イワクラ(磐座)学会 研究論文電子版 2013年7月12日掲載
イワクラ(磐座)学会会報28号掲載     
   
日吉大社 山王三聖の形成
<最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷>

<要旨>
 天台法華宗による鎮護国家を目指す最澄にとって、
古墳時代から続く八王子山を神南備山とする宗教エリアは、あまりに狭く硬直したものであった。
最澄は、新たな国家仏教の拠点として未開の比叡山頂を選んだ。
最澄は比叡山寺を開創するにあたって結界を定め、その地主神を比叡山の諸山王として比叡社に祀った。
最澄の諸山王は、山林修行に根差したアニミズム的なものであった。
 円澄による西塔の独立は、結界の諸山王を二極分化へと導き、東塔に大比叡神、西塔に小比叡神が配された。
小比叡神には小比叡峯にある磐座が充てられた。
 円珍は入唐求法の感謝をこめて夢告の山王を自らの住坊(山王院)に祀り、
ここに大比叡神・小比叡神・比叡山王の両所三聖が成立した。
 良源は横川を独立させ、その地主神として聖真子を創祀した。
聖真子の名は『法華経』に依拠するもので、正統な仏法の後継者を意味するものである。
康保五年(968)、大比叡・小比叡神に聖真子を加え、ここに三塔体制の象徴としての地主三聖が成立した。
しかし、両所三聖から地主三聖の改変は、円珍派の憤激を招いた。
良源は地主三聖祭を反体制派の踏み絵として強行し、叡山の僧2700人の内700名を、祭の欠席を理由に僧籍から除名した。
この事件は、山門・寺門分裂の序曲となった。
良源の時代は地主三聖と山王三聖は併用されていたが、
正暦四年(993)の叡山分裂以降、三塔間の矛盾の解消により山王三聖に定着していったと見られる。
 山王三聖の本地仏(釈迦・薬師・阿弥陀)が揃った時期は、
浄土教の影響により八幡神の本地仏が釈迦から阿弥陀に変わった11世紀以降と推定される。

表1 山王三聖の成立過程 
   最澄  円澄 円珍   良源
総称    諸山王(比叡神)  両所


両所三聖
(三聖)
(山王)
地主山王
地主三聖
山王三聖
東塔     比叡山寺の
結界を守護する諸山王
代表
大比叡山王
小比叡山王
大比叡明神
(比叡明神)
大比叡明神
(比叡明神)
  大比叡明神
山王院    比叡山王明神  
 西塔    小比叡明神  小比叡明神   小比叡明神
 横川         聖真子明神


1 はじめに
 近江坂本の日吉大社は、金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる巨大な磐座があることで知られている。
本論文は、古事記に由来するこの磐座が延暦寺と結びつくことにより
山王神道(さんのうしんとう)へと発展する初期の過程を明らかにするものである。
それは、最澄・円澄・円珍・良源の山王観の変遷に重なるものである。
祭祀関係の資料については、事実に一致するものもあるが、意図的な創作と見られるものも多い。
天台宗の関係資料は膨大であり、どの資料を採用し、どの資料を排除するかが常に問題となる。
そこで本論文においては、日吉社発展の原動力のようなものを見つけ、それに従ってストリーを構想した。
その契機となったのは、建仁三年(1203)に起こった叡山における学生と堂衆の争いである。
学生(がくしょう)は学問を修める僧侶のことで、当時は貴族の師弟がなるのが一般的であった。
また、堂衆(どうしゅ)は寺院の雑役をする下級僧侶であった。
比叡山上においてはその身分格差は歴然としており、風呂に入る順番も学生がまず入浴し、堂衆はその後に入った。
その風呂に、堂衆がその制度を守らず刻限が来たため先に入浴してしまい、それを学生が咎めると暴言を吐いて立ち去った。
翌日、学生が入浴しようとすると、堂衆側は湯釜を釈迦堂の庭に出してしまった。(文献1①)
堂衆にしては叡山を下から実質的に支えているのは我々であり、
身分をちらつかせては高慢にふるまう学生に我慢がならなかったのであろう。
やがて大規模な争乱が始まったが、翌年には官軍を味方につけた学生により堂衆は叡山より追放された。
そこで問題となったのが、空白となった山王七社の勤仕である。
『天台座主記』は、建仁四年(1204)二月十二日付の院宣に従って、
三塔の学生に次のように山王七社の分担を取り決めている。(文献1②)
「大宮(南谷) 二宮(西塔) 聖真子(横川) 八王子(東谷後改西谷)
客人(無動寺) 十禅師(北谷後改東谷) 三宮(西谷後改北谷南谷勤之)」

ここで、大宮(南谷)の南谷は、西塔にもあるが歴史的に考えて東塔の南谷のことであろう。
このことから、山王三聖の成立が、東塔(大比叡)→西塔(小比叡)→横川(聖真子)の
延暦寺三塔の発展過程に関連しているのではないかと思われるに至ったのである。
初めに、表1に山王三聖の形成に至るまでの歴史年表を示す。
年表の作成にあたっては、初見の記事に重点をおいた。

   表1 日吉社山王三聖の年表
 年号  西暦   出 典   月/日      記 事
 和銅五年  712  古事記成立 大山咋神またの名は山末之大主神。
この神は、近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に座す
 延暦七年 788 天台座主記 最澄、比叡山頂に一乗止観院を創建する
 延暦十六年  797 補内供奉官符 12/10 最澄、内供奉十禅師に任じられる 僧最澄住滋賀郡比叡山・・・
                                (比叡山の初見)
 大同元年  806   新抄格勅符抄 比叡神二戸近江 諸神新封 比叡神十戸年加 (比叡神の初見)
 日本後紀 1/26 最澄、年分度者二人を賜り、天台法華宗が公認される
 弘仁三年  812  長講法華経願文 4/5 比叡ノ山王等 大比叡ノ山王(山王の初見)
 弘仁九年  818   比叡山寺僧院記 4/21 最澄、比叡山寺の結界を定める
東限比叡社幷天之塠(比叡社の初見)
南限登美渓
西限大比叡北峯小比叡南峯(大比叡峯・小比叡峯の初見)
北限三津濱横川谷(横川の初見)
  ・・・大小比叡山王眷属
 弘仁十一年  820   相輪橖銘 9月 山王一等。思存給孤。法宿為号。開顕毘盧。
 天長二年  825  叡岳要記 円澄、延秀により西塔に法華堂が創建される
 天長十年 833   慈覚大師伝 円仁、如法堂(首楞厳院)を造立(横川開創)
 承和元年   834    叡岳要記 3/29 円澄、空海と護命を招き西塔院の供養をおこなう
 伝述一心戒文 比叡明神 比叡大神(比叡明神の初見)
 承和七年 840  円珍請伝法
公験奏状案(初稿)
11/7 円珍、比叡明神に詣で、願文をもって入唐求法の祈願をする 
 承和十三年  846   智証大師伝 10月 円珍、於比叡明神社頭。講演法華佛名等大乗経。
嘉祥元年  848   山門堂舎記 9月 円仁、横川に根本観音堂(横川中堂)を創建する
 貞観元年     859     行歴抄 1/19 円珍、入唐求法の成就を感謝し、大比叡大神宮を参拝する(大比叡神の初見)
 三代実録 1/27 近江国従二位勲一等比叡神正二位。従五位下・・・小比叡神並従五位上。
                                   (小比叡神の初見)
 行歴抄 3/1 円珍、比叡神宮に僧を遣わし、金剛般若経を転読させる
 元慶四年  880   三代実録 5/19 奉授正二位勲一等大比叡神正一位。従五位上小比叡神従四位上。
 仁和三年   887    三代実録
類聚三代格(太政官符)
3/14 円珍の上表 延暦寺年分度僧二人、
其一人 大比叡神分・・・一人 小比叡神分・・・
当寺法主大比叡小比叡両所明神・・・解地主之結恨・・・(両所明神 地主の初見)
智証大師伝 叡山地主明神・・・伏望加年分度者二人以報山神之恩(地主明神の初見)
 相応和尚伝 小比叡神の社殿建つ 造立華台大菩薩宝殿一宇
 三代実録 4/6 奉幣・・・近江国日吉(日吉の初見)
 仁和四年   888   仏説観普賢菩薩
行法経文句合記
6/21両所三聖(両所三聖の初見)
 智証大師制誡文  10/17 大小 比叡山王三聖
 寛平二年  890  扶桑略記 12/26 太政大臣請天台座主円珍。令修法也。・・・天台前阿闍梨所写一切経。
未挍正也。於是大比叡小比叡明神等現可挍之事。已及数度。・・・
 寛平三年  891  天台座主記  10/29 円珍入滅(座主868~891)
 延長五年  927  延喜式 神名 
      臨時祭
日吉神社 名神大
日吉神社一座 比叡神同
 天慶五年  942  天台座主記 3/5 義海、日吉根本塔の供養をおこなう
 康保三年 966   天台座主記 8/27 良源十八世天台座主となる
 康保五年 968  山門堂舎記 1/28 太政官牒 地主山王一切神祇(地主山王の初見=山王三聖の実質的な初見)
 天禄元年 970  二十六箇条起請 7/16 良源「二十六箇条起請」を制定
 天禄三年  972  天禄三年
楞厳三昧院所司解
1/15 横川が西塔についで独立(三塔分立)
 天禄四年  973  天台霞標 2/5 良源願文 伏羨、山王三聖、王子眷属。(山王三聖の初見)
 貞元二年  977  天台座主記
慈恵大僧正拾遺伝
良源、舎利会の予行演習として、比叡社の社頭にて地主三聖を荘厳する
                              (地主三聖の初見)
 天元二年 979  慈恵大僧正拾遺伝 良源、地主三聖祭(日吉祭)を行う
 天元三年  980  慈恵大僧正伝 4/1良源、地主三聖の御読経を行い、不参加僧の僧籍を剥奪する
 永観三年 985  天台座主記 1/3 良源入滅(座主966~985)
 寛和二年 986 延暦寺護国縁起 10/20 太政官牒 地主山王一切神祇・・・天元年中・・・拝山王三聖祠
正暦四年   993  寺門伝記補録 8/10 智証門徒千人が比叡山を下り、
延暦寺(円仁派・山門派)と園城寺(円珍派・寺門派)に分裂
   
  参考 疑義のあるもの 
 貞観二年 860 寺門伝記補録
智証大師年譜
園城寺伝記
円珍、山王三聖を山王院に勧請する
円珍、山王三聖を園城寺に勧請する
山王三聖の受戒と法号授与
 貞観九年 867   沙門壱道記 1/14 十二番神 聖真子(疑義アリ)
 仁和三年  887   耀天記 聖真子を大宮構内より独立させて祀る
 寛平三年  891   唐房行履録 10/28 円珍十一ヶ條遺制 地主三聖
 延久五年 1073   良正記 良正、三十番神を定める

2 磐座 金大巌
  日吉社の神体山である八王子山(381m)の山頂には
金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる巨大な菱形の磐座が鎮座している。(図1)
ここからの眺めは素晴らしい。坂本の町並みの先に琵琶湖が広がり、対岸には近江富士と呼ばれる三上山(432m)が望まれる。
三上山(みかみやま)は御上(みかみ)神社の神体山であり、この山頂にも磐座が鎮座している。(図2)
いつからこの磐座が金大巌と呼ばれるようになったかは定かではないが、
日吉大社の社司祝部が天正十年(1582)に著した『日吉社神道秘密記』には、
「八王子者八十万神引率而天降金大巌。時代第十代崇神天皇御宇也。」とある。(文献2①)

図1 八王子山の山頂に鎮座する菱形の金大巌 図2 八王子山の山頂からの眺め(坂本・琵琶湖・三上山)

『古事記』に「大年神(おほとしのかみ)・・・天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶(めと)りて、
生みし子は、奥津日子神(おくつひこのかみ)。
次に、奥津比売命(おくつひめのみこと)、亦(また)の名は、大戸比売神(おほへひめのかみ)。
此(これ)は、諸人(もろひと)が以(も)ち拝(をろが)む竈(かま)の神ぞ。
次に、大山咋神(おほやまくひのかみ)、亦(また)の名は、山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)
此(こ)の神は、近淡海国(ちかつおふみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐(いま)し、
亦(また)、葛野(かづの)の松尾(まつを)に坐(いま)して、鳴鏑(かぶら)を用(もち)ゐる神ぞ。
・・・次に、大土神(おほつちのかみ)、亦(また)の名は、土之御祖神(つちのみおやのかみ)」とある。(文献3)

大山咋神は山の地主(じしゅ・じぬし)神で、治山、治水、農耕の守護神とされ里山に鎮座される。
従って、日枝の山とは、後に説明するように比叡山全体でなく里山である八王子山を指すものである。

また、松尾は京都の松尾大社のことで、
日吉大社とは次のような様々な共通点がある。
①松尾山と八王子山の巨大な磐座
②漢人系氏族 秦氏と三津首(みつのおびと)氏の祀る神社
 三津首は最澄の出身氏族である。
③松尾山古墳群と日吉社東本宮古墳群
 さらに、『秦氏本系帳』の丹塗矢神話によれば、
 賀茂社の別雷神は松尾大社の祭神である。
 
大山咋神をその父神としていることから、
日吉大社は賀茂社とも密接な関係がある。
①賀茂社の神山(こうやま)には、松尾社、日吉社とならぶ
  巨大な磐座がある。
②日吉社の山王祭は、大山咋神と鴨玉依姫神の
  結婚を再現する儀式とされる。
③陰陽道の強い影響が認められる。
④社司に賀茂出身者が多い。
図3 日吉馬場から眺めた八王子山

 坂本の町の近辺には明良(あきら)古墳群(5基)、讃仏堂(さんぶつどう)古墳群(6基)、裳立山(もたてやま)古墳群(8基)、
西白山古墳群(2基)、などがあり、日吉大社の境内にも12基の東本宮古墳群が確認されている。
現在の日吉社は古墳群の墓域にあるといってもよい。
この地域の群集墓には、天井部がドーム型の横穴石室を有し、
竈形代(かまどかたしろ)土器が副葬されるという特徴があり、漢人系氏族の墳墓であるとされている。(文献4)
竈形代土器の副葬は、前述の竈神の信仰につながるものであろう。日吉社には、大宮、二宮、聖真子にそれぞれ竃殿社がある。
秦氏は山城の原住民から松尾の磐座を引き継いだといわれる。
日枝の磐座もそれと似た経過をたどり、大友村主(おおとものすぐり)や三津首(みつのおびと)らの
漢人系氏族の祀るところとなったのであろう。
下図は、日吉社付近の古墳の分布図である。
大山咋神の霊威の及ぶところは、これらの古墳の埋葬者の勢力範囲と重なっていたであろう。
この時代、比叡の連山は人の支配の及ばぬ異界であった。


図4 日吉社付近の古墳の分布図 大津市教育委員会(文献5)
   金大巌の磐座(山頂の八王子宮と三宮の間にある) 西本宮(大比叡社、大宮) 東本宮(小比叡社、二宮) 宇佐宮(聖真子)

陰陽は渡来系の人々の得意とする分野で、その影響は様々なところに認められる。
室町後期(1495~1571)の比叡山絵図(比叡山南渓蔵)(文献6①)を見ると、金大巌
とおぼしき岩に「大岩土公神」の記載がある。
土公神(どくしん、どこうしん)は陰陽道の神で、土を司る神である。
これは、上記引用の古事記の大土神にあたる。
古代の竈(かまど)は、土間に置かれ土や岩でできていたことから竈神でもある。
春は竃、夏は門、秋は井、冬は庭に居て、その季節にその場所の土木工事は避けねばならないとされた。
尚、八王子山や牛尾山の名のいわれについては諸説があるが、私は京都祇園社にかかわる神仏習合によるものと見たい。
祇園社は十世紀半ばまでは興福寺末寺であったが、良源が寺領を拡大して延暦寺の末寺にしたとも、
興福寺との激しい武力衝突を経て強奪したとも言われている。
『祇園牛頭天王御縁起]』(文献7)によれば、
牛頭天王(ごずてんのう)の本地仏は浄瑠璃界之教主である薬師如来で小比叡神と同じである。
つまり、八王子とは牛頭天王の八人の王子を指すとも思われる。
また、牛尾とは比叡山を牛の本体とみた比叡山の支峰である八王子山の表現であろうか?

3 最澄 結界の地主神 比叡
 現在の八王子山は、古事記の時代、日枝山(ひえのやま)と呼ばれていた。
古墳時代、日枝山の背後に屏風のように聳える比叡山は、ただ遠くの山であり、麓の人々の生活圏から隔たった存在であった。
しかし、時代が進むにつれて生活圏が比叡山全体に広がるに従って、その連山は裨叡山と呼ばれるようになった。
『懐風藻』には天智天皇の時代に麻田連陽春(あさだのむらじやす)が比叡山を詠んだ漢詩が残されている。
「近江はこれ帝里、裨叡はまことに神山。山静けくして俗塵しずみ、谷しづけくして真理専にあり。
ああうるわしき我が先考、独り悟りて芳縁を開く。宝殿空に臨みて構へ、梵鐘風に入りて伝う・・・」(文献8)
帝里とは天智天皇の都である滋賀県大津のことである。裨叡(ひえ)は、比叡山のことである。
「裨叡」の「叡」は、叡智のように天子に関することを形容するために用いられる。
「裨」は天子を補佐する意があることから、「裨叡山」は都を守る神山である。
また「宝殿空に臨みて構へ、梵鐘風に入りて伝う」とあることから、おそらく山麓に寺院があったことがわかる。
しかし当時、比叡の連山の一つ一つの山に名がつけられていたわけではない。
最澄が比叡山の山頂に一乗止観院を構えるまでは、それらは一括して「裨叡山」と呼ばれていたであろう。
最澄は、「比叡」の「叡」を『懐風藻』から、「比」は大比叡、小比叡と二つの山が並び立つさまから、
「裨叡山」を「比叡山」と改めたのであろう。
比叡山の初見は、延暦十六年(797)十二月十日付の「補内供奉官符」の中に、
「僧最澄住滋賀郡比叡山・・・」とある。これにより、最澄は内供奉十禅師に任じられた。(文献9)
内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)は、宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とする僧官である。
 
天台法華宗による鎮護国家を目指す最澄にとって、
古墳時代から続く八王子山を神南備山とする宗教エリアは、あまりに狭く硬直したものであった。
最澄は、六所宝塔の構想を胸に、新たな国家仏教の拠点として未開の比叡山頂を選んだ。
渡来系の子孫である三津首百枝(みつのおびとももえ)を父とし、坂本の生源寺で生まれたとされる最澄は、
大山咋の神威の及ぶ範囲を熟知しており、それゆえ比叡山寺の広大な結界を守るための新たな地主神を求めたのであろう。
それが、結界全域に満ちている山王達であった。最澄は比叡社に、比叡神としてその諸山王を祀ったのであろう。
従って、最澄においては「比叡神」即「諸山王」となるが、本論文においては、以後、より実質的な表現として「諸山王」を用いる。

比叡神の初見は、大同元年(806) の『新抄格勅符抄』に、
比叡神に元あてられていた神戸二戸に新たに十戸が加えられたとある。(文献10)
神戸(かんべ)とは、神社に租税や雑役を納める家のことである。
この年は天台法華宗が年分度者二人を賜り公認された時(文献11)でもあるので、
比叡神は比叡山寺とセットになっていることがわかる。
 最澄が比叡山寺の結界、六大寶塔院、守護神をどのように考えていたかを知る手がかりとして
弘仁九年(818)最澄真撰とされる『比叡山寺僧院記』がある。
これは最澄の山王信仰を知るうえで最重要文献の一つである。
まずは、野本覚成氏の論文「最澄・義眞撰『比叡山寺僧院記』(三井寺蔵・国宝)の検討」(文献12)よりその全文を以下に示す。

比叡山寺
 法界地 東限比叡社幷天之塠 南限登美渓 
      西限大比叡北峯小比叡南峯 北限三津濱横川谷


天台法華院 總攝六大寶塔院
 安東上野賓塔院 在上野国綠野郡
 安南豊前賓塔院 在豊前国字佐郡
 安西筑前賢塔院 在筑前国
 安北下野賓塔院 在下野国都賀郡
 安中山城賓塔院 
 安国近江賓塔院

         己上两寶将在比叡峯

住持佛法。為護国家。仰願十方一切諸仏。般若井。金剛天等。八部護善神王等。
大小比叡山王眷属。天神地祇。八大名神。薬應楽円。同心覆護大日本国。
陰陽應節。風雨随時。五穀成熟。万姓安楽。紹隆佛法。利益有情。盡未来際恒作佛事
                                弘仁九年四月廿一日一乗澄記願

<最澄の定めた結界の検討>

東限比叡社幷天之塠
これは「東ハ比叡社ナラビニ天之塠ニ限ル」と読むべきであろう。
比叡社の諸山王(後の比叡神・大比叡神)と天之塠(後の小比叡神)の大山咋神は別の神であり
幷(ならびに)の文字を使って分けたのであろう。
『大漢和辞典』によれば、「塠」の読みはタイ、ツイで「堆」と同じとある。(文献13)
「堆」を塚と見れば、これをツカと訓じても自然であろう。
『三塔諸寺縁起』には「東限比叡社天之塠」とあり、「天之塠」には「アマ之ツカ」と振り仮名がされている。(文献14)
しかし、これには別の読み方もある。
『九院佛閣抄』では、結界浄地として「東限比叡社幷天之塠」とあり、
「幷天之塠」には「アマナミ之ツカ」と振り仮名がされている。(文献15①)
同様に、『叡岳要記』においても「東限比叡社幷天塠」とあり、「アマナミノツカ」と振り仮名がある。(文献16①) 
不思議なことに、ほとんどの史料がこれである。
「幷(ナラビニ)」は、「并」「竝」と同じで、接続詞として体言を並立するのに用いられる。
「竝(ナミ)」は、また「並」とあることから、「幷」を「并」「並」と書いたり、「ナミ」と読むことは自然である。(文献17)
しかし、「幷天」を「アマナミ」と読むのは順序が逆である。
『回峯手文』ではこれが反映されていて、「天並搥」は「天並(アマナミ)ノ搥(塠は手偏)」と振り仮名がされている。(文献18①)
また、『三宝住持集』(『伝教大師全集』第5 p402)では、「天幷之塠」と表記されている。
なぜこのようにバラバラなのか理由はわからないが、やはり天之塠はアマノツカと読むのが正しく、八王子山の古名であろう
比叡社と天之塠(磐座)はそれぞれ独立しており、天之塠には社殿がなかった。
歴史ある磐座は、三輪山のように社殿を嫌うものである。
比叡社の位置は、東の結界を構成する八王子山に連なるところにあったものと思われる。となると、八王子山の南であろうか?

南限登美渓
登美渓の位置は不明であるが、一つの手がかりがある。
『山門堂社由緒記』巻第一の無動寺のところに「登美渓」とある。(文献19①)
説明は何もないが、無動寺の南端を考慮すれば地形的に見て四ッ谷(よつや)川の渓谷が想定されよう。(図5参照)
四ッ谷川の下流、平子谷林道の入口を過ぎて10分余り歩くと、北側から谷川が合流している。
その右岸に山之大神と呼ばれる巨大な磐座がある。
すぐ近くの下流には、穴太(あのう)野添古墳群がある。
「山之大神」とは山の神であり、山は地形的に見て比叡山であろう。
つまり比叡山の地主神である。
磐座は八王子山の南にあたり、結界を示す恰好の目標と思われる。
ここから無動寺坂の途中(紀貫之墳墓これより九丁の石柱があるところ)に出る道が通じていた。(現在は廃道)
現段階では想像にすぎないが、最澄の時代に比叡社であった可能性も考えられる。
そして、現在の大宮はここから移ってきたと想像される。

     
 穴太(あのう)野添古墳群  山之大神の鳥居と拝殿 山之大神の巨大な磐座

西限大比叡北峯小比叡南峯
西限として大比叡(おおびえ)から北側、小比叡(おびえ)から南側、即ち大比叡から小比叡に至る稜線が西側の境界と定められている。
小比叡は現在の横高山(釈迦ヶ岳)である。大比叡峯から小比叡峯は結界の背骨である。
つまり、大比叡、小比叡は最澄が結界を定めるために名づけた山の名前であると推定される。

北限三津濱横川谷
三津濱(浜)とは、大津市唐崎1丁目の唐崎神社付近から、下阪本6丁目の若宮神社(比叡辻)の辺りまでの約2㎞に渡る浜の古名である。
このあたりは古代の郷である大友郷に属しており、
戸津(富津)、今津、志津といわれる三つの津(港)があり、そこから総称して三津浜と呼ばれた。
また、御津浜とも書くことから、成務天皇の高穴穂宮の津があったともいわれている。
伝教大師を輩出した渡来人三津首氏も居住していたとされている。
「三津濱横川谷」とは、「三津濱」から「横川谷」までを意味することから、大宮川の渓谷を指すものと推定される。

 ここで最澄の定めた結界の範囲をおおまかに述べれば、
大比叡峯から小比叡峯を経て横川に至る稜線と大宮川と四ツ谷川に囲まれた領域の山間部となろう。(図5参照)

<最澄の日本国伽藍配置構想>
『比叡山寺僧院記』によると、都のある中央(安中山城宝塔院)とその東西南北にあたる国に計五つの宝塔が建てられる。
さらに、それらを統括する宝塔(安国近江宝塔院)が建てられる。宝塔には、それぞれ一千巻の法華経が納められる。
安国近江宝塔院は日本国総安鎮の東塔院で、安中山城宝塔院は日本国中原(ちゅうげん)安鎮の西塔院である。(文献21)
これは、唐の六都護府(文献21)というよりも、五行説の方位に基づくものであろうか?



図5 比叡山概念図(東塔 西塔 横川)(文献20)

<大小比叡山王眷属について>
『比叡山寺僧院記』には、仏法を守護する実に様々な神仏が登場する。
また『伝述一心戒文』巻上 弘仁九年(818)四月二十六日の最澄表白文にも次のような記述がある。
「敬白十方一切佛。・・・大日本国一切天神王等。天神民。地祇王等。地祇民。鬼神王等。鬼神民。
諸山王等諸山民。諸河王等。諸河民。諸海王等。諸海王民。諸林王等。諸林民。諸野王等。諸野民。・・・」(文献22①)                                                                                                                             
これらは、比叡山を開山する前の最澄が山林修行者として積んだアニミズム的な体験に根差すものであり、
最澄の掲げた「一切衆生悉有仏性」にあたるものであろう。
『比叡山寺僧院記』には、「大小比叡山王眷属」の文言が登場するが、
これは結界を構成する大比叡峯や小比叡峯に坐す山王の眷属の意である。
最澄自身が残したと思われる文書には、神名ではなくほとんど山王が使われている。
最澄においては、山王は山の地主神の仏教的な呼び名であった。
最澄は、仏教的立場から、対外的には別として、神というよりも山王という呼び方を選んだものと見られる。
『比叡山寺僧院記』に登場する比叡社には、天之塠を包摂する比叡神として諸山王が祀られていたと推定される。
ここに神仏習合の山王神道の萌芽が認められる。


山王のこのような使われ方は、最澄真撰とされる『比叡山相輪橖銘』の中にも見受けられ「山王一等」とある。(文献23)
これは、「山王ハ一(イツ)ニ等シク」と読み、「山王は皆等しく」の意であろう。

「比叡山相輪橖銘 ・・・山王一等。思存給孤。法宿為号。開顕毘盧。・・・弘仁十一年歳次庚子九月中旬 沙門最澄撰」
 山王は皆等しく、釈尊に祇園精舎を寄進した給孤独(ぎっこどく)長者のような志を懐いている。
 「法宿」という仏号を持ち、法身仏である毘盧遮那如来を開き顕してくれる。

ここで、「山王は皆等しく・・・」は、多くの山王の加護により比叡山寺が守られていることを意味している。
また最澄真撰とされる『長講法華経願文』の先文(文献24)には、「比叡ノ山王等」「大比叡ノ山王」とあるが、
「比叡ノ山王等」は比叡山全体の山王達、「大比叡ノ山王」は大比叡峯に坐す山王を意味する。


4 円澄 西塔の地主神 小比叡
 『叡岳要記』には西塔地区に寺院が最初に建てられたのは天長二年(825)の法華堂とあるが、
実質的な西塔の開創は承和元年(834)の釈迦堂の供養会と見られる。
最澄の付嘱を受けて西塔を開創したのは第二代座主円澄であったという。
円澄は最澄の定めた建立予定地に延秀の草庵があったので、
これを東の地に移してその跡に釈迦堂を建立したと伝えられる。(文献6②)
承和元年三月の西塔院の供養会は、円澄座主を檀那主とし、
左方の咒願を真言宗の空海が、右方の導師を南都法相宗の護命が勤めて盛大に行われた。
この時、後に登場する恵亮(えりょう)と円仁も共に右方側に列席している。(文16②)
 西塔の独立は、結界にあまねく諸山王を二極分化へと導いた。
東塔に対峙する形で、小比叡神が創祀されたのである。
小比叡神には、八王子山の磐座の神である大山咋神が勧請された。
これに伴って、最澄の諸山王はいつしか統合され、東塔と結びついて比叡神または大比叡神と呼ばれるようになった。
こうして、結界の地主神は東塔と西塔に付随するものとなった。

小比叡神の初見は『三代実録』貞観元年(859)正月二十七日条に
「近江国従二位勲一等比叡神正二位。従五位下・・・小比叡神並従五位上。」の神階奉授の記事である。(文献25①)
承和元年(834)の西塔の独立から25年の歳月がたっているので、その登場は遅いように思える。
しかし、従五位下の小比叡神の時代があったことから、小比叡神の存在はさらに遡ることがわかる。

西塔地区には小比叡峯の山頂付近に釣垂岩(つりたれいわ)と呼ばれる磐座が鎮座している。(図6、文献5③)
この釣垂岩の磐座が、小比叡神の信仰の始まりと考えられる。
そしてこの磐座が、八王子山の磐座と重なることから、大山咋神が小比叡神として勧請されたのであろう。
同時にそれは、多様な波母山(はもやま)伝承の始まりでもあった。
小比叡峯は現在の横高山(釈迦ヶ岳)である。(図5参照) 
釣垂岩は、横高山の東を通る奥比叡ドライブウェイの谷側にある。
相応が創始したといわれる千日回峰行においては、行者はこの磐座に祈りをささげることになっている。
回峰行者の手文には「二宮夷」とある。(文献18②)
右手に釣竿を持ち、左脇に鯛を抱いたあの「えべっさん」である。

また、磐座よりかなり後に建てられたものと思われるが、
江戸時代初期の絵図(文献5③)に、小比叡明神社(二宮権現)が確認できる。
現在、その神社跡が磐座からドライブウェイを跨いだ山側にあり、大きな石碑が立っている。(図7)

『三代実録』貞観元年(859)八月二十八日条によれば、西塔の恵亮が賀茂神と春日神のために年分度者二人を賜ったとある。
これは、嘉祥三年(850)八月五日の恵亮の表文に答えたものである。(文献25②)
ここで、円澄の高弟である恵亮はなにゆえに大比叡・小比叡でなく、賀茂・春日の年分度者を願ったかの疑問が起こる。
これについては様々な説があるが、私は次のように考えたい。
 ①最澄の伽藍構想によれば、日本国総安鎮として東塔院、日本国中原安鎮として西塔院があった。(文献21)
  中原安鎮が都の鎮護であるならば、西塔が賀茂神(平安京)、春日神(平城京)の勧請を行い、
  年分度者を願うことは自然の流れである。
 ②大比叡・小比叡の年分度者の申請は、東塔が窓口となるべきである。
  大比叡を差し置いて、小比叡単独の西塔の申請は困難である。
 ③嘉祥三年(850)頃の小比叡は、磐座祭祀の状態で原始神道の要素が濃く、年分度者の申請の機は熟していなかった。
   しかし、貞観元年(859) の神階奉授の記事から、当時それなりの動きをしていたことが想像される。

前述のように小比叡神の始まりは、社殿のない磐座祭祀であったと想像される。
これが、「小比叡神」が正史に遅く登場した一つの理由であろう。
社殿については、『相応和尚伝』に「仁和三年・・・造立華台大菩薩宝殿一宇・・・」(文献26)とあるから、
仁和三年(887)に小比叡神の社殿が八王子山の麓に建てられたものと思われる。
『三代実録』仁和三年(887)三月十四日条によれば、この年、小比叡神に年分度者一人が初めて与えられている。(文献25③)
また同条によれば、それまでの年分度者は東塔6人に対し西塔2人であった。
つまり、西塔は東塔の三分の一の勢力であったと言える。これが、大比叡神と小比叡神の神階の格差に対応しているものと見られる。
とにかくここに至り、小比叡神は年分度者を得て、磐座祭祀から社殿祭祀に踏み出したと推測される。

  写真左端の杉の木に取付けられた説明板には次の記載がある。

地主権現釣垂岩 大山咋神亦の名は山末之大主神
上つ代、この岩より近江の海に釣糸垂れておはしましき
ここに、大己貴神参到りまして歌以ちて問ひたまひていはく
 何事かおはしますらむ瑞垣の久しくなりぬ見たてまつらで
即ち答へて歌よみたまひて曰く
 波母山や小比叡の杉の独居はあらしもさむしとふ人もなし
              参考『日吉神道秘密記』(文献2②)

二宮夷
 本地薬師社小比叡 有杉木下有社大巌
                参考『回峰手文』(文献18②)



 図6 二宮釣垂(つりたれ)岩、通称 鯛釣(たいつり)岩

    碑文には次の記載がある。

地主権現 大山咋神またの名は山末之大主神 
近淡海國の日枝山にいまし
この処にいでまして 開山傳教大師遇ひたまひき 
歌ひましていはく
 波母山や小比叡の杉の深山居はあらしもさむしとふ人もなし
  かれ 影向山王 小比叡明神と申す
                参考『山門堂舎由緒記』(文献19②)
       
 図7 小比叡明神社(二宮権現・地主権現)の跡地に立つ石碑

5 円珍 夢告の神 比叡山王

(1)円珍の山王
 円珍はよく霊夢を見る人で、様々な夢が伝承として残されている。
『感夢記』のような自筆の文書もある。(文献27)
「三井寺 感夢記」http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/document/07.htm

延喜二年(902)に三善清行によって撰述された『天台宗延暦寺座主円珍伝』には、次のような山王の夢告の話がある。

 嘉祥三年(850)春、夢に山王明神告て曰く、公早く入唐求法の志を遂ぐべし、留連致すこと勿れと、
和尚答へて云く、近来、請益闍梨和尚仁公、三密を究学して本山に帰着す、今何ぞ海を航するの意に汲々とする遑あらんやと、
神重て勧めて云く、公の語の如くんば、世人、多く髪を剃りて僧と為らん、公、何を以てか昔は髪を剃るの志に汲々たりしやと
 明年春、明神重て語て云く、沙門は宜しく求法の為に其の身命を忘るべし、
況や今、公の利渉の謀は、万全の冥助有らんをや、努力、努力、疑慮を生ずること勿れ、
和尚夢中に許諾し、乃て意旨を録し、表を杭げて以て聞す、主上深く懇誠を感じ、便ち許可を蒙る(文献28①)

 おそらく、この二度にわたる入唐求法を促す夢もあながち作り話とはいえないだろう。
『元亨釈書』に「珍叡山房有山王明神座。或曰。山王受戒時坐。此故人呼珍房、曰山王院」(文献29)とあり、
また『叡岳要記』に「山王院勧請智証大師御作之神躰也」(文献16③)とあることから、
円珍に入唐求法を勧めた山王明神が円珍の住坊に祀られていたことがわかる。
円珍の住坊は、元々は最澄の創建とされ千手堂または千手院と呼ばれていたが、このため山王院と呼ばれるようになったとされる。
山王は円珍の体験に基づく私的な祀られ方といえる。
 山王明神がいつ頃から祀られていたかは定かではないが、『九院仏閣抄』(文献15②)引用の『朝野郡載』に
智証大師。入唐求法。帰朝之後。於此堂被修灌頂之事。自爾以来。始称山王院千手堂。」(文献30)とあることから、
円珍が唐より帰国の後であることは確かであろう。
円珍は叡山に帰着後早々の貞観元年(859)正月十九日に、大比叡明神に参詣して入唐求法の成就を感謝している。(文献31)
おそらくこの後、報恩感謝の気持ちを形にすべく山王の神像を作り安置したのであろう。
そしてこれこそ、次に述べる両所三聖の源流になったと考えられる。

    『寺門伝記補録』によれば、
正暦四年(993)八月十日の慈覚派と智証派の分裂の際に、
慶祚(けいそ)以下智証派一千人が
ここより円珍の木像を背負って
三井寺に下ったと伝わる。(文献32)
 
 図8 山王院(東塔地区 図5参照)
   

(2)円珍の地主神
 円珍が地主神をどのように考えていたかを窺わせるものが『三代実録』仁和三年(887)三月十四日条の円珍上表文にある。
「勅加試延暦寺年分度僧二人。其一人大毘盧遮那経業。為大比叡神分。其一人一字頂輪王経業。為小比叡神分
・・・當寺法主大比叡小比叡両所明神。(注) 陰陽不測。造化無為。弘誓亞佛。護国為心。
所伝真言灌頂之道。所建大乗戒壇之檢。祖師創開。専頼主神。
・・・頃年度僧。・・・就中一人為賀茂明神分。一人為春日明神分。主神独無其分度僧。實是闕礼者也
・・・伏望蒙加度者二人。為両神之分。解地主之結恨。増護国之冥威。」(文献25③)
                          (注)原文では、「大比叡小比叡両所明神」の「所」は欠字。

文中の「地主之結恨(けっこん)」は地主神の恨みであるが、
これは、前述の恵亮によって、叡山にすでに賀茂明神と春日明神の度者があるのに、
肝心要の叡山の地主神に度者がないのは神に対して礼を欠くとの円珍の思いであろう。
尚、上記の内容は『智証大師伝』にもあり、そこでは「叡山地主明神」の名が登場する。(文献28②)
ここでは、地主神は東塔の大比叡神と西塔の小比叡神であり、円珍の山王はその中に含まれていないことがわかる。
円珍の山王は東塔に付随したものであり、良源の地主三聖は横川の独立をもって初めて成立することがわかる。
つまり、「地主二聖+α(山王)」が、円珍の三聖の祭祀上の形である。
このことは、仁和四年(888)六月二十一日の日付のある円珍真撰とされる『仏説観普賢菩薩行法経文句合記』の巻末の偈文に
「両處三聖」として表現されている。(文献33)
「両處」とは、大比叡・小比叡の地主神のことである。
『類聚三代格』仁和三年(887)三月十四日の太政官符に「大比叡小比叡両所明神」(文献34)とある。
この『類聚三代格』は、上記の『三代実録』に対応するものである。
(注)「両處」については、史料により「両処」または「両所」と表記されるが、
意味的には同じなので、本論文では基本的に「両所」に統一した。

 ここで誤解してはならないことは、「地主二聖+α(山王)」はあくまでも外から見た祭祀上の形であって、
思想的には円珍の山王は叡山を象徴するものであり、地主二聖を包含するものである。
最澄の諸山王が一神に集約されたものである。

この意味で、「両所三聖」は山王とも総称される。

(3)円珍の『制誡文』
 山王三聖の成立を論じる上で、最も重要な文書の一つが仁和四年(888)十月十七日の円珍自筆の『制誡文』(図9)である。

      国宝 平安時代(仁和四年) 紙本墨書 一巻 28.5×51.3cm
智証大師が弟子に与えた自筆の遺戒で、全文三条から成る。
第一は開祖伝教大師の教えを守り、
 天台法華宗の道場としてその信仰を高めること。
第二は別当大師光定の恩を忘れないことを記す。
第三は慈覚大師円仁の遺戒を守り、
 一味和合して延暦寺を守るべきことを記す。

「三井寺 円珍制誡文」
http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/document/03.htm
 図9 円珍筆『制誡文』    

 上記、円珍真筆のほかに、字句のわずかに異なるものが何種類かある。
これについては、菅原信海氏の著書『山王神道の研究』に詳細な検討がある。(文献35①)

次にその第一条の注解を示す。
ここには円珍の山王に対する思いが如実に語られている。
尚、本文は、『園城寺文書』(文献36)、( )内の文字は『山王神道の研究』(文献35①)を参照した。

大小 比叡山王三聖出世本懐、(只在)開示(悟入)仏知見利益国土也、
所言仏(知)見者、灌頂之与大乗戒也、
其総意(載)在新加三月十七日年分二人官牒、所以将(来)伝法之主、深存件意、
一歩一息莫疎(恩)徳、試業春秋受戒潅頂之時、奉幣啓(祈)、丁寧鎮国、努々力々、
戒時有、大明神之(御座)
 而起(戒)己後開祈也、余雖不敏、年来仕之、未有(知)可以口授、仍不載
仍従先(年)創置 御(座)、於檀上莫闕怠之、
自根本代々大師等、(皆蒙)山王之唾喙、獲得起宗開法者焉、深(存)、是々趣々

大小 比叡山王三聖出世本懐、(只在)開示(悟入)仏知見利益国土也、
大比叡明神・小比叡明神・比叡山王明神の三聖が世に出現した目的は、衆生を覚りに導き、国に利益(りやく)をもたらすためである。

冒頭の「大小 比叡山王三聖」は、多くの論文が述べているような「山王三聖」を意味するものではない
「大小 比叡山王三聖」の省略形は、円珍においては「山王三聖」ではなく「両所三聖」または単に「三聖」となる。
この用語は、円珍真撰とされる『仏説観普賢菩薩行法経文句合記』に見られる。(文献33)
前述のように、円珍の三聖とは「大比叡明神・小比叡明神・比叡山王明神」のことであり、
この場合、比叡山王明神は三聖のなかの一聖である。
それは、単に山王とも呼ばれる円珍の夢に登場したものであろう。
「比叡山王」は、比叡山の結界全域を代表する象徴的な神である。良源の山王三聖の各神は、比叡山王の部分であるとも言える。
『慈恵大僧正伝』には、重病の老母の夢の中に現れた僧が「我是比叡山王也」と名乗り、
天元三年(980)の地主三聖御読経における良源の僧籍剥奪事件を予告する話が載せられている。(文献37①)
「大小」がきわめて簡略化された表現になっているのは、
大比叡明神・小比叡明神がすでに両所と呼ばれる一般に知れ渡った存在であったためだろう。
また「大小」と「比叡山王」の間に空白があるのにも理由がある。
空白のない事例として、前掲の『比叡山寺僧院記』の「大小比叡山王眷属」が挙げられる。

これは大比叡峯と小比叡峯に坐す山王とその眷属の意であるが、これとの混同を避けるためと思われる。
従来から祀られている地主神「大小」と円珍が新たに合祀した神である「比叡山王」を明確にするためであろう。
つまり「大小 比叡山王三聖」とは、従来の大比叡明神・小比叡明神に比叡山王明神を新たに加えて三聖としたものである。

尚、菅原信海氏の著書『山王神道の研究』(文献35①)においては、
「大小 比叡山王三聖」を「大比叡・小比叡・比叡」の三明神、即ち「大宮・二宮・聖真子」の三聖と解釈している。
しかし、比叡明神は『伝述一心戒文』(文献22②)にも用例があり、後の大比叡明神であることを考慮すると、
やはり無理な解釈といわざるを得ない。
「円珍請伝法公験奏状案」(初稿)によれば、円珍は承和七年(840)十一月七日に入唐求法を祈願して比叡明神に詣でたとある。
「爰(ここ)に同学等と共に至再至三(たびたび)、求法の事を議し、
終に七年十一月七日を以て、自ら願文を修し、比叡明神の廟に詣で、入唐して法を学ぶの願いを祷祈す」(文献38)
「三井寺 円珍請伝法公験奏状案」http://www.tendai-jimon.jp/author/5/1.html#4

そして『行歴抄』には、円珍は唐より帰国後の貞観元年(八五九)正月十九日に、
大比叡明神に参詣して入唐求法の成就を感謝したとある。
「便参詣大比叡大神宮。奉幣帛。惣謝入唐初後之事」(文献32)
これは、御礼参りであろう。つまり、「比叡明神」とは「大比叡明神」に他ならないことがわかる。

開示悟入仏知見」は、法華経 方便品の次の経文に基づく。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲すが故に世に出現したまふ。
衆生に仏知見を示さんと欲すが故に世に出現したまふ。
衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲すが故に世に出現したまふ。
衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲すが故に世に出現したまふ。(文献39)
仏知見(ぶっちけん)とは仏の智慧、知見、覚りである。
仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、覚りに入らしめんとすることを略して「開示悟入」という。
「開示悟入」は覚りを得るための仏の懇切丁寧な段階を踏んだ御導きのことである。

所言仏(知)見者、灌頂之与大乗戒也、
其総意(載)在新加三月十七日年分二人官牒、所以将(来)伝法之主、深存件意、
仏知見の言うところは、灌頂と大乗戒なり。
その趣旨は大比叡小比叡両所明神の年分度者二人を新たに賜った太政官符に載せられている。
また、両所明神を将来した由縁もそこにある。

以下に示す官符(文献34)によれば「所伝真言灌頂之道」の文言があることから、
「灌頂之与大乗戒也」の「之」の後に、「道」が抜けている可能性がある。
円珍の考えによれば、灌頂(密教)が仏知見内証法門の伝法であり、大乗戒(顕教)が仏知見実践法門の伝戒とされる。(文献40)

「新加三月十七日年分二人官牒」は、
『類聚三代格』仁和三年(八八七)三月十四日の大比叡小比叡両所明神の年分度者二人を賜った太政官符を指すものである。

「太政官符 
応加試年分度者二人事 一人為大比叡明神分 大毘盧遮那経業 一人為小比叡明神分 一字仏頂輪王経業
右延暦寺座主法眼和尚位円珍表称・・・當寺法主大比叡小比叡両所明神。陰陽不測。造化無為。弘誓亞佛。護国為心。
所伝真言灌頂之道。所建大乗戒壇之檢。祖師創開専頼主神。・・・伏望蒙加度者二人為両神之分。解地主之結恨。増護国之冥威。
即以三月十七日与元初二人同共試度・・・」(文献34)

文中「即以三月十七日与元初二人同共試度」とあり、円珍は試度の日を官符の日付としたことが推定される。
また、當寺法主大比叡小比叡両所明神とあることから、「伝法之主」がそれに該当することが推定される。

一歩一息莫疎(恩)徳、試業春秋受戒潅頂之時、奉幣啓(祈)、丁寧鎮国、努々力々、
一歩一息、恩徳を疎略にすることなく、春と秋の試業における受戒と潅頂の時には、奉幣を行い御祈りするように。
思いを込めて、国の鎮護ため日々努力するように。

戒時有、大明神之(御座)
   而起(戒)己後開祈也、余雖不敏、年来仕之、未有(知)可以口授、仍不載
 仍従先(年)創置 御(座)、於檀上莫闕怠之、

私(円珍)の受戒の時に両所明神の御座があった。
私は、それ以来祈りを奉げ、至らぬながらも長年お仕えしてきた。
だから勤仕についてわからないところは、口頭で教えよう。
昔にならって檀上に(山王の)御座を新たに設けたので、勤仕を怠ることのないように。

 円珍受戒は天長十年(833)であるので、大明神とは両所明神のことであろう。
その場所は、受戒から推して東塔の大乗戒檀院であろうか?
また、新たな御座とは円珍の比叡山王と思われる
ここで注目されるのは、祭祀の方法が口頭で伝授されることから、円珍の三聖が私的な祀られ方をしてきたことである。

自根本代々大師等、(皆蒙)山王之唾喙、獲得起宗開法者焉、深(存)、是々趣々
代々の大師等、皆な山王の唾喙(だかい)を蒙り、宗を起こし法を開くことを得たり

文中の「唾喙」は漢和辞典にはない語彙であるが、「唾(ダ)」は「つば」、「喙(カイ)」は「鳥のくちばし」であることから、
親鳥が雛にくちばしで餌を与えるイメージが思い浮かぶ。いわゆる「噛んで含めて諭す」となろう。
つまり、これこそ法華経の「開示悟入仏知見」に他ならない。
代々の大師等は、山王のこのような恩寵を受けて、それぞれの偉業をなしとげたのである。
それは、なによりも円珍の夢に現れ入唐求法を促した山王の強烈な体験に裏打ちされたものであろう。
そして、円珍のこの思いが、山王御読経のはじまりとなった。
これについては、良源の山王御読経のところで詳述する。

6 良源 横川の地主神 聖真子

(1)良源と横川の独立
 延暦寺第十八世座主の良源は、比叡山中興の祖としてその繁栄と俗化をもたらした人物として知られる。
二十六歳の承平七年(937)、興福寺維摩会で名声をあげて藤原忠平に認められた。
忠平没後はその子師輔、さらに兼家の政治的、経済的後援を得た。
楞厳三昧院をはじめとする堂塔の整備を行うとともに、藤原氏など権門の寄進した荘園などによる経済的基盤の確立を図った。
康保三年(966)年に天台座主になった直後、比叡山が大火に見舞われたが直ちに復興事業を進めた。
天禄元年(970)には、『二十六箇条起請』(文献41)を布告して綱紀粛正を図った。
 天禄三年(972)正月十五日、横川一山を代表して楞厳三昧院から延暦寺執行部に一通の上申書が提出された。
それは横川の現住僧が近年ようやく二百人の多きに達した。
したがって西塔が東塔より独立したように、横川も叡山内の一独立区画として季帳を単独で提出できることを願ったものである。
これはもちろん良源の意向でもあり、ただちに了承された。
住僧わずか二、三人の荒廃した横川を、二百人という一大集団に仕立あげたのは良源である。
良源は、ここに東西両塔の意志に左右されない独立区画横川を持ったのである。(文献42①)
弟子の源信、覚運、覚超、尋禅は四哲として知られる。
しかし権門出身僧、特に師輔の子尋禅が僧綱人事で優遇されたことは、僧界の俗化を進展させた。
良源は慈覚派(山門派)として智証派(寺門派)との対立を、
特に智証派の余慶の法性寺座主就任をめぐる抗争でさらに激化させ、没後に両者が決定的決裂に至る種を蒔いた。
寛和元年(985)正月三日入滅。その後、慈慧の諡号が贈られたが正式な大師号は付されなかった。
元三(がんざん)大師は俗称で、後世、豆大師、角大師などとも呼ばれた。
良源は政治的な手腕にスポットライトがあてられがちであるが、その裏には真摯な仏教者の姿があったことも忘れてはならない。
広学竪義(こうがくりゅうぎ)を創始し、一門から源信などの多くの優れた仏教者が輩出したのもその表れであろう。
『慈恵大僧正伝』によれば、良源の没後、経蔵から一巻の手記が見つかったとある。
そこには、良源の次のようなかよわきまでの真情が吐露されていた。
「外似衒名人。内秘弘法之思。偸発願念曰。十方諸仏。願擁護頑質。一切聖衆。願加持羊僧」(文献37②)

(2)聖真子の誕生
 独立した横川は、西塔と同じように独自の地主神を求めた。
大比叡・小比叡は神名であるが、聖真子(しょうしんし)は神名であると共に法号でもある。
聖真子は、法号をもって生まれてきた特異な地主神で、真の仏徒たらんとする横川の願いが創造した地主神である。
そのため、聖真子は従来の神々の系譜から切り離された独自のものである。
聖真子について、『山家要略記』に以下のようにある。
 「本門聖真子云事」・・・言子従仏口生之仏子、従法化生之法師也、故名聖真子、従得仏法分者法身也、(文献43①)
 「聖真子菩薩讃」 聖真子誰祖 諸法本不生 仏口處生子 斯法華蔵成(文献43②)

上記は『法華経』譬喩品(ひゆほん)第三の下記の句に対応している。
「今日乃知。真是仏子。従仏口生。従法化生。得仏法分。」
 今日(こんにち)乃(すなわ)ち知(し)んぬ。
真に是れ仏子なり。仏口より生じ、法化より生じて、仏法の分を得たりと
これは、比喩的な表現をもって、舎利弗が今日はじめて真の仏子となり、目覚めたことを示している。
仏口(ぶっく)とは仏の教え、法化(ほうけ)とは法の教化、分(ぶん)を得るとは仏のさとりの一部を得ることである。(文献44)
「真是仏子」以下は、元来仏弟子(真子)を説明する句として
バラモンが梵天の口から生まれたという自負に対比して用いられる定型句である。(文献45)
同様の句は、『勝鬘経(しょうまんぎょう)』顚倒真実章 第十二にもある。
「正見者。是仏真子。従仏口生。従正法生。従法化生。得法余財。」(文献46)
 正しい見解を持つ者は、仏の真実の弟子である。
仏の教えによって生まれ、正しい法によって生まれ、法の教化によって生まれ、法のさとりを得る。
さらに、『勝鬘経』には真子章 第十四があり、一乗の教えを実践する三忍の菩薩(真子)が説かれている。
三忍とは、さとりに至るための三種の智慧のことである。
聖徳太子の『勝鬘経義疏(ぎしょ)』に
「故此挙真子一章明三忍菩薩受此乗而行也。」(文献47)とある。
 この故に真子一章を挙げ、三忍の菩薩を明らかにして、この乗を受け、而して行ずる也

これらから、聖真子の名は法華経に依拠するもので、正統な仏法の後継者を意味するものである。
神にして仏、これぞ神仏習合の最たるものであろう。

(3)地主三聖の成立と地主三聖祭
 良源が天台座主となった二年後の康保五年(968)正月二十八日の日付のある太政官牒に、
「年分度者三人。・・・一人可習学仁王経二巻。金剛般若経一巻。法花経一部。金光明経一部。
右為地主山王一切神祇。・・・」(文献48)とある。
延喜式神名帳には「日吉神社 名神(みょうじん)大」とあることから、
今回の措置は延喜式の施行時期(康保四年)に関連するものと思われる。
ここで得られた年分度者は、前述のように円珍が大比叡神と小比叡神のために
二人の年分度者を仁和(にんな)三年(887)に得ていることから、横川の聖真子のためであったと推測される。
また、金剛般若経は、円珍の両所三聖や良源の地主三聖の祭典にとって、重要な教典である。
つまり、康保五年(968)の太政官牒をもって、山王三聖が成立したとみることができる。
ここに、良源の三塔支配の神祇政策が実現したとみるべきであろう。
新たな地主神を得て、東塔 大比叡明神、西塔 小比叡明神、横川 聖真子明神からなる地主三聖がここに成立した。

良源の時代に地主三聖の祭典は史料に三回登場する。
最初は、貞元(じょうげん)二年(977)四月七日の舎利会の予行演習として、比叡社の社頭にて地主三聖を荘厳したとある。
「会日以前於比叡社頭豫行試楽。為荘厳地主三聖。利益当国万民也。」
『天台座主記』(文献1③)、『慈恵大僧正拾遺伝』(文献49①)

次は、天元二年(979)四月の地主三聖祭(日吉祭)である。
「為荘厳地主三聖御祭事。・・・」
地主三聖祭は三塔体制を高らかに宣揚するものであった。
そのため、良源の行った地主三聖祭は豪華絢爛なものであった。
琵琶湖の唐崎に、廻廊二宇、雑舎四宇をもつ神殿一宇を造立し、宝輿一基、駕輿装束二十具、唐鞍などを新調した。
祭当日は、伶人二十余人を龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船に乗せ、
琵琶湖を富津浜から唐崎に漕ぎ出し、終日船中で歌舞を演奏した。
『天台座主記』(文献1④)、『慈恵大僧正拾遺伝』(文献49②)

三回目は、天元三年(980) 四月の地主三聖の御読経である。(文献50)
地主三聖は良源の三塔支配の象徴であった。
良源は地主三聖のために金剛般若経を転読するに際し、全僧侶の出席を求めた。
良源の地主三聖は、円珍の両所三聖を改変したものであり、円珍派を中心とする反発も強かった。
そのため、当時叡山の三塔の僧侶の総数は二千七百名であったが、その内七百名が欠席した。
良源は、欠席者全員の僧籍を剥奪する苛烈な処分をおこなった。
「天元三年四月一日 尋山門之奮風。奉為地主三聖轉讀金剛般若経。
爰住僧帳所載山侶二千七百人。彼日會集二千口也。鳩萃之外七百人。和尚除帳籍。」『慈恵大僧正伝』(文献37①)
この処分者の中には、円珍派が多く含まれていたといわれる。
これは『二十六箇条起請』の第二十三条「応随山王二季御読経僧侶見参之数定住不事」(文献41)に従ったものである。
山王御読経は、この事件の印象が強烈なために、良源が始めたものと誤解されやすいが、
その始まりは前述のように円珍からと思われる。
先の『二十六箇条起請』第二十三条の続きに
「・・・而去天慶年中、加修四季之後、人多懈怠・・・仍今還復旧例、以二季為定、量當季不参之者、即以除帳・・・」とある。
天慶(てんぎょう)年中(938~947)に山王御読経を二季から四季に増やして以降、
欠席者が多くなったので、これからは旧例に戻って二季に改めて実施し不参加者は除籍処分にするというものである。
このことから、山王御読経は天慶以前から続いていたことがわかる。
そして、その始まりはおそらく円珍の山王信仰ではないかと思われる。
ここで注目すべきことは、『慈恵大僧正伝』において円珍の両所三聖が地主三聖に置き換えられていることである。(文献37①)
また、天慶年中とあるのは、後述の天慶五年(九四二)の天台座主義海による日吉根本塔供養にかかわるものであろう。

良源の弟子であり、『往生要集』の著者でもある源信(恵心僧都)に次の言葉がある。
「恵心先徳御記に曰く、吾山は一山を三塔に分かち、三塔をもって一山と名づく。
一山はすなわち一心の戒蔵であり、三塔は三聚浄戒に当たる。・・・
恵心讃に曰く、法宿・華台・聖真子。三聖一山に住し、三身一身の仏なり。・・・」
                          『山王讃釈』(文献51)
これは、源信の師である良源の心でもあったであろう。

(4)地主山王・山王三聖・地主三聖
地主山王・山王三聖・地主三聖の、おおまかな初見を下記に示す。

地主山王 康保五年(968)正月二十八日の太政官牒 「地主山王一切神祇。」(文献48)
山王三聖 天禄四年(973)二月五日の良源の「上山王権現願文」 「伏羨。山王三聖。王子眷属」(文献52)
地主三聖 貞元二年(977)四月七日の『天台座主記』 「会日以前於比叡社頭豫行試楽。為荘厳地主三聖」(文献1③)

良源の入滅は寛和(かんな)元年(985)正月三日であるが、その翌年の十月二十日に寛和官符なるものが発給されている。
「太政官牒 延暦寺 応以恵心院為官寺置年分度者三人事・・・
一人可習学仁王経一部二巻。金剛般若経一巻。法花経一部八巻。金光明経一部四巻。
右為地主山王一切神祇・・・天元年中・・・先禮慈覚大師廟。次拝山王三聖・・・」とある。(文献53)
これは良源のあとをついで天台座主となった尋禅の兄藤原兼家の御願寺横川恵心院を官寺として
年分度者三人を置くことを宣下したものである。(文献1⑤、37③)
寛和官符には、「地主山王一切神祇」とともに、天元年中(978~982)に藤原兼家が恵心院建立にあたり
「山王三聖祠」を拝したとあることから、良源の時代においては地主山王と山王三聖が同じものであることがわかる。
また、康保五年(968)と寛和二年(986)の太政官牒(地主山王)の間に、地主三聖祭が挙行されていることから、
地主山王と地主三聖が同じであることもわかる。
このように地主山王・山王三聖・地主三聖は本質的に同じものなので、
山王三聖の初見を康保五年(968)の太政官牒としても良いであろう。
山王三聖と地主三聖の呼び方の相違は、過去の使用例から推定すると「山王」が比叡山全体とのかかわりを強調するに対し、
「地主」は三塔とのかかわりを強調するものである。また地主山王はその中間的なものを表すと思われる。
「山王三聖」と「地主三聖」は、良源の時代には併用されていたが、
正暦四年(993)の叡山分裂以降は、「山王三聖」に定着していったと見られる。
それは、寺門派が山を下りたことにより、三塔間の矛盾が解消されたためと思われる。
最後に、円珍において山王は夢告の神としての実質があったが、良源の場合はそうしたものはなく、
山王が地主三聖の単なる総称として使われていることに留意する必要がある。

(5)山王三聖の本地仏の成立
 山王三聖に本地仏が定められていることは良く知られている。
即ち、大宮は釈迦如来、二宮は薬師如来、聖真子は阿弥陀如来である。
しかし、なぜそうなのかについては諸説あるものの、いまひとつ納得のゆくものはない。
ここで、教学的な見地から私見を述べてみたい。
おおまかに言って、東塔は密教、西塔は顕教、横川は浄土教である。
東塔と西塔は、顕密不二であることから相互依存の関係にある。
東塔には薬師如来、西塔には釈迦如来が祀られているので、これを相補する関係にあるものは、
大宮(東塔)は釈迦如来、二宮(西塔)は薬師如来となる。
聖真子(横川)は大宮・二宮とは別種で、浄土教の阿弥陀如来となる。
次に、いつ頃、山王三聖の本地仏が揃ったかについては、最後に誕生した聖真子の本地仏を考えればよい。
一般に、聖真子と八幡神は同体で、その本地は阿弥陀如来と言われる。しかし八幡神の本地は、元々は釈迦如来であった。
応和二年(962)の奥書をもつ「大安寺塔中院建立縁起」(文献54)によると、
大安寺の僧行教が宇佐におもむき参籠している時、衣の袖の上に釈迦三尊が顕現したとある。
本地が釈迦如来から阿弥陀如来に変わったのは、大江匡房(まさふさ)(1041-1111)の『続本朝往生伝』(文献55)の頃とされる。
『続本朝往生伝』には、愛宕山の月輪寺(つきのわでら)(天台宗)の僧真縁が、
常々、法華経をとなえ生身の仏との出会いを願っていたところ、石清水八幡宮に僧形の阿弥陀如来が顕現したとある。
これらの背景としては、当時盛んになりつつあった天台浄土教の影響が考えられる。
良源は『九品往生義(くほんおうじょうぎ)』、源信は『往生要集』を著しているが、
上記のことから聖真子・阿弥陀如来・八幡神の関係が生じたのは、彼らのかなり後と予想される。
これは、日吉社における本格的な神仏習合の始まりと見てよいであろう。

7 疑義の可能性の残る史料の検討
これまで本論文では、「聖真子」や「山王三聖」は延暦寺第十八世座主良源の時代に生じたと述べてきたが、
良源の以前にそれらが認められる史料もある。
ここでは、それらのうち論文等で取り上げられたものを対象に、疑義の論拠を簡単に示しておく。

(1)山王受戒説
山王三聖の受戒の代表的な史料として、『園城寺伝記』巻一に次のようにある。(文献56)
一、山王勧請在唐院事 受戒事 貞観二年(860)也
第一 大宮権現 法号 法宿大菩薩 本地 釈迦
第二 地主権現 法号 花台菩薩 本地 薬師
第三 聖真子 則法号也 本地 阿弥陀如来
是山王三聖也。随智証大師改俗服得法号。此条私不奉授之。被経奏聞賜官符
件正文并官符在聖護院経蔵山王受戒時、去我座進大師。依之智証大師号山王院。

池田陽平氏の論文「山王三聖受戒説の形成過程」(文献57)によれば、
聖護院経蔵に収められているとされる件の官符は明白な偽作ということである。
つまり、この文書自体が寺門派の策謀ということになろう。
それはそれとして、最大の疑問は聖真子の受戒である。
聖真子は正統な仏法の後継者として生まれた神であり、受戒は屋上屋を重ねるような儀式である。
円珍の『制誡文』(文献36)をじっくり読むなら、とても円珍が執り行う儀式とは思えないのである。
また、本地仏の設定も、その先駆けとされる応和二年(962)「大安寺塔中院建立縁起」の八幡神に比べて早すぎるようにも思える。

田島徳音氏は山王受戒説について、論文「山王神道と一實神道」の中で次のように述べている。
「古来日吉山王両所三聖たる大宮二宮聖真子の三神は伝教大師に遇ひて受戒せりと伝ふ。
この伝を寺門派にありては円珍の受戒説を立つれども山門派は最澄の受戒説を信ず。
三神の受戒による法号の唱出せられたる年代を園城寺所伝は貞観二年なりとなせども山門所伝は年代を明記せず。
故にこの起元は未詳となす。但し法号起元は恐らくは聖真子権現を山王神として祭れる時に唱出せられたるものには非ざるか。
この聖真子は本地弥陀、八幡大菩薩の降臨なりと伝ふ。
聖真子は円珍、相応の伝にはその神名現れず、横川如法経の記事に至って初めて山王の三神名を見る。
横川系より聖真子を記せる最古の文献は沙門壱道記の文なり」(文献58)
しかし、次に示すように「沙門壱道記」においてもなお疑義が残ると思われる。

(2)「沙門壱道記」
 「門葉記巻第七十九如法経一」に掲載された貞観九年(867)正月十四日の日付のある「沙門壱道記」は、
二つの資料(前文と後文)から構成されている。(文献59)

前文では、法華経守護三十番神の由来を述べている。
要旨をわかりやすく説明すれば次のとおりである。
天長六年(829)から三年の間、慈覚大師円仁は比叡山の横川、首楞厳院に草庵を結んだ。
天長八年の秋、大師は法式に従い一字三礼して法華経を書写した。
この時、邪魔がはいらぬよう、我が国古来の神々は三十日の間、順番に日を定めてこれを守護した。
大師は感激し、自分の死後、弟子に三十柱の神々をお祀りするよう言い残した。

また後文は、聖真子の初見としてしばしば引用されるもので、その全文を下記に示す。 
壱道記云
 一番子日 伊勢大明神   二番丑日 八幡大菩薩   三番寅日 賀茂大明神
 四番卯日 松尾大明神   五番辰日 大原大明神   六番巳日 春日大明神
 七番午日 平野大明神   八番未日 大比叡大明神  九番申日 小比叡大明神  
 十番酉日 聖真子大明神  十一番戌日 住吉大明神 十二番亥日 諏訪大明神
右慈覚大師去天長年中 奉請件大明神為如法経守護神 但依心願未及結番
而諸神御経守護之由頻被申之 仍亥日熱田鹿島気比三尾等大明神合番守護之矣
                          貞観九年亥丁 正月十四日 沙門壱道謹記

ここで、疑問がわき起こる。
「沙門壱道記」の前文によれば、「以国内有勢有徳神明三十箇處為守護神結番定日、大師入滅之後、有高僧可番定」とあり、
円仁が弟子に依頼したのは三十番神のはずである。
なのに、円仁の入滅後三年もたってから、なぜ中途半端な十二番神が登場するのであろうか。
そして慈覚大師が入滅(864)してから実に209年後に、件の高僧が遂に現れる。
阿闍梨大法師良正である。
「良正阿闍梨 三十番神勧請記」(文献59)によれば、延久5年(1073)正月十日 良正は十二番神の残りを補い、
法華経守護三十番神を結番させたとある。
ここにある種の作為が感じられるのである。
つまり、「沙門壱道記」は、良正の三十番神を古くて権威のあるものに見せかけるための偽装ではないかと・・・
この詳細については、いずれ別稿にて論述する予定である。

(3)耀天記「両所三聖」
山王三聖の社殿について、『耀天記』に以下の記述がある。
「両所三聖ト常ニ申事如何、両條ニ申事不審也、
口傳云、両所ハ二宮大宮也。サテ聖真子ハ、本大宮ノ築垣ノ内ニ御ケル也。大宮モ聖真子モ、神殿ハイト大ナル事ナシ。
然ルニ無動寺建立ノ大師相応和尚ノ御時、大キニ五間ニ大宮ノ神殿ヲ作ラルル間
又聖真子ヲ東へ遷シ奉ル故ニ、二宮・大宮・聖真子、各別事外ニ広大ニ成り給間、其後両所三聖卜呼タテマツル也云云。」(文献60)
両所三聖の中身については、すでに検討したとおりである。
文中の相応和尚は回峰行を創始した人として知られるが、その伝記に『相応和尚伝』がある。
上述の「大キニ五間ニ大宮ノ神殿ヲ作ラルル間」に相当するところとして、『相応和尚伝』寛平二年(890)に次のようにある。
「法宿大菩薩託宣云。如小比叡宝殿為我可造宝殿。不経幾日造立。」(文献26)
つまり大宮(法宿大菩薩)が二宮(比叡宝殿)の社殿のように自分の社殿を大きくするよう託宣したので、
日ならずして大きく改築したとある。
しかし、聖真子の社殿については、かなりの工事であるにもかかわらず何の言及もない。
ところで、『相応和尚伝』仁和三年(887)に「於大宮御社前造立率都婆一基。納法華経一部」(文献26)とある。
つまり、大宮の境内にある小さな神殿とは、この卒塔婆(小塔)のことを脚色したのではないだろうか。
いずれにしても、『相応和尚伝』の全体においても聖真子の言葉は一切登場していない。

(4)『遺制十一ヶ條』地主三聖
 寛平三年(891)十月二十八日の円珍遷化の前日に弟子に託された『遺制十一ヶ條』(文献61)の第五条に
「奉為地主三聖予門徒必経奏聞。穴賢申處加年分度者耳。」とあり「地主三聖」が見えるが、
この『遺制十一ヶ條』は山門派の偽書とされている。
福尾猛市郎氏は論文「慈覚門徒と智証門徒の抗争について」(文献62)において次のように述べている。
「(遺制十一ヶ條)の内容を見るに大師の時代より二百年三百年もの後に起つた事件が巧妙に書入れられて居り、
智証門徒を常に抑制するが如き書振であり、且つその語法に於ても後世的な点が認められるから、
かたがた慈覚門徒のために作つた偽書と考ふべきである。」
このことから、「地主三聖」は山門派が良源の地主三聖祭を円珍以来のものとするための策謀ではないかとの疑いが生じる。

(5)「塔中三聖後立板色紙形銘」
 日吉根本塔に関しては、菅原信海氏の『山王神道の研究』(文献35②)にくわしい。
天慶五年(942)、勅命により律師明達が平将門の乱を調伏した功により日吉根本塔が創建された。
そのいきさつは『天台座主記』に次のようにある。
「(義海)日吉根本塔供養導師也。此塔、朱雀院御宇、将門謀反時、為彼調伏、天慶三年二月□日、明達律師蒙宣旨
令調伏了、法成就時、明達律師建立之。供養、同五年三月五日、義海御導師也。」(文献1⑥)
また、『日吉根本塔縁起』に
「・・・殊被勅宣奉行調伏法之時、律師凝潔白之信仰、励丹誠之懇篤。
跪山王宝前、発大誓願曰、此法成就、止彼逆乱、大比叡大権現之東、小比叡大明神之坤
建立一基妙塔、奉安三聖之霊像云云。・・・」(文献43③)
文中の三聖とは、年代から言って、円珍の大比叡・小比叡・山王ではないかと思われる。
導師を務めた義海は第十四世天台座主であるとともに石清水八幡宮検校でもあることから、
八幡神像にあやかった三聖の霊像の奉安は予想される。
その場合、三聖は円珍の三聖であって、良源の山王三聖ではなかったと思われる。
義海は円珍派の座主として知られる。(文献42③)

ほとんどの論文では、日吉根本塔内部の当時の状況を物語る史料が、
以下に示す「塔中三聖後立板色紙形銘」(文献43④)であるとしている。

二宮、本尊、御座半畳、上敷赤地錦、
権現従四位上小比叡大明神、法号華台菩薩、
大宮、本尊、御座如前
権現従一位勲一等大比叡大明神、法号法宿大菩薩、
聖真子、本尊、御座如前
比叡大明神、聖真子菩薩、
  
四面柱図梵釈四王、日光、月光、四維壁図十大弟子、十羅刹、観音、勢至二菩薩、
仏後壁図千体阿弥陀、千体地蔵、胎蔵金剛両部曼荼羅、
塔内奉安置三聖俗体五智如来如旧

実は、『日吉社神道秘密記』に「多宝塔婆、昔有建立、炎上畢、久寿焼」(文献2③)とあることから、
日吉根本塔は久寿年間(1154~1155)に全焼している。
また文中には「・・・大宮本尊 御座如前・・・聖真子本尊 御座如前・・・塔内奉安置三聖俗体五智如来如旧・・・」とあり、
「前の如し」や「旧の如し」が火事の存在を思わせることから、
「塔中三聖後立板色紙形銘」は久寿年間以降に書かれたとされている。(文献35③)
つまり二百年以上も昔の話であるため、これが必ずしも天慶五年(942)の状況をそのまま示しているという保証はない。
おそらく、「前の如し」とは焼ける前の状況ではないだろうか。

関連論文
 創生期における三十番神の役割<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 前篇>
 慈覚大師如法経縁起の形成と三十番神の祭祀構造<叡山三十番神 壱道・良正記の検討 後編>
 叡山三十番神 Q&A

参考文献
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22『伝述一心戒文』 (『伝教大師全集』第一 ①p533~535 ②p526 p598 1926)
23「比叡山相輪橖銘」(『大日本仏教全書』125冊 p142  1981)
24『長講法華経願文』先文(『伝教大師全集』第五 p242 p245 1927)
25『日本三代実録』(『国史大系』4巻 ①p18 ②p36~37 ③p628~629 吉川弘文館 1966)
26『相応和尚伝』(『群書類従』第5輯 p549~550 1960)
27『感夢記』(『大日本仏教全書』28冊 p1225 1990)
28『智証大師伝』(『続群書類従』第8輯下 ①p703 ②p711 ③p702 1975)
29『元亨釈書』巻第三 慧解二(『国史大系』31巻 p69吉川弘文館 1965)
30『朝野郡載』(『新訂増補 国史大系』29巻上 p435 吉川弘文館 1964)
31『行歴抄』(『大日本仏教全書』28冊 p1233 1978)
32「両門別離之事」『寺門伝記補録 第十八』(『大日本仏教全書』127冊 p311 1981)
33『仏説観普賢菩薩行法経文句合記』(『大日本仏教全書』26冊 p510~511 1978)
34『類聚三代格』(『新訂増補 国史大系』類聚三代格前篇 p89 吉川弘文館 1980)
35『山王神道の研究』菅原信海 ①p65~71 ②p101~113 ③p108 春秋社 1992
36『園城寺文書』第1巻 p382~383 講談社 1998
37『慈恵大僧正伝』(『新校群書類従』第3巻 ①p828 ②p830 ③p829 1977)
38『円珍』佐伯有清 p20~21 吉川弘文館 1990
39『法華経大講座』2巻 p221~237 小林一郎 平凡社 1935
40「智証大師の灌頂と大乗戒」直林敬範 (『園城寺之研究』p243 星野書店 1931)
41「二十六箇条起請」 (『平安遺文』古文書編第二巻 p431~439 竹内理三 東京堂 1964)
42『良源』平林盛得 ①p119 ②p158 吉川弘文館 1976
43『山家要略記』(『神道体系』天台神道(下)①p73~74 ②p99 ③p252~254 ④p99~100 1993)
44『法華経大講座』3巻p94~100 小林一郎 平凡社 1935
45『大乗仏典』12巻p393 注117 高崎直道 中央公論社 1977
46『勝鬘経』(『大藏経』第12冊 No.353 p222 新文豐出版公司)
47『勝鬘経義疏』(『大正新脩大蔵経』第56巻 No.2185 p19 1963)
48『山門堂舎記』(『群書類従』第24輯 p488~489 1960)
49『慈恵大僧正拾遺伝』(『続天台宗全書』史伝2 ①p206 ②p207 1988)
50「山王信仰の発展に関する一考察」佐藤真人(『大倉山論集』第21輯 p150~151 1985)
51『山王讃釈』(『恵心僧都全集』第5巻 p635 1928)
52「山王権現願文」(『大日本仏教全書』125冊 天台霞標 p449 1981)
53「寛和官符」(『続群書類従』延暦寺護国縁起 第27輯下 p456~458 1957)
54「大安寺塔中院建立縁起」(『石清水八幡宮史料叢書』二縁起 p11~14 1976)
55『続本朝往生伝』(『群書類従』第5輯 p421 1977)
56『園城寺伝記』巻一「山王勧請在唐院事」(『大日本仏教全書』127冊 p11 1981)
57「山王三聖受戒説の形成過程」池田陽平(『政治経済史学』526号 p42 町田:政治経済史学研究所 2010)
58「山王神道と一實神道」田島徳音 (『大正大学々報』25号p54~55 大正大学出版部 1937)
59「沙門壱道記」「三十番神勧請記」(『門葉記』巻第79)(『大正新修大蔵経』図像第11 p630~631 1977)
60『耀天記』(『神道体系』神社編 日吉 p64 1983)
61「遺制十一ヶ條」(『大日本仏教全書』113冊 唐房行履録 p358~359 1984)
62「慈覚門徒と智証門徒の抗争について」福尾猛市郎 (『園城寺之研究』p541~545 天台宗寺門派御遠忌事務所 星野書店 1931)


山王三聖の論文リスト
1「山王七社の成立」佐藤眞人『神道学』125輯 p16~37 1985
2「山王信仰の発展に関する一考察」 佐藤眞人 『大倉山論集』第21輯 p143~166 1985
3「山王三聖と日吉根本塔の創建」菅原信海 天台学報28号p24~29 1985
4「山王七社の形成」菅原信海 『東洋の思想と宗教』第4号 p1~19 1987
5「再び山王七社の成立について」佐藤眞人『大倉山論集』第23輯 1988
6「智証大師円珍の山王信仰」菅原信海『智証大師研究』p115~139  同朋舎出版1989
7「大小比叡明神と円珍」菅原信海 『天台学報』31号p13~19  1989
8「伝教大師の比叡神信仰」野本覚成 『日本宗教の視角』p147~175 東方出版 1994
9「山王三聖受戒説の形成過程」池田陽平 (『政治経済史学』526号 p31~55 町田:政治経済史学研究所 2010)
10「大比叡神と小比叡神」池田陽平『日本宗教文化研究』14巻2号 p74~85 2010

(C20130712
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