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武内宿禰の年齢とその暗号
 
成務天皇の時代に、印南(いなみ)郡にヒコナムチを派遣して国の境界を定めた。その時、
ヒコナムチは、吉備姫と結婚して、印南の別嬢(わきいらつめ)=日本書紀の播磨稲日大郎姫
を生んだ。景行天皇はこの女と結婚しようと思い、印南郡に行幸した。(「播磨国風土記」より)

日本書紀によれば、景行天皇の没年は130年で、成務天皇の即位年は131年です。したがって、景行天皇が成務天皇の時代に生まれた女と結婚しようと思うことはありえません。

ところが、日本書紀の年齢に関する記事にも、これに類する矛盾が見られます。私は、それらが、神武天皇の即位年を紀元前660年とする紀年の謎を解くヒントではないかと見ています。

「仁徳紀」の50年の項には、茨田堤に、雁が卵を産んだ、という記事が載っている。
その中に、仁徳天皇が、武内宿禰に問いかけた、つぎのような歌がある。
たまきはる 内の朝臣 汝こそは 世の遠人 汝こそは 国の長人
秋津嶋 倭の国に 鴈産むと 汝は聞かすや
(朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそ、この世の長生きの人だ。あなたこそこの国の
第1の長寿者だ。この倭の国で鴈が子を産むと、あなたはお聞きですか)
武内宿禰は、大和朝廷の初期、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕えた人物で、
『公卿補任』によれぱ「在官244年、春秋295年」とのことである。

人間はこのように長生きすることは出来ないので、彼は架空の人物と見なされる。

しかし、それでことは終ったのであろうか。もともと、『日本書紀』の紀年は不自然に延長されている
のであるから、この武内宿禰の長寿にも何らかの意味があるのではなかろうか。

武内宿禰の年齢

人間が295歳まで生きることは絶対不可能である。武内宿禰の年齢は、2で割って147歳にしても、
現実にはあり得ないものである。

ところが、その年齢を3で割って、数えの99歳と見ると、その当時としては、
仁徳の歌で長寿日本一と称えられるにふさわしいものになる。

つまり、紀年延長率を3倍とすれば、先には、崇神の即位年を復元すると台与の即位年に一致
するようになる紀年復元公式が得られ、今また、これまでは非現実的なものとされていた武内宿禰の年齢が、現実味を帯びることが分かったのである。

この事実は、『日本書紀』のある時期の紀年が3倍に延長されていることを確信させる方便として
武内宿親の年齢が利用されているということである。

そこで、『日本書紀』によって彼の年齢を確かめてみよう。

『日本書紀』には、原則として臣下の者が生まれた年など記していない。

ところが、「成務紀」の3年の項には、

「天皇と武内宿禰とは、同じ日に生まれた。そこで、とくに天皇は武内宿i禰を寵愛されたのである」

と記されている。おかげで成務の生年が分かれば彼の生年も分かるわけである。

このような年齢に関する事柄を、見やすくするために番号を付けて、つぎのように書くことにする。

条件1 武内宿禰と成務天皇の生年月日は同じ。

ところで、夫婦の誕生日が同じである割合は、365組につき1組程度のはずである。
これが、生年月日も同じ夫婦になると、もっと少なくなる。

どうやら武内宿禰と成務の生年月日が一致することには、何か作為がありそうである。
この疑いを裏付けるように、「仁徳紀」の元年の項には、つぎのような説話が載っている。

以前、天皇がお生まれになる日に、木菟(みみずく)が、産殿に飛び込んできた。
翌朝、誉田天皇は、大臣武内宿禰をお召しになり、

「これは、どういう瑞兆だろう」とお語りになった。

大臣は、お答えして、
「これは吉兆であります。また昨日、私の妻のお産の時にあたって、鷦鷯(みそさざい)が産屋に飛び込んでまいりました。これもまた不思議でございます」と申し上げた。

そこで、天皇は、
「いまわが子と大臣の子は、同じ日に生まれ、どちらにも瑞兆があった。これは天の表(しるし)
である。その鳥の名を取って、おたがいに易えて、子どもに名づけ、後世の契としたいと思う」
と仰せられた。

そこで鷦鷯の名を取って太子に名づけ、大鷦鷯皇子と申し上げ、木菟の名を取って大臣の子に名づけ木菟宿禰といった。これが平群臣の始祖である。この年は、太歳癸酉である。

確率365分の1の事柄であれば、それが続けて2回起る確率は、その確率を2回掛け合せた、
13万分の1以下になる。

したがって、武内宿禰が成務と同じ日に生まれ、しかもその子が応神(誉田天皇)の子と同じ日に生まれたとあるのは、その不自然さによって「後世の契」にしているのであろう。

なお、確率論は、17世紀のフランスの思想家・数学者・物理学者として知られるパスカルに始まるといわれる。だが、このような暗号を仕組んだ者は、それより700年ほど前に、すでに、かなりしっかりした確率的な考え方を身に付けていたに違いない。

成務の年齢

成務の生年も一筋縄では行かない。だが、「成務紀」に、「ともに盾矛を賜わって表とした」
という言葉があるので、これをヒントと見て、「矛盾」を手がかりにその年を割りだしてみよう。

「成務紀」によれぱ、景行の第4子成務は、116六年(景行46)に、24歳で太子になったとある。
これによると、彼は93年(景行23)生まれになる。

条件2 成務天皇、116年に24歳で立太子 ⇒ 93年生れ

ところが一方では、190年(成務60)に、107歳で没したとある。
これによると、彼は84年(景行14)生まれになる。

条件3 成務天皇、190年に107歳で没す ⇒ 84年生れ

なぜこんな矛盾が生じたのであろうか。これらの数値は、紀年を3倍に延長する際に、『日本書紀』の編者が計算によって求めたものである。

彼らは、延長した紀年の日付に儀鳳暦を用いたことが分かるように、面倒な暦の計算を正確に行っている。こんな単純な数値のミスを見逃すとは考えられない。このミスは、明らかに作為によるものである。

したがって、このような矛盾は、紀年復元のトレーニング用に準備されたもであろう。
『日本書紀』の中に、この矛盾を解決するに必要な条件が示されているはずだ。

もちろん、矛盾が成務の場合だけなら、単純ミスと考えるべきかも知れない。
しかし、『日本書紀』では、天皇の生年を求めるデータが2通り以上ある9例のうち、
矛盾がないのは2代目の天皇綏靖(すいぜい)の場合だけである。

これは、生年に矛盾のない綏靖に注目せよというヒントであろう。

ちなみに、「神武紀」によると神武の没後1年で終っている「山陵の事」が、「綏靖紀」によると
3年かかったことになっている。

これは、紀年3倍に延長されているので、1年が3年になることを意味するものと考えられる。

このように、武内宿禰の異常な長寿に疑問を抱くことによって、『日本書紀』の紀年の秘密を
解く手がかりが得られるのである。

そこで、「景行紀」の矛盾を手がかりにして、成務の生年=武内宿禰の生年を求めてみよう。

まず、121年(景行51)8月4日に、成務を皇太子にし、武内宿禰を棟梁之臣(大臣)に
したとある。これは、「条件2 成務天皇116年に24歳で立太子」と食い違っている。

そこで、矛盾がある立太子の記事は信用できないものと見なし、
成務の生年を条件3の84年のみに絞ればよいことになる。

ところが、それでもまだ問題が残るのである。

73年(景行3)2月に、紀伊国に派遣され、そこに9年間居住した武内宿禰の父が、
その地で娶った女性に、武内宿禰を生ませた
とあるからである。

これによると、彼は73年から81年(景行11)の間に生まれたと見るべきであろう。

条件4 武内宿禰、73〜81年生れ

それゆえ、彼と生年月日が同じだという成務の生年は、条件2の93年のみならず、
条件3の84年でさえも、この条件4に反することになる。

この矛盾を解決するためには、その原因になるデータの誤りを訂正しなければならない。
しかし、暗号として最も重要と思われる、「条件1 武内宿禰と成務天皇の生年月日は同じ」
を訂正することはできない。

ところで、成務の母親八坂入媛命は、74年(景行4)2月(?)に妃になり、7人の男子と
6人の女子を生んでいる。

成務がその第1子なので、彼が84年の生まれならば、彼の母親は妃になってから10年間子宝に
恵まれなかったにもかかわらず、突如として多産になり、13人の子を生んだことになる。

条件5 八坂入媛命、74年に景行妃となり、第1子成務を含む、13人の子を生む

これは、どう考えてみても変である。「雄略紀」に、「妊娠しやすいものは、褌が身体に触れる
だけで、身籠る」という言葉がでてくるが、成務の母親は、まさにそういうタイプの女性である。

当然、妃になった年から、間を置かないで、子宝に恵まれたはずである。したがって、
第1子の成務は、母親が妃になった74年の生れとすべきであろう。

しかも、そうすることによって、条件3の成務の生年(84年)と条件4の武内宿禰の生年
(73〜81年)が一致しないという矛盾も解消されることになる。

ここで注目すべきことは、成務の生年84年を「ちょうど10年」繰り上げて、
74年とすることによって、年齢の矛盾が解消することである。

10年違いの紀年

このように、紀年を10年繰り上げると矛盾が解消する例が他にもある。
伝説上の英雄と見なされている、日本武尊の生年がそれである

「景行紀」の本文には、武の母親播磨稲日大郎姫は72年(景行2)に皇后となり、
2人の男子を生んだとある。

第1を大碓皇子といい、第2を小碓尊というとあるが、この2人は双子である。
つまり、ここでも2人の人物の生年月日が同じになっている。

なお、注として、「一書に、皇后は3人の男子をお生みになり、その第3を稚倭根子皇子と申し上げる」とあるのは、景行の第4子成務が、小碓=日本武尊より後に生れたことを示すためだと考えられる。

なぜなら、1人の男性が複数の女性に子を生ますと、双子でなくても同じ年に生れることがある。
ところが、播磨稲日大郎姫が3人の男子を生み、その第3子を稚倭根子皇子というのであれば、

景行の第4子である成務は、稚倭根子皇子と同じ年に生れたとしても、
第1子の大碓および第二子の小碓=武よりは年下であることが確実になるからである。

条件6 播磨稲日大郎姫、72年に景行皇后となり、日本武尊(成務より年上)などを生む

ところで、武は、97年(景行27)に、16歳で熊襲征伐をしたとある。これによると、
彼は82年(景行12)生れになる。

条件7 日本武尊、97年に16歳で熊襲征伐 ⇒ 82年生れ

それにもかかわらず、110年(景行40)に蝦夷征伐に向かい、その帰途、113年(景行43)
に能褒野で没した時の年は、30歳と記されいる。
これによると、武は、84年(景行14四)生れになる。

条件8 日本武尊、113年、蝦夷征伐の帰途に30歳で没す ⇒ 84年生れ

一方、条件3によると、成務の生年は84年である。つまり、条件3と条件8を同時に認める
と、第2子の武が第4子の成務よりより年上でないことになり、条件6に矛盾する。

そこで、条件8を誤りと見て、条件7の「日本武尊、82年生れ」を採れば、条件6から、
武の母親も、72年に皇后になってから10年間子宝に恵まれなかったことになる。

これはいかにも不自然だから、武の母親は、皇后になった年に彼を生んだと見て、
武の生年を成務と同じように、ちょうど10年繰り上げるべきであろう。

どうやらこの暗号の狙いが読めてきた。それは、紀年の一部を10年繰り上げることによって、
矛盾がうまく解決するということではなかろうか。

なぜなら、武と成務の生年をそれぞれ10年繰り上げて、72年と74年にすれぱ、
彼らの母親の出産記事に見られる不自然さが解消されるだけでなく、

武内宿禰の生年が74年になり、条件4の「武内宿禰、73〜81年生れ」とも
矛盾しなくなるからである。

それでは、紀年復元公式Aを使って、雁が卵を産んだ仁徳50年(362)における武内宿禰
の年齢を求めてみよう。

彼が生まれた年(年齢1歳)は、虚紀年の74年だから、Y=74を当てはめると、
X=(842+74)/2=305.23……
となる。すなわち、武内宿禰の生年が、実紀年では305年になる。

また、仁徳50年は、虚紀年では362年になるので、公式Aに、Y=362を当てはめると、
X=(842+362)/3=401.33……
となる。すなわち、雁が卵を産んだ年が、実紀年では401年になる。

したがって、このとき武内宿禰は、97歳だったことになる。
まさに当時の長寿日本一にふさわしい年齢である。

以上のことから、結論として、武内宿禰の年齢による暗号は、紀年の延長倍率が3倍であるこ
とを示すと同時に、紀年を10年繰り上げると、矛盾がうまく解決する場合があることを示唆す
るものだといえることになる。


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