六甲岩石大事典 第1部1章 六甲中央部

 このコーナーでは、過去を含め、地図、文献等にその名が確認される岩や石を紹介しています。
1章は、芦屋ロックガーデンを中心とする「阪急御影駅ー住吉川ー本庄橋ー七曲りー一軒茶屋ー石宝殿ー土樋割峠ー
蛇谷ー芦屋川ー阪急芦屋川駅」に囲まれた地域を収録しております。

ナマズ石
場所:弁天岩
から南に少し
歩いた所(参照文献A)
1995年1月17日の阪神大震災のときに
荒地山から落下した岩。
岩の上に白く見えるのは、
弥生時代に記された中国古代文字の
ロンサン文字といわれている。(文献@)
ナマズ石保存会によるナマズ石の説明板。
岩の重さ500トンとある。
<参照文献>
@ナマズ石保存会のサイト http://5525.ld.infoseek.co.jp/index.html#2
A六甲麻耶 西宮明昭山の会編 ゼンリン 2000年刊 p49
B自然環境ウォッチング「六甲山」 兵庫県立人と自然の博物館
  「六甲」研究グループ編
  神戸新聞総合出版センター 2001年刊 p71〜75参照
弁天岩
(磐座・福石)

諸説を総合すると、弁天岩は四つの巨石の総称で次のように分類される。
 1 磐座 最上部の弁才天を祀る岩
 2 福石 上段、中段、下段からなる
   三つの巨石
   上段、下段の岩は中段の
   岩に比べはるかに大きく
   夫婦岩と呼ばれる。(文献B)
 
 弁才天は、もともとインドでは河川の神であったが、日本古来の水神信仰と結びついて水の神となり、水辺にまつられるようになった。
 宝暦10年(1760)の記録に「弁才天芦屋村打出村立会之山内に有り」とある。
この弁才天を祀る水神社は、明治41年に麓の芦屋天神社(現芦屋神社)に合祀され、現在も境内の古墳内に祀られている。 (文献C)

場所: 芦屋と有馬を結ぶ芦有(ろゆう)ドライブウェー沿いの芦屋ゲート近くにある。



石の宝殿系列
鱶切り岩
(まな板岩)
場所:弁天滝
弁天岩のすぐ近く











2階建ての家ぐらいもある下段の岩 最上部にある磐座と水神社の移転跡
枯れ草の生えているのが鱶切り岩 滝を上から見下ろしたところ
<伝説1>
弁天岩は、水神の住処として江戸時代から、
山麓の芦屋・打出の村人たちの雨乞いの場であった。
弁天岩の近くにある弁天滝の落ち口にある大石は、鱶切り岩とかまな板岩と呼ばれていた。
旱魃が続くと人々は打出の沖で大きな鱶を捕らえ、
その岩の上で鱶を切り刻んで弁天岩に投げつけた。
そうすると、住処を汚された水神が怒って血糊を洗い流すため大雨を降らせると信じられた。
<伝説2>
昔、石工が弁天岩にタガネを入れたところ、血が噴き出して岩は二つに割れた。
そして、石工は病に侵された。そのため、その後岩に手を付ける者もなく祀られた。

<参照文献>
@六甲山博物誌 西宮市立図書館蔵書 N28/397 p197
Aあしや子ども風土記 伝説・物語 芦屋市教育委員会 1992年刊
  p20〜24 「水神さんと鱶切岩」
B芦屋の里 島之夫  1929刊 p76〜77 宝盛館
C芦屋郷土誌 p397〜398 細川道草 1963刊 芦屋史談会
D関連リンク先 弁天岩とフカ切り岩
 扇岩
扇の形をした岩が頂上に聳える。
この岩はもと「六甲岩石大事典 第1部1章 六甲中央部」で十三間四方岩として紹介していた。
それは1934年発行の古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会に十三間四方岩が記載されており、この岩はそれに該当するものと判断したためである。
しかし、なぜこの岩が十三間四方岩と呼ばれるのか不思議であった。
この岩は、十三間(23.6m)四方に対し、たかだか4m四方にすぎない。
この疑問は、読者から頂いた下記の新聞記事から判明した。

大阪朝日新聞 神戸版
大正15年11月19日発行
六甲山の『岩』巡礼(二)
 直木重一郎執筆
十三間四方岩
弁天岩の西方数町、荒地山の中腹にある。
以前この付近は石切場で南方に急斜したこの巨岩は広さ十三間四方あったとのことから呼称されたものである。
この岩に上ると眺望千里、芦屋一帯から茅渟海(大阪湾)を隔てて遥かに金剛、葛城の峰々まで一望中に集むる事が出来る。

このことから、この岩は十三間四方岩でないことが判明した。この岩は、このような広いテラス状の岩ではないからである。

その後、柴田昭彦氏の綿密な調査により、この岩が木藤精一郎氏の地図(参考文献@)に掲載された扇岩であることが明らかになった。
竹中靖一氏の著書『六甲』には、扇岩について次の記述がある。(参考文献A)
扇岩 芦屋川、弁天岩の上、西北方にある巨岩。芦屋谷の水電導水路から仰ぐと峯の尖端に扇を開いた様に見える。」

場所:道畦谷北尾根
弁天岩への分岐点から少し登った右側に、この岩に至る道がある。分岐からすぐ。

参考文献
@ 「六甲北摂ハイカーの径」添付地図
   木藤精一郎著 
   阪急ワンダーホーゲルの会
     1937年刊(昭和12年)
A「六甲」 竹中靖一著 朋文堂
   1933年刊(昭和8年) p347

参照サイト
「ものがたり通信」の「六甲山の話」

芦有ドライブウェーの
弁天橋の少し南側から写す。
山頂の一際大きく見える岩が扇岩。
遠くからでも目立つ岩である。 
ごろごろ岳の山腹に芦有ドライブウェーに
沿って走るハイキング道から写す。
方位 弁天岩の真西。
少し開き方が不十分と思えるが、
扇の形をしている。
扇岩の南側面  扇岩(奥の岩)の北側面
扇岩の東側面(裏側、山側)
まるで巨大な洞窟だ。 
扇岩のすぐ隣にある岩。
誰かが登ったらしく、
岩の先端部分にボルトが打ち込まれている。
前方のごろごろ岳の山腹に、
芦有ドライブウェーに沿って走る
登山道が見える。
風吹岩
場所:皆様御存知の風吹岩
名著「六甲」の著者である
竹中氏曰く。
『このあたりを風吹と呼び、付近一帯を横と称する。眺望が甚だよい』
眺望抜群 大気の条件がよければ、
はるか関空まで見渡せる。
風吹岩の看板
風吹
屏風岩

この岩も風吹岩の陰に隠れて
消え去ろうとしている岩である。

場所:風吹岩の西近傍
深江山の神の跡
(2005年5月10日撮影)
ご神体は、麓の深江近くの神社に移転。
やがて、地図からも消えてゆくことだろう。
深江山の神の入口にある道標
ペンキでし白く塗りつぶされている。
惜別の意?を表すために、2本の笹が
立てられている。
(2005年5月10日撮影)
屏風岩。名前とはかけ離れた小さな岩である。
しかし、言われてみれば屏風である。
この小さな岩に幸あれ。
登り道から見た屏風岩。
『道を登り切ったところの右側』に確かにある。
木々の向こうが風吹岩。
<推定理由>
@「六甲ハイキング」 大西雄一著 1963年版 p42 説明図
今の風吹岩のあたりは道だらけで、上記の説明図に記載された道が今のどの道を指すのかを特定することは困難である。しかし、当該の岩は、ともかく道を挟んで風吹岩と対向する形で記載されている。
A古地図『六甲ー摩耶ー再度山路図』 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊には、風吹岩(屏風岩)と表記されており、風吹岩と屏風岩が同一のものとして表記されている。このことは、風吹岩と屏風岩が同一のものと見なされる程接近していることを意味し、状況と一致する。
B「六甲」 竹中靖一著 朋文堂 1933年刊 p400に次の記載がある。
『山の神から東方に高座谷を見ながら尾根伝いに行けば、やがてやや急な登りとなり、登り切ったところの右側に壁状をなした屏風岩がある。・・・・・・屏風岩の後から東に派生している尾根は、ロックガーデンの中央を貫き高座瀧まで延びている』
万物相

万物相は、朝鮮半島の金剛山の景勝地
「万物相」に似ているところから命名された。
(文献@A)
昔、六甲山は禿山で、中央尾根全体が万物相の様相であったといわれている。

場所:芦屋ロックガーデン 
万物相のエリアは、明確なものではないが、あえて言えば今人が歩いている尾根の右側部分と推定される。左側は墓場エリアとなる。 尾根から東側を見下ろしたところ
Bケンの西側直下の水のない谷底の砂場
いつも静かである。昔このあたりが万物相の中心であった。(文献@)
六甲山が禿山であったことに言及した
看板。
中央尾根の風吹岩に至るハイキング
コースの中ほどに立っている。
<参照文献>
@「六甲」 竹中靖一著 朋文堂 1933年刊 p428
 『(B懸垂)岩の前から左手、西へ一寸下った谷底は水のない平らかな砂地であって、快い休み場である。東を見上げると、懸垂岩が・・・・西を仰げばピラーロックが・・・。この付近の岩は特に形状が変化極りないところから、朝鮮の金剛山のそれに倣い、万物相と称せられている。』
A 万物相http://www.norihuto.com/kumgang-manmulsang.htm
墓場
(Graves)
場所:芦屋ロックガーデン
上記万物相参照
 
ピラーロックについては下記参照
グレイヴスと言うよりは、モンスターである
これをピラーロックと称する人もいるが、
本来のピラーロックではない。
左の写真の拡大。今にも崩れそう。
墓場の主要部の全景 墓場の北側より
元祖
ピラーロック


山岳ガイドをしているM氏より、意外なコメントを戴いた。

「現在、兵庫登山会の看板がかけられているピラーロックは、本来のものではなく、本来のものは、もっとBケンの近くにある」とのことであった。

驚いた私は、六甲山のバイブルとも言うべき、竹中著「六甲」を丹念に読み、
M氏の指摘が正しいことを確信した。
そして翌日、竹中氏と大西氏の著述に従い、ピーラーロックの元祖を見つけることができた。

M氏のおかげで、六甲登山史の上で有名なピラーロックの経緯が明らかになったことに感謝いたします。

場所:芦屋ロックガーデン 万物相

元祖ピラーロックが記載された
六甲・ロックガーデン概念図として、
「近畿の山」p55 山と渓谷社 1962がある。

ピラーロックは尾根の先端部のやや東よりに位置することがわかる。
元祖ピラーロックのある尾根とBケン尾根の間にある谷。Bケンに最も近い岩が元祖ピラーロックと推定される。
左端上部の黒い岩はBケンの一部。
Bケンの正面
Bケン尾根から撮影した連続写真
元祖ピラーロックの跡、B懸垂岩を東に望む。
チョックストーンのあったチムニーを登ったところにある岩
チョックストーンのあるチムニーの跡
<推定理由>
1 「六甲」 竹中靖一著 朋文堂 1933年(昭和8年)刊 p428〜430に
ピラーロックの写真とその説明がある。
写真は白黒で、柱状の岩が多数あり、どれがピラーロックなのかはっきりしないので 「六甲」の記述から推定することとする。
 「(B)懸垂岩とピラーロックとの間の谷を少し登ると左手ピラーロックの斜面に
チムニーがあってチョックストーンが一つ懸かっている。
もし、ザイルがあるならこのチムニーを通ってピラーロックまで登るのは愉快な岩登りである。
さて、このチムニーを左に見て、谷を埋めた岩石を踏み、谷の奥を左にとって登る。
すると、ロックガーデン中央尾根から派生した支尾根の上に出る。
そこから、細い尾根伝いに、少し下れば、ピラーロックの頂上へ容易に達することができる。
一坪かそこらの狭い岩頭であるが甚だ広潤である。
そこの西側には灰色の甚だグロテスクな形の岩が林立した地域があって
墓場(Graves)と呼ばれている。」

 上記の文面から元祖ピラーロックを下記のように特徴づけることができる。
@元祖ピラーロックは、Bケンのすぐ西に対向する尾根にあり、
 尾根伝い下ればその頂上に容易に立つことが出来る。
A元祖ピラーロックは、谷底から急に立ち上がっていて、その頂部の広さは一坪程度である。
B元祖ピラーロックには、その側面に岩登りの対象となるようなチムニーがある。
 
2 「六甲ハイキング」 大西雄一著 1963年版 p35
「Bケン前の砂地の広場にピラーロックがある。そのうしろのヤセ尾根に登ると、前面にカンナで削ぎ、ヤスリでこそげたような蒼白の群峰が・・・」

「そのうしろのヤセ尾根」に着目すると、ピラーロックは尾根のやや東よりに位置することがわかる。
第二世代
ピラーロック

元祖ピラーロックが、いつ、いかなる理由で第二世代に移行したのかは不明である。(誰か、知っている人がいたら教えてください)

しかし、少なくとも1984年以前にはそれなりの知名度を有していたものと思われる。
場所:芦屋ロックガーデン 墓場 
震災で倒壊した第二世代ピラーロック 第二世代ピラーロックの墓標
墓場にふさわしい。
2013年版 山と高原地図48 『六甲・摩耶』p14 昭文社刊
「 ピラーロックとは風化した岩塔の名称であるが、霊妙に見えるので万物相とも言われる。
これらが乱立する右端の樹林帯へ踏跡を抜けると風吹岩手前のハイキングコースに出る。」
 コメント:万物相とあるのは「六甲」の記述から墓場の誤りと思われる。
小便岩
(根性岩)
この岩は、流れの右側をボルタリング風に左足を50cm上に乗せ、両手を左の上のほうにつかみ、右足を岩の方まで挙げて登るのに根性がいることから、根性岩とも呼ばれている。

場所:地獄谷 小便滝。ここより右に登ればA懸垂岩下に出る
あまり勢いのない小便ではある。 小便滝全景
いつ来ても静かなたたずまいだ。
蛙岩
古書によれば蛇巻岩(じゃまきいわ)とも呼ばれていたそうである。
そう言われれば、岩の上部が蛇の頭、下部がとぐろを巻いているように見えてくる。
正反対の見方が面白い。
さらに古い昔の絵図をみると「狼岩」と記されているそうである。(文献C参照)
これに関して、下記のおもしろい民話を見つけた。
場所: 魚屋道
会下山遺跡付近

<参照文献>
@「新しい六甲山」 山下道雄著 山渓文庫12 1962年刊 p151
A「六甲ー摩耶ー再度山路図」 直木重一郎著 関西徒歩会 1934年刊
B芦屋の民話 三好美佐子著 1999年刊 p70〜75 芦屋市立図書館蔵書
Cあしや子ども風土記 伝説・物語 芦屋市教育委員会 1992年刊 p53 「かえる岩の伝説」の末尾参照
この角度から見た岩の姿が
蛙のしゃがんでいる
後姿にそっくりである。
蛙岩の標柱と魚屋道(ととやみち)の道標
ここから見る岩の姿は蛙とは認めがたい。
<民話>芦屋の民話 三好美佐子著 1999年刊 p70〜75 p53より要約
 昔、六甲山に驚くほど大きな蛙が住んでいた。飛ぶと地響きがし、
泣くと木の葉がふるえた。
気のいい大蛙は、何も恐れることなく毎日のんびりと暮らしていた。
 ある日のこと、大蛙は大蛇が自分の命を狙っていることを耳にした。
それからは、少しのことでも怖がり、びくびくして暮らすようになった。
その大蛇が六甲山の梅谷にやってきた。
古い昔の絵図をみると「狼岩」と記されている。
スルと地面に体をすべらし、鎌首をもたげて大蛙を飲み込もうとした。
大蛙はもう逃げられないと、死を覚悟して目をつぶった。
ところがその一瞬、大蛙は岩になった。
六甲の山の神は、日頃おとなしい大蛙を哀れに思い、そのままの姿で岩にされた。
大蛇は、岩になった大蛙に歯も立たず、くやしがってここに住むことにした。
 それからしばらくして、村人がたきぎを取りに山に来た。
蛙岩のところで一休みしたが、ついうとうとと昼寝をしてしまった。
ふと目をさますと、大蛇が蛙岩に巻きつき上からこちらをうかがっている。
村人は、命からがら逃げ帰った。
このことが村中に広まり、若い衆が蛇退治に出かけた。
梅谷に着いて大蛇を探したが、どこにもいない。ふと蛙岩を見ると、
大蛇が蛙岩に巻きついたままで岩になっていた。
 それからは、蛙岩は蛇巻岩とも言われるようになった。
山の神は、大蛙だけでなく、大蛇も分け隔てなく岩にしてしまわれた。
梅谷の蛙も蛇も仲良く岩となった身では、争うすべもなく平和な日々を送った。
七右衛門嵒(穴)
昔、荒地山の岩梯子の上の登り道に七右衛門嵒(ぐら)と呼ばれる人一人がやっと通り抜けられる岩穴が立ち塞がっていた。登山者は、その穴をくぐって荒地山の山頂に向かった。
 その岩穴が、1995年の阪神大震災でつぶされ左側に新道ができた。しかし、最近になって昔の七衛門穴が復旧されつつある。まだ穴は開通していないが、この穴を再び通ることができるのも近いかもしれない。
岩の間から漏れる日の光は神々しい。
 
場所:荒地山
復旧されつつある昔の七右衛門穴 震災後の新道(新七右衛門穴)
<七右衛門の伝説>
荒地山は、六甲の山の神である石の宝殿の権現の住処と言われており
山中で悪事を働くとこの荒地山に迷い込んで神罰を受けるのだと信じられていた。
 昔、麓の芦屋村に七右衛門という身寄りのない若者がいた。
もともと正直な働き者で村人にも愛されていたが、兄のように慕う友人に裏切られた後は、
絶望からすさんだ生活を送るようになり、村人からもしだいに疎んじられるようになった。
ある日、六甲山を越える旅人が山中で追いはぎに出会った。
村人はその話を聞き、村から姿をくらましている七右衛門だと思った。
「山中で悪事を働いたから、きっと荒地山だ」言い伝えを信じて荒地山に登った村人は、
この岩穴で頭を砕かれて絶命している七右衛門を発見した。
岩梯子
岩梯子は、七右衛門穴と並ぶ荒地山の名所で、楽しい岩の階段である。

場所:荒地山
白い表札のかかる岩梯子 岩梯子の上から見下ろしたところ
神楽岩
神楽は、神を奉るために奏する歌舞であり、神楽岩という場合、神楽の舞台となるような岩が想定される。この岩の頂部は平坦でかなり広くこのイメージに合致する。

場所:住吉川沿いの甲南斎場の車道を山に向かって歩くと、車道からハイキング道に移る場所に橋がかかっている。
岩は、この橋の少し南西の送電鉄塔の下あたりにある。道はないので、送電鉄塔を目標に薮こぎで進むこと。

参照地図:古地図「六甲北摂ハイカーの径」 
木藤靖一郎著 1937年刊
樹木がなければ、下の道から見える岩である。 左の写真の右側

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