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東西南北と三角定規の斜辺80211


建国記念日が明かす日本史の秘密


建国の年を紀元前660年に設定した意図   倭国の極南界ではない倭奴国

漢委奴国王金印埋納地点が鬼門となる鏡山   暗号仕掛け人を割り出す手がかり

ハツクニシラス天皇は誰と誰か    干支による神武天皇即位の日の求め方


建国の年を紀元前660年に設定した意図

植村清二氏は、「神武天皇 日本の建国」の中で、次のように述べられています
伝説上の神武天皇が歴史的に存在したか存在しなかったということは、ただいくらか通俗的な興味をひくだけの問題に過ぎないが、

日本の古代国家が、どのようにして成立したかということは、少なくとも多数の日本人にとっては知ることを要する、また知らんことを欲する重要な問題である。

まして伝承の批判にはまだ多くの検討の余地がある。神武天皇はこの意味から紀元節や建国祭の復活から離れて、なお新しい研究の主題である価値を失わないのである。

【建国記念の日】 国民の祝日の一。2月11日。昭和41年(1966)、建国をしのび、国を愛する心を養うという趣旨で制定された。もとの紀元節にあたる。建国記念日。(大辞林)

【紀元】 歴史上の年数を数える出発点となる年。

現在国際的には西暦紀元が用いられている。日本では 1872 年(明治 5)、神武天皇即位の年(西暦紀元前 660)を皇紀元年としたが、普通用いない。(大辞林)

このような植村氏の考え方とは氷炭相容れない立場の日本共産党は、「建国記念の日」に反対するのは?という問いに、次のように答えています。
「建国記念の日」は、もともと天皇を神格化し、その政治を美化した戦前の「紀元節」を復活させたもので、主権在民を定める憲法の民主主義の原則に反しています。

日本共産党は憲法の国民主権の原則と言論・思想・信教・学問の自由を守る立場から「建国記念の日」に反対しています。

「紀元節」は、初代天皇とされる神武(じんむ)天皇が、「辛酉(かのととり)年春正月」の一日に即位したという『日本書紀』の記述にもとづき、一八七年、明治政府が太陽暦に換算して二月十一日と定めました。

神武天皇が即位してから日本の歴史が始まり、その子孫による統治は永遠に変わらないものだとする天皇中心の非科学的な歴史観です。

明治政府は「紀元節」の日を選んで大日本帝国憲法を発布(一八八九年)するとか、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という「紀元節」の歌を小学校などで歌わせ、日露戦争の開戦をこの日にあわせるなど、国民に皇国史観と軍国主義をおしつける機会としてきました。

しかし明治政府の説明どおりだとすると、紀元前六六〇年二月十一日が神武天皇即位の日となります。

そのころの日本はまだ縄文時代で、文字や暦も知られていませんでした。階級も発生しておらず、天皇もいませんでした。

神武天皇が実在しない人物であることは歴史学の常識です。二月十一日を「建国記念の日」とする科学的な根拠はありません。

ところで、皆さんは、日本書紀に、「初代神武天皇が、辛酉の年の春正月の庚辰かのえたつの朔(1日)橿原宮に即位した」とあることについて、どんなことを感じますか。

私は、なぜこの記事から、辛酉の年が紀元前660年であることが分かるのだろうかということと、どうして2月11日が割り出せるのだろうかということに興味を抱きました。

そこで、日本書紀の各天皇の在位期間を調べ合計してみると、神武元年=辛酉の年は、確かに紀元前660年となり、年表が作れない古事記は歴史書ではないことが分かりました。

また、干支を使って、辛酉の年の春正月の庚辰の朔を太陽暦に換算してみたところ、自分なりに納得できる形で、紀元前660年2月11日を導き出すことができました。

紀元前660年頃は、「まだ縄文時代で、文字や暦も知られていませんでした。階級も発生しておらず、天皇もいませんでした」という、日本共産党の指摘は間違ってはいないでしょう。

しかし、日本書紀の編者は、史実通りの神武天皇即位の年を記しているのではないのです。実はその逆で、なぜこんな不自然なことをいうのかと疑問を抱かせようとしているのです。

その証拠に、上代の天皇の在位期間や年齢は、下表のように、正常な判断力の持ち主なら、誰しも一見して不自然だと感じざるを得ないように設定してあります。

天皇 初代神武 2代綏靖 3代安寧 懿徳 5代孝昭 6代孝安 7代孝霊 8代孝元
年齢 127 84歳 57歳 77歳 114 137 128 116
在位 660-585 581-549 548-511 510-477 475-393 392-291 290-215 214-158
年数 76 33年 38年 34年 83 102 76 57年
天皇 9代開化 10代崇神 11代垂仁 12代景行 13代成務 14代仲哀 15代応神 16代仁徳
年齢 111 120 140 106 107 52歳 110
在位 157-98 97-30 B29-A70 71-130 131-190 192-200 270-310 313-399
年数 60 68 99 60 60 9年 41年 87
それにも拘わらず、例えば神武天皇即位の日が太陽暦の紀元前660年2月11日と求まるように、日付を表すための朔の干支は面倒な計算をしてキチンと求めているのです。

なぜ手間ひまかけて、そんな馬鹿げたことをしたのでしょうか。

その意図は、中国史書が正しく伝える倭王の朝貢という史実を、自国の尊厳を保つために、紛らわしく粉飾することにあります。

だから、日本書紀の年代のままでは、中国の史書が伝える倭王と天皇とはうまく対応しませんが、暗号に基づいて数式を導き出し、年代を復元すれば対応が分かるのです。

【参照】 邪馬台国の謎を解く年代復元   日本書紀に関わる独断と偏見

倭国の極南界ではない倭奴国

もし、中国人が上表の天皇の年齢を見て、「人間がこんなに長生きをするわけがない。
日本書紀は歴史を偽造している」、と指摘したとします。

すると、日本書紀の編者は、ニンマリとほくそえみ、「それでは後漢書に、『(倭には)長生きの人が多く、百歳以上に達する者が、沢山いる』とあるのは嘘ですか」、と問い返すでしょう。

また、後世の学者が、「神武天皇の東征が史実ならば、未開の地熊襲が皇室の発祥地となるのでおかしい」と、疑問を提出すれば、「後漢書を開いてみなさい」、ということでしょう。

なぜなら、後漢書には、「建武中元二年(57年)、倭奴国貢を奉げて朝貢す。使人は自ら大夫と称(とな)う。倭国の極南界なり。光武は賜うに綬を以ってす」とあるからです。

すなわち、書紀の編者は、倭国に関する中国史書の記事の誤りを利用して、倭王朝貢の記事を抹消するための年代延長や、皇室の発祥地の書き換えを行なっているわけです。

こんなことがいえるのは、日本書紀の年代の復元ができて、神武天皇即位の年(辛酉)が、倭奴国王在位中の辛酉の年(61年)に対応するようになっているからです。

このような私の見方は、「漢委奴国王」金印が発見された志賀島の志賀海神社と金印公園とに関して、地図上に次のような位置関係があることとも無縁ではなさそうです。



始点→終点 北緯,東経 方位角(逆)/距離 特徴
山(領巾振山)
金印公園
332546,1300126
333937.6,1301801.7
 45°00′

(225°09′)
36,281(m)

金印公園
妙見山
333937.6,1301801.7
333937.5,1301251.9
 270°00′

(89°57′)
7,982(m)

妙見山
坊津
333937.5,1301251.9
311546.3,1301254.3
 179°59′

(359°59′)
265,877(m)

坊津
尾鈴山

311546.3,1301254.3
321757.6,1312535.7
44°38′
(225°17′)
162,403(m)
尾鈴山→
山(領巾振山)
321757.6,1312535.7
332546,1300126
314°03′
( X 133°17′)
181,501(m)
志賀海神社
→西浦崎
334004.9,1301847.2
334004.1,1301236.3
269°53
(89°49′)
9,555(m)
西浦崎
坊津
334004.1,1301236.3
311546.3,1301254.3
179°54′
(359°54′)
266,697(m)
山(領巾振山)
志賀海神社
332546,1300126
334004.9,1301847.2
45°21′
(225°30′)
37,706(m)
志賀海神社
鎮懐石八幡宮
334004.9,1301847.2
333040.6,1300753.3
224°10′
(44°04′)
24,219(m)
鎮懐石八幡宮
笠沙岬(野間岬)
333040.6,1300753.3
312441.0,1300628.5
180°33′
(0°32′)
232,878(m)

特に、山のきっちり北東(方位角45°00′)に金印公園があり、金印公園のきっちり真西(270°00′)に妙見山があることは、偶然にしては出来過ぎではないでしょうか。

山や岬などを目印にして、釣り場や船の位置を確認することを「山を立てる」といいますが、金印埋納地点はその技術を応用して決めたものではないでしょうか。

(なお、先に「金印の倭奴国王の墓」で「山を立てる」に言及したときには、まだ上図の事実を知りませんでした)

さらに、極星を神格化した妙見菩の略称「妙見」という名の山の真(179°59′)薩南の坊津があり、その坊津が「唐大和上東征」に関係しているのです。

それゆえ、これらの位置関係には、倭奴国を倭国の極南界とする後漢書の誤りと同時に、「神武天皇=金印の倭奴国王」や「唐大和上東征伝」の秘密を伝える意図がありそうです。

少なくとも、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む今日の定説と、「金印公園の不思議な位置」を示す図が相容れないもであることだけは、誰しも感じるのではないでしょうか。


漢委奴国王金印埋納地点が鬼門となる鏡山

「大辞泉」で「鏡山」を引くと、「(2)佐賀県唐津市中部にある山。唐津湾を望む。標高284メートル。松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説の地。松浦山。領巾振(ひれふり)とあります。

万葉集巻5には、鏡山が領布麾の嶺と名づけけられた経緯を述べた序を持つ歌と、暗号のシンボルである山上憶良が「佐用姫の子が領巾振りし山の名」と詠んだ歌があります。

そこで、「領巾(女性が襟から肩にかけたきれ)」にこだわってみると、かなりごちゃごちゃしていますが、「神武天皇=金印の倭奴国王」と「倭奴国=伊都国」との傍証が得られます。

まず、古事記の神話には、オオナムジノ神(後の大国主神)が根の国を訪問し、スサノオノ命に蛇の室で寝かされたときに、命の娘で、

後にオオナムジノ神の本妻となるスセリビメから蛇を祓う領巾を渡され、ムカデと蜂の室に寝かされたときも、それらを祓う領巾を渡されて事無きを得たとあります。

即ち、天孫降臨に先立って国譲りを強いられた大国主神は、卑弥呼によって末裔が倭王の座に即けなくなった倭奴国王に相当しますが、その大国主神と領巾が結びつくのです。

一方、日本書紀には、神武天皇がひそかに天香山(あまのかぐやま)の埴土を取って、八十平瓮を作り、みずから斎戒して諸神をまつられたとあり、崇神紀には、

京を襲おうとした武埴安彦(孝元天皇の皇子)の妻吾田媛がひそかに倭の香具山の土を取って、領巾のはしに包ん呪言をして「これは倭の国かわりの土」といって帰った、とあります。

吾田といえば、神武天皇は、日向国吾田邑の吾平津媛を娶って妃としています。

よって、崇神天皇に三輪山の大物主神が祟ったことと、崇神の敵の吾田媛が神武と同様に香具山の土を取ることから、大物主神(大国主神)=倭奴国王=神武天皇を意識します。

ところで、石原道博編訳「中国正史日本伝(1)」(岩波文庫)によると、「倭の五王」が、わが国のどの天皇にあたるかということの重要性を指摘し、次のような系図を対照しています。 

これに対し、年代を記さない古事記の例外である「崩年干支」を参照しながら、日本書紀の年代を復元すると、次のような対応が得られるように細工されているのです。

それゆえ、反正天皇が大きな比重を占める履中天皇即位前紀に、刺領巾という名の隼人が登場することは注目に値するはずです。

即位前紀によれば、太子(後の履中天皇)の弟住吉仲皇子は、太子であると偽って、兄の婚約者を犯し、大事に至る前に兄を殺そうとして、兵を起し、太子の宮を囲み、火を放ちます。

この仲皇子の行為は、景行記に、天皇が2人の美少女を宮中に召すために遣わした皇子の大碓命が、その2人を自分の妻にして、別の2少女を天皇が召そうとした美少女であると詐って献じたとあることを想起させます。

難を逃れた太子が石上の神宮にいると、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)が後を追ってきますが、太子は仲皇子を殺してこなければ、会わないといいます。

そこで、瑞歯別皇子は、仲皇子の近習の隼人、刺領巾を甘言で誘い、君主の仲皇子を殺させます。そして、自分の君主を殺したことを理由に、刺領巾を殺すのです。

刺領巾は、仲皇子が厠に入るのをうかがって刺し殺しますが、これは景行記で、小碓命(後の倭建命)が兄の大碓命を殺す手口と共通したところがあります。

また、景行紀には、日本武尊の熊襲征伐より先に、神武天皇の宮があった近辺かも知れない日向の高屋宮に6年間滞在した景行天皇が、みずから熊襲討伐をした記事があります。

そこでは、天皇が熊襲梟帥の容姿端正な2人の女にたくさんの贈り物を贈って、欺いて軍営に召し入れ、偽って姉のほうを寵愛し、姉が天皇のために父を殺すと、不孝はなはだしいと、その姉を殺します。

このように、履中即位前紀には、景行紀に目を向けさせる意図がありそうです。また神武天皇の旧皇都附近に来ていながら何も言及しない不自然さがある景行紀には、神武東征に関する謎を解く鍵があるに違いありません。

履中紀元年の項には、仲皇子とともに謀反を謀って、天皇を殺害しようとした阿曇連浜子の死罪を免じ、目の縁に入墨をする刑に処すと、時の人はそれを阿曇目といった、とあります。

目の縁の入墨といえば、神武記に、三輪の大物主の神の子であるイスケヨリ姫に、神武天皇の気持ちを伝えたオホクメノ命の目の縁に入墨がしてあった、とあります。

このように、領巾が神武天皇・大物主神・隼人・熊襲を意識させる事柄と結びつくだけでなく、志賀海神社の宮司は、今もなお、阿曇連浜子と同姓の阿曇氏なのです。

雑然とした事柄ですが、これらのことを念頭において、上図を見直していただければ、鏡山=領巾振山と金印公園との位置関係に作為を感じられるはずです。

このように見てくると、日本書紀・古事記・万葉集等の最終的編者は、漢倭奴国王金印の埋納地点を知っていたことになります。

それでは、金印はいつ誰の手によって埋納されたのでしょうか。私はその謎を解く鍵が新唐書日本伝と宋史日本国伝にあるのではないかと見ているのです。

【参照】 『ヒレ』(薬師寺 慎一)

暗号仕掛け人を割り出す手がかり

金印埋納地点を知っていた()日本書紀・古事記・万葉集等の最終的編者が、いつの時代の人物かを割り出す手がかりが、万葉集巻5の村主が共通する歌に秘められていました。
        →木)村主(すぐり)の豊前國より京に上りし時に作れる歌一首

311 梓弓(あずさゆみ) 引き豊国の 鏡山(かがみやま) 見ず久ならば 恋しけむかも

        生石(おふしの)村主(すぐり)の歌一首

355 大汝(おほなむち) 少彦名の いましけむ 志都の石屋は 幾代経にけむ

村主」は渡来人への賜姓とのことですが、万葉集には、この2人しかいません。そのことを根拠に、この2首を結びつけると、暗号仕掛け人がいつの時代の人物かが分かるのです。

漢委奴国王金印埋納地点が鬼門となる鏡山」においては、鏡山=領巾振山の領巾が、
大国主神=倭奴国王=神武天皇に結びつくことを確かめました。

この観点からすれば、311豊国の鏡山は領巾振山と同名なので、355大汝(おほなむち)=大国主神と結びつけてもおかしくありません。

ところで、「志都の石屋」の所在は未詳とのことですが、ここでは姓の「生石」に目をつけて、
兵庫県高砂市生石説をとることにします。

するとそこには、次のような、東西南北と三角定規の斜辺に託された古代史を問題にするものには、60度に近い角が4通り目に付く、石の宝殿と呼ばれる謎の巨石があるのです。


分子(cm) 分母(cm) 比の値 X sin−1 X 特徴
a/b 570 656 0.8689 60.33度
b/c 656 763 0.8598 59.29度
c/d 763 869 0.8780 61.40度  
d/e 869 1006 0.8638 59.75度
e/f 1006 1156 0.8702 60.49度

石の宝殿の数学的な構造に着目して、私は既に「万葉集から読み取れる答らしきもの」を物にしています。しかしその時は、鏡山の「鏡」を問題にしていませんでした。

今回は、田中久光氏のHP「万葉集を携えて」の「香春・鏡山」で、を取り込んだ万葉歌碑が3基あるのを拝見して、311に対応する方格規矩(後漢鏡) を前面に出してみました。

ほうかくきく‐きょう〔ハウカクキクキヤウ〕【方格規×矩鏡】                   (大辞泉)
漢代から魏・晋代にかけて盛行した鏡の一。中央の鈕(ちゅう)を方格(方形の区画)が囲み、その外側にT・L・V字形の文様がある。この文様を定規とコンパスに見立てての名称で、四神や十二支を配したものが多い。TLV鏡。

311 方格規矩鏡(後漢鏡)   355 石宝殿
 


ここで、311113の逆数1/113と見ると、311(1/113)355とを掛け合わせた数は、

355/1133.14159292……となります。これは円周率π3.14159265……

との誤差が1千万分の3以下の精度が高い近似値になるわけです。

この数学的な事柄が作為によるものであることは、「多胡碑と縁がある様々な謎」にある通り、万葉集の歌番号を利用して、ピタゴラス数を求める公式が導けることから分かります。

さらに、970年に成立した源為憲の「口遊」にある「たゐに」を使うと、「大伴家持と三平方の定理」で紹介しているように、ピタゴラスの定理が証明できるのです。

また、伊勢物語9段にある、「富士山は比叡山の20倍」という言葉にこだわることによって発見できる、次のような、三平方の定理を示す「多胡碑の謎」の文字の配置があるのです。

多胡碑 多胡碑の碑文の模写 辺の比3:4:5の直角三角形


対角線 

しかも、奇妙なことに、天下の色好みとして有名な源 至の歌を載せる伊勢物語9段には、源為憲師匠の源 順の名が、「このの祖父である」と記されているのです。

『古今集』以前に成立した原形の『伊勢物語』は、 その後多くの段が書き足され10世紀後半に現『伊勢物語』に近い形になったという説が有力視されているとのこと。

したがって、私は、「日本書紀に関わる独断と偏見」で述べているように、「口遊」が成立した970年頃に、源為憲らによって、暗号が作られたのではないかと考えるわけです。


ハツクニシラス天皇は誰と誰か

『日本書紀』の年代復元の可能性に示す通り、神功紀では、卑弥呼と台与とに関する記事の年代に比べ、百済関係の記事の年代が干支2巡分の120年古くなっています。

このことと、宋史日本国伝307歳と記されている武内宿禰の年齢をヒントにすると、次のような、紀元前の日本書紀の年代復元式(1)が求まります。

日本書紀の年代 復元値 復元式 番号
−840 1≦<281 =(+843)/3 (1)
この復元式を用いると、次のように、神武天皇即位の辛酉年=紀元前660年が紀元61年に復元され、崇神天皇即位の年=紀元前97年が紀元248年に復元されるのです。
日本書紀 神武天皇即位(辛酉)紀元前660年 崇神天皇即位紀元前97年
復元計算 −660+843)/3=61 −97+843)/3=248
倭国史 金印の倭奴国王時代の辛酉の年=61年 台与即位の年=248年
さらに、ハツクニシラス天皇神武即位の年=紀元前660年を復元した61年から4年を引くと、倭奴国王が金印を授かった年=57年に一致することをまねて、

崇神天皇がハツクニシラス天皇と称されたとある崇神12年=紀元前86年を復元した年
−86+843)/3=252年から4年を引くと、台与即位の年=248年が得られます。

即ち、日本書紀の編者は、2人のハツクニシラス天皇57年に金印を授かった倭奴国王248年に倭王となった台与であることをキッチリ伝えているのです。

したがって、日本書紀の編者が作成した、辛酉の年を節目とする倭国史年表の紀元は、
ピタリ西暦紀元と一致していたことになります。

この事実を念頭に置きながら、神武即位前紀の天祖が降臨されてからこのかた、今までに
1792470余歳経っている」
という言葉を検討してみましょう。

まず「天祖」は天孫ニニギノ命と解釈されています。しかし「孫」ではなく「祖」ですから、ニニギ(台与)に降臨を命じた天照大神(卑弥呼)と見ることも可能です。

このような柔軟な見方ができるならば、ハツクニシラス天皇神武をハツクニシラス天皇崇神(台与)と見ることもできるはずです。

つまり、先の言葉を天祖=卑弥呼が倭王になってからこのかた、今(台与即位)までに
179万2470余歳経っている」
とすり替えてみようというのです。

まず、辛酉の年を節目とする倭国史年表の紀元は、ピタリ西暦紀元と一致することに注目すれば、247247が卑弥呼が没した247年に一致していることに気づきます。

そこで、卑弥呼と台与の記事が載る神功紀の記事に干支2巡分の120年のズレがあることを真似て、179万179干支1巡分の60を加えると、卑弥呼が親魏倭王金印を授かった239年が得られます。

それゆえ、天祖が降臨されてからこのかた、今までに1792470余歳経っている」とは、親魏倭王卑弥呼の在位期間を示す暗号だと解釈できるのです。

このような操作を恣意的だと感じる方は、「乱数表による暗号」をご覧戴ければと存じます。

なお、金印に関する疑問をはぐくむものとしては、参考になるかどうか分りませんが、次の
〔参考〕のような記事もあります。m(_ _)m


〔参考〕 

出雲大社の裏鬼門にある宇美八幡宮

プロローグ   記紀のからくりについて

箸墓伝説に秘められたヒント金印の蛇紐   出雲大社の裏鬼門にある宇美八幡宮

「口遊」の雲太にこだわる本居宣長

金印の発光を反射する鏡の謎

江戸時代にはなかった「金印偽造事件」    鎮懐石八幡宮と志賀海神社との位置関係

金印公園の真西にある妙見山からの連想     斉明紀の最後にある奇妙な命令文

金印発光碑の裏鬼門にある鏡山     金印の光を反射する鏡と「N」字型

出雲大社と金印公園を結ぶ折線

妙見山の真南に坊津があることの意義     「唐大和上東征伝」のヒント

「唐大和上東征伝」と邪馬台国への道程     尾鈴山の北西に鏡山がある意味

折線からアルファベットを読み取る遊び     読み取ってみたい暗号文「謎明く裏エヌ(N)」

天孫降臨神話に秘められた暗号

ニニギの言葉に秘められた地図の暗号   水谷慶一著「知られざる古代」の実験報告

縮尺150万分の1の地図上に引いた直線の実体

地図の暗号が示唆する日本の古代国家の成立 

古代史の謎が託されている八幡神宮5社


金印の倭奴国王の墓   目 次  『日本書紀の謎を解く』の誤り(3)