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太安万侶の墓の秘密と野見宿禰

菅原道真のご先祖さま=野見宿禰

菅原道真が日本書紀の謎を解く鍵になるという意外な結論を得て、新たな展望が開けてきました。それは、野見宿禰が道真の先祖に当るということです。

このことに関連して、続日本紀は、天応元年(781)6月に聴許された、次のような、土師宿禰古人らによる請願文(↓坂本太郎氏の要約)を載せています。

土師の先祖は天穂日命から出ています。命の十四世の孫を野見宿禰といいました。

垂仁天皇の時には、古代の風習が残っていて、凶事の場合には、殉死者を生きながら埋葬することが行われていました。

たまたま皇后(日葉酢媛命)が薨去したので、天皇はその葬礼をどうするかと、群臣にお尋ねになりました。

群臣は従来通りと申し上げましたが、野見宿禰ひとり、殉埋の風は仁政にそむき、国を益し人を利する道でないことを奏上し、土師三百余人を指揮して、埴土をとり、いろいろの物象を作って差し上げました。

天皇は喜んで、これをもって殉死にかえました。これが埴輪であります。……

つらつら土師の先祖の業を顧みますに、昔は吉凶半々でありまして、天皇・皇后の葬儀にあずかると共に、祭日の吉事にも奉仕してきました。

所が、今はそうではありません。もっぱら、凶事にばかりあずかっています。祖業を思うに、これはその意とする所ではありません。

どうぞお願いですから、居住地の名をとって、土師の姓を改め、菅原とさせて下さい。

坂本太郎「菅原道真」(吉川弘文館)

魏志倭人伝には、247年(正始6)、卑弥呼が死んだとき、大規模に、直径百余歩の塚をつくり、男女の奴隷百余人殉葬したとあります。

また、日本書紀では「卑弥呼+台与」になっている神功皇后の陵と同じ墳丘長(276m)の箸墓から、壷形の土師器と埴輪や特殊器台形埴輪が採取されています。

それゆえ、日本書紀では、土部百人となっていますが、垂仁32年7月6日の項に、野見宿禰の進言により、殉死にかえて埴輪を用いるようにした、という記事があることは重要です。

しかし、今回は、それに先立つ垂仁7年7月7日の項に、相撲のはじめといわれる、当麻蹶速と野見宿禰の力競べの記事があることを問題にします。

菅原道真は、892年成立の類聚国史の相撲の部に、日本書紀のこの記事をそっくり載せています。(坪田敦緒氏のHPにある、相撲評論家之頁史料庫野見宿禰で確認できます。)

さらに、893年9月25日の項に「菅原朝臣新撰万葉集二巻を撰進す」と記す日本紀略にも同様に、垂仁7年7月7日の項に、この記事を載せています。(同上

けれども、垂仁天皇に関して、治世99年、御年140歳(古事記では153歳)とする日本書紀の記録は、無論、正常な暦にもとづくものではありえません。

そうなると、三連続の7という著しい特徴がある日付、7年7月7日も史実そのものではなく、何か特別な意図があって選ばれたものとみ見ざるをえません。


7年7月7日に秘められた意図

まず考えられることは、聖武天皇の頃に、七夕の日の行事として天覧相撲が行われていたことを反映するものではないかということです。

たとえば、続日本紀の天平6年7月7日の項には、「天皇が相撲を 御覧になり、その夕方には南苑において文人に七夕の詩を詠ませた」とあります。

また、万葉集には、山上憶良の作として、巻5に、相撲使の従者として都へ向う途上で没した熊凝のための歌6首と漢文の序があり、巻8に、七夕の歌12首が載っています。

しかし、3連続の7にこだわれば、続日本紀に記された、古事記の撰者太安万侶の没年月日が養老7年7月7日であることに注目せざるをえないのではないでしょうか。

ところで、新撰万葉集の序文には署名がありませんが、日本紀略には、893年9月25日の項に、「菅原朝臣新撰万葉集二巻を撰進す」とあります。

この893年道真が没した903年のちょうど10年前に当り、9月25日という日付は、新撰万葉集上巻に記された日付です。

問題は、下巻の日付が道真が没した903年のちょうど10年後913年の8月21日になっていることです。いかに道真といえども、没後10年に序文を書くことはできません。

したがって、新撰万葉集下巻の序文は偽書となりますが、その撰者を菅原道真とする日本紀略(撰者未詳)と道真の類聚国史が、日本書紀の垂仁7年7月7日の記事を引用していることは、かなり暗示的であるといえないでしょうか。

どうやら、7年7月7日という特異な日付に秘められた意図は、古事記序文、ひいては古事記そのものが偽書だということを問題にせよということではないか、と思われるのです。

古事記が偽書であることは、一部の天皇について記されている没年干支が、日本書紀の年代復元に役立つことや、字母歌の暗号が阿礼=憶良を示すことから明らかです。
(【参照】 「あめつち」の暗号と山上憶良 「いろは」の暗号「天の欠く山」

しかし、太安万侶の墓誌が出土したことによって、古事記偽書説は過去のものになったと信じて疑わない向きは、上のような事柄を冷静にチェックすることはないでしょう。

そこで今回は、太安万侶の墓誌そのものが疑わしいことを指摘してみたいと思います。


太安万侶に関する史料の疑問点

太安万侶に関する有力な次の三つの史料には、ずい分おかしなところがあります。

左京坊従位下勲等太朝臣安萬侶以癸亥

七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳                 (墓誌銘)

和銅年正月廿八日   正位上勲等太朝臣安萬侶          (『古事記』序文)
(養老七年)秋七月庚午(七日)民部卿従四位下太朝臣安麻呂卒      (『続日本紀』)
まず、墓誌銘では、「左京坊従位下」と、3回連続し、『古事記』序文では、「和銅年・正位上勲等」と、3回使われていることが目立ちます。

ところが、続日本紀には太安万侶が勲等を授かったという記録はなく、さらに、勲等は正位上にはふさわしいけれど、従位下にはつりあいません。

安万侶の墓誌を作成した関係者は、なぜ、見栄えがする「民部卿従四位下」とせず、「従位下勲等」と記したのでしょうか。

これらの事柄は、『続日本紀』が記す太安麻呂の死亡日が、3連続の7の養老7年7月7日であることに注目するものにとっては、作為の存在の裏づけのように見えます。

もっとも、このような事柄は、墓誌の最初の発見者=竹西英夫氏の住所、奈良市田原此瀬町四四四に見られる3連続の四と同様に、問題にならないといわれるかもしれませんが……。

しかし、何人にも無視できないのは、続日本紀の死亡日7月7日と墓誌の死亡日7月6日との間に1日のズレがあることです。

なお、この件に関しては、墓誌の方に重きを置き、続日本紀の方を誤りする考え方が有力なようです。

また、序文の署名「安萬侶」の「萬侶」が、一般的な「麻呂」でないことも、墓誌が出土したことによって、正しかったと受け取られています。

つまり、人骨を伴う墓から出土した墓誌には、後世の作りものと疑う余地などないので、文献よりも確かな物的証拠として絶対視されている訳です。

しかし、景初三年という銘のある三角縁神獣鏡を中国製の鏡と見ることに無理があることを思えば、太安万侶の墓誌も、もっと慎重に検討する必要はないのでしょうか。


神亀六年二月九日というヒント

神亀6年8月5日に年号を改めて天平元年としたため、続日本紀には、神亀六年というページはありません。

このことに関連するかのように、万葉集巻8の「山上臣憶良が七夕の歌12首」の冒頭の2首には、それぞれ次のような注がついています。

右は、養老八年七月七日に、令に応ふ(1518)」
右は、神亀元年七月七日の夜に、左大臣(長屋王)の宅(1519)」
養老8年2月4日に年号を改めて神亀元年としたので、養老八年七月七日は存在せず、しいて言えば、この年月日は神亀元年七月七日に該当することになります。

万葉集の編者が年代に無関心なはずがないので、隣り合った歌の注に、同じ年月日が2通りに表されているのは、故意によるものと考えられます。

すると、その狙いの一つは、養老八年七月七日養老七年七月七日の誤記と見れば、太安麻呂の没年月日に一致することにあるといえそうです。

ところが、続日本紀で神亀六年二月九日に当る天平元年2月9日の箇所を調べて見ても、該当する日付の記事はありません。

その代わり、2月10日の項には、長屋王が謀反を企てていると密告され、その夜、左京にあった邸宅を藤原宇合らが指揮する兵に包囲されたという記事が載っています。

翌日罪を問いただされた長屋王は、その次の日、自殺し、妻子も後を追って首吊り自殺しています。

この事件のあった8年後、権力の座を独占していた藤原4兄弟が、こぞって天然痘で死亡し、聖武天皇は長屋王の怨霊におびえることになります。

2人の安万侶の墓誌が、このような事柄を示唆するようになっていることは、怨霊として恐れらた菅原道真が日本書紀の謎を解く鍵になっていることと無縁ではないはずです。

【参考】 長屋王  長屋王の怨霊  長屋王の変  聖武天皇  菅原道真


漆喰に託された種明かし

太安万侶の墓についてふれている書物は少なくないでしょうが、その墓に漆喰の破片が混じっていたことをきちんと書いているものはどれだけあるでしょうか。

私は、紛れ込んだ理由が分からないので無視されているこの漆喰の破片が、太安万侶の墓に関する秘密の鍵になっているのではないかと思うのです。

漆喰の謎を解くためには、太安万侶の墓が、どのような場所にあるかをはっきりさせる必要があります。

次の国土地理院発行の1/25000の地形図のコピーは、太安万侶の墓がある「大和白石」に手を加えたものです。

なお、春日宮天皇とは、白壁親王が即位して光仁天皇となったので、父の施基(志貴)皇子に追号したものです。

上図のような直角三角形を描き、底辺と高さを測り、PC付属の電卓で、
まず、「高さ/底辺=」を求め、□Invの□にチェックをいれて、
tanキーをクリックすれば斜辺の傾きを示す角度が求まります。

この図の場合は、4.4/7.75=(計算結果0.56774193548387096774193548387097)を求め、
□Invの□にチェックをいれて、tanキーをクリックすれば、斜辺の傾きを示す角度、
29.585394500749782915226808783056(度)⇒30度が得られます。

もし、この図で求めた角が正方形を対角線で2等分した時の角45度ならば、光仁天皇陵が春日宮天皇陵の鬼門に当ることになります。

そのようなことを忌み嫌ったからでしょうか、斜辺の傾きを示す角度は、この図のように正三角形を2等分してできる、30度や60度になる場合が多いようです。

それはともかく、この地図が示すように、太安万侶の墓は、光仁天皇の父である施基皇子の陵墓=春日宮天皇陵と光仁天皇陵を結ぶ直線にかなり近い位置にあるわけです。

続日本紀によれば、781年12月に没した光仁天皇は、翌年1月に広岡山陵(位置不明)に葬られたが、786年に施基皇子の陵に近い現在位置に改葬されています。

したがって、常識的には723年12月に葬られた太安万侶の墓の位置を決める際に、光仁天皇陵を意識したということはありえないわけです。

逆に、もし太安万侶の墓の位置が光仁天皇陵を意識して決められていることが分かれば、その墓は後世に作られた偽物となり、当然墓誌も偽物ということになるわけです。

そこで問題になるのは、白い漆喰で塗った壁が白壁だということです。すなわち、太安万侶の墓に混じっていた漆喰が、光仁天皇の名白壁を意識させることです。

これは、とんでもない思いつきのようですが、太安万侶の墓の位置に秘められた特異性を知れば、大いにあり得ることと考えざるを得なくなるはずです。


謎に満ちた巨石益田岩船

奈良県橿原市南妙法寺町の石船山の中腹にある益田岩船は、東西の長さ11m、南北の長さ8m、北側の高さ4.7mという巨石ですが、南側から見れば、写真(左)のように、いくらか船の形をしているように見えるのでしょうか

ところが、この巨石には、上部に深さ1.3mの四角い穴が二つ彫ってあるので、墳墓説、占星台説、物見台説、漏刻台説、日没観測台説、そのほか多くの説が発表されている、とのことです。


きつわき氏のHP「あすかラブ」より

 


坂本正治氏のHP「同行二人」より

私は、この益田岩船には、使途不明の人工の巨石が、何故こんなところにあるのかを、後世の人に考えさせる狙いがあるように思います。

そこで、私は、この益田岩船を、畝傍山山頂とセットにして、太安万侶の墓の位置を決めるためにも用いられた、後世に必ず残る、測量の起点の目印としてとらえてみました。

もう一つの目印である畝傍山山頂は、益田岩船の北2500mのところ位置し、その背後に、神武天皇陵や綏靖天皇陵があります。

記紀によれば、第2代綏靖天皇は、実兄の神八井耳命と自分を亡きものにしようとしている庶兄手研耳命の密計を察知し、先帝神武を山陵に葬るのが終わる機会に、先手を打って、手研耳命を暗殺しています。

その時、臆病風に吹かれて矢を射ることのできなかった兄の神八井耳命は、皇位継承を辞退して弟に譲り、神祇を奉斎することになります。

日本書紀には「この命が多臣の始祖であると」あり、「4年4月、神八井耳命が薨去された。そこで畝傍山の北に葬った」とあります。

古事記によれば、神武没後、手研耳(当芸志美美)命と結婚した皇后の伊須気余理比売が、次の歌で、わが子に手研耳命の密計を知らせたとあります。

狭井河よ 雲起ちわたり 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす

畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる

このように、太安万侶の先祖の神八井命と畝傍山が暗号の形で結びつくのであるから、安万侶の墓と畝傍山山頂の位置との関係に特異なことがあれば、そこに作為を認めるべきではないでしょうか。

なお、日本書紀が神八井耳命を、単に、「多臣の始祖」とするのに対して、古事記では、次のようになっています。

神八井耳命は、意富(おお)臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣らの祖先です。
これによれば、古事記の撰者は、神八井耳命が他の多くの氏族の始祖ではなく、多臣のみの始祖であることを、みずから否定していることになります。

この事実は、神八井耳命が太安万侶一族のみの始祖であることを古事記の撰者が重視していないことを意味しかねないので、真の古事記の撰者は太安万侶ではないことを示す材料となるかも知れません。

それはともかく、実をいうと、太安万侶の墓の位置は、春日宮天皇陵と光仁天皇陵を結んでできる直角三角形を意識させるだけでなく、次のような特徴を備えているのです。

斜 辺 (地形図1/50000→) 

高さcm 底辺cm 角度 特徴
山部赤人墓→小治田安万侶墓

8.75

5.2 59.28 60度
畝傍山→太安万侶墓 38.35 22.5 59.56 60度
益田岩船→太安万侶墓 43.3 21.75 63.33 2:1
小治田安万侶墓→太安万侶墓 15.25 7.65 63.36 2:1

特 徴 60度  底辺 : 斜辺 : 高さ = 1 : 2: √
特 徴 2:1   底辺 : 高さ : 斜辺 = 1 : 2: √

益田岩船の意味や小治田安万侶の墓誌と太安万侶の墓誌の類似、それに畝傍山と多氏の関わりは、これまでに指摘したとおりです。

それに加えて、山部赤人の墓が出てくるのは、光仁天皇の皇子で794年に平安遷都した桓武天皇の名が山部だからではないでしょうか。

桓武天皇は、実弟で皇太子の早良親王を、藤原種継暗殺事件に連座したとして淡路に流しましたが、親王が途中断食して絶命したことから、怨霊を怖れて崇道天皇と追号しています。

参考】 白壁王  山部親王(桓武天皇)  山部赤人

なお、山部赤人の墓と光仁天皇陵の間には、斉明天皇陵を介して右図のような関係があります。

壬申の乱によって、天武系に継承されるようになった皇位が、光仁天皇から再び天智系によって継承されるようになったわけです。

それゆえ、斉明天皇陵が光仁天皇陵と結びつくのは、斉明天皇が天智・天武両天皇の母親だからと考えることができます。

崇神紀には、大物主神の祟りで多くの人が死んでだとあります。だから、右図で、斉明天皇陵の鬼門に大神神社があることは、桓武天皇が祟りに苦しめられたことを表わすことになるのでしょうか。

ともかく、怨霊として怖れられた菅原道真に日本書紀の謎を解く鍵があると見れば、先入観から開放されて、怨霊をヒントに、太安万侶の墓のありようが見えてきます。

太安万侶の墓が後世に作られた偽物で、その墓誌も偽物なら、古事記は偽書と断定でることになります。

そして、古事記を偽書として正しく捉えることによって、歪曲された日本書紀の読み方も変わってくるのではないでしょうか。

また、「古墳の大きさが示唆する箸墓の被葬者」「巨大古墳から読み取れる古代史の秘密」にふれたような、考古学関係者の発想にはない視点から、古墳の研究をすることも可能になるのかもしれません。

一日も早く、その日が来ることを期待しています。


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