2008/07/20
普天間基地
普天間飛行場 今昔
宜野湾市教育委員会文化課市史編集係が2004年6月から発行されている市史だより「がちまやぁ」という情報誌があります。沖縄戦で多くの歴史的資料失った沖縄では歴史編纂事業はひときわ活発で、時間とともに劣化する情報の堅持のために多くの方々が力を尽くしておられます。この宜野湾市では、米軍が上陸した直後から普天間飛行場の建設が着手されたこともあって、旧来の町並みも、田畑も、何もかもがあとかたなく消滅してしまいました。この事実は宜野湾市の市史編纂事業の中でも主要テーマとなっているように思われます。このあたりの事情を「がちまやぁ」から拾ってみようと思います。
なお、これら文書は、宜野湾市教育委員会のウェブサイトでPDF文書として公開されています。是非ご訪問ください。
(http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2562/2563/2602/27088.html)
1945年10月、各地の収容所に収用されていた住民たちに「帰村」が許可され、宜野湾出身の人々も宜野湾にもどってきたのですが、既に、「・・・占領と同時に米軍は軍事基地を建設しており、島尻・中頭地区の耕地のほとんどが陣地と化している状況でした。宜野湾も例外ではありません。写真資料からも普天間飛行場の滑走路がはっきりとうかがえます。したがって人々は必ずしも旧居住地へと戻れたのではあれません。人々の”帰村”は米軍基地の存在に大きくほんろうされます。」(「がちまやぁ」#1)という状態だったようです。戻るところを失った多くの宜野湾の人々は、結局、地元の野嵩収容所での生活を余儀なくされたといいます。

1946年8月になり、野嵩に収容されていた宜野湾の人々に、宜野湾内の地域に順次移動許可が出されたそうです。けれども戦禍で住居もなく即座には移住することもできず、さらに既存の集落は軍用地として利用されていて、10月に米軍が「再定住化計画」を打ち出しても”帰村”はなかなかはかどらない状態だったそうです。

「当時の宜野湾の人々は戦争が終わってもなお、収容所での生活を余儀なくされ、郷里へと帰ることはできませんでした。かつての郷里は戦災によって荒れ果て、本島中部には広大な米軍用地が広がっていたからです。宜野湾村においては、村面積の約五割が米軍用地として接収されていました。そして戦前の土地台帳を戦火によって消失してしまったことが、村民の”帰村”をさらに困難にしていました。」(「がちまやぁ」#3)。
1946/08頃の宜野湾周辺図
普天間飛行場は1945年4月の米軍の上陸と同時に米陸軍工兵隊が日本本土爆撃用の飛行場として建設に着手し、同年6月15日に完成したといわれています。このときの規模は2290mの滑走路をもつ飛行場で、設計図や当時の地図を見ると、今日の普天間飛行場に比べてかなり小さいものだったようです。けれども飛行場の建設によって宜野湾や神山といった集落が更地に破壊され、その他兵舎や病院の建設によって、普天間、真志喜、宇地泊、大謝名などの地域が接収されていることが見て取れます。人々は米軍基地にはじき出され、新たな地域に集落を形成せざるをえなくなりました。

そんな中でも人々は復興に力を尽くし、46年11月には我如古に、47年1月には嘉数に、47年4月には上原、愛知、赤道、長田が、5月には伊佐、大山にも居住域が広がったそうです(「がちまやぁ」#4)。その当時の普天間飛行場は「滑走路こそ確認できるものの、現在のようなフェンスはなく、”補助飛行場”、あるいは”予備飛行場”として、しばらくの間使用されませんでした」(「がちまやぁ」#8)。中は自由に通行でき「何等通行ニ支障ナシ」(同)だったそうです。そして、飛行場を使用する気配もない状況のもとで、人々は基地内で居住、耕作を行うまでになっていたそうです。

中国革命、朝鮮戦争、冷戦時代への突入は沖縄の人々を再びほんろうさせることになりました。沖縄での基地建設が急速かつ大規模に展開され始めます。普天間飛行場は1952年には2400mに、そして1953年には2700mへと拡張され、ほぼ現在の規模にまで拡張されました。人々が居住し耕作していた地域も接収されました。1946年に収容所から”帰村”し、米軍基地の合間をぬって住まいと耕作地域を再生してきた人々の土地をまたもや基地として徴用し始めたのでした。沖縄戦を生き抜き、ようやく”帰村”して復興の道にたった人々が、またしても半ば強制的な移住に追いやられる事態まで生み出されることになりました。普天間基地やキャンプ・瑞慶覧の拡張のために、伊佐、安仁屋、喜友名、新城一帯の土地の「銃剣とブルドーザー」による強制接収に、住民の土地を守る「伊佐浜闘争」が繰り広げられ、これに多くの人々が合流し、米軍の圧政への「島ぐるみ闘争」へと拡大していきました。同年普天間基地は立ち入り全面禁止となりました。
1954 普天間飛行場拡張、キャンプ瑞慶覧建設で土地の強制収容か行われた。
伊波市長は、普天間飛行場が米軍内部の安全基準に違反した欠陥基地で、撤去以外にはないことを国内外で訴え続けておられます。こちらで宜野湾市が米本国の「航空施設整合利用ゾーンAICUZ(AIR INSTALLATION COMPATIBLE USE ZONE)」というスタンダードに従って普天間飛行場を評価する必要性と根拠、その適用によって導かれるべき必然的な結論、実際の適用プロセスが記載されています。
(http://www.city.ginowan.okinawa.jp/2556/2581/2582/27873.html)
宜野湾市役所のAICUZ適用研究参考に作成。赤丸:市役所、白丸:学校、橙丸:公民館など。
CLEAR ZONE(利用禁止区域) 滑走路からの幅が450mから690m、長さ900mの台形区域。
APZⅠ ZONE(事故危険区域Ⅰ) 利用禁止区域よりも低いが相当な事故の危険性がある区域。利用禁止区域の端から幅900m、長さ1500mの区域
APZⅡ ZONE(事故危険区域Ⅱ) 無視できない事故の危険性のある区域
もう一つ普天間基地をめぐって、「普天間爆音訴訟」が非常にホットです。一審では騒音をめぐって勝利しました。けれども、回転翼機基地である普天間飛行場の低周波騒音問題の明確な認定、そしてなにより、具体的な爆音の差し止めを求めて控訴審に乗り出しました。従来の固定翼機の爆音裁判と異なる回転翼機の新たな爆音基準と規制の標準を獲得すること、爆音に加え実際に墜落する危険性を除去するために飛行禁止を求める闘いへと、求めるものの高さの違いを際だたせています。

7月17日には米軍横田基地の夜間飛行禁止と損害賠償を求めた控訴審で、賠償額の増額でお茶を濁し、夜間飛行禁止を認めない判決を下しました。住民の皆さんは上告されるようです。「支配の及ばない第3者」=「米国」への行為差し止めは認められないとする判決が人々の怒りを買います。日本の主権の及ばない地位協定の見直しを根本から迫る闘いのために、全国で波状的に裁判が行われています。具体的な成果を獲得するための闘いへと歩みが進められています。
在沖米総領事ケビン・メア氏は7月11日の定例記者会見で、伊波洋一宜野湾市長が米軍普天間飛行場は米軍内部の安全基準に違反しているという指摘に、「基地外の建設を制御する安全基準で、逆に滑走路の近くの基地外になぜ、宜野湾市が建設を許しているのかという疑問がある」と話したそうです。普天間基地のためにはじき飛ばされながら戦後の復興に立ち上がった沖縄の人々を更に冷戦の過程で肥大化して周囲に押し退けてきたのに、いまになって「どうして君たちは私に近寄ってくるんだ?」と厚顔無恥に疑問を投げかける米国外交官。あなたが正しく理解されているようにあなた方は危険です。けれども、あなたは、自分たちがブクブク肥えて私たちに近寄ってきたのだということを正しく理解しなければなりません。
以下参考
また、AICUZについては元名護市議会議員の宮城康博さんが、米軍は米国内でこの標準を厳格に活用し基地の運用方法を決定していること、岩国基地の沖合移設に関連して、事前にこのスタンダードを適用して艦載機の離発着訓練を行えるように沖合移設を要求し実施させたのではないかという興味深い仮説を展開されておられます。
(http://miyagi.no-blog.jp/nago/2007/12/post_9f4f.html)
参考までに、以下は、サウスカロライナ州のチャールストン空軍基地についてのAICUZ(AIR INSTALLATION COMPATIBLE USE ZONE)の適用文書を引用します。このAICUZが固定翼機の実際の事故の確率から導かれた標準であることを見て取れます。

空港の周辺は、いかに航空機が適切に整備され、十分にクルーが訓練されていても航空機事故の可能性にさらされています。メンテナンスの必要性をどんなに厳格にしても、訓練にどれだけ時間をかけても、これまでの歴史は事故は起きうるのだということを明らかにしている。航空機事故によって地上の人々が死傷する危険は小さい。けれども航空機事故は重大事件であり、墜落がおきた場合には結果はたいていの場合破滅的です。そのため空軍は事故の確率についての安全基準に基づかせてはいません。そのかわりに土地利用計画の観点からこの安全の課題にアプローチします。すなわち飛行場周辺の安全地帯と土地利用への制限によって公衆を安全の低下にさらす危険を少なくできます。AICUZプログラムは、CZ、APZⅠ、APZⅡの3つの安全地帯からなります。これらの領域は1968年から1995年の間に空軍施設の10マイル以内で発生した800以上の主な空軍事故の分析から開発されたものです。図4.6はこれらの事故の場所をまとめたものです。

3つの地帯の中でCZは最も事故の可能性が高く、この領域で対象とする事故の27%が発生しています。比較的高い事故可能性のために、空軍は買収または可能な場合には地役権を設定するなどしてCZ内で事実上の不動産取得を行う政策を採ってきました。

APZⅠは対象とする事故のうちこの領域で発生した事故が10%で、CZよりも事故の可能性は幾分低い領域だ。APZⅡは対象とする事故のうちこの領域で発生した事故が6%で、APZⅠよりも事故の可能性は低かった。APZⅠとⅡでの航空機事故についての可能性のために空軍が土地買収を保障してはいないが、公衆の防御のためにこれらの領域では土地利用計画と制御が強力に進められています。

滑走路に隣接する地域やCZ内の事故の可能性は非常に高いので、土地使用制限によって土地の意味のある経済活用は禁止されています。先に述べたように軍用地専用に用いるためにこの領域の不動産取得のために議会の承認と適切な基金をえることを要求することが空軍の政策です。APZⅠはCZほど深刻ではないものの、著しい危険要因が存在します。この3000フィート×5000フィートの領域は、産業/生産、輸送、コミュニケーション/公共施設、卸売り、空き地、レクリエーション施設、農業のような土地活用に柔軟使用を行うというガイドラインをもうけています。けれども狭い所に人々が集まるような使い方はふさわしくありません。APZⅡはAPZⅠよりも深刻ではないものの事故の可能性をもっています。APZⅡは幅3000フィート、長さ7000フィートで滑走路の端から15000フィートのところまでの及びます。APZⅠの使用目的に加え、できる限り低い密度の単一家族住居、個人住居、事務所、小売業などの小密度、小規模事業で使用されます。階層建築、集合施設(劇場、教会、学校、レストランなど)、と高密度のオフィスの使用はふさわしいとは考えられません。人口密度の高さはできる限り制限されるべきです。APZⅡにおける推奨される適切な密度は1エーカー(約4047平方メートル)当たり1戸です。非住居使用の場合、建家は1階建てで建坪率は20%を超えるべきではありません。
仲井真知事と福田政権下での普天間協議会で普天間基地の危険性除去プロジェクトチーム設置が合意され、2008年8月28日から9月3日まで普天間飛行場の飛行経路の実態調査が沖縄防衛局によって実施されました。けれども、福田前首相が政権を投げ出した結果、この問題も当面の間棚上げ状態となり、仲井真知事の3年以内の普天間基地閉鎖の公約の実現にも陰りをさすものとなっています。宜野湾市はこの期間、防衛省サイドの調査の正当性を見守るため、独自に調査を行いました。この調査期間の1週間で実際に訓練されたのは4日間であり、タッチアンドゴー訓練は行われず、飛行回数もピーク時の半数以下の1日平均103回だったそうです。それほどに調査を米軍が意識しているのもかかわらず、ヘリコプターが訓練する飛行場周回路を外れて飛行する回数が35回観察され、更に午後10時以降の深夜飛行の回数も13回を数えたと言います。ことほどさように基地があるということはどんなに隠そうとしてもできはしないことでした。それにしても学校の真上を軍用機が飛び回っていることがよく分かります。
次の図は普天間基地の下に眠るであろう遺跡群です。緑の領域が貝塚時代からグスク時代の遺跡として確認されていますが、詳しい調査は行われていません。沖縄はいたるところ史跡です。米軍はそれらの上を何らの措置も取らずに造成し、普天間基地建設を実施しました。さらに伊佐浜の土地を奪ってつくられた キャンプ・瑞慶覧も遺跡の上に作られました。今、キャンプ・シュワブの新基地建設でも遺跡の破壊が問題になっています。
10月6日、沖縄防衛局は2010年1月1日から2011年3月31日までの普天間所属の回転翼機の飛行経路実態を公表しました。日米政府間で合意されている飛行経路は下図の赤で記された飛行経路ですが、実態はそこから大きく逸脱していることが見て取れます。沖縄タイムスは、飛行経路の逸脱を類別し、①場周経路の外延的逸脱②滑走路に対する直線的進入・発進③津覇・久場崎と普天間と結ぶ経路を逸脱した住宅密集地上空を通過する経路を指摘しています。しかし、より大切なことは、普天間北部に広がる米軍の住宅地域であるキャンプ瑞慶覧上空は全く飛行していないという事実です。
初めての低周波騒音被害の認定を含めた第一次普天間爆音訴訟は事実上終結し、10月11日には最高裁で夜間の飛行停止求める住民の訴えを退けました。国の支配の及ばない第三者(米軍)の行為であり、国は米軍による普天間飛行場の活動を制限できないという、主権国家の内にありながら主権の及ばぬものの存在を認め、騒音が違法だとしながら、安全保障は政府の裁量で、司法は口出しできないという判決は、司法が自らの存在を否定する行為であるといって大きな誤りはありません。
もはや、更に大きな闘いで臨むしかないと、普天間爆音訴訟団は、嘉手納爆音訴訟に並ぶ大規模訴訟団を組織し、第二次訴訟へと歩みを進める構えです。
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