略始まる、首都を江華島に遷す
1259モンゴル帝国(元)に屈し、属国化(皇帝の娘婿の国になる)
1270開城に復都する(武人の執権の終わり)
武人派の軍隊三別抄の反乱(~1273)
1274元の2度(1281)の日本侵攻(元寇)への協力と出兵により甚大な被害をこうむる
1350この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」~15世紀前半)
1351恭愍王即位(~1374年)
1354共愍王による反元運動が始まる
1356元軍が高麗から撤退(双城摠管府を回復)
1359紅巾軍侵入する(1362)
1365辛盹による改革政治(~1371)
1374恭愍王が暗殺される。禑王が即位(~1388)
1388親明派の武将李成桂がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)
1391科田法の制定
1392鄭夢周が暗殺される

次頁に   前に戻る