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捏造・変形された天皇陵


このページの狙い

これまでに見てきた巨大古墳の位置関係によれば、例えば、仁徳陵と箸墓は、9世紀以降に、ある意図を持って、根本中堂の位置を意識しながら築造された可能性が生じます。

こんな常識に反する可能性を探るために、「歴史読本」臨時増刊(1987年6月号)の巻頭カラー「捏造・変形された天皇陵」(編集部)を引用し、適宜所感を加えてみます。

拙い指摘ですが、文久や明治の治定の際には、正確な測量が可能だったはずだから、治定の根底にある日本書紀の陵墓記事は正確な測量に基づくものだったことになりそうです。

なお、Google マイマップは、表示されるまでに時間が掛かりますが、位置関係の特徴が実感できる上に、拡大縮小・「航空写真」・「地形」への切り替えや、「その他」も楽しめます。


捏造・変形された天皇陵

古代にアプローチする旅にでると、かならず目に入ってくる文字がある「立入禁止宮内庁」……そこに決して足を踏み入れることのできない空間が存在することを知る。これが天皇陵である。

巨大古墳の多くは、天皇家の墓(天皇陵)として宮内庁書陵部が管理している、しかし数多い陵墓の中で、被葬者が判明しているのは、天智、天武・持統陵の二つだけともいわれ、他はすべて古代史の闇の中である。

驚いたことに初代、神武天皇をはじめとする神話上の天皇たちの陵も存在しているのが、実状なのだ。

学問的に疑問の多い古代天皇陵は、幕末の勤皇思想の高まりの中で行われた文久の修築から明治にかけて治定された”急造の天皇陵”といえそうである。

所感

古代の天皇陵に関する最も重要な文献は日本書紀ですが、たとえば初代神武天皇の在位期間が紀元前660年〜587年になっていることをそのまま受け入れることはできません。

ところが、神功紀における卑弥呼と台与の記事の年代が、百済王関連の記事の年代と比較して120年ずれていることをヒントにすれば、日本書紀の年代は復元が可能なのです。

そして、「神武天皇をはじめとする神話上の天皇たち」とは、倭国大乱で邪馬台国王に倭王の座を取って代わられた、倭奴国の王たちに相当することが分かります。

つまり、日本書紀の年代を復元すれば、幕末の勤皇思想の高まりの中で行われた文久の修築から明治にかけて治定された”急造の天皇陵”の意味が若干理解しやすくなるのです。


神武陵

今の神武陵が造られたのは、わずか124年前の文久3年(1863)のことである。この時、陵墓治定の根拠となったのは、『記紀』『延喜式』の地名考証だった。

当時、畝傍山麓の丸山、ミサンザイ、塚山の三つの候補地が挙がったが山陵奉行相談役谷森善臣の意見が重んじられ、神武陵はミサンザイに治定された。

修築工事は七ヶ月にわたって行われ、水田の中の土檀(神武田)を基盤に方形の二重の丘を築き、裾は石垣でかためられた。鳥居や石燈籠も配され、周囲は柵でかこまれた。

またそれまで150年間、神武陵といわれてきた塚山は、15年後の明治11年(1878)に綏靖陵に治定され現在に至っている。

欠史八代

欠史八代の中の安寧〜孝霊陵はすべて、古墳ではなく、自然丘の裾の部分を丸く囲んだだけだと考えられている。

孝元陵

剣池に三方を囲まれ、水田に黒い影を落としている孝元陵(中山塚1〜3号墳)だが、元禄の絵図の写本である『御陵所考』を見ると三つの古墳があるのがわかる。

つまりこの古墳は、丘の上にあった三つの古墳を垣で囲んで、一つの陵墓にしてしまったのである。

所感

日本書紀では、年代延長の種明かしをするために、初代神武天皇だけでなく、第10代崇神天皇のことも、「ハツクニシラス天皇(スメラミコト)(初代天皇に相当)」と呼んでいます。

その証拠に、日本書紀の年代を復元すると、神武天皇には、金印の倭奴国王が対応し、崇神天皇には、邪馬台国の女王卑弥呼の後継者、台与が対応します。

したがって、神武天皇に対応する倭奴国王の墓は、天明年間(178188)に銅鏡を多数副葬した甕棺が発見された、糸島市(2010年1月1日以後)井原鑓溝遺跡の王墓のはずです。

欠史八代の中の安寧〜孝霊も、対応する王の名は不明ですが、その墓は糸島市にあるはずなので、宮内庁が管理する陵が ”急造の天皇陵”であることは間違いありません。

なお、年代を復元すると、孝元天皇と開化天皇との時代が卑弥呼の時代に対応します。

だから、崇神天皇に祟った、大国主神の和魂(にぎみたま)という三輪山の神、大物主神は、天照大神=邪馬台国女王に国譲りをした大国主神=倭奴国王に相当します。

孝元天皇陵の鬼門(東北)三輪山があるので、丘の上にあった三つの古墳を垣で囲んで一つの陵墓(孝元陵)にした狙いは、「三和」を意識させることかもしれません。

それはさておき、このような事柄に興味を感じ、神武天皇と欠史八代の天皇の陵について、特徴ある位置関係をチェックしたところ、思いもよらない、出来すぎの発見がありました。

すなわち、どの天皇陵にも、特徴ある位置に対応する天皇陵があり、特に孝元天皇陵には、三輪山のほかに、綏靖天皇陵と孝安天皇陵とが対応していることや、

「安寧天皇陵→キトラ古墳」「綏靖天皇陵→太安萬侶墓」「日本武尊白鳥陵→太安萬侶墓」「神武天皇陵→天武・持統合葬陵」のように、意味深長な対応が存在していたのです。


神武天皇陵と欠史8代の天皇陵(←Google マイマップ)

対象 北緯,東経(←解説つき) 方位角(逆)/距離 特徴
1代神武天皇陵→
40代天武・41代持統合葬陵
342950.72,1354716.72
342807.33,1354828.12
150°1352″
(330°1432)
3,670(m)
2代綏靖天皇陵→
8代孝元天皇陵
343001.62,1354722.83
342853.53,1354810.52
149°5309
(329°5336)
2,425(m)
3代安寧天皇陵→
32代崇峻天皇陵
342924.43,1354641.72
342924.92,1355137.44
89°5144″
(269°5431″)
7,545.(m)
4代懿徳天皇陵→
1代神武天皇陵
342918.33,1354653.92
342950.72,1354716.72
30°1358
(210°1411)
1,155(m)
5代孝昭天皇陵→
37代斉明天皇陵
342727.60,1354351.12
342727.83,1354605.32
89°5215.
(269°5331)
3,425(m)
6代孝安天皇陵→
8代孝元天皇陵
342719.02,1354456.06
342853.53,1354810.52
59°3446
(239°3636)
5,754(m)
7代孝霊天皇陵→
28代宣化天皇陵
343524.62,1354204.75
342841.6,1354648.0
149°4740
(329°5021″)
14,367(m)
8代孝元天皇陵→
6代孝安天皇陵
342853.53,1354810.52
342719.02,1354456.06
239°3636
(59°3446)
5,754(m)
9代開化天皇陵→
13代成務天皇陵
344101,1354926.4
344147.1,1354750
300°05′
(120°04′)
2,835(m)
9代開化天皇陵→
51代平城天皇陵
344101,1354926.4
344201.8,1354715
299°16′
(119°15′)
3,833(m)
9代開化天皇陵→
20代安康天皇陵
344101,1354926.4
344059.2,1354609.1
269°23′
(89°21′)
5,023(m)
8代孝元天皇陵
→三輪山
342853.53,1354810.52
343206.20,1355200.51
44°3827″
(224°4037)
8,347(m)
3代安寧天皇陵
キトラ古墳
342924.43,1354641.72
342703.53,1354818.87
150°1552″
(330°1647″)
5,000(m)
2代綏靖天皇陵
→日本武尊白鳥陵
343001.62,1354722.83
342643.90,1354501.56
210°37′30
(30°36′10″)
7,079(m)
2代綏靖天皇陵
→太安萬侶墓
343001.62,1354722.83
343955.17,1355425.57
30°2802″
(210°3202″)
21,227(m)
日本武尊白鳥陵
→太安萬侶墓
342643.90,1354501.56
343955.17,1355425.57
30°2904″
(210°34244″)
28,307(m)

小数点以下が2桁の北緯,東経は、電子国土ポータルの検索の「地名」で表示される数値


亀虎古墳だったキトラ古墳の問題提起

私の手元にある昭和61年10月30日発行の地形図「1:25,000 畝傍山」では、キトラ古墳の「キトラ」は、カタカナではなく、漢字を用い、重箱読みの「亀虎」と表記しています。

今回の、思いもよらない、出来すぎの発見とは、このキトラ古墳と安寧陵間の距離が、北極から赤道までの距離のキッチリ2000分の1すなわち、5,000(m)になっていることです。

なぜ、そんなことで大騒ぎするのかとお感じの方もおいででしょうが、実はこれまでにも、「葛城川の人工的部分」や「地球の大きさを示す2地点」で、同様の事柄を問題にしています。

赤坂天王山古墳は崇峻陵か?」によれば、安寧陵の真東にある崇峻陵は、天皇陵治定の問題を提議する典型的な例とのこと。ならば、安寧陵は、問題提起の原点の陵です。

三度目の正直という言葉がありますが、亀虎古墳という過去の表記と、現在知られている同古墳の天井画の天文図を重視し、今度こそは、これは凄いと感じる方の出現を期待します。

参照:キトラ古墳と鬼の俎」「キトラ古墳の星図の謎を明かす暗号


キトラ古墳の石室(石槨)の展開図 キトラ古墳の天井画(部分) 参考図:満州の舞踏塚古墳の天井画

     

の玄武 西壁の白虎

太安万侶墓の位置が明かす記紀の秘密

Google マイマップ(←クリック)で見ると、太安万侶墓から南南西30度(7時)の方向に1本の線が延びていますが、綏靖天皇陵のところ(←クリック)を見ると、その線が2本になっています。

実は、縮尺表示が1km以上の場合は、綏靖陵と太安万侶墓を結ぶ線や、懿徳天皇陵と神武天皇陵を結ぶ線は、日本武尊白鳥陵と太安万侶墓を結ぶ直線に重なってしまうのです。

なお、綏靖天皇は、神武天皇の死後、実母の皇后を妻とした、異母兄手研耳命が自分と兄の神八井命を亡き者にしようとしていることを知り、先手を取って射殺します。

この時、恐怖のために矢を射ることができなかった兄の神八井耳命は、多氏の始祖ということになっているので、古事記の選者である太安万侶の祖先ということになります。

一方、日本書紀には、誰も埋葬されていない古墳が存在することを示すために創作されたような、日本武尊のために造られた白鳥陵に関する、次のような伝承があります。

日本武尊は伊勢国の能褒野(のぼの)(鈴鹿郡の地名)で没したので、能褒野の陵に葬った

そのとき日本武尊は白鳥となっつて、陵より出て、倭国(やまとのくに)をさして飛んでいった。
柩を開いてみたら、
衣だけが空しく残って屍はなかった

白鳥を追いもとめたら、倭の琴弾原(ことひきのはら)(奈良県御所市富田)とどまっていたので、そこ陵を造った

白鳥は、また飛んで河内に行き、旧市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野市軽里)とどまったので、またそこに陵を造った

時の人は、この三つの陵を名づけて、白鳥陵(しらとりのみささぎ)といった。

白鳥はついに高く飛んで天に上った。そこで陵にはただ衣冠だけを葬りまつった

皇子の墓を「陵」というのは、古事記、日本書紀においてヤマトタケルの能褒野陵(治定:明治12年)、二つの白鳥陵(治定:琴弾原=明治31年、旧市邑=明治13年)のみで、例外的。

のちにヤマトタケルの墓を能褒野墓と定め、また日本書紀の所伝をも尊重し、二つの「白鳥陵」を能褒野墓に附属するものとした、とのこと。

この物語の主人公ヤマトタケルの墓とされる琴弾原の白鳥陵と、偽書と疑われる古事記序文にのみ撰者として登場する太安万侶の墓が特徴ある位置関係にあり、

しかも、両者を結ぶ線上に、本来ならば倭奴国王の墓として、糸島市(現在前原市)にあるのが相応しい、神武・綏靖・懿徳の陵があるのです。

”急造の天皇陵”白鳥陵の存在を容認しながら、天皇陵に治定されている巨大古墳の成立時期に疑いの目を向けることは、非常識極まりないと非難されるのでしょうか。

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垂仁陵

垂仁陵(宝莱山古墳)は周濠が広く、水と陵のコントラストが美しいが、この周濠は南東の部分だけが外側に広がっており、その中に田島間守の墓といわれる円形の小島がある。

実はこの島、垂仁陵に治定された江戸時代、周濠拡張工事が行われた際、周濠付近にあった田島間守の墓を島として残したといわれている。

また一説によると、天皇の忠臣であった田島間守を賛美する目的で、明治以降の拡張工事の時に造ったともいう(明治以降でも、信頼できる記録は残っていないということか?)

崇神陵

崇神陵(行燈山古墳)は江戸時代には景行陵といわれていたが、幕末の修築工事後に、崇神陵に治定された。

広大な周濠は、用水確保のために畑だった部分に堤を築き造られた。水田経営の貯水池の確保と陵墓の周濠は切り離せない。

仁徳陵

世界最大の面積を持つ帝王墓である仁徳陵(大山古墳)は、三重にめぐらされた周濠によって威容を高めている。

しかし、原図を見ると、第三の濠が、後円部で不自然に二基の陪塚にぶつかり、二ヶ所とも迂回しているのだ。また江戸時代の絵図でも二重の周濠しか描かれていない。

第三の濠は明治32年(1899)から3年がかりの大工事で掘られたものであり、天皇親政下での国威発揚を目的として造られたものだといわれる

所感

垂仁陵: すでに古墳が存在する地で、池を造るために掘った土を池の中央に集めて、古墳の形に似せたのが、周濠つき前方後円墳の始まりという可能性はないでしょうか。

崇神陵: 形に特徴(Google)があり、しかも仲哀天皇陵と墳丘長が一致するのは暗示的。

仁徳陵: 国威発揚を目的として第三の濠は明治32年(1899)から3年がかりの大工事で掘られたものと認めるのであれば、それ以前に存在した仁徳陵こそ、国威発揚を目的として造られたものと考えることができないものでしょうか。

雄略陵

雄略陵(高鷲丸山古墳)は約100基の古墳が集まる古市古墳群の北西端にあるが、宮内庁の原図を見ると、この古墳の秘密がわかる。

この陵は、高鷲丸山古墳という円墳と、池をへだてた東側の平塚古墳という1辺約50メートルの方墳をセットにし、前方後円形にしたものなのである。

平塚古墳の周囲には前方部の形をした生け垣がめぐらされているのがわかる。

また、前方部と後円部の主軸が完全にずれている。文久年間、雄略陵に治定されたあとすぐに大改造されたとみられる。

平城陵

平城宮北面西大垣と境を接する地点に、平城陵(市庭古墳)がある。この陵は、わが国最大の円墳とされていたが、平城宮の発掘調査で隣接する南側から前方部の痕跡が発見されたのだ。

もともと前方後円墳だったものが宮域にはいるために削られてしまい前方部だけが円墳として後世に残り、平城陵に治定された。

倭彦命墓

倭彦命は、崇神天皇の皇子であり、『日本書紀』には倭彦命墓(桝山古墳)造営の不気味な物語が記されている。

側に仕えていた者が生き埋めにされ、日夜泣き叫ぶ声が聞こえていたという逸話だ……。

この古墳は、後円部相当部分に北越智桝山古墳という、5世紀の方墳をあて、前方部の部分はそれにあわせて、土盛りして、全長200メートルの前方後円形に改造してしまったものなのである。治定された明治年間に大工事が行われたと考えられている。

所感

雄略陵: 自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した倭王武の墓のはずなのに、なぜ雄略陵は貧相で不恰好なのでしょうか。

平城陵: 開化天皇陵と成務天皇陵を結ぶ直線上にある、前方後円墳の前方部が切り離されて消滅した円墳。雄略陵に作為があれば、平城陵にも作為があるはず。

倭彦命墓: この墓に生き埋めにされた側近のものが日夜泣き叫んだ悲惨さを避けるために、殉死を禁じ埴輪を用いた日葉酢媛命陵は、開化陵と成務陵を結ぶ直線上にあります。

赤坂天王山古墳は崇峻陵か?

幕末から明治初期の間に、陵墓はすべて治定されなおしたが、その時に天皇陵でなくなった古墳も多い、赤坂天王山古墳もその一つであり、蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇陵に治定されていた。

この古墳は、天皇陵の可能性があるにもかかわらず、石室の中へ自由に入ることができる、栗原川の南の尾根の上に、四角い森がそびえており、明らかに方墳だと分かる(1辺45メートル)、

南斜面に登ると、横穴式石室が口をあけている。気味の悪い、狭い横穴に入っていくと、玄室に置かれた巨大な家型石棺が闇の中に浮かびあがる……。

一方、現在治定されている崇峻陵は、明治政府によって、2キロ離れた崇峻天皇の倉梯柴垣宮伝承地に築造されたもので、

天王山古墳が、古墳の規模、石棺の年代、文献から考えても、真の崇峻陵だといわれている。天皇陵治定の問題を提議する典型的な例である。

所感

安寧陵は崇峻陵とキトラ古墳とに結びつきます。よって、崇峻陵が「天皇陵治定の問題を提議する典型的な例」ならば、キトラ古墳も大問題を提起していると感じて欲しいものです。

陵墓参考地の謎

陵墓参考地――「天皇または皇族の墳墓ではないかとみられる」との根拠で宮内庁の管理下にある古墳である。

なかには、天皇陵に治定されている古墳よりも巨大なものや、真の天皇陵だといわれている古墳もある。しかし指定の区域もあいまいで、墳丘など、古墳の一部だけの場合もあり、不可解な点が多い。

見瀬丸山古墳

全国第6位の規模を誇る前方後円墳が奈良県橿原市にある。驚いたことに前方部を国道
196号線が走っている。そのうえ、畑や民家までがあるのだ!

この古墳が欽明天皇陵の真陵ではないかといわれる見瀬丸山古墳だ。

明治13年まで天武・持統陵(円墳)に治定されていた陵墓参考地だが、昭和30年代に前方後円墳だと確認された。

津堂城山古墳

大阪府藤井寺市の津堂城山古墳は、後円部の墳丘の上半分だけが陵墓参考地となっており、前方部は市街地の中で、無残に荒れ果てている。

古市古墳群では、全長200メートル程度のさして驚くに価しない古墳だと考えられていたが、航空写真で見た結果、周濠の外側に幅80メートルにも及ぶ付属地があり、二重濠を持つ大規模な古墳であることが判明した。

また仁徳陵と同種の長持形石棺などにより、天皇陵(倭五王の一人か)の可能性が強くなった。

所感

見瀬丸山古墳: 現在の欽明天皇陵は、鬼の俎を挟んで、天武・持統合葬陵と東西に向き合うことによって存在意義が生じるのではないでしょうか。

だとすれば、明治13年まで天武・持統陵(円墳)に治定されていた見瀬丸山古墳が、もし欽明天皇陵の真陵だとすれば、はなはだ皮肉なことになります。

津堂城山古墳: 巨大古墳がしかるべき人物の墓ならば、丁重に扱われてしかるべきです。
無残な姿の巨大古墳は、古墳とは何かかを考える際の参考資料にならないでしょうか。


おわりに

日本書紀によれば、初代神武天皇は、紀元前660年に即位した後、76年間在位し、紀元前585年に127歳で没しています。

「歴史読本」の編集部が、”神話上の天皇”と割り切ることが妥当かどうかは別にして、日本書紀の神武天皇に関する記事を、そのまま史実として認める方は、まずいないでしょう。

このように、日本書紀は明らかに歴史を偽装しています。その狙いは、わが国の天皇は開闢以来万世一系で、中国の王朝のように短命ではない、と誇ることのようです。

したがって、国風文化が栄えた時代に、偽装した歴史に対応する天皇陵を築き、国威発揚のために、巨大古墳を築造したとしても、かならずしも不自然とは限らないはずです。

幕末の勤皇思想の高まりの中で行われた文久の修築から明治にかけて治定された”急造の天皇陵”についてさえ、分からないことが多々あるのが現実です。

7世紀末までに築造されたはずの巨大古墳の中に、10世紀に造られたものがある可能性が生じた場合、その可能性を否定できる真のデータは、実在しないのではないでしょうか。


取り違えがあった二組の陵の特徴    目 次    陵墓治定年一覧表