4 梅原猛氏の「鴨山考批判」

万葉集巻2の挽歌には、柿本人麿の死に関連する、次の5首の歌が載っています。

歌人斉藤茂吉は、この5首のはじめの3首にもとづいて、探索を繰り返し、ついに人麿終焉の地を島根県邑智郡邑智町湯抱にある鴨山と決定しています。

これに対して、昭和48年(1973)に出版された梅原猛氏の『水底の歌』(新潮社)では、茂吉の説を許しがたい誤りと断定し、峻烈な言葉で、激烈な告発をしています。

その雰囲気を伝えるために、この後、同書から長文を引用してみたいと思います。


柿本朝臣人麿が石見国に在りて(みまか)らむとする時、自傷(かなし)みよめる歌一首

0223 鴨山の磐根し(ま)ける(あれ)をかも知らにと妹が待ちつつあらむ

柿本朝臣人麿が(みまか)れる時、(め)依羅娘子(よさみのいらつめ)がよめる歌二首

0224 今日今日と(あ)が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
<諸本に一云、谷尓〕とあるのを、鹿持雅澄は無視している>

0225 (ただ)に逢はば逢ひもかねてむ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

丹比真人(たぢひのまひと)が柿本朝臣人麿が(こころ)(なそら)へて(こた)ふる歌

0226 荒波に寄せ来る玉を枕に置き(あれ)ここにありと誰か告げけむ


或る(まき)の歌に曰く

0227 天ざかる(ひな)荒野(あらぬ)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし

<左注に、「右の一首の歌は作者いまだ詳らかならず。ただ、古本
この歌をもちてこの次に載す
」とあるのを、鹿持雅澄は無視している>


鴨山五首は一組で人麿の最後を語っている

……私のいおうとすることはまだ多くの人には分かるまい。私は驚くべきことを語ろうとしている。しかも、多くの人は私のいおうとすることを聞くべき耳を、まだもたないであろう。

私は茂吉説の批判を通じて、徐々に私のいうべきことを語りつつ、読者の耳を驚くべき論にならさねばならない。……

『万葉集』の歌と詞書を尊重する限り、人麿の死は、五首の歌とその詞書の正しい解釈の上に、理解されなくてはならない。

しかるに茂吉は、五首のうちの二首、つまり丹比真人の作とされる一首(0226)と、彼の作とも他人の作とも考えられる一首(0227)を、完全に無視してしまう。……

丹比真人の「荒浪に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰か告げなむ」という歌は、明らかに海のイメージである。

この、海で死んだことを暗示しているような歌は、山峡に人麿の終焉の地を求める茂吉説にとって明らかに都合が悪い。

そして、都合の悪い資料はできるだけ排除するのが、あまりにも自己意志に忠実すぎる茂吉天皇の、『万葉集』解釈の絶対的原則であった。

この歌の句に「荒浪に寄りくる」などとあっても、直ぐ人麿が海辺で死んだなどと誤魔化されてはならない。

この歌も、次の「夷の荒野」の歌も、擬歌で、空想の拵(こしら)へものであるから、全体が空空(そらぞら)しく、毫も対者に響いてくるものがない。

此等の擬歌と人麿の一首乃至娘子の二首との差別を鑑別出来なければ、到底、鴨山のこと石川のことを云々するのはむずかしい。

抒情詩としての歌の価値はごまかしの利かぬ点にあるから、従って鑑賞者は眼光紙背に徹する底の修練を以ってそれに対はねばならぬのである。

従って、「石川の峡」説は動揺せず、やはり山間を流れる川といふことになるのである。

それから、丹比真人といふ者が、仮に国府あたりにゐて詠んだとするなら、かういふ遊戯的な擬歌などを作る者は、人麿と奈何の関係にあったものか、実に怪しからぬ者で此は殆ど問題にならない。                            (「鴨山考」『柿本人麿総論編』)

茂吉よ、あなたはいったいどんな権利があって、こういう馬鹿げたことをいうのか。

『万葉集』は、丹比真人某という、名さえもはっきり名のることをはばかる人に歌を歌わせて、人麿の死に方をそれとなく暗示しようとしているのである。

しかるに、あなたにはさっぱりそのことが分からず、この悲痛な言葉も、あなたの心には豚の鳴音のようにしか聞えてこないのだ。

しかも、さらに悪いことには、あなたはこの言葉が理解できないことを、あなたの無知と鈍感のせいにせず、作者・丹比真人のせいにするのである。

こういう遊戯的な擬歌など作るのは実にけしからぬ者で、問題にはならないとあなたはおっしゃる。しかし、擬歌という言葉の深い意味をあなたは知っているのか。

真実は必ずしもいつもそのまま語れるとは限らない。真実を語れないとき、人は擬歌をつくって、ひそかに真実を伝えようとするのである。

その真実が、あなたには見えない。眼光紙背に徹する底の修練をつんだというあなたは、一体何を見ているというのであろう。

あなたの眼光は、紙背どころか紙上からはみ出してしまって、妄想ばかりを見ているのであろうか。

私は詩人が妄想にふけることをとがめようとは思わないが、あなたの妄想があまりにも散文的であることを悲しむのである。

以上の如くであるから、私が「鴨山考」を立つるに際してこの二首を眼中に置かなかった。

これまでの学者が、かういふ邪魔物をも念頭に置いたために正当の判断がつかなかったと謂つていい。

ただかういふ二首の存在する価値あるのは、この二首を作る頃すでに人麿に関する史実が朦朧としてゐて、また既に戯曲化され物語化されてゐたといふことの証拠となる点にある。

それゆゑ、人麿の史実を考察するに際して邪魔するのであるが、人麿の歿処の如きは、必ずただ一つ、欠くべからざる場処があるのであるから、その一処を飽くまで求尋しようとする者は、さういふ邪魔物は思ひきって除去してかからねばならぬ。                (同)

茂吉よ、あなたは『万葉集』から、少なくとも二首を完全に除外しようとする。四千五百三十余首におよぶ『万葉集』のうちの二首ならば、そうたいしたことではないかもしれない。

しかし、人麿の死を直接に解明できるのは、わずかに五首である。その五首のうちの二首を、あなたは全く除外、抹殺してしまおうというのだ。

あなたの口吻は全く専制主義者の口吻である。自己の命令に従わない、自己の意にそむくものは、すべて抹殺せよ。

それはまさしく専制主義者の鉄の意志であるが、あなたもまた鉄の意志をもっていう。「人麿の死を語る五首のうち、二首を抹殺せよ」と。

何のためか。あなたの「鴨山考」を絶対の真理とするために。

あなたは折口一派を、歌の詞書を無視するという理由で批難したではないか。

しかし今、あなたは詞書ばかりか歌そのものまで抹殺しようとしているが、それがはたして『万葉集』と柿本人麿を尊敬する行為であろうか。

私は、歌の本文の抹殺まで主張するあなたの詩人としての良心を、このような歌の虐殺書をほめたたえた学者たちの学問的良心と共に、根本的に疑わざるをえない。


梅原氏の本から長文を引用したのは、茂吉が「私が『鴨山考』を立つるに際してこの二首を眼中に置かなかった」という2首を問題にしたいからです。

お気づきになった方もいるのではないかと思いますが、「荒浪に寄りくる」(0226は、後人が意図的に作ったも・の・は3個の辞を欠く歌なのです。

また、「夷の荒野」(0227)の歌については、柿本人麿作の歌を次のように合成したものと見る説があります。

0029  ……  天離(あまざか) (ひな)にはあらねど* 石走(いはばし)淡海(あふみ)の国の  ……

0047 ま草苅る荒野にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにしが形見とそ来し

0212 衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道を往けば生けるともなし

0227 天ざかる夷(ひな)荒野(あらぬ)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし
       右の一首の歌は作者いまだ詳らかならず。
       ただ、古本、この歌をもちてこの次に載す。

この通り、0227は、柿本人麿作のいくつかの歌を合成したものになっているので、「古本」に載っているというのは、真っ赤なウソです。

したがって、も・の・は3個の辞を欠く歌である0226と同様に、後世の左注者または、その一派の者の作と見るべきでしょう。

つまり、茂吉が、「空想の拵へものであるから、全体が空空しく、毫も対者に響いてくるものがない」という理由で眼中に置かなかった2首は、どちらも後人の作だということになります。

それゆえ、茂吉の説を許しがたい誤りと断定し、峻烈な言葉で、激烈な告発をした、梅原氏の『水底の歌』も、正鵠を射たものではなかったことになります。

梅原氏自身そのことに気付いているらしく、1990年7月号『別冊歴史読本』に掲載された、
土淵正一郎氏の「柿本人麿の謎を解く」によると、次のように、『水底の歌』を過去の著作として、多忙を口実に、批判をかわしています。


拙著(『人麿の謎を解く』新人物往来社)では多くの人麿についての既往の説を批判したが、なかでも梅原猛氏の『水底の歌』に対しては多くの紙数を充てた。

氏に拙著を贈り反論を懇請すると、次のように峻拒してきた。

……私は今新しい人類の哲学の創造と新しい戯曲の創作に熱中していて旧著の反論に時間をさく暇はありません。

自説の評価は後世にまかせ、私は余生を汲々と新しい学問や芸術の創造に使いたいと思っています。

私は唖然となった。

反論できぬ故人の斉藤茂吉や賀茂真淵を罵倒し、歌聖人麿を水死刑に処しながら、その誤りを衝かれると、私事の多忙を口実に逃げるという、学者の良識に反する遁辞である。


梅原氏の自信満々の尊大な態度は、アッパレという外ありません。

しかし、私の指摘した事柄が皆さんに承認されるならば、『水底の歌(上)』20頁に、「私は、この峻烈な告発が、いつかは私の身にふりかかってくることを知っている」とあることが、決して謙辞では終わらないことになるでしょう。


なお、万葉集巻2には、注に類聚歌林古事記日本書紀が登場する磐姫皇后の歌(85)丹比真人が死者人麿に代って詠んだ返歌(226)との他に、
次の2首、合せて4首のも・の・は3個の辞を欠く歌があります。
大津皇子の、伊勢神宮(かみのみや)(しぬ)(くだ)りて上来(のぼ)ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首(ふたつ)

0105 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて(あかとき)露に(あ)が立ち濡れし

0106 二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ

私は、106から、伊勢物語23段の「風吹けば沖つ白浪 たつた山夜半にや君がひとり越ゆらむ」を連想します。

もしその裏に作為が秘められているとすれば、巻2の中に4首あるも・の・は3個の辞を欠く歌は、伊勢物語9段に暗号を仕組んだ連中の作ということになります。

そこまで考えなくても、たとえば、中西進氏の『万葉集』には、次のようにあります。

<「磐姫皇后の、天皇を思ひて作りませる御歌四首」(85〜88)の「磐姫皇后」対する注>

「古事記」にも嫉妬を主題とする歌物語の主人公として登場。この四首もその一種。磐姫の名はこの伝承による命名か。以下の歌も伝誦歌による詞人の制作で磐姫の実作ではない。
85と90の異同もそこに生じた。

大伯皇女の御歌二首(105・106)に対する注>

105 いわゆる大津皇子事件歌物語の内。よって最終構成は詞人の手になる。
事件は朱鳥元年(686)9月9日天武崩御、10月2日大津の謀反発覚、翌3日賜死
時に同母(持統の姉、大田皇女)の姉、大伯は伊勢斎宮、11月16日帰京。
皇位継承をめぐる草壁(天武・持統皇子、皇太子)との争いによって持統に謀殺されたか。

柿本人麿の意に擬へて報へたる歌一首(226)とある歌の作者丹比真人に対する注>

丹比笠麿か。人麿は丹比島の庇護をうけたらしく、死後、人麿伝承を丹比氏の人が伝え、それに和したもの。

<「柿本人麿の意に擬へて報へたる歌」に対する注>

右2首(224・225)への死者の返歌。

<227の左注「右の一首は作者いまだ詳らかならず」に対する注>

妻の立場の歌。伝承管理者の作。

このように、も・の・は3個の辞を欠く歌であることを意識しない万葉学者も、これらの歌を後人の作と見ている訳です。

だから、もし、万葉学者が、これらがも・の・は3個の辞を欠く歌であることを問題にするならば、万葉集に対する考え方は大転換することになるはずです。


【参考】 柿本人麻呂の正体中納言の地位を賭けて、農耕の時節を妨げる伊勢行幸を中止するよう持統天皇に諌言し、野に下った三輪高市麻呂であることを証明。

無名氏1の「茂吉と鴨山」 ← 第5回広島国際アマチュア映画祭入選作にもとづく、簡潔で、しかも、急所を押さえた紹介。

安達肇氏の「石見讃歌」の「湯抱説と邑智」 ← 現地を訪れてみようと思う方に役立つ案内書。


    

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