イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2011年9月7日掲載
イワクラ(磐座)学会 会報23号掲載      
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上賀茂神社細殿 立砂の謎

1 はじめに
 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の通称で知られる賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)は、
京都市北区にあるユネスコ世界文化遺産に指定された神社である。
式内社、山城国一宮で、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ:下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、
賀茂神社(賀茂社)と総称される。
賀茂神社両社の祭事である絢爛豪華な葵祭は特に有名である。
その上賀茂神社の二ノ鳥居をくぐると細殿(ほそどの)と呼ばれる拝殿があり、
その前に左右一対の白砂で作られた奇妙な円錐形の盛砂がある。
一体これは何を表しているのだろうか?
誰もが立ち止まり考える。 そして傍らの案内板を読んで立ち去る。
今回は、そんな身近な疑問に磐座研究の視点から迫ってみた。

 神社側の説明によれば、上賀茂神社が長岡京の鬼門(北東)にあたるため、
方除(ほうよけ)にために設けられたそうである。(HP1)
しかし、実際には上賀茂神社の位置は、北東というより北に近い。
『続日本紀』延暦3年(784)6月13日条には、
「遣参議近衛中将正四位上紀朝臣船守於賀茂大神社。奉幣。以告遷都之由焉。」とあり、
長岡遷都の理由を告げるため賀茂大神の社に使いを派遣し奉幣している。

 神社の案内板には以下の説明がある。

 立砂(たてずな)
 盛砂(もりずな)とも云い、
 「たつ」とは神様のご出現に由来した言葉であり
 神代の昔ご祭神が最初に降臨された
 本殿の後2kmにある
 円錐形の美しい形の神山(こうやま)に
 因んだもので一種の神籬(ひもろぎ)
 即ち神様が降りられる
 憑代(よりしろ:依代)である。
 鬼門・裏鬼門にお砂を撒き清めるのは
 此の立砂の信仰が起源で
 「清めのお砂」の始まりである。

 細殿(ほそどの)
 寛永5年(1628)造替 重要文化財 
 行幸の際及斎王の御著到殿
 創建年代不詳。
 正暦5年(994)5月23日官符にその名始めて見ゆ。
図1 上賀茂神社の細殿前の立砂

 ここで、本論文の理解の前提となる有名な伝承を二つ紹介しておく。

 『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』は鎌倉時代末期に成立したとされる『日本書紀』の注釈書であるが、
その巻九 頭八咫鳥(やたがらす)条に『山城国風土記』逸文が記載されている。
八咫烏は、神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという伝説上の三本足の大カラスで、
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の化身とされる。

<『山城国風土記』逸文>
 山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。
可茂と稱(い)ふは、日向(ひむか)の曾の峯(たけ)に天降(あも)りましし~、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
~倭石余比古(かむやまといはれひこ:神武天皇)の御前(みさき)に立ちまして、
大倭の葛木山(かづらきやま)の峯に宿りまし、
彼より漸(やくやく)に遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河(木津川)の隨(まにま)に下りまして、
葛野河(かどのがは・桂川)と賀茂河との會ふ所に至りまし、
賀茂川を見迥(はる)かして、言りたまひしく、「狹小(さ)くあれども、石川のC川(すみかは)なり」とのりたまひき。
仍(よ)りて、名づけて石川の瀬見(せみ)の小川と曰ふ。
彼の川より上りまして、久我の國の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき。
爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。
賀茂建角身命、丹波の國の~野の~伊可古夜日女(かむいかこやひめ)にみ娶(あ)ひて生みませる子、
名を玉依日子(たまよりひこ)と曰ひ、次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰ふ。
玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。
乃(すなわ)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生みき。
人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋(やひろや)を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸(か)みて、
~集(かむつど)へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、
然して子と語らひて言りたまひしく、「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば、
即(やが)て酒坏を擧(ささ)げて、天に向きて祭らむと為(おも)ひ、屋の甍を分け穿ちて天に升(のぼ)りき。
乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號(なづ)く。
謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷~(ほのいかつちのかみ)なり。
可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、
三柱の~は、蓼倉(たでくら)の里の三井の社(みいのやしろ)に坐(いま)す。
 
 鎌倉時代初期成立の『年中行事秘抄』四月賀茂祭条には、前述の『風土記』と少し異なる伝承が
「旧記」(「賀茂旧記」)として記載されている。
「賀茂旧記」の前半は『風土記』とほぼ同じであるが、
後半は葵祭の縁起となる別雷命が天に昇ってしまった後の話が追加されている。
そしてここで初めて、下鴨神社の祭神である「御祖神(みおやがみ)」なるものが登場する。
このことから、「賀茂旧記」は「風土記」の後に成立したものと見なされている。

<「賀茂旧記」>
 旧記に云く。
御祖多々須(みおやたたす)玉依媛命、始めて川上に遊びし時、美しき箭(矢)流れ来りて身に依る有り。
即ち之を取りて床下に挿す。
夜、美男に化して到る。
既に化身たるを知る。
遂に男子を生む。其の父を知らず。
是に於いて其の父を知らむが為に、乃ち宇気比洒(うけひざけ)を造り、子をして杯酒を持ちて父に供へしむ。
此の子、酒盃を持ちて天雲に振り上げて云く、「吾(われ)は天神の御子なり」と。
乃(すなわ)ち、天に上るなり。
時に御祖神等、恋ひ慕ひ哀れ思ふ。
夜の夢に天神の御子云く、「各吾に逢はむとするに、天羽衣・天羽裳(もすそ)を造り、火を炬(た)き、鉾をフ(ささ)げて待て。
又、走馬を餝(飾)り、奥山の賢木(榊)を取り、阿礼を立て、種々の綵色(さいしょく)を悉(つく)せ、
又、葵・楓(かつら)の蘰(かずら)を造り、厳(おごそ)かに餝(飾)りて待て。
吾、将(まさに)に来たらむ」と。
御祖神、即ち夢の教に随ふ。
彼の神の祭に走馬ならびに葵蘰・楓蘰を用ゐしむること、此の縁なり。
之に因りて、山本に坐す天神の御子を別雷神と称ふ。


 2 鬼門
 鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことである。
逆に南西(坤=ひつじさる:未と申の間)の方位を裏鬼門と呼ぶ。(図2参照)
鬼門の由来については様々の説があるが、古代中国の書物『山海経(せんがいきょう)』等に、
北東(艮)を鬼が出入りする「鬼門」としたことによるとの説がある。

 後漢の王充(おうじゅう)が著した『論衡(ろんこう)』には、『山海経』からの引用のかたちで下記の記述がある。
しかし、現存の『山海経』にはこの記述は見当たらない。
 『山海経』には又曰く、滄海(そうかい)の中に、度朔(どさく)の山有り。
 上に大桃木有り、その屈蟠すること三千里、其の枝間の東北を鬼門と曰(い)ひ、萬鬼の出入する所なり。
 上に二神人有り。一は神茶(しんと)と曰ひ、一は鬱壘(うつりつ)と曰ひ、萬鬼を閲領するを主(つかさど)る。
 悪害の鬼は、執(とら)ふるに葦索(いさく)を以てして、以て虎に食わしむ。(文献1)

 鬼門は現在では沖縄を除く日本のみで忌み嫌われている方位観であり、
中国風水では土地や住宅の北東方位を忌むべきものとは見なしてはいない。
日本の鬼門は、中国の伝承をベースに、東北に対する寒くて暗いイメージを重ねて生れたものであろう。


  左図の八方位は45度ずつの均等であるが、
 我が国では子を北として十二支で30度に等分する場合もある。
 この場合、丑寅の範囲は60度となる。
 また、風水では磁北を北とする
 磁北は地図の真北から西の方向に、日本では5〜9度傾いている。
 京都市の西偏角は7度10分である。
図2 『洛書』方位図(HP2)

 『日本書紀』推古天皇10年(602)10月条に「百済の僧観勒(かんろく)来り、よりて暦の本及び天文地理の書、
あわせて遁甲方術の書をたてまつる」とある。
この中の地理の書というのが風水書にあたる。
養老2年(718)に成立した『養老令』には陰陽寮の職掌として「陰陽師六人。占筮し地を相(み)ることを掌る」とある。
尚、陰陽寮の初見は天武天皇4年(675)『日本書紀』正月条である。
陰陽五行説では東と南は陽、北と西は陰で、その境目は「気」が乱れるから清浄を保ち、
「気」を落ち着かせなければならないとされる。
陰陽道はよく中国から伝えられたといわれるが、
正しくは中国から伝えられたものは陰陽道ではなくそのパーツ(方術)である。
陰陽道は、そのパーツに日本の祭祀観をブレンドして10世紀頃に出来上がったとされる。

3 立砂と細殿の方位
 立砂と細殿は鬼門に関係すると言われている。図3はそのgoogle航空写真である。
図によれば細殿の参拝方向は、北から時計回りに38度で、鬼門(45度)からかなりはずれていることがわかる。
しかし、磁北を基準にすると、京都市の西偏角は7度であるから、38°+7°=45°となり、ぴったりと鬼門に一致する。
立砂は、都からの方位が鬼門にあたるかどうかではなく、鬼門の方位そのものを対象にしていたことが想定される。



    
       図3 上賀茂神社の細殿のgoogle航空写真
           細殿の参拝方向は、北から時計回りに38度

 10世紀の陰陽師が用いた占術に、式盤(しきばん、ちょくばん)と呼ばれる器具を使う
六壬式占(りくじんしきせん)と呼ばれるものがある。
六壬式占は、平安時代から鎌倉時代の陰陽師にとって必須の占術であり、
陰陽師として名高い安倍晴明は子孫のために『占事略决(せんじりゃくけつ)』を残している。
六壬式の式盤では、円形の天盤には北斗七星、十二月将、十干十二支、二十八宿など、
方形の地盤には八干、十二支、二十八宿、三十六禽、八卦八門、時刻点が記されている。
八卦は文王八卦方位(後天図)に基づいている。
天盤は回転するようになっていて、占いの時点を占時(せんじ)として地盤と組み合わせて占う。(図4)



図4 六壬式盤復元模型(京都文化博物館蔵)(文献2)
   この図では天盤の影に隠れているが、地盤の午(南)の対極には子(北)の表記がある。
   また右上に八卦・艮・鬼門の表記が見える。
   地盤の内側から八干、十二支、二十八宿、三十六禽(きん:鳥獣)。
   その外側の点々は時刻点。さらに八方に八卦八門。

 風水においては地図上の北でなく磁北が基準となる。
つまり、細殿の配置にあたって六壬式盤の地盤と方位磁石を組合せたのではないかというのが筆者の結論である。
(注)
唐の時代に、詳細は不明ながら風水に方位磁石が用いられていたこと示すものとして、
唐代末頃の成立と推定される『九天玄女青嚢海角経(きゅうてんげんじょせいのうかいかくきょう)』がある。
同書の浮針方気図説篇には、羅盤の形態からはじまって、磁針偏差がもたらす「正針」「縫針」の区別が述べられている。
 玄女は、昼は太陽の出没する場所によって方向を定め、夜は北の星座によって方向を定めた。
 蚩尤(しゆう)が指南車を作ってから、方位を精密に区分するようになり、初めて天干の方向や地支の方向が定まった。
 のちに銅盤で合局二十四向を作り、天干を補って天盤とし、地支を分けて地盤とし、
 方向や河との位置関係の決定は天にもとづき、龍脈や山との位置関係は地にもとづいて占うようになった。
 今の象占は、正針天盤で龍脈を定め、縫針地盤で占をたてる。
 円は天を象り、方は地を象り、これらでもって土地の性格を明らかにするのである。(文献3@)(HP3)

文中の「正針」は磁石から求められる磁北、「縫針」は太陽や北極星から求められる真北を指すものと考えられる。
これが、どのようなケースに適用されるかは現在でも流派によって異なるが、陽宅風水においては磁北が主流である。

実は、六壬式盤の三十六禽と時刻点を除いた地盤と方位磁石を組合せた原型が存在する。
それは、漢代の「司南」と呼ばれる一種の方位盤である。(図5)
スプーン状のものが磁石で、柄の先端がS極である。
司南(しなん:南を司る)と呼ばれるのは、古代の中国では北よりも南を基準にしていたからである。
従って、正式には八卦・風水も南が上方に表記される。
中国の風水研究者の何暁マ(かぎょうきん)氏は、その著書『風水探源』(文献3A)のなかで、
これが風水羅盤のもとではないかと述べている。

   
   図5 漢代の「司南」(Wikipedia「式占」)
      下側に甲乙の文字が見えるところから東、八卦八門もわかる


 ここで立砂の頂部を良く見ると、松葉が差し込まれていることがわかる。(図6) 
これについて上賀茂神社ホームページ(HP1)に次のような説明がある。
「(ここに二つ並んでいる「立砂」は、陰陽思想の影響から細殿に向かって左が陽で、右が陰となっております。)
上には松葉が立っています。
向かって左が雄松、右が雌松といわれ、左が3本(陽数)の松葉、右が2本(陰数)の松葉になっております。
葉が2本の松はどこにでもある松。
3本の松は二の鳥居を入った左の玉垣沿いに一本あります。
この松はたいへん珍しい松で何処にでもある松ではありません。・・・」  ( )内は筆者が補足

細殿に向かって左:3本の松葉(陽) 細殿に向かって右:2本の松葉(陰)

図6 細殿前の左右の立砂の上に立てられた松葉の拡大写真


 上記の立砂の説明に、『易経』「説卦伝」の解釈を施すと以下のようになる。

 表1 『易経』「説卦伝」による
     文王八卦方位(後天図)と八卦(文献4)
   
 卦名  和訓  人間   陰陽 
 乾(ケン) いぬい
 坤(コン)  ひつじさる 
 震(シン) 長男
 巽(ソン) たつみ 長女
 坎(カン) 中男
 離(リ) 中女
 艮(ゴン) うしとら 少男
 兌(ダ) 少女


 『日本書紀』神代七代に「乾坤(けんこん)の道、相参(あいまじ)りて化(な)る。
所似(このゆえ)に此の男女(おとこおみな)を成す。」とある。
即ち、父母交わりて男女を成すのが、後天図の基本思想である。
八卦方位には、伏羲先天八卦方位(先天図)と文王後天八卦方位(後天図)がある。
先天図は坤(コン)を北、乾(ケン)と南とし、北東(鬼門)を震(シン)とする。
字義どおり解釈すれば先天図は後天図よりも古いように思えるが、
先天図は11世紀の北宋の邵雍(しょうよう)の著作『皇極経世書』が初出でありきわめて新しい。
従って10世紀には、先天図は我が国に伝わっていなかったものと推定される。
通常の占筮では、後天易が用いられる。

 表1において鬼門の艮(北東)に向かう時、左手の北西は乾(陽)、右手の南東は巽(陰)となり、立砂の配置と一致する。
次に、なぜこれが鬼門封じになるのか?
『古事類苑』方技部三 陰陽道下「仮名暦略註」に以下のような鬼門の解説がある。(図4参照)
 「凡方位の四隅に四門有、乾を天門とし、巽を地門とし、又地戸とす、坤を人門とし、艮を鬼門とす、
  鬼門とは陰悪の気の集まる所にして、百鬼出入する門戸なり、故に此方を犯す時は、百鬼よく世人を殺害す、
  故に天帝二神に命じて是を守らしむ、一を神茶といふ、一を鬱壘といふ、二神ともに、百鬼を守りて、
  みだりに人を損じ害する事を成さしめず」

 ここで神茶(しんと)・鬱壘(うつりつ)は鬼門を守る神であることから、
一対の立砂は門番のような二神を象徴している
と考えられる。
さらに、八卦において乾は陽にして父、巽は陰にして長女となることから、
父は賀茂建角身命、長女は玉依姫を指す
のではないかというのが筆者の予想である。
そうであるとすれば、立砂は依代ではなくシンボライズされた狛犬像のようなものとなろう。
なぜなら、依代は臨時のものであり、ここに神は常駐しないからである。


4 立砂と神山
 立砂は神山(こうやま)を模して作られたと言われる。
神山は上賀茂神社の北約2kmにあり、標高は301.5mである。
神の鎮座する神奈備山(かんなびやま)で、形の整った円錐形をしている。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神はこの山に降臨したと伝えられ、上賀茂神社の旧鎮座地となっている。

山頂には、「垂跡石(すいじゃくいし)」(降臨石)と呼ばれる磐座(いわくら)がある。
神山は神体山であるところから現在禁足地とされているが、
幸いにも坂本氏の論文(文献5@)の中に山頂の記載があるので要旨を下記に引用する。

   「神の坐す石座(磐座)は山頂より南にやや下ったところ、
 平坦な部分にあり、
 巾五米・縦二米・高さ二米程度の石で上部は三つに分れている。
 この石座の前から賀茂社を見下ろす眺望は素晴らしい。
 貴船・鞍馬の山を背後に、京の町並が眼下に見渡せる。
 嘗てこの石座を神座として神事が行われたらしいことは、
 この石座の周辺より多くの祭器具が出土することより明かである。
 京の北の端にある神山の祭場、
 降臨石の前にて如何なる神事の行われたかは、
 記録の全く現存せぬ今日窺うべくもない。
 しかしこの場所に巨石が石座、降臨石とされ、
 且その巨石を囲む環状石が設けられたことから、
 斎場であることに疑点は残らない。」

 図7 上賀茂神社の神奈備山 神山

 葵祭に先立つ5月12日の夜、上賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事では、この神山から神霊を迎え、
本殿のご神体に神威をこめる。
「阿礼(あれ)」とは神の出現をあらわす言葉であり、御阿礼神事とは別雷神の出現を願い感受する神事である。
神事の斎場となる御生所(みあれどころ)は、上賀茂神社の北北西十数町の距離にある
神山の山頂の磐座と本宮とを結ぶ一直線上の丸山(153m)の南麓台地(本宮の後方約八町)に設ける。
御生所は四間四方の地区を限って、地上一間の杭で囲われる。
そこに、松・桧・榊等の枝を立てて作った高さ二間に及ぶ垣を以て囲い、御囲(おかこい)とする。
中央に紙垂(しで)を附した榊を阿礼木(あれぎ)として立てる。阿礼木は神の依代となる木である。
さらに阿礼木の根元より前面、即ち南側に長さ四間の松丸太の尖端に榊の枝を多く結びつけたものを
二本斜上に向け扇形に出す。これを御休間木(おやすまぎ)と称する。
御囲には、藤づるの皮で作った径四寸ばかりの円座様のものをとりつける。これを「おすず」と称する。
また、御囲の前面、即ち南庭一間半ばかりの所に、約一間半の間隔を置いて、左右に高さ一尺程度の立砂を二基設ける。
これは白の御影砂を用いる。


     図8 御生所の説明図(文献6)

 原初、御阿礼の神事は磐座のある神山の山頂でおこなわれていた。
その後、祭場の地は神山の山頂からその南麓の神原(しんばら)、さらに丸山の南麓(現在地)に移動した。(文献7@)
また江戸時代に著された山城国(京都府南部)の地誌である『雍州府誌(ようしゅうふし)』には、
神山の様子が記載されている。(文献8@)
尚、雍州(ようしゅう)とは中国唐代の首都であった長安(現在の西安)の州名で、
平安京の右京が長安城と名づけられていたことにちなむ。
 「上賀茂山。号武雷山伝言賀茂明神始現御生所地則此山也。毎年夏初酉日葵祭以松杉条構仮宮於此所
山南謂壇。春末夏初躑躅花多都人来遊謂壇躑躅見。到秋則採松茸於斯山。」
神山が上賀茂山、武雷山(たけいかずちやま)とも呼ばれていたことがわかる。
「武雷」とは建御雷神(たけみかずちのかみ)のことで、
葦原中国の国譲りの際に諏訪大社の神である建御名方神(たけみなかたのかみ)を屈服させた神である。
仮宮(御囲)が山の南に設けられたこと、さらに秋には松茸を採取したとあることから、赤松の林があったこともわかる。


図9は、直観的理解を得るため、神山山頂と上賀茂神社本殿の対比を示したものである。

 磐座から社殿への移行は、
 良く知られた神社の変遷過程である。
 社伝によれば、
 天武天皇の白鳳6年(678)に神山を拝む形で
 現在の本殿の元となる建物が
 設けられたとされる。
 立砂は細殿の他、上賀茂神社の本殿の前にも
 図9Bのように松葉を挿したものが
 置かれている。(文献5A、9)
 これらの立砂は、
 おそらく細殿の立砂ができた後のものと
 思われる。
 当然、立砂が何を表しているかを分った上での
 設置であろう。
 本殿の前の立砂は、
 細殿のものに比べてかなり小ぶりである。
 
    図9A 神山山頂         図9B上賀茂神社本殿

図9 神山山頂と上賀茂神社本殿の対比

 我が国には、太陽の登る東を西より尊ぶ古来からの考え方がある。
上賀茂神社の本殿と権殿(ごんでん)の並びは、本殿が東、権殿が西にある。
権殿の「権」は第二と言う意味で、権殿は本殿に支障があった時に神に移っていただく「常設の御仮殿」であり、
つくりは本殿とまったく同じである。
賀茂の古代祭祀における巫女優位が、東に陰神を西に陽神を置く理由である。
下鴨神社の東西本殿に言及した江戸時代の「鴨県纂書(かもあがたさんしょ)」(文献10)において、
「西神殿 陽神 東神殿 陰神」とある。
さらに「下鴨御祖皇太神宮社記」(文献10)においても、「西社男神 東社女神」となっている。

 図9Aの磐座の上に立てられた榊は阿礼木で、別雷神の再臨の依代である。
「賀茂旧記」に「奥山の賢木(榊)を取り、阿礼を立て・・・」とある奥山とは、
上賀茂神社元宮司の座田氏によれば貴布禰山とされる。(文献7A)
 
  いこま山手向はこれか木の本に岩くらうちて榊たてたり
              永久四年百首(堀河院後度百首) 源兼昌(かねまさ)

この歌は、岩座(磐座)に榊を立てる神山山頂の神事(図9A)を彷彿させる。
「いこま山」は大阪府と奈良県の境にある生駒山、「岩くらうちて」とは榊を立てる岩座をしつらえる意である。

 前掲の『風土記』の八尋屋(やひろや)の段によれば、別雷神は天つ神であり、御祖神は国つ神
である。
御祖神は別雷神の御祖であると同時に、山城鴨の祖神(氏神)でもある。
『延喜式』祝詞(のりと)、大祓(おおはらえ)条では、天つ神は天上から八重雲を押し分け、降ります神と述べられ、
国つ神は、高山・低山の頂にいます神と述べられている。
図9Bの上賀茂神社の本殿は、図9Aの磐座に相当する。
また、立砂は神山に模した玉依姫と建角身命の姿である。
つまり、立砂の上の松葉は、御祖の女神と男神を識別するものであることがわかる。

松は御阿礼神事の行われる御生所においても御休間木(おやすまぎ)と呼ばれ神聖視されている。
また松は、榊、杉と並ぶ三大霊木であり、「待つ」の意味もある。

  たちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかばいま帰りこむ
                            百人一首 第16番 中納言行平

 前掲の「賀茂旧記」にあるごとく、別雷神の再臨を待つのは玉依姫と建角身命であろう。
待つ人のいない御阿礼はありえないのではないだろうか?

<競馬神事>
 ここで上記に関連した神事として、上賀茂神社の競馬(くらべうま)神事を紹介する。
5月5日早朝、菖蒲の根合わせの儀が頓宮(とんぐう)前と棚尾社前で行われる。
頓宮前には、図9Bと同じように立砂が置かれる。(図10)
立砂は御祖を意味している。 
そして、棚尾社での神事は門の神(鬼門)を意識したものである。

図10A 頓宮前での菖蒲の根合わせ(HP4)
向って左の立砂が見える。
図10B 頓宮(左の簾)前に置かれた立砂(HP5)

競馬会(けいばえ)には、陰陽串や陰陽代による祓がある。
また、乗尻(のりじり:騎手)奉幣の歩行の様が陰陽道の禹歩(下注参照)に似ていることから、
陰陽道の強い影響が見られる。
これからも立砂は神道的な依代というよりは陰陽道的なものであることが、直感的にも分るであろう。
(注)禹歩(うほ) 中国の夏の禹王が治水のため各地を巡った結果、
           ついに足の自由がきかなくなったという伝説に因むもので、
           いざりを表現した陰陽道の特殊な歩き方。

5 立砂の成立過程
 平安京の鬼門において、真っ先に思い浮かぶのは延暦寺であろう。
延暦7年(789)、最澄は小規模な寺院を比叡山に建立し一乗止観院(比叡山寺)と名付けた。
桓武天皇は最澄に帰依し、この寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えた。
延暦寺と名のるようになったのは、最澄の没後、弘仁14年(824)のことである。
 
『叡岳要記』に「雲峰帝都の丑寅にそばだち、嵐径鬼門の兇害をなす」

百人一首で知られた鎌倉時代の天台座主 慈円の歌に

 我山は花の都の丑寅の鬼いる門をふたぐとぞきく (『拾玉集』)

 立砂のある現在の細殿(ほそどの)は寛永5年(1628)徳川家光の頃の造替であるが、
細殿の初見は正暦5年(994)5月23日の「大風の後の修造に関する官符」(『類聚符宣抄』)である。
立砂がいつごろできたかに答える直接の資料はないが、
賀茂斎院跡の碑が立つ櫟谷七野(いちいだにななの)神社には『雍州府誌』に次のような記述が残されている。(図11)
 「宇多天皇之后困失寵祈其社依霊夢以白砂築大和三笠山之状遂得寵如初
  自是諸人有祈願則置白砂於社前依之俗或称高砂山神職奥西氏守之」(文献8A)
宇多天皇の皇后が天皇の寵愛を取り戻そうと祈り、夢告により砂で奈良の三笠山を築いたら天皇の寵愛が戻り、
その後、白砂でつくる山を「高砂山」と呼ぶようになったと伝える。
この故事に倣い、社前に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届くという信仰が生まれ、
今でも丼鉢一杯程度の白砂を拝殿の前に置く習わしがある。
筆者が確認したところでは、白砂というより灰色の砂利に近いものであった。
この神社が高砂社とも呼ばれているのは、それにちなむものであろう。
また三笠山を模したのは、祭神が春日明神であることによる。

図11A 櫟谷七野神社の拝殿(HP6) 図11B 拝殿前に盛られた白砂(HP6) 図11C  賀茂斎院跡の碑

 櫟谷七野神社は『京内まいり』によると貞観元年(859)に春日大明神を勧請したとある。
嵯峨天皇の皇女・有智子(うちこ)内親王が初代斎王になったのが弘仁元年(810)であるから、
櫟谷七野神社が創建されたのは賀茂の斎院ができてからかなり後のことになる。
宇多天皇の在位は887から897年であるので、この頃に山の形に砂を盛って祈願する風習が生まれたとも考えられる。

 仁和4年(888)、道教の泰山府君をまつる赤山禅院(せきざんぜんいん)が都の鬼門除けとして創建された。(図12)

赤山禅院は、第四世天台座主 安慧(あんね)が師の円仁(えんにん)の遺命によって建てたとされる
延暦寺の別院のひとつである。
本尊の赤山大明神は、唐の赤山にあった泰山府君を勧請したものである。
泰山府君は、中国五岳(五名山)の中でも筆頭とされる東岳・泰山(とうがく・たいざん)の神であり、
日本では、陰陽道の祖神(おやがみ)になった。
『吾妻鏡』健保5年(1217)8月25日条には、
後鳥羽上皇の病気平癒祈願のため、前陰陽博士道昌(みちまさ)が泰山府君祭を修したところ翌日平癒したとある。

 
図12 皇城表鬼門の表札がかかる赤山禅院

 そしてその後、賀茂家陰陽道の創始者とされる賀茂忠行(900頃?〜960頃?)が登場する。
賀茂忠行が、役小角(えんのおづぬ)や吉備真備(きびのまきび)の家系とつながっているという説もあるが定かではない。
賀茂忠行は、朱雀天皇・村上天皇の2代に仕え、息子の陰陽頭を勤めた賀茂保憲(917〜977)と
弟子としてかの有名な安倍晴明(921〜1005)を育てた。
尚、賀茂忠行は上賀茂神社の神主家の一族とのことである。(HP1)
細殿の初見が994年であることを考え合わせると、
細殿の前に立砂を設けることのできる人物の候補として、賀茂家陰陽道の創成期の人々が挙げられる。

おそらく陰陽寮の「仏教界の陰陽道への進出」に対する対抗意識もあったであろう。
つまり、立砂の創設の時代背景は、10世紀と推定される。


6 まとめ

1 細殿(ほそどの)は磁北を基準に六壬式盤(りくじんしきばん)の地盤を使い、鬼門に合せて建てられた。
  このことから、陰陽道とのつながりはきわめて強い。
  立砂は、都からの方位が鬼門にあたるかどうかではなく、鬼門の方位そのものを対象にしていたことが想定される。
 
2 細殿の立砂は、中国の鬼門を守る神である神茶(しんと)・鬱壘(うつりつ)になぞらえて置かれた。
  いわば、シンボライズされた狛犬像のようなものである。
  従って、立砂の頂部の松葉は依代ではなく、陽神(三つ葉)と陰神(二つ葉)を表したものである。

3 六壬式盤の八卦方位(後天図)によれば、鬼門(艮:うしとら)の両側にあたるのは
  乾(ケン:いぬい)と巽(ソン:たつみ)である。
  八卦において乾は陽にして父、巽は陰にして長女となる。

4 立砂は、別雷神を招き迎える御生所(みあれどころ)や上賀茂神社本殿の前にも置かれている。
  「賀茂旧記」によれば、別雷神の再臨を待つものは賀茂建角身命と玉依姫である。

5 下鴨神社(賀茂御祖神社)の東西の本殿の配置は、上記の立砂の配置と一致し、
  東殿:玉依姫(陰神)、西殿:賀茂建角身命(陽神)である。

6 『延喜式』祝詞大祓条では、国つ神は山の頂にいます神であり、御祖神は神山の頂に座す。
  神山の松はそのシンボルとして、御生所の御休間木(おやすまぎ)ともなり、聖なるものとして扱われている。
  立砂の頂部の松葉は、玉依姫と賀茂建角身命を象徴していると推定される。

7 立砂は、細殿の初見が正暦5年(994)の官符であることから、それ以前にはあったと思われる。
  立砂の成立時期は陰陽道の歴史的な流れから考えて、
  泰山府君をまつる赤山禅院の創建888年や賀茂の斎院のあった櫟谷七野神社の高砂山の故事などの後に、
  賀茂家陰陽道が起こった10世紀であると推定される。


関連論文
上賀茂神社御生所 御休間木の謎
上賀茂神社嘉元年中行事 御阿礼の祭祀構造の諸問題<斎院制の時代の御阿礼祭祀の復元>
下鴨神社 平安時代の御生神事<御蔭山の磐座祭祀>
下鴨神社の上賀茂神社からの分社<引き裂かれた神々>

『河海抄』から読み解く 源氏物語の「みあれ詣」


参考文献
 1 『論衡(ろんこう)』
   (新釈漢文大系94 山田勝美 p1424〜1427 1984 明治書院 所収)
 2 『安部清明と陰陽道』山下克明(かつあき)p63 2004 河出書房新社
 3 『風水探源』何暁マ(かぎょうきん)@p76〜77 Ap34〜35 p47 1995 人文書院
 4 『易経』「説卦伝」
    (全釈漢文大系第9巻『易経上』鈴木由次郎 p6 p7 p21〜23 1979 集英社 所収)
    (全釈漢文大系第10巻『易経下』鈴木由次郎p429〜464 1979 集英社 所収)
 5 「賀茂社御阿礼祭の構造」坂本和子
    (『国学院大学大学院紀要』3号 @p93〜95 Ap106図 1971 所収)
 6 『上賀茂神社』建内光儀(たけうちみつよし) p66図  2003 学生社
 7 「御阿礼神事」座田司氏(さいだもりうじ)
    (『神道史研究』第8巻2号 @p8 Ap24 1960 所収)
 8 『雍州府誌』(ようしゅうふし)
    @八 古蹟門上(愛宕郡)上賀茂山 A三 神社門下 葛野郡 七野社
    (『新修 京都叢書』第3巻 1968 光彩社 所収)
 9 『日本の古社 賀茂社 上賀茂神社・下鴨神社』三好和義ほか p8 p31 2004 淡交社)
10 『賀茂社関係古伝集成』大間茂 所功(ところいさお)
    (『京都産業大学日本文化研究所紀要』第6号別冊付録 p22〜23 2001所収)

HPホームページ
 HP1 「上賀茂神社探検クラブ」 http://www.kyoto.zaq.ne.jp/tyrannosaurus/tanken3.html
 HP2 「家相の鬼門対策」http://www.reizan-fusui.jp/kimon-fuda.html
 HP3 『九天玄女青嚢海角経』「浮針方気之図」(原文 中国語:『古今図書集成』所収)
     「古今圖書集成全文資料庫」博物彙編藝術典 第六百五十一卷 堪輿部--彙考一
      http://140.137.101.73/bookc/ttsdbook.exe
 HP4 「ブログ:ノルマ!!」http://sango-kc.blog.eonet.jp/eo/2010/05/post-5092.html
 HP5 「るなの月詠」http://blog.goo.ne.jp/lunaphoo/c/782b9d75e2ce23083d184201dc2dc18a/2
 HP6 「櫟谷七野神社」http://kaiyu.omiki.com/nanano/nanano.html

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