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9 日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真

万葉集には謎が多く、撰者が誰であるかも分かっていません。しかし、その内容から、大伴家持が何らかの形で成立に関わっていたことを疑う学者はいないようです。

ところが、「日本紀略」の寛平5年(893)9月25日の項に「菅原朝臣新撰万葉集二巻を撰進す」とあり、その新撰万葉集の上巻の序文に、勅命を受けて万葉集の草稿を編集し直したとあるにもかかわらず、菅原道真が万葉集成立に関わっていたという学者はあまりいません。

たとえば、坂本太郎氏は「菅原道真」(吉川弘文館)において、次のように述べています。

和歌の上で、古来道真の撰集として伝えられるものに、『新撰万葉集』がある。

これは上下二巻から成り、宇多天皇の時の『寛平后宮歌合』や、『是貞親王家歌合』などの歌を録し、おのおのに歌意を漢訳した七言絶句を添えたものである。

上巻の序文には、寛平5年893)9月25日撰集の年紀があるが、筆者は誰かわからない。道真でないことは明白である。下巻の序文には、延喜13年913)8月21日の年紀があって、上巻より20年後の時となっている。

歌にそえられた漢詩は道真の作と、一おう言われているが、下巻についてそれのあてはまらぬことは、序文の年紀からも知られるし、また詩の拙劣なことは、古来学者の指摘する所であって、明らかに後世の増補である。

しかし、上巻についても、その詩を道真とすることについて、私は疑いをもつ。……

私は、これは、道真に仮託せられた多くの書物の一つではないかと思うのである。

坂本氏が、「日本紀略」の記事を無視する理由は分かりません。

ただし、日本紀略の人名表記は肩書きを伴っているのが一般であるのに、「菅原朝臣新撰万葉集二巻を撰進す」という記事には肩書きがないので、信用できないという見方があります。

このような否定的な見方に対して、中西進氏や、山口博氏のように、新撰万葉集の撰者を道真と見て、序文の万葉集に関する記述を重視する学者もいないわけではありません。

たとえば、中西進氏の「万葉集」(講談社)の解説の中には、次のような箇所があります。

「万葉集」の名が現れる最初は寛平5年(893)にかかれたとされる「新撰万葉集」の序文で、この時には「万葉集」という名で、先代の歌集がよばれていたことは、確かである。

そして「古今集」の中にも「万葉集」の名が見え、貞観年中(859〜876)に「万葉集」成立のことが話題になっているから、奈良時代の歌集が「万葉集」とよばれるようになったのは、平安朝初期のことであろうか。

また、肩書きの件について、山口博氏は、「万葉集形成の謎」(桜楓社)において次のように述べています。
なるほど、道真も『日本紀略』の他の所では「参議左大弁菅原朝臣」とか「右大弁菅原朝臣」などの肩書付きです。

私は諸資料を見ましたが、不思議な事に、道真に限って肩書の付かない表記があるのです。

古今集における大臣の作者名表記は「前太政大臣」「左大臣」とするのが一般ですが、道真に限って「前右大臣」とせず「菅原朝臣」と書きます。

醍醐天皇の日記、宇多天皇作の『寛平御遺誡(ごゆいかい)』にも「菅原朝臣」とあります。

「菅原朝臣」というのは、宇多、醍醐両天皇の道真に対するプライベートな、ファースト・ネームで呼ぶ親しさからくる呼び方だったようです。

私は、中西氏や山口氏の著書を大いに参考にしていますが、この度、両氏の見方に反する事柄を発見しました。それは、次のような表が成立することです。

日本書紀の謎を解く鍵を示す表

出発点

10年後 20年後 備考
 天平2年(730
道真を連想させる大宰府
梅花の歌32首が成立
天平12年(740
大宰府梅花の歌
書持(家持)が追和
天平勝宝2年(750
大宰府梅花の歌
家持が追和
道真が桜の花に結
びつけた後撰集の歌
は、後人の偽作
B 寛平5年(893
新撰万葉集上巻序文
延喜3年(903
道真大宰府
延喜13年(913
新撰万葉集下巻序文
道真の没年をもとに
決めた序文の年
C 仁徳の没年399年を
*で復元した値417
仁徳の古事記没年
丁卯427
倭王讃の没年
437
数式で倭王に対応
する天皇が割出せる
 雄略の元年457
雄略の没年479
雄略の古事記
没年
己巳
489
倭王武の元年477

日本書紀の年代復元
に役立つ古事記没年
日本書紀の年代 計算の結果 の関係式 *
379≦<435 407≦<435 =(+435)/2

まず、における大宰府梅の花の組合せが、道真を連想させることに注目してみましょう。

すると、昌泰4年に大宰権帥に左遷され、2月1日(太陽暦では9012月27日)に京を発つ時、道真が桜の花に結び付けたという後撰集の歌(57)は、2月27日が桜の花の時期でないことから本人の作ではありえず、後人の偽作と断定できることになります。

また、その歌(後撰57)の前に、「貞観御時、弓のわざつかうまつりけるに」という河原左大臣の歌(後撰56)があるのは、古今集の「貞観御時、万葉集はいつばかり作れるぞと、問はせ給ひければ、よみて、奉りける」という文屋有季の歌(古今997)と連携して、道真と万葉集の結びつきを暗示する狙いを秘めています。

なお、貞観御時には、道真が貞観に始まる清和・陽成・光孝の三代の正史、三代実録の編集に関係していたことに注目させる狙いもあります。

なぜなら、道真は、史記・漢書・後漢書の三史を重要な教科書とし、文選も重視した、紀伝道という学科を発展、大成させた学者だからです。

このことに関連して、坂本太郎氏は次のように述べています。

紀伝道の学問は、史学と文学の両面をもつ。史書についての深い知識をもつとともに、修史の法にすぐれた才能をもたねばならず、古今の文学書に通ずるとともに、作詩・作文の法にすぐれた技術をもたねばならぬ。

そして道真こそは、この両面において抜群な成績をあげた、たぐい稀な学者であった。

道真が中国の史書に通暁していたことは、……博士となって『後漢書』を講じたこと、……など、例証をあげるに、ことは欠かない。

それよりも史学におけるかれの造詣を見るべきものは、『三代実録』の編集に与り、『類聚国史』をみずから編集したことである。

このような日本の史書の編集は、当時においては、中国の史書についての精到な理解を基礎にもたなければできないのであるが、かといって中国の史書の知識ばかりでできるものでもない。

日本の国家と文化の特性を把握して、日本人として自国の史書を編集するという自覚に立たねばならない。

博士となって『後漢書』を講じたことがある道真が、『類聚国史』をみずから編集した際、日本書紀に金印の倭奴国王をはじめとする10倭王の記事がないことをどう感じたでしょうか。

たとえば、皇祖神天照大神が魏に朝貢していた倭王卑弥呼のことであれば、天皇の尊厳が著しく損なわれることになります。天皇家は、そのような過去を歴史に残したくないのです。

逆境にありながら、「恩賜の御衣今ここにあり。捧持して毎日余香を拝す。」と詩に詠む道真のことです。天皇の尊厳を損なうようなことをするはずがありません。

日本人として自国の史書を編集するという自覚に立」てば、当然、本来ならば許しがたい日本書紀による史実の歪曲を、躊躇なく容認するはずです。

したがって、暗号の作者は、菅原道真に注目すれば、日本書紀の謎を解く鍵が得られるように仕組んでいるのです。

その一つの現れが、上の表のです。

日本紀略に「菅原朝臣新撰万葉集二巻を撰進す」とある寛平5年(893)9月25日は、上巻序文の日付で、下巻序文の日付はそれから20年後の延喜13年(913)8月21日になっています。

延喜3年(903)2月25日に大宰府で没した道真が、それからちょうど10年後に、下巻序文を書くことはできません。

この不合理に着目すれば、上巻の序文の日付の年からちょうど10年後に、道真が没していることに不自然さを感じるはずです。

だから、10年後20年後に大宰府の梅の花の歌に追和する歌が詠まれているの不自然さに注目していれば、新撰万葉集序文の日付の年は、道真の没年をもとに決められたのではないかという疑問が生じます。

さらに、辛酉革命説によって、建国の年を紀元前660年に設定している日本書紀の年代が、数式を用いて復元できることと、その際、古事記没年が上表のC・Dのような役割を果たすことを知っているならば、に関する疑問は、明白な作為として受け取れることになります。

とはいえ、このような受け取り方に付いて来にくい向きもあるはずです。そこで、念のために、もう少し補足しておきたいと思います。


昌泰3年(900)10月11日、文章博士三善清行は道真に書を送って、次のように勧めています。
明年は辛酉で変革に当るから運命を慎まなければならない。尊閤は学者から出身して大臣に昇り、寵栄、光華、吉備公(吉備真備)のほか、並ぶ人はいない。伏して願わくは止足の分を知り、職を辞して風情を烟霞にほしいままにしてほしい。そうすれば、後生も仰ぎ視て尊ぶであろう。
「暦の百科事典」(大修館)の「辛酉革命と甲子革令」の項において、担当者の安居香山氏は次のように述べています。
中国の未来預言書とされる『緯書』に出てくる予言で、辛酉の年に革命があり、甲子の年に革令があるということである。

『日本書紀』には、……神武元年が辛酉の年とされている。果たして誰が何を根拠としていつ頃日本の紀元(皇紀)を決定したかは異論も多い。

聖徳太子が、『緯書』の辛酉革命説の鄭玄(じょうげん)の注にもとづいて、推古9年(601)辛酉の年を起点として、1260年逆算して決定したとする那珂通世博士説が、一応定説となっている。

しかし鄭玄の注では、1320年逆算説も考えられ、安居香山説は、『緯書』研究の立場から、1320年説を採っている。

この安居香山説の1320年は、神武元年の紀元前660年から山上憶良が生まれた660年の間を意味することになるので、暗号「山上憶良」を問題にする立場からは見逃せません。

安居氏は、さらに次のように述べています。

この辛酉革命・甲子革令説を世直しの革命説として取り上げたのは平安中期の三善清行で、昌泰4年(901)が辛酉の年にあたっていたため、「除旧布新」すべき年であるとして、世直しのため改元すべきことを上奏した。そして昌泰は延喜と改元された。

三善清行が辛酉革命説を積極的に取り上げた裏には、ライバルであった菅原道真の失脚をねらったものであると考えられている。

しかし、日本の歴史のうえでは、辛酉革命説はこれ以後大きく取り上げられ、60年ごとにくる辛酉の年には、必ず改元がされ、明治に入って、一代一元号とされるまで、辛酉改元が行われた。

このように、辛酉革命説にもとづく改元が道真の失脚した年から始まったのであれば、神武元年を辛酉革命説にもとづいて紀元前660年に設定したのは、この年以後と考えられないでしょうか。

次回の辛酉の年(961)のちょうど10年前、天暦5年(95110月、撰和歌所が置かれ、源順ら梨壷の5人が万葉集に訓点を施し、後撰集を撰集していることも、見逃せません。

特に、安居氏の次のような見解は、傾聴に値するのではないでしょうか。

『緯書』は、中国の前漢から後漢にかけて流行したものであるが、隋の煬帝が『緯書』を徹底的にに禁圧して以来散佚し、佚文としてしか残っていない。

そしてこの辛酉革命・甲子革令の説は、「易緯」や「詩緯」の佚文として残存しているのであるが、三善清行が革命勘文の中に引用したのが初めてで、それ以前の資料にも見られず、中国の残存資料にもない。

また中国では辛酉改元・甲子改元などは、行われていない。その意味では、日本の暦の歴史のうえにに現れている特異な現象である。

したがって、この革命説にもとづいた日本紀元設定の問題も、多くの疑問を残している説である。

このよう状況ですから、菅原道真失脚後に、辛酉革命説にもとづいて、日本書紀の年代が定められたと考える余地は十分にあるわけです。

日本書紀は無視していますが、隋書には、文帝の開皇20年600)、倭王で、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩ケ弥と号している者が、隋の都大興に使者を派遣してきたとあります。

憶良は、そのときから干支が1巡した60年後660年に生まれています。そして、さらに、それから干支が1巡した60年後720年に日本書紀が成立しています。

このことに注目すると、万葉集に9回引用されてはいるものの、名ばかりの偽書の可能性がある山上憶良の類聚歌林は、「類聚」の2字から類聚国史を連想し、道真を意識するように仕向ける方便に過ぎないのではないか、という思いにとらわれます。

もう一つ見逃せないことは、大宰府で没した天神菅原道真によって、万葉集にある語句「大君の遠の朝廷しらぬひ 筑紫の国」を、邪馬台国の所在地に関するヒントにしているのではないかということです。

遠の朝廷は、「遠」を距離とすれば、大宰府ということになりますが、時間と見れば、遠い過去のこととなり、次の柿本人麿の歌が、かなり意味深長に見えてきます。

304 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

    大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門(山門)乎見者 神代之所

「蟻通」の「虫」を無視すれば、義(意味)が通じ、「嶋門」の「鳥」を取り除けば「山門」となり、それを見れば、「神代之所」即ち、邪馬台国時代の大王の朝廷が思われる、と読めます。

このこじつけはともかく、「しらぬひ(不知火)」は、暗夜遠くに見える火を目指して船を進めると八代県の豊村に着くことができたので、その国を火国と名づけたという、景行紀の説話に登場することにこだわらずにはおれません。

この説話の後にある記事から、景行紀に記された邪馬台国所在地を示唆する直線が得られたからです。

ところで、万葉集の7首のうち2首「も・の・は」3個の辞を闕く歌になっている沙弥満誓の歌に、筑紫の綿を詠んだ、次のような歌があります。

       沙弥満誓詠綿歌一首 [造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也]

336 しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ

この筑紫の綿は、糸にできない屑繭から作った真綿のことらしいので、魏志倭人伝に台与の朝貢の貢物に、めずらしい模様の雑錦20匹があったことや、天照大神が神衣を織っていたという記事を想起します。

そこで、「大君の遠の朝廷 しらぬひ 筑紫の国」とある「しらぬひ」は、遠の朝廷=邪馬台国があった所が、筑紫の国ではあるが、大宰府のある筑前側ではなく、火の国に接する筑後側であることを暗示している、と解釈してみるのはいかがでしょうか。

なお、宋史日本国伝によれば、984年に東大寺の僧「然が宋の太宗に(日本)王年代記を献上しています。

私は、この王年代記とほぼ同時に、中国の史書が伝える倭国伝と相容れない、今日のような日本書紀が完成したのではないかと考えています。

それゆえ、菅原伏見陵に葬られた垂仁天皇の第三子景行天皇であることと、道真の第三子菅原景行であることは、偶然の一致ではなく、日本書紀が完成した時期に関するヒントと受け止めたいのです。

このような私の受け止め方は、まともに検討するに値しないものでしょうか。


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