現存する最古の「いろは」は、1079年(承暦3)に成立した『金光明最勝王経音義』
(音義=発音や文字の意味について説明を加えたもののこと)に、音を表す文字の表、すな
わち字母表として、表1のように、7x7個のマス目に記されている。このように、学問的な
世界で用いられていた「いろは」が、鎌倉時代以後、仮名の手習(習字)の手本に使われるよ
うになり、しだいに一般庶民にもなじみ深いのものになった。
そして、江戸時代になると、谷川士清(1709〜1776)の『和訓栞』の大綱のように、
7段書きした「いろは」の沓に相当する7字「とかなくてしす」(図1の太字)が、
「咎(罪)なくて死す」と読めるのは、意図的なものだという説が現れる。
また、竹田出雲(2世)作の『仮名手本忠臣蔵』(初演1748年)という人形浄瑠璃の題名は、
「仮名手本」=「いろは」47文字によって、主君の仇討ちをした赤穂浪士の数を示すだけでな
く、「咎なくて死す」によって、幕府のとった47士全員切腹という厳しい処置に対し、
無言の抗議をしている。当然、そのことは観客に通じたはずだから、江戸中期には、
「咎なくて死す」が多くの人に知られていたと考えられる。
さらに、吉澤義則氏は、『書道全集12』(平凡社)の中で、江戸末期に、「咎なくて死す」を
菅原道真の事跡に結ぴつけようとする説があったとしている。
竹田出雲には、道真の配流を大筋とする人形浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』(初演1746年)
がある。「手習鑑=手習いの手本」とは「いろは」のことだから、この題も道真の死を「咎
なくて死す」と見ていることになる。すなわち、江戸末期ではなく、江戸中期にすでにそのよ
うな考え方があったということである。
大正時代にも、字母歌を本格的に研究した大矢透が、『音図及手習詞歌考』の中で、「咎な
くて死す」を問題にしている。大矢透は、この言葉を、「罪科もなく、清らかに死んでいく」
という意味に解釈し、「いろは」の内容とも密接に照応し、仏教思想の理想的境地を端的に表
現した言葉であるという。そして、もしこれが「いろは」の作者の工夫によるものであれぱ、
その周到さに驚かざるをえないし、また、かりに偶然であったとしても、幼童の徳育に利用す
べきであると述べているという(小松英雄著『いろはうた』中公新書による)。
だが、大矢透の著書は、一般の人々の目に触れるものではなかった。その著書に接する専門
の学者は、西洋流の合理的な考え方から、「咎なくて死す」を偶然と見なし、問題にしなかっ
た。戦後、現代かなづかいが行われるようになり、「いろは」が過去のものになってしまった
ため、この謎の言葉は、危うく永遠の闇に葬り去られようとしていたのである。
ところが、この言葉が、新たな生命を吹きこまれて、現代に蘇った。詩人の篠原央憲氏が、
その著書『いろは歌の謎』において、これを無実の罪で処刑されようとする万葉の歌人柿本
人麻呂が怨念をこめて残した、暗号による遺書だと論じたからである。
篠原氏は、『日本書紀』や『続日本紀』に、理解し難い奇妙な文章があることを不思議に思
い、日本古代の暗号を研究したという。そうなると、誰しも折句に注目する。篠原氏も、沓冠
の暗号を調べた。そして、その合間に、偶然「いろは」の沓の「咎なくて死す」に気づいたの
である。そのときのことを、篠原氏は次のように述べている。
これは、いったい、どういうことなのか。わたしは一瞬、戦慄した。偶然に、こんなこと (『いろは歌の謎』カッパプックス) |
「咎なくて死す」を「無実であるにもかかわらず死す」と解釈した篠原氏は、「いろは歌」
を次のように訳している。
自分はかつて栄光の座で花やかに生きたこともあったが、それはもはや遠い過去のものと なった。この世はあすがわからない。自分にかわって、いま栄華をきわめる者も、いまに どうなるか、わからないのだぞ。生死の分かれ目の、きびしい運命のときを迎えた今日、 自分はもうなんの夢を見ることもないし、それに酔うこともない。 (同) |
そして、無実の罪で処刑される前に、仮名47文字で素晴らしい内容の歌を作り、そのなか
に暗号を仕組むことができた天才歌人は、歌聖柿本人麻呂よりほかにはいない、と篠原氏は
考えたのである。
だが、『いろはうた』の中で小松英雄氏は、「日本語史の専門家にとっては、一笑に付すべ
き妄説である」と、篠原説を酷評している。「いろは」が平安時代に成立したものであるから
には、この酷評もやむを得ない。