2003年の有感地震について
(03.12.24)

仙台管区気象台は22日、東北で今年1月から12月15日までのほぼ1年間に発生した有感地震は1172回で、昨年の228回の約5倍だったと発表した。このうち、マグニチュード5以上の地震は78回(昨年22回)で、大きな地震が目立った。震度6クラスの地震が相次いだ宮城県内では、昨年の8倍以上に当たる864回の有感地震が観測された。

  最近の大きな地震 (03.07.27)

○2003年7月26日(土)午前0時13分東北から関東の広い地域で地震があり、宮城県の矢本町と鳴瀬町で震度6弱を観測。地震の規模はマグニチュード5.6。仙台は震度3。[前震]
同午前7時13分頃宮城県北部を震源とする激しい地震があった。同県南郷、矢本、鳴瀬各町で震度6強を観測したのをはじめ、北海道から中部まで広い地域で揺れを感じた。仙台は泉区で震度5弱、他の地域は4か3だった。震源地は矢本町と鳴瀬町の境界付近の内陸部で深さ12キロ。地震の規模はマグニチュード6.4と推定される。[本震]
同午後4時56分頃にも強い地震があり、河南町で震度6弱、南郷町、涌谷町で震度5強を観測。地震の規模はマグニチュード5.5と推定される。仙台は震度2。[余震]
気象庁によると、1日で震度6以上の地震を3度観測したのは、統計のある1972年以降初めて。
 この地震は高い確率で(20年以内に88%)発生が予想されている宮城県沖地震とは異なるといい。一連の地震の震源はいずれも宮城県北部で、鳴瀬、矢本両町の境界付近と河南町中心部との間にある長さ約8キロの地表のたわみ「旭山撓曲(とうきょく)」付近。
 地震による負傷者は664人(うち重傷者43人)、8687棟(全壊483棟・半壊1241棟・一部損壊6963棟)の家屋が損壊、非難住民3000人超、施設被害(土木、産業合わせて256億4700万円)土砂崩れや交通機関の乱れ、断水、停電などのライフラインに被害。(宮城県連続地震)(3.07.27)

○2003年5月26日(月)夕方(6時24分)東北地方で最大震度6弱・マグニチュード7.1(震源の深さ71キロ)の強い地震が発生した。
 新幹線がストップし交通網が寸断され、負傷者は120人以上。住民生活に大きな影響を及ぼした。
(三陸南地震)(03.06.05)

宮城県沖地震の再来 宮城県沖地震発生up-date(03.05.25)
 平成12年11月27日地震調査研究推進本部地震調査委員会から「宮城県沖地震の長期評価」が公表されました。
 その内容は、宮城県牡鹿半島沿岸からその東方へ広がる範囲でマグニチュード7.5前後、場合によっては8,0前後の地震が2001年(平成13年)から10年以内に約30%、20年以内に約80%の確立で発生するとの長期的評価がなされたものです。(宮城県沖地震の再来確率
 もう1度身の回りを見渡し、そのための備えをしよう!!

1978宮城県沖地震発生(98.6.4)(up-date 03.02.02
 まもなく、あれからまる25年になろうとしている。
 この記録は、宮城県沖地震 に際してガスの被害復旧に当たった当時のガス課職員の奮闘の記録として、当時、ガス施設係長 だった湯村氏が当時の状況をラジオ、テレビなどの内容を編集してカセットテープに納め一部のガス 課職員が記録にとっておいたもので、「開運!なんでも鑑定団」で値が付くとは思えないが、私たち にとっては非常に貴重な思い出の品である、そのテープを聴いて内容の一部を編集して再現している 作品である。
 昭和53年6月12日午後5時14分44秒宮城県沖を震源地とする震度5マグニチュード7.4 の地震が発生しました。気象庁はこの地震を1978年宮城県沖地震と命名しました。
 この地震で宮城県を中心に死者28人、けが人一万人余、建物の全半壊7400戸など多くの被害 をもたらしました。
 生活関連施設では停電70万戸、断水7000戸、都市ガスは4事業所(仙台市ガス、塩釜ガス、 石巻ガス、古川ガス)13万戸が供給停止し仙台市ガスでは復旧までに1ヶ月を要しました。  私はこの時、ちょうど、ガス課に所属し、地震直後から1ヶ月間はほとんど家にも帰れず、職場に 詰めている状態でした。長女が妻のおなかの中におり(9月8日出産)、別の記事に出て来ているが この年4月から仙台西区BBS会長をしており、そちらの連絡 はもっぱら浜事務局長との電話のやりとりであり、忙しい中でも、良くもまあ難局を切り抜けたものだと、今にして思います。)

 さて、話は戻って宮城県沖地震の被害の様子を当時人気のテレビ番組「ウイークエンダー」は次のように報じました。

○3階建てのビルディングが、1階下がって2階建てになってしまった(ちなみに、扉・窓などは曲がってしまって開けられなくなってしまうため、グラッと来たらまず扉を開ける心がけが必要)

○家屋の屋根瓦が全部落ちたり、小学校の体育館の壁が全部落ちてしまった。(ちなみに、グラッと来たときはあわてて外に飛び出さず、机の下とかに隠れる方が有効)

○亡くなった方23名のうち18名がブロック塀や門柱の下敷きになって亡くなっている(ちなみに、最終的に亡くなった方は28人となっている訳だが差の5名は、地震の後遺症(ショック死など)いわば、2次災害で亡くなった方や、後で死亡が確認された方などである)

○お寺では、直径60cmの柱が真っ二つに折れて和尚さんが下敷きになって亡くなった。

○大きなデパートでは、シャンデリアがぶつかって粉々に割れて降り注いだ。売場の酒瓶などもみんな割れてしまったし、こけし売場のこけしも見るもみごとに散乱してしまう有様。

○ある、瀬戸物屋さんでは、瀬戸物が割れた被害が1000万円にも上った。

○地震の後売れたものは、ロウソク、電池、携帯用ガスボンベなどで、(ちなみに、ロウソク、電池などは非常用に買い置きしておくべきだ)

○パンなども市内では作れないので外からどんどん届いた。こういう場合はたいてい便乗値上げがあるものだが、仙台の場合はむしろ3割引5割引と安く手に入った。ガスボンベなども品不足などなくどんどん入荷してきた。業界の対応がありがたかった。(ちなみに、火事場泥棒のような事件の例は届いていない。むしろ、ガスの復旧作業に応援に駆けつけてくれた、全国のガス会社の工事関係者が、作業中にガスで不自由を被っているので、住民から文句の一つも言われることを覚悟しているのに、逆に自分のことをさておいて、作業員に声がけをしてくれたということで、毎日感激の報告が入ってくる程であった)

○刑務所では、塀が内側に全部倒れてしまって、外から中が丸見えという状態になってしまった。この塀は作ってから99年経っているということで、鉄筋が入っていなかったためこうなってしまった。(ちなみに、竹筋コンクリートだった)
 昭和45年から塀の規制が出来たんだということで、お宅の塀も調べてみて、鉄筋が入っていない場合支え棒をするなど安全対策をとって貰いたいとのこと。

 勿論、私自身にとって筆舌に尽くせぬ色々な思い出があり、付け加えたいところがある訳だが。際限がないと云おうか止めどないと云おうか。そんな事で止めておいて、次に1つだけ紹介してペンを置きたい。
 当時私たちはG連もやっていた訳で災害救助に功績有りとして、仙台市長の感謝状もいただいたものである。私のお手伝い先は、子ども達が転勤で留守で一人住まいのおばあさん宅の、荷物を仮設住宅に運ぶ仕事だったが、新築の家の土台がものの見事に真っ二つに折れてしまって修理不能の家屋だった。ローンの支払いも20年近く残っており、泣くに泣けない状況であり、おばあさんは茫然自失の状態に見えました。宅地の乱開発が進み、ろくに規制もなかった当時であったため、そんな家屋被害でさえ、ましな方だと言われるような有様でした。

 しかし、このような、大きな地震であったにもかかわらず死者が少なかったのは
発生時刻が5時一寸過ぎだったこと(職場では一段落の時間帯、家庭にあっては、夕飯の支度前のひととき)、季節もちょうど暖かな時(この件に関して付け加えれば発生後の復旧に当たっては好天が続いたのと、第2次オイルショック前で、世の中景気が良く、復旧費用についても捻出できたという幸いが重なっている−逆に言えばこの様な幸いが一つでも欠けていたならもっと辛い状況が予想されたところである−)更には、この地震では大きな津波が発生しなかったこと(ちなみに、その後の昭和58年5月26日の日本海中部地震は津波による死者(100名)が死者総数のほとんどを占めている)であり、我々は不幸中の幸いという言葉で、この時の状況を語り伝えております。
 それにしても、この災害は、私たちに多くの傷アトと、思い出と、人生訓を残した出来事でした。

※地震に関するデータは文部科学省(当時総理府)の「 地震調査研究推進本部」にリンク


※関東大震災に関する記事は「ここをクリックして」ご覧下さい。

(梁川健一)


宮城県沖