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石宝殿の謎について


シーボルトがスケッチした石宝殿

益田岩船上部


石宝殿の外観の特徴

兵庫県高砂市の採石場の中に、生石(おうしこ)神社という、巨石を御神体とする神社があります。

1828年、離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚し、国外追放となったシーボルトは、
石宝殿(いしのほうでん)と呼ばれるこの御神体に興味を示し、3枚のスケッチを残しています。

重量が500トンもあろうかといわれるこの巨大な石造物は、切り出して加工しもたのではなく
岩山を直に彫ったもので、三方は削られた元の岩山によって囲まれた形になっています。

制作に従事した石工には、これを遠くに運搬することが不可能なことは分かっていたはずです。
それにもかかわらず、巨石の底部は岩盤から切り離なすように四方から深く削られています。

なお、現在の拝殿の位置からいえば、前面は長方形の平面で、背後に屋根形の突出部があります。
だから、少しだけ岩盤につながっている底部を切り離し。拝殿側に起こせば家形になります。

同様のことは、益田岩船についても言えます。しかも、石宝殿には岩船伝説があり、
源順の和名抄には、播磨国風土記の印南郡の益気の里を益田と記しています。

だから、間壁忠彦・葭子共著「石宝殿古代史の謎を解く」(神戸新聞総合出版センター)でも、
太田氏とは異なる観点から、石宝殿と益田岩船との間に何らかの結びつきがあると見ています。

もし、家形を彫り出すことが目的であれば、始からそうします。わざわざ削りにくい底部を削って、
岩盤から切り離し拝殿側に起こす、というような面倒なことをする理由は考えられません。

ところが、丘裾の側に起こすと家形になる益田岩船に合わせて石宝殿を造ったと考えれば、意味が
生じます。この2地点は、太田氏の指摘通り、地図による暗号の重要ポイントに相違ないのです。


石宝殿の構造の数学的特徴

太田氏が「石宝殿の設計に隠された驚くべき事実」という、次の事柄も、なかなか興味深いことです。
5通りの比の値に対するアークサイン(sin−1)が、いずれもほぼ60になることにご注目ください。

a=570, =656, =763
=√(a22)=869, =√(b22)=1006, =√(a222)=1156

分子(cm) 分母(cm) 比の値 X sin−1 X
a/b 570 656 0.8689 60.33度
b/c 656 763 0.8598 59.29度
c/d 763 869 0.8780 61.40度
d/e 869 1006 0.8638 59.75度
e/f 1006 1156 0.8702 60.49度

間壁夫妻の著書への疑問

石宝殿に関する最初の記録は、「播磨国風土記」の印南郡大国の里のところに、
聖徳太子が摂政の時代に物部守屋が造った家の形をした大石として登場しています。

また、万葉集巻3には、「石屋」を「生石村の石屋」とみれば石宝殿になる、次の歌があります。

            生石村主真人の歌一首

355  大汝(おおなむち) 少彦名の いましけむ 志都の石屋は 幾代経にけむ

(【参考】この歌の番号は円周率に結びつきます→万葉集から読み取れる答らしきもの

けれども、平安時代前期の記録「延喜式」には、生石神社に該当するものがなく、
平安時代の最終末、1181年(養和元)の「播磨国内神明帳」にその名が現れます。

この点について、間壁説では、人間が作ったものだという記憶があるうちは、信仰の対象にはならない。
「延喜式」に載っていないのは、物部守屋が造ったという類の伝説がまだ残っていたからだ、と見ます。

南北朝時代の「峯相記」(1348)には、生石子高御倉は、二神を祭る神社とあり、石宝殿については、
石でを造っていた天人が、夜が明けたために引き起こさず、そのまま天に帰った、と説明しています。

すなわち、この時代には、巨石のが人間の力では造れないものと考えられようになっているけれど、
まだ、生石神社の祭神は、現在のように大国主神(大汝)と少彦名の神にはなっていません。

ところが、江戸中期(宝暦年間)に成立した「播磨鑑」には、次のように記されています。

石宝殿の由来を尋るに、神代の昔大己貴命岩船に乗り此の山に止まり、高御位大明神
と号し、一神は少彦名生石の大明神と号す。
二神御意を合せ、五十余丈の岩を切ぬき……一夜の間に二丈六尺の石の宝殿をつくり、
鎮座す。

この生石神社の略縁起には、万葉集の生石村主人の歌を引いているので、間壁説では、
万葉集の歌をよりどころにして、知識人が生石神社の祭神の格上げをしたと見ます。

なお、播磨風土記は、寛政8年(1796)と嘉永5年(1852)に世に出るまで、古今伝授を守る三条西家
蔵に秘蔵されて、人々の目に触れなかったので、生石神社縁起に影響を与えようがなかったとのことです。

間壁説では、<牽牛子塚・益田岩船・石宝殿=巨大な家形をした横口式石槨>という観点から、
石宝殿は、天皇家と最高権威を競った蘇我氏が作らせた、墳墓と堂塔をミックスした記念碑と見ます。

そして、蘇我氏の滅亡によって完成間近に放棄され、後世その由来が分からないまま、
その特異さの故に、御神体として祭られるようになった、と推測しています。

しかし、当時の人も、高砂市から明日香村まで500トンもの巨石を運ぶことが不可能なことは、
十分に理解していたはずだから、間壁説の成立の余地はない、と私は感じます。

また、学者は、なぜ「風土記」に疑を抱かないのか、と私は不思議に感じました。

風土記の注釈書には、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で、時代が前後する。伝承の年代錯誤」
とありますが、風土記の選者がそのような歴史の知識を欠いていた、と考えられるでしょうか。

風土記が、古老の語る事柄を書き止めたものだったとしても、明らかに史実に反する事柄を
全く無批判に書き留めるとは考えられません。伝承の年代錯誤などは、いわば暗号です。

たとえば、同じ印南郡の記事に、景行天皇が成務天皇の時代に生まれた女性を皇后にした
とありますが、成務は景行の死後に即位したのですから、これは明らかに矛盾しています。

これは、成務天皇と武内宿禰が同じ日に生まれ、仁徳天皇と武内宿禰の子が同じ日に生まれたという、
日本書紀の年齢の暗号のヒントです。そのことを思えば、学者の推論も虚しいといわざるを得ません。


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