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忠臣三輪高市麻呂の諌言

人麻呂水死刑説を唱えた『水底の歌』は、非常に評判になった。当時古代史に何の関心もな
かった私も、その本を熱中して読んだ記憶がある。梅原説は、人々を定説の束縛から解放し、
人麻呂観は多彩になった。さきに紹介した、井沢元彦氏の『猿丸幻視行』も、梅原説の申し子
である。

だが、『猿丸幻視行』のおかげで字母歌の暗号を発見した私には、梅原説の欠陥が目に付く
ようになった。

『日本書紀』の天武一○年(六八一)一二月二九日の項に、小錦下(従五位下相当)を授か
った一○人の一人として、柿本臣サルという名がある。『続日本紀』の和銅元年(七○八)四月
二○日の項に、「従四位下柿本朝臣佐留す」とあるのは、このサルと同一人物であろう。

梅原氏は、柿本朝臣という氏姓にこだわり、具体的な活躍が何一つとして知られていないこ
サル(佐留)を、罪を得て名をおとしめられた人麻呂の別名だと論じている。しかし、それで
は、たとえ人麻呂とサルが同一人物であったとしても、正史は人麻呂について何も語らない。
「柿本サル」という名は、正史から人麻呂の本名を探しだしてみようという気を起こさせるため
の、囮の暗号ではあるまいか。

そこで、私は、姓名には一切とらわれないで、水死刑に処せられた人麻呂にふさわしい人物
が「持統紀」に登場していないかどうか調べてみた。すると、持統六年(六九二)の項に、
つぎの記事があった。

二月の丁酉の朔丁未(十一日)に、諸官に詔して、
「三月三日に伊勢に行幸しようと思うので、そのつもりで衣類を準備するように」
と言われた。乙卯(十九日)に、中納言直大弐三輪朝臣高市麻呂が上表して直言し、天皇
が伊勢に行幸され、人々の農耕の時節を妨げることについて諌め申し上げた。

三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、浄広肆広瀬王・直広参当摩真人≪智徳≫・直広肆紀
朝臣弓張らを留守官(天皇の行幸にさいし皇居に留まって守衛する官)とした。このとき
中納言大三輪朝臣高市麻呂は冠位(位冠)を脱いで朝廷にささげ、
「農作の時節に行幸なさるべきではありません」
と重ねて諌め申し上げた。辛未(六日)に、天皇はこの諌めに従われず、ついに伊勢にお
でましになった。

(『日本書紀』中央公論社)

人麻呂が律令体制に反対する大物として処刑されたのであれば、この男にちがいない、と私
は直観した。

農民のためを思い、中納言の地位を賭けて伊勢行幸を中止するよう諌言した三輪高市麻呂
は、庶民に人気があったのであろうか。説話集=『日本霊異記』と『今昔物語』とに、この事件
のことが載っている。それらの説話は、旱の年に、自分の田の水の取り入れ口をふさいで農民
の田へ水をまわした、三輪高市麻呂の田にだけ竜神が雨を降らせたという奇怪な伝説をつけ加
えている。これは、伝説の形を借りて、庶民の立場から、高市麻呂の諌言を高く評価したもので
はなかろうか。


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