【日蓮正宗 VS 創価学会専用】
破 折 法 論 館 《U》 全記録

法論テーマ<衆生が主()、仏が従()なのか?> 

[ 前編 ] 
平成17530日〜平成17831
 〜蓮盛抄仏は一切衆生に於て主師親の徳有り から〜

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《管理人=やまさん40@山下 (法華講員)》

*当館は、日蓮正宗信徒である一法華講員が個人として管理・運営するサイトです*
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     ・法華講側の投稿者名、法華講側投稿の引用を、 緑文字 で表記

     ・学会側の投稿者名、学会側投稿の引用を、 緑文字 で表記

     ・他の宗旨の投稿者、また、信仰不明示の投稿者は、名前と投稿の引用を、紫文字 で表記

     ・編集時に加えた管理人注記は、(燈文字)で表記

     ・資料引用は 茶文字 または  網掛け  で表記

     ・相手側の考え方や主張を推論した部分、また、引用資料の要旨や意図を提示した部分は、 灰太文字 で表記 

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創価学会は宗教と呼べるものなのか?
 投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 527()011858

こんばんわ。日蓮正宗法華講員の、やまさん40です。

 私は、[日蓮正宗の教義] と [創価学会の教義] の違いを、
平成4年発行の創価学会版勤行要典で御観念文からどの文言を削除したのか?を分析することによって明らかにすることができると考えています。
現在の創価学会は池田没後の体勢への変動期であり、教義的にも過渡期にあるようです。

 例えば、「現在の創価学会の三宝は公式には何なのでしょうか?」と、学会員に問いただしても一貫した回答を得られない現状は、
創価学会が教義上の過渡期にある一つの現象だと推測できます。


 更に、創価学会は宗旨の根本である三大秘法が不明であり、戒定慧の三学が備わらず宗教と呼ぶことができない。
宗祖日蓮大聖人様は聖密房御書に[宗教の定義]を述べられています。

曰く『宗と申すは戒定慧の三学を備へたる物なり』と。


       
「創価学会は何宗なのですか?」

          ・  ・・創価学会は何宗でもありません。

      それは創価学会が宗教とは呼べない存在だからです。

まずは法の正邪を論ずる前に、創価学会が「宗教」であるとするならば、
創価学会の三大秘法<本門の本尊と戒壇と題目>を明らかにして頂きたいと思います。

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今夜より開館いたしました。よろしくお願いします。 投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 530()223732

破邪顕正<http://hajyakensyo.hp.infoseek.co.jp/>サイト管理人・鶴太郎様より、新BBS開設にあたり、管理人のご指名を頂きました。

今夜より開館させていただきます。

 沖浦様、宜しければ樋田TV-BBSの続きを拙板でやりましょうか?     (注*樋田氏は長野・妙相寺所属の法華講員http://toyoda.tv/

    1 創価学会の教義
    
2・「聖人御難事」に曰く『余は二十七年なり』についての解釈
    
3・>仏が迹、衆生が本
    
4・>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹

 のうちから、どれか一つに絞って始めたいと思いますが、いかがでしょうか?

  また、皆様のご来館も楽しみにしております。まずは、開館に先立ちまして、投稿@記載のご案内をお読みくださいませ。

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どれから始めましょうか?  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 530()231110

>仏が迹、衆生が本   
への反証とする御文

   『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』(曾谷殿御返事)

 

>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
 への反証とする御文

『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』(就註法華経口伝)


 
「聖人御難事」に曰く『余は二十七年なり』の解釈は樋田TV-BBS<http://toyoda.tv/>にて私達の議論の途中でしたね。

3つとも沖浦様が樋田TV-BBSで私に提示したテーマです。それぞれに反証とする御聖訓を挙げさせていただきました。
   
このBBSでは、まず、どれか一つに絞って始めたいと思いますが、いかがでしょうか?

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宜しくお願いいたします 投稿者:沖浦克治  投稿日: 530()23237

それでは最初に対話の前段として前提に付いて話し合いを始めましょう。

 私は全ての宗教は人間のためにあると思っています。
この点はいかがお考えでしょうか?

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管理人様  投稿者:蘭太郎  投稿日: 530()233447

BBSの開設、おめでとうございます。邪教撲滅に力を合わせて行きましょう。

沖浦さん、此処にて待機しています。申し遅れました。法華講員、蘭太郎と申します。今後とも宜しくお願いいたします。

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蘭太郎 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 530()235631

>邪教撲滅 ですか。
 

私とは相当スタンスが違いますね。 それでは宜しくお願いいたします。

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ところで管理人さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 530()235925

>・創価学会員の方には貴会の永遠の師「世界桂冠詩人」の弟子として
 
 この様な決め付けは当方にとって迷惑でしかありません。決め付けをお止めになら無いのでしたら会話は不可能です。検討くださいませ。

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沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 531()000441

ようこそいらっしゃいました。思う存分沖浦さんの主張を述べて下さい。
私も此処にて待機しています。茶々は入れませんのでおかまいなく。

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この様なテーマは、ご身内だけでおやり下さい。  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()000814

>平成4年発行の創価学会版勤行要典で御観念文からどの文言を削除したのか?を分析することによって明らかにすることができると考えています。

 あなたがたが真言を唱えようと、念仏に走ろうと別に私はかまいません。
勤行にしても、十座でも二十座でもおやりになって結構です。ご自由におやり下さい。私とは全く別の宗教団体のすることに興味はありません。
ですから創価学会の勤行の内容のご批判はどうぞお仲間でおやり下さい。私はそのようなテーマを、他宗のあなたがたと論じる必要を感ません。


>現在の創価学会の三宝は公式には何なのでしょうか?

 これは私共内部での問題ですので、あなたがたが盛り上がる必要はありません。これも身内のみで研究してください。

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私の立場です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()001350

創価学会員です。創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。
 従いまして、全ての問題で創価学会としての公式な見解をお知りになられたい方は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。

 私は、昭和54年にすでに日蓮正宗は邪教である。との結論に至り、以来宗門との関係を絶っております。当時は創価学会内では異端児でした。現在も私は私です。当方と対話を望まれる方は、この点をくれぐれも前提としてお願いいたします。

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最初に明らかにしておきます  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()002711

日蓮正宗の御本尊。この様なものは私は一切認めておりません。また法主が認める認めないは貴宗の内部規定に過ぎませんので、
当方はそのような他宗の内部規定には当然束縛をされません。

法主の権限につきましてはそちら様でご自由にご検討くださいませ。たとえば顕師はあなたがたの法主で、私にとりましては無関係の他宗の代表にすぎません。
このあたりは、ソニーの社内規定や社長の権能が、東芝の社員になんら効力を持たないことと同様にお考え下さい。


 御本尊は蓮祖御図顕の御本尊のみにお力があります。当然の事ながら、日寛上人の御本尊。なるものも存在いたしませんし、あればそんなものは邪儀です。
寛師書写の蓮祖御図顕の御本尊。これ以外の本尊には興味がありません。ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。

 次に創価学会で新たに御本尊を書写せよ。とか、自分で書け。とか、身延の御真筆を拝め等々のご意見は、迷惑ですのでお止め下さい。
創価学会が独自の本尊を立てるべきだ。と、お考えなら創価学会本部に直接ご提案をして下さい。

決してお止めはいたしません。ご自由におやり下さいませ。

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それでは最初の設問に戻ります  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()00299

それでは最初に対話の前段として前提に付いて話し合いを始めましょう。

 私は全ての宗教は人間のためにあると思っています。
 この点はいかがお考えでしょうか?

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先程は失礼をいたしました  投稿者:やまさん40  投稿日: 531()003945

先程は樋田TV-BBSへのリンクがエラーとなってしまいまして、投稿・閲覧の皆様には失礼をいたしました。 (注*リンク修正済み)

>全ての宗教は人間のためにあると思っています。
 そうですね。四弘誓願の第一にも衆生無辺誓願度とあり、法華経方便品に

『諸仏の本誓願は 我が所行の仏道 普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す』

とある通りですね。

また宗祖日蓮大聖人曰く

『所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度肝要なり。今日蓮等の類は南無妙法蓮華経を以て衆生を度する、是より外には所詮無きなり』(御講聞書)

と。それから、日蓮正宗勤行要典・五座の御観念文に

「乃至法界平等利益 自他倶安同帰寂光」

とある通り、人間のみにとどまらず、全ての有情無常の生命のためのものですね。

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本迹  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()004741

>人間のみにとどまらず、全ての有情無常の生命のためのものですね。

 私と同意見です。

この観点から仏教を捉えれば仏は迹、衆生は本でしょう。

仏は衆生のために出現し衆生ために法を説きます。

このとき仏と説かれる法は手段であり、衆生の救済が目的となります。

 
 簡潔に表現しますと、衆生のための仏。となります。

 
AのためのBならば,Aは手段,Bは目的。となります。
 
手段が迹、目的が本。  仏が迹、衆生が本。

簡潔な理論です。これが仏法の大前提です。

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世界桂冠詩人の件  投稿者:やまさん40  投稿日: 531()00558

本題とは少々、横道にそれますが・・・・
創価学会員の皆さんは、池田SGI会長が世界桂冠詩人の称号を頂戴したことを誇りに思っておられるのでしょう?
どうして沖浦様は「迷惑だ」などとおっしゃるのでしょうか?興味本位ですいません。

(注*池田SGI会長は1995年・世界詩歌協会から世界桂冠詩人の称号を贈られた。
    公式HP 
http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/ikeda_04.html を参照

 それから

>ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。

御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?

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仏法の大前提??  投稿者:やまさん40  投稿日: 531()010823

>衆生のための仏。仏が迹、衆生が本。

では

『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』
                                                        
(曾谷殿御返事)

の御文は、どのように読むのでしょうか?

沖浦説では、田んぼが<本>で、種を植えて収穫して食べる人間が<迹>になってしまいますね。

また、「蓮盛抄」に曰く

『夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』

と。仏は主師親の三徳を具えておられますが、沖浦説では、衆生が<主>で仏が<従>】と立てられるのでしょうか?

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お答えします  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()010954

>どうして沖浦様は「迷惑だ」などとおっしゃるのでしょうか?興味本位ですいません。

 池田先生が、多くの顕彰をお受けになられている事は、私にとって大変嬉しいことです。ですから、私もたとえ一つでも二つでも世界のトップに上りたいと切望をしております。それで初めて先生の弟子でしょう。先生が顕彰を受けておられる、だから何のとりえも無くとも弟子も偉いのだ。こんな考えは邪道です。ですから

>創価学会員の方には貴会の永遠の師「世界桂冠詩人」の弟子として法の正邪を追究し。

等とはお笑い種でしょう。別にそんなに力むほどの事ですか。馬鹿げています。
 
>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?

 私は字が下手です。書写は不可能です。あなたが書道に長けておられるなら、ご自分で試せばいいでしょが、別に強制はいたしません。
 結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。

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お答えします  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()012924

御書の文はその時々で表現が事なります。当然反対の表現も多くあります。
たとえば、

『観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」』(種種御振舞御書)

『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。』(聖人御難事)

以上の二つのご文は正反対のことを述べられておられます。 
 御書のある部分だけで判断をす事は危険な行為です。全体に流れる蓮祖の法の精神を大前提にして御書を拝さねばなりません。それが依義判文といわれる拝読方法です。
 
 結論から言えば貴方の引用されたご文は蓮祖の精神から拝すれば、当然、仏は迹、衆生は本と拝すべきです。法の精神がご文によって変化する事はありません。一旦仏が迹、衆生が本。と決めれば、それは動かすべき事項ではありません。一切の法の大前提になるべき考え方です。大前提が崩れるならば、単に無秩序な教えでしかありません。

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最初のテーマが決まりましたね  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 531()014618

ではお聞きしましょう。

『仏はうへての如く、衆生は田の如くなり』・・・・・田んぼである我々衆生が<本>で、仏種を植えてくださる仏様が<迹>

『仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』・・・・・・・衆生が<主・師・親>で、仏が<従・弟師・親>

との解釈で宜しいのでしょうか?

そうであれば、その根拠とする依文を教えて下さい。
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*ここで最初のテーマを<仏が迹、衆生が本なのか?>としましょう。

他の皆さんから(双方ともに)の投稿もお待ちしておりますのでご参加くださいませ。*

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間違った御書の解釈ですね  投稿者沖浦克治  投稿日: 531()0619

三徳は、衆生を化道するために仏が備えているのです。
   衆生の化道が本、三徳具備の仏が迹。

明確な事です。貴方が我見を持って、このご文が[仏が本、衆生が迹]の依文と思い込んでいるだけですよ。
 学校の先生が、生徒を教えるために教員免許証を持っている。ように、仏は衆生を化道するために、三徳を備えているのです。お百姓さんがお米を収穫するために種を植えれば、その行為に限って言えば、お米の収穫が本(目的)です。これも簡潔な理屈です。

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質問いたします  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()06231

仏法は人間の為の教えです。
手段である仏は迹、目的である衆生は本。
何処に疑問の余地がありますか?

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馬鹿げていますよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()082120

>沖浦説では、衆生が<主>で仏が<従>と立てられるのでしょうか?

 私が言うのではありません。人間のために説かれた法でなければ人間には受け入れられない。この簡単な理屈が理解できませんか?

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依文でしたね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()08387

 本来、依文がどうこうというような問題ではありませんが、数多くの中から一つあげておきます。

      『法華経に法譬因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐一切衆生成仏の直道と定む、

   我のみならず一切衆生直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、』   (一念三千法門)

 仏は民衆の成仏の直道としての法を出世の本懐とし、民衆救済の手段として説く。蓮祖はそれがお題目である。と、明快に仰せです。

 出世の本懐自体が民衆の幸福のためにあるわけです。

当然このご文からも、仏の出世の本懐は迹(手段)、衆生の成道が本(目的)です。疑義を挟む余地はありません。

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それでは、  投稿者:蘭太郎  投稿日: 531()164013

管理人さんから待機解除の許しが出ましたので私も参加させて頂きます。

 沖浦さん、およそ文字には其所に使われる意味と言うものがあると思うのですが。恐れ入りますが、『発迹顕本』の意味を説明下さいませんか?

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あのね蘭太郎さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()174157

私が何時貴方に教学を教えると言いましたか?自分でお調べなさい!依頼心が強すぎますよ。

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人間のための宗教です、宗教のための人間ではありません  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()175253

仏法は人間のために説かれる。大原則です。これを否定するのならば、人間に布教は出来ません。蓮祖は、自ら末法の民衆を幸福にするために出現している。との意味のお言葉を、度々仰せです。
 もし、人類が日蓮正宗のために存在している。と、お考えなら、その人はこれで私との対話は打ち切ってください。時間の無駄です。

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ん?  投稿者:通りすがり  投稿日: 531()180038

>ここで最初のテーマを<仏が迹、衆生が本なのか?>としましょう。

 諸法実相抄
   されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、

  如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、

  然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、

  其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり」と判じ給へり、

  此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、

  さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ』
 

終了 かな?

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私もこのテーマは終了したと思います  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()180547

次に行きましょうか?

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異議はありますか?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()180915

すでに仏が迹、衆生が本。が、世法の上からも仏法の道理からも結論付けられたと思います。

 次のテーマはこれですが、異議ががございますか?

>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹

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なァ〜るホド  投稿者:蘭太郎  投稿日: 531()205832

通りすがりさん、沖浦さんの説にその御文は当てはまりません、尚、冒頭に『妙法蓮華軽こそ本仏』とお示しであります、彼の記述を初めからご覧下さい。


 仮の姿を払って本地の身を顕す事を発迹顕本と言うんですよね。日蓮大聖人は龍ノ口の御法難で発迹顕本されましたが、沖浦さんの主張を当てると、
日蓮大聖人は龍ノ口に於いて 久遠名字の本仏の姿を払い、衆生凡夫の本地を顕された。 
・・と なりませんか?

 文字は深い意味を含みます。言葉よりもね。

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蘭太郎さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()213233

相当幼稚な理論ですね。蓮祖が本地を明かされようと、明かされまいと、蓮祖は蓮祖です。釈迦が菩提樹の下で明星が光るのを見て悟りを開いたあとでも先でも、釈迦は釈迦です。 
 

貴方の理論は、仏と衆生の本迹とは関係を持ちません。他の話題を、他の方とおやりなさい。
 
>久遠名字の本仏の姿を払い、衆生凡夫の本地を顕す。


 私は一度もこの様なことは書き込んでおりません。発言をしていない事を私の説。などとデマ宣伝しないように。非常に迷惑です。決めつけがご趣味ならば、ご身内とおやりなさい。お気の毒なので一度だけ解説をしてあげます。

蓮祖は龍ノ口で迹をはらい、本を顕されました。(と言うことになっていますね)迹のお姿であれ、本のお姿であれ、民衆の救済を目的とされるのですから、目的である民衆の救済が本、お立場は迹です。蓮祖が迹、衆生が本。これには何の影響もありません。発迹顕本されるされないとは無関係です。

蓮祖お一人のお立場を本迹で論じるならば、発迹顕本以前が迹、以後が本ですが、これはあくまでも蓮祖ご自身のお立場に於ける本迹の立て分けです。衆生と仏の関係における本迹の立て分けとは無関係な事項です。

 貴方が学校の先生を目指し、試験に合格し教員になったとします。教員として教壇に立つ貴方は本、教育者となるべく勉強をしている姿が迹。です。しかし教育を主体とし考えれば、生徒はあなた自身のの本迹とは無関係に常に本です。なぜならば、教育とは常に誰かに何かを教える行為だからです。教える側は迹(手段)教わる側が本(目的)です。教師の資格の有無に関わらずこの関係は同じです。

 少しレベルを上げて再度書き込んでください。今の貴方には私との論議は無理だと存じます。これにてこの話題を貴方と論議する事は終了させて頂きます。 また次の話題でお相手をいたします。ご苦労様でした。

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あらゆる事に  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()214319

それぞれの本迹、勝劣があるのですよ。

  『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』(百六箇抄)

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次のテーマです  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()215413

蘭太郎 さんの引用を拝借いたします。
 蘭太郎 さんもこのテーマでご意見があればどうぞ。
 但し勝手な決め付けはいけませんよ。

>尚、冒頭に『妙法蓮華軽こそ本仏』とお示しであります

 諸法実相抄のご文ですね。
 ここで蓮祖は御本尊の相貌を述べられ御自分以外には書き顕した人はいない。と明言されておられます。そして

妙法蓮華経の法こそが本であり、相貌を説明されている御本尊が迹。

とおのべです。

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やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 531()222919

少し先に進んでしまいましましたが、前のテーマで新しいご意見がおありでしたら、どうぞお書き込みくださいませ。お待ちいたします。

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おはようございます  投稿者:蘭太郎  投稿日: 6 1()102941

学会員の沖浦さんが 衆生を本としたいのは解りますがね、単に 【仏が迹・衆生が本】とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない、創価学会も日蓮正宗も不必要となります。

そうじゃ無いでしょう、迷いの衆生を救済する為に仏様が出現され法を説き その正義を信受実践する所に衆生の成仏得道が在るのです。その正義在る処こそ 我が日蓮正宗只一つであります。言わずとも本迹の次第は明らかです。

 今日から暫く出張ですが、またの機会に宜しく。これにて 一件落着。

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蘭太郎さん いい加減にしなさい  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()17235

>学会員の沖浦さんが 衆生を本としたいのは解りますがね、

 決め付けはやめる事。最初に言っております。私ではなく蓮祖の仰せです。 蓮祖に従えないのなら念仏でも唱えなさい。
 今度この様な愚論を撒き散らすのであれば、相手にしませんのでそのつもりで。貴方の思い込みなどはどうでもよろしい。

>迷いの衆生を救済する為に仏様が出現され法を説き

 ・「迷いの衆生の救済」 が目的(本)

 ・「仏様が出現され」  が手段(迹)

簡潔な道理です。

貴方はどうして同じ事を何度も言わせるのですか。理解能力が無いのなら私にレスをつけないこと。レベルを上げて出直しなさい。
この問題はすでに終わっています。この件でのレスはご自分のお仲間とどうぞ。

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必ず  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()172840

>その正義在る処こそ 我が日蓮正宗只一つであります。

 御書を引いて証明しなさい。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()173156

いまだ開設より三日しかたたないのですが、すでにルールを守れない人がおられます。

 蘭太郎氏をご指導下さい。個人的な思い込みを押し付けられる事は迷惑でしかありません。善処をお願いいたします。 

     沖浦克治拝

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ちゃんと読もう  投稿者:通りすがり  投稿日: 6 1()173717

そこに書いてあるのになぜ目に入らないのでしょうね

>単に 仏が迹衆生が本 とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない

  然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ』

 依文は分かるでしょうから示しませんが、大聖人は曇った鏡をきれいにするにはこうやって磨けばいいよと教えてくださった。磨き方を教えてくれた存在(または磨く手段が)主か、鏡が主か、どちらなのでしょうね。
 

ちなみに続き
  さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、

地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、

万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり』

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かの愚人は  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()173819

本迹と、勝劣を同一視の孤儀を唱えております。

>単に 仏が迹衆生が本 とするなら、仏の存在意義が無くなります。仏に勝る衆生であれば仏様など要らない、
 
 私は一度も衆生が仏に優れるから本。などとは発言をしておりません。これは彼の孤儀です。この様な低劣な理屈を押付けられる事は迷惑この上ありません。厳重に抗議をいたします。

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己義でなく孤儀です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()175317

孤儀〜孤独で狐のような邪儀

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沖浦氏へ。  投稿者:terry  投稿日: 6 1()18071

貴殿はここで対論をしているのだから、樋田氏に要らぬ誹謗中傷等を投げかけるものではない。およそ自己のルールでしか試合が出来ない者が、他人をどうのこうの言うものではない。あまりの貴殿の自己中心的な考えには辟易する。今後気をつけられよ。

注*沖浦氏が樋田氏に対する個人中傷をBBShttp://toyoda.tv/に繰り返し書き込んでいたことを指摘したもの

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terry 氏 ここでのご意見はここで  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()190246

あちらでのご意見はあちらでお願いをいたします。私はあの管理人(樋田昌志)なるものを心の底から軽蔑いたしております。自らの生活のために法論を挑み,DVDにして販売をし金銭を得るような卑劣漢を軽蔑するに、何の遠慮が要りましょうか。が、ここはそのような彼の低劣極まりない人格に付いて討論をする場所ではありません。あのような卑劣漢について論じる場所は、それなりのところが適当かと存じます。
 貴方があの、大馬鹿者の低劣極まりない卑劣な軟弱金儲け一途人間。に関し、私と義論をお望みであれば、その件につきましてのみ、あちらの板にてお話をするとには異存がありません。
 この続きはあちらの掲示板でいたしましょう。

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terry  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()19066

>あまりの貴殿の自己中心的な考えには辟易する。今後気をつけられよ。

 いらざるおせっかいです。この様な決め付けはご身内でおやりなさいませ。

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terry  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()19099

早速あちらに書き込みましたのでどうぞ。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 1()210839

私の6 1()190246秒 の書き込みが、この掲示場に支障がある場合は削除くださいませ。

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沖浦様へ。  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 2()000550

樋田氏は法論DVDを生計の足しになどなさらずとも、自行化他の信心の大功徳によって、善知識の眷属にも恵まれ、物心ともに悠々自適の生活を満喫されておりますので、生活のご心配には及びません。DVDの売り上げは主に、御供養やREAL折伏(⇔VIRTUAL)の交通費などの一部に使われていると推察しております。
   

 『日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。』

と。私は約20年前に樋田氏らの折伏により入信した経緯があり、樋田氏の学会当時の生活と現在の生活の両方を、この2つの目で見て知っています。
 人には一人ひとりに様々な宿業や因縁があるものですが、私もいつか境界を開いて自由に護法の為に飛び回れる生活が出来ることを念願して精進している次第です。樋田氏個人に関する見解は、ここまでで終了いたしましょう。

*ところで、私と沖浦さんと欄太郎さん以外の投稿者の方は、まだご自身の宗旨を記入されていませんね。

投稿@の注意事項を再読して下さいませ。*

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少し整理しますね  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 2()0014沖浦説の「仏が迹、衆生が本」とは、

「三毒強盛の荒凡夫である衆生が本」「衆生が主で、仏が従」という意味ではなく、丁寧に言うと、

「衆生の化導が本、三徳具備の仏が迹」という意味でしたか?

読み違いをしておりました。失礼いたしました。

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いいえ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()004748

>衆生が主で、仏が従

紛れも無くその通りです。

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はい  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()004912

>樋田氏個人に関する見解は、ここまでで終了いたしましょう。

 それで結構です。私もあのような愚人の話をここでする必要は感じません。

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諸法実相抄の御文について  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 2()013654

通りすがりさん のあげられた、諸法実相抄の『凡夫』とは?

 御義口伝に曰く

『末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。法とは題目なり。僧とは我等行者なり。仏共云はれ、又は凡夫僧共云はるゝなり』

また顕仏未来記に曰く

『日蓮は名字の凡夫なり』

これらの御文にかかってくるのです。
 同じ御義口伝に

『三十二相八十種好を具足せず、是繕はざるなり。本有常住の仏なれば本の儘なり。』

と仰せのように、本有無作三身の大聖人様が、釈尊の色相荘厳の仏と相対されて仰せになっている『凡夫』の意ですね。

 したがって、『返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』
また、『此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』の御文は

 [本仏とは日蓮であり、迹仏は釈尊である]の意であり、[本仏は救済される側の凡夫、迹仏は衆生を利益する側の仏]との文ではございません。

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衆生が主で、仏が従ですか?  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 2()01472

>衆生が主で、仏が従。紛れも無くその通りです。

 それでは、『夫仏は一切衆生に於て主師親の徳有り』(蓮盛抄)

      『仏は閻浮第一の賢王・聖師・賢父なり』(法門申さるべき様の事)

衆生が主で仏が従ならば、この御文をどう解釈されるのでしょうか?

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主従と三徳  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()07312

主、従とはあくまで手段、目的の立て分けです。上下の関係ではありません。 さきに申しました通り、仏は三徳を備えております。
それは衆生の化導に必要だからです。教師が教員免許を所有する事と同意でしょう。

生徒がいなければ先生は不必要ですね。先生になるためには、生徒の存在が絶対条件です。衆生がいなければ仏は絶対に出現されません。
仏が存在するために、衆生は決して欠かせないのです。衆生がいないところに、どのようなな仏が出ても何のいみもありません。法を広める対象がいないからです。

 

ところが、衆生はほとけがいなくてもいくらでも出現します。衆生の存在に仏は絶対条件ではないのです。

立ち場から言えば、衆生の存在あっての仏。です。
 衆生が主、仏が従。そしてその時、民衆救済のために、仏は三徳を備えなければ資格が無いのです。ご理解できましたでしょうか?

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諸法実相抄の御文について  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()0733

蓮祖は、以上の私の書き込みを、あの部分でお述べになられているとも拝せると思います。

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自己紹介がまだでしたね。  投稿者:terry  投稿日: 6 2()171452

これは失礼を致しました。当BBSの管理補を勤めさせて頂いておりますterryです。私は日蓮正宗法華講に所属させて頂いております。
 一幅でも多くの「大魔性プリントぺらぺら勝手に模刻改竄ニセ本尊」を学会員に捨てさせる為に、日々活動をさせて頂いております。よろしくお見知りおきをお願いする次第です。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()182532

>一幅でも多くの「大魔性プリントぺらぺら勝手に模刻改竄ニセ本尊」を学会員に捨てさせる為に日々活動をさせて頂いております。

 この様な悪意にあふれる決め付けを平気でするのであれば、私はここでの対話を打ち切ります。
創価学会員が真面目にお題目を唱える御本尊様を誹謗するのでしたら、御書を引いて自説を証明すべきです。

 泥仕合は向こうの板でいくらでもお相手をいたします。少し人間としての礼節をわきまえねばなりません。

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terry  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()18292

泥仕合はあちらでやりましょう。望むところです。ここでは礼節を重んじてください。

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日蓮は今此三界の主なり  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 2()1946

開目抄に曰く

『 夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。』

と。主従・師弟・親子は元来、上下の関係であり、手段・目的の立て分けとは別の問題です。世間にも「主なくして栄えることなし。師なくして学ぶことなし。親なくして生るることなし。」と申します。
 大聖人様は御自らが一切衆生の<>であり<>であり<>であることを

  『日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。』

『日蓮は今此三界の主なり。』(産湯相承事)

とお示しあそばされております。

>衆生はほとけがいなくてもいくらでも出現します。衆生の存在に仏は絶対条件ではないのです。
 立ち場から言えば、衆生の存在あっての仏。です。衆生が主、仏が従。


 ということでしたが、これを私どもの立場から言い替えましょう。


 衆生は仏に出逢わなくても六道輪廻を繰り返しながら生死を繰り返しますが、衆生の成仏には仏様に逢い、信じ奉り、仏種を植えていただくことが絶対条件であります。衆生は仏様に逢わずして成仏を遂げることはできません。仏様あってこその衆生の成仏です。仏が主・師・親、衆生が従・弟子・仏子。

   『濁悪の衆生、此の大士に遇って仏種を殖うること、例せば水精の月に向かって水を生じ、孔雀の雷の声を聞いて懐妊するが如し。

  天台云はく「猶百川の海に潮すべきが如し。縁に牽かれて応生するも亦復是くの如し」云云』  (曾谷入道殿許御書)

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そうですよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()200529

その通りです。私も何時も同じことを言っていますよ。仏は三徳を備え衆生を救済する。その通りです。仏は衆生の救済が目的で出現します。
 

目的が本、手段が迹。何の問題もありません。

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つまり  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()200643

仏が衆生のために存在し、衆生は仏のために存在しない。簡単でしょう。

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説明をしますね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 2()232447

>衆生の成仏には仏様に逢い、信じ奉り、仏種を植えていただくことが絶対条件であります。

 そうではありませんよ。仏種は衆生に本来備わっているのです。釈迦仏法までは仏に下種をされると説かれていました。蓮祖の法は違います。一切衆生は、宇宙の始まり(久遠元初)ですでに下種を受けているのです。

>衆生は仏様に逢わずして成仏を遂げることはできません。仏様あってこその衆生の成仏です。仏が主・師・親、衆生が従・弟子・仏子。

 仏と衆生を上下関係で捉えてはいけません。両者は平等ですよ。

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宗教の堕落は  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()001834

宗教者の堕落は聖職者を置くところから始まります。
 

仏が衆生の主人であり、民衆の上位に立つ。との考えは、民衆と仏の間に立つ僧侶を特権階級に容易にしてしまう危険性があるのです。
 たとえば他の掲示板での法華講の方の書き込みに >ある御能化様のお言葉 というものがありました。御能化様、ご住職様、このような言葉使いを容認すること自体、すでに日蓮正宗の僧侶が特権階級化している事実を物語っています。
 蓮祖は明確に、仏法は民衆のためにあると仰せです。現在の宗門はこの蓮祖の精神に違背しております。仏法は民衆のためにあるのです、民衆が日蓮正宗のために存在するのではありません。仏ですら、民衆のために出現する。と、仏法は説いております。法主や能化が信徒の上位に位置する。との考えは邪道でしかありません。僧は信徒に仕えてこその僧侶です。
 

私は、創価学会にあっても幹部が特権化しないように、この点を強調していかなければならないと思っております。

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大地は厚けれども不孝の者をば載せず  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 3()014211

 『夫以れば持戒は父母・師僧・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ぜんが為なり。父母は養育の恩深し。一切衆生は互ひに相助くる恩重し。

国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。此に依って善を修すれば恩重し。主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養ふ。

設ひ爾らずと雖も一身を顧みる等の恩是重し。師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し。仏恩は言ふに及ばず。』(十法界明因果抄)

と。残念ながら沖浦様の説は「主人と所従」「師匠と弟子」「親と子」の関係に転倒した不知恩の悪義、傍若無人の説であります。撰時抄に曰く

  『大海は広けれども死骸をとゞめず。大地は厚けれども不孝の者をば載せず。』

 と。沖浦様が久遠下種を誤解して平等の偏にとらわれ、ご本尊様を「唱題の的として題目を書いたもの」としか拝せない原因が判ってきました。
 行き着く先は「未得謂得未証謂証」の慢心から「一代聖教は月を指す指なり」の魔説外道義に陥る堕地獄の道であります。

 開目抄の冒頭に

 『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。所謂、儒・外・内これなり。

儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。

五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。』

とあります。大聖人様が<人本尊開顕の書>の冒頭で、このように仰せになられている御意(みこころ)を考えたことがありますか?

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やまさん40 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()015358

決め付けはいけません。どうも貴方方法華講の癖のようですな。
 

蓮祖は間違いなく末法のご本仏です。その蓮祖自らがしばしば仰せです。仏は衆生のために出現すると。貴方は御本仏を不知恩と決め付けるのですか? おかしいではありませんか。仏法は民衆の為ではなかったのですか?それとも貴方にとって人間は日蓮正宗のために存在するのですか。
 

すでに御書を引き、世間の道理を引用し仏が迹、衆生が本を証明いたしました。現在の貴方のご主張は御書を断片的に解釈した我見にすぎません。何のために、誰のために、仏法が存在するのか?今一度お考えになるべきでしょう。

 追伸:私が一度でも三徳を否定したことがありますか?又私が一度でも蓮祖興師を批判したことがありますか?私が不知恩な書き込みをしましたか?
    私が一度でもご本尊様を軽んじましたか?貴方は少なからずおかしいですよ。

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貴方の感情論を押し付けないで下さい  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()020916

>沖浦様が久遠下種を誤解して平等の偏にとらわれ

 本当に平等がいけないと思うのでしたら、蓮祖門下を辞める以外にはないでしょう。

>ご本尊様を「唱題の的として題目を書いたもの」としか拝せない原因が判ってきました。

 そんなことは言っていませんよ。決め付けが多すぎますね。ここは決め付けの掲示板ですか?対話の掲示板ですか?はっきりしてください。

 御本尊様は祈りの目標です。蓮祖の仮のお姿ですよ。私は自分の命と思って大切にしております。貴方の勝手な理屈を私に押し付けないで下さい。
 

御本尊を御安置すると言う事は、蓮祖が其処に端座しておられる事なのです。 故に蓮祖は『魂を墨に染め流して書きてそうろう』(趣意)と仰せなのです。この程度は理解をしてからレスをお願いいたします。安っぽい貴方の感情論はご無用に願います。貴方が蓮祖の仰せを信じず、理解が出来ないなら、蓮祖の法について語るべきではありません。
 

蓮祖は全人類のために法を説かれたのです。動かしがたい事実ですよ。人類が日蓮正宗のために存在する。と、お思いなら、貴方は仏法者ではありません。 情けない限りです。蓮祖ですら自らを衆生のために法を説く。と、しばしば仰せです。少し蓮祖のご精神を学ばれるべきでしょう。

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世の中にはね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()021433

絶対なものが二つだけあるのですよ。御書と御本尊様です。これぐらいはわきまえてくださいね。

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残念ながら・・・  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 3()021535

>すでに御書を引き、世間の道理を引用し仏が迹、衆生が本を証明いたしました。

 残念ながら証明になっていません。
また沖浦様の説明は「諸従のための主人」「弟子のための師匠」「子供のための親」という世間の道理にも適っていない、身勝手な思想、下克上の基となるものです。

>仏と衆生を上下関係で捉えてはいけません。両者は平等ですよ。

 平等面のみに偏ってとらわれ、<主・師・親たる大聖人様>に対する<信者・仏弟子・仏子>という信心がないからこのような言葉が出るのです。これが既に慢心のあらわれなのです。


 『南無と申すは敬ふ心なり、随ふ心なり。』(内房女房御返事)

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皆様方に質問をいたします。  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()062911

管理人殿、宜しくお取り計らいをお願いいたします。
仏法は衆生のために説かれる。故に創価学会は会員のためにある。創価学会では、私の入会以来44年間一貫してこの様な指導が貫かれております。
 
 それでは皆様方に質問をいたします。

  法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?
日蓮正宗としての公式見解ではなくても結構です。

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やまさん40さん 貴方はまちがっていますよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()065413

>世間の道理にも適っていない、身勝手な思想、下克上の基となるものです。

 世間は下克上が基本原則です。下克上とは言い換えると、弱肉強食と、言う事です。全ての生命は、弱肉強食。の上に成り立っています。
貴方は何を食べていますか?野菜、魚、肉、お米、これらは全て私達以外の生命体です。貴方の生活自体が、弱肉強食ではありませんか。自らが生活の基盤である食を下克上(弱肉強食)に頼り、弱肉強食を否定する。間違った理論です。

 蓮祖は『有情は食によって住す』(趣意)と、全ての命は食によって生きていると仰せです。あなた自身が弱肉強食で命をながらえながら、他人の意見を下克上だからよくない。と、否定される事は大きな間違いでしょう。世の中は下克上です。弱ければ生きてはいけません。蓮祖門下は強くなる責務があるのです。弱ければ世界広布などは夢の夢です。御書は、弟子に強くなれ、強くなれ。と、いい励ます蓮祖のお姿で溢れんばかりです。
 

私ども蓮祖門下は、この御本仏のお振る舞いに人間として共感を持たねばなりません。蓮祖の卓越した人間性と、その民衆救済のため,自らのお命をも惜しまないお振る舞いに共感し、それぞれの立場で世界広布を目指す事が蓮祖門下の唯一の資格でしょう。
 世間が下克上である以上、我々もそのルールに従って生き、そのルールで布教をせねばなりません。

『智者とは世間の法より外に仏法を行ぜづ』(趣意)

下克上。蓮祖門下として、望むところです。

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時代は人間中心主義です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()0750

人を敬うとか、尊敬の念の土壌には、平等主義が不可欠です。封建的に上下関係が決まっている縦社会では、他者に対する尊敬の念や感謝の心は育ちにくいのです。蓮祖の世界一である凄さは、あの封建主義の真っ只中で、人類は平等である事を宣言された唯一のお方である事からも理解が出来ます。
 蓮祖以来700年間続いた身分社会は、太平洋戦争の敗戦とともに終了をいたしました。日本に民主主義が発生するや否や創価学会が見る見る布教を開始し、あっという間に現在世界中の190の国、地域に広がる大発展を見たのです。蓮祖の法が民主主義に最もなじむ現実の証拠です。
 『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』(新尼御前御返事)

 もし、創価学会の幹部や日蓮正宗の僧侶が自らの位を持って信徒や会員を従えようとするならば、すでにその人は蓮祖の法から違背をしております。
 創価学会では、私のように創価学会の公式見解に束縛をされず、あらゆるところにあらゆる意見を述べることが可能です。私は選挙活動はやりませんし、聖教新聞の推進も致しません。が、そのことで創価学会内部でなんら不利益を蒙ってはおりません。
 現実に創価学会では、十月十二日は大御本尊様御図顕の日。と、捉え、各地の会館で記念の会合がもたれております。然しながら私は、この日に戒壇様が御図顕なされた事に疑問を持っており、参加はいたしませんし、組織にもその旨を伝えてありますが、一度として創価学会より注意を受けた事はありません。
 かくのごとく創価学会は大変開かれている自由な組織です。貴方がた法華講では、この点如何ですか?もし貴方方のどなたかが、戒壇本尊御図顕に関して疑義があるのでお寺での会合に参加を拒否しても問題はないのですか?

 ネットで法華講の方々と接し始めてから、私は日蓮正宗はかってのマルキシズムと重複して感じるのです。法主絶対主義、能化には従え、信徒は自由に法を論じるな、ご住職様にご指導を受けよ。これらの何処に蓮祖の平等思想が脈付いていますか?私には権威主義の塊に見えます。

 再度お伺いいたします。あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間で自由に議論が出来るのでしょうか?

(注*創価学会の年間主要行事計画には平成19年度も  〜「大御本尊御図顕の日」の意義をとどめ、勤行会を開催する。(10月12日)〜 とされている。
    公式HP 
http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/event.html を参照

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本従たがへずして成仏せしめ給ふべし  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 3()205818

>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?

 私は「仏様は一切衆生救済の為に仏法をお説きになられた。仏法を信じ修行する衆生にとっては、仏様に対して<教主>であり<師匠>であり<父母>の三徳をこうむりし大恩がある。したがって、仏様によって救われた衆生が仏恩を報ずるのは当然である。」と考えています。

 仏が師匠であり、衆生が弟子であることには、沖浦様にも異論がないと思いますが、[衆生が本、仏が従である]との主張の上からは、宗祖日蓮大聖人様が曾谷殿御返事の御教示の

 『経に云はく「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」と。又云はく若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と。釈に云はく「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」云云。
 返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』

との御文を、どう解釈なされるのでしょうか?

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お知らせ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 3()210819

*法華講員の皆さんに、創価学会員・沖浦様からの質問です。*

>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。どちらだとお考えですか?

日蓮正宗としての公式見解ではなくても結構です。

との質問がありましたので、宜しければご返答をお願いします。*
(なお、沖浦氏はHNではなく実名投稿なので「様」と敬称させていただいております)

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『人間主義』  投稿者:突撃男  投稿日: 6 3()211222

破邪鉄槌

 創価学会の『人間主義』の正体は?

   創価学会で言う「人間主義」について考察する。この「人間主義」という言葉は抽象的で、その意味が判りづらいが、人間の生命や人格性・創造力など、人間性に根ざしたあらゆる価値を尊重するような意味合いを感じ、耳に触れる語感も心地よい。とはいえ、一般的な意味合いはともかく、実際に池田大作らが、いかなる意図をもって「人間主義」なる書葉を使用しているかが問題であり、それを検証しなければならない。

<創価学会至上主義>
   前回、凡夫本仏論という新たな教義の上に、池田大作の教祖としての絶対的立場を築かんとしていることを紹介したが、創価学会が『池田大作絶対主義』であることは衆目の一致するところである。たとえ自らの「規則」や「会則」で会長の権限を高らかに謳おうとも、すべてが大作の手のひらの上にあることは、社会周知の事実と言える。

 さらに、もう一つの特徴として『創価学会至上主義』とも言うべき、危険きわまる思想を持つことが挙げられる。本当に書いてあるのかどうか真偽のほどは疑わしいが、既に昭和32年7月の日記に、「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成14年7月17日付聖教新聞の社説)と書き記したという池田大作は、かつて、「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成6年9月2日付聖教新聞)と述べて会員を煽動したことがある。憎悪の念を植えつけるだけでなく、反学会・反池田を唱える者に対しては、人間としての尊厳をも認めないという、非人道的な体質をあらわにした発言と言えよう。
  もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、大作はこのような悪言を繰り返し述べて、判断力のない無智な会員を洗脳しているのである。

<「人間」とは学会員だけ?>
 実際、数を頼んで日蓮正宗の寺院や法華講員宅に押し掛けては恫喝を繰り返してきたことや、機関紙などで連日のように誹謗の限りを尽くしている現実を見れば、池田大作らの言う「人間主義」が、ただの見せかけに過ぎず、創価学会至上主義を意味することが容易に見抜けるところである。
  つまり、大作らの言う「人間主義」とは、人間という言葉を使いつつも、けっしてすべての人間を指すのではなく、あくまで創価学会員だけを人間とするのであり、自分たちの思想や意見に従わない者は人間として見なさないのである。

<組織拡大の「旗印」>
  しかし創価学会は、そうした「池田大作絶対主義」・「創価学会至上主義」体質を、なるべく世間にさとられないようにしながら、平和運動や文化連動なるものを機軸として、さらなる組織拡大を図っている。その旗印として「人間主義」という、いかにも耳に聞こえのいい言葉を多用し、危険性のない、善良なイメージを演出しているのである。


<学会の本質を糾明していこう!>
 創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御本尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて振興の政治団体と化したことを象徴するものである。

    我らは「人間主義」の美名に隠れた、創価学会と池田大作の本質を断固として糾明し、徹底した破折を加えていかなければならない。         
                   

〜大白法 平成1481日号より〜

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仏法が衆生のためにあるのか  投稿者:突撃男  投稿日: 6 3()2134

>法華講の皆様方は、仏法が衆生のためにあるのか、又は衆生が仏法のためにあるのか。

衆生のためだろう(笑)


>蓮祖の世界一である凄さは、あの封建主義の真っ只中で、人類は平等である事を宣言された唯一のお方である事からも理解が出来ます。

平等?? 御書のどこに書いてあるの?(笑)九界の衆生である我らと仏界とは平等ではない。平等とは、正法を正しく信仰して仏様から受ける功徳は平等である。即ち謗法の者と正法を御持する者とは差別はある。平等とは民主主義者や共産主義や外道の永遠のテーマだろう。(笑)

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破折(笑)  投稿者:突撃男  投稿日: 6 3()213842

>法主絶対主義、能化には従え、信徒は自由に法を論じるな、ご住職様にご指導を受けよ。


 以前、貴殿は法太郎氏に破折されなかったか。学会の言う「僧俗師弟義」の批判だろう(笑)
 「僧俗師弟義」は、宗祖日蓮大聖人以来の宗是であって、何ら今日の宗門で作り上げたものではない。まず、僧俗の関係について、日蓮大聖人は次のように御教示されている。

『よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは、指したる世間の失無くして、聊のへつらふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をぱ、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をぱ、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。』(法華初心成仏抄・平成新編御書1314頁)

つまり、僧侶は師であり、信徒は檀那であることを示されているのである。

 次に、この両者の関係はどうあるべきか、といえば、

『況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくは仏にならんことおばつかなし。末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまきず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり』(新池御書・同1461頁)

と、「師」たる僧侶を尊敬申し上げ、その教導を受けてこそ、仏道を成就できる旨を御教示されている。この御教示は、御僧侶と信徒の間に師弟関係があることを、明確に示すものではないか。そもそも、大聖人の御書中には、

 『此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給ふべし』(一谷入道女房御書・同830頁)
 『日蓮がこいしくをはせん時は学乗房によませて御ちゃうもんあるべし』(千日尼御前御返事・同1253頁)
 
『覚乗房はわき房に度々よませてきこしめせ、きこしめせ」(高橋入道殿御返事・同891頁)
 
『委しくは此の御房に均し合めて候』(上野殿御書・同902頁)
 
『返す返すははき殿読み聞かせまいらせ給へ』(南条殿御返事・954頁)
 
『又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給ひては、此の御房にあづけさせ給ひてつねに御聴聞候へ』(報恩抄送文・同1038頁)
 
『さてはえち後房・しもつけ房と申す僧を、いよどのにつけて候ぞ。しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給へ。(中略)いよ房は学生になりて候ぞ。つねに法門きかせ給ひ候へ』(富城入道殿御返事・同1429頁)
 
『此の僧によませまひらせて聴聞あるべし。此の僧を解悟の智識と愚(たの)み給ひてつねに法門御たづね候べし。聞かずんば争でか迷闇(めいあん)の雲を払はん。足なくして争でか千里の道を行かんや。返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし』(新池御書・同1461頁)
 
『又をもいわするゝ事もやと、いよ房に申しつけて候ぞ。たのもしとをぼしめせ』(富木殿御返事・同1578頁)

等々とあって、在俗の信徒に対し、大聖人の御弟子である御僧侶を師として、正しい法門の研讃(けんさん)や信行に励むよう、仰せられているのである。

されば、「僧俗師弟義」は、日蓮大聖人以来、まったく変わることのない、日蓮正宗僧俗の関係であることが明らかであろう。また、見落としてはならないのが、この師弟義を「僧侶による信徒支配を正当化するための論理」とする創価学会の意図的なスリカエである。「僧俗師弟義」は仏法を信仰する上での守るべき筋道であって、世法上の支配関係などではない。
この筋道を守るところに、僧俗・師弟共に、祈りが成就し、即身成仏の大功徳を得ることができるのである。

注*法太郎氏は札幌・日正寺所属の法華講員  HP風塵舎 http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/index2.html/

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投稿ありがとうございます  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 3()214140

突撃男さん、早速の投稿ありがとうございます。

 
ところで、当館では1stコンタクトにて皆様の宗旨を記入していただいております。投稿@の注意事項を再読して下さいませ。

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突撃男 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()214456

>大白法より

ご自分のお言葉で書き込みをすべきでしょう。これではご自分の向上には結びつきません。自らが御書を学び、世間に広く知識を求め、研鑽にいそしみ、さらにそれらを実生活に生かして実験証明をして、はじめて御書も教学も自分の血肉となるのです。組織や宗門発表の受け売りでは何にもなりませんよ。
 私は貴方と対話を行うにやぶさかではありませんが、現在の硬直した原理主義のままでは、貴方との対話は何も生まないでしょう。ご一考くださいませ。

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自分の宗旨  投稿者:突撃男  投稿日: 6 3()214929

筋金入りの法華講員であり親父は元バリバリの戸田門下生だ!

沖浦克治さんよ、そんなの勝手だろう!思ったことと同等の内容があれば十分だ!それとも何か!破折できんか!(笑)
大聖人様のお言葉も自分の言葉でないだろう!聖教も新報の破折になってないしな(笑)同胞の学会員もよく創価新報を持ってくるよ!

では、やまさんへバトンタッチです。これから、登山の準備があるので

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突撃男 さん 稚拙な理論ですよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 3()235943

既に昭和32年7月の日記に、「学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」(平成14年7月17日付聖教新聞の社説)と書き記したという池田大作は、かつて、「2001年5月3日、広宣流布の同志を裏切った者の大罪を、厳然と天下に公表したい(中略)宗門の悪侶、学会の反逆者を書き連ね、その罪科を、血涙をもって後世に残したい。永久追放の証としたい」(平成6年9月2日付聖教新聞)と述べて会員を煽動したことがある。


 当然の発言ですよ。あなたがた日蓮正宗は、創価学会に対して攻撃的な発言をしていませんか?事実この掲示板での書き込みも、貴方は礼節を重んじているとはとても思えませんよ。

もっとも、このような悪指導は日常茶飯事で、聖教新聞の各紙面にごろごろしている。したがって、わざわざ挙げる価値もないところではあるが、     

 あなたがたの機関紙は、創価学会に礼節を持った書き込みをしていますか?

<「人間」とは学会員だけ?>

 そのような思想は創価学会にはありません。日蓮正宗にはそのような思想が明確にありますね。

創価学会の言う「人間主義」は、法義的には凡夫本仏論を立てて戒壇の大御尊と血脈相伝の仏法を否定するものであり、

 戒壇様を創価学会は否定してはおりません。法主に相伝のある事は、他所の宗教団体の内部規定ですので、私は関知いたしません。この点はご自由にしてください。

布教的には破邪顕正の折伏精神を忘れて振興の政治団体と化したことを象徴するものである。 

 折伏精神も何も、あなたがたは布教すら出来ないでしょう。先ず500万世帯ほどおやりなさい。れから他団体の布教活動を云々すべきです。政治団体云々は大きなお世話です。気に入らなければご自分達で政党をお作りなさい。

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益々稚拙なご意見ですよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()001119

>以前、貴殿は法太郎氏に破折されなかったか

 彼は私の問いに答えられず、逃げてしまいましたよ。貴方が彼をよく知っているならば、回教をどう化導するかを聞いてみなさい。全く答えは返らないでしょう。是非、試してください。


僧について・
 

 蓮祖の時代の僧侶は妻帯せず、家庭も持たず、文字通り出家です。日蓮正宗に、蓮祖興師のような、妻帯もせず、粗食に甘んじ、ひたすら布教のみに励む能化や法主がいるのですか?現在の日蓮正宗に出家などいませんよ。御書に説かれているままの僧侶が何処におりますか。家庭を持ち、妻帯をし、肉食をし、諸戒を保たず、何処に出家がおりますか?
 都合のいいときだけ都合のいい御書を引くべきではありません。先ず全ての僧侶に蓮祖興師のごとく、妻帯をやめさせなさい。僧を名乗るならば当然の条件です。

>等々とあって、在俗の信徒に対し、大聖人の御弟子である御僧侶を師として、正しい法門の研讃や信行に励むよう、仰せられているのである

 残念ながらこのような僧侶は現在皆無です。無いものねだりはお止めなさい。

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決め付けで、論理的な構築が皆無ですからね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()001629

>沖浦克治さんよ  そんなの勝手だろう!

当然かってですよ。

>思ったことと同等の内容があれば十分だ!
 

それでは貴方の向上には役立ちませんね。

>それとも何か!  破折できんか!(笑)

エエート、破折も何も一方的なご意見ですから、どうぞお好きに。と、言う程度のレベルです。支離滅裂ですから、とてものこと破折には値しません。
今少し、レベルを上げてからにして下さい。決めつけと、愚論の羅列にお付き合いは致しかねます。

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管理人・やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()0019

どうも皆様方、まともな会話が無理なレベルですね。自説を主張をされるのは結構ですが、御書と世間の実態を引用し、持論を証明する努力が必要です。 少しレベル的に低すぎるのではないかと感じております。いま少し対話が成立するよう、ご努力をお願いいたします。

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()004156

突撃男氏に、このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?創価学会では末端の会員でもこの程度は常識として心得ております。例を挙げますので今後は注意を促してくださいませ。これほど基本的な仏法の知識に欠けていては会話が前に進みません。いま少し研鑽をさせて後、登場させて頂きたいと存じます。

>平等?? 御書のどこに書いてあるの?(笑)
 

一切衆生 〜全ての衆生は平等であるとの大前提に立った表現〜日蓮等の類〜全ての弟子をご自分のご境涯に等しくさせようとする。仏の慈悲の表現であり、衆生と仏が本来平等であるとの概念が無ければこの様な表現は出てまいりません。その他数多く出てまいります。

>平等とは民主主義者や共産主義や外道の永遠のテーマだろう。(笑)  
 

この(笑)などの書き込み、は持論の証明にはなんら役にはたたない余分な揶揄です。他人と会話をする際に用いるべきではありません。この程度の一般常識もわきまえない人間が、他宗の批判などをするべきでは無いでしょう。先ず礼節を身につけさせてください。蓮祖は御書に於いて、

『弘決に云く「礼楽前に駈せて真道後に啓く』

と、仰せです。この方は、蓮祖門下の資格にかけると存知ます。
 

また、書き込み内容を見るに、現代社会の基本的な権利である民主主義を否定する内容になっております。こともあろうに、民主主義と正反対である共産主義を同一視し、その全てを外道。と、蔑んだ発言をしております。これ程社会の一般知識にかける御仁の発言を野放しにする事は、如何かと存じます。

 今後の世界広布の実現には、内外相対が最も重要な課題であることは論を待ちません。この様な知識の偏ったお方では布教すらおぼつかないでしょう。当方もこの様な御仁のお相手を致す事は本意ではありません。善処をお願いいたします。

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管理人殿、二つ目の公開質問です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()005653

再度お伺いいたします。

あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間 で自由に議論が出来るのでしょうか?

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沖浦様  投稿者:虚空老人  投稿日: 6 4()021757

沖浦様(こちらの掲示板では初めてでございますね。)よろしくお願いいたします。私は昭和33年に札幌日正寺で御受戒を受け、昭和52前後のあの流れの最中に法華講に所属したものです。

 こちらは真摯な掲示板と心得ておりますのでその礼節を持ってお話しをさせていただきます。「問うて曰く」「答えて曰く」時間がゆったりと流れるような中で、真摯な対話を行うというものが(私個人としては)法論であり、対者に下種を施しつつも(おこがましいのですが)、対者から知識を得ることが大切であると私は考えております。対者は私にとっての善智識であり、私は対者にとっての善智識でありたいと願っております(これもおこがましいですね)。

 それでは、
>あなたがた法華講の皆様方には、私のように戒壇の御本尊様の真偽を含めて、皆様方の間で自由に議論が出来るのでしょうか?

 私は議論を行っておりますよ。当然、講内部の人たちによるサークル的な活動ですが、私の指導教師もこの点はご承知済みです。例の犀角独歩氏の著作も存じておりますし、 この著作の内容でご住職と意見交換もしています。
 但し、私の場合はあくまでも信ずるものは戒壇のご本尊様であり、石山教学です。この点は揺るぎ無いものです。その上で、自分の疑問を解決するために行動する。これが私のスタンスです。何しろ、齢この年になっても疑問だらけですので。信じることは大切である、但し盲追することは真実の信ではない。
自分の信を高めるために、疑問は正したい。これが私の現在のスタンスです。

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(無題)  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()022014

はじめまして。法華講員のコウと申します。横槍のようで申し訳ありませんが、ひとつ気になったことがありました。沖浦さんの説明で

>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?
>私は字が下手です。書写は不可能です。あなたが書道に長けておられるなら、ご自分で試せばいいでしょが、別に強制はいたしません。
 結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。

というのがありました。大変興味深い話だったので親戚の学会員に聞いてみたところ「完全なる邪説だ」とはっきりいわれました。沖浦さんは自称されるよう、学会では異端の存在とはいえ、学会員を堂々と名乗り、本名も明かしているので気になりました。沖浦さんのいう

>どなたが書写しても同じ

という考えは学会側のスタンスとして、正しいのでしょうか。間違っているのでしょうか。どうもその辺の統一感に欠けた感があります。もし沖浦さんが独自の邪説をかまえているのであれば、学会側は徹底破折する必要がありますね。それともやはり沖浦説は正しいと、学会でも考えられているのでしょうか?
このへんをせひ学会の方に質問してみたいのですが。

 沖浦さん、こんにちは。ご活躍ですね。こちらではずいぶんと紳士的なので驚いています。学会の異端児とは頼もしいですね。期待していますよ。異端児さん。

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(無題)  投稿者:突撃男  投稿日: 6 4()035352

>突撃男氏に、このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?
>創価学会では末端の会員でもこの程度は常識として心得ております。

じゃー学会員が非常識集団であることを証明したな!(笑)

>日蓮等の類〜全ての弟子をご自分のご境涯に等しくさせようとする。仏の慈悲の表現であり、衆生と仏が本来平等であるとの概念が無ければこの様な表現は出てまい りません。

平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事が出来る。その上で平等だよ!だから、笑ってしまった!馬鹿げた書き込みするから笑うのだよ!
   

このような馬鹿げた質問をやめさせていただけませんか?

はそっくりそのままお返しするよ!
では、問うが創価学会の三宝は?まさかこれも馬鹿げた質問かい?

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虚空老人 さん、コウさん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()0812

宜しくお願いいたします。


 私は、様付けで貴方がたをお呼びいたしませんが、ご容赦下さいませ。
又、私のこともどうぞ、さん付けでお呼び下さいませ。
双方が様付けでは、現実生活の対話とは別世界の話のような気がいたします。
それで、少しでも現実の対話に近づけるべく、常に、さん。を使用しております。ご理解いただけましたらば、幸いに存じます。

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おはようございます。  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()08247

いえいえ、こちらこそです沖浦さん。
様」だなんてとんでもない。こちらも「さん」でいかせてもらいますよ。

ところで沖浦さんの仰る、
>結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
というのは、私の知り合いの学会員によると「完全なる邪儀」だそうです。どちらのいい分が正しいのでしょうね?
 このへんに創価仏法の乱れを感じるんですが、どうでしょう。「このあたりの解釈は自由でよい」ということになっているんですか?あまりにも重要なことを学会は適当にしている気がしますが

いかがなものでしょう? 

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すでに貴殿は仏法者ではありません  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()08431

>平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事が出来る。その上で平等だよ!

 現在の世界情勢を見るに、飢餓と貧困は民衆を覆いつくさんばかりです。フィリピンのスモーキーマウンテン、ミンダナオ島のゲリラ戦による被害、イランでの民衆の被害、北朝鮮に於ける人民の不幸。枚挙に暇がありません。天災の被害も顕著です。先年のインドネシアでの大地震では、30万人を超える尊い人命が一瞬にして失われました。立正安国論で、蓮祖がお嘆きになられ警告をなされた世相が、現在は世界中に拡大し広がっているのです。
 天災は宗教の乱れから、と、蓮祖は喝破をされておられます。昨日も、2085年に彗星が地球に衝突する可能性がある。と、発表されております。世界を覆う貧困と飢餓は、国家や団体の思想、宗教の対立から発生をし、その対立ゆえに有効な対策を実施する事も困難な状態です。
 天災と、人間の思想による対立から起こる天災を凌ぐ被害。これらを解決できる唯一の方策は、蓮祖の法を世界に流布する以外にはありません。

 現在、世界の主だった思想と宗教は、お互いに我のみ正しい。と、対立と抗争を繰り返し、その延長線上に武力による抗争や戦争が発生し、民衆を途端の苦しみに落とし込んでおります。

 我のみ仏法者である。我々のみが平等の権利を持つ。
 
 これらの考えの何処に、民衆を苦しめる外道との違いがありますか?貴方の考えが宗門を代表するものであるならば、宗門に未来はないでしょう。あなたの説はすでに仏法者のものではありません。蓮祖が、『身に世間の咎なし』(趣意)と、仰せながら、なを全人類救済の為、『一切衆生の異の苦は、自らが同一苦』(趣意)と、宣言をされ、『今だ懲りず候』(趣意)と、獅子吼をなされたのか?一度深くお考えになられるべきでしょう。
 蓮祖は「一切衆生の救済」とのご表現をしばしばご使用です。貴方の「一切衆生」には、日蓮正宗関係者以外は含まれてはおりません。とんでもない邪義です! 
 
 しばしば法華講の方が同様の表現をされますね。全人類が日蓮正宗のために存在する。こんな邪義を許してはならないと思います。

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()084715

>では、問う が創価学会の三宝は?まさかこれも馬鹿げた質問かい 

最初にお断りをしております。対話に参加する以前に、相手の立場や意見をわきまえていない証拠です。大変迷惑ですので、ご注意をお願いいたします。当方も、この様な愚問に時間を割くことはわずらわしく感じます。善処くださいませ。

尚、創価学会の公式見解は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。

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虚空老人さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()085517

>但し、私の場合はあくまでも信ずるものは戒壇のご本尊様であり、石山教学です。この点は揺るぎ無いものです。

 戒壇様のお力を疑った事は一度もありません。 
   蓮祖の御真筆か否か? 後世の作か否か?
   後世の作であれば、書写は出家か在家か?
今後の研究を待ちます。

 それらに無関係に、戒壇様は紛れも無く蓮祖御図顕の大御本尊様であり、一切のお力を備えておられます。

 石山教学。完全に時代遅れです。すでに時代は世界広布に移っております。寛師の教学は、世界広布の武器としては無力です。今後は研究の対象となるべきでしょう。

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コウ さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()09052

>結論から言えば、どなたが書写しても同じと思います。
 というのは、私の知り合いの学会員によると「完全なる邪儀」だそうです。
 どちらのいい分が正しいのでしょうね?

 わかりません。私はこう思い、貴方のお知り合いは違う思いをもつ。双方の信念の問題です。

 現在、私もそのお方も、寛氏書写の御形木様で満足を致しております。ことさら新しい御形木様の書写は不必要です。この件はご質問に答え私見を披露したものです。現実にどうこう言うべき問題ではないでしょう。
 
 理論的には、蓮祖の御本尊は相貌にお力がある。書写の資格は蓮祖が明確にされてはいない。故に、相貌が間違っていなければ、どなたの書写でも問題が無い。
 以上のように考えたまでです。当然、コピーでも同様のお力があると考えますが、どの程度の精度が要求されるかは、今後の研究課題だと思います。
 
 創価学会は巨大組織です。それぞれが自由に考え、自由に信心をしております。色々な意見が会員間であって当然。と、思っています。

ライン ドット

コウさん  投稿者沖浦克治  投稿日: 6 4()091318

私見です

 創価学会は現在御本尊に関する研究を進めているでしょう。宗門と完全に離れるために、避けては通れないからです。十年以内に何らかの方向転換をすると思います。巨大組織ですから時間がかかるのですね。
 現在、すでに創価学会会則には、戒壇の大御本尊様根本。との言葉は削除をされており、御書根本。に変わっております。

 個人的には喜ばしい変更だと感じております。今後創価学会の中から日蓮正宗の影は、益々薄くなるでしょう。おそらく二十年後には、「おじいさんの若かったころ、創価学会は日蓮正宗だったんだよ。」「エッ〜ありえない〜〜!!」 こうなっているでしょう。これが現実です。

(注*宗教法人 創価学会会則は平成14年に変更されている。公式HP http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/rules01.html を参照。

 なお旧会則の「目的」には
  
この法人は、日蓮大聖人御建立の本門戒壇の大御本尊を本尊とし、日蓮正宗の教義に基づき、弘教及び儀式行事を行い、
   会員の信心の深化、確立をはかり、もってこれを基調とする世界平和の実現と人類文化の向上に貢献することを目的とし、
   これに必要な公益事業、出版事業および教育文化活動を行うものとする

 とされていた
)

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これではお話になりませんよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()092030

突撃男さん(以下と記します)と、私(以下と記します)のこの掲示板での会話です。
 数回の書き込みですでに氏には自己矛盾があります。何とかして下さいね。

:「人間」とは学会員だけ?
:そのような思想は創価学会にはありません。
   日蓮正宗にはそのような思想が明確にありますね。
:平等とはあくまでも正法を護持しているものだけが、平等に功徳を受ける事ができる。その上で平等だよ!だから、笑ってしまった!

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ご回答ありがとうございます  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()093452

>「おじいさんの若かったころ、創価学会は日蓮正宗だったんだよ。」
 「エッ〜ありえない〜〜!!」
  こうなっているでしょう。これが現実です。

 でしょうねえ。その意見には賛成ですよ(笑)しかし本尊に関する最重要問題を私見(我見)で話せるとは、ずいぶんと教義のゆるいことですね。教学もなにもあったもんじゃないですね。私は沖浦さんがバッサリと私の親戚を「謗法だ」と切ってくれるのだと楽しみにしていましたが、残念ですね。

 しかし学会が沖浦説を取るのであれば正信会、顕正会の本尊も功徳が出ることになってしまいませんかね?もちろん身延にある御真筆にもね。「形だけは」同じ本尊なんですから。あくまでも「形だけ」はね。
 しかし、となると学会が今まで散々「謗法」であると攻めていた正信会etcを否定することはできなくなりますねえ。身延、正信会、顕正会を「謗法」だと責める根拠がなくなってきますから。

 いかがでしょう?顕正会、正信会は「同じ本尊」なんだから謗法ではないわけですか?学会と同じ「功徳溢れる本尊」だということですか?

ところで沖浦さんは字が不得意とのことですが、では習字の先生に「書写」してもらった本尊も当然有効であり、「功徳が溢れる」とお考えですか?
 愚問かもしれませんが、あえて問います。

ライン ドット

たびたび失礼します。  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()102656

同じ内容を学会の方たちにも質問します。
よかったらこたえてくださいませ。

>創価学会は巨大組織です。それぞれが自由に考え、自由に信心をしております。色々な意見が会員間であって当然。と、思っています。
 

らしいので学会は各自の本尊観はバラバラでもよく、でたらめでもいいとのことでしょうか。

>(御本尊は)どなたが書写しても同じ

この沖浦さんの意見は「邪」であるのか、「正」であるのか?
学会員の率直なご意見を、ぜひ伺ってみたいですね。

ライン ドット

沖浦さん  投稿者:虚空老人  投稿日: 6 4()11430

沖浦さん。それでは私もさん付けで呼ばせていただきますので宜しくお願いいたします。

>戒壇様のお力を疑った事は一度もありません。
 

はい、沖浦さんがご本尊様を疑っていらっしゃらないことは承知しております。私の言葉が不足していたのでしょうが、これは私のスタンスを表したものであり、決して沖浦さんのことを指したわけではございません。不快の念を感じられたのでしたら深謝いたします。

>石山教学。 完全に時代遅れです。
 

これは沖浦さんと私ではスタンスが違いますので、いたしかたの無いところであろうかと思います。私は御書、相伝書が顕された時代と、現代ではあまりにも世の中が違いすぎると考えており、現代に合わせた解釈は必要であろうという認識です。

つまり、私は「時代遅れ、という認識ではなく、現代に合わせた解釈」があっても良いのではないかと考えています。但し、大聖人様の御心を逸脱してはならないことは心得ております。

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でしゃばってスミマセン  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()144818

愚問でしたか(笑)当然そうなるでしょうね。まさか決め付けとはいえますまい。

しかし学会にも習字が得意な人は大勢いるでしょう。その人たちに「本尊書写」を頼んでみてはいかがですか?まさかそれが「謗法」ということはないでしょう。これだけはっきりと断言されているのですから。いっそ学会本尊は、三色に塗りつぶしてみてもオシャレかもですね(笑)

>理論的には。蓮祖の御本尊は相貌にお力がある。書写の資格は蓮祖が明確にされてはいない。故に、相貌が間違っていなければ、どなたの書写でも問題が無い。

沖浦本尊理論によれば理論上ソレは充分可能なわけですね。早速これを持って親戚の学会員を破折してみましょうか?彼が一体何をいいだすやら。今から楽しみですよ(笑)ありがとうございました。
 さてさて沖浦説が学会でも有効であるならば、ワザワザお守り本尊など買う必要などないことになりますね。旅行や出張に行くならば学会本尊をコンビニでコピーしていけばいいだけですから。それで充分ということになりますね。
必要であれば[自分で書写した本尊]を持っても功徳が溢れるようですから。
なんでもアリですね。
 頭のイイ沖浦さんなら理解していただけると思いますが

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こんにちは  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()145152

アッ、となれば本尊下付も必要ないじゃないですかあ。だれかの学会本尊をコピーすればいいんだから。アッ、やっぱだめだ。それじゃ学会にお金が落ちないですもんねえ(笑)だめですよ沖浦さん。学会の商売の邪魔しちゃ。いくらあなたが異端とはいえ、学会の集金システムを妨害するような邪説を流しては、学会員全員がコピーですましてしまいますよ。センセイに怒られちゃいますよ。


しかしずいぶんとズサンででたらめな教義になっていますねエ。創価学会は。

まるっきりの異流儀丸出しじゃないですか。恐ろしいことですね。異流儀である正信会も顕正会も、同じ本尊ですよ(みかけだけはね)どう違うんですか?
「どなたが書写しても同じ」であるにも関わらず、学会本尊コンビニコピーがいけない理由がありましたら、根拠を述べてください。どうぞ。

ライン ドット

コウさんに  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()163927

 つまらない揶揄がご趣味でしたら、他の人とどうぞ。
 貴方が、蓮祖御図顕のご本尊創価学会揶揄の対象とし持て遊ぶ様は見苦しいと思います。
 創価学会員は、これまで何処の団体より蓮祖のご本尊様にお題目を唱え、何処の団体よりも折伏弘教励み、何処の団体よりも御書を学び、何処の団体の会員よりも自らの宿命転換に取り組んできたのです。
 その信仰の対象である御本尊様を揶揄の対称にする事は、謗法の極みであると断言をしておきます。

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お断りです コウさん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()164249

>だめですよ沖浦さん。学会の商売の邪魔しちゃ。いくらあなたが異端とはいえ、学会の集金システムを妨害するような邪説を流しては。
 学会員全員がコピーですましてしまいますよ。センセイに怒られちゃいますよ。


 このような書き込みは法門と無関係です。泥仕合がお望みなら、他所でお相手をいたします。
 今回、貴方のご質問にはお答えを致しかねます。法門の大事をご質問であれば、それなりの礼儀を尽くすべきです。

ライン ドット

虚空老人 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()165020

現在の石山教学は寛氏の教学です。
 現在にあわせた解釈は、御書に付いてのみ行うべきです。
 寛氏は時代相にあわせ蓮祖の法を解釈し、石山にはびこる要法寺系の邪義を駆逐されました。
 その時点での成果でしょう。
 現時点で、寛氏の教学体系はすでに時代にそぐいません。
 法門を見直すならば、蓮祖の御書から始めるべきです。
 寛氏の教学から始めることは過ちでしょう。
 何故ならば、私どもの信奉する法は蓮祖の法であるからです。
 寛氏の教学を焼きなおしても何の力も持たないでしょう。

ライン ドット

皆様方に  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()165137

揶揄合戦や、泥仕合をお望みならばそれなりの場所をご用意下さい。ここではお断りをいたします。

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虚空老人 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()165432

質問をいたします。

 紙幅の御本尊様と、板の御本尊様。御形木様と、常住様。
 これらの御本尊には、それぞれお力の違いがあるのでしょうか?
 それとも全く同じでしょうか?

 他のお方も回答がおありでしたらお願いをいたします。

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虚空老人の意見  投稿者:虚空老人  投稿日: 6 4()181245

>紙幅の御本尊様と、板の御本尊様。御形木様と、常住様。
これらの御本尊には、それぞれお力の違いがあるのでしょうか?
それとも全く同じでしょうか?

以下は私の個人的な考えです。

妙法蓮華経こそが大聖人の御魂であり、それを目に見えるお姿で示されたのがご本尊様と考えております。従いまして各家庭に安置奉るご本尊様、寺院に安置奉るご本尊様、紙幅で御図顕のご本尊様、板に謹刻されたご本尊様、お力は同じだと思います。これが私の回答でございます。

ライン ドット

恐れ入ります  投稿者:コウ  投稿日: 6 4()181946

揶揄ですか。それは大変失礼いたしました。それでは沖浦さんの敬愛してやまない「永遠の指導者」の言葉を引用しましょう。

 もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶(しゃびょう)の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。    (広布と人生を語る 8巻−228頁)

 いかがでしょう。この言葉は邪義ですか?「永遠の指導者」のお言葉ですよ。ツバを吐けますか?
    法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり功徳はないのである
この「池田大作発言」は邪であるか、正であるか。正か邪かで結構です。お答えくださいませ。

ライン ドット

コウさんに  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()184415

ご自分でお考えなさい

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皆様方に  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()185448

創宗が緊密な時代の双方の指導者の言は、現在意味をなしません。そのあたりの時代にノスタルジーを感じることはご自由ですが、当方はそのような感情を持ちません。その辺の話題は、ご身内にてご検討を願います。

 たとえば顕師の人間性に関しは、以下のような事実があります。『大白蓮華』(平成三年一月号)に掲載された、日顕法主の新年の辞、「C作戦」という創価学会解体の陰謀を裏では勧めながら、表面では創価学会にごまをすっている。

 
 創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
 戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
 特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。  
 また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております。

  更に平成111219日、喜寿祝賀会での挨拶

 私が、あの平成2年において、ある決断をしました。そして、その第一歩として行ったことが宗会を招集して『宗規』のなかの法華講本部の規約を改正するということでした。これがたいへん大きな意味を持っていたわけでもあり、ここが根本的なところでした」「もし、下手なことをやっていたならば、例えば裁判等になった場合、泥沼に足を突っ込んだように、にっちもさっちもいかないような状況も出てきたと思います。


 この法主は、平成二年にすでに創価学会破門をたくらみながら何食わぬ顔をし、平成三年の大白新年号に、あのような創価学会と池田先生を誉める言葉を寄稿している、卑劣極まりない男である。
 以上のように、あなたがたの法主である顕師が、自らの発言とその時期にて卑劣極まりない人間であること世間に証明し、物笑いになった事は記憶に新しい事実ですが、皆様方信徒の人間性や法の正邪とは無関係の事でしょう。

 ここであなたがたに、この顕師の卑劣な発言と卑怯未練な人間性の評価を求めるべきではない。と、考えます。ここでは双方がなじりあいの泥合戦を演じるべきではありません。以上今後はご注意をお願いいたします。

ライン ドット

虚空老人さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()185559

それでは何故御本尊に常住様、御形木様の区別があるのですか?

ライン ドット

多くの  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()190925

無意味な投稿が多すぎます。

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コウ氏  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()19113

今一度同様の内容を繰り返されれば、その時点で貴方のお相手は中止をいたします。ご注意下さいませ。

ライン ドット

勉強不足です  投稿者:虚空老人  投稿日: 6 4()191713

>それでは何故御本尊に常住様、御形木様の区別があるのですか?


正直に申し上げれば、私自身の考え、私自身の言葉でご返答するには勉強不足です。申し訳ございません。

ライン ドット

お聞きいたします。  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()193815

本来御形木様は仮に下げ渡しをする御本尊ですね。その後この人は本物と認めれば、その人を願主として常住様がお下げ渡しになるのです。この常住様は印刷ではなく法主自らが書写する法主の直筆です。
 この点は間違いが無いのでしょうか?

ライン ドット

虚空老人 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 4()210719

とんでもございません。お互いに研鑽をいたしましょう。宜しくお願いいたします。

 私見を述べます。

 本来、蓮祖御図顕の御本尊は全て事の一念三千のご当体であり、サイズや材質でお力に差があるわけは無いでしょう。
 創価学会下付の御形木様は、カレンダー御本尊。などと誹謗中傷をされておりますが、戒壇本尊と同等のお力をお備えです。
 座談会では、毎回のようにこの御本尊様の、仏力、法力、広宣流布に戦う創価学会員の信力、行力による功徳の体験が満ち溢れております。先日座談会に出席しましたところ、生来のリューマチを克服した体験と、その人を入会に導いた紹介者が、思わぬ昇給に恵まれた体験をリレーでされておられました。
 その前回の座談回では、住宅の狭い中、座談会場に提供されていたブロック長さんご夫婦が、大きな一軒家を無料でいただき、今月末で引越しを致します。大きな思い出をありがとうございました。と、笑顔でご挨拶をされておられました。
 私も、先日あるところより、長野に一軒家を購入してはどうか、費用は無条件で提供致します。との、夢のようなお話を頂きました。かくのごとく、私どもの御本尊様と、布教活動による功徳は渦のごとく創価学会員の間に湧き上がっております。『道理証文より現証』(趣意)との蓮祖のご指導そのままの創価学会の現在の姿です。

 これらを勘案しますに、御本尊とは宗門内にいたころの私どもの認識とはかなり違った存在である。と結論付けずを得ません。
 以前、宗門にいましたころは、御本尊様は法主の認可が無ければ血脈が通わず、お力は無い。と、しばしば言われておりました。然るに創宗別離より14年、法主とは無関係の団体となった私どもの、寛氏書写の御形木様。の、現実のお力を目の当たりにし、法主の認可と御本尊様のお力は無関係。と言う事実を私どもは実感をしております。これまでの御本尊様に関する、迷信のような秘密主義。を、改める時期では無いかと考えるこのごろです。

ライン ドット

沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 6 5()115016 

ずっと拝見しておりましたが、沖浦さんの見解はあくまでも一個人の見解ですよね?では、私の見解です。

「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が猶お未だ熟さないうちに御書の一文一義に執して妄断するからである。妄りに断ずるからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相丞を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである。」(日蓮正宗聖典「序」)

 つまり学会には相伝が無い訳ですね。幾ら御書を引用しようが、御本尊に関しての意見を述べようが、はっきりと『相伝に非ずんば知り難し』と仰せなのですから相伝の無い学会に正当性は全く無いと断言します。
 学会下付の御形木御本尊は、今は戒壇の大御本尊様と同等の力どころか、全く意味を成さなくなっています。功徳があるように見えたとしても、それは「魔の小功徳」であるに過ぎないと断じます。

正宗に於いて言わせて頂ければ、御本尊には総別・能所の差別はあります。沖浦さんの言われる「御本尊の功徳は皆一緒である」との意見は正宗に於いては言えますが、それでも総別・能所の差別はあって当然でしょう。一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。

 はっきり言いまして、沖浦さんの意見は「我見に任せて己義を立つる」そのままではありませんか?如何でしょうか?沖浦さん。

ライン ドット

terry氏 ルールを守ってください  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 5()122031

現在衆生が本、仏が迹、の問題提起と、それに付随する、仏法は民衆のためにあるのか、民衆が仏法のために存在するか。の点で今だ御貴殿より回答を頂いておりません。また、御形木様と常住様の件も今だ未回答になったままです。
 
 当方が設問を行い、満足な回答が無いまま次の設問をする。大変迷惑な行為です。まして御貴殿は副管理人のお立場です。この様な抜け駆けは固くお慎み下さいませ。

 先ず、仏法が民衆のために説かれるのか、または、民衆が仏法のために存在するのか?この設問にお答えになり、更に常住様と御形木様のお力の違い、紙幅と板での相違。を、明確にしてからテーマを論じるべきです。それではご回答をお願いいたします。

 他の方々にもお願いをしておきます。管理人のやまさん40氏は、仏法は民衆のために説かれる。と、明快なお答えをされましたが、他の人は無視をしそれぞれ勝手なご意見を書き込むのみです。もし貴方方がの他のテーマで私と論議をお望みならば、専用の板をご用意くださいませ。何時なりとお邪魔致し、正々堂々の論を致すに異存はありません。
 

ここでは、いまだ私の設問にお答えのない方が大部分です。速やかなる回答をお待ちいたします。

     沖浦克治拝

ライン ドット

これは大変失礼を致しました。  投稿者:terry  投稿日: 6 5()124625

沖浦さん、これは大変失礼を致しました。貴殿の言われる通りですね。改めて書き込みを致します。今回の意見は次の機会でお願い致します。それではよろしくお願い致します。お互い御書を引きながら、じっくり研鑽いたしましょう。

ライン ドット

仏法は一切衆生救済の為に説かれたものである。  投稿者:terry  投稿日: 6 5()142124

仏法は一切衆生救済の為に説かれたものである。これには同意見です。異論はありません。
 私達衆生にとっては、仏法を御説きあそばされた仏様、即ち宗祖日蓮大聖人様に対しましては三徳兼備の仏様でありますから、家来として、弟子として、子供として仕え、尊敬申し上げて行くところにこそ仏の加護をこうむり、絶対幸福の境涯を獲得出来ると思っております。

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こんにちは  投稿者:コウ  投稿日: 6 5()172427

法論館にお邪魔しちゃってすいませんでした。でもおかげで学会の本尊観がクリアに氷解したので参考になり、大変ありがたかったです。予想以上に学会の本尊に関する考えかたはでたらめなので、今後の破折の参考にできそうです。

 学会が「本尊はすべて同じ」というありがたいぐらいに脇の甘いでたらめな指導をしてくれたおかげで、逆に助かってます(笑)それをさらに強引にしたのが沖浦説なのでしょうが、彼の本尊観も、学会内部では受け入れにくいものになっているようです(まあ、当たり前かア。あまりにムチャクチャだもんなア。
本人はその矛盾すら理解できないらしいけど

 学会の教義はまったく足並みの揃っていない状態で、矛盾だらけです。今後も次々とでたらめな解釈が出てくるでしょう。正直いって期待しています!てか、楽しみです!どんどん破折がラクになっていくので(笑)

 しばらくはリアル折伏でがんばってきます。色々お邪魔しちゃってすみません。
管理人さんを含め、法華講の皆様の今後の健闘を期待しています。ありがとうございました。

 沖浦さん。ありがとね!あなたの七つの頭に、戸田先生の指導をお送りしますよ。まあ、まったくの無意味でしょうが(笑)

 ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。       
 だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」 (戸田城聖氏の講演から 大白蓮華 昭和三十四年七月号掲載) 

ライン ドット

結局コウさんも  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 5()231556

私の質問には回答できずに、一方的に自説を述べただけですね。これを遁走と申します。
 この掲示板のことは多くの方々に連絡をしてあります。大勢の創価学会員がロム中です。多くの方がメモリーに納めておられるでしょう。
 法華講の方々が討論を投げ出せば、創価学会員にどのような質問をされれば回答に窮するかを証明してしまいますよ。いま少しの間、他の人から私の設問に回答を頂くまでお待ちいたします。

ライン ドット

投稿諸氏の皆様へ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 5()2329

当板は一対一の討論場ではないので、宗旨を明かした上でテーマに関連した、さまざまな方の、さまざまな意見を投稿していただくことによって討議が活性化され、各人の御金言の理解の深化、また双方の教義上の相違点が明らかになれば破折の要点も明確になれば管理人の意図するところでもあります。
 また、テーマに関した論議の道筋からサブテーマが派生することは容認いたしましょう。暴言・口論でなければ、真剣に法の正邪を追求するあまりに討議がヒートすることもあるでしょう。

あまりにメインテーマから外れてしまった場合には、管理人が軌道修正をいたしますので、自由闊達な投稿をいたして下さいませ。

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 5()233716

>沖浦さん。ありがとね! あなたの七つの頭に、戸田先生の指導をお送りしますよ。まあ、まったくの無意味でしょうが(笑)

この書き込みは E*悪戯に見苦しい書き込みや口論の類は、おやめ下さい。の、規定に反してると思います。善処をお願いいたします。

ライン ドット

本意ではありませんが  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 5()234546

コウ氏の低劣な書き逃げに対して一言資料を引用し破折を致します。

 コウ氏は戸田先生の指導を引用され自説の根拠としております。然しながら、私はすでに創宗蜜月時代の双方の指導者の言を引用すべきではないと書き込んでおります。たとえば、

 創価学会創立六十一年の出発に当たり、私ども宗門においても、心からその功績を賛嘆いたします。
 戸田先生の逝去後、間もなく、第三代会長の任に就かれた池田先生は、鉄桶の組織と当千の人材を見事に活用され、且つ、信心根本の巧みな指導をもって国内広布の大前進を図り、十倍ともいうべき多大の増加を来したことは、耳目に新しいところであります。
 特に、池田先生の指揮において大書すべきは、戦後の世界的な移動交流のなかで、各国に広まった信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。今日、地球的規模による広布の着々たる進展がみられることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上すばらしいことと思います。
 また、戸田先生のころより始まった総本山への諸供養や末寺寄進は、池田先生によって本格的に行われ、先師日達上人の数々の賞辞が残っております」
            
                                『大白蓮華』(平成三年一月号)に掲載された、日顕法主の新年の辞

 この内容を貴方がた法華講の皆様方は、法主の言として今も尊重をされますか?かくのごとく、過去の双方の指導を引用することは意味を持ちません。今後はお気を付け下さいませ。

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沖浦様へ  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 5()234849

>世の中にはね  絶対なものが二つだけあるのですよ。 御書と御本尊様です。

 よろしいでしょう。それではあらためてお伺いしましょう。

【仏が師匠であり、衆生が弟子である】ことには、沖浦様にも異論がないと思います。
 また【仏が親であり、衆生が仏子である】ことにも異論はないと思いますが、いかがでしょうか?
 残る相違点【衆生が本、仏が従である】との主張の上からは、曽谷殿御返事に御教示の

    『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
    此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
    法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』

との御文を、どう解釈なさいますでしょうか?

この「本従」のとらえ方が、【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】

【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】との大きな教義解釈の相違点の根本であります。

これは沖浦氏の私論ではなく多くの創価学会員や幹部指導、学会の教義解説書にも則った意見ですから、沖浦様以外の創価学会諸氏、また法華講諸氏の投稿(解釈・意見)も宜しくお願いしたいと思います。

ライン ドット

ご回答をお願いいたします  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 5()2352

>学会が「本尊はすべて同じ」というありがたいぐらいに脇の甘いでたらめな指導をしてくれたおかげで、逆に助かってます(笑)

 御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?以上の私の設問にまともに答えず、いい逃げのようにこの様な書き込みをすることは、すでに敗北の証拠です。
多くの創価学会員が快哉を叫んでいるでしょう。


 それはさて置き、この設問には今だ虚空老人さんのみがお答えになられておられます。他の方々もご回答をお願いいたします。

 やまさん40さん、terry さん、その他の方々、返答をお願いいたします。

ライン ドット

沖浦様、他の皆様へ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 6()000957

>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?

 現在のテーマは<衆生が主()、仏が従()なのか?>です。
たとえ重要なテーマであっても、メインテーマと関連のないサブテーマとなりますので法華講側・学会側・双方ともこの議論は他の板で討議して下さい。

>*E悪戯に見苦しい書き込みや口論の類は・・・・・の件
 同一人物が繰り返し抵触する書き込みをした場合には、管理人権限でイエローカードを出します。また討議中のテーマから大きく脱線する場合にも軌道修正をさせていただきます。
 法華講員・学会員の双方が管理運営するBBSの多くに、荒しによる限りない脱線や、低劣な口論・不毛の論議の繰り返しによって、一時的にでも本来の法論ができなくなった状態を皆さんも見たことがあるでしょう。
 BBSはバーチャルの折伏場であり、いうなれば権(かり)のものです。私どもは実際の日々の仏道修行の合間を縫ってBBS投稿の時間を割いております。

ライン ドット

やまさん40さん   投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()00463

先ず時代背景が封建時代です。

「仏が迹、衆生が本」なかなか言えないでしょう。
   「仏が主人、衆生が家来」この様な解釈が常識の世の中です。

 蓮祖は封建時代に生きたお方です。当然ご発言には封建社会の影響が強く出ておられます。現在は民主主義、主権在民の世です。現代社会から御書を拝読せねばなりません。蓮祖はしばしば、仏法は衆生のために説かれる。と、明言をされておられます。この精神が蓮祖の法を貫く以上、御書の文句もこの立場で拝すべきでしょう。

たとえば、蓮祖が自らが上行菩薩である。と明確に宣言しておられる御書は何処にありますか?自分は上行菩薩ではない。との表現は多くあります。

   『而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、』(新尼御前御返事)

それでは蓮祖は上行菩薩ではないのでしょうか?そんな事はないでしょう。
当時、地涌の菩薩は釈迦でさえかすむほどの威儀を備える。と、思われていました。その上首の上行菩薩はどれほど立派な姿か。と、当時の人は思っていたのです。もし蓮祖が我上行菩薩也。と、宣言をされれば、多くの民衆の気持ちは離れてしまったと思われます。

現代の社会と知識の上から御書を拝するべきです。蓮祖が仏法は民衆のためにある。と、度々仰せであり、法の精神がそうである以上、仏は迹、衆生は本。

この認識が正しいのですよ。

ライン ドット

こんばんは  投稿者:コウ  投稿日: 6 6()010455

沖浦さん、投げ出したわけではないのでご心配なく。リアル折伏に移行させていただくだけですよ。勉強させていただきました。揶揄した表現ととられたのならそれは謝罪しましょう。

 ただあなたの場合、矛盾を指摘すると「きめつけ」「揶揄」だの騒ぎすぎですよ。耳障りのいい言葉しか聴きたくないからそうなるんでしょうが。{矛盾}という言葉の意味をよくお考えになったほうがいいですよ。

>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?

体裁が整っていればなんでも本尊だとありがたがるのは違うだろってことだけですよ。それがアリなら学会本尊だけをワザワザ拝む必然性もないでしょ?
まあとにかくあなたの意見は大変参考になったので、どんどん活用させていただきますよ。書き逃げする気はないっす。また質問が出てくると思うのでその時は丁重に沖浦節を聞かせてもらいにきますよ。

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やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()010921

>御本尊の種類によりお力にどのような相違あるか?
>現在のテーマは衆生が主()、仏が従()なのか?です。たとえ重要なテーマであっても、メインテーマと関連のないサブテーマとなりますので法華講側・学会側、双方ともこの議論は他の板で討議して下さい。

と、貴方は言われていますが、最初に貴方が私に以下の質問されたのです。それから

>ご本尊様は書写したお方がどなたであれ同じお力をお持ちです。

>御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものであるから、あなたや私が書写したとしても同じ力があると言うことなのでしょうか?

都合が悪くなると自らの質問を置き去りにされるのすでか?おかしな話ですね。私は貴方の質問に答えました、貴方が今度は私の御本尊様に関する質問に答える事は当然でしょう。

又、仏と衆生の本迹に関してはすでに世法、仏法の両面からお話をしており

ます。くどくどと同じ事を何時まで繰り返さねばならないのでしょうね。蓮祖が自らの法が民衆に為にある。と、仰せである以上、他の解釈はありえません。これ以上の説明は無駄と存じます。先ず御本尊の種類によるお力の差について、あるなきかをお答え下さい。

ライン ドット

コウさん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()01137

貴方とのこれ以上の対話は致しません。

>色々お邪魔しちゃってすみません。管理人さんを含め、法華講の皆様の今後の健闘を期待しています。ありがとうございました。

貴方がこの様に書き込んで去っていったのです。どなたか他の人とおやり下さい。私はお相手を致しかねます。

ライン ドット

(無題)  投稿者:コウ  投稿日: 6 6()013118

管理人さん以下他のかたに迷惑をおかけしてしまったのであれば謹んで謝罪させていただきます。表現法はまずかったかもですね。なにしろ「七つの頭」ですからねエ。私の不徳のいたすところであります。反省も込めてリアル折伏に走りたいと思っていますので、まあ、おおめに見ていただけると助かります。

 ただやっぱり個人的な感想としては学会のいってることって、つじつまあってないなアと思います。組織なんだし、矛盾が多少あっても別にいいけど、矛盾をムリに解消しようとして結果どんどん大きな矛盾になってきて、泥沼状態。どうしていいのかわからなくなってんだろなア。とは感じました。矛盾連鎖ってことですかね。
 リアル折伏で、そのあたりの「矛盾の正体」を、もっとしっかり見極めてこようと今は思ってます。ではでは、ごきげんよう

(注*「七つの頭」は当館管理人が当館開設以前に[新・創価学会からの脱会を考える会http://groups.msn.com/t6dfjvoddibb0g38d1gj9eipf7 への投稿の中で、宗門に誹謗をなす宿坊・浜春なる投稿者に対して「若悩乱者頭破七分」から「七つの顔を持つ男ならぬ、七つの頭を持つ男」と呼んだもので、コウさんに悪意はない。)

ライン ドット

沖浦様。  投稿者:terry  投稿日: 6 6()01475

御本尊様には「総別、能所の差別」がありますね。これは先程の書き込みを御覧下さい。
 一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。分身散体ならば、必ず本体があります。
義とは道という意味であります。国道は日本橋を基点として日本中に広がり、県道、市道、私道へと枝葉を伸ばしています。 木は、根から水分や養分をを吸い上げ、幹、枝、葉へと水分・養分を供給していきます。
 

題目についての御指南で、『松野殿御返事』には

 『聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。

其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。

但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。』

とあります。これが総じての立場です。

しかし、『諸法実相抄』には

 『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。

日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。』

と、別して大聖人様が「唱導の師」であることを示されています。
 

総別の二義のうち、別してのお立場(随自意)からの御指南を故意に無視して、平等(随他意)の一面のみを取るのは、如何なものかと思いますが、沖浦氏は如何お考えでしょうか?
 

また、私はまだ「衆生が主、仏が迹なのか?」のテーマには回答致しておりません。然し乍ら、沖浦氏の言われる解釈は、全く持ってこの随自意を無視し、随他意の一面のみを取っているとは言えませんでしょうか?こちらも併せて御回答頂きたいと思います。

ライン ドット

コウさんへ。  投稿者:terry  投稿日: 6 6()014910

御活躍いつも拝見していますよ。なかなか御挨拶も出来ずにすいません。
いつでもお越し下さい。お待ちしておりますね。

http://groups.msn.com/t6dfjvoddibb0g38d1gj9eipf7

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terry さん  投稿者:コウ  投稿日: 6 6()025157

ご親切にどうもです。御活躍だなんてとんでもないです。私はスチャラカ法華講員なので、みなさんにいつも勉強させていただいています。
 矛盾だらけの話ばかり聞かされていると、こっちの頭までやられそうになるかと思いますが、もってかれないよう、くれぐれも御注意を。
 私も唱題根本で、リアル折伏をやらせていただこうと思っています。
今後とも、よろしくです。

ライン ドット

terryさん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()082724

>御本尊様には「 総別、能所の差別」がありますね。これは先程の書き込みを御覧下さい。一機一縁の御本尊様と三大秘法の本門戒壇に安置し建て奉る御本尊様では別しての差別があるのは当然でしょう。

御書に、戒壇様と一機一縁の御本尊様とがお力が違う。と、お述べである箇所を提示してください。

  『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』
                                                               
(経王殿御返事)

 ここで蓮祖は佐渡より経王殿に御本尊を授与され、この御本尊は蓮祖の魂である。と明言されておられます。当然この御本尊様は一機一縁の御本尊です。 然しながらこの時点で、蓮祖はすでに発迹顕本をなされておられます。 蓮祖が御本仏のお立場で御図顕なされた御本尊に、対告衆の違いによってお力に変化があるとは思えません。しかもこのご文の前段で蓮祖は、 
   『夫について経王御前の事二六時中に日月天に祈り申し候、先日のまほり暫時も身をはなさずたもち給へ、

  其の本尊は正法像法二時には習へる人だにもなしましてかき顕し奉る事たえたり、師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも

  又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、』

と、自らの渾身のお力でしたためた。と明言をされているのです。相手により、御本仏の渾身のお力が変化するとは思えません。戒壇様はさて置きましょう。常住様と御形木様のお力の差、板と紙幅のお力の差について、御書を引用し明示をして下さい。

>分身散体ならば、必ず本体があります。義とは道という意味であります。国道は日本橋を基点として日本中に広がり、県道、市 道、私道へと枝葉を伸ばしています。 木は、根から水分や養分をを吸い上げ、幹、枝、葉へと水分・養分を供給していきます。

 先ず、本体は蓮祖そのものです。御本尊様は全て分身です。創価学会はすでに法主の認可の御本尊を用いてはおりません。あなたがたの理論では、戒壇様との血脈が無いのです。ところが、創宗分離よりすでに14年、先日書き込みましたように、私どもの間では功徳が渦のごとく湧き出しております。
 この現証は、私どもの蓮祖の御本尊がお力をお持ちである証拠です。戒壇様が本体、他の御本尊様が分身であり、本体につながらなければお力が無い。との、あなたがたの理論はこの14年間の創価学会員による実験証明ですでに否定をされました。
 蓮祖は『百日、一年、三年,七年の坂を越えず』(趣意)と仰せです。14年はすでのこの二倍の年月です。もし戒壇様が本体であり、法主の支配下にあるのならば、この創価学会員の功徳の現証は起こりえません。これらの事実は、創価学会員の御形木様が蓮祖直結の分身であること。を、如実に示しております。
 以上が私の所感です。 

    * 戒壇様と他の常住様のお力の違い。
   * 板と紙幅の御本尊様のお力の違い。
   * 常住様と御形木様のお力の違い。

   
以上三点につき、御書を引用しご説明くださいませ。

 貴殿引用の総別の二義は、次の機会に論議を致したいと思います。

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始めまして。  投稿者:卞氏  投稿日: 6 6()103119

初めまして学会の卞氏です。
 ***

下記の点について、申し上げます。

a【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】
b【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】

bは大聖人の仰せのことと矛盾がなくわかりやすのですが、aのばあい、【帰命の対境】という表現が引っかかります。「帰命の対象」では明らかにbとは反対の意味になりますが、「帰命する為の対境」と言う意味であれば、bにも通ずる表現になりえてしまう微妙な表現なのです。
 しかし、その場合、「大聖人=御本尊」ということを十分に説明しなくてはならないでしょう。それが前提だというのは、不足です。
 

下記を確認して、どちらが大聖人の真意を伝えているのか読んでいただきたいと思います。
 ***
 

大聖人は末法の時と衆生の機根についての判定をして、

  『戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る』『慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮となす』(四信五品抄)

と仰せで、三学に則して言えば、題目が主。本尊、戒壇が従の関係にあることを明かされています。
 法華講さんの勉強するための資料の中から、下記のものを見つけました。
 ***

 ・・・ともかく仏教を修行して得道しようと思うものは、この戒定慧の三学、経律論の三蔵を全部修めなければならない意味が、在世や正法・像法時代には大前提として存在しているわけですがこれは大変な事なんですね。だから何回も生まれ変わって(歴劫修行)修行する必要もあるのです。
 ところが、大聖人様は末法の時と衆生の機根という判定から『四信五品抄』(平成新編御書1112)に
  『戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る』
とご教示です。つまり戒律や禅定の修行は末法には必要ない、差し置いて、慧の一分・一行によって成仏するのだと。そして更に続けて、
  『慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮となす』
とご指南されています。

 
***

 

結論として、題目をあげる側に主を置くべきであるとなります。そうでなければ、歴劫修行に陥ってしまうというふうに、法華講では教えているわけです。

(注*引用資料は、蒼蠅さん(法華講員)による私稿“「戒法門」拝考1”から。http://www.geocities.jp/the_woman_jp/back_keiziban11.htm にログあり。)

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沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 6 6()11484

能開・所開は明らかに義に於いて大聖人の仏法に在します。先に述べました

が、まず「根源」とは「本門戒壇の大御本尊」です。さておく事は出来ません。大御本尊が「能開」であることは、
   『仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。

   先々に申すがごとし。余は二十七年なり。』

聖人御難事で、明確に仰せです。

『根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり』(文底秘沈抄・聖典855)

『当流の心は事を事に顕わす』(同抄)

と仰せの如く、戒壇の大御本尊に全てが備わっています。

戒壇の大御本尊が根本。末寺の御本尊、または家庭の御形木御本尊を拝する事がそのまま本門戒壇の大御本尊を拝する義理が成り立つから功徳が生ずるのです。
 

御歴代御法主上人は、「戒壇の大御本尊」を「御書写」された訳ですから、ここに「仏法と申すは道理なり」であるが故に、明らかなる「能所の立て分け」があり、「戒壇の大御本尊」が「能開」の御本尊であり、御歴代後法主上人御書写の御本尊は「所開」の御本尊であると言えます。
 宗祖大聖人様を上行菩薩の後身、または再誕として認める各派門流は多いですが、その上行の後身の大聖人様が末法に出現して必然的に顕わされるべき深義として、宗祖大聖人様こそ所顕の大曼荼羅本尊の当対であり、久遠の本仏であると信ずるものは日蓮正宗のみであります。これこそ本門仏法の真髄に外ならないでしょう。
 沖浦さんの御質問である所の「御本尊様によりお力が違うのか?」は、以上の点を含めて、総じては同じですが、別しては違う、総別の二義・能所の差別がある故にと言えると思います。

次に、学会会員が現在所持する所の御本尊の功徳云々でありますが、血脈の切れた現在に於いて、学会所持の御本尊には功徳等はないと断言します。

先に書きましたが、どんな邪宗教でも「魔の小功徳」はあります。その時は良く見えても後に堕獄行きは必定。ましてや現在の御相貌を勝手に改竄し、何の許可も無く印刷をしたプリント本尊等には絶対に功徳は生じないのは理の赴く所です。

     『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相丞の稟丞唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ。秘すべし伝ふべし』  (本因妙抄)

 
御法主上人以外の何人も御本尊の御相貌について云々出来る立場ではないでしょう。

結論としては、全ての御本尊は本門の大御本尊の御内証の御書写であります。本尊と言う限りは『法体の御内証』が無くてはならないのです。過去は学会もそういう御本尊を押し頂いていたはずでしょう。しかし現在は勝手に印刷して配布している。そこには『法体の伝持・血脈』は存在しませんね。これでは「成仏」は叶わない事になりますが如何でしょうか?

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やまさん40管理人様  投稿者:大勝利  投稿日: 6 6()184217

諸兄の皆様はじめまして。大勝利と申します。学会員です。

 やまさん40管理人様の御質問と最初のテーマについての所感を述べます。

<衆生が主()、仏が従()なのか?>
【御本尊様を御本仏日蓮大聖人様の御当体として帰命の対境とするのか?】
【題目が元で御本尊は唱題の的としてお題目を書いたものなのか?】 

御提示のテーマに対して、曽谷殿御返事での「本従」を引用して「本地垂迹」との混同した、誤解を招くテーマ作りはいかがなものかと拝見いたしました。
本迹と本従は同義でございましょうか?若し結論的に同義であるとの主張と致しましても、現段階に於いてのテーマの掲示としましては早計と映じます。

 個人的見解ですが、「本従たがへずして」の本とは、一往、教主釈尊であると読みます。

***

   『本従此土仏初発道心。亦従此仏住不退地。乃至猶如百川応須潮海縁牽応生亦復如是。

問て曰く 法華経は誰人の為に之を説くや。

答て曰く 方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り。上より下に向ひて次第に之を読めば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫也。

 安楽行品より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば、滅後の衆生を以て本と為す。』  (法華取要抄)

***

さて此の真跡を、どう解釈なさいますでしょうか?

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terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()230614

引用の文証に根拠がありません。本因妙抄の引用部分は、後世の加筆である事が定説です。このあたりは卞氏さんがお詳しいのでお聞きください。卞氏さん、お願いをいたします。

文底秘沈抄は蓮祖の作ではありません。法主の説等は、あなたがたの内部規定にすぎません。私達、他宗には無力です。


聖人御難事の引用部分は、蓮祖がすでに出世の御本懐を遂げたと仰せです。戒壇本尊の御図顕はこの文より12日後です。時系列からして、戒壇本尊を指さないのは明白です。以上引用の文証に根拠が全くありません。

紙幅の御本尊と板の御本尊のお力の差。についてお答えがありません。御形木様と、常住様のお力の差もまだです。貴方は戒壇本尊が能開、その他は所開と述べただけです。お答えをお待ちします。この部分は御書を引用しお願いいたします。法主等の言は宗門の内部規定です。引用はお控え下さい。
 
 

次ですね。

法主が認めなければ御本尊にお力が出ない。〜

 
以上をご真筆から引用してください。引用不可能ならば邪義です。

創価学会員安置の御形木様にお力がある事は、体験で証明されています。否定するならば証拠の提出が必要ですよ。貴方は、一時的な小功徳と言われました。何処まで小功徳かを御書に基づき証明してください。ご自分のご発言ですから責任を持ってご証明を願います。

 

次にプリント本尊云々の件です。

御本尊のサイズ、材質でお力に差がある。とのご文を蓮祖の御書から引用してください。この件を証明する為には、
  *御本尊は貴方のところの法主の支配下にある。
  *材質等でお力に差がある。

以上の二点を蓮祖の御真筆を引用の上証明してください。出来なければ邪義と認定されます。創価学会員が多くロムし、宗門破折の一助にせんとしています。

 慎重に言葉を選び、御書を引用し証明をする必要があります。それでは材質と、御形木様、常住様のお力の差を明確にして下さい。非常に単純な質問です、くれぐれもすり替えはお止めくださいませ。

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法華講の皆様方に  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 6()231838

近年、法華講の方々より、創価学会下付の御形木様がぺらぺらの御本尊でありお力がない。との、誹謗が散見されます。ところがこの件で、御書の引用は皆無です。
 御本尊を批判なさる事はご自由ですが、御本尊が本物の蓮祖の御図顕である場合は、大きな謗法になります。
 まして、創価学会は宗門と離縁以来この御形木様を下付し、会員は蓮祖御図顕の御本尊様として我が命のごとく大切にご安置しお守りをいたしております。
 

すでに功徳の現証は会内に溢れ、この御本尊様のお力を証明して余りあります。お説のごとく、法主の認可も無く材質に難があるならば、すでに離縁より14年、功徳の出るはずが無い事は、御書に基づいて明白です。
 蓮祖の御図顕の御本尊様を誹謗中傷することは、皆様方の人生のためにもお止めになられるべきでしょう。

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沖浦克治  投稿者:突撃男  投稿日: 6 7()004335

>近年、法華講の方々より、創価学会下付の御形木様がぺらぺらの御本尊でありお力がない。との、誹謗が散見されます。

 

誹謗ではないよ!偽本尊破折だよ!(笑)謗法だろう!(笑)

日寛上人の本尊をカラーコピーしたもんだろう!(笑)魔札だろう(笑)

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()004559

ここは理路整然とした、議論を交わす場所です。 突撃男@斉藤氏の感情的な書き込みは削除して下さい。
  
H*現状、双方に様々な掲示板が運営されておりますが、皆様もご承知のように マニアックに過ぎると思われる書き込みを見て、参加を躊躇されている方が双方ともに 少なからずおられます。初信者からでも参加ができるような掲示板にして参りたいと思いますので、 ネット法論の門戸を広く開くためのご理解のほど宜しくお願い申し上げます。

 このまま放置すれば板が荒れます。他の法華講の方の板のように罵りあいはやめるべきです。この板は創価学会員と法華講員が真面目に討論できる板に育つ可能性があります。このまま荒れていくことはもったいないでしょう。
 

突撃男@斉藤氏も、罵り合いからは何も生まれない事を知るべきです。自制して下さいませ。もし非難合戦がお望みなら、私は何処にでも出かけていきますから、板を指定してください。折角管理人どのの御行為でようやくこのような板が立ちました。大事にすべきでしょう。
 

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突撃男@斉藤氏  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()005646

>魔札だろう(笑)

日蓮大聖人様御図顕の御本尊様を、この様に誹謗する事はお止めなさい。貴方の書き込みは、このの他の法華講の方々とは違い、知性のひらめきが感じ取れません。感情論は迷惑です。他所でおやり下さい。

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沖浦克治 氏へ  投稿者:突撃男  投稿日: 6 7()005756

>まして、創価学会は宗門と離縁以来この御形木様を下付し、会員は蓮祖御図顕の御本尊様として我が命のごとく大切にご安置しお守りをいたしております。すでに功徳の現証は会内に溢れ、この御本尊様のお力を証明して余りあります。

ふぁーはははははっはははははははーーー

功徳だねーー人殺して、数々の事件を起こして、幹部はつきから次へへと非業の死を遂げて!法華講の皆さん!沖浦克治氏 へ座布団100枚!(笑)
「悩乱する者は頭(こうべ)破れて七分となる」 とありますように、大切な御本尊を手放して御不敬され、替わって悪鬼魔神のニセ本尊を祀(まつ)っているような人は、頭破七分・堕地獄(だじごく)は疑いない

>日蓮大聖人様御図顕の御本尊様を、この様に誹謗する事はお止めなさい。
学会の偽本尊が大聖人御図顕だと!どういう根拠ですか?

日寛上人の書写でしょうが!元は!それをカラーコピーしたら魔札だろう!血脈を否定し猊下様の許可なく作った者は魔札だよ!(笑)

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突撃男@斉藤氏  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()011922

それでは、御本尊様が貴方ののところの法主の支配下にある事を、蓮祖の文を引用し証明してください。貴方が証明をされるならば、私は創価学会を退会し、貴方の所属する法華講に入講致します。

御書は、現在ご真筆の現存するもののみを引用してください。法主の書は日蓮正宗の内部規定です。他宗には無力ですので引用は謹んで下さい。

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突撃男@斉藤氏    投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()012844

>ふぁーはははははっはははははははーーー
 功徳だねーー人殺して、数々の事件を起こして、幹部はつきから次へへと非業の死を遂げて!

 先日、妙本寺住職の長谷部師が末期癌のためお亡くなりになられました。私は各掲示板にて、追悼の意を表しました。人として当然だと思います。
 河辺師のときもそういたしました。私も貴方も仏法者であり蓮祖門下を名乗る身です。


   『一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。』(諌暁八幡抄)

 蓮祖の仰せです。門下を名乗る身であれば、他人の不幸を悲しみ、幸福を素直に喜べる境涯になるべきです。宗門であれ、創価学会員であれ、天理教であれ、同じ人間ですよ。一切衆生の恩が仏法では最も重い恩です。そろそろ境涯を開かれるべきでしょう。

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管理人様へ  投稿者:虚空老人  投稿日: 6 7()10383

管理人様、真摯な掲示板を立ち上げられましたことに対して敬意を感じております。
 この掲示板は他の掲示板とは異なり礼節を持った掲示板である旨を強調する為に、掲示板の先頭にその旨を利用規則として明示されては如何でしょうか。
管理人様の理想と異なる方向にこの掲示板が向かうのではないかと危惧を感じております。

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沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 6 7()165331

少々強引なやり取りだとは言えませんかね?沖浦さん。
引用の文証に根拠が無いとは、「出世の本懐」が「本門の大御本尊様」では無いと言う事ですね?前に他の板でも少しお話をさせて貰いましたが、これも当然納得いきません。ここは今回のテーマから少し離れてしまうので、今回のテーマの次ではどうでしょうか?

 そして、御歴代上人様の文献の引用は不可。理由として学会は他宗だから引用されるのはおかしいと。そうなりますと、現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊はどう説明を付けられますか?
 私は「日蓮正宗」の信徒であります故に御歴代の御法主様の文献を引用するのは当たり前の道理ではないでしょうか?御歴代上人様の引用が不可というのは少々納得致しかねますが、如何でしょうか?ここでのルールにはそのような「規定」は無いと思いますが、御自分のルールを強要されるのはお止め下さい。
 私は沖浦さんが過去の学会発言、また学会発行の文献を引用されても結構だと思っております。その方が正邪もはっきりいたしますし、皆さんにも解りやすいのではと思います。

 さて、沖浦さんの言われる「紙幅の御本尊と板の御本尊の違い」の問いなんですが、ここの意図が少々解りかねます。私の質問、投稿事項の中に「紙幅の御本尊と板の御本尊」に対しての事項がありましたら、お手数ですが再度引用願えますか?再度私の引用を述べます。
 まず、御本尊様の功徳に差があるか?との問いには、総じては同じですが、別しては違うと思います。何故なら、「能所の差別、総別の二義」が義に於いて存するからです。ここは先に述べました。義とは道と言う意味であります。国道は日本橋を基点とし日本中に広がり、県道、市道、私道へと枝葉を伸ばします。また木は根から水分や養分を吸い上げ、幹、枝、葉へと水分、養分を供給しています。結果的に、全ての御本尊は戒壇の大御本尊様の御内証の御書写であります。

  『血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相丞の稟丞唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ。秘すべし伝ふべし』(本因妙抄)

に明確に仰せですね。私達の分際で御本尊の御書写の事をあれこれとは言えません。『松野殿御返事』に曰く、
   

  『聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。

 其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。

 但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。』 

『諸法実相抄』に曰く、
     
   
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。

 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。』

つまり、解りやすく言いますと、常在様も御形木様も本門の大御本尊様の分身散体であると思います。総じては功徳は同じですが、別しては違うと思います。理の赴く所。総別の二義のうち、別してのお立場(随自意)からの御指南を故意に無視して、平等(随他意)の一面のみを取るのは、如何なものでしょう?と以前お伺い致しました。

 御法主上人様がお認めでなければ御本尊にお力が出ない。これは至極当然でしょう。御書以前の問題ではないでしょうか?では身延の御真筆にはお力はあるのでしょうか?あるでもないでも御説明できますか?
 宗祖大聖人曰く、

    『法華を心得たる人、木絵を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し』(平成新編御書638頁)

第三十一世日因上人曰く、

    木絵の二像は本草木にてあり。しかるを生身の妙覚の仏と開眼したもうことは、大事至極の秘曲なり。

   日蓮聖人乃至日因に至るまで三十一代、累も乱れず相伝これなり」


 これ以上の明確な文証はないでしょう。ですから学会の配布する御本尊と言われる物は、相貌は日蓮正宗の御本尊に似て、中身は鬼神の入った魔性物と申しているのです。何をどういっても偽物は偽物。ですから私は、『大魔性勝手に模刻勝手に相貌改竄プリントぺらぺらニセ本尊』と申しているのですよ。多分沖浦さんは、この「ぺらぺら」の解釈を「紙と木では云々」の問いに置き換えて御質問されたのではないでしょうか?ちなみに「ぺらぺら」の語源は、学会が配布し出した当時の「ニセ本尊」はそれこそ上からしたまでカレンダー用紙みたいなぺらぺらな紙に一発プリントした様な物でしたので、こう述べています。異論がありますか?

 学会の御本尊にお力がある事。これは上記に述べた通り、また先に述べた通りの「魔の功徳」でしょうね。邪宗の功徳です。どこからどこまででは無く、『全て』と言い換えましょう。証拠の提示は上記で致しました。では、沖浦さんの論理で行きますと、「学会の御本尊には功徳がある」と言う事ですね。身延は御真筆がありますが、その御本尊と学会の御本尊は功徳に差がありますか?具体的に御提示下さいますか?また、学会の御本尊に功徳があるとすれば、その根拠があるはずです。これを御書で御証明下さい。

 沖浦さんの問いにあります、「御本尊は日蓮正宗の御法主上人の支配下にある」とはどこから出て来た質問でしょう?理解に苦しみます。私達が「御貸し下げ頂いている所の」御本尊様のお話でしょうか?私の発言の中で、「御本尊様は御法主上人様の支配下にある」と言われる箇所を御明示くださいませ。これは沖浦さんが勝手に思っている事ではありませんか?如何でしょう?
 

「材質等でお力に差がある」これもさきの「ぺらぺら」に端を発した質問でしょう。材質云々ではなく、「ぺらぺら」に対しての沖浦さんの反証でしょう?上記で見解は述べました。

 さて、沖浦さん。少しテーマからそれて来ています。話を本題に戻して行きませんか?それと、書き込み内でも触れましたが、貴方がルールを決めてはいけません。私は実名を名乗る貴方に最大限の敬意を持ってお話をしているつもりです。お互いにルールの中で論じ合い研鑽して行きましょう。

ライン ドット

再々度お伺いいたします  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 7()201449

まだご回答いただけていないので再々度お伺いいたします。

・・・・・・・・・・

 【仏が師匠であり、衆生が弟子である】ことには、沖浦様にも異論がないと思います。

また【仏が 親 であり、衆生が仏子である】ことにも異論はないと思いますが、いかがでしょうか?
 

残る相違点、<衆生が本、仏が従である>との主張の上からは、曽谷殿御返事の御教示の
 
   
『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従 の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。

此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。

法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』

 との御文を、どう解釈なさいますでしょうか?

・・・・・・・・・・

沖浦様が自義に適った解釈にお詰まりのようでしたら、代わりに大勝利さんから一往・再往の両義でご説明いただいても結構です。
テーマに沿った討論を進めるためにも宜しくお願いします。

ライン ドット

虚空老人さんへ。投稿者の皆様へ。  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 6 7()202113

虚空老人さんへ
 改善提案をいただきまして有難うございます。冒頭に当板の方針を掲載させていただきました。

投稿者の皆様へ 
 ・投稿<1>に基本ルールを掲げてありますので、ご覧になって下さいませ。
*現在、創価学会による印刷および配布の曼荼羅についての討論は、現在の討論テーマではありません。
 <テーマ不問の法論BBS>として外野席の用意を検討しておりますので、しばらくお待ち下さいませ。*   

      管理人・やまさん40

ライン ドット

terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()215915

>そして、御歴代上人様の文献の引用は不可。理由として学会は他宗だから引用されるのはおかしいと。

 当然ですよ、法主はあなたがたの法主です。私は法主の言葉などに影響を受けません。同じく、私どもの三代にわたる会長の指導を、私はここで引用は致しません。私どもの会長で、あなたがたの会長ではないからです。もしこの板が、創価学会員の研鑽のみの板であれば、参加者は当然創価学会員です。そのときは当然ながら、牧口先生、戸田先生、池田先生のご指導を引用いたします。
 ここは、創価学会員、法華講員、双方が論議をする場所です。蓮祖のお言葉と、社会の常識等を持って持説を述べるべきであり、法主の言や、歴代会長の指導は引用すべきではありません。
 
>そうなりますと、現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊はどう説明を付けられますか?

 許可は蓮祖から頂いております。何故ならば、私どもの御形木様は首題に、南無妙法蓮華経 日蓮。としたためられております。南無妙法蓮華経 日顕。 ではありません。顕師の本尊ではなく、蓮祖の御本尊様です。蓮祖は一切衆生の為にこの御本尊を顕す。と仰せです。一切衆生の中に、当然私どもも含まれております。 
 
   『一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、』(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)


 この、末代幼稚。の中に、私どもも含まれておりますので、今更蓮祖以外のどなたかの許可などは必要ありません。

>さて、沖浦さんの言われる「紙幅の御本尊と板の御本尊の違い」の問いなんですが、ここの意図が少々解りかねます。私の質問、投稿事項の中に「紙幅の御本尊と板の御本尊」に対しての事項がありましたら、お手数ですが再度引用願えますか?再度私の引用を述べます。

 貴方は、すでに私共創価学会員御安置の御形木様を、
>何の許可も無く印刷をしたプリント本尊等には絶対に功徳は生じないのは理の赴く所です。

以上のように誹謗されました。この言葉は、御形木様の材質とサイズ、書写方法に決まりがある事を前提とした発言です。プリントが何故いけないか? 印刷がいいのか?電子コピーはどうなるか?素材は何であれば許されるのか? 御書を引用しお答え下さい。

>結果的に、全ての御本尊は戒壇の大御本尊様の御内証の御書写であります。

 違いますよ。仏滅後に10年の差があります。
 
>御法主上人様がお認めでなければ御本尊にお力が出ない。これは至極当然でしょう。御書以前の問題ではないでしょうか?では身延の御真筆にはお力はあるのでしょ うか?あるでもないでも御説明できますか?

 南無妙法蓮華経 日顕。ならその通りです。身延でも何処でも、蓮祖御図顕の御本尊様であればお力は同じです。こんな事は当然だと思います。

>第三十一世日因上人曰く、云々
 
 法華講の会合でどうぞ。

>では、沖浦さんの論理で行きますと、「学会の御本尊には功徳がある」と言う事ですね。身延は御真筆がありますが、その御本尊と学会の御本尊は功徳に差がありま すか?

 差があるはずがないでしょう。身延では御真筆に問題があるのではなく、信じる側に、信力、行力がないだけです。

>また、学会の御本尊に功徳があるとすれば、その根拠が あるはずです。これを御書で御証明下さい。

 すでに(経王殿御返事)を引用し、蓮祖の御本尊様のお力について述べております。

>沖浦さんの問いにあります、>御本尊は日蓮正宗の御法主上人の支配下にある  とはどこから出て来た質問でしょう?理解に苦しみます。

 おかしなことを言われますね。法主が認めなければ蓮祖の御図顕の御本尊と言えども無力と、言っているのはあなた方ですよ。法主が御本尊様のお力の有無を決定しているのでしょう。これを世間では、「支配をする」と、言うのです。

>書き込み内でも触れましたが、貴方がルールを決めてはいけません。私は実名を名乗る 貴方に最大限の敬意を持ってお話をしているつもりです。お互いにルールの 中で論じ合い研鑽して行きましょう。

 私も皆様方に敬意を持って書き込んでおります。

ルールに、つきましては、私は歴代会長の指導を引き合いに出さない。私と対論する人は、歴代法主の文言を出さない。これでお願いをいたします。
 このルールがお嫌でしたら私にレスをつけないで下さい。双方の内部指導者の言を引用することは手前味噌でしかありません。御書と一般常識の範囲で自説を証明不可能であるならば、世間を説得できるはずがありません。

ライン ドット

やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 7()221055

 本迹で論ずれば、仏は迹(手段)衆生は本(目的)です。勝劣で論ずれば、仏は勝、衆生は劣。
 

 本が優れているとの意味ではありません。仏と衆生、どちらの為に法が説かれるか?を、肝心としているのです。生徒より先生は優れているから教育が可能です。

生徒より劣れば教師にはなれませんね。先生が勝、生徒が劣。これが当たりまえです。然しながら、教育は生徒の為に行う行為です。

その行為から論ずれば、生徒が本、先生が迹。こう言う関係になります。

  要約すれば、仏は衆生より優れているが、衆生の為に法を説く。この様になります。優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。

以上ですよ。 

ライン ドット

宗門の本尊観  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 8()000813

 宗門の御本尊様に関する説は非常に複雑です。
そもそも順縁広布の時代に常
住様では無理でしょう。1000万人が入信すれば、一千万帯の直筆での書写が必要です。 一日に30帯書写をしても、913年かかってしまいます。これでは布教は不可能ですね。そこで御形木様が必要です。印刷が出来るので布教には最適です。

 
 ところが日蓮正宗は、この御本尊様に関する規定があいまいです。御形木様は常住様と同お力が違うのか?お力に差が無ければ、何故二種類の御本尊があるのか?御安置の方法は双方相違はありません。後、未来本尊とか、導師曼荼羅とか、御書に無い本尊が何種類もあります。

 極めつけは、法主が認めなければたとえ蓮祖の直筆でも駄目。邪義の極みです。法主が蓮祖を凌いでどうしますか?
 法主は管理人の立場です。言明した法主もいましたね。御本尊様を複雑にしてはいけませんね。

ライン ドット

本従の義  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 8()004219

沖浦様のお答えは「主徳」についてではなく「師徳」についての説明であると思います。私がお聞きしたいのは

 『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。

此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。

法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』


 この御文を通釈して「主師親三徳に存する本従の義」をどうとらえるのかを説明して欲しいのですが?

 仏は衆生より勝れている()がゆえに、衆生()を不憫に思い、利益するために仏の種を植えてくださる。
 衆生は植えられた仏種により内在する仏性が薫発され、仏の恩を知り、仏恩に報いる。
 主師親三徳に対する報恩の心(教主信徒・師匠弟子・親仏子・それぞれに主従がある)が生ずるがゆえに、三悪趣から離れることができる(開目抄の冒頭)のではありませんか?

 また  >優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。
というこの言葉に沖浦様の「仏と衆生」観が現れているような気がいたします。

ライン ドット

やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 8()07179

これは釈迦仏法のお立場での表現でしょう。又、対告衆の曾谷入道は迹門不読等の己義をしばしば構えた人です。 蓮祖は釈迦仏法の立場をもって、諄々と諭されておられるのでしょう。この時代は蓮祖が本音を言い難い時代です。 同じ御書には、貴方の引用されたご文の前段に、
 

   『然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、

 日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、』

 と、お述べです。貴方のようにご文を現代の立場から読まず、文上だけを拝すれば、蓮祖は上行菩薩では無い。と、いう事になります。
すでに何度か述べておりますね。蓮祖が『邪宗の僧侶の頸を刎ねよ』(趣意)と仰せならば、あなたがたは他宗の指導者の頸を刎ねますか?蓮祖の御書を拝するに、教条主義ではいけないことは明白でしょう。何度も言っておりますが、御書に現実を当てはめる行為は間違いです。
現実の立場より御書を拝し、生活に正しく反映する。肝要ですね。困難な作業です。

 
 仏は衆生の為に出現し、法は衆生の救済を目的として説かれる。大原則です。

法は手段、衆生の救済が大目的。

蓮祖は
   『第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事

 御義口伝に云く大願とは法華弘通なり愍衆生故とは日本国の一切衆生なり生於悪世の人とは日蓮等の類いなり

 広とは南閻浮提なり此経とは題目なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者なり。』 (御義口伝巻上)

と、法の弘通により民衆を救済することが最も大きな目的。と、明言をされておられます。蓮祖ですら民衆救済の為に御出現です。蓮祖の御行動は、一生を通してこの一点から外れてはおられません。私はこれが仏法の真髄と思っています。御書を拝するとき、この精神を忘れれば読み方を誤るでしょう。

>仏は衆生より勝れている()がゆえに、衆生()を不憫に思い、利益するために仏の種を植えてくださる。

 不憫に思う、植えてくださる、よくない表現ですね。仏とはそのための存在です。私は仏を敬うべきだと思います。しかし盲従はいけません。貴方のような表現は、必ず体制に利用をされるでしょう。いいですか、蓮祖の法では三宝の恩よりも、一切衆生の恩、が第一の恩ですよ。

   『四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、

 又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、』 (四恩抄)

これに比して三宝の恩は第四番目にあげておられます。
 

   『四には三宝の恩、釈迦如来無量劫の間菩薩の行を立て給いし時一切の福徳を集めて六十四分と成して功徳を身に得給へり、』(同) 

 これらの御書を総体して読み、現実の立場から拝すべく努力をされるべきでしょう。

>優れた仏を益々優れさすために、衆生が存在するのではない。
 この言葉に沖浦様の「仏と衆生」観が現れているような気がいたします。

 そう感じることはご自由でしょう。
が、法華講では、衆生は仏を益々優れさせるための存在と教えるのですか?もしそうであれば、すでに蓮祖の仏法ではありません。
 

 主師親の三徳を仏が備え、衆生がその仏の法に従って成仏をなす。当然の事です。一度として否定をしてはおりません。この事実からも、仏が迹、衆生が本である事が容易に連想できるのです。
 仏が、出世の本懐である衆生の救済を実行するためには、自身が三徳を備えることが絶対条件なのです。そのために大変な思いをし、命をかけて悟りを開くのでしょう。自己満足の為に悟りを開いた仏。など、聞いたこともありません。故に蓮祖は

『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』(注*開目抄)

と、自己完成の為にのみ修行をすることを、固く戒めておられると思います。
蓮祖ですら民衆救済を大願とし、自らの命を削るご修行をなされたのです。 仏が民衆の為に存在する事は明白です。

 貴方の書き込みを拝見いたしますと、失礼ながら現実の立場から御書を拝する努力のあとが見受けられません。法華講の方々の癖のように感じます。これでは布教が出来ないはずです。創価学会の教学には太刀打ちが出来ないでしょう。
 

ライン ドット

沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 6 8()165252

現在のテーマに則してのお話、管理人と筋を立ててお話をされておりますが、私個人的には沖浦さんの言われる事の御自身のスタンス、また「御本尊」に関しての事項が全くと言って良い位に納得出来かねますし、間違っていると断言致します。ここの板は「テーマに則した討論」なので、新しく板を御用意致します。<外野席>となっておりますが、ここで発生した色々な事項に付いて対論致したく思います。

よって、新しい板が出来るまでの間は、少々本来のテーマからは逸れますが、このまま貴殿の書き込みに対し反論して行きたく思います。

1)まず、沖浦さんのスタンスは本当に学会員のスタンスと解釈してよろしいのでしょうか?今までの発言等を拝見しておりますと、少々学会のスタンスと言うよりは  「我見・己義」の解釈が強い様に思われます。
  貴殿がこの板を他の学会員にお勧めし、皆さんが閲覧しているのでしょう?まして記録も残して頂いている様なので、はっきりと御答え頂きたい物です。また、内  容によって学会員のスタンスを取ったり、個人だけの意見を述べるのは一貫性が無く、個人個人で意見が分かれる事になります。これは全く持って主張に一貫性を  欠く物であり、やはり創価学会の矛盾性、間違った宗教観と言わざるを得ないと思います。貴殿の引用、主張は「創価学会の公式見解」に則っているのでしょうか  ?もしそうでなければ、沖浦さんは何故に創価学会員なのでしょうか?

2)当方の「現在学会が許可無く改竄、印刷配布する所の御本尊なるものはどう説明つけるか?に対して、貴殿は >許可は蓮祖よりいただいております。
  
こうありますが、これは御証明不能でしょう。私の御書には見当たりませんが、どこに載っておりますか?

 蓮祖の許可を得たと言われるなら、客観的証拠を御提示下さい。

3)>首題に南妙法蓮華経 日蓮と認められております。云々〜
 
では、その御本尊はどなたの書写でしょうか?書写された方は度外視してもよろしいのでしょうか?

4)>末代幼稚 の中に私どもが含まれている事が、どうして今更蓮祖以外のどなたかの許可等も必要ないと言えるのか、ここも客観的証拠、文証を明示して下さい。

5)>この言葉は、御形木様の材質とサイズ、書写方法に決まりがある事を前提とした発言です。
  >プリントが何故いけないか?印刷がいいのか?電子コピーはどうなるのか?素材は何であれば許されるのか?
  
ここは、全く持って論外です。ただの難癖でしょうが。いいですか?沖浦さん。私は先に述べましたし、過去からの諸先輩方の破折、また破門前の学会でも散々こ  のような擬難は破してきたはずです。

  結論から言えば、私達信徒の分際で御本尊書写に関しては、口を出してはいけないのです。ここは文証を引いてお答え致しました。が、貴殿は引用不可だと言わ  れる。まして法華講内でやりなさいと。こんな逃げ口上はないでしょうが。それでは自身に取って都合の悪い証拠は引用を制限し、あくまで我見で判断するのです  か?そ の場合、物の正邪はどうやって判断するのでしょう。まさに貴殿の論法は我見で物を言っているに過ぎないのです。

6)>違いますよ。仏滅後に10年の差があります。
  
それでは、これも客観的証拠を明示下さい。


7)>南妙法蓮華経 日蓮。ならその通りです。身延でも何処でも、蓮祖御図顕の御本尊様であればお力は同じです。こんな事は当然だと思います。
  ここは、およそ学会員とは思えない御発言ですね。では、沖浦さんは邪宗でも成仏が可能と仰るのですね?蓮祖御図顕ならお力は同じと。過去破門前の学会ではお  よそそんな邪義は構えてはいませんでしたが、破門されてからそのような解釈になったと理解してよろしいのですね?

8)>学会と身延の御本尊には功徳、お力に差がある筈が無い。身延では御真筆に問題がある訳でなく、信力・行力がないだけ。
  これもおかしな事を言われますね。沖浦さん。では、その信力・行力はどの位なら功徳が出たり出なかったりするのでしょうか?池田さんは出る?秋谷さんも出る  ?はたまた地方幹部はどうでしょう?信心してどれ位なら功徳が出るのでしょうか?身延ではどれ位でしょうか?明快に客観的証拠を明示下さい。

9)>すでに経王殿御返事を引用し、蓮祖の御本尊様のお力について述べております。
  
貴殿が引用した文証は相伝のある正宗信徒が引く文証です。もはや相伝の無い貴殿等が引かれても何ら意味を持たないのは当然の事。

     由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば、機根が猶お未だ熟さないうちに御書の一文一義に執して妄断するからである。妄りに断ずるからである。   即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相丞を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。
  聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することが出来るからである。
                                                            (日蓮正宗聖典「序」)

  つまり学会には相伝が無い訳ですね。幾ら御書を引用しようが、御本尊に関しての意見を述べようが、はっきりと『相伝に非ずんば知り難し』と仰せなのですから 相伝の無い学会に正当性は全く無いと断言します。
                                                
(注*聖典序分は、総本山64世 日昇上人様の御執筆)

10>御法主が認めなければ、蓮祖御図顕の御本尊と言えども無力。と言っているのはあなた方ですよ。

 全くその通りですよ。沖浦さん。何回も他で引用しましたが、当たり前ではないですか。
  当方引用の文証を否定されるのなら、文証を引いて反論して下さい。自論ではなく。

  何回も言わせて頂きますと、『相伝に非ずんば知り難し』ですよ。沖浦さん。学会員が幾ら文献を引いた所で、相伝が無いので意味をなさないのです。
  異論がありますか?

ライン ドット

terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 8()211430

>貴殿の引用、主張は「創価学会の公式見解」に則っているのでしょうか?

もしそうでな ければ、沖浦さんは何故に創価学会員なのでしょうか?

 最初にお断りをしておりますよ。再度掲示をします。

創価学会員です。創価学会の公式見解には、全く束縛をされません。私は私、創価学会の見解は見解。以上の立場です。

 従いまして、全ての問題で創価学会としての公式な見解をお知りになられたい方は、創価学会の広報等にお問い合わせ下さい。

>許可は蓮祖よりいただいております。
>こうありますが、これは御証明不能でしょう。私の御書には見当たりませんが、どこに載っておりますか?
 
 すでに掲示いたしました。

>では、その御本尊はどなたの書写でしょうか?書写された方は度外視してもよろしいのでしょうか?

 寛氏です。私は寛氏の書写に文句はありませんよ。

                       (注*「寛氏」は「寛師」のミスタイプであろうか?あえて沖浦氏が「氏」としているのか?は不明)

>末代幼稚 の中に私どもが含まれている事が、どうして今更蓮祖以外のどなたかの許可等も必要ないと言えるのか、ここも客観的証拠、文証を明示して下さい。
 
 すでに示しました。蓮祖が末代幼稚の頸にかける。と仰せになられたのです。末法の一切衆生の為に。と、拝せます。
 蓮祖の一切衆生の中には私も、貴方も、天理教員も、全て含まれます。全人類という意味です。


>ここは、全く持って論外です。ただの難癖でしょうが。
 難癖は貴方です。創価学会の下付の御形木様が、安物のプリントであるが故お力が無い。と、言い出したのは貴方です。

>ここは文証を引いてお答え致しました

 文証にはなりません。私にとっては他宗の代表であった人です。真言宗の何代目かの座主がどう言ったこう言った。と、全く同じです。
 貴方がたの内部規定を私に押し付けないで下さい。内部の問題は内部でおやり下さい。

 最初にはっきりとお断りをしております。再掲示いたしますのでよくお読みくださいませ。
 また法主が認める認めないは貴宗の内部規定に過ぎませんので、当方はそのような他宗の内部規定には当然束縛をされません。
 
 
法主の権限につきましてはそちら様でご自由にご検討くださいませ。たとえば顕師はあなたがたの法主で、私にとりましては無関係の他宗の代表にすぎません。
 このあたりは、ソニーの社内規定や社長の権能が、東芝の社員になんら効力を持たないことと同様にお考え下さい。

ライン ドット

terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 8()213015

>およそ学会員とは思えない御発言ですね。では、沖浦さんは邪宗でも成仏が可能と仰るのですね?

 邪宗では成仏は不可能です。創価学会以外は全て駄目です。

>これもおかしな事を言われますね。沖浦さん。では、その信力・行力はどの位なら功徳 が出たり出なかったりするのでしょうか?

 創価学会に入会し蓮祖の御本尊様にお題目を唱えれば、大なり小なり功徳はあるでしょう。当然個人個人で信心の厚薄がありますので、線引きは不可能でしょうね。

>身延ではどれ位でしょうか?明快に客観的証拠を明示下さい。

 身延では無理ですよ。明快な客観的な最低限の条件は、創価学会員である事。ですね。

>貴殿が引用した文証は相伝のある正宗信徒が引く文証です。

もはや相伝の無い貴殿等が 引かれても何ら意味を持たないのは当然の事。

 相伝は創価学会にのみあります。貴方方にはありません。

>由来法門上の異説異見は 云々
 内部のお話は内部でおやり下さい。

>御法主が認めなければ、蓮祖御図顕の御本尊と言えども無力。と言っているのはあなた方ですよ。
 
全くその通りですよ。沖浦さん。何回も他で引用しましたが、当たり前ではないですか。
 当方引用の文証を否定されるのなら、文証を引いて反論して下さい。自論ではなく。


 ですから、貴方が貴方方の法主がご本尊様を支配している。と、お考えになる事は全くのご自由です。しかし私はそんな余事に頓着いたしません。私は拙宅に御安置 の蓮祖の御本尊様に満足を致しております。余計な干渉はご無用に願います。

貴方方はしばしば、御本尊様のことは信徒が云々すべきではない。と、言われます。これもご自由でしょう。私はそんな考えを持ちません。これも私の自由です。
 お互いに内部規定を押し付ける必要などはありません。

ライン ドット

やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日: 6 8()233119

>沖浦様が自義に適った解釈にお詰まりのようでしたら、代わりに大勝利さんから一往・再往の両義でご説明いただいても結構です。

 小生は、沖浦様、又、創価学会の代弁者では御座いませんので、御理解願います。
小生は、貴殿に<本>と<従>を対に立て、差を別けるのはいかがなものか?と申し上げたいので御座います。

 
 
貴殿の掲載した

『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。
   此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。
   法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』

から、本従と師を配当すれば、明確に、本従衆生であり、師教主釈尊、であることは『釈尊は一切衆生の本従の師にて』とそこに書いてあるその儘でしょう。
 
 
<主従>という表現は主君家来の関係を連想させるので小生はあまり馴染まないと感想を持っています。而も主従という語句は真筆遺文中には見られず、祖師大聖人も好んで使用したとは思えないのです。
 然し敢えて貴殿が此の御書から<主>と<従>を別するのであれば、やはり主釈尊、従衆生でしょう。発迹顕本、本仏論から、どう拝するかは言うまでもありません。


 沖浦様の提案に則り敢えて引用致しませんが小生は、本従り迹を垂れる、竹の節に上下の差別はありますが、総じて同じ竹と見るのです。大石寺に住する達師と出張講演する達師とではどちらが<主>で<従>でありましょうか?
 <主従>に囚われていると、<本迹>を見失う事になるのではと、申し上げておきます。

ライン ドット

沖浦様・大勝利さんへ  投稿者:やまさん40  投稿日: 6 9()0543

「仏」と一言にいっても、そこには「已成の仏」と「当成の仏」の差別が厳然としてあります。

    ・「已成の仏」・・・自解仏乗。能開。仏種を所持される植え手。

    ・「当成の仏」・・・已成の仏の教化され仏種を受け修行して己心中の仏性を開花させ仏果を成ずる衆生。所開。

 大聖人様は開目抄に

『日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』

と仰せです。
大聖人様と私達の間に<主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然であり、なんら時代背景に影響されるものではありません。

唱法華題目抄に曰く

『謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり』

富木入道殿御返事に曰く

『人の心は禽獣に同じく、主師親を知らず。何に況んや仏法の邪正、師の善悪は思ひもよらざるをや』と。

学会員も「御書は絶対」と言う、その通りではありませんか?

 それから、私は今夕から土曜の夕方まで、夏期講習会で総本山へ登山するために留守にします。
この<本従>のとらえ方こそ、日蓮正宗と創価学会の違いを端的に表すものでありますから下山後に更に継続していきましょう。
その間、投稿者(双方)のみなさまにて、議論を進めていただければ幸いに存じます。

ライン ドット

原理主義はいけませんね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 9()0619

>大聖人様は開目抄に『日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』と仰せです。大聖人様と私達の間に<主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然であり、

 開目抄のご文を否定した事はありません。然しながら現代社会ではすでに、主と従。の概念が、蓮祖の時代とは全く異なっております。封建主義で身分社会における主従との概念を、民主主義の主権在民の現在に無理やり当てあめることは間違いです。原理主義からはなにも生まれませんよ。
 

三徳の中の主の徳というものは、現在日本では法治国家である社会そのものが備えている、国民の人権を守る社会の性格のことを示すのです。蓮祖の時代の主従関係は、従者は主人の命令があれば命をも差し出す関係でした。

現代の主従関係は主に雇用関係です。雇用主と従業員の法の下での平等は憲法で保証をされています。貴方は社長が信心をやめろ。といえば、やめますか? やめないでしょう。それで命をとられますか?とられないでしょう。自由な世の中です。
 主従の関係が蓮祖の時代とは180度違うのです。現代社会で、蓮祖の時代の価値観を振りかざすことを私は致しません。無論、貴方が他がこれを大上段に振りかざす事はご自由です。

ライン ドット

学会員も「御書は絶対」と言う、その通りではありませんか?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 9()063059

絶対である御書を現代社会の立場から読み、あやまたず解釈をする事は至難の業です。蓮祖とご同様のご境涯のお方にのみ可能です。蓮祖滅後、この様にして御書の文々句々を社会に正しくお開きになられたお方は戸田先生お一人です。だから創価学会は広まったのです。日蓮正宗にはこの読み方が出来ません。故に現代に至るも布教が出来ないのです。
 
 
現実に、ここでの法華講の方の書き込みを見るに、自分の言葉や独自のものの捉え方は皆無に等しいと感じますし、論に詰まれば決め付け、それでも駄目なら感情的になって書き逃げに走っています。原理主義に陥っている証拠ですね。

ライン ドット

日蓮正宗の歴代法主の言  投稿者:沖浦克治  投稿日:6 9()064610

日蓮正宗の信徒には有効でしょう。他宗には全く無力です。 
創価学会、日蓮正宗、正信会、顕正会。蓮祖本仏論を用い、蓮祖御図顕の御本尊様を御安置する宗教団体は、主にこの4つでしょう。
 
 
正信会、顕正会は知らず。創価学会は、現在歴代法主の言葉を重要視してはおりません。寛氏の書を学ぶ事もなくなりました。

創価学会と日蓮正宗の共通点は、蓮祖ご本仏、御書を用いている、蓮祖の御図顕の御本尊をご安置する。以上の三つです。
双方論議の際は、この範囲と社会の一般常識にて自らの意見を述べねばなりません。共通語はこの三つだけですよ。
 

法主の言葉は、双方の共通語からはすでに外れているのです。私と対話するお方は法主の言葉を引用しないで下さい。
他宗の代表者であっただけの人の言を、蓮祖の金言とごちゃ混ぜにして引用される事は、蓮祖門下として非常に不愉快です。 

 

更に個人的に私は、仏法は蓮祖以来何者も介さず〜戸田先生。と、信じる身です。私にとって、法主の言などは全く意味をなしません。
引用は固くお断りをしますので、くれぐれもお願いを致します。

ライン ドット

やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日: 6 9()100552

> <主・師・親><従・弟・子>の尊敬の関係があるのは当然

 尊敬とは、関係性に依るのですか?違うでしょう。
尊敬する側と尊敬を受ける側が上下関係により既定していると御考えですか?

 貴殿の引用の「曾谷殿御返事」の前段

    『但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり、

   末世の僧等は仏法の道理をばしらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、

   但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ』

 
御一考をお願いしたいと思います。

ライン ドット

曽谷殿御返事より 1  投稿者:卞氏  投稿日: 6 9()101526

曽谷殿ご返事より、もう少し前後を参考に、「本」の意味の違いを見てください。皆さんのお手伝いをしたいのです。
 ***

下記、A、B、Cは同じ事を言葉を変えて表現しているものです。
文底でいえば、法師=此の仏=此の仏菩薩であり、久遠元初の自受用報身如来(末法の御本仏)でよいのですが、曽谷殿という対告衆へのその意味を考える時には、文上での解釈も必要になります。


A: 『経に云く「在在諸の仏土に、常に師と倶に生ぜん」。
   又云く「若し法師
に親近せば、速かに菩薩の道を得ん、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」。 』


  
経典にはこうある。「在在諸々の仏の地に、常に師とともに生まれてくる」
   また、「もし、法師に親近すれば、速やかに菩薩の道を得るだろう。この師に随順して学ぶならば、幾多の仏を見ることができるだろう。」と。


  
ここでは、法師とは坊主のことではない。


B: 『釈に云く「本此の仏に従て初めて道心を発し、亦此の仏に従て不退地に住す」。』

  
天台の釈にはこうある。「本(もと)より、この仏に従って初めて道心を起こして、また、この仏に従って不退転の位になった。」と。

  
ここの【本】は、本従の本ではなく、「最初に」という意味です。混同してはいけません。


C: 『又云く「初め此の仏菩薩に従て結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云。』
  
  
また、「始めは仏や菩薩に従って縁を結び、はたまた、この仏菩薩において成就された云々。」と。

  
これらABCに共通することとして、このように「初発心」のときの仏も「成就させるため」の仏も同一の仏であり、
   それに従っていくことが成仏の要諦になることを示唆しています。

 

ここで、先ほどの
   『返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。』
   『釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。』
を続けて読めば、
  
  
本従を間違えずに成仏せしめなさい。釈尊は一切衆生に「本従(という成仏の要諦)を明かされる」師で、しかも主親の徳を備えています。
   となります。

  ☆曽谷殿は、入道(武士を含め僧体でありながら、在俗の立場がある)という立場から、単純な信徒ではありません。人を化導するがわの立場にあったのです。
   そのことを誤解していると、この御書をして「信徒は僧俗の身分を弁えよ」みたいな解釈が生まれてしまいます。それではいくら読んでも理解不可能です。

  
 
ここでは、教えを聞く人に対して「釈尊の教えの要諦である、本従を間違えないようにして、成仏させるように教えていくのですよ。」との強調をしているわけです。「釈尊の教えの本従ということを弁えて、教えるように」との意味と。たびたび己義を言ってしまう曽谷殿への戒めの意味として、「己義を構えて釈尊の教えのように言ってはならない。あくまでも釈尊の教えの本従を弁えて、教えるように。」との意がこめられているものと拝せます。
 そして、成仏の要諦は、あくまでも「教主釈尊」(文底では御本尊)へ向かうことであり、入道殿もまたその回りの人たちも、そういうふうになるようにとの配慮から、この3つの文を出してこられたのでしょう。

    ☆ここでの本従は、『釈迦が本、一切衆生が従』という位置付けを言っているものでは有りません。本従をたがえて教えてはならないのであって、
      仮にこの文のあとに、「本が衆生であって、従が仏であるということ」をキチンと教えなさい、と言っても問題(矛盾)は生じませんが、
   特段その「本が衆生、従が仏」ということわざわざ曽谷殿に言う必要もないとお考えがあってのことと思います。

 
 
最後に、注目していただきたい部分はここです。

『此法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆ふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然どもいまだこりず候。』

  ⇒日蓮は此法門<=教主釈尊(法華経を立てる師)が本来の師であり、法華経を根本(法師・仏)とすべきで悪い坊主(法然等)がいう法華経を捨てる教えは
   間違いということ>を言ってきたから、忠言が耳に痛いという道理のゆえに、流罪にさせられ・・・)

  
  
このように一連の解釈がなされれば、このお手紙が一貫性を持つ指導になり、なんら「本=衆生、迹=仏」という沖浦氏の解説や
   諸法実相抄『本仏と云う
は凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』ともなんら矛盾は生じません。


 以上。

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曽谷殿御返事より 2  投稿者:卞氏  投稿日: 6 9()11347

『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。』

  ⇒ 法華経は種のようなものである。仏は植手のようなものである。衆生は田のようなものである。

  ☆ここでは、まとめとして「仏、法華経、衆生」の関係性について述べられています。
   仏は法華経という種を、衆生という田に植える役割を担うのである。衆生が目的であり、仏は法華経を植える役割と言っているのです。
  (これは沖浦氏の説明と合致します)
   「田」という表現で思い出すのは、伝統的に使われる「心田」という表現ですね。田んぼとは稲が育っていくという本然的性質があります。それを成仏する様  に例えて「田」としたわけで、「仏が上、衆生が下」「仏が主、衆生が従」という関係では有りません。
   もともと成仏の本因は衆生の側に存在するのです。ほんのちょっと、種を植えるだけ。それが仏の役割です。


   曽谷殿には、法華経の敵を責めねばならないということで、【但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ 】と僧のあり方を述べておられます。  あくまでも衆生を的にされているという大聖人の御心を拝していきましょう。

 

  『若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。恐々謹言』

  ☆曽谷殿に釘を指している部分です。やはり曽谷殿には、チョッとした悪い癖がおありのようでした。

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横レスのようですが、ちょっと気になりましたので。  投稿者:卞氏  投稿日: 6 9()134047 

>貴殿がこの板を他の学会員にお勧めし、皆さんが閲覧しているのでしょう?まして記録も残して頂いている様なので、はっきりと御答え頂きたい物です。
また、内容によって学会員のスタンスを取ったり、個人だけの意見を述べるのは一貫性が無く、個人個人で意見が分かれる事になります。

ご心配頂いているようですので、参加に際して学会員は立場表明と共に、この件についての是非も答えるべきでしょうか。
                                            
(注*前日のterryさん → 沖浦さんへの質問@に対して)
 
 
当方は、一向に構いません。公式見解を聞きたいのでしたら学会へどうぞ。
学会は掲示板で公式見解を発表することはありませんから、それしか方法は無いと思います。学会か法華講かとの立場を必ず示すようにとの提案は、そちらの案分です。

 もとより、テーマに沿って意見を交わすのに本来的立場は、沖浦氏の言うように「大聖人の門下」という共通基盤に立つ以外にないとおもいます。そのうえで、学会か法華講かという立場は、その議論にあたってどちらが大聖人の門下として相応しいのか、どちらの団体が仏法を正しく伝えているだろうかを、総合的に第三者が判定する最終的な立場にあたるものであって、議論の方向性を考えるための手段にするべきものではないと考えます。

 沖浦さんの意見は沖浦さんの意見として拝聴いたします。私の意見は私の意見として書かせてもらいます。また、意見が異なるからといって瓦解するような創価学会ではありませんから、全くご心配には及びません。もしそのような書き込みスタイルが、そちらを混乱させてしまい、困るというのであれば言ってください。できうるかぎり解説に努めましょう。
 それでも嫌なら、法華講さんの掲示板ですから、こちらが出て行くしかないでしょう。意見について間違いがあれば「御書」を通して指摘していただければと思います。 

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terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 9()212227

何故私が貴方の理想とする創価学会員のパターンで無ければならないか?

理由が理解不能です。貴方が創価学会員はこうあるべき。と、思う事はご勝手ですが、私に押し付けないで下さいね。
 法主を貴方が尊敬する事はご自由ですが、私に押し付けないで下さいね。創価学会の御形木様がお嫌いならそれで結構です。私は気に入っているのです。女房を私が気に入っているのと同じです。貴方の御本尊に関する決め事は貴方のもので、私には違う思いがあるのですよ。
 創価学会の公式見解を私に求めないで下さいませ。何の為に創価学会に広報があるのでしょうか?

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日蓮正宗の歴代法主の評価  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 9()212925

基本的には興師以外の法主を評価いたしません。寛氏はそれなりに、亨師は戸田先生を助けた面を、淳氏は、創価学会を支えた部分を評価いたしております。

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お題目も 御本尊様も全人類のものです  投稿者:沖浦克治  投稿日: 6 9()214926

仏法は一切衆生の為にとかれます。当然、御本尊様は末法の一切衆生の為に顕されたのです。 

    『一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、』 (一代聖教大意)

 蓮祖の仰せです。蓮祖は、御本尊様を末法の一切衆生の為に顕しおかれました。このご文証に文句があるのでしたら、文句は蓮祖に言ってください。蓮祖が、我が法は一切衆生のため。と言われればその件はそれでおしまいです。

 もし法華講の方々で、お題目と御本尊様はご自分達の為にのみ存在する。と、お思いでしたら、私に蓮祖の法を語らないで下さい。その人は蓮祖門下ではありません。私にとって、そのようなお方と蓮祖の法を語ることは無駄な行為です。他の方とおやりくださいませ。
 

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お題目も 御本尊様も全人類のものです  投稿者:突撃男  投稿日: 610()060217

そりゃそうだ!学会のような謗法がこの世から消えて、真の正法が広宣流布した暁はな!

日達上人も「間違った法が広まってもそれは広宣流布とはいえない」と御指南されたし、同じ題目でも学会の題目、身延の題目、佼成会の題目とたくさんある。

このような謗法の題目が消えて、正法の題目が残った時だよ!(笑)

>創価学会の御形木様

 偽御形木だろう!嫌いに決まっているだろう!(笑) 地獄に堕ちたくないもん!(大笑い)

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突撃男 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()065126

ここで決め付けはお止め下さい。御書を引用し、自説を述べてください。でなければ会話の場とはなりません。

 私は、現法主の日顕氏を全く評価を致しません。が、ネットで何処の掲示板に書き込むときも、顕師。と、師号でお呼び致します。私が、くそ日顕(失礼)と呼び貴方が阿保大作と返せば、会話はそれで終わりになります。宗教の使命は布教にあります。双方罵り合って布教が出来るとは思えません。ご一考くださいませ。

 特にご本尊は根本尊敬の略語であり、信者である我々会員にとって最も大切に思うものです。私共はこの御形木様を、日蓮大聖人様の御魂。と、して、大切に御安置を申し上げております。貴方に、他人の大切なご本尊様をゆえなく誹謗する権利があるとは思えません。又、蓮祖御図顕のご本尊を誹謗すれば地獄に落ちる。と、言われております。気をつけられるべきでしょう。
 
 もし、創価学会下付の御形木様に疑義のあるお方は、御書を引用し慎重にお話下さい。事は御本尊様に関する話題です。軽々に偽もの扱いが出来る道理がありません。

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全然ダメですね、沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 610()1659

貴殿の解答は全く持って論外、己義・我見の極みと言う他はありませんね。最初からのスタンスがまずおかしいでしょう。

いいですか?「創価学会の公式見解に左右されない学会員」とは一体何なんでしょう?おかしいですね。沖浦さん。
学会員それぞれが「創価学会と言う自称宗教団体」の宗義を個別に構えていると言う事ですよ?やはり「創価学会と言う名の文化団体」であって、およそ宗教とは呼べない事がはっきり解りましたよ。やはりこれはニセ本尊の害毒なんでしょうか?もしくは生来の業によるものでしょうか?
前者ならば即刻廃棄すべきでしょう。後者なら全く人間革命なんぞは出来てはいないって事になりますね。やはり即刻廃棄するべきでしょう。
如何ですか?学会広報で教えて頂けますかねぇ?


>許可は蓮祖より頂いております。
>すでに提示致しました。

これは全然ダメです。テストなら0点ですよ、沖浦さん。まさか夢でも見たんでしょうか?
私は、「学会が勝手に御本尊を改竄・模刻し、勝手に印刷配布するのは如何なものか?」と聞いています。

貴殿は「許可は蓮祖より頂いております」と言いましたね。
ですから「客観的な証拠・文献・文証」を明示してくださいといっております。速やかに明示して下さい。沖浦さんの感想文は結構です。


>私は寛氏の書写に文句はありませんよ。

およそ貴殿の慢心・僑慢ぶりには閉口致します。現在の学会の姿を如実に顕わす一言ですね。では、どなたなら満足でどなたは不満足なんでしょうか?
客観的証拠を明示して下さい。


>末代幼稚の云々〜 

ここも全くダメでしょう。ですから、それが何故に蓮祖以外のどなたの許可も必要ないと言えるのですか?貴殿の「妄想話」ではダメでしょう。
もし仮に貴殿の意見が正論だとしたら、創価学会なんて物は最初からいらないでしょう。皆さん勝手に「許可を得た」と言えばいいのです。
貴殿の言われる様に「勝手に模刻、勝手に改竄、勝手に印刷配布」が問題無しなら、何故「御本尊」は存在するのですかね?
また、貴殿は何故御本尊を拝むのでしょうか?全く理解不能です。客観的証拠を引用して御覧なさい。0点どころかマイナスですよ、沖浦さん。


>創価学会の下付の御形木様が、安物のプリントであるが故にお力が無い。と言い出したのは貴方です。

そうですよ。全く持ってその通りでしょう。ただし大事な所が抜けていますよ、沖浦さん。
再度述べましょうか?『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』たる所以を。


   1)御法体を相丞される猊下様の許可無く、
   2)勿論、唯授一人の深秘である草木成仏の御開眼も無く、
   3)授与書きを削り、
   4)勝手に文字に変造を加え、
   5)随分安っぽい紙に、ベタ印刷
       (昔はカレンダー紙だった様な気がしますが、今は普通紙の様ですねぇ。しかも、裏打ち紙が妙に粗末なので直ぐにシワが出て痛みやすい物ですね。
        随分とローコストで仕上げた物だそうです。・・・内装屋さん曰く。)

 まさに戸田先生が言う所の「偽札本尊」に間違いないでしょう。自慢の教学で正当化されますか?沖浦さん。何をどう言った所で『偽物は偽物』ですよ。
それ以上も以下も無い。ただの偽物です。しかも魔仏です。
ですから、『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』と言ってるのです。その通りでしょう?


>文証にはなりません。私に取っては他宗の代表であった人です。

そうですか。なら宗祖大聖人様以下、御歴代の御上人様方は日蓮正宗の代々の御法主様ですので、学会での引用は一切お止めになられるがよろしいかと。
特に沖浦さんは学会公式見解に左右されないと明言されているのですから、今後勤行の際も一切お名前も拝するのはお止めなさい。自語相違なさりません様。

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ますますダメです、沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 610()17176

>邪宗では成仏は不可能です。創価学会以外は全て駄目です。

おかしいですねぇ、沖浦さん。だって貴殿は御真筆ならお力は一緒だって言われましたよ。では、身延の信力・行力のある坊さんは学会が出来た時から成仏は不可能になったのですか?これは珍説ですねぇ。貴殿が言われる創価学会以外では成仏しないと言う「客観的証拠」を御提示下さい。感想文は不可です。

おかしいと言えば、学会に入会し題目を唱えれば大なり小なりの功徳はあると言いますが、勤行0分の池田さんはどんなもんでしょうか?参考までに沖浦さんの意見をお聞かせ願えますかねぇ?果たして池田さんは成仏可能なんでしょうか?私は池田さんは頭から真っ逆さまに堕獄行きは必定だと思いますがねぇ。

>身延では無理ですよ。明快な客観的な最低限の条件は、創価学会員である事。ですね。

あれあれ、自語相違ですね。沖浦さん。では、創価学会員で無ければいけないとの文証を拝見しましょうか。是非「全文記載」してみて下さい。

>相伝は創価学会にのみあります。貴方方にはありません。

では、沖浦さんには相伝はあるのでしょうか?創価学会の何処に相伝があるのでしょうか?本部ですか?それとも会員にあるのですか?全員ですか?明確に御提示下さい。

 さて、沖浦さん。明快なる文証・文献の提示をお待ち致します。

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(無題)  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()203742

>学会員それぞれが「創価学会と言う自称宗教団体」の宗義を個別に構えていると言う事ですよ?
>やはり「創価学会と言う名の文化団体」であって、およそ宗教とは呼べない事がはっきり解りましたよ。

 貴方がそう思うことは結構ですが、創価学会には本尊と信者がおりますので、宗教団体です。国も世間も認めておりますよ。

>やはり即刻廃棄するべきでしょう。如何ですか?学会広報で教えて頂けますかねぇ?

 どうぞご自分で広報にお尋ね下さい。貴方の行いに、私は異存がありません。

>貴殿は「許可は蓮祖より頂いております」と言いましたね。ですから「客観的な証拠・文献・文証」を明示して・・・

 すでに二度御書を引用致しましたが、日蓮正宗には相伝が無い為理解がおできにならないのでしょう。私は別にに正宗の理解などは求めません。理解能力の不足はそちらの責任です。

>私は寛氏の書写に文句はありませんよ。

 私が拙宅の御本尊に満足している事は、私自身の問題で貴方の問題ではありません。寛氏書写の本尊で満足しているのです。以前、実家に達師の書写した特別御形木様がご安置されておられました。双方同じに感じます。

>ここも全くダメでしょう。ですから、それが何故に蓮祖以外のどなたの許可も必要ないと言えるのですか?

 仏法は蓮祖から直接戸田先生です。戸田先生がこれで良いといわれたのです。
法主程度の許可などは不要です。貴方が法主の許可が要るとお思いでしたらそれで結構です。私は創価学会員ですので、他宗の法主など歯牙にもかけません。
双方の立場の差ですね。

>何故「御本尊」は存在するのですかね?また、貴殿は何故御本尊を拝むのでしょうか?全く理解不能です。客観的証拠を引用して御覧なさい。0点どころかマイナス ですよ、沖浦さん。

 蓮祖が御図鑑になられ戸田先生が認められたのです。そのほかの一体どなたの許可がいるものですか。不必要です。

>再度述べましょうか?『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』たる所以を。

 御書の引用がありませんので貴方の邪義です。一応軽く破折をしておきます。

1)御法体を相丞される猊下様の許可無く
 
 
→ 他所の宗教の人間の許可は要りません。

2)勿論、唯授一人の深秘である草木成仏の御開眼も無く、

 
→ 唯授一人などは日蓮正宗の邪義です。私は法主などは認めません。いらざる人間です。

3)授与書きを削り、

 → 宗門に[願主 池田大作]を削り取った板曼荼羅があります。同じ行為です。

4)勝手に文字に変造を加え、

 
→ 大きなお世話です。貴方方は拝まねばいいのです。それで私には何の不自由もありません。お好きにしてください。

5)随分安っぽい紙に、ベタ印刷(昔はカレンダー紙だった様な気がしますが今は普通紙の様ですねぇ

 
→ 蓮祖の御書の何処に安っぽい印刷は不可。と、ありますか。そんな邪義を唱えるから布教が出来ないのです。

>ですから、『大魔性勝手に改竄模刻プリントぺらぺらニセ本尊』と言ってるのです。その通りでしょう?

 御書に基づかない説は全て邪義です。貴方が創価学会の本尊を誹謗する事は、蓮祖敵対の行為です。お止めになるべきですが別に強制は致しません。

>学会での引用は一切お止めになられるがよろしいかと。特に沖浦さんは学会公式見解に左右されないと明言されているのですから、今後勤行の際も一切お名前も拝す るのはお止めなさい。自語相違なさりません様。

 興師は蓮祖の後継者です。目師はそれほど重要ではありませんが、創価学会の勤行に入っております。ことさら名前を削る必要を感じません。
貴方がお嫌でしたら名前を削除されれば如何でしょう。私は今のままで良いと思っております。

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terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()204742

>おかしいですねぇ、沖浦さん。だって貴殿は御真筆ならお力は一緒だって言われましたよ。では、身延の信力・行力のある坊さんは学会が出来た時から成仏は不可能 になったのですか?これは珍説ですねぇ。

 
面白いお方ですね。珍説が飛び出しました。ロムの創価学会員がみていますよ。ご真筆は同じですが貴方ね、御真筆に念仏を唱えてお力があると思いますか?あるわけは無いでしょう。

同じく、いくらお題目を御真筆を唱えても、日蓮大菩薩ではね〜。蓮祖が御本仏だと信じていなければ駄目でしょう。そろそろ日蓮正宗も身延と同様になりつつあります。ご用心、ご用心。

>おかしいと言えば、学会に入会し題目を唱えれば大なり小なりの功徳はあると言いますが、勤行0分の池田さんはどんなもんでしょうか?

それより阿部さんの勤行サボり癖をご心配なさいませ。池田先生の事は創価学会員に任せておきなさい。

>沖浦さん。では、創価学会員で無ければいけないとの文証を拝見しましょうか。是非「全文記載」してみて下さい。

 
長くなりますのでやめておきます。結論から言えば戸田先生と直結しなければ蓮祖門下ではありません。私共は直結し、宗門は脱落をいたしました。法主に血脈のある文証をどうぞ。本当に血脈があれば神札など拒否しますよ。焼け死んだりするものですか。

>それとも会員にあるのですか?全員ですか?明確に御提示下さい。

 全員ですよ。

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terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()214019

少なからずテーマから外れていますよ。

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terry さん    投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()225853

>最初からのスタンスがまずおかしいでしょう。いいですか?「創価学会の公式見解に左右されない学会員」とは一体何なんでしょう?おかしいですね。沖浦さん。

貴方は私のスタンスがお気に召さない。私はスタンスを変えるつもりは無い。
貴方との会話はこれで打ち切ります。スタンスを変えてまでお話をしていただく義理はありません。御世話になりました。

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法華講の方に  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()231459

法華講の方は、現在の創価学会が何時までも、自分の創価学会員であった時の創価学会員だと思い込んでいる。

 私には三人の子供がおります。長男は隣に住んでいます。32歳になりますが、宗門の事はほとんど知りません。子供のころ二度大石寺に私が連れて行きました。現在山門をおぼろげに覚えているようです。下の2人は宗門の記憶すらありません。三人とも法主などには当然興味もありませんし、六巻抄は読んだこともありません。時代は確実に変化をしています。貴方方が創価学会員であったときの宗門の重みは、現在の創価学会員には通用いたしません。
 先日長男が大きな契約を取りました。御本尊様に祈ると契約が取れた。と喜んでおりました。仕事に行き詰ると仏壇の前で懸命にお題目を唱えます。祈りの力をよく知っております。この掲示板の創価学会の本尊が偽物との書き込みを見て、お父さん、余計なお世話だね。と、鼻先で笑っておりました。本人が御本尊様のお力を実感しております。馬鹿げた誹謗が効果をあげる道理がありません。

貴方方は新撰組のようですね。まわる時代に背中を向けて、日蓮正宗何処に行く。現実を見つめなさい。

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いくら誹謗しても無駄ですよ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 610()234124

長男が小学生のころ、私は男子部の部長をしておりました。あるとき学会活動から帰宅中、急に雪が降り数センチ見る見るうちに積もりました。家に帰ると、長男が少し前に御本尊様に雪を降らしてもらうと題目をあげた事をしりました。
 又ある時は、おもちゃを買いに行き、手ぶらで帰ると仏壇の前で唱題し始めました。どうした?と聞くと、五百円を落したので御本尊様に出してもらう。と、言いました。30分唱題し、これで大丈夫とお金も持たずに意気揚々と出かけました。どうなる事やらと心配をいたしましたが、ちゃんとおもちゃを買って帰ってきました。どうした。と、聞くと。おもちゃやさんが、ボクの落としたお金が陳列の下から出てきたよ。と、百円玉を五枚探し出してくれたそうです。しかし持っていったのは五百円札でした。
  この様に、創価学会員の子供は御本尊様とともに育っているのです。今更引き裂く事は出来ませんよ。

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沖浦さん。  投稿者:terry  投稿日: 610()234337

前に記載致しましたが、別館が出来るまではテーマから少し外れますとお伝え致しましたよ。別に沖浦さんがここで会話を打ち切るのなら、それでもいいでしょう。ここを閲覧の学会員さん達も、さぞがっかりでしょうね(笑)私は外野館の方でしばらく拝見させて頂きますよ。
 ここでのテーマを外れて御回答頂きました事には、感謝致しております。
私は外野館の方で、沖浦さんの「邪義」を破折致したく思います。いつでもおいで下さいませ。一日も早く、沖浦さんが正宗に戻られるのを楽しみにしております。

               法論館<U>別館[外野館]管理人:terry

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**********          **********

【注*テーマ以外の法論場として、平成17年6月11日00:00より法論館<U>別館[外野館]を開館。

以後、テーマ以外の法論は別館[外野館]に移動し、当館はテーマ集中法論の場となる。

なお別館[外野館]は現在の法論館<V> http://6238.teacup.com/tsurutaro33/bbs *】

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どちらが邪教か?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 611()070952

先日のJRの現場に、長男と友人で慰霊に行きました。現場の近くの創価学会員に方にお聞きしましたが、あの時とっさの判断で対抗の快速列車を止めたのは創価学会の婦人部の方でした。現場を見るや否や、この時間はすぐに後続が来る。と踏み切りに走り非常停止のボタンを押したそうです。
 あの行為が数百名の人命を救いました。同じ創価学会員として誇らしく思います。顕師は あの事故で法華講員は一人も死ななかった。と、自慢をしたそうですね。
 えらい違いだと思います。とっさの機転で多くの人命を救った創価学会の末端会員。俺のところは一人も死ななかった。と、嘯く宗門のトップ。

どちらが正しい宗教かは歴然です。

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terry さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 611()073542

決め付けをお止めになれば、会話をすることは望むところです。

 私が創価学会員である事は紛れも無い事実です。公式見解に束縛されないのには理由があります。

昭和54年、私は宗門は邪教との結論に達し、個人的に宗門と縁を切りました。その前後の数年、私と正反対の判断をし創価学会を退会し宗門に走った方もかなりおられました。私は宗門を切り、その方々は創価学会を見切り、大部分の創価学会員は創価学会に残り僧俗和合を目指したのです。三者三様の判断でした。
 
五年ほどたって壮年部にいったころ、幹部の方が登山推進に拙宅にこられました。私は、あのような謗法の地には行きません。と、お断りいたしました。大きな問題となったようです。その時の創価学会の公式見解は、本山に至誠を尽くせというものでした。私は退転者扱いをされていたようです。
現在は、その時の私の見解が創価学会の公式見解になっております。

戒壇本尊が蓮祖の出世の本懐ではない。との考えも当時から持っており、しばしば表明をしておりました。[御書]が根本で御書に書かれた蓮祖の生き様を学び同じ人間として共鳴出来ないなら、蓮祖門下ではない。との考えも当時から持っておりました。そのころ蓮祖を同じ人間の視点で捉える事は異端の極みとされており、私がその意見を述べると誰もいなくなったものです。
 
 
当時の創価学会規則には、弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様を根本とする。と明記されておりました。現在の会則にはこの表現はありません。御書根本に改められています。

蓮祖を人間の視点で捉え、その人間性に共感せよ。最近の池田先生のご指導です。創価学会の公式見解はこの様に変化をしています。近い将来大きな変更があるでしょう。日本の創価学会から世界の創価学会へ。当然変化をせねばなりません。公式見解にとらわれないのはこの様な理由からです。

御本尊様のこと。蓮祖の人間としての側面。これらが自由に語り合い出来なければ、ただの日蓮原理主義者の集団です。
そんなものには三文の値打ちもありませんよ。


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御書  投稿者:沖浦克治  投稿日: 611()083539 

御書は、現在社会の立場から拝読せねばなりません。依義判文と言い、非常に困難な行為です。戸田先生お一人のみがなされました。法華経を漢訳した羅十三蔵のように、御書を現代社会に正しく開かれました。故に創価学会は広まったのです。戸田先生以前、日蓮系の行く道は二つでした。教条主義で玉砕。現実に負けて堕落。戸田先生だけが何処とも妥協せず、玉砕もされなかったのです。蓮祖とご境涯を等しくされる所以です。創価学会は戸田先生直結の組織です。御書もそのように研鑽をしております。

創宗分離より14年。すでに宗門法華講は御書が読めません。御書の講義は住職の専任事項のようです。これではどうしようもないですね。法華講の方と論議をすると、ご自分の言葉がありませんね。何代目の法主がああ言ったこう言った。御本尊様のことを信徒が論じてはいけない。法主は御本尊様を支配する。ところがこれらに対する御書の引用は皆無です。自分で考えない。住職の話しの受け売りのみです。自らが思索せずして法の研鑽は不可能ですよ。
 
 対して、創価学会は現在御書を益々現実社会に開き、蓮祖の法は世界の190の国と地域に拡大いたしました。会員間の自由な研鑽の故です。淵源は戸田先生です。ここを外れて御書の研鑽は不可能ですよ。

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創価学会にのみ、蓮祖の血脈が流れる理由  投稿者:沖浦克治  投稿日: 611()084931

『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや』

この、『未来も又しかるべし』(諸法実相抄)のご文を身で読まれたのが戸田先生です。蓮祖はお題目の広宣流布をただお一人からおはじめになられ、戸田先生もまた御本尊様の広宣流布をお一人からおはじめになられました。

蓮祖は自ら法をお悟りになられ、戸田先生も又ご同様です。蓮祖は自らを上行菩薩になぞらえられ、戸田先生も、「我地涌の菩薩の棟梁なり。」と、宣言をなさいました。蓮祖は、将来必ずご自分と同様のお方が出現をされ広宣流布をする。と、この御書で明言をされておられます。戸田先生はお一人で荒野に立たれ、「広宣流布は戸田が致します。」と、獅子吼をなさいました。お言葉通り其処から広宣流布がはじまったのです。
 

このお二人共通点を見るにつけ、創価学会にのみ蓮祖の血脈が流れる事を確信致します。創価学会は戸田先生直結だからです。

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さてと。  投稿者:やまさん40  投稿日: 612()012516

さて、外野席も出来た事ですし、おちついてテーマ討論ができますね。

>もともと成仏の本因は衆生の側に存在するのです。ほんのちょっと、種を植えるだけ。それが仏の役割です。

 これは沖浦様、卞氏のみの私観ではなく、創価仏法というものの観心なのでしょう。
私も学会当時に池田会長の御義口伝講義また開目抄講義(戸田〜池田)に感化されてこのような考え方に傾倒したことがあるので言い分としてはわかります。

 
 

簡単に言ってしまえば、創価仏法の成仏義は以下のようなものであります。

   人間に限らず、一切法界の全ての有情無情の命の中には、等しく正因仏性が具わっております。
   その本有として具わるところの正因仏性を開花させるための縁として仏の教化があり、
   妙法を唱えて己心中の仏性を薫発させる我々も、元からの尊い仏の生命を内在した地涌の菩薩である。

   
    
元からの仏であることを思い出し、了因仏性を開いた衆生にとっては、本仏の流類であり、
   妙法の題目を教えてくれた仏に対してはそれ相応の恩義をもって報いるのである。

と・・・・・。たしかに学会員程度の教学であれば、このあたりで納得させるのが疑問を持たせない為の妥当な線でもあるのでしょう。

また、これを証する依文として一生成仏抄の

 『夫無始の生死を留めて、此の度決定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。

衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。』

等の御文を挙げて『衆生本有の妙理』を便利に使っていましたね。

しかしこの近視眼的仏法解釈には、本仏大聖人が当体義抄にお示しの

   『至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。

   此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。』

との自解仏乗の義、また妙法は本仏の所有し給うところであるとの義が見落とされているのであります。
 

 

 迹仏である釈尊、また我等衆生は修行によって成仏を遂げる弟子分であります。

『衆生本有の妙理』
とは衆生が本然として備えている、開発すべき仏性<理>であり、

仏様の仏性は『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』(御義口伝)と、妙法のお悟りの実体を覚悟され所持されている<事>であります。

衆生の仏性と、仏の仏性には差別が存するのであります。  

 

 またこの『之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。』を短絡的に解釈して、

「一たび妙法を唱えたならば既に仏なのである。」と結論付けてしまうのが創価仏法の極めて幼稚な落とし穴でもありましょう。

結論をいえば創価仏法の仏性観は、浅見によって生じた我見から、『仏はうへての如く』の三徳を、

『禅宗等の人云はく「一代聖教は月を指す指なり」』程度にしか拝せぬ「我慢心充満、未得謂為得」に陥った天魔破仏法の思想に過ぎません。

 

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木を見て森を見ず  投稿者:沖浦克治  投稿日: 612()060642

>たしかに学会員程度の教学であれば、このあたりで納得させるのが疑問を持たせない為の妥当な線でもあるのでしょう。

 いくら御文証を羅列しても、布教が出来無いと言うことは、民衆に受け入れられていない読み方。と、言う事です。三文の値打ちもありません。仏法は民衆の為。大原則です。民衆から遊離すれば、只の葬式屋ですよ。高邁なお説などは結構です。
 法は迹、人は本。いかに人を育てるかが肝要です。日蓮正宗に人はいますか? 青年は活き活きと育っていますか?信徒は激増していますか?もしそうでなければ、仏は本、衆生は迹、の解釈があやまっている事に気付くべきです。
 布教が出来ないと言うことは、蓮祖の法ではない。と言う事です。

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Re:木を見て森を見ず  投稿者:やまさん40  投稿日: 613()002341

法華玄義に

  「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。
  無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。
  涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」

とある。衆生の理解レベルにあわせた随他意の法は易信易解であり、仏の真実・随自意の教法は難信難解なのである。

木を見て森を見ずとは、「難易だから」と言って御書の全体から大聖人様の御心を深く拝することを避け、自説に都合の良い言葉を切り文として枉()げて習いそこなう創価教学のことであろう。

 宗祖日蓮大聖人、聖愚問答抄に曰く

 『摩尼は空しく名のみ聞く、麟鳳誰か実を見たるや。世間・出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり。

然れば何ぞ強ちに少なきをおろかにして多きを詮とするや。土沙は多けれども米穀は希なり。木皮は充満すれども布絹は些少なり。

汝只正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ

と。邪法でも広まれば正法だとでもいうのか?まさに外道の言い分である。

 

 創価学会が日蓮正宗から破門され「魂の独立記念日」を宣言した日から12年の年月がたつ。
その間に、公明党は与党となり、大衆芸能一つを例にとっても学会員の社会進出は著しいものがある。
創価学会の思想影響が強まった12年間であることには私も異論はないし、表層面のみを見れば、これが「創価文化の花開く」の様相なのであろう。

 しかし現実社会に目を向ければ、その12年の間に日本国民の心の荒廃、治安の乱れは目をそむけたくなるほどに悪化したことは否定できない。
創価文化の流布した結果は三毒強盛・五濁乱漫の平成時代ではないか?

個々人に目を向けても、自殺者の数は年々増加し3万5000人に及ぶ。未遂者も10万人を越えているのである。凶悪犯罪の増加の深層を探れば、主師親三徳に対する不知恩の思想が根源にあることは明らかである。

 『国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず。』と。立正安国論の[邪法乱国、正法治国]の原理に照らして、これが正法が広まった現証なのであろうか?残念ながらこれが「生命の世紀創価ルネッサンス全盛」の現実相である。

 

 重書たる開目抄の冒頭に、

  『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり。又習学すべき物三つあり。

所謂、儒・外・内これなり。儒家には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号す。諸臣の頭目、万民の橋梁なり。

三皇已前は父をしらず、人皆禽獣に同ず。五帝已後は父母を弁へて孝をいたす。』

と仰せになられた大聖人様の御心を思うべきである。
 

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本題ですが、もうやめますか?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 613()065152

仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。

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やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日: 613()140737

>法華玄義

それならば、玄義から、蓮祖と代々法主との、聖凡の位の差別(しゃべつ)を、説明して頂けますか?

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やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 613()220244

御書を学問として覚えても意味が無いですよ。

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何故対話が出来ませんか?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()125241

別館の内容はひどいものです。創価学会に対する悪意と偏見、決め付けに満ちております。当方も、それなりの対応であしらっておりますが本意ではありません。先ほど御本尊の件で真面目な会話ならOKの書き込みを致しました。
 法華講の方々の書き込みは、何故あのように悪意に満ちているのでしょう? とてものこと仏法者とは思えません。創価学会員の死亡をあげつらう。情けないかぎりですね。私は宗門関係者の死に関しては、鈴木法主以外は問題にしたことがありません。彼は法主であり、戦時中に宗門の堕落を招いた張本人です。責任の重さが違います。
 少し冷静になってください。真面目な対話を望みます。

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学会員の死亡をあげつらう  投稿者:突撃男  投稿日: 614()131110
 沖浦克治 は大笑いだ!自分で御法主上人の死を調べもしないで誹謗して、悪意だと!(笑)
貴方のような学会こそ悪意だろう(笑)本末転倒だよ! 少し冷静になってください。

>真面目な対話を望みます。

沖浦克治よいたって真面目だよ!貴方こそ真面目??(笑)

>とてものこと仏法者とは思えません

貴方こそ!仏法者??外道者だろう!(笑)創価新報やフェイク等で、事実無根の誹謗記事を平然と報道しとても仏法者とは思えないねー
 大聖人様は仏法者じゃなのかい?念仏の開祖の死も現証論として書いておるが、どうなのかい?(笑)
学会員もバタバタ死んでいるではないか!これも功徳かい?犯罪者も多いが、これも功徳かい?脳乱しているとしか思えません 貴方は!

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沖浦克治氏へ  投稿者:突撃男  投稿日: 614()131941

少し冷静になってください。真面目な対話を望みます。

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突撃男@斉藤 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()132142

貴方との会話はお断りいたします。 もし会話をお望みでしたら、それなりの礼儀をお願いいたします。

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本因妙抄について(参考)  投稿者:卞氏  投稿日: 614()135047

『此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』
の部分ですが、これは後加文とされています。


 本題とそれていたので特に求められなければと思っていましたが、富士宗学要集では、その部分に一本線(加筆された部分という意味)が引かれているとのことでしたので、そちらに有りましたらご確認ください。   

以上。

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同じく、参考に  投稿者:法華講のおばちゃん  投稿日: 614()1412

***他の本からの切り張りですが、参考にしてください。
                                      
(注*日蓮正宗法義研鑚委員会編「ニセ本尊破折100100答」からの引用)

質問:『本因妙抄』の抄末にある「唯授一人の血脈」の語は、後人の加筆であり、大聖人の教えではないと聞きましたが、本当ですか。

答え:そんなことはありません。「唯授一人の血脈」こそ、大聖人の仏法を正しく末法万年に伝えるための教えであり、大聖人御自らが定められたものです。
   『身延相承書』に『血脈の次第 日蓮日興』(新編 1675頁)とあり、日蓮大聖人から日興上人お一人に血脈を相承されたことが明らかです。これが「唯授   一人の血脈」でなくてなんでありましょう。
    
   『本因妙抄』の御文については、重須の第二代学頭であった三位(さんみ)日順師が、『本因妙抄』を解釈して「本因妙口決」を著わし、そこに「唯授一人の一   人は日興上人にて御座候」(富要 2−84頁)と注記しました。

  これについて、第六十五世日淳上人は、
  
「上掲の御文は本抄(本因妙抄)末尾に『日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり』との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられ  ると、念釈をなされたのである」(淳全 1449頁)と仰せられています。


   このことからも明らかなように、「唯授一人の血脈」という教えは、日興上人にお仕えした三位日順師が明言しているのですから、「『本因妙抄』は大聖人の御  書ではない」などといって、「唯授一人の血脈」を否定する学会の主張は全くの妄説というべきです。
   また学会では、御書全集を編纂(へんさん)された日亨上人が、『本因妙抄』の末尾部分が大聖人の教えでないために小さい活字にしたといっています。それでは  日亨上人が大聖人の教えでないものを、わざわざ御書に載せたことになるではありませんか。それこそ日亨上人に対する冒涜といえましょう。  

                                            
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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()145714

もうやめましょうか?誰一人まともなお答えがありませんね。
仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。

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(無題)  投稿者:突撃男@斉藤  投稿日: 614()18435

>誰一人まともなお答えがありませんね。

返答しているではないかい!笑!
では、学会の三宝論と学会に偽本尊についてのテーマは!

            (注*別館[外野館]で討論されていた創価学会の三宝と偽本尊についての法論について触れたもの。)

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まあ  投稿者:突撃男@斉藤  投稿日: 614()184514

都合が悪くなると逃げる沖浦克治 もたいしたことないね!笑!
返答しなくてもいいですよ!勝手に書いているから!(笑)

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突撃男@斉藤  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()202843

泥仕合がお望みなら別館でお相手を致しましょう。ふっふっふっふっふ。

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無題  投稿者:大月天  投稿日: 614()220638

誰だ! 創価学会は戸田先生直結の組織だ。などと戯論を言う奴は!

小生は過日、大石寺登山にて御開扉を終えた後、在家の鏡であった戸田大講頭の御墓を訪ねた。何としたことであろう。供えられていた樒は久しく萎え、墓石もくすんでいるではないか。

学会員たちよ。わが宗門は邪教の徒輩であっても参詣を許している。速やかに池田博士に連絡を取り、恩師の墓石に参らせ、忘恩の滅罪を祈らせると共に、墓前の清掃を成すよう進言せよ!
 すべてはそれからだ! 仏法の何たるかなど百年早いわ!!

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大月天さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()230011

それはご苦労さまでした。
私どもは朝夕勤行をし、そのとき戸田先生に感謝のご観念文を唱えて追善供養を致しております。そちらはそちらでご自由にご供養をして下さいませ。 
 

ところで、この掲示板はそのような話題を述べる場所ではありません。どこか他所でおやり下さい。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 614()230252

少し掲示板が荒れてきています。私への誹謗中傷をそのままにされるのでしたら、名誉毀損が成立いたします。書き込みを削除してください。

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法華講のおばちゃん殿  投稿者:大勝利  投稿日: 614()230456

何処の本からの切り文か存じませんが、全く論証になっていませんね。
そのような駄文を恥ずかしげもなく貼り付ける貴殿の宣伝行為は、管理人さんにとっても甚だ迷惑でしょう。
 

何故、沖浦さんが、蓮興以降を論拠としないかを真面目に考えてみたらいかがでしょう。血脈は日順師に流れていたのですか(大笑

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テーマ以外は別館へどうぞ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 614()234412

現在のテーマ<衆生が主()、仏が従()なのか?>として、主師親三徳のとらえ方と本従を中心に討論中です。

 ・本因妙抄の後加文の件(なお宗学要集は私も所蔵しています)
  ・蓮祖と代々法主との聖凡の位の差別
  ・僧宝論に関してのテーマ
は、現在のテーマには直接関連がないので今は扱いません。別館でどうぞ。

 ・学会製寛師曼荼羅掛軸
  ・罰論 
についてのテーマも別館へどうぞ。


突撃男@斉藤さんへ

  投稿日: 614()184119秒は個人中傷と判断して削除しました

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沖浦様へ。投稿者の皆様へ。  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 614()235356

>御書を学問として覚えても意味が無いですよ。
絶対なものは御本尊と御書であると・・・・言ったのは沖浦様でしたね?「真劣利勝」のは牧口価値論の影響でありましょうか。

>仏は衆生の救済のために出現される。仏の出現が従。衆生の救済が主。

という、この学会側説の正否を御金言によって論証しようというのが現在のテーマの発端ですので、双方からの投稿をお待ちしております。

 また創価学会が日寛上人御筆の曼荼羅掛軸を印刷販売している限りは、日興上人〜日寛上人の御歴代猊下の論文も双方に有効とします。

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それでは、やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日: 615()0003

>法華玄義に「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。

涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」とある。


貴殿のこの引用は、法華玄義の何処でしょうか?御示し頂きたく思います。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 615()001317

ご配慮を頂きまして感謝申し上げます。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 615()002554

>御書を学問として覚えても意味が無いですよ。

絶対なものは御本尊と御書であると・・・・言ったのは沖浦様でしたね?

「真劣利勝」のは牧口価値論の影響でありましょうか。

私は牧口先生の価値論は読んだ事がありません。また聞きで概念を知るのみです。


 戸田先生のご指導です。
 
「四条金吾が一人の人間か、2人いたのかなどは、畑毛の猊下の領分です。御書を拝読し、大聖人様の人間にふれ、人間として共感し大聖人様の感情を共有することが大事なのです。でなければ拝読をして何の意味もありません。学問では無いのですぞ。」(趣意)

このご指導は最近知リましたが、私は以前から同じく思っておりました。嬉しかったですね。

>また創価学会が日寛上人御筆の曼荼羅掛軸を印刷販売している限りは
 日興上人〜日寛上人の御歴代猊下の論文も双方に有効とします。

 それはご自由です。が、私はその議論には参加を致しません。この掲示板で私と対話をお望みのお方がおられましたら、興師以外の法主の言は引用をしないで下さい。無論、他のお方との会話まで干渉は致しません。私は法主は本尊書写が仕事、と、思っています。本尊を書写したからと言って、蓮祖興師と同列に扱われては迷惑この上もありません。この様な玉石混同はお断りいたします。私と対話をされるお方は、その程度の常識をわきまえてください。

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やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日: 615()00284

貴殿は、「仏性には夫々に違いがある」と仰られる。亦、「御法主は、大聖人と全く同じ御内証」とも仰られている。(記憶違いであれば御免)
小生は、ここに矛盾を感じます。


 それでは、蓮祖大聖人と日顕師とでは、どちらが<主>でどちらが<従>でありましょうか?是非、屈託無い御意見を御聞きしたいと思います。

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管理人様。  投稿者:卞氏  投稿日: 615()131611

>本因妙抄の後加文の件(なお宗学要集は私も所蔵しています)


 ここの掲示板の趣旨として、門戸を広く開くつもりがあるのでしたら、1本線の件だけでも、どうなっているのかご確認いただけないでしょうか。
 「法華講のおばちゃん」なる者の、あての外した投稿もあって、もっていない人が見ると、私の発言自体の真偽を判別しかねるとおもいます。ここで他の引用を切り文とし、本文の前後を出して「法華講のおばちゃん」に反論するのが本意ではありません。ここでは御書において、その部分がどう扱われているかを示すためだけのものです。
 公平な措置として、よろしくお願いいたします。

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管理人様。テーマへの思考  投稿者:大月天  投稿日: 616()0650

結論   仏の出現と衆生の救済は、一体にして不二である。仏は衆生を救済するために出現されるのであり、
     衆生は仏に度されんがために今世に生を受けるのである。

     仏が、度すべき衆生を先んじて待ってみたり、時に感じて生を受けた衆生の世界に、遣使遣告たる仏が皆無だったりすることはないのである。
      
      ただし、その一体不二なる基本を、知識として学ばんとするならば、衆生無辺誓願度を中心とする四弘誓願(四弘能所)を探究すべきである。

 →  大聖人様は、四弘の能化たる仏様であります。

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結論が出たと思いますが  投稿者:沖浦克治  投稿日: 616()0719

すでに仏の出現は迹、衆生の救済が本、が証明されたと思います。

 これは仏が衆生より優れた存在であり、衆生の尊敬を受ける事実とは矛盾をしません。この二つの考えで、仏法は独裁主義を防止しているのです。前者の思考方式が大前提にある仏教団体は堕落をいたしません。後者のみがある団体は、聖職者が仏の代理人と化し、必ず堕落を致します。前者が創価学会、後者が日蓮正宗と結論付けます。

 ご意見のあるお方は、明日中に意見を書き込んでください。但し証明方法は、社会における自らの団体の活動の事実、構成員の世間での実証、蓮祖の御書、でお願いをいたします。歴代法主や歴代会長の言は、双方の内部でご議論くださいませ。

 それではお待ちいたしております。

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(無題)  投稿者:コウ  投稿日: 616()12242

次々と「なかったこと」にされている、以前の学会指導。
破門以前の発言は「無効」とまでされていく以前の学会指導。
「記憶の隅」へと追いやられていく、以前の学会指導。
現創価仏法と「矛盾をおこす」以前の学会指導。


 では、学会の以前の指導はそんなに間違っていたのでしょうか?
あわてて否定しなければいけないほどの内容なのでしょうか?
実際に御書と照らし合わせてみると一体どうなるのでしょう?

**********

:直結信心は正しいのか?本尊はすべて一緒なのか?

 『案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人、謗法にて候なり』(日興上人・歴全1−184頁)


『此の経は相伝に有らざれば知り難し』(一代聖教大意 新編御書92頁)

『この法門は、師弟子をただして仏になり候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候なり』
                                                        (日興上人・歴全1−183頁)

 「ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ」                                                戸田城聖(大白蓮華 昭和三十四年七月号九頁

「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」                                          池田大作(広布と人生を語る8−228頁)


:在家は僧に勝るのか?血脈は本当にいらないのか?

 『仏宝・法宝は必ず僧によって住す』(四恩抄 新編御書268頁)

 「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓を引く行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字なき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである」                                  布と人生を語る 2- 37頁) 
 
 
「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益であり、功徳はないのである」    (広布と人生を語る 8-228頁)
  
 『末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべし』(新池御書 新編御書1461頁)


: 唯授一人の血脈相承はウソなのか?

 『釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり』
                  (『身延山付嘱書』新編御書1675頁)

 『但し直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり』(『百六箇抄』御書1702頁)

 「この法、すなわち末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人が、お伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認めくださっているのである。ここに、令法久住があることを知らねばならない。したがって、われわれは総本山を外護申し上げ、御法主日顕上人猊下の御指南のもと、僧俗和合の道を歩みゆくことが正しいのである」                         (広布と人生を語る4-67頁)

                         

: 日顕猊下を僧宝として敬うのは間違っているのか?

 『南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師』
                                                    総本山第二十六世日寛上人 (六巻抄225頁)

 「第六十七世御法主日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。だれ人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである」                                          池田大作(『広布と人生を語る』第二巻一二三頁)

 「そして、御法主上人猊下に対しては、御法主上人猊下こそ経文に説かれている遣使還告のお立場で、すなわち大聖人様と拝してお仕え申し上げていくことでありました。これが唯一の学会精神であります」 
                            
池田大作(『会長講演集』第四巻145頁)

 **********

これでもまだ「狂った指導者」悪鬼天魔の大増上慢池田大作と一緒に「未来永劫堕地獄」に行きますか?
現世など一瞬のことですよ?破綻している「狂った創価仏法」に、いつまでもしがみつきますか?


   『小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ』  (『光日房御書』御書962頁)

 

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コウ様へ。  投稿者:大月天  投稿日: 616()190153

全くその通りでございます。なぜ、あの博士の仲間達は、コウ様の言われていることが理解出来ないのでしょうか。もう歯がゆいというか、何と言うか呆れてモノも言えません。しかし、言わなければ【仏法中怨】として、ご本尊様からお叱りを被ります。だから忍耐強く、心底には慈剣の心をもって、彼等を救っていかなければならないと思います。
 現実主義に陥った池田博士の仲間達に、今から拝する御聖訓の意を理解しろと言うほうが無理かも知れませんが、敢えてここに御提示させていただきます。

◎ 『恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世なり。而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡(えら)ばず主の仰せに順はんと云う事、
 愚癡の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝に過ぐべからず。』
聖愚問答抄


 『死んだ後の事など関係ない!』などと胸を張る学会員も多いとか。あなた方、ホントに仏教徒ですか? と尋ねたくもなるのですが、よく考えてみれば、彼等は創価教徒なので、それも致し方無いかな、と思う昨今なのでございます。
コウ様。すみません。何か長くなってしまいました。それでは失礼致します。

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大勝利さんへ  投稿者:やまさん40  投稿日: 616()210621

@     法華玄義に「前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。
  涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。」
とは、
三種教相事に大聖人様が『玄の十、四に云はく』として引用されております。

 
 
また観心本尊抄には
  『所説の法門も亦天地の如し。十界久遠の上に国土世間既に顕はれ一念三千殆ど竹膜を隔つ。
 又迹門並びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意・易信易解、本門は三説の外の難信難解・随自意なり。』
と、法華経の三説超過、難信難解・随自意を示され、更に本迹相対に言及されております。

 

A    >仏性には夫々に違いがある  >御法主は大聖人と全く同じ御内証

これは私の言ではありませんし文章の前後関係がわからないので推測に過ぎませんが、おそらく「仏性と一言に言っても三因仏性がある」との意味か、
「御本仏大聖人様の仏性と、仏に導かれる我々の仏性には平等の中にも差別が有る」との意味でなのでしょう。

 また
 >御法主は大聖人と全く同じ御内証
 
は、言いたいことは分りますが、<自解仏乗の御本仏の御内証>と<弟子である法水写瓶を受継ぐ御法主の内証>の差別・総別はあるべきと私は思います。

 

B>蓮祖大聖人と日顕師とでは、どちらが<主>でどちらが<従>でありましょうか?是非、屈託無い御意見を御聞きしたいと思います。

  大聖人様の御出現・御化導、また宗祖よりの御相伝がなければ日蓮正宗もありませんから、仏宝たる大聖人様が<主>。
 僧宝である猊下が<従>は当
然でありましょう。

  また僧宝の中にも随一の日興上人が<本>。日目上人以下御歴代法主上人様は<従>であると拝しております。

また僧俗の筋道としては
   
『比丘の信行は俗の修学に勝る。又比丘の信行は俗の終信に同じ。俗の修学解行は信行の比丘の始信に同ず。』
と得受職人功徳法門抄にあるが如く、僧俗に本従の筋目を尊信していくのが法華講の信心であります。
 

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管理人・やまさん40 さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 616()2121

テーマと関係ない愚論を何とかしてください。

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沖浦君へ  投稿者:sinn  投稿日: 616()230254

『夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり(乃至)日蓮は日本国の諸人に主師父母なり』 開目抄


 
の御文より、尊形するべき対象(仏・日蓮大聖人)が迹であり、日蓮大聖人を尊敬申し上げる衆生が本である。という、論を、
この引用の御文と整合性ある回答(もちろん御書を引用して)をしてください。

 私は御書でお尋ねしていますよ。

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卞氏さん&法華講のおばちゃん  へ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 616()231055

  富士宗学要集掲載の「本因妙抄」の後加文  『又日文字の口伝・・・』について。  


 富士宗学要集(第一巻)掲載の「本因妙抄」の最後部『又日文字の口伝・・・・』には、編者の第59世・堀日亨上人によって一重線が引かれております。
宗学要集の線引きについては堀上人自らが

  <後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて、読者の注意を促す便とせり。>(富要集・第一巻25頁)と定義付けておられます。

 御書として伝えられている御文のうち、

・一線を引いた部分は、後加文と推察されるが相伝の上から教義的に判断して誤りではないと判断する箇所。

二線部分は教義的に疑義ありとする箇所であると、読者の研鑽の便宜上区別する。ということであります。

つまり、

・一線部は後加文ではあろうが、大聖人様の御意には適っておるので用いる。

ということです。

 なお、富士宗学要集(全10巻)は創価学会が版権を持っている書籍ではありますが研鑽のために有用なので、古書店などで入手できる機会があればお持ちになられると宜しいかと思います。

私は創価脱会前の昭和61年〜平成2年に全巻揃えましたが、現在でも創価学会から販売されているのでしょうか?

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富士宗学要集について  投稿者:sinn  投稿日: 616()232224

 現在、聖教新聞社で販売しているのかは知りませんが、古本屋さんにはたくさん在庫があります。有名所では、東京・神保町の「玉英堂」さん。電話番号はネットで調べてください。
 あと、数年前(えっと、10年近くなるかなぁ)法華講富士会館でも扱っていましたよ。私は、そこで購入しました。でも、安価で入手するなら、古本屋さんですかね。ヤフーショッピングで古本を扱っているので、探してみるといいと思います。後は、「スーパー源氏」という古本のHP。こういうのもあります。
 テーマに無関係の書き込み、失礼しました。

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Re:結論が出たと思いますが  投稿者:やまさん40  投稿日: 617()001154

沖浦様へ

>すでに仏の出現は迹、衆生の共済が本、が証明されたと思います。
とは、どのように証明されたのでしょうか?sinnさんの言うように、御書による論証はまだでしょうか?
 
 
また、すでに現証としてもRe:木を見て森を見ず  6/130023
平成3年以降の14年間に、創価学会が大衆文化に影響を拡大し、公明党が政権与党になり創価文化が広く流布された時相と時を同じくしてこの国が三毒強盛の様相を更に深めている邪法乱国の事例をあげましたが、私はこの事についての創価学会員からの冷静な説明を聞いたことがありません。

 「仏の出現は衆生の救済が目的である」ことと、「出現が迹で、救済するという行為が本」また「救済される衆生が本で、救済するために出現した仏が従」というのは、違う次元のお話です。どうやったらそのように結論付けられるのか論証して下さいませ。
  
現実にこの娑婆世界に出現しなければ、どうやって仏様は衆生を救済するというのですか?

現実に娑婆に出現すること自体が仏様の衆生救済の具体的行為の第一歩ではありませんか?

それとも末法の仏は法身仏なのでしょうか?

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管理人・やまさん40さん  投稿者:大勝利  投稿日:617()002820

ABにて御返答頂きましてありがとうございます。少し安堵いたしました。 
詰り、日顕師が<従>であるという事ならば、「法主本仏」は明確に否定なさるという事でよろしいのでしょうか?

>玄義の十

 「判教」の「大意」の部分ですね。

  当に知るべし。仏意は深遠にして、弥勒も為す所の因縁を識らず。況や下地の二乗・凡夫等をや。
 文に云わく、唯だ我れのみ此の相を知る。十方の仏も亦た然りと。

  又た、己今当の説には、最も難信難解と為す。前の経は是れ己説にして、随他意なり。彼れは此の意を明かさざるが故に、信じ易く解し易し。
 無量義は是れ今説にして、亦た是れ随他意なり。亦た信じ易く解し易し。涅槃は是れ当説なり。先に已に聞くが故に、亦た信じ易く解し易し。

  将に此の教を説かんとするに、疑請重畳なり。具さには迹本の二文の如し。請を受けて説く時、ただ是れ教の意を説くのみ。教の意は是れ仏意なり。
 仏意は是れ仏知なり。仏知は至って深し。』


>真言見聞(1272年)

(注*文末の >真言見聞(1272年) は同御書中の『凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。』の御文から学会側の主張するいわゆる法主本仏論なるものに言及しようとしたものか?と思われるが詳細は不明。なお、引用御書当に知るべし。仏意は深遠にして・・』は「三種教相事」の御妙判。

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それでは  投稿者:沖浦克治  投稿日: 617()064455

少し冷静になりましょうね。
    ・AのためのBなら,Aが目的,Bが手段。
    ・民衆のための仏法なら、民衆が目的、仏法が手段。

この点は如何かな?

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sinn さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 617()064614

まず、世法で実証してから法について語りなさい。

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管理人様  投稿者:沖浦克治  投稿日: 617()064858

創価学会破門と日本の国の乱れは日蓮正宗の責任ですが、現テーマとは無関係です。
その件でのお話をする場所をご提供になれば、参加をする創価学会員がいると思います。

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管理人様  投稿者:卞氏  投稿日: 617()085413

>後加文と推察されるが相伝の上から教義的・・・

 詳細な引用を頂き、ありがとうございます。正宗では教義として用いますが、学会では用いません。以降の発言は貴方の取捨判断の範疇と存じます。
 沖浦氏の指摘にもあるように、後加文である以上、義を判定するうえでは対象外ということでよろしいかと思います。
 なお、書籍として学会では一般には販売していないみたいですが、詳しくは知りません。

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やまさん40さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 618()074556

>現実にこの娑婆世界に出現しなければ、どうやって仏様は衆生を救済するというのですか?
現実に娑婆に出現すること自体が仏様の衆生救済の具体的行為の第一歩ではありませんか?

その通りです。最初からそのように言っております。

仏の出現の目的は衆生の救済にあります。目的が本です。文法上、そうなるのですよ。もし衆生が仏の出現を目的として出現するのであれば、衆生が迹になります。

貴方が、仏が本、衆生が迹。の証明を試みられるなら、御書の中から、衆生は仏の為に出現する。とのご文を探し引用せねばなりません。

その場合は、現実に衆生の救済を目的として、仏が出現をする。とのご文が多くありますので、何箇所か御真筆の中から引用が出来れば、そう言う見方もあるな。

程度の証明にはなるでしょう。今しばらくお待ちしてもいいですよ。

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富士宗学要集について  投稿者:沖浦克治  投稿日: 618()090615

ここに少しありますよ。http://nakanihon.net/nb/yousyuu/mokuji.htm

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管理人様へ。テーマ・主従(本迹)論に問う  投稿者:大月天  投稿日: 618()110023

2日間に亘り出張、先ほど帰宅……まぁ、それは、さて置いて
この【破折法論館U】のページを開けさせて頂く度に、何かとテーマの内容が気になります。新参者ゆえ、テーマの決定がどう成されたのかは判りませんが、どうしてもテーマの内容が気になるのです。
   仏は衆生の救済のために出現される仏の出現が従 衆生の救済が主。
   仏が迹・衆生が本。
過日、このテーマについて、多少なりは触れましたが、何者かによる対論の誘導によって恐れ多くも、我らの立場にして大聖人様が主・御法主上人が従との対比にまで論が及び、剰え、私教の徒輩らが大法を護持する聖僧に対し奉り『仏の代理人』などと毀損するに至っては、興門正統の一員として、これ以上の放置は忍び難く、以って此に我が論説を述べて議題への結論と成し、併せて、私教徒らが吹聴する摧尊入卑なる言動を、此に於いて大いに破折したいと思った次第でございます。
 

まずもって述べたいことは、世々番々に出現する仏と、その国土に住する衆生との関係を、()()に分別し、そのことをもって本迹を決するというテーマ自体に問題があるのではないかと思うのであります。
 それは何故かと申しますと、第一義、つまり仏の出現に関する一番重要な点から言いますと、仏は必ず衆生の機根に応じて出現する、ということなのであります。四義、つまり【時・応・機・法】をもって、仏と衆生の関係を考えなければならない、ということであります。時とは仏の出現及び出世を指し、応とは衆生の機根に応じて仏が出現し法を説くを指し、機は衆生の機根を指し、法は出現した仏が弘通せしめる法体を指すのであります。まず、これら四義によって考えますれば、仏と衆生との関係は、主と従ではなく、それは縁と因であり、しかもその両者は倶時一体のものではないかと思うのであります。

 就註法華経口伝(御義口伝)上に曰く
  『衆生に此の機有って仏を感ず故に名けて因と為す、仏機を承けて而も応ず故に名づけて縁と為す。是を出世の本意と為す』
と。この御聖訓を受けて、上記の四義を現時に当てはめてみるならば、時とは末法であり、応とは御本仏・日蓮大聖人様の御出現であり、機とは我ら末法の衆生であり法とは本門戒壇の大御本尊を基とした三大秘法を指すのであります。

 
また、重ねてこの四義を如来寿量品第十六の長行中、法説の部位に合わしてみるならば、
  『爾時世尊。知諸菩薩。三請不止。而告之言。如等諦聴。如来秘密。神通之力』
つまり「爾の時」が時、「仏告げて云く」が応、「諸の菩薩」が機、そして「如来秘密神通力」が法となるのであります。

続いて如来滅後五五百歳始観心本尊抄に曰く
  『此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以って幼稚に服せしむ』

この文意を明かさば、「此の時」が時、「地涌の菩薩始めて世に出現し」が応、「但妙法蓮華経の五字を以って」が法、「幼稚に」が機、となるのであります。仏は必ず衆生の機根に応じて出現すると、小生が冒頭に申し上げましたが、これを衆生の機根に絞って考えてみるならば、先ほどの観心本尊抄の御文中「幼稚に服せしむ」に注目したいのであります。
 ここで言うところの「幼稚」とは、当然のことながら本未有善たる我ら末法の衆生を指し、「服せしむ」は仏の立場を指しております。過日の記述で小生は、「大聖人様は四弘の能化たる仏様である」と申し上げました。能化とは教化する人師を指し、対比する所化は教化される人を意味します。つまり、総じて言うならば、能化たる仏に対して、一切衆生はすべて所化なのである。ということであります。

 
 
もう、お解かりでありましょうか。つまりは、小生が思うに【仏が従・衆生が主】【仏が迹・衆生が本】という問いかけは、どう考えて見ても頷けないのであります。むしろ我が宗門の解釈には無い、何か、附仏法といか、在家中心主義たる学仏法の匂いがプンプンするのであります。もし、そうであるならば、当テーマの終結を急がなければならない。理由はただひとつ。「狂人走れば、不狂人も走る」つまりは、法を下げてしまうからである。我ら日蓮正宗こそが法華折伏・破権門理を為す立場なのであり、それ以外の邪宗教は、我ら宗門に対して、批判こそすれ破折する立場には仏法上なり得ないのである。

 さて、いよいよここに、当テーマに隠された御聖訓を披露致し、正しき解釈を以て述べ奉り、最後に開目抄の御文を明示して、異流義への警鐘と為し、完記にしたいと思います。 
 
 
諸法実相抄に曰く
   『されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身  にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』

どうでしょうか。当テーマの【衆生が主本 仏が従迹】……ありましたね。この御文を以って論理を展開させ、仏法の真実義は実は民衆にあり、民衆こそが主体なのだ! と今にも叫びたい御仁もいるのでは
 しかし、この御文の意は、その様な軽薄な心では読むことが出来ないのです。
まずもって『されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり』 ⇒ ここで用の仏とは、法身を体とするのみにて、実体に対する作用・働きをいい、次の『妙法蓮華経こそ本仏にて御坐し候へ』の本仏に作用を受けるが故に『用の仏』というのであります。
 

次に『経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし』 ⇒ 基本的というか本源的というか、この全宇宙法界は、すべてこの【如来秘密神通之力】によって動いております。当然、我々の内にも命の力用として内在しておりますが、具現が大変なのであります。実感としての体得も、正境に帰命しなければ不可能です。【如来】とは別しては御本仏・日蓮大聖人様の御ことであり、【秘密】とは別して本有無作の南妙法蓮華経を指し、【神通之力】とは同じく別して我々が総本山から頂いている、ご本尊様の偉大な御力を指していると思うのであります。 

よって文脈を整理するならば、如来秘密は体(本体)の三身であり、神通之力は用(働き)の三身となるのであります。続いて『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり』 ⇒ さて、重要なポイント【文上だけの解釈によって歪曲され、在家至上主義の依文とされやすい】。ここは間違いなく、大聖人様の示同凡夫なる御姿を理解しなければ読み違います。

 『凡夫は体の三身』大聖人様の御ことであります。

 『仏は用の三身』釈迦・多宝・十方三世の諸仏を指します。

ところがここに、本仏も迹仏も入るのです。しかも、ここでいう【本仏】も凡夫のことをいい、【迹仏】も仏を指しています。一体どういうことなのでしょうか。それは次の御文にあります。

『然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云う事をば衆生しらざるなり』
どうでしょう……【倶体倶用の三身】これこそがポイントでなのであります。倶体倶用とは、寿量品文底の本仏が【体】と【用】を共に具えていることをいいます。しかも倶体倶用の三身は、必ず無作なのであります。これら実体と作用をして、その本源こそ人法一箇の無作三身如来なのであります。したがって結論を言いますれば、仏と衆生は一体不二であり、その連結はすべて三因仏性であり、倶体倶用であり、総別に於ける生死一大事因縁の血脈なのであります。仏と衆生の間に隔たりはありません。あるとすれば、それは衆生の方に起因します。そうです、謗法という身口意に於ける反作用が、仏との融和を遠ざけてしまうのです。正境に対していても、それなのですから……まして【但体無用】なる邪境に帰命するならば、如来の秘密なる神通の力によって、その色心は必ず鬼魅に食されていくのであります。

 さて! 最後に附仏法・学仏法を標榜する諸君らに、五大部たる開目抄(上)の一節を送る故、胸に手を充てて、悔悟の念を起こし、もって正境に就かれんことを、ここに強く願うものである。曰く

  『即ち在家の身を以て仏法を破壊す。此の人正教を偸竊して邪典に助添す。高きを押して等とは、道士の心を以て二教の概と為し、
  邪正をして等しからしむ。義是の理なし。會て仏法に入って正を偸んで邪を助け、八万・十二の高きを押して五千・二篇の下(ひく)きに就け、
  用て彼の典の邪鄙の教へを釈するを摧尊入卑と名づく』

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やまさん40様へ  投稿者:大月天  投稿日: 618()115356

何か、突然入り込んでしまった様な。先日は、ご丁寧なメッセージ、誠にありがとうございました。今後とも宜しくお願い申し上げます。

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大月天さんへ  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 618()152153

大月天さん、テーマの核心を突いた投稿ありがとうございます。
現在のテーマは当板開設以前(5月末)にtoyoda.tv http://toyoda.tv/ のBBSで私と沖浦様が、聖人御難事・出世の本懐についての討論をしていた際に、沖浦様から 
   
>仏が迹、衆生が本  

   >お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹
との内容の投稿があり、それを引き継いだものです。
【仏が従・衆生が主】【仏が迹・衆生が本】という問いかけは学会側(沖浦様)から出てきたものなので、タイトルを不適切に思われるかもしれませんが、そのまま「お題」とした次第です。
 
 
大月天さんご指摘の諸法実相抄の御文に関しても、一度は学会側から同文をあげての投稿がありました。それに対しましては6/2に私から簡単に反証を投げかけましたが、学会側からの反論は今のところありません。当板は1対1の対論ではないので、大月天さんの説明を、双方の投稿者やギャラリーに、もう少し丁寧に説明をいただけると、テーマの核心に更に突っ込んだ展開となっていけることと思いますので宜しくお願いします。
 また『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候』(曾谷殿御返事)の御文についても、卞氏から6/9に創価仏法の立場から「文上の」解説があったのに止まっております。

 私が結論を急がず現在のテーマにもう少し時間をかけたいと思う理由は、創価仏法の誤りが、已成の仏と当成の仏の差別を知らぬがゆえに総別二義や本従の筋道に迷い[己心仏性]のみにとらわれて、境智冥合・四力合一の功徳を忘れ
口に妙法さえ唱えれば御本尊様を離れても衆生本来の仏界涌現があると錯覚するにおちいる、主師親三徳の仏様に対する不知恩にあると考えるからなのです。

実は創価学会員だけでなく、私を含む創価脱会組の法華講員にも、この創価思想の残滓はしつこく残っており、宗祖日蓮大聖人様を正しく拝することの妨げ、破門に前後して学会が削除した御観念文(人法一箇、一身即三身・三身即一身など)を正しく信解する妨げとなっていることを日々感じています。私には、創価学会の僧宝に対する軽視は、実はこの御本仏(仏宝・法宝)に対する不知恩・軽視が根源にあると感じられて仕方がありません。また法華講員にあっても今年は「僧俗前進の年」であり、この本従の筋目、主師親三徳に対する尊崇を丁寧にきちんと見直す次期でもあると思います。

・・・なお当板管理人として実名投稿者には「様」の敬称で呼ばせていただいております。

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やまさん40様へ  投稿者:大月天  投稿日: 618()16207

了解致しました。
やはりそうでございましたか。どう見ても、頭の中が逆さまになる様な議題だったものですから。失礼の段、平に。
 それにしても御宗門や御歴代に対する、こまごまとした悪口雑言は凄まじい。さしもの墨平三郎もビックリするんじゃないですか。以後、お見知りおきを。 

(注*墨平三郎とは ・・・ 日有上人御物語聴聞抄に、
      「
上代にも事のほか不信なる人有り、高祖聖人 身延御住の御時、
     本は京都の人なり 四条の中務と云う人とともに 墨平三郎と云う人 御前にて憚りなく一座の口論有り、
     本より中務は信心も有り当面の道理もありけるや 墨平三郎を座を立て給ふ、
     墨平三郎腹を立てて申す様は『日蓮聖人は昼は諸宗無間と折伏し、夜は念仏を被れと申し候』と讒言を申す
」 
    とある。)

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やまさん40さんへ  投稿者:大勝利  投稿日: 618()182350

>創価脱会組の法華講員

学会では、「脱講組の学会員」との呼び方は一切致しません。私は、貴殿の其の<差別感>に対しては厳しく批難しておきます。

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法華講ではね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 618()192419

創価学会を退転して宗門に走った人を、学会崩れ。と呼んで馬鹿にしているのですよ。

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終了です  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()10374

法論館[別館]での法論は、私の勝利を持って終了を致しました。ご苦労様でした。

(注*何を以っての[別館]での勝利宣言なのかは不明)

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なるほど  投稿者:sinn  投稿日: 619()115542

こうやって、自分の恥をさらしていくんですね。道理でだれも、援護に来ないわけだ。

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ふっふっふ  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()123245

青年よ一人立て。ですよ。

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()205941

衆生が仏の出現を目的とする存在。との、御文証の引用がありませんが、これで終了と致しますか?

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次はこのテーマですが如何ですか?  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()210146

お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹

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以下の条件を守れるお方を法華講から募集いたします。  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()215832

引用は蓮祖ご真筆に限る。世間の知恵、知識、常識は用いてもよい。

創宗離反以前の双方の指導や講義に引用は控える。(双方がこれを持ち出すと泥仕合になるのみです。)

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所感  投稿者:沖浦克治  投稿日: 619()222928

敦煌。今見終わりました。

仏教の伝来が出家在家の犠牲の上にあったことを生々しく感じ、中でも死期を悟った僧侶が一人洞窟に入り、静かに死を待った事に感動をいたしました。現在では及びも付きません。やはり現代社会で出家制度は、もはや意味をなさないのでしょう。

注*NHKスペシャルで放映された 新シルクロード 第6集 敦煌〜石窟に死す〜 http://www.nhk.or.jp/special/onair/050619.html のこと

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沖浦氏へ  投稿者:大月天  投稿日: 620()060927

御仁の目はいったいどこに付いておるのだ! ページを戻して刮目したまえ!
結論はとっくに出ているんだよ。文上ばかりをペロペロ舐めて、悦に入るのはよしたまえ!御仁の質問たるは「般若より華厳が優れたるを、阿含をもって証明せよ」という愚問と同類である。

次っ! 題目が本で御図顕が何だって? 質問が違うだろう。本門の題目と本門の本尊との関係を教えて下さい。これでよい!テーマにするほどでもないわ!一大秘法も知らないんじゃ話しにならん。いつも思うことだが、御仁のそれは全く動執生疑になっておらん!

次の次っ! 詭弁はやめたまえ。御仁は小生に言った「嘘でした」と。幾百万の在家の長が、保身のために二枚舌を使ったというかっ! そのこと戸田先生の御前で申せるかっ!歴代の会長をはじめ、学会の大幹部達は、法戦を展開する学会員に対し、日蓮正宗を基とする異体同心をもって、正しき指導をしてきたのである。それに引き換え、今の学会は何だ! 指導が全然違うではないか!我々はその事を言っているのである。それを「以前の指導は引用しない」だと? ふざけるでない!それから【蓮祖】という呼び方はやめろ!御歴代さえも憚る誠に無礼な言い方である!一邪教徒が御本仏に対し、一介の宗祖と見るが如き大言!身の程を弁えよ!我は言う。御仁の命には天魔が住みついているのである。

そして最後っ!  出家は制度ではない! 三宝の一つである。法義と世法をごちゃごちゃにするなっ!断食する小乗の僧などを見て感動する奴がいるかっ!御開山・日興上人曰く『若し爾前迹門の尸羅(※戒律のこと)を論ずれば一向に制禁すべし』所詮、我らが所持奉るところの超八独一たる大法門に、御仁らが作り上げた俄か教義など旭日に消え行く星のかけらにも及ばないのである。  

さてこそ問う!一大秘法とは何か!重ねて問う!文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!

この二つ答えてみよ!

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困ったお方ですな  投稿者:沖浦克治  投稿日: 620()074338

大月天 さん

 仏は民衆の救済を目的としてこの世に出現する。と、御書には随所に説かれてあります。誕生の究極の目的を仏法では、出世の本懐。と申します。あらゆる仏の出世の本懐は衆生(民衆)の救済ですね。この点は仏法者としては常識です。少し詳しく説明いたしますと、出世が手段であり迹、本懐が目的であり本です。目的が本、手段が迹。文法上こうなるのですよ。それとも貴方は、日本語の文法までを否定するのでしょうか?
 尚この本迹の立て分けは勝劣とは別の概念です。貴方はこれを同一にお考えなので、混乱して仏法の真髄に迫れないのです。今後の世界広布の推進には、この本迹の立て分けが最大の理論的な武器になります。
 すでに創価学会内では常識化しつつあるこの概念が理解できなければ、宗門に世界広布の可能性は皆無でしょう。

>本門の題目と本門の本尊との関係を教えて下さい。これでよい!テーマにするほどでもないわ!

 凄く大柄な物言いですね。この様な表現をなさるのでしたら、今後のお相手はお断りいたします。このテーマは管理人さんが決定されたものですよ。如何に法華講員同士とは言え、他人の主催する掲示板に踏み込み、無理やりテーマを押し付けるとはあきれます。少し世の中の常識をわきまえてくださいね。貴方が貴方のテーマで掲示板をお立てになれば、ルールを決めてそちらにお伺いいたします。貴方のテーマはそちらでお願いいたします。

ここの管理人さんと私達は一つの約束をしております。ここでは感情的な表現を創価学会員、法華講員双方が慎むと言うことになっております。お守りになれないようでしたらこないで下さいませ。

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それでは  投稿者:沖浦克治  投稿日: 620()074654

>さてこそ問う!  一大秘法とは何か!重ねて問う!  文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
 この二つ答えてみよ!

以上のテーマで掲示板をお立て下さい。お伺いいたします。

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管理人殿  投稿者:沖浦克治  投稿日: 620()074817

どうも協調性に欠けるお方の乱入です。この掲示板が荒れては何にもならないと存じます。善処を下さいませ。

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それともね、大月天さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 620()07537

http://fboybbs.dip.jp/index.php こちらでやりましょうか?

注*リンク先は創価学会員が運営するサイト“富士宮ボーイ掲示板” 

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こんにちは。  投稿者:卞氏  投稿日: 620()094927

 応援がどうのこうのという話が出ていますが、こちらとしましては、基本的に沖浦さん一人で「十分」と思っています。
 衆生と仏の本迹は、沖浦氏言説への反論者が、内容を「理解できるか否か」だけの問題とお見受けします。

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沖浦氏へ  投稿者:大月天  投稿日: 620()214040

場外でと言うことか?  それもよかろう。しかし考えても見よ。御仁のような平成2年以前の記憶が、魔の通力によって封鎖されている現状に於いて、果たして真面(まとも)な論議が出来得るのであろうか。先に急ぐことでもあるまい。第一、小生からの詰問に御仁は答えておらん。
  一大秘法とは何か!
  文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
御仁は「テーマ! テーマ!」と叫ぶが、上記の2問こそ、当該テーマの核心に迫り得るキーワードではないのか? 特に【一大秘法】は、すべての論議の枝葉を払拭する、誠に重要な論点である。見逃す手はあるまいに。
 それから今ひとつ、今朝、御仁から送られた文言。

>尚この本迹の立て分けは勝劣とは別の概念です。貴方はこれを同一にお考えなので、混乱して仏法の真髄に迫れないのです。

  一体、別の概念とは何か! それは単なる御仁の概念であろう!いい加減なことを言うものではない! 仏法に於いて、本迹の立て分けは、必ず勝劣に及ぶのである!

   大聖人様曰く  『今日の本果は従因至果なれば本の本果には劣るなり。寿量の脱益、在世一段の一品二半は、舎利弗等の声聞の為の観心なり。
          我等が為には教相なり。情(こころ)は迹は劣り本は勝るとなり』

しっかりと刮目されよ。そして後に、次の御文を心して拝せ! 特に、御仁の為に選んだ御聖訓である。
 大聖人様、重ねて曰く『世間の罪に依って悪道に堕ちん者は爪上の土、仏法に依って悪道に堕ちんは十方の土の如し。
          其の故は信心の根本は本迹勝劣、余の信心は枝葉なり』

百六箇抄を読まれよ。 

追記・・・小生は至って冷静である。がしかし、邪論と誹謗に対しては、法華の慢により文面に於いて、烈火の如く破折す。御仁もお解かりであろうが、これは折伏なのである。申し訳ないが、私用のため外出するにより、ご返答はご随意に任せる。   失敬

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大月天さん  投稿者:沖浦克治  投稿日: 620()215712

貴方の我見を論破するなどは非常に容易です。が、今はテーマが違うのです。 それぞれがそれぞれの設問をし、それぞれがばらばらに返答をすれば終止がつきません。それで焦点がぼやけないようにテーマを絞る事で、創価学会法華講双方が合意をしております。

貴方が掲示板を建てないならば、若鷹か、富士宮ボーイで如何ですか?無論、貴方のご指定の掲示板でも結構です。

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皆様へ。沖浦様へ。  投稿者:管理人・やまさん40  投稿日: 621()003057

* 皆様へ / 最初のテーマが終結しておりませんので、次のテーマへの移行は暫くお待ちください。 *
 

 次のテーマ、私は「一大秘法」「本門の題目と、本門の本尊との関係」でもよろしいかと思います。これは最初のテーマ候補にもありました。

>お題目が本、そのお題目を唱える対象としての御本尊御図顕が迹(沖浦様の投稿から)

 とも重なるテーマでもあります。これこそ日蓮正宗の教義と、以外の日蓮系教団(創価学会を含む)の教義の根本的相違点なのですから。


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* NHKの新シルクロード「敦煌 石窟に死す」 *

私も見ましたが、相変わらずNHK(に限らずTVで仏教をとりあげる場合全般に)には無常観に偏った念仏系の影響が強いですね。

5月放送分の「天山南路」での羅什三蔵も、公営放送で「法華経が釈尊出世の本懐である」と言うわけにはいかないのでしょうが、
法華経訳よりも「色即是空 空即是色」に偏重した構成で物足りなさが残りました。

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* 沖浦様には勝利宣言の前に、法華講側から問われている<御書による論証>をお願いします。 *

>衆生が仏の出現を目的とする存在。との、御文証の引用がありませんが・・・

 田である衆生は、仏の出現・化導を信受することなしに、内在する正因仏性を開花させて自ら成仏を遂げることが出来るのでしょうか?

 『法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。』(曾谷殿御返事)

『うへて』(植え手)は種の持ち主であり能動の主体であり、『田』は種を受ける従の立場である。これが「常識的な」説明であろう。

 仏様に仏種を下して頂かなければ、田はどんなに手入れをしても実りの秋を迎えることはないのである。種を蒔かずとも、耕して引水さえしていれば何かを収穫できるのであろうか?たとえ生えたとしても雑草の類であろう。それでは信力行力のみで利益を得ようとしているようなものではないかと思うがいかがなものか?どんなに丹精込めて耕しても、仏種を植えていない心田では

『若し心外に道を求めて万行万善を修せんは、譬へば貧窮の人、日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。』

と一生成仏抄に仰せの通りではないか?

 仏様の出世の目的は、衆生に仏の種を植えて化導し、衆生を成仏の境界へ導くことであり、
我等衆生は仏に導かれて仏果を成就することをを目的として娑婆世界に生まれる存在である。

衆生の信力行力は、仏様(御本尊様)の仏力法力と感応し境智冥合する、四力合一の果報によって功徳を成ずるのではないのか?

『今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意、衆生成仏の直道なり。』(聖愚問答抄)

と。また法華経寿量品に『衆生所遊楽』とはこの事ではないか。

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* 大月天さんへ *

> 一大秘法とは何か!
  文底秘沈はいずこの御文に沈められたるや!
  ・・・・上記の2問こそ、当該テーマの核心に迫り得るキーワードではないのか?

 特に【一大秘法】は、すべての論議の枝葉を払拭する、誠に重要な論点である。

私もこの意見に同感です。だからこそ当板開館時最初の投稿に

創価学会は宗旨の根本である三大秘法が不明であり戒定慧の三学が備わらず宗教と呼ぶことができない。
 宗祖日蓮大聖人様は聖密房御書に[宗教の定義]を述べられています。
 曰く『宗と申すは戒定慧の三学を備へたる物なり』と。
 「創価学会は何宗なのですか?」創価学会は何宗でもありません。
 それは創価学会が宗教とは呼べない存在だからです。
 まずは法の正邪を論ずる前に、創価学会が「宗教」であるとするならば、
創価学会の三大秘法<本門の本尊と戒壇と題目>を明らかにして頂きたいと思います。

として、こけらを落とさせていただいたのです。しかし、最初のテーマが終結しておりませんので、次のテーマへの移行は暫くお待ちください。

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大勝利さんへ  投稿者:やまさん40  投稿日: 621()020347

ちょっと横道にそれますが、 >創価脱会組の法華講員 という言い方について、一度書かせていただきますね。

 これは誰に言われるでもなく私自身が肝に銘じていることなのです。宗内や法華講内に差別体制があるとかという話ではございません。今回のテーマについても、私自身、創価学会当時に池田会長の御義口伝講義や、戸田〜池田版の開目抄・観心本尊抄講義を読んで、現在の学会員の方達の考えと同じ落とし穴に嵌り、地獄に堕ちた経験があります。
 
 
家系代々の日蓮宗から19歳で日蓮正宗に入信し創価学会員として信心修行をした時にも感じましたが、邪宗教から正法に改宗したからといって、その日から邪宗の害毒が全て消えて清浄になるわけではありませんから、代々宗門を外護してきた先輩達や、私が平成3年に創価脱会して後に入信した親兄弟や次世代の眷属、また日蓮正宗信信徒の家に生まれた子供達とは、無視できない機根・因縁・宿業の違いを感じざるをえません。
 
 
当体義抄に
   『法性の妙理に染浄の二法有り。染法は薫じて迷ひと成り、浄法は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。』
との御聖訓があります。創価学会当時に染み込んだ信行学にわたる習気(じっけ)が、脱会後の信心修行にどれほどの妨げになっているか。これは太陽が昇って陽光に照らされ、初めて自身のみすぼらしさに気付くようなもので、創価脱会して法華講員になった者にしか解らないものでしょう。

 
 
私は自らの命を浄化していくためにも、自分の己心中の邪宗教の害毒を見つめていこうと思い、あえて自分をこのように呼ぶことがあるということです。
(しかし、学会崩れなどという自らの仏性を卑しむ言い方は今はしません)

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すでに  投稿者:沖浦克治  投稿日: 621()064414

決着はついています。貴方方の理解力が、蓮祖の法についていけないのです。

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それとね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 621()064520

>創価学会当時に染み込んだ信行学にわたる習気(じっけ)が、脱会後の信心修行にどれほどの妨げになっているか。

これ自体が日蓮正宗の害毒ですよ。

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理解をしてくださいね  投稿者:沖浦克治  投稿日: 621()072519

 >沖浦様には勝利宣言の前に、法華講側から問われている[御書による論証]をお願います。

 何度も御書を引用していますよ。貴方方に理解能力が無いのです。御書を理解できず、読めないことは、相伝の無い日蓮正宗の邪義によるのです。
これは私の責任ではありません。

>田である衆生は、仏の出現・化導を信受することなしに、内在する正因仏性を開花させて自ら成仏を遂げることが出来るのでしょうか?

 出来ませんよ。何故そのようなことを聞かれるのですか?私は一度も否定をしていません。

>仏様の出世の目的は衆生に仏の種を植えて化導し、衆生を成仏の境界へ導くことであり、

 ですから迹なのですよ。

>我等衆生は仏に導かれて仏果を成就することをを目的として娑婆世界に生まれる存在である。

 これは明らかに違いますね。衆生が、仏に出会い正しい法を聞き、それを信じ、行じ、成仏に至る可能性は限りなく小さいのですよ。一眼の亀のたとえはご存知で しょう。衆生は、仏の出現とは無関係に生死を繰り替えし、その無量の人生の中で仏を本当に必要とする機根が衆生全体に訪れた時、衆生がその力で仏を呼び出すの です。それが感応妙です。衆生が仏の必要を感じ、仏はその衆生の要求に応して出現をするのです。仏の出現自体が衆生の要請に応じる行為であり、ここでも衆生が 本、仏が迹なのです。

ライン ドット

文証の挙げ方について。