記紀の三輪山伝説+α. .

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 古事記の三輪山伝説

この度、比叡山延暦寺根本中堂の鬼門(北東隅)と、箸墓後円部の中心の経度が、秒単位の精度で一致している不思議を発見しました(参照)。

これに関連する各地点のデータを検討してみると、わが国土には、精密な測量にもとづく地図がなければ描けない、祟りをテーマにした暗号図が秘められていることになります。

そこで、箸墓の持つ意味を知るために、古事記に2回、日本書紀に1回登場する、好色な大物主神に関する三輪山伝説を見ておくことにします。

古事記では、まず第一に、初代神武天皇の皇后となった、神の御子といわれる美しい乙女について、大久米命(オホクメノミコト)は次のように言っています。

三島湟咋(ミシマノミゾクヒ)の娘で、名を勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という乙女は、
姿かたちがたいそうるわしかったので、

三輪の大物主神(オホモノヌシノカミ)が、これを御覧になって恋い慕われ、乙女が、川の流れの上に建てた厠かわやへおはいりになった時を見すまし、

赤土を塗って染めた丹塗矢にぬりやに身を変えて厠の下の流れのところから、乙女の陰処ほとを突きあげました。

乙女はびっくりして走り回り、うろうろして大騒ぎになりました。

そこで突かれた矢を持って来て、床のあたりに置きましたところ、たちまち、みめうるわしい男になり、やがてその乙女を妻として、生ませた御子の名は、

富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメノミコト)、別名は比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と申すのでございます。

この名前は、陰処ほとという字を嫌って、のちに改めたものである。

こういうわけがあって、それで神の御子と申す次第でございます。

これによると、初代神武天皇にとっては、大物主神(=大国主神=大己貴神)は義父に当たる縁者になります。

これとは対照的に、10代崇神天皇に対する大物主神は、疫病を流行させて、民が次々に倒れ、今にも、人みな死に絶えてしまいそうになったという、祟り神として登場しています。

ところで、後漢書や三国志が伝える倭国史によれば、倭奴国王が、57年に後漢の光武帝から金印を授かり、掌中にした倭王の座が、倭国大乱によって邪馬台国に移っています。

そして、239年に魏に貢献した邪馬台国の女王卑弥呼は、明帝の後を継いだ少帝斉王芳から親魏倭王金印を授かり、女王として倭国に君臨することになります。

その後、247年に女王卑弥呼が死亡し、男王を立てると倭国は混乱しますが、13歳の宗女台与が即位して再び国が治まっています(台与の即位は248年)。

ここで問題なのは、古事記が、初代神武天皇を無視して、10代崇神天皇の御世に国中に平和が甦り、人民は富み栄えたことを称え、「初国知らしし御真木の天皇」と言うことです。

すなわち、倭国の政権が倭奴国から邪馬台国に移ったので、倭国史上には、初国知らしし天皇と呼ぶにふさわしい2人の倭王がいたことになります。

その2人の倭王とは、初代神武天皇に相当する、初国知らしし倭奴国王と、天皇家の直系の始祖である、初国知らしし邪馬台国の女王台与ということになります。

この倭国史上の政権移動は、天照大神が出雲の大国主神に国譲りをさせ、孫のニニギノミコトを豊葦原の瑞穂の国の支配者として地上に降ろしたという、天孫降臨神話とダブります。

すなわち、大国主神=金印の倭奴国王、ニニギノミコト=台与とすれば、天照大神=親魏倭王金印の卑弥呼という対応が成立する訳です。

このような見方をすれば、大国主神の奇魂・幸魂である大物主神が、金印の倭奴国王に相当する神武天皇にとっては縁者で、台与に相当する崇神天皇には祟ることも納得できます。

次に、古事記の第二の三輪山伝説では、崇神天皇の御世に荒れ狂った大物主神の祟りを、神主となってしずめた意富多多泥古(オホタタネコ)の先祖、活玉依毘売が登場します。

【注】 日本書紀では、大田田根子が天皇に、「父は大物主大神、母を活玉依姫といいます。陶津耳の女です」と答えています。

活玉依毘売(イクタマヨリ姫)は、その容姿がたいそううるわしかった。

ところがここに、この世の者とも思われぬ立派な男子があって、その形容といい威儀といい他に較べる者もなかったが、深夜、不意に姫のもとに姿を見せた。

二人ながらたちまち恋に落ちて、男は姫のもとにあって共に住んだが、いくらも経たないうちに乙女が身ごもった。

そこで両親は、いつのまにか身ごもったのを不思議なことに思い、娘に尋ねるには、

「お前はまだ独り身なのに、いつのまにかお腹が大きいようだ。夫もいないのに、どうして身ごもったのか?」

こう尋ねたので、娘が答えるには、

「みめうるわしい男が、毎晩のように私のところへ通って参ります。どなたなのかお名前は存じません。そこで毎晩、一緒におりますうちに、ひとりでにこのようになりました。」

こう言った。

この返事を聞いて、両親はその男がいったい誰なのか知りたいと思い、娘に教えるには、

「床とこのまわりに赤土を蒔き散らし、それから麻糸を巻いたものに針をつけて、その男の着物の裾に刺しておきなさい。」

こう命じた。

姫はいいつけられた通りにして、あくる朝になってよく見ると、針をつけた麻糸は、入口の戸の鈎穴かぎあなの中を通って表へと出ており、部屋の中には三勾みわ、すなわち三巻みまきだけの糸が残っていた。

そこで通って来た男が、鈎穴から出て行ったことが分り、糸を頼りにそのあとを訪ねて行ったところ、美和山に至って、その神社で終わりになっていた。

そこでこの男というのが、神の御子であることが分った。また麻糸が三勾みわ残っていたのにちなんで、この土地を美和みわ、後に三輪と言うのである。

糸を引っ張れば直線が得られるので、この伝説から暗号解読のヒントをさがすと、残っていた麻糸三勾の「勾」にある「ム」から連想する、地図上の三角形が気になります。

なぜなら、三輪山の頂点が鬼門になる次のような三つの三角形が存在するからです(データ)


 日本書紀の三輪山伝説+α

岩波の日本書紀の注釈書には、崇神紀の三輪山伝説について、「この文章は前との続きが自然でない。異なる資料を接続させた際の不手際か」と解説しています。

しかも、そこでは、大物主神の妻となった女性の名として、7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命と、8代孝元天皇の皇女倭迹迹日姫命とが同時に使われているのです。

これは意図的なものです。なぜなら、崇神七年には、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神憑りしており、また、崇神十年(紀元前88年)に彼女は、武埴安彦の謀叛を予言しています。

それゆえ、7代孝霊天皇(前342〜前215)の皇女倭迹迹日百襲姫命が死んだのは、130〜230歳以上の老婆になってからです。

では、古事記の三輪山伝説の大物主の妻は、容姿がたいそううるわしい乙女であることを念頭におきながら、次の伝説を読んでみてください。

この後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主の妻となった。けれどもその神は昼は来ないで、夜だけやってきた。

倭迹迹日姫命は夫にいった。「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもうしばらく留まって下さい。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしょうから」と。

大神は答えて「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛函くしばこに入っていよう。どうか私の形に驚かないように」と。

倭迹迹日姫命は変に思った。明けるのを待って櫛函を見ると、まことにうるわしい小がはいっていた。その長さは衣したひもほどであった。

驚いて叫んだ。すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。そして「お前はがまんできなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前にはずかしいめをさせよう」といい、大空を踏んで御諸山(三輪山)に登られた。

倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。そのとき箸で陰部を撞いて死んでしまわれた。それで大市おおちに葬った。

ときの人はその墓を名づけて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。

箸墓の被葬者が、箸で陰処を突いて死ぬというアクシデントは、丹塗矢でセヤダタラヒメの陰処を突いた大物主神が、妻に恥をかかせるために企んだことです。

なお、倭奴国王の金印は蛇紐なので、正体が衣ほどの小だった大物主神は、大物主=大国主が金印の倭奴国王に対応していることを裏付けています。

問題は、倭迹迹日百襲姫命とあるのは最初だけで、後の3回倭迹迹日姫命となっているにも拘らず、通説ではこれを百襲を略して倭迹迹日姫命と書いたものと見ることです。

このことと関連して、気になるのは、天照大神が天の岩屋にはいって磐戸いわとをとざしてこもってしまった事件の原因が、日本書紀の本文と第一の一書とでは異なる点です。

(素戔鳴尊すさのおのみことは)天照大神が神衣を織るため、神聖な機殿はたどのにおいでになるのを見て、まだら毛の馬の皮を剥いで、御殿の屋根に穴をあけて投げ入れた。

このときに天照大神は大変驚いて、機織はたおりの梭で身体をそこなわれた。これによって怒られて、天の岩屋に入られて、磐戸を閉じてこもってしまわれた。(本文)

稚日女尊わかひるめのみことが機殿で、神衣を織っておいでになった。素戔鳴尊すさのおのみことはそれを見られて、まだら駒の皮を剥いで、部屋の中に投げ入れた。

稚日女尊は驚かれて機から落ちて、持っていた梭で身体を傷つけられて死なれた。

天照大神が、天の岩屋に入り、磐戸を閉じてこもってしまったということは、その死と墓への埋葬を意味するものと受け取ることができます。

高天原を追われて出雲の国に降った素戔鳴尊は、奇稲田姫くしいなだひめと結婚して、子の大己貴神が生まれます。

したがって、箸墓伝説と岩屋神話とには、次表のように、意図的な対比があります。それゆえ、倭迹迹日姫命は、倭迹迹日百襲姫命百襲が抜けたものでないことになります。

いずれにしろ、学者は、なぜ、大物主神の妻が、容姿がたいそううるわし乙女ではなく、
130〜230歳以上の老婆であると考えることができるのでしょうか。

物語 出雲系男神 死んだ年上の女性 死んだ年下の女性
箸墓伝説 大物主神(=大己貴神 倭迹迹日百襲姫命 倭迹迹日姫命
天の岩屋神話 素戔鳴尊(大己貴神の父) 天照大神(大日おおひるめ尊) 稚日女わかひるめ

年代復元に関するヒント

箸墓の被葬者に、二つの名、倭迹迹日姫命倭迹迹日百襲姫命を用いているのは、他に同様な事例があることを問題にするためかもしれません。

そのつもりで見れば、日本書紀には、ほかにも、神功紀に、一人の女性(気長足姫尊=神功皇后)に、二人の女性(卑弥呼台与)を対応させた例があります。

三十九年(239)、この年太歳己未(239)。――魏志によると、明帝の景初三年(239)
六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守のケ夏は、役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

四十年(240)、――魏志にいう。正始元年(240、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬を持たせ、倭国に行かせた。

四十三年(243)、――魏志にいう。正始四年(243)倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

六十四年(384)百済国の貴須王が薨じた。王子枕流とむる王が王となった。

六十五年(385)百済の枕流王が薨じた。王子阿花あくえが年若く、叔父辰斯しんしが位を奪って王となった。

六十六年(266)、――この年は晋の武帝の泰初二年(266)である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年(266)十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。

六十九年夏四月十七日、皇太后が稚桜宮に崩御された、年一
この神功皇后の「年一」を見ると、卑弥呼について記す魏志倭人伝に、「銅鏡枚を賜う」「大いに塚を作る、径余歩なり。殉葬する者奴婢余人なり」とあることを想起します。

そこで、「百襲」が「百を重ねる」と解釈できることに注目すれば、倭迹迹日百襲姫命という名には卑弥呼を意識させる狙いがあると見てよいことになります。

また、崇神紀十年の項に、「天皇おば倭迹迹日百襲姫命は聡明で、よく物事を予知された」とあるので、崇神天皇には卑弥呼の孫並みの台与を対応させることができます。

  学界の定説では、神功紀の倭の女王の混同を、
卑弥呼すなわち神功皇后と見なす書紀の編者が、

六十六年(266)倭の女王卑弥呼と同一人物であると誤解したせいにしています。

しかし、卑弥呼の死を正始八年(247)と記す魏志倭人伝の年代を正確に把握している書紀の編者が、

学界の定説のように、六十六年(266)倭の女王卑弥呼を同一人物と見ることは絶対にありえません。

書紀の編者の年代観を信頼すれば、六十四・五年の
神功紀の年代より120年新しい百済王関連の年代は
神功紀の年代がどれだけ延長されているかを示すための、正常な年代とみなせます。

この正常な百済王関連の年代と比較すると、神功紀の年代に一致している魏志倭人伝等の年代には120年のずれがあることになります。

 
正常な年代をX、日本書紀の延長された年代をYとすれば、何通りかの区間ごとに、
Y=AXCACは定数)という形の、簡単な関係式を想定することができます。

そこで、正常な辛酉の年、X=361に対し、120年ずれる神功紀の辛酉の年は、Y=241となることを用いると、CY−3X241−3 x 361より、C=−842が得られます。

このようにして得られる年代延長式Y=3X−842は、Y≧1の場合のもので、Y<0の場合の年代延長式は、紀元0年がないので、Y=3X−843となります。

この式を使うと、神武即位の年Y=−660は、金印の倭奴国王在位中の辛酉の年X=61に対応し、崇神の即位した年Y=−97は、台与の即位した年120年ずれてX=248に対応します。

このようなことに興味がある方は、どうか「邪馬台国の謎を解く年代復元」をご覧下さい。


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