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東西南北と三角定規の斜辺 80621


日本のレイラインの実態


太陽の動きに対する関心   遅ればせながら知った御来光の道

御来光の道との付き合い   七面山敬慎院の春分・秋分の御来光

七面山敬慎院が創建されたのはいつか


太陽の動きに対する関心

人類がいかに遠い昔から、太陽の動きを正確に捉えていたかを示す、ゆるぎない証拠は、いくつもあるようです。

その最も顕著な例は、アスワン-ハイダムの建設による水没を避け、旧位置の西方高所に解体移築された、巨大な岩窟神殿、アブ・シンベル神殿ではないでしょうか。

なぜなら、正面にラムセス二世(在位 紀元前13世紀)の坐像があるこの神殿では、春分・秋分の日の朝に限って、日光が65m奥の至聖所まで届く構造になっているからです。

わが国の場合、皇祖神の天照大神を祭る伊勢神宮内宮の表参道に通じる宇治橋正面の大鳥居では、冬至の前後に、写真のような光景を見ることができるそうです。

天照大神が天岩戸に隠れて世の中が闇になるという話は、皆既日食を表したものだという解釈と、冬至を過ぎて太陽が弱まった力を取り戻すということを象徴したものとする見方がありますが、いずれにしても、岩戸隠れ神話は、太陽の動きと無関係ではなさそうです。

それにもかかわらず、宇治橋は室町時代から今の場所にあったというのに、そこから見える冬至の日の出に触れた文献はないのだそうです。

冬至前後に起こる右上の写真のような現象は、1980年代に、神宮の広報誌「瑞垣」が、参拝客の報せを取り上げてから有名となり、見物人で賑わうようになったとのことです。

1980年2月11日に、NHK特集『知られざる古代』において「太陽の道」を取り上げたことが、特異な日に聖地で太陽が演ずるドラマへの関心を呼び起こしたのでしょうか。


遅ればせながら知った御来光の道


今回、「春分の太陽」を検索したところ、内田一成氏の
アウトドアBlog」の2008319 ()「春分の太陽を追いかけて その1」に、上図があり、喫驚しました。

なぜなら、私は、右図のように、358本の銅が出土した荒神谷遺跡と伯耆富士大山ヶ峰と富士山ヶ峯との緯度がほぼ等しいことを発見し、<「扶桑略記」の取り持つ縁>や<北海道の形に拘った理由>において、問題にしていたからです。

ところが、内田氏によれば、この地図上の直線は、春分の日に次のような聖地を貫く光の道で、「御来光の道」と呼ばれている日本のレイライン(ley line)だそうです。

千葉県外房の上総一ノ宮にある玉前神社では、真東を向いた参道から登った太陽の光が参道と一の鳥居二の鳥居を突き抜けて、西へ向かっていく。その光は、東京湾を渡り、寒川神社へ達する。

さらにその先、富士山頂、日蓮宗の聖山である七面山、琵琶湖竹生島の弁財天社、大江元伊勢のご神体山である日室岳(城山427.3m)、中国地方の名山大山の大神山神社、そして、出雲大社と本州を横断していく。

地図に引かれた赤い直線を見ながらこの解説を読めば、これは凄いと感じる方もいるのでしょうが、地球は平面ではないので、直進する太陽光線によってこんなことは起こりません。

内田氏は、<「レイ」とは「光」のこと。光が一直線に進むように、聖地を刺し貫くことからそう呼ばれた>と解説していますが、leyは(牧)草地.で、一条の光, 光線はrayです。

もしかすると、レイラインに関する内田氏の解説は、「l」と「r」の発音の区別に弱い日本人らしい誤解に基づくものかもしれません。

太陽の当たり具合の違いから、季節が逆になっている北半球と南半球では、昼と夜の長さも逆になっています。

春分と秋分の日は、このように食い違う北半球と南半球の昼と夜の長さが入れ替わる境目の日です。

すなわち、春分と秋分の日は、右の図のように、夜と昼の境界線が、ちょうど北極と南極を通る経線に一致する日です。

それゆえ、この両日に限って、経度が同じ地点では日の出の時刻が一致します。

けれども、日本一高い富士山でも、地上でそれが見える限界距離は335kmなので、遠距離になると、緯度が同じ地点であることと、太陽が演じるドラマとは、無縁になるはずです。


御来光の道との付き合い

内田氏の解説には、問題が無きにしも非ずですが、地図上に引かれた富士山と大山を通過する直線は、私には、検討してみないではおれないものでした。

その最大の理由は、東西線の東の端に位置する、九十九里浜に程近い玉前神社が、真東に開ける太平洋に向かって建てられているとあったからです。

このことは、東西線の西の端に位置する出雲大社が、南面しているにもかかわらず、祭神の大国主神が西を向いて鎮座していることに関係するかもしれないと感じさせます。

実は、私はこの東西線を、多利思比孤が隋の煬帝に送った国書の言葉、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」を意識させるものだ、といいたいのです。

そこで、大国主神は金印の倭奴国王に相当するとみなす私は、Googleマイマップで表わした「御来光の道」に、出雲大社から後漢の首都洛陽へと伸びる直線を追加してみました。

すると、その直線は、御来光の道よりも南へ偏っている直線になりました。

出雲大社が北緯35度24分に位置するのに対し、
洛陽駅前(航空写真)北緯34度41分に位置するので、これは当然のことように思われます。

ところが、両者の緯度経度を用いて計算してみると、その間の距離は1,847km、方位角は
273度25分となりました。

すなわち、緯度を比較すれば、43分南にある
洛陽駅前が、出雲大社から見れば、真西よりも
3度25分北にあることになるのです。

試しに、洛陽駅前と経度が同じで、出雲大社の丁度真西に相当する、方位角が270度になる地点の緯度を求めてみると、出雲大社より1度43分低い、北緯33度41分となりました。

この事実は、遠距離にある地図上の2点を結ぶ直線を、直進する太陽光線に関連付けようとすることに、余り意味がないことを示しています。

しかし、内田氏の紹介にこだわって、次表のように小分けにしてチェックすると、なるほど、これがあるから「御来光の道」という名がついたのかと納得させる場所がありました。


観察地点
御来光方向
出雲大社
大山
荒神谷
大山
大山
皇大神社
皇大神社
竹生島
竹生島
伊吹山
伊吹山
七面山
七面山
富士山
富士山
寒川神社
寒川神社
玉前神社
北緯(度 35 24 35 23 35 22 35 26 35 25 35 25 35 22 35 22 35 23
東経(度 分) 132 41 132 51 133 33 135 09 136 09 136 24 138 21 138 44 139 23
日出時刻 06:13 06:12 06:09 06:03 05:59 05:58 05:50 05:49 05:46
距離 78km 63km 146km 90km 24km 177km 35km 59km 89km

方位角

92°05′ 90°08′ 87°04′ 90°25′ 90°35′ 91°09′ 91°16′ 88°01′ 89°58′

玉前神社
への方位

88°01′ 87°50′ 88°00′ 89°13′ 89°31′ 89°36′ 89°13′ 88°58′ 89°58′
玉前神社
への距離
697km 682km 619km 473km 383km 359km 183km 148km 89km
創建年の目安
以前↑・以後↓
出雲大社
765年↑
大神山神社
867年↑
皇大神社
877年↑
竹生島神社
724年↓
敬慎院
1297年↓
浅間神社
853年↑
寒川神社
927年↑
玉前神社
884年↑
... 上表の詳細なデータは、別表にあります。

日出時刻は、日月出没時刻方位サービスにより、2008年
3月20日
(春分の日)の観察地点における、眼高4.6m地点から見た太陽上辺と水(地)平線が一致する瞬間を求めたもの。

....

七面山敬慎院の春分・秋分の御来光

わが国にも、春分・秋分の日の朝に限って、日光が65m奥の至聖所まで届くアブ・シンベル神殿の構造を連想させる、壮大な構想の仕掛けがしてある場所がありました。

その仕掛けは、日朗上人(1243〜1320)開山といわれる、日蓮宗の聖山=七面山(海抜 1989m)の山頂近くにある敬慎院に秘められているのです。

七面山敬慎院の本殿の正面にある階段を登ると 随身門と呼ばれる山門があります。

その山門の前は、春分・秋分の朝、富士山頂からの御来光が望める広場になっています。

したがって、富士山を切り取る額縁の役目を果たす随身門をくぐった春分・秋分の御来光は、図のように石段の上方を通過し、敬慎院本殿に達するのです。

なお、国土交通省 関東地方整備局の「関東の富士見百景では、「太陽が富士山の頂上の真ん中に重なった状態のものをダイヤモンド富士という」と定義しています。.


随身門

ダイヤモンド富士と呼ばれる春分の日の御来光

随身門より見下ろした敬慎院本殿

随身門越しに見える富士山


七面山敬慎院が創建されたのはいつか

春分・秋分の日に、丁度富士山頂に現われる太陽の光が、随身門をくぐって本殿に達するのは、七面山敬慎院の創建者の意図に基づくものであることは、疑う余地がありません。

それにしても、敬慎院の創建者は、なぜそのようなことが起こる山中の位置を探し出し、極めて特異な光のドラマを演出する堂塔伽藍を建築しようと思い立ったのでしょうか。

私は、その謎を解くために、まず七面山敬慎院の創建者が誰であるかを調べてみました。
けれども、敬慎院創建に関する記事はWeb上には見当たりませんでした。

ただし、七面山奥之院の「縁起」などには、次のような信じ難い記事(↓要約)があります。

日蓮は、身延の草庵に住んでいたが、今の思親閣がある身延山山頂によく登り、亡き父母の墓のある房総の方を拝し両親を偲んでいた。

伝承によると、建治3年(1280)9月、山頂から下山の道すがら、日蓮が今の高座石に座って説法をしていると、七面山に住む七面大明神が姿を現した。

日蓮没後16年目の永仁5年(1292)に、高弟の日朗が地頭の波木井実長らと共に、七面大明神を祀るために山に登ると、天女が大きな石の上に姿を現した。

日朗は、この大きな石を影嚮石(ようごうせき)と名付け、その前に祠を結んで七面大明神を祀った。これが、七面山の開闢(びゃく)で、9月19日を大祭の日とする。

しかし、室住一妙教授はこの件に関して、「俗人にうけ容れ易いスジを通すための伝承であろう。疑い得ない文献や確証あってのことでない」と述べているとのことです。

ところが、試行錯誤を繰り返しているうちに、七面山開闢に関する信じ難い記事とダイヤモンド富士とがヒントになって、私は自分なりに納得する答えを見出すことができました。

まず、日蓮が身延山山頂にのぼり、房総の方を拝し両親を偲んでいたのであれば、房総半島までは見えなくても、富士山はよく見えるのではないか思いました。

そこで、もしやと思い、「身延山山頂 ダイヤモンド富士」で検索すると、身延山ロープウエイのHPの「第11回 ダイヤモンド富士観賞会
平成19年9月30日〜10月2日(3日間)」には、右の写真などがありました。

さらに、「富士山頂から昇る日の出を見よう!富士の国やまなし観光ネットには、

 「富士山頂から昇る日の出が
 観測できるエリアと期間」を表
 わした地図があり、付属の表
 に、次のようにありました。
場所 標高 期間
身延山 1,153m  3月12日頃 10月 3日頃
七面山 1,989m  3月22日頃  9月23日頃
これによれば、身延山でダイヤモンド富士が見られる日は、春では春分より10日ほど早く、秋では秋分より10日ほど遅れています。

平安初期に始まる彼岸会は、彼岸の七日間に行われる春秋二度の日本独自の仏事です。だから、身延山の僧侶がこの現象に大いに関心を抱いたとしても不思議ではありません。

そして、西側の七面山の尾根のどこかでは、ちょうど彼岸の中日に、今の言葉でいうダイヤモンド富士が見られるはずだ、と考えた可能性は大いにあるはずです。

身延山の守護神七面大明神を祀る敬慎院の存在は、それが可能性に留まらず、現実にあったことを雄弁に物語るものではないでしょうか。

それゆえ、七面山奥之院の「縁起」に登場する影嚮石の位置が北緯35度23分3.4秒であるのに対し、高座石の位置が北緯35度22分58.9秒で、その差がわずかに4.5秒に過ぎないことも、東西関係が問題になるだけに、偶然ではないのかもしれません。

その証拠というのはおかしいかもしれませんが、七面山奥之院の「写真処」にもダイヤモンド富士の写真が掲載されています。

私は、七面山奥之院の社殿に関する記述を見ると、奥之院を足がかりにして、敬慎院の位置が割り出されたのではないかと感じる次第です。

それゆえ、御来光の道上の神社が10世紀以前から存在するのに対し、主役であるはずの敬慎院は、13世紀以降(16世紀末か)に創建された別物であると判断せざるを得ません。


大地に描かれた五芒星の秘密   目 次   源氏物語千年紀に相応しい発見


図1 始点 出雲大社   図2 始点 須我神社   図3 始点 大山剣ヶ峰   図4 始点 大山祇神社
     

レイラインではありませんが、この位置関係(Google マイマップ)に興味がある方は、こちらへどうぞ!


 

 

 

 

 

 

 

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