菅原道真が撰進した新撰万葉集

井沢元彦氏の暗号小説「猿丸幻視行」では、新撰万葉集の和歌(万葉仮名)を活用して
柿本人麻呂と猿丸大夫を結びつけています。次にその一部を断片的に引用してみます。


  猿丸大夫は謎の歌人である。

  36歌仙の1人に選ばれ、猿丸大夫集という歌集も存在するが、そこに入っている歌は
  ほとんど他の歌集で”読人しらず”とされているものばかりである。……

  にもかかわらず、昔から歌聖とされていて、藤原定家撰の小倉百人一首にも、
  天智天皇、持統天皇、柿本人麻呂、山部赤人に続き、5番目に入っている。

  その1首は、


     奥山に 紅葉ふみわけ なく鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき

   
  新撰万葉集は菅原道真の撰である。
  時代は9世紀末。万葉集と古今集の中間に位置する私撰集である。

  構成は短歌と、その短歌の心を漢詩に訳したものを、並記するという方法をとっている。
  短歌の表記はすべて万葉仮名を使っている。

   
ーー おくやまに  もみぢふみわけ  なくしかの  こゑきくときぞ  あきはかなしき ーー
  奥山丹   黄葉踏別  鳴鹿之  音聆時曾   秋者金敷 ーーーーーーーーー  
     
 

ゅうざん せきせき    はれいれい  
  秋山寥々葉零々 秋山  寂々として 葉零々たり  
    びろく  な  こゑ  あまた ところ きこ  
  麋鹿鳴音数処聆 麋鹿の鳴く 音  数の 処に 聆ゆ  
    しようち  たづ きた  いうえん  ところ  
  勝地尋来遊宴処 勝地  尋ね来りて 遊宴する処  
    とも な  さけ な    こころ なお すさま  
  無朋無酒意猶冷 朋も無く酒も無くして 意  猶 冷じ  
       

私は、この漢詩と短歌は、万葉集の長歌と反歌の関係に似ているのではないかと感じます。
もしそうなら、新撰万葉集の作品について、「短歌の心を漢詩に訳した」とはいえなくなります。

井沢氏は、新撰万葉集の猿丸大夫の歌から、次のように「柿本」という姓を読み取っています。

鹿()黄()之()者()音(

鹿@
C B A
D

⇒ カキノモト=柿本

古典の暗号は柿本人麻呂を重視しています。だから、これも暗号かも知れませんが、
漢文が読めない私には、漢詩から暗号を読み取る作業は手におえません。

そのような私だからこそ、より切実に感じる疑問があります。
それは、なぜ外国語の漢文が日本語として読めるのかということです。

例えば「無朋無酒意猶冷」という詩句を、中国人は中国語として理解します。
日本人のように、「朋も無く酒も無くして意猶冷じ」と読む訳ではありません。

一方、中国人が音読するこの詩句を聞いても何のことか分からない日本人でも、
日本独特の漢文の読み方を学べば、「無朋無酒意猶冷」が日本式に読める訳です。

私は、新撰万葉集を手掛かりとして、この疑問に対する答が出せないかと考えるのです。

例えば、新撰万葉集と古今集に共通な猿丸大夫の歌を比較してみるとどうなるでしょうか。

万葉仮名 奥 山 丹  黄葉 踏 別 ……
漢音読み アウ サン タン  クヮウエフ タフ ヘツ……

万葉読み

おく やま に   もみぢ ふみ わけ ……
呉音読み オウ セン タン  ワウエフ トフ ベチ……

古今集

奥 山 に  紅葉 ふみ わけ

このように、万葉仮名による表記は、漢字本来の発音や意味をかなり無視しているので、
中国人から見れば、意味の通じない、文字の羅列に過ぎないはずです。

また、日本独自の漢文の読み方を学んでも、万葉仮名の読み方を知らなければ、
万葉仮名で書いてある歌を読むことはできないはずです。

新撰万葉集上巻の序文には、このことに関連してくる、次のようなことが書いてあります。

万葉集の歌は、古歌の類で、……その草稿は幾千の歌があるかもわからない。

ようやく筆跡をたどりながら読んだが、文句や文字が乱れ、
詩なのか賦なのかもわからない。

勝れた内容であるようだが、理解しようとすると難物である。
それであるから、意ある者は努力するが、智なき者はあきらめてしまう。

そこで、勅命を受けて編集し、そのうえ更に人の口に伝わる歌を集め撰し、
合わせて数十巻とした。

また、その数十巻の中から秀作を選んで抄本を作り、評価を待っている。……

<寛平五載(893)秋九月廿五日……(『新編国歌大観』)>

山口博著『万葉集形成の謎』(桜楓社)

これによると、新撰万葉集の撰者が、非常に読みづらい万葉集の草稿を、
勅命によって編集し直したことになります。

ところが、編者未詳の『日本紀略』には、序文の日付と一致する893年(寛平5)9月25日の項に、
菅原朝臣、新撰万葉集2巻を撰進す」とあるのです。

この二つの文献を素直に受け入れるならば、万葉集の最終的編者は、
学問の神様である菅原道真(845〜903)ということになります。

したがって、最終的に現在の形にまとめた人物は不明とされるとされる万葉集成立の謎は、
一挙に解決するはずですが、学界では新撰万葉集の序文を偽書として受け入れない訳です。

その原因の一つは、菅原道真が903年(延喜3)2月25日に没しているにもかかわらず、
ちょうど10年後の913年(延喜13)8月21日という日付が下巻の序文にあることです。

けれども、ちょうど10年といえば、新撰万葉集が成立したという893年(寛平5)は、
道真の没年903年(延喜3)のちょうど10年前にあたります。

しかも、「寛平」とは、889年4月27日から898年4月26日まで、
きっちり丸10年間用いられた年号ではありませんか。

新撰万葉集と同様に、序文が偽書ではないかと疑われている古事記についても、
次表(前編第二部より引用)のように、没年とその前後10年が問題になリます。

古事記没年に秘められた作為
代数 天皇 元年
没年
日本書紀
の年代Y
式の
区別
計算の
結果X
本来の
年代
倭王 古事記没年 赤字年代
西暦Z
干支 西暦Z
「10」 崇神 元年
没年
−97
−30
(1) 248
271
⇔248
台与
戊寅18
258
「−10」
15 応神 元年
没年
270
310
(イ) 370
384
以下は
+20
 
甲午34

394

「−10」
16 仁徳 元年
没年
313
399
(イ)
(ロ)
385
417

⇒437


丁卯07

427

「−10」
  成仲 元年
没年
131
200
(イ) 324
347
   
丁巳57

357

「−10」
  正中 元年
没年
400
410
(ロ) 417
422
⇒437
⇒442

壬申12

432

「−10」
19 允恭 元年
没年
412
453
(ロ) 423
444
⇒443
461

甲午34

454

「−10」
21 雄略 元年
没年
457
479
(ハ) 457
479
⇒477
502

己巳09

489

「−10」
26 継体 元年
没年
507
531
(ハ) 507
531
    丁未47
527
−20

例えば、仁徳天皇の場合なら、古事記没年干支丁卯=7年に対して、

日本書紀の没年399年を復元した7年がちょうど10年前になり、

倭の5王のはじめに位置するの没年7年がちょうど10年後になるわけです。

このように、10にこだわると、古今集真名序の次のような記述も目に付くことになります。

昔、平城天皇は、侍臣に命じて万葉集撰集させた。
それ以来、時は10代年数は10010X10)年が過ぎた。
その後、和歌は捨てられて取りあげられなかった。

醍醐天皇は、治世9年目(905年)に、長らく廃れていた和歌の道を盛んにしようとした。

そして、紀貫之ら4人に命じて、家々の和歌を集めたものや、
古くから伝わる和歌を奉らせ、これを「続万葉集」といった。

ところで、漢詩の影響を重視する小島憲之新井栄蔵校注『古今和歌集』(岩波書店)によれば、

新撰万葉集と古今集に共通な歌は、47番の次の歌を筆頭に、全部で47首あります。

寛平御時后宮歌合の歌            素性法師

47 ちると見て あるべき物を 梅花 うたてにほひの 袖にとまれるー  

       
  ちるとみて  あるぺきものを むめのはな うたてにほひの そでにとまれる  
  散砥見手  可有物緒  梅之花  別様匂之  袖丹駐礼留  素性  
       
    わふう ふ  ところ もの みな  たの  
  和風触処物皆楽ーー 和風 触るる処 物  皆  楽しぷ  
    しやうゑん ばいくわ さ  また ち  
  上苑梅花開也落 上苑 の 梅花 開きて也 落る  
    Lゆくぢょ ひそ  よ    かんざし な    た  
  淑女偸攀堪作簪 淑 女 偸かに攀ぢて 簪に 作すに堪へたり  
    ざんかう そで にほ   はら   そ  がた  
  残香匂袖払難却 残 香 袖に匂ひて 払ふに却け難し  
       

古今集仮名序には、仁徳天皇の難波津の歌を手習いの歌としたとありますが、

4747」という数字を見ると、この47は、
手習いの歌=いろは歌47文字を示唆しているように感じてしまいます。

そうなると、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を意訳して「いろは歌」ができたように、
新撰万葉集の和歌は、セットになっている漢詩をもとにして作られたものだと感じないでしょうか。

もし、何の予備知識もなければ、、新撰万葉集のセットになった作品を見た場合、
誰しも、和歌は漢詩をもとにして作られたものだと感じるはずです。

すなわち、短歌とその短歌の心を漢詩に訳したものを、並記しているという受取り方は、
古今集の歌を本物と信じて疑わない、囚われた見方が禍しているのです。

それゆえ、古今集を見直すことによって、漢文が日本語として読める謎も解けるかもしれないのです。


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 山口 博(やまぐち ひろし)
昭和7年 東京に生まれる。
昭和36年 東京都立大学大学院博士課程単位習得退学
現在(昭和60年4月) 富山大学人文学部教授・文学博士
著書 「閨怨の詩人小野小町」(昭和54年)
「王朝歌壇の研究(村上・冷泉・円融朝編)」(昭和42年)
「王朝歌壇の研究(宇多・醍醐・朱雀朝編)」(昭和48年)
「王朝歌壇の研究(桓武・仁明・光孝朝編)」(昭和57年)
「王朝歌壇の研究 別巻蔵人補任」(昭和54年)

小島憲之(こじま のりゆき)
大正2年、鳥取県生れ。京都帝国大
学文学部卒。大阪市立大学名誉教授。
万葉学会代表。和漢比較文学。「万
葉集古写本における校合書入れにつ
いて」(昭和15年)によって研究生
活を開始。昭和40年「上代日本文
学と中国文学」により学士院恩賜賞
を受賞。
新井栄蔵(あらい えいぞう)
昭和6年、群馬県生れ。京都大学文
学部卒。国語学国文学専攻。現在、
奈良女子大学教授。「吉今和歌集四
季部の構造についての一考察」他の
論考によって、古今集の部立ての研
究に新分野を開いた。和歌における
和語と漢語の交錯、古今伝授の研究
など、多方面にわたる研究がある。

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