阿倍仲麻呂の和歌の秘密
 
承前〕 何が大発見なのか(3)
 

『大辞林』には、阿倍仲麻呂(698-770) について、次のような解説が載っています。

奈良時代の文人・遣唐留学生。中国名、朝衡。717年、渡唐。玄宗に寵遇され、李白・王維らと交友があった。海難のために帰国が果たせず、在唐五十余年、同地に没す。
天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でしかも」の歌で有名

春日なる御笠の山に月の船づ 遊士の飲む酒杯に影に見えつつ」という旋頭歌から私が連想した歌は、無論、この古今集の安倍仲麿(表記不統一)の歌(巻9−406)でした。

ところで、万葉集検索で、項目〔訓読〕で「天の原」かつ「振り放け見れば」として検索すると、短歌2首、長歌4首、旋頭歌1首がヒットします。

なお、万葉集検索で、項目〔訓読〕で「天の原振り放け見れば」として検索した場合は、長歌はヒットせず、短歌2首、旋頭歌1首のみがヒットします。

そこで、暗号の標識「遊士を含む旋頭歌に合せて、題詞に「海辺にて月を望みて作る歌 」とある旋頭歌を採れば、中国の明州(浙江省寧波NINGBO)の海辺にて月を見てよめるという古今集の安倍仲麿の歌が次のように合成出来ることになります。

     海辺にて月を望みて作る歌 (万葉 15/3662)
天の原振り放け見れば 夜ぞ更けにける  よしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも

春日なる御笠の山に月の船  遊士の飲む酒杯に影に見えつつ (万葉 07/1295)

     唐土にて月を見て、よみける                   安倍仲麿
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでしかも  (古今 9-406
       この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、
       数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又
       使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、
       明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。
       夜に成りて、のいと面白くさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる

旋頭歌2首の語句をつなぎ合わせ、「かな」に比べるといかにも上代語という感じがする終助詞「かも」で締めくくって万葉調に仕上げた仲麿の歌は、後人でも簡単に偽作できます。

しかし、もし後人が仲麿の歌を偽作したのであれば、何か特別な理由があったはずです。

そのような理由が探し出せるかどうか、まず、仲麻呂の歌の合成に使った可能性がある2首の旋頭歌からチェックしてみたいと思います。


日本最大の船形埴輪

鹿苑寺の船形

船形万灯籠送り火


上掲の3通りの船形を参考にすれば、と表現される月は、半月よりも欠けた形になっていると見て差し支えなさそうです。

月がそのような形になるのは、上弦の月以前の4、5日間と、下弦の月以後の4、5日間との、2通りのケースがあることになります。

下図から分るように、上弦の月以前の場合は、西の空に沈んで行く月の船が見え、下弦の月以後の場合は、真夜中に日付が変わってから東の空に昇って来る月の船が見える訳です。


 

かわうそ@暦氏のHP「こよみのページ 」の「上弦の月と下弦の月はどう見える?」より


したがって、海辺にて月を望みて作る歌 (万葉 15/3662)の「夜ぞ更けにける」という語句は、春日なる御笠の山に月のが出た時刻にふさわしいことになります。

一方、暗号の標識「遊士」がある歌(万葉 07/1295)の方は、明州の海辺での餞別の宴で、酒杯に映っている月を御笠の山に出た月の船と見ている、と解釈することが可能です。

すなわち、古今集以前に成立していたはずの万葉集に、古今集の仲麿の歌が合成できる語句を意図的にそろえた観のある旋頭歌が組み込まれているのです。

だから、古今集の仮名序を書いた紀貫之が、女性に仮託して仮名で書いた土佐日記にも、仲麿の歌と、その歌が詠まれた経緯が記されていることがクローズアップされてきます。

古今集との違いを検討するために、次に、土佐日記の問題の箇所を、池田弥三郎氏の口語訳から引用してみましょう。

(正月)二十日。……さてきょうは、夜になって、二十日月が出てまいりました。月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました。

こういう光景を見てでございましょう。 昔、安倍仲麿といった人が、唐土に渡って、帰って来ようとした時に、船に乗るはずの処で、かの国の人が、送別の宴を催してくれて、別れを惜しみ、あちらの国の漢詩を作りなどいたしました。

なかなか心がみちたりませんので、その宴はうち続いて、とうとう、二十日の月夜が更けて出てくるまで、別れを惜しんでおりました。

その時の月は、海からでてまいりました。

これをみて、仲麿は、「わたしの国では、こういう歌をば、神代の昔から神もおよみになり
それ以来ひき続いて、今では上中下の身分の区別もなく、みなみなが、こういうように別れを惜しんだり、また、よろこびあったり、悲しみごとがあったりする時には、よむのです」と言って、その時よんだ歌というのは、

   青海原。ふりさけみれば、春日なる三笠の山に 出でし月かも
   ――青海原を遠くはるかに見渡すというと、海上に月が浮んでいる。
      あの月は、故郷の春日の三笠の山から出て来た月なのだなあ。

という歌でございました。……

「王朝日記随筆集1」(河出書房新社)の「土佐日記」による


明州(浙江省寧波NINGBO)

 

大湊・奈半泊・室津

 


上図によれば、古今集の左注通り、仲麿は明州(浙江省寧波)の海辺で、水平線上の日本がある方角から出てくる月を見て、「春日なる三笠の山にいでし月かも」と詠んだことになります。

これに合せて、仲麿が二十日の月を見て歌を詠んだとする土佐日記の(正月)日の記事にも、「月のでる山の外輪もなく、月は海の中から出て来るのでございました」とあります。

ところがこの地点は、天候不順のために日から足止めされていた室津です。地図から分るように、室津では海が西側にあり、月が海の中から出て来ることはありえません

作者を女性に仮託していても、任国土佐から京都までの55日間の旅を、事実をまじえて記しているはずの土佐日記なのに、この信じられない誤りは何を意味するのでしょうか。

余りにも明白なこの誤りの裏には、何か秘められた意図があるはずです。そこで、土佐日記の月に関する記事に、外にも誤りがないかどうか検討してみたいと思います。

【付記】以下の検討の際、下記のサイトを利用させていただきました。
(1) s u c h o w a n ' s H o m e P a g e の「日本暦日
(2) 
長谷川 司氏の「お星様とコンピューター」の「日の出、日の入、月の出、月の入


さて、八日大湊の記事には、「海に入る八日の月の光景のよさにみとれておりました」と ありますが、土佐湾の一番北に位置する大湊で、室津同様に、月が海に沈むでしょうか。

月が海に沈むとは、月が水平線の背後に沈んでいくことです。それゆえ、水平線とは何かをはっきりさせておく必要があります。

ちゅーやんのページ生きていくのには不必要な知識によれば、対象物の海面からの高さを Hm海面からの目の高さをhmとすると、海上視認距離は(√H+√h)×3.8577kmとなります。


海上視認距離 
(半角英数字,小数点可)

 対象物の高さ:m,眼の高さ:m    海上視認距離:km

そして、海面と空との境目をなす線である水平線は、観測者の位置を中心とし、対象物の高さが0mの時の海上視認距離半径とする円周に相当します。

だから、たとえば、目の高さが1mの場合は、水平線は半径(√0+√1)×3.8577km=3.8577kmの円周になります(↑計算の結果を確認できます↑)。

仮に、目の高さ5mとしても、水平線までの距離9km未満ですから、これだけでは、船が少し沖に出れば、月が水平線に隠れる様子が見れそうです。

しかし、月が沈む方角に、もし仮に、高さ50m以上の対象物があるとどうなるでしょうか。目の高さを3m、対象物の高さ50mとすれば、海上視認距離は30kmを超えます。

すると、大湊に停泊中の船を中心に、半径30kmの円を描いた時、その円内の月が沈んでいく方角に50m以上の高さの対象物があれば、月は海に沈まないことになります。

日本暦日」で、土佐日記の日付を西暦に換算し、日の出、月の出、月の入」を用いると、
大湊(北緯33度32分、東経133度39分)における935年2月14日〕の月の入は1時9分で、沈む方角は、真西よりも約20度北よりの方角になります。

それゆえ、上図に示すように、大湊では少々沖に出ても、月は陸地の彼方に沈むことになり、「海に入る八日の月の光景」は現実のものではない、と断言できます。

〕土佐日記の日付を承平五年正月八日とすれば、西暦935年2月13日になりますが、
ここでの月の入りは真夜中に日付が変わった後なので、935年2月14日になります。


まだ夜のあけきらない中(暁)に船を出して、奈半泊から室津を目指したとある十一日には、
ただわずかに月のかかっている様子を見て、方角(西東)だけがわかった」とあります。

まだ夜のあけきらない中(暁)」という言葉が表わす時間帯については、よく分りませんが、すぐあとに「こうしているあいだに、すっかり夜があけきって」とあります。

これに対して、西暦935年2月16日の奈波泊(北緯33度25分、東経134度2分)における月の入は2時59分で、日の出は6時44分になります。

したがって、奈半泊における十一日の月は、「まだ夜のあけきらない中(暁)」という時間帯以前にすでに没しており、「わずかに月のかかっている様子」は見れない、といえます。


このように土佐日記にみられる月に関する記述が当てにならないのであれば、紀貫之が仮名序を書いている古今集に撰ばれた仲麿の歌の左注に、明州と言ふ所の海辺にて海からでてくる月を見て詠んだ、という歌もチェックしてみるべきではないでしょうか。

そこで、インターネットで調べてみると、寧波市の概況として、「東は舟山群島、北は杭州湾」とあり、下のような地図がありました。

Google Map(←クリック)を拡大してみればさらによく分かるのですが、明州(寧波市)の船に乗るはずの処において、海からでてくる月は見れそうにもありません。


 北に杭州湾、東に舟山群島がある寧波市

  「阿部仲麻呂明州望月図」(部分)


けれども、古今集の左注には、土佐日記が言うように、「その時の月は、海からでてまいりました」とは書いていません。

「明州と言ふ所の海辺にて、……夜に成りて、のいと面白くさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる」とあるだけです。

しかも、土佐日記の仲麿の歌が「海原振りさけ見れば」となっているのに対し、古今集の仲麿の歌は、「天の原振りさけ見れば」となっています。

広い空を遠く望むと、あれは、春日にある三笠の山の上に出た月であろうか」というのですから、何も海から出てきた月を詠んでいるとは限らないわけです。

意図的に描いたものではないでしょうが、その状況は、富岡鉄斎筆「阿部仲麻呂明州望月図」(辰馬考古資料館蔵)において、図らずも、如実に表現されています。すなわち、

海上視認距離が広がる高台で、北に開けた杭州湾の空を振り仰ぐ数人の視線の先には何があるか分りませんが、東方に伸びる岬の背後に横たわる島山の上に満月が浮んでいます。

以上によって、土佐日記の仲麻呂の歌に関する記述は、紀貫之が仮名序を書いている古今集にも疑いの目を向けよ、という警告として貴重な意味を持つことになりそうです。


古今集の仲麿の歌を疑うとなれば、左注にいう明州がはっきり誤りであることを示す史料
唐大和上東征伝」の存在に注目しなければなりません。

その際、同書を種本の一つとして用いた井上靖の小説「天平の甍」にある、次のような箇所は大いに参考になります。

十一月十五日西暦753年12月14日=天平勝宝5年11月15日)夜半、折からの月明を利して、四船は時を同じくして発航した。

大使清河の第一船に乗っていた在唐三十六年の阿倍仲麻呂が、あまのはらふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも、と歌ったのはこの夜のことであった。

故国へ向う遣唐船は、第一船、第二船、第三船、第四船の順で黄泗浦の岸を離れたが、江上に出て半刻ほどすると第一船の前を一羽の雉が翔ぶのが見えた。……

船頭はそれから不吉なものを感じた。すぐあとに続く第三船に燈火で信号が送られ、四船ともその場に碇を降ろして、江上に一夜を明かすことになった。

一方、Apollon 氏のHP「星の神殿」の「安倍仲麻呂の見た月」には、歌が詠まれたのは出航の翌日(西暦753年12月15日)で、この日は月齢15.4 十六夜 であった、としています。

いずれにしても、出航地の黄泗浦を地図上で捉える必要がありますが、「天平の甍」参考地図では、○印が黄泗浦か浪溝浦か、どちらなのかわかりませでした。

ところが、さいわいにも、丸亀市のHPが、姉妹都市の張家港市概要と下のような地図を載せており、「市内の古黄泗浦は、唐代の高僧・鑑真が6度目に日本へ向けて出発し、ようやく渡航を果たした港であり、渡航記念館も建設されている」という解説も見られました。

さらに、張家港市鹿苑鎮西苑村にある中国の会社の概要には、「一千年前、唐の高僧である鑑真和上は鹿苑鎮から帆を揚げて日本に旅立ち、ようやく成功を得ました」とあります。

しかし、「張家港市の域内には揚子江の河岸線が57キロあり、そのうち万トン級の埠頭を有する沿岸線は33キロを占める」とあるだけで、黄泗浦の位置までは記されていませんでした。

それでも、次の地図によって、出航当日の十一月十五日、碇を降ろして江上に一夜を明かすことになった船団の位置が、海から昇る月が見えるような場所ではなかったことが分ります。

また、Apollon 氏が割出した出航翌日の十六夜に、仲麻呂を乗せた第一船は、揚子江河口付近にあって、海上の月を見ることが出来た、と仮定しても差し支えなさそうです。


張家港市(市内の古黄泗浦は鑑真出航地)

「天平の甍」参考地図(部分)


結局、唐大和上東征伝」によれば、仲麻呂が歌を詠んだ場所は、古今集左注にいう明州ではなく、海から昇る月にこだわれば、揚子江の河口付近となり、月も土佐日記にいう二十 日の月ではなく、月齢15.4だからほぼ満月の冬の月だったことになります。

話は変わりますが、太陽が出る方角は、春分の日と秋分の日が真東、夏至の日が最も北寄り、そして冬至の日が最も南寄りになります。

これに比べると、月の出る方角はかなり複雑なようですが、満月でいえば、太陽とは逆に、夏至に近いほど月の出が南寄りになり、冬至に近いほど月の出が北寄りになるようです。

それゆえ、問題の月は、真東よりかなり北に偏った方角に出て、揚子江河口から見れば、
春日なる三笠の山にいでしかも」という表現がぴったりすることになりそうです。

そこで私は、国立天文台に、「西暦753年12月15日の揚子江河口における月の出の方角は、真東から北にどれだけ偏っているか」と、インターネットによる質問 をしてみました。

ところが、届いた回答には、揚子江河口ではなく、寧波市において、「月の出時刻は17時10分。月の出の方位は真東より25度北寄り。月齢は 15.4」とありました。

西暦753年12月15日=天平勝宝5年11月16日=ユリウス暦753年12月15日は、
 遣唐使の船団が黄泗浦を出航した翌日)

この回答のおかげで、春日なる三笠の山にいでしかも」という歌を詠む場所としては、餞別の宴の翌日となる揚子江河口よりも、明州の方が面白そうな気がしてきました。

そこで、今度は、国立天文台に、「寧波市で見た、春日山東経135度51分、北緯34度41分)の方角にある月」について質問 し、次のような回答をいただきました。

ユリウス暦753年12月15日における寧波市から見た月の高度についてお答えいたします。

寧波市(東経121.6度、北緯29.9度)から見て、
東経135度51分、北緯34度41分の位置がどの方角に見えるかを計算し、
それと 同じ方角に月がきたときの高度を調べてみました。

寧波市に対する東経135度51分、北緯34度41分方位角は、約71.5度になります。
方位角とは、北を0度として東回りに1周360度で測った角度です。
 方位角71.5 度は、真東よりも18.5度北よりの方角です。)

この日、月がおよそ71.5度の方位角にくるのは、18時15分ごろで、
そのときの 高度はおよそ12度になります。
                                            [2004年8月20日]

計算値に疑義が生じたので、国立天文台に問い合わせてみました。

疑義に関する回答(一部分)

地球上についての計算は国立天文台の専門ではありませんが、寧波市を基準
とした春日山の方位角のご指定がありませんでしたので、地図を用いて大まか
な値を計算いたしました。
説明が不足しておりまして申し訳ありませんでした。             
 [2004年9月1日]

この回答を絵で表わせば、富岡鉄斎筆「阿部仲麻呂明州望月図」の満月が、ドンピシャリ、春日なる三笠の山の方角を示していることになります。

それでは、「唐大和上東征伝」の内容を熟知していた筈の古今集の撰者が、このようなことを計算で割出し、明州の海辺で仲麿が望郷の歌を詠んだという伝承を創作したのでしょうか。


信じ難いことでしょうが、その答が春日なる御笠の山に秘められているのです。

2万5千分の1の地形図「奈良」で見ると、三笠山は若草山の別名で、春日大社の真東にある標高297mの春日山別名御蓋山(みかさやま)になっています。

しかも、春日山の頂上を通って東西にのびる直線を引くと、猿沢池、春日大社を通るその直線が、春日山の背後にある標高498mの花山の頂上を通るようになっています。

この二つの山の高さと位置関係からすると、春日なる御笠の山に昇る月が見られるのは、春日大社境内どまりで、猿沢池の辺りでは、花山から昇る月に見えることになります。

さて、「関西夜景100選」の「猿沢池の月」によれば、旧暦8月15日(中秋の名月)の宵に、
猿沢池を舞台に釆女祭(うねめまつり)が催され、池には竜頭船が繰り出すとのことです。

10世紀半ばに成立した「大和物語」の150段には、この猿沢池に入水した采女を悼む柿本の人麿の歌(拾遺集巻20−1289)とならの帝の歌が載っています。

その、ならの帝の歌には、万葉集巻16−3788が対応し、高さ1898m羊蹄山を意識させる、かなり特異な万葉仮名「羊蹄(し)」が使われています。

       「大和物語」150段の歌 
わぎもこの ねくたれ髪を 猿澤の 池の玉藻と みるぞかなしき (柿本の人麿
猿澤の 池もつらしな 吾妹子が たまもかづかば 水ぞひなまし (ならの帝

       万葉集巻16−3788
耳成の 池し(羊蹄)恨めし 我妹子が来つつ潜かば 水は涸れなむ [一] (作者不明)

第三番目の勅撰和歌集である拾遺集の撰者は花山法皇説が有力とされることから、この柿本の人麿の歌が拾遺集の歌であることは極めて暗示的です。

驚くべき事実は、万葉集の「耳成の池し(羊蹄)恨めし……」の歌番号3788を2で割り、
1894m
と見なせば、蝦夷富士羊蹄山の高さ1898m4mしか違わないことです。

このことが意味をもつのは、地球に関する知識があり、半間強の長さになる北極から赤道までの距離の1千万分の1の長さ1m)を暗号での長さの単位にしている場合に限ります。

実は、古今集に仲麿が明州で詠んだという、「あまの原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山にいでしかも」という歌が、その可能性を納得させてくれるのです。


暗号といえば、万葉集検索で、項目〔訓読〕「海原」として検索すると、
短歌15首、長歌4首、旋頭歌2首がヒットします。

その中には、次のように、仲麿の乗った第一船が、沖縄を離れる時に磯に触り、離礁後大風激浪に出会うてベトナム方面まで漂流したことを意識させるものがあります。

海原の 遠き渡を 遊士の 遊ぶを見むと なづさひぞ来し (10168128/8
   右の一首は、白き紙に書きて屋の壁に懸(か)く。題には
   「蓬莱の仙媛の化れる嚢かづらは、風流秀才なり。
   これ凡客の望み見るところならじか」といふ。

     寄物陳思
海原の 海苔 うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも (11/2779)

     佐婆の海中で、思いがけなく大風激浪に出会うて一晩漂流した後に、
     幸に豊前の国下毛の郡分間(わくま)の浦にくことが出来たので、
     その苦しみを
後から思い出して、作った歌
ぬばたまの 夜渡る月は 早も出でぬかも  海原の 八十島の上ゆ 妹があたり見む
[旋頭歌なり] (15/3651

大君の 命畏み 磯に触り 海原渡る 父母を置きて (20/4328)
   右一首 丁丈部 人麻呂

     二月十日内大臣の家で、渤海大使小野田守朝臣等を餞別する宴会をした時の歌
海原 風波靡き 行くさ来さ つつむことなく 船は速けむ (20/4514)
   右の一首は右中辨大伴宿祢家持。 [いまだ誦はず]

暗号の標識「遊士」と完全数との関わりを示す10168128/8の「海原の遠き渡をなづさひぞ来し」は、「大海の遠い航路を波にもまれて難渋しながらやって来た」という意味です。

そこで、風流秀才を、された秀才=仲麻呂と解すると、寄物陳思」の「海苔」から、唐大和上東征伝」では万葉仮名で阿兒奈波と表している、沖縄を意識します。

その意義を確かめるために、万葉集検索海苔」を検索してみると、他にもう1首
「わたつみの海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ」(15/3663)があります。

この歌は、海辺にて月を望みて作る歌九首天の原振り放け見れば……」(15/3662)の次にあるわけですから、仲麻呂の歌を意識している可能性は高いといえます。

そして、「海原」を用いた唯一の歌(20/4514)では、土佐日記の秘密を明かす「二十日月」を「二月十日」で示し、「餞別する宴会」を古今集の仲麿の歌の左注に対応させています。

なお、「唐大和上東征伝」には、故国へ向う遣唐船は、11月21日に第一船、第二船が沖縄に到着したとあり、第三船は昨夜(11月20日)すでに同所に停泊していた、とあります。

このように見てくると、万葉集の最後から3番目にあるこの歌の肝心の暗号は、「内大臣=藤原仲麻呂」によって、仲麿の歌後人の作であることに気付かせることかもしれません。

また、[いまだ誦はず]という注は、15/3651にあるように、「後から作った歌」だから、大伴家持はまだ誦ってないということではないでしょうか。


ところで、土佐日記の正月二十日の記事には、仲麿が、「わたしの国では、こういう歌をば、神代の昔から神もおよみになり、……」と説明したとあります。

これは、紀貫之が書いたという、古今集仮名序に、次のようにあることに反します。

ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、……人の世と成りて、素戔嗚尊(すさのおのみこと)よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける素戔嗚尊は、天照大神の

ただし、これを、素戔嗚尊はではなくで、天照大神から人の世と見ている、と解釈するようです。しかし、この混乱には、記紀神話に目を向けさせる意図があるように思われます。

なぜなら、まず古事記では、イザナギノミコトが、天照大神に「天の原を知らせ」と命じ建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)に「海原を知らせ」と命じています。

さらに、日本書紀では、第五段一書第六に、「天照大神は、以て天の原を治すべし」
「月読尊は、以て海原の潮の八百重を治すべし」とあります。

また、第五段一書第十一には、「素戔嗚尊は、海之原を御すべし」とあります。

これは、古今集の仲麿の歌の「天の原」と土佐日記の仲麿の歌の「海原」の違いによって、紀貫之に仮託した後人が記紀神話の創作に関与していることを示すものではないでしょうか。


仲麻呂の歌に疑いを抱くのは私だけではありません。

原子燃料政策研究会の機関誌「Plutonium」の編集人後藤茂氏の「長安の月(1999年)」にも、仲麻呂の歌を別人の作と見る説が紹介されています。

たとえば、長谷川政春氏は、「仲麻呂の乗った第一船は遭難して帰国できなかったが、他の三船は日本に帰っている。とすれば、帰国できた誰かが仲麻呂の歌としてわが国に伝え、

当時、編まれた万葉集に収録されていていいはずだが、それから150年も後の古今集に入ったのはおかしい」と指摘しているとのことです。

万葉集には次のような歌があるので、帰国に際して入唐大使藤原清河の第一船に同乗した阿倍仲麻呂の歌が、万葉集にはなく、古今集に載っているのは、確かに不自然です。

     春日に神を祭りし日に、藤原太后(光明皇后)の作りませる歌一首。
     即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜へり。
大船に 真楫しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎(いは)へ神たち (19/4240)
――大船に左右の楫を一面に通して、この子を唐へ遣わす。祝福を与えよ。神々たちよ。

     使藤原朝臣清河の歌一首
日野に 斎(いつ)く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰りくるまで (19/4241)
――春日野に祭る社の梅の花よ。咲き誇りつつ待っていよ。わたしが帰ってくるまで。

     (女帝孝謙)勅して従四位上高麗朝臣福信を難波に遣わし、
     酒肴を入唐使藤原朝臣清河等に賜へる御歌一首并せて短歌
そらみつ 大和の国は 水の上は 地(つち)行くごとく 船の上は 床に居るごと 
大神の 斎へる国ぞ 四つの船 船の舳並べ 平けく 早渡り来て 返り言 奏さむ日に 
相飲まむ酒(き)ぞ この豊御酒は (19/4264)
     反歌一首
四つの船 早帰り来と しらか付け (我)が裳の裾に 斎ひて待たむ (19/4265)
――四隻の船が早く帰るようにと、白髪をつけて、わが裳の裾に斎(いわ)い事をして待とう。
   右は、勅使を発遣し、并せて酒を賜ふ。楽宴の日月詳審らかにすることを得ず。

ここで、気分転換に、万葉集検索表示項目の「原文」にチェックを入れ、「唐国」で検索してみてください。

そうすると、「入唐大使藤原朝臣清河」が関わる歌(19/4240)の他に、「入唐副使大伴胡麻呂宿祢」が関わる歌(19/4262)がヒットします。

ところが、この訓読「唐国」の原文を見ると、「韓國」になっています。

これは、「ニニギの言葉に秘められた地図」で取り上げた、「この土地(高千穂)は、韓国を望み、笠沙の岬を正面に見て……」という言葉の韓国が、唐国にも通じるということです。


仲麿の歌は、実景に即したものではなく、地図に関する暗号ではないだろうかと考えて、手元の地図帳の「日本の地形」というページで、寧波市の中心と思われる辺りと富士山頂を結んでみたところ、その直線が奈良市のありそうな辺りを通過しました。

そこで、「世界全地図」講談社)で寧波市の位置を定め、国土地理院測地部の「距離と方位角の計算」を用いて、方位角「寧波市→春日山」と方位角「寧波市→富士山とを求めてみたところ、次のようになりました。

出発点 寧波市

北緯

29度50分00.0000秒

東経

121度34分00.0000秒

到着点 春日山

北緯

34度41分00.0000秒

東経

135度51分00.0000秒

到着点 富士山

北緯

35度22分00.0000秒

東経

138度44分00.0000秒

方位角

寧波市春日山

64度29分49.28秒

寧波市富士山

64度38分58.63秒

この二つの方位角64度39分64度30分との差は9分しかないので、縮小率が高い地図の場合、寧波市から春日山に引いた直線を延長すれば富士山頂に到達する、といっても差し支えないはずです。

したがって、富士山を高千穂、春日なる三の山を沙の岬、明州を韓国とすれば、「この土地(高千穂)は、韓国を望み、沙の岬を正面に見て……」が成立します。

このような計算をしている際に、お星様とコンピューター の、「日の出、日の入、月の出、月の入」を見つけ、思いがけないことが分りました。

西暦753年12月15日(遣唐使の船団が黄泗浦を出航した翌日=仲麻呂が揚子江河口で海に昇る月を見た可能性がある日)の寧波市における月の出の方角は64.4度=64度24分で、「寧波市春日山」の方位角と6分しか違わないのです。

だから、西暦753年12月15日の月齢15.4の月は、寧波市で見ると、水平線を離れかかった時に、ちょうど春日山と同じ方角に見えることになります。

しかも、この春日山を富士山に置き換えても方位角に大差がないので、仲麿の歌を、「天の原振りさけ見れば駿河なる富士の高嶺にいでしかも」と作り変えることが出来ますが、そのために必要な語句は次の長歌と反歌にそろっているのです(「しかも」は苦しい)。

      山部宿祢赤人、富士の山を望る歌一首并せて短歌
天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照るの 光(ひり)見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(03/0317)

      反歌
田子の浦ゆうち出でて見れば真白(まろ)にぞ富士の高嶺雪は降りける(03/0318)

この反歌は、富士山が比叡山の20倍であるという伊勢物語9段の暗号が、紛れもなく測量に関する暗号であることに気付くヒントを提供してくれた歌でした。

すなわち、田子の浦から富士山(3776m)山頂を通る直線を引けば、多胡碑、竜飛崎を通過し、高さがキッチリ富士山の高さの2分の1(0.503倍)である蝦夷富士羊蹄山(1898m)山頂に達することが分る仕組みになっていました。

一方、春日山を真東に見る位置に猿沢池があり、その池に入水した采女を悼むならの帝の歌に対応する万葉集の歌「耳成の池し(羊蹄)恨めし……」の歌番号3788を2で割ると、
羊蹄山の高さ1898mと4違い1894になります。

すなわち、仲麻呂の歌は、遣唐使の一行が、黄泗浦を出航した翌日(西暦753年12月15日)に海から昇る月を見たであろう可能性を踏まえ、その日の月の出の方角が明州から見れば春日山のある方角に一致することを示しているのです。

しかも、その背後の富士山の存在に気付かせ、富士山から羊蹄山に達する直線の意義を保証する、スケールの雄大な地図と測量に関する暗号になっている訳です。

京天文台に勤務していた小川清彦(1882−1950)氏の研究によると、日本書紀の最終的編者は、神武天皇の即位を紀元前660年に引き上げる際に、222個の朔の干支を儀鳳暦で計算しています。

西暦753年12月15日 の月の出の方角が、明州から見ればちょうど春日なる三笠の山の方角に一致することに気付いたのは、暦法に通じた計算の達人、すなわち日本書紀の最終的編者と同一人であったと考えるべきではないでしょうか。


紀貫之が女性に仮託して仮名で書いたという土佐日記と、同じく紀貫之仮名で序文を書いたという古今集に出てくる阿倍仲麿の歌にこのような秘密が隠されているとなると、仮名について考えてみなければならないことになります。

このテーマは、浅学非才の私とっては荷が重過ぎます。それでも私なりに感じていることが若干あるので、いつの日にか取り組んでみたいと思います。【工事中断】m(_ _)m


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