歌経標式の謎の歌

遊士の愛した数式への扉

【お願い】 

万葉集の歌番号は、始めから付いていたものではなく、後世に付けられたものである。
その歌番号をもとに、あれこれと論じることは、まったく無意味である。

このように思われる方は、是非とも、〔参考資料〕「国歌大観」の番号をご覧ください。

第一回本屋大賞に選ばれた、『博士の愛した数式』(小川洋子:著 新潮社:刊)に、完全数6=1+2+3,28=1+2+4+7+14,496=1+2+4+8+16+31+62+124+248 が紹介されています。

その本の帯には、「世界は驚きと歓びに満ちていると、博士はたった一つの数式で示した」
とありますが、わが国最古の歌論書といわれる「歌経標式」は、2480/5=496という、
完全数を割出す数式で、万葉集に秘められた千古の謎を解く鍵を提供していました。


謎の歌が発する警告

徒然草62段には、「ふたつ文字⇒、牛の角文字⇒、直ぐな文字⇒、歪み文字⇒」と解く四つのなぞなぞを併せて「しく」と表現した歌が紹介されています。

これに対し、わが国最古の歌論書といわれる「歌経標式」は、四つの謎を使って、
穴粉火四⇒あな恋し」と解く歌を取り上げています。

「歌経標式」(772年成る)には、種々の歌の体を挙げて説明してあるが、その中に譴警(けんけい)の歌というのがある。

譴は、しかる、せめるなどの意で譴警の語自体には、謎の意味はない。しかし、譴警の歌の実体を見ると、謎の歌ということができる。

 ねすみのいへ よねつきふるひ きをきりて  ひききりいだす  よつといふかそれ
  鼠の家    米搗き篩ひ  木を伐りて 挽き伐りいだす 四つというふかそれ
鼠の家=→あな(感動詞)、米搗き篩ひ=(こ)、木を伐りて挽き伐りいだす=
四つ=。すなわち、穴粉火四あな恋しとなるのだとの説明がある。……

木を伐りての部分を中世謎の解き方で解くと、木が無くなってゼロになる。
ひき伐りいだすで、ヒキからキを取るとヒだけ残る。

もちろん、木を伐りて挽き伐りいだすを、檜の木から火を鑽(き)り出す意味にも解し得るが、
字の出し入れによる解き方がこの頃からすでにあったとも、いえるように思われぬでもない。

譴警の歌は、歌によって世の中に警告を発することが本義で、あな恋しなどは他愛のない例のひとつなのであろう。

鈴木棠三編「中世のなぞなぞ集」(岩波文庫)

兼好は、歌経標式のこの歌に注目させるために、なぞなぞの歌を取り上げたのかも知れない。そう思った私は、図書館に出向き、「新編国歌大観」(角川書店)に当ってみました。

そこには、「歌経標式(真本)」の平仮名同様に1字で1音を表す、漢字書きの全歌28首とその作者名だけしか載っていませんでしたが、歌数の28稗田阿礼の年を意識させる上に、問題の謎の歌(作者不明)が次のように配置されていたのです。

                                             角沙弥
歌経15 しらなみの はままつがえの たむけぐさ いくよまでにか としのへにけむ

                                           浄御原天皇
歌経16 み
しのを しとくみて しといひし きひとしの きひとくみ

歌経17 ねずみのいへ よねつきふるひ きをきりて ひききりいだす よつといふかそれ
     鼠の家  米搗き篩ひ  木を伐りて 挽き伐りいだす 四つというふかそれ

                                        大神高万呂卿 
歌経18 しらくもの たなびくやまは みれどあかぬかも たづならば あさとびこえて
      ゆふべこましを

当HPの目次では、旧著から転載した「第二部 『万葉集』と山柿の秘密」のことを、「常識の盲点を突く柿本人麻呂=三輪高市麻呂説」と紹介しています。

そんなこともあって、私は、以前から大神(おおみわ)高市万呂=三輪高市麻呂の歌が歌経標式に載っていることを知っていました。

しかし、片田舎に住む素人の私は、歌経標式の注釈書さえ見たことがなく、当然ながら、歌の配置に意味があろうなどとは夢想だにしてなかったのです。

それが今回、上記の配置を知り、「穴粉火四」という訳の分らない謎の歌が、「万葉集には見過ごしてはならない重大な秘密がある」と警告を発しているように感じたのです。

柿本人麻呂=三輪高市麻呂

ところで、私が唱える「柿本人麻呂=三輪高市麻呂の主たる論拠は、万葉集巻1に見られる次の3点にあります。

(1) 44左注 持統中納言の三輪(大神)朝臣高市麻呂が、自らの地位を賭けて、農耕の妨げとなる伊勢行幸を中止するよう天皇に諫言したが聞き入れられなかった、という日本書紀の記事が引用してある。

(2) 40〜42前書き 「伊勢の国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌」とある。     伊勢行幸を中止するように諫言した高市麻呂が人麻呂ならば当然、人麻呂は京に留まることになる。

(3) 36〜39吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」の左注

日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す八月に、吉野の宮に幸す
四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す五月に、吉野の宮に幸す五年辛卯の正月
吉野の宮に幸す四月に、吉野の宮に幸す」といへば、(36〜39の歌はいまだ詳らかに(持統3〜5年いづれの月の従駕にして作る歌なるかを知らず       
左注)に持統3〜5年の吉野行幸を繰り返し記すのは、それまでの行幸に必ず従駕していた人麻呂が、持統年以降は行幸に従駕しなくなった理由に気付かせるためである。
吉野の宮に幸す」を回も繰り返すこの左注の不自然さを、専門家がこれまで問題にしなかったのは、日本書紀に、持統天皇の吉野行幸記事が、3年正月から11年4月までの間に、31回も載っているからでしょうか。

とにかく、歌経標式の謎の歌17)の前に置かれた、浄御原天皇(天武)吉野の歌16)は、「」を8回繰り返すことで、頻繁に行われた持統天皇の吉野行幸を連想させます。

そして、万葉集巻1では、27番がこの吉野の歌で、その次の28番が、三輪高市麻呂の諫言に耳を貸さなかった持統天皇の歌になっているのです。

高市麻呂高市黒人

横道にそれるようですが、万葉集巻2の挽歌に、「有間皇子みて、松が枝を結ぶ歌二首(141〜142)」があります。

万葉集の歌で前書きに「自傷」とあるのは、この有間皇子の歌と、人麻呂が鴨山で詠んだ
臨死自傷」の歌(万223)しかないことを、梅原猛氏は「水底の歌」で問題にしています。

梅原氏の説に共鳴した私は、氏が水死刑に処せられたと推論する人麻呂にふさわしい人物を物色し、三輪高市麻呂を見出したのです。

ところが、有馬皇子の自傷の歌の後に、「吉麻呂、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首(143〜144)」があり、万葉集巻1には、吉麻呂の歌と同じ場所で、同じ時に詠んだ、川島皇子作とも山上憶良とも言われる歌(万葉34)があります。

歌経標式で浄御原天皇の歌(歌経16)の前に置かれた角沙弥の歌(歌経15)は、この川島皇子作とも山上憶良とも言われる歌(万葉34)に外ならないのです。

それゆえ、浄御原天皇の歌角沙弥の歌には、次のように、「人麻呂高市麻呂高市黒人」を示唆する万葉集巻1の配置に注目させる狙いがあることになります。

                                       浄御原天皇
歌経16 み吉野を しとて しと言ひし きひとよしの き人

         (天武)天皇、吉野の宮に幸す時の御製歌
万葉27 き人の しとて しと言ひし 吉野よ き人  

  【参考】    16乗  27

         (持統)天皇の御製歌
万葉28 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

          近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌
万葉29 玉襷 畝火の山の 日知の御代ゆ 生れ(阿礼ましし……
      楽浪(ささなみ)の …… 大宮処 見れば悲しも

  【楽浪】 前漢の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして設置したの一
  現在のピョンヤン付近に政庁を置き、朝鮮の北西部を支配した。
  三世紀初め南半を帯方郡として分離、313年頃高句麗に滅ぼされた。
          反歌
万葉30 楽浪(ささなみ)の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ
万葉31 ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に( またも逢はめや(
  【参考】   <巻の柿本朝臣人麻呂の歌首(496499)より>
  万葉498 今のみの わざにはあらず 古の 人(古人)そまさりて 音にさへ泣きし(四)
          高市古人、旧き都を感傷しび作る歌〔或書には、「高市黒人」といふ〕
万葉32 古の 人(古人)に我あれや 楽浪の を 見れば悲しも

万葉33 楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れたる都 見れば悲しも

          伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌〔或いは山上憶良」〕
万葉34 白波の 浜松が枝の 手向草 幾代までにか 年の経ぬら
          〔一には「経にけむ」といふ〕

                                 角沙弥浜歌)
歌経15
 白波の 浜松が枝の 手向草 幾代までにか 年の経にけむ

これらの歌の構成は、「万葉29荒れたる都見れば悲しも」「万葉31昔の人」という柿本麻呂三輪高市麻呂が、「万葉33荒れたる都見れば悲しも」「万葉32古の人(古人)」という
高市
古人=高市黒人と同一人物であることを示唆しているのではないでしょうか。
「稗田阿礼=山上憶良」

ところで、日本書紀によれば、天武10年(681)3月、川島皇子等に、帝紀および上古の諸事を記録・校定せしめた、とあります。

また、古事記序文によると、舎人稗田阿礼は、年28のとき、記憶力の良さを買われて、
即位前に壬申の乱を体験している天皇の命令で修史事業に関係した、とあります。

ところが、天武天皇が没したのは朱鳥元年(686)9月だから、「沈痾文」から660年生まれとなる憶良年28になるのは、その翌年の持統元年(687)になります。

万葉集が暗号の書であることは、この矛盾をクローズアップするかのように、
持統元年
朱鳥元年にしていることにも表れています。

したがって、万葉集によれば、天武10年(681)阿礼年22で、持統元年=朱鳥元年(687)に天皇が年28の舎人稗田阿礼に帝紀等の暗誦を命じたことになります。

これは、古事記序文にしか登場しない稗田阿礼が暗号用に作られた架空の人物だということで、2228も暗号に使われているのです(【参照】 【舎人】吉【年】という暗号)。

それゆえ、歌経15角沙弥の歌が、万葉集では川島皇子または山上憶良となっているのも、一種の暗号ということになります。

すなわち、川島皇子を筆頭とする修史事業に関係していた縁で、憶良が川島に歌の代作を依頼された、との推測を可能にさせる前書きに作為を読み取る暗号ということになります。

そうなると、歌経標式全歌数28になっていることや、万葉28持統天皇の御製歌で、万葉29に「生れ(阿礼ましし」という句があることも、偶然ではなくなります。

これが、私の独断でないことは、歌経標式にもう1首ある角沙弥の歌歌経4美人名誉歌)が、はっきりと、阿礼=憶良と関連していることによって証明されます。


国歌大観による万葉集の歌番号と完全数
1901年(明治34)に刊行された松下大三郎編の「国歌大観」では、索引の便を図るために、すべての和歌に、底本ごとの番号をつけています。万葉集の歌番号は、寛永20年(1643)に刊行された、いわゆる寛永版本を底本として付けられたものです。

また、「完全数」とは、「自然数その数以外の約数1 を含むの和がもとの数になるような自然数。例えば 6(=1+2+3), 28(=1+2+4+7+14)など」(『大辞林』)のことです。

数式(1)〜(3)を導く 各2首

今回、小川洋子氏の『博士の愛した数式』のおかげで、舎人稗田阿礼の28が2番目の完全数であることに気付きました。

そして、万葉集の左注に9回登場する山上憶良類聚歌林が、完全数に当る番号の歌に寄り添う形で初登場することが分りました(【参照】万葉集と類聚歌林)。

さらに、3番目の完全数496(=1+2+4+8+16+31+62+124+248)によって、寛永版本に基づく、「国歌大観」の万葉集の歌番号の意義が保証されていました。

この信じ難い驚異的な事実は、歌経標式の歌とそれに対応する万葉集の歌の番号を用いた、次のような数式(割り算)によって分る仕組みになっています。

     数式(1) 2211=737 を導く 2首

妹が紐解くと結びて龍田山 みわ(美和)たすのへのもみちけらくは (歌経藤原内大臣)
妹が紐解くと結びて龍田山 今こそもみちそめてありけれ (2211 作者不明)

     数式(2) 22857 を導く 2首

妹が名は千代に流れむ姫島小松が枝の蘿生すまでに (歌経4 角沙弥美人名誉歌)
妹が名は千代に流れむ姫島小松がうれに蘿生すまでに (02/0228 【河辺宮人】)

     数式(3) 2480/496 を導く 2首
                                          大伴志売夜
道の辺のいちしのは
白妙の いちしろくしも あれ(阿礼)めやも (歌経
道の辺のいちしのはのいちしろく 人皆知りぬ 我が妻は (万11/2480 作者不明)
平方数の和

上に引用しの巻11−2480は、「以前の一百四十九は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」という左注がある一連の歌群11/2368〜11/2516に含まれています。

だから、国歌大観の歌番号が、20世紀初頭に付けられた、便宜的なものに過ぎないとしても、万葉集の編者がこの歌を含む49の数を間違えずに数えたことは否定できません。

また、491004910X10X, 251625001650X50X
と、どちらも平方数として捉えやす形になっているので、三平方定理を意識します。

三平方の定理は、測量に直結しているので、後に述べる「メートル単位で測った羊蹄山の高さ」のために伏線を張る意味もありますが、同時に、これから検討する数式が偶然によるものでないことを補強する意図があることも間違いありません。

数式(1) 2211=737

歌経標式の1番と2番の歌には、対応する万葉集の歌がありません。

歌経の歌には、2211の歌が対応しているので、数式(1) 2211=737 が成立することになります。

この場合は、2211=22X10X101122から天武10年の憶良を意識することと、数式(1)の答の737が指差す2首から読み取れる】(に意味があります。

また、「大伴」という3文字には、結句が「あれ(阿礼)めやも」となっている歌経の作者名大伴志売夜とのつながりを示す意味があります。

      大伴坂上大嬢、家持に贈る歌首(737〜738)
かにかくに 人は言ふとも 狭道の 後瀬の山の 後も逢はむ君 (737)
世の中の 苦しきものに ありけらし 恋に(あへずて 死ぬべき思へば (738)
数式(2) 22857

歌経標式には、角沙弥の歌として、山上憶良の作かもしれない「浜歌」歌経15と、
万葉集の【河辺宮人】の歌(228)が対応する、「美人名誉歌歌経)が載っています。

そして、数式(2) 22857 は、次のように、角沙弥浜歌と同じ時に詠まれた結び松の歌の作者=吉麻呂の歌(57)と、持統6年に野に下った高市麻呂と見られる、高市黒人の歌(58)を指差しています。

      二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌( 5758
引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに (万01/00 57 寸意吉麻呂)
いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟 (万1/00 58 高市黒人)
この高市黒人の歌の地名「安礼の崎」は、角沙弥の歌(歌経4)に続く大伴志売夜の歌(歌経5)の結句「あれ(阿礼)恋めやも」と同様に、稗田阿礼を意識させます。

だから、【河辺宮人】の歌の番号228は、「22822X10+8」と「228=200+28」とによって、天武10年の憶良の年22舎人稗田阿礼の年28とを表わしている可能性を否定できません(【参照】 【舎人】吉【年】という暗号)。

しかも、阿礼といえば、次に記す228434との前書きにある年代和銅四年が、阿礼の暗誦する旧辞の類を撰録して差し出すように、太安万侶が元明天皇に命じられた年です。

また、【河辺宮人】という名は、憶良の絶唱「やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして」(06/0978)の左注に登場する【河辺という名を連想させます。

さらに、【河辺宮人】の2番目の歌(03/0434)から始まる、次のような歌の合成関係を通じて、寛永版本が底本の万葉集の「国歌大観」の歌番号が正解であることが分かります。

     和銅四年辛亥【河辺宮人】姫嶋松原見嬢子悲嘆作歌 (02/0228前書き)
     和銅四年辛亥【河辺宮人】見姫嶋松原美人作歌 (03/0434前書き)
風早の【美】穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき思へば (03/0434)
風早の【三】穂の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも (07/1228 作者不明)
葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも (14/3349 作者不明 歌)
葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ (03/0433 )
風早の【美】穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき思へば (03/0434 宮人)
風早の【美】」と「風早の【三】」が同じであれば、「和」と「輪」は同じになります。

だから、角沙弥の歌歌経の前にある藤原内大臣の歌歌経に「みわ(美和)たす」とあることが、大伴志売夜子の歌(歌経の「あれ(阿礼)」と響きあうことになります。

数式(3) 2480/496

それはともかく、「葛飾の真間の」という句が共通していても、万14/3349と万03/0433とに見られる共通な数字に意義を認めることが出来ない向きは少なくないでしょう。

しかし、歌経標式目に位置する大伴志売夜若子の歌に、万葉集の巻11−2480が対応し、数式(3) 2480/496 が成立することと、

大伴志売夜若子の歌(歌経5)の後に柿本若子の歌(歌経6)が来ることに、
国文学者の想像を絶する、破天荒な意味が秘められていたのです(後述)。

           柿本朝臣人麻呂の歌496499
496 
み熊野の浦の浜木綿重なす心は思へど直に逢はぬかも
49 (いにしへ)にありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ
49 今のみのわざにはあらず古の人(古人)そまさりて音にさへ泣きし(四)
49 重にも来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かずあらむ
498は、柿本麻呂三輪高市麻呂が、高市高市と同一人物であることを示唆するものとして、先に参考に取り上げたものです。

番目の完全数8128

完全数が存在することは、三平方の定理の発見者ピタゴラス(前560頃〜前480頃)もすでに知っており、番目の完全数8128の存在も紀元前に知られていました。

だからといって、8128+2+4+8+16+32+64+127+254+508+1016+2032+4064
は、大きすぎて、万葉集の歌番号として直接用いることはできません。

そこで、8128を約数の和で表わす時の最大数4064を利用していないかを確かめてみたところ、巻18ー4065に、次のように、かなり不自然な形で、暗号のシンボルである山上憶良という名が出ていたのです。

      射水の郡の駅の館のの柱にする歌一首
朝開き 入江漕ぐなる 楫の音の つばらつばらに 我家し思ほゆ (18/4065)
         右の一首は、山上作る。名を審らかにせず。或いは憶良
         大夫が男といふ。ただし、その正しき名いまだ詳らかにあらず
4065=4064に気付けば、次のような、完全数のもう一つの特徴を想起します。

+2+X()/2=

+2+3+4+5+6+X()/2=28

+2+3+4+5+6+7+8+……+30+3131X(31)/2=496

+2+3+4+5+6+7+8+……+126+127127X(127)/2=8128

そこで、万葉集の127番の歌とその前後の歌をチェックすると、やはり歌番号の暗号が存在することが分ります。

沙弥との定理」で紹介していますが、3個の歌番号「123・124・125」をヒントとみなして、三平方の定理に直結する、ピタゴラス数を求める式が導き出せます。

この(123〜125)番の歌の後に、『口』の「」と、憶良の歌では「をのこ」と読ませている「」が気になる126番の歌「遊士風流士」があります。

しかも、126番の歌の左注には、「風流秀絶…ここに方便を作して…裏に冒隠(ものにかくせる)の形」という、暗示的な語句が見えます。

さらに、8128/8/8127番の歌にも「遊士風流士」とあるので、
遊士・風流士」にこだわれば、完全数を割り出す数式(3) 2480/496の意義を不動のものにする、8128/81016番の歌に到達することになります。

海原の 遠き渡を 遊士の 遊ぶむと なづさひぞ来し (10168128/8
        右の一首は、白き紙に書きての壁に懸(か)く。には
        「蓬莱の仙媛の化れるかづらは、風流秀才のなり。
        これ凡客の望みるところならじか」といふ。
万葉集の最終的編者

歌番号については、これまでにも、も・の・は」を欠く歌28首の最後の歌番号が、巻20までの歌を正確に残らずチェックしていることを分らせる最適値4321になっていることや、

作者名「村主・人」でつながる歌の番号355311から、311113の逆数と見なせば、円周率の近似値 355/113=3.1415929 が読み取れること等を指摘しています。

それゆえ、万葉集に歌番号の暗号が組み込まていることは分っていたのですが、今回新たに、歌経標式の歌番号とセットになっているものがあることまでもが分ったわけです。

これらの暗号の構成を見れば、万葉集の暗号の補助的役割を果たす歌経標式の著者が、万葉集の最終的編者と別人であるとは考えにくくなります。

すると、万葉集には成立の手がかりとなる序文がないのに、歌経標式の序文に年とあることが大きな意味を持つはずです。

なぜなら、「」という年号が、源憲の「三宝絵詞」を連想させるからです。

稗田阿礼=山上憶良」の暗号が意味を持つのは、「あめつち」の暗号が「稗田阿礼=山上憶良」を示すからですが、「あめつち」を後世に伝えた「源順家集」は、源憲が編集したものです。

『口』の著者でもある源憲は、詩人・文人の会合に出席する時には、常に詩と自称するを携えていたといいます。

ところで、源氏物語には、新古今調の生成に影響を与えた、多彩なレトリックに富む歌が
795首あるので、紫式部が人集まれば、万葉集の全歌数に匹敵する数の歌が作れます。

そのことと、源氏で、式部丞を経験した源憲が、紫式部の従兄の母方の伯父であることと、どこかで繋がらないでしょうか。

「源氏物語」の成立に関する情報が「紫式部」にしかなく、貫之が女性に成りすまして
「土佐」を書いていることから、破天荒な仮説が立てれるような気がするのですが……。


メートル単位で測った羊蹄山の高さ
                                           鏡
歌経1 わかやなき みとりのいとに なるまてに みなくうれたく いけてくみたり

                                          小長谷鵜養
歌経2 やまとにて われはこひむひ きのくにの さかひのうみの おきつしまのと

万葉集には、この2首の歌に対する類歌が見当たりません。

しかし、鏡王の歌に関しては、額田王の名歌とセットになった歌が、巻4と巻8に重複して載っています。このような特異なケースは、往々にして、暗号に結びついているものです。

     額田王、近江天皇を偲ひて作る歌一首 (04/0488 ・ 08/1606
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の吹く

     鏡王女が作る歌一首 (04/0489 ・ 08/1607
をだに 恋ふるは羨し をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ

無論、これだけでは、万葉集の編者が何を意図しているのか分りません。ところが、それぞれの後に続く歌を調べてみると、次のような配置から、隠された意図が読み取れるのです。

巻4の配置  鏡王女の歌(489)→(490・491) 吹黄刀自(ふきのとじ)の歌二首
                                 吹黄刀自=巻1−22の歌の作者
10の配置 歌経22の類歌(1930)→(1931)吹黄刀自の歌(491)の重出歌

巻8の配置  鏡王女の歌(160)→(160弓削皇子の御歌一首↓

10の配置 「露に寄する」(2252〜2259) に 弓削皇子の歌の重出歌(2254)がある
「水田に寄する」(2244〜2251)3回田居に重出歌<「風に寄する」(2260〜2261)

天武10年の憶良の年22
                             当麻大夫 陪駕伊勢思帰歌
梓弓
 引津の辺なる なのりそ 咲くまでに いも逢はぬかも (歌経22)
梓弓 引津の辺なる なのりそ 花咲くまでに 逢はぬかも (10/1930 作者不明)

川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて      (巻1−22 吹黄刀自)
川の上の藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも (04/0491 吹黄刀自)
川の上のい藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも (10/1931作者不明)

        旋頭歌 (07/1272〜07/1294
梓弓引津の辺なるなのりその花摘むまでに逢はずあらめやもなのりその花 (万07/1279)
      右の首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ
        (仮に、この歌を1930類歌として除けば、22首)

みまくほりかもふきみもあらなくになににかきけむうまつからしに (歌経7 内親王
みまくほり
かもふきみもすきにけりなににかきけむうまつからしに (歌経8 作者不明)

見まく欲り我がする君もあらなくに何か来けむ馬疲るる (02/0164 皇女)

歌経標式の28首中、作者名があるのは首。しかし、歌経内親王の歌は、
歌経の作者不明の歌の類歌だから作者不明とすれば、作者が分かる歌は
22首。
羊蹄山の高さ

10世紀半ばに成立したと見られる「大和物語」の150段に、猿沢の池に身を投げて死んだ采女を悼む柿本の人麿の歌(拾遺集巻20−1289)とならの帝の歌が載っています。

その、ならの帝の歌には、万葉集巻16−3788が対応し、そこで使われている「し(羊蹄)」が、巻10−1857においても使われています。

わぎもこの ねくたれ髪を 猿澤の 池の玉藻と みるぞかなしき (柿本の人麿
猿澤の 池もつらしな 吾妹子が たまもかづかば 水ぞひなまし (ならの帝)

耳成の池し(羊蹄)恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ [一] (16/3788)
年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし(羊蹄)春なかりけり (10/1857)

万葉集巻16−3788の歌の末尾にある [一]は、編者が一連の歌につけた番号です。このような例から、万葉集の編者が番号の意義を認めていたことが分ります。

ところで、皆さんは、次の引き算を衝撃的な事柄として受け取られるでしょうか。

3788−1857=1931吹黄刀自(22の作者)の歌(941)と重複する歌の番

実は、羊蹄山の高さ1898mなので、(1931+18572=1894羊蹄山の高さをメートルで表わしたものとすれば、誤差はわずかに4mということになるわけです。

この場合、羊蹄山の高さは、誤差を見て、1894士37と捉えてあることになります。
                  (1857m<羊蹄山の高さ1931m

田子の浦から羊蹄山までの間は測量されていた可能性があるので、暗号の作者はそのデータを活用して、北極から赤道までの距離を計算してみたのかも知れません。

もしそうならば、上記の事柄は、半間強の長さになる、北極から赤道までの距離の1千万分の1の長さ1mに一致)を、後世に伝える暗号の長さの単位にしていることを意味します。

なお、掖上(わきがみ)のホホマの丘に登って国見をした神武は、「なんとすばらしことだ、国を得たことは。狭い国ではあるが、アキツの臀(と)舐めのようだ。」と言ったとのことです。

国見山から見たアキツの臀舐め」では、2万5千分の1の地形図を用いて、この言葉の裏に隠された、北極から赤道までの距離の千分の1=10kmの具体例を紹介しています。

【田居に】に注目さす配置

巻8の鏡王女の歌(160)の場合は、その次に弓削皇子の歌(160)があり、
10の「露に寄せたる八首」の中の2254が、弓削皇子の歌の重出歌になっています。

     水田に寄せたる八首(2244〜2251
太刀の後 玉纒【田居に】 いつまでか 妹を相見ず 家恋ひ居らむ (10/2245)
鶴が音の 聞こゆる田居に】 廬りして 我れ旅なりと 妹に告げこそ (10/2249) 
春霞 たなびく【田居に】 廬つきて 秋田刈るまで 思はしむらく (10/2250) 

     に寄せたる八首(2252〜2259白露=はくろ⇒ばくろ=暴露>
秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは (10/2254 作者不明)
秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは (08/1608 弓削皇子) 

     に寄せたる二首(2260〜2261 省略)
<この前書きは、セットになっている額田王と鏡王女の歌の「」に合わせている>

万葉集には、4500首を超える歌が収められていますが、その中に【田居に】という語句を含む歌は、首しかありません。

したがって、「水田に寄せたる首」の中に【田居に】を含む歌が首もあるのは、作為によるものと判断できるはずです(4500本の中に当りが本しかない籤を本引いて、本以上当る確率は、ほぼ500万分の1になります)。

拾遺集の歌の意図

そこで、「たゐに」の作者源為憲の歌が採られている拾遺集に目を向けると、「水田に寄せたる首」の中の2首を人麿の歌として載せ、その前後にも気になる歌を載せています。

     三百六十首の中に                  曾禰好忠
我が背子が来まさぬ宵の秋風ぬ人よりもうらめしき哉 (拾833

      題知らず                      よみ人知らず
うら山し羨まし)朝日に当る白露を我が身となすよしも哉 (拾834

秋のの穂の上に置ける白露の消ぬべく我は思ほゆる(拾835 人麿
秋のの穂の上に置ける白露の消ぬべく我は思ほゆる (10/2246 水田に寄せたる)

住吉の岸をり蒔きし稲刈るほどまで逢はぬ君 (拾836 人麿
住吉の岸をり蒔きし稲かくて刈るまで逢はぬ君 (10/2244 水田に寄せたる)

恋しは形見にせむと我が宿に植秋萩今さかりな (拾837 赤人
恋しくは形見にせ我が背子植ゑし秋萩さきにけり (10/2119 作者不明)

恋しば形見にせむと我が宿に植藤波今さきにけ(08/1471 山部宿祢赤人)

我が背子我が恋ひをれば我が宿の草さへ思ひうられにけり (拾845 人麿
我が背子我が恋ひ居れば我が宿の草さへ思ひうられにけり (11/2465 作者不明)

君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし吹く (04/0488, 08/1606 額田王)
をだに恋ふるは羨しをだにむとし待たば何か嘆かむ (04/0489, 08/1607 鏡王女

拾835は、10世紀後半に成立した拾遺集の歌の「」を「」に置き換えれば、
31文字の最後の1字を変えただけなのに、万葉の歌として通用することを示しています。

拾836は、「」を「」にすると万葉の歌に化けることを示すと同時に、1音だけを入替えて「り」を「り」にするような言葉遊びをして見せます(↓歌経2に関するヒント)。

拾837は、」を「」とすることによって、万葉集の仮名遣いが意図的に作られたものであることを示唆しているように感じます。

さらに、拾837は、作者が同じなのに、主題である形見の「藤波」が「秋萩」に替わっている赤人作の歌の異伝歌の不自然さによって、

万葉集の、作者不明の「秋萩」の歌と赤人の「藤波」の歌が、常識に反して、拾遺集の歌をもとにして後世に作られたものであることを示唆しているようです。

拾845には、1音を入れ替えて「うられ⇒うられ」とする遊びの外に、 額田王の名歌の「我が恋ひをれば我が宿の」を用いることによって、拾833と拾834額田王鏡王女の歌を踏まえていることを示す意図があります。

1音の入れ替えによる異伝歌

万葉集に対応する歌が見当たらない歌経2では、歌経1の意図を受け継いで、1音の入れ替えによる異伝歌作りが試せるようになっています。

                                      小長谷鵜養(うかひ)
歌経2 やまとにて われはこ きのくにの さみの おきつしまのと
                  
               
歌経3 いもかひも とくとむすひて たつたやま みわたすのへの もみちけらくは
                                           藤原内大臣

日文研 歌経標式_真本(竹柏園本)による

<1音の入替え>   きのくにのさか ⇒  きのくにのさ 
紀の国の雑賀の浦
に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ (07/1194 藤原卿)

<1音の入替え>   われはこひむひ ⇒ われはこひ
布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ (05/0906 古日の父?)

数字遊び (07/1194)+(05/0906)12/2100)  1年12の謎を解く歌経21

万葉集には、「きのくにのさか」という句を含む歌はありませんが、「さか」の「」と「」の順序を入替えて「」とすると、作者が藤原卿となっている「きのくにのさか=紀の国の雑賀」という句のある歌が見つかります。

藤原卿は、歌経3の作者の藤原内大臣と同一人物と見ることが可能ですから、この文字の入替えがもたらした結果は、偶然によるものではないことになります。

その証拠に、藤原卿の歌の番号1194を、藤原内大臣の歌の番号3で割った1194/3
は、万葉集巻3の「藤原朝臣束の梅の歌」の歌番号に一致しています。

また、山上憶良、沈痾の時の歌一首」の左注には、山上憶良が痾に沈んだ時、藤原朝臣束が河辺朝臣を遣わして病状を見舞わせたとありますが、その歌番号のの順序を入替えた9番が「藤原朝臣の月の歌」になっています。

つまり、の順序を入替えた9番が「藤原朝臣の月の歌」になることが意図的な編集に基づくものであることが、「山上憶良山上憶良」の「」の入れ替りと、「藤原朝臣藤原朝臣」の「朝臣」の入れ替りで示されているわけです。

もう一つの1音の入替えは、「われはこ」の「」を「」とすることです。こうすれば、我れは祈ひ祷むわれはこひ」という句のある906番の歌が見つかります。

そして、「(906番の歌の)作者は明らかでないが、歌の作り方が山上の操作に似ているので、最後に載せる」という、「男子名は古日に恋ふる歌首」につけられた左注でもって、
憶良特集の観がある万葉集巻は終っています。

ところで、「布施」は、三宝に施与する金品ですから、源為憲の「三宝絵詞」に結びつき、
古日」は事記と本書紀の頭文字になっています。

だから、「布施」を「伏せ」と読めば、この歌は、源為憲が、事記と本書紀に仕組んだ暗号の解読されることを乞い祈っている歌と見ることが可能になります。

千年のなぞなぞの答

ところで、地図を作成するためには見通しのきく地点に三角点を定め、各三角点の間を測量し、地表を覆う三角を作成します。

基本となる三角点は山上にあることが多いため、「山上の操作」という語句は、地図作成のための測量を連想させます。

一方、伊勢物語32段の「のしづのをだまき繰り返し昔をなすよしもがな 」を踏まえている拾834の「なすよしも哉」から、伊勢物語と古今集を意識します。

そして、伊勢物語と測量といえば、同9段の富士山が比叡山の20倍という表現には、
富士山の高さが羊蹄山の高さのピタリ2倍であることに気付かせる狙いがあります。

よって、藤原定家が、拾834の「羨まし」を「うら山し」と表記しているのは、「」に万葉仮名の「羊蹄」を当てて、「山し」から「羊蹄山」を意識させようとしているのかもしれません。

いずれにしろ、拾833の曾禰好忠の歌の前書き「三百六十首の中に」には、「羊蹄山の高さ」に関する暗号とセットになっている驚異的な暗号のヒントが示されているのです。

なぜなら、好忠集には、毎月集と呼ぶ、1年360日を、4季12月3旬に分けて、1日1首ずつ日記的な形に詠んだ連作があります。すなわち、360は、太陰暦の1年の日数を意味しているのです。

これに対し、古今集巻1巻頭年内立春「年の内に春はきにけりひととせを去年とやいわむ今年とやいわん」は、周期365日太陽暦太陰暦とのズレを示す歌です。

このような事柄を念頭において、次の一連の歌に接するならば、曾禰好忠が千年経っても解けまいというなぞなぞを解く手がかりが得られることになります。

      なぞなぞ物語しけるところに            曾禰好忠
我が事は えもいはしろの 結び松 千とせをふとも 誰かくべき (拾526

岩代の野中に立てる結び松心もけずいにしへ思ほゆ (拾遺854・1256 人麿

      寸意吉麻呂、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌
磐代の野中に立てる結び松心もけずいにしへ思ほゆ (02/0144)

拾遺集は、ご丁寧にも、8541256とに重複させて、万葉集の寸意吉麻呂作の
「結び松」の歌(万144)を、人麿の歌として載せています。

これに対し、万葉集が吹黄刀自の歌(04/0491)と作者不明の歌(10/1931)として重複させて載せる「つ藻の」の歌番号に関して、144を意識した次の式が成立します。

19314911440=144X10=1212X10

そこで、柿本人麻呂の正体である三輪高市麻呂という名が、巻1の44番の左注に出ていたことを重視して、巻1−44144を表わすものとして捉えておきます。

すなわち、巻1−44=144の平方根(ルート)、√144=121年12月を表わしていると見るわけです。

ところで、歌経6柿本若子の歌には、次のように、万葉集巻3−240柿本人麿の歌が対応しています。

ひさかたの天行くに刺し我が大君は蓋(きぬがさ)せり (歌経6 柿本若子
ひさかたの天行くに刺し我が大君は蓋(きぬがさ)せり (万240 柿本朝臣人麿)
この2首のは、地図作成に必要な、地表を覆う三角を連想させます。

しかも、この2首の歌番号に関しては、数式(4) 240/=40 が成立します。

そして、この240/=40によって、私が唱える「柿本人麻呂=三輪高市麻呂」説の
主たる論拠のひとつが、次のように示されることになるわけです。

       伊勢の国に幸す時に京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌(4042

の浦に舟   乗りすらむをとめらが玉裳のすそに 潮 満つらむか(万40
鳴呼見乃浦尓 船乗為良武 嬬等之 珠裳乃須 十二四宝三 都良武香 (01/0040)
                                 

【参考】 数字遊び (01/0044)+(04/0511) ⇒ 人麻呂=高市麻呂
          =(
05/0555) ⇒ 和銅年正月廿八日  正位上勲
             (『事記』序文)                     太朝臣安萬侶  

      当麻人麻呂が妻の作る歌 (歌経22当麻大夫 陪駕伊勢思帰歌に対応
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ (万01/0043)

伊勢行幸に従駕した石上麻呂の歌。左注に高市麻呂諫言の記事 (万01/0044)

     伊勢の国に幸す時に当麻麻呂大夫が妻の作る歌一首
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ (万04/0511)

浦(裏)」の「」は万葉仮名では「鳴呼見」になっています。感嘆詞「鳴呼」がつく「」は、一体なにを意味するのでしょうか。

為憲の「三宝絵詞」の序文には、 【河】権守源為憲は、恩をいただけることよりもく、志を懐ける事よりも【宮人】なり」とあります。

この文章は、228434の前書きの人名【河宮人】を意識させるので、万40かられば読み取れる「三宝」「為乗」は、「三宝絵詞」の著者源為憲の自署のようにえます。

それはともかく、数とは、割り算の割る方の数のことなので、「」とすれば、「十二四宝三十二四法」が成立し、その意味を「12/4」と解することが出来ます。

これは、好忠集が、1年360日を、12に分けているとに重なります。

そして、曾禰好忠が千年たっても解けまいというなぞなぞが、歌経21の柿本若子の歌
ヒントに、「ルート記号の中に数字をはめ込む」と魔法のように解けるのです。

天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川(谷) 浦なみか 舟の寄り来ぬ  礒なみか 海人釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来 海人の釣舟 (歌経21 柿本若子

天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川(長) 浦なみか 舟の寄り来ぬ 礒なみか 海人釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来海人の釣舟 (13/3225)

すなわち、巻1−44=144として√144=12が、1年12月を表わしていると見た先例に倣って、巻13−3225=133225として√133225を求めてみるのです。

もし、お手元に電卓があれば、133225√ の順にキーを押してみて下さい。

鳴呼!そこに現れる答の365は、太陽暦1年365日、すなわち、立春周期に一致しているではありませんか。

暗号が存在する理由

歌経標式と万葉集の関わりは、まだまだ研究の余地がありますが、以上の事実によっても、両書が同時代に、同一目的を持って作成されたものであることを認めざるを得なくなります。

それにしても、何故このような暗号が存在するのでしょうか。
この疑問に詳しく答えることは、残念ながら、浅学菲才の私に出来ることではありません。

けれども、これらの暗号が、日本語の秘密、ひいては、日本国成立の秘密の解明に役立つものであることだけは、間違いないと断言します。

今後は、このような観点から、HP作りが出来ればよいと思っています。よろしく m(_ _)m


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