【破邪顕正】創価教義検証館
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【宗教法人創価学会の教義を検証する】
創価教義の検証と破折
〜破門独立後の池田名誉会長による独自の法義解説を破す〜


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《管理人=やまさん40@山下 (法華講員)》
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− 第三回 −

2・「脱・日蓮本仏論」を破す@


・邪説の文証を挙げる 

法華経の智慧 〜二十一世紀の宗教を語る 第五巻 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20刊) 
   
如来神力品A 上行菩薩へ結要付嘱―― 「人間主義の仏法」の夜明け
「日蓮と同意」で、広宣流布へ立て!!

 (P190〜)
名誉会長(池田大作創価学会名誉会長)  さあ、そこで神力品です。

  神力品の「付嘱」の儀式は、端的に言うならば、「本果妙の教主」から「本因妙の教主」へのバトンタッチです。

 それは燦然たる三十二相の「仏果」という理想像を中心にした仏法から、凡夫の「仏因」を中心とした仏法への大転換を意味する。

 凡夫の素朴な現実から離れない仏法への転換です。


斉藤(斉藤克司教学部長・副会長) 
 「本果妙の教主」というのは、五百塵点劫という太古に成仏した「久遠実成の釈尊」ですね。
   
(注*斉藤氏は現在、総合教学部長)


遠藤(遠藤孝紀副教学部長・墨田区副区長)  
「本因妙の教主」とは、地涌の菩薩のリーダーである「上行菩薩」です。


須田(須田晴夫副教学部長・墨田区副区長)  
「久遠実成の釈尊」は「仏界」を表し、上行菩薩は「九界」の代表といってよいと思います。

 「仏界」の代表から「九界」の代表への付嘱とは、一体、何を意味するのか・・・・・・。

 古来、法華経の一番の難所です。

 

 ・・・・・・・・・・・

 諸仏を生んだ「根源の師」P191〜)

 (P193〜)
名誉会長  全宇宙を揺るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩の功徳を賛嘆しきれない ―― という。これは、ただごとではありません。

 しかも、諸仏が「無量の神力」を現じたのも、将来、仏の滅後に、上行菩薩がこの経を持(たも)っていくことに対して、歓喜したからだという。

 いわば上行菩薩の未来での活躍を祝福しての十大神力です。


斉藤 
これだけを見ても、上行菩薩が、仏法上、特別な、なみなみならぬ存在であることがわかります。

 しかも、宝塔品で、多宝の塔が出現して以来、すべての説法が、この「上行菩薩への法の付嘱」という一点を目指して進んでいるわけです。


遠藤 
釈尊が「仏の神力でも賛嘆し尽くせない」と言ったのは、長行では「此の経の功徳」であり、偈文では「受持の者(上行菩薩)」です。

  一方では「法」であり、他方は「人」ですが・・・・・・。
 

    ―  如来神力品から  ―

  仏の滅度の後に 能()く是の経を持(たも)たんを以っての故に 諸仏皆歓喜して 無量の神力を現じたもう

 是の経を嘱累せんが故に 受持の者を讃美すること 無量劫の中に於いてすとも 猶故(なお)尽くすこ能わじ 

  是の人の功徳は 無辺にして窮りあること無けん   (眞訓P582

  (釈尊は上行らの菩薩に偈を説いて告げる。仏は仏道を求める者のために十神力を現じられる)。
  仏の滅後に、この法華経を(難に耐えて)持つ者がいる故に、諸仏が皆歓喜して、無量の神力を現じられるのである。
  この法華経を付嘱するために、法華経を受持する者を讃えることは、無量劫の時を経てもなお讃え尽くすことはできない。
  この持経者の功徳は、無量無辺であり、限りがない。

 
名誉会長  飛躍した言い方になるが、結論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。

 「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の御本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。

   南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。

 その十界のうちの「仏界」を、法華経では「久遠実成の釈尊」と「多宝如来」として説き、南無妙法蓮華経如来の「九界」を「上行菩薩」等として説いたのです。

   同じ根本仏の己心の仏であり菩薩です。だから、ここでは南無妙法蓮華経如来を賛嘆してもしきれないと言っていると拝してよい。

南無妙法蓮華経如来は、諸仏を生んだ「根源の師」ですから、師匠を讃えていることでもある。


須田
  そうしますと、全宇宙を揺るがす神力をもってしても、讃えきれないのも、道理です。

 「如来の神力」といっても、「神力」は用(働き)、「如来」は体(本体)であり、その如来を生んだ根源が、南無妙法蓮華経如来なのですから。


名誉会長
  しかも、宇宙と一体の仏であるがゆえに、私ども一切衆生もまた南無妙法蓮華経如来の一部である。

 我々十界の衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来なのです。これを教えてくださったのが、日蓮大聖人です。教えてくださったのだから「教主」です。

  

 ・創価学会の教義を検証する 

 これまでの、[法華経の智慧] 〜二十一世紀の宗教を語る 第5巻から、如来神力品@ に続いて、如来神力品A上行菩薩への結要付嘱 を俎上に挙げる。 

 
 前回までの、 如来神力品@ 地涌の菩薩への「付嘱」 〜 「凡夫こそ本仏」の大宣言〜 の中で池田名誉会長は、

 (P174〜
名誉会長  ともあれ、大聖人の御言葉が、全宗教上、画期的な宣言であることは、いくら強調してもしきれない。

 仰ぎ見る対象であった「仏」が「迹」にすぎないというのだから ――。 

  では、なぜ、そう言えるのか ――。 じつは、ここに神力品の“急所もある。

  釈尊から「地涌の菩薩」への「付嘱」とは、「凡夫こそが本仏」という意義を含んだ儀式なのです。

 しかし、あまり先走っても、皆よくわからないから(笑い)、段階を追って、学んでいこう。

 
として、 「仏が迹にすぎない」 とする根拠が神力品に説かれていると解説していた

神力品に、「仏が迹にすぎない」 「凡夫こそが本仏」 とする自説の根拠が説かれていて、それが神力品の“急所”である

というのであるが、これについては一旦先送りにしている。そして一旦、「神通力」についての説明に触れて対談を進めてから、

P177〜)
斉藤  神力品は、この「十神力」のあと、いよいよ地涌の菩薩への「結要付嘱」へと続きます。


名誉会長
  その深義については、次回以降に論じることにしよう。あんまり、いっぺんにやると、皆、“消化不良”で倒れちゃうから(笑い)。

  今回、あらあら神力品を学んだが、要点は 「全民衆よ、汝の尊貴さに目覚めよ!」 という呼びかけです。

 全宇宙を揺り動かす大音声で、そう叫んでいるのが如来神力品なのです。広宣流布へのうながしです。

 人間・釈尊の悲願であった「生きとし生けるものよ、幸福になれ」の実現を呼びかけているのです。


と、 
「結要付嘱」の「深義」、「神力品の要点」は、「全民衆よ、汝の尊貴さに目覚めよ!」 という呼びかけである。 とした後に、

再び講義を先送りして予告のみに止めた結要付嘱の深義についての対談講義へと入っていくのが今回の検証部分である。
 


・・・・・・・・・・ 如来神力品A上行菩薩への結要付嘱 「人間主義の仏法」の夜明け〜 ・・・・・・・・・・
 

 この中で池田名誉会長は、 「神力品の“付嘱”の儀式は、端的に言うならば、“本果妙の教主”から“本因妙の教主”へのバトンタッチです。」

として、如来神力品の要である「結要付嘱」を、「久遠実成の釈尊」から地涌の菩薩のリーダーである「上行菩薩」へのバトンタッチであり、

須田副教学部長も、「結要付嘱」は 「“仏界”の代表から”九界”の代表への付嘱」 であると解説している。

 
 次いで、十大神力について、池田名誉会長は、
 

名誉会長  じつは、仏の滅後に、この経を持(たも)つ人、すなわち上行菩薩の功徳を賛嘆しているのです。それがポイントです。(P192)

名誉会長  全宇宙を揺るがす仏の大神力をもってしても、上行菩薩の功徳を賛嘆しきれない ―― という。これは、ただごとではありません。

 しかも、諸仏が「無量の神力」を現じたのも、将来、仏の滅後に、上行菩薩がこの経を持(たも)っていくことに対して、歓喜したからだという。

 いわば上行菩薩の未来での活躍を祝福しての十大神力です。(P193)
 

と、法華経の功徳を賛嘆する神力に触れた後に、如来神力品から

「以仏滅度後 能持是経故 諸仏皆歓喜 現無量神力 嘱累是経故 讃美受持者 於無量劫中 猶故不能尽 是人之功徳 無辺無有窮」(眞訓P582)

の偈文を引用し、十神力とは 結論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。」 と結論付けている。 

 
 この、 「南無妙法蓮華経如来」 について池田名誉会長は、

南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。」 として、

久遠実成の釈迦と多宝如来の二仏は、根本仏(南無妙法蓮華経如来)の仏界を表す己心の仏であり、

上行菩薩は、根本仏(南無妙法蓮華経如来)の九界を表す己心の菩薩であり、

釈迦仏と上行菩薩は、共に 「宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の“迹(影)”」「同じ根本仏の己心の仏であり菩薩」 であると解説している。

 
 更に、南無妙法蓮華経如来と衆生の関係について補足し、

 南無妙法蓮華経如来は 宇宙と一体の仏であるがゆえに、私ども一切衆生もまた南無妙法蓮華経如来の一部である。

我々十界の衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来なのです。」 としている。


 そして日蓮大聖人については、

「これを我々衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来であるということを教えて下さったのだから“教主”です。」 として、

根本仏の教法を末法の衆生に教えた「教主」、宇宙の根本仏 南無妙法蓮華経如来より格下に位置する「教え主」であると強調している。

 

・神力品の付嘱について 

 まず破折に入る前に、神力品の付嘱の儀式についての理解を助けるために、法華経に説かれる“虚空会”の儀式の概略を整理してみよう。
 
・・・・・・・・・・・

 妙法蓮華経見宝塔品第十一において、多宝如来の七宝の大塔が地より空中に涌現し、多宝仏と並んで塔中内の師子座に就き、

神通力をもって即時に法華経の会座は霊鷲山から虚空に移る。「虚空会」の説法の開始である。

 
 法華経本門に入り、従地涌出品第十五に於いて釈尊は、「迹化の菩薩」による滅後弘教の請願を制止して、大地より無数の「本化地涌の菩薩」を出現させる。

その姿は、「是の諸の菩薩は、身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり。」(開結P408)と説かれるように、釈尊以上の威厳を具えていた。

そして、地涌の菩薩の上首である四大菩薩は、

   「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名づけ、四を安立行と名づく。

  是の四菩薩、其の衆の中に於て、最も為(こ)れ上首唱導の師なり。」(開結P410) 

と説かれるように 「唱導の師」 である。


 次いで釈尊は一代仏教全体の眼目である如来壽量品第十六を説かれて、印度応誕〜三十成道の「始成正覚」を破り、「久遠実成」の本地と三世常住を明かされた。


 続いて釈尊は法華経流通の功徳の広大なることを説き、仏勅を受けた「本化地涌の菩薩」が如来神力品第二十一に於いて滅後弘教を誓願する。

釈尊はその誓願を受けて、諸仏の広大無辺なる仏力を示すべく十種の大神通力を現じて

   「爾(そ)の時に佛、上行等の菩薩大衆に告げたまわく」 

と、本化地涌の菩薩の「上首唱導の師」であり、更に四大菩薩の上首である上行菩薩に対して法華経の滅後弘通を付嘱される。これを「別付嘱」という。

   「諸佛の神力は、是(かく)の如く無量無辺不可思議なり。若(も)し我、是の神力を以て、

  無量無辺百千萬億阿僧祗劫に於て、嘱累の為の故に、此の經の功徳を説かんに、猶(なお)尽すこと能(あた)わじ。」(開結P513)

(称歎付嘱) 妙法蓮華経の功徳は、諸仏のこのような十大神力をもっても説き尽くすことができないが、

   「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、

  如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の經に於て宣示顕説す。」(同)

(結要付嘱) 付嘱のために肝要を四句に結んで申すならば、仏が持っておられる全ての真理。仏の全ての自在なる力用。

         仏の一切の悟りを収めている蔵。仏の一切の甚深の振舞と功徳。これらのすべてが妙法蓮華経に説き尽くされているのである。

と説いて、上行菩薩に妙法蓮華経の肝要を授けられた。これを「結要付嘱」という。

(勧奨付嘱) であるから、あなた方は仏の滅後において、いかなる国土にあってもこの経を固く受持して命を懸けて弘教に励むべきである。

(釋付嘱)   それは、妙法蓮華経の在所はいずれの場所であっても、諸仏が悟りを開き、法を説き、涅槃される道場だからである。

 
 
そして釈尊は、重ねて付嘱の意義を述べるために偈を説き、略して十大神力の五つの神力を挙げて妙法蓮華経と上行菩薩の功徳を賛嘆する。

 (注 * 池田名誉会長が引用した神力品の偈文は、この再度の賛嘆を説いた箇所である。)

  
     「佛の滅度の後に 能く是の經を持
(たも)たんを以ての故に 諸佛皆歓喜して 無量の神力を現じたもう」(開結P515)

    仏の入滅の後に 固く妙法蓮華経を受持するがゆえに すべての諸仏は歓喜して はかりしれない神力を現したのである。 

   「是の經を嘱累せんが故に 受持の者を讃美(さんみ)すること 無量劫の中に於てすとも 猶故(なお)尽くすこと能わじ

  是の人の功徳は 無辺にして窮り有ること無けん」(同)

   この経の付嘱にあたって 受持・弘教する者への讃美は 無量劫の長きにわたって賛嘆してもしきれない

  この人の功徳は 広大にして尽きることがないであろう。

 さらに続けて上行菩薩の功徳を讃美した後に、偈文の最後を、

   「是の故に智有らん者 此の功徳の利を聞いて 我が滅度の後に於て 應(まさ)に斯の經を受持すべし

   このように末法の持経者は仏の如き導師であるから、分別ある者は この経の功徳と利益を聞いて  私の滅後末法において 正直に妙法蓮華経を受持しなさい。

  是の人佛道に於て 決定(けつじょう)して疑有ること無けん」(開結P517)

  妙法蓮華経を信受する人は仏の教えに随って  成仏の本懐を成就することに疑う余地がありません。

と結んで如来神力品第二十一の説法を終わる。 

 
 次の嘱累品第二十二では、上行菩薩への付嘱を終えて、宝塔内の座から立たれた釈尊が、

迹化の菩薩や一会の大衆にも滅後正像二時の法華経弘通の付嘱をされ(これを「総付嘱」という)、宝塔を閉じられて虚空会の儀式は終わる。

 

・神力品の要点とは 

 宗祖日蓮大聖人、『法華取要抄』に曰く、『日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。』(平新P737)

「法華経の肝要を取って」四句に結んで授ける「結要付嘱」を所伝する上行菩薩とは日蓮大聖人ご自身であり、

法華経の肝要とは妙法蓮華経の五字であるとの仰せである。

   「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、

  如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の經に於て宣示顕説す。」(開結P513)

という四句の要法の中でも、その源である要言の法とは、

   『実相証得の当初(そのかみ)修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。』(三大秘法稟承事・平新P1593) 

と仰せられて、本門の本尊と戒壇と題目であることを御教示され、日寛上人は「文底秘沈抄」に、

   「教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。」(六巻抄P64)

と、結要付嘱の正体が三大秘法の中心である本門の本尊であることを御指南されている。

 
 また、宗祖日蓮大聖人、『生死一大事血脈抄』には、

   『夫生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり。其の故は釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、

  此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫より已来(このかた)寸時も離れざる血脈なり。』(平新P513)

として、釈尊からの最重要の血脈相承とは妙法蓮華経の法体相承であり、

如来神力品で地涌の菩薩の「上首唱導の師」である上行菩薩に付嘱された妙法蓮華経の五字は、

過去遠々劫より常に日蓮大聖人が所持あそばされていることを示される。

 「神力品の要点」とは、一往、上行菩薩を上首唱導の師とする本化地涌への別付嘱であり、

中でも上行菩薩への四句要法による結要付嘱こそ、神力品の要中の要である。


 
 更に『開目抄』には 『一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。』(平新P526) と仰せられ、

日蓮大聖人が所持あそばされる法は、釈尊が説かれた文上の法華経ではなく、

久遠元初より自受用報身如来が所有する大法、文底独一本門の南無妙法蓮華経であることを示されている。

 その大法を所持する日蓮大聖人は、『仏は塾脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり。』(本因妙抄・平新P1680)と仰せの如く、

「久遠実成の釈尊」 をも教化した 「久遠元初の本仏・自受用報身如来」 の再誕であり、


 結要付嘱は再往、脱益本門から下種本門への転換であり、釈尊から久遠元初の本仏へと妙法蓮華経を奉還する儀式なのである。

これこそが「神力品の要点」である。

 

・創価教義の妄説を破折する  

 ここで池田名誉会長と教学部幹部は、如来神力品第二十一における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、

神力品の付嘱の儀式が「凡夫こそ本仏」の大転換をを意味する意味する儀式である とする自説を解説している。

 
 前回までの、「凡夫こそ本仏」の大宣言という顚倒説の根拠として、

池田名誉会長は『諸法実相抄』から  『本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。』(平新P666) の御聖訓を文証に挙げていた。

 今回は、神力品に於いて妙法蓮華経の五字を付嘱される「上行菩薩」を、 「地涌の菩薩のリーダー」「九界の代表」 と位置付け、

神力品の結要付嘱は、久遠実成の釈尊から地涌のリーダー(代表)へのバトンタッチであり、すべての地涌の菩薩への付嘱である。 として、

驚天動地の顚倒説 「凡夫こそ本仏」 を裏付けようとしている

 その結果、神力品で仏法のすべてを地涌の菩薩(のリーダー上行菩薩)に付嘱した仏(釈尊)は、

もはや地涌の菩薩(九界の凡夫)の迹(影)にすぎないことを意味する。 という論旨である。

 
 それでは、創価学会の教義を司(つかさど)る池田代作名誉会長と教学部幹部らは、

「久遠実成の釈尊」 から結要付嘱を受けた 「上行菩薩」 をどのように位置付けているのか?

「久遠実成の釈尊」 の師である 「久遠元初の本仏」 と上行菩薩の関係は? また、末法ご出現の 「日蓮大聖人」 をどのように定義しているのか?

そして、 「上行菩薩」 と 「日蓮大聖人」 の関係、 「久遠元初の御本仏」 と 「日蓮大聖人」 の関係は?

 かつて日蓮正宗に寄生していた時代には、大石寺教学に準じて

「上行菩薩としての日蓮は仮の姿であり、日蓮大聖人の本地は久遠元初自受用報身如来である」 としていた創価学会が、

大石寺からの破門独立後の新教義 〜自称「創価本門」の教義〜 ではどのような本音(ほんね)を吐露しているのか?

新興宗教創価学会の今後が占える、実に興味深い講義録を検証破折していこう。

 

・上行菩薩は「上首唱導の師」 

  池田名誉会長らは神力品の付嘱を、 久遠実成の釈尊から地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩へのバトンタッチ であり、

「仏界の代表から九界の代表への付嘱」 であると解説しているが、

「地涌の上首」とは、六萬恒河沙等の無数の同胞の中から秀でた「リーダー」や「代表」というような対等的存在ではなく、

如来神力品に 「最も為(こ)れ上首唱導の師なり。」(開結P410) と説かれるように、法を説き衆生を導く「師」 であることに留意しなくてはならない。

 
 日蓮大聖人は、竜の口法難に於いて、上行菩薩の再誕という垂迹身を発(はら)い、久遠元初自受用報身如来即日蓮という本地身を顕現され、

佐渡での御執筆である『諸法実相抄』に、

   『地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし。

  若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば、豈日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや。』(平新P666)

として、地涌の菩薩とは上首唱導の師である御自身を指し、総じてはその弟子檀那また『地涌の流類』であると仰せ下さっている。

 更に、『いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。』(同)

と、『日蓮が一門』『日蓮と同意』であることが地涌の菩薩の条件であり、

   『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。

  日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。』(同)

とは、日蓮大聖人に折伏教化され、随い連なる者は『地涌の義』、義として地涌の菩薩であるとの御妙判である。「義」とは「事」に対する「義」である。

 
 現時点では日興門流を標榜する創価学会が、『上首唱導の師』である上行菩薩を単純に 「リーダー」 「代表」 と呼ぶことは、

底意として御本仏日蓮大聖人をも 「大衆のリーダー」 「民衆の代表」 と呼んで同胞視することに他ならない。

これは、過去の創価教学では御本仏と仰いできた日蓮大聖人を、悪平等観をもって「人間・日蓮」の視点へ誘引するための、創価学会員に対する摺りこみである。 

 

・結要付嘱は唯授一人への別付嘱 

 『百六箇抄』には、『但し直授結要付嘱は唯一人なり。』(平新P1702)と、日興上人への唯授一人の血脈相承を示された後に、

『在世・滅後殊なりと雖も付嘱の儀式之同じ。譬へば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も、上行薩埵を以て結要付嘱の大導師と定むるが如し。』(同)

として、上行菩薩への結要付嘱も唯授一人の付嘱の儀式であったことを御教示されている。

 また、広義に神力品における別付嘱が、総じて上行菩薩を上首とした本化地涌の全体に与えられたと拝する場合にも、

御本仏日蓮大聖人を「上首唱導の師」と仰いで随従してこそ、地涌の眷属に連なる資格があることを謙虚に信奉すべきである。


 神力品の要点について、池田名誉会長は、

「神力品の要点は “全民衆よ、汝の尊貴さに目覚めよ!” という呼びかけであり、

全宇宙を揺り動かす大音声で、“全民衆よ、汝の尊貴さに目覚めよ!” と叫んでいるのが如来神力品なのです。」

として、神力品の要旨・要点が十大神力による釈尊滅後の弘教者への賛嘆にあるかのように自説を熱く語っているが、

これは神力品の要点が地涌の上首・上行菩薩一人への「結要付嘱」にあることに、読者である創価学会員の目を向けさせたくないがゆえの誤魔化しである。

 それが目眩ましの詭弁ではないとすれば、彼らは

〜上行菩薩への結要付嘱は全ての地涌の菩薩に対する妙法五字の付嘱であって、妙法蓮華経の全てが全民衆に付嘱され、

  リーダーの上行菩薩を賛嘆する偈文は、全民衆への“民衆の尊貴さに目覚めよ!”という呼びかけではないか。〜

とでも反論するのかもしれないが、日蓮大聖人は『就註法華経口伝(御義口伝)』に、

   『十種の神力を現じて上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付嘱し玉ふなり。』(平新P1812)

と仰せになり、また、

   『釈尊十種の神力を現じて四句に結し、上行菩薩に付嘱し玉ふ時、其の付嘱とは妙法の首題なり。総別の付嘱、塔中塔外之を思ふべし。』(平新P1795)

続いて、『秘すべし秘すべし、唯授一人の相承なり、口外すべからず。』(平新P1796)

と、妙法蓮華経の五字の付嘱は唯授一人と仰せである。

 

・「本因妙の教主」は下種本仏 

 「久遠実成の釈尊」 から結要付嘱を受けた 「上行菩薩」 。そして末法ご出現の日蓮大聖人について、

破門独立以前の過去の創価学会の教学講義集であれば、

地涌の上首・上行菩薩の再誕が日蓮大聖人であり、再往は久遠元初の御本仏である ・・・・ と続くところであろうが、

本書では、 「本因妙の教主」とは、地涌の菩薩のリーダー「上行菩薩」で、「九界」の代表と言ってよい。 との説明するのみで、

日蓮大聖人が上行菩薩の再誕という仮の姿で出現し、再往は久遠元初自受用報身如来であるとも、末法出現の本仏であるとも言及していない。

 
 しかし、「本因妙の教主」 は 「下種仏法の本仏」 であるという記憶は現在も40代以上の創価学会員は持っているであろうから、

この中途半端な解説の仕方では、日蓮大聖人は「本因妙の教主」で、地涌の菩薩のリーダー「上行菩薩」の再誕で、「九界」の代表である。 という、

仏でもあり、菩薩でもある。(または、仏でもなく、菩薩でもない。とも言えよう。) というような曖昧な印象を与えてしまう。

これでは、過去の 「久遠元初の御本仏 日蓮大聖人」 とした創価学会の教義からすれば落第点の講義である。

 そして、現代における地涌の菩薩の集団こそ創価学会であり、

地涌の菩薩のリーダー「上行菩薩」(=創価学会の指導者)は、「九界」(=創価学会員)の代表であり、「本因妙の教主」(=仏)である。 

という印象を間接的に与えている。創価学会の「リーダー」「代表」とは、会則に規定されるところの「永遠の指導者」であることは言うまでもないだろうが、

この上に、「本因妙の教主」は「下種仏法の本仏」であるという記憶を重ねれば、池田名誉会長を本仏に等しいと短絡する学会員読者もいることだろう。

 

・創価学会は日蓮本仏論を捨てる 

 更に、御本仏日蓮大聖人を、 衆生の生命の実相が宇宙の根本仏の南無妙法蓮華経如来であることを教えて下さった「教主」 と呼んでいる。

この説明では、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経如来」とする宇宙の根本仏の教法を末法の衆生に教える役目の、

身延日蓮宗等の呼ぶ「祖師」や、新興宗教や外道のいわゆる「教え主」以上の存在ではなく、

たとえ他所では口先だけで日蓮大聖人を「仏」「御本仏」と呼んだとしても、 

宇宙根本仏・南無妙法蓮華経如来は、日蓮大聖人の師匠である。 という印象を拭い去ることはできない。

これは同時に、 日蓮大聖人は、宇宙根本仏・南無妙法蓮華経如来の遣い。弟子の位である。 という誤った印象を読者の深層心理に残留させることでもある。

 つまりこれは、 師である宇宙根本仏が勝れ、弟子分の日蓮大聖人は劣る。 という錯覚を、

間接的に創価学会員の脳裏に潜在的常識として浸透させようとする毒餌である。

 
 これは、 
鎌倉時代の僧・日蓮は、宇宙の根本仏・妙法蓮華経如来の遣いとして、

民衆の生命の実相が宇宙の根本仏と同じ妙法蓮華経如来であることを教えてくれた(または、思い出させてくれた)恩人である。

したがって「仏(=教主・日蓮大聖人)が迹にすぎない」 「凡夫こそが本仏(=宇宙の根本仏の妙法蓮華経如来)」 なのだ。

という認識を創価学会内に、世代交代という時間の経過と共に静かに敷衍してゆくための下地を作るものである。

 
 前回にも、 『かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。』(種種御振舞御書・平新P1066) との御誡訓を引いて、

日蓮大聖人をも “本仏である凡夫(衆生)の迹仏” として貶める創価教義の大慢心を 「謀反者の戯言、亡国の一凶」 であると弾劾したが、

これは法華経の仏意を無視した仏法破壊の魔説であり、「法華経の智慧」を僭称する法華盗用の「悪知恵」に他ならない。

しかも久遠元初の妙法を所有する御本仏日蓮大聖人を、 衆生の生命の実相が南無妙法蓮華経如来であると教えて下さった「教主」である と、

宇宙根本仏とやらの使者のように位置付ける大慢は、日興門流の宗是である「日蓮本仏論」を捨て去る発言であり、

創価学会独自の新教義を確立しようとする、無間の底へといざなう奈落の淵である。

 創価学会発行「勤行要典」の御祈念文(平成16年9月改変)には

「日興上人に南無し奉り、報恩感謝申し上げます。」 とあるが、すでに創価学会に日興門流を名乗る資格はない。

 (注 * 一般的に、創価学会の僧宝は日興上人とされているが、創価学会会則には僧宝および日興上人を定義する記載はない。)

 
 
宗祖日蓮大聖人は『具謄本種正法実義本迹勝劣正伝百六箇抄)』に、『久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。』(平新P1696)と、

御自身が久遠元初の本仏であることを御教示あそばされ、また同抄に、

   『本因妙の教主本門の大師日蓮謹んで之を結要す。』(平新P1684)と、御自身が『本因妙の教主』であると記されている。

また、『法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)』には、『然りと雖も仏は熟脱の教主、某(それがし)は下種の法主なり。』(平新P1680)と仰せられ、

「塾脱の教主・釈尊」に対する「下種の法主・日蓮」との勝劣を示すと同時に、御自身が南無妙法蓮華経の本主であることを明かされている。

 総本山第26世 日寛上人は、

   「もし外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。

  故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(六巻抄P49)

と、釈尊から付嘱を受けられた地涌の上首・上行菩薩の再誕としての日蓮は外用の姿であり、

御内証は本因妙の教主・久遠元初自受用報身如来の再誕、即ち、久遠元初の御本仏であらせられる。と御指南されている。

 
 宗教団体としては日蓮正宗から独立した創価学会が、教義的独立という次の重要な段階 【脱・日蓮本仏論】の新教義体系へと公式に移行する時、

創価学会は現行の 日寛上人筆模造掛軸 を捨てることになるだろう。

 宗教法人創価学会の新教義確立は、イコール、創価学会が新興宗教の一宗派であることを表明することでもあるが、

かつての創価学会は「新興宗教」と呼ばれることを嫌うがゆえに、日蓮正宗大石寺を隠れ蓑に利用してきたということなのだろうか。

 

   ・・・・・・・・・・・ 次回予告 ・・・・・・・・・・・

    池田名誉会長が神力品の結要付嘱(妙法蓮華経の三大秘法の付嘱)を、上首唱導の師・上行菩薩への唯授一人の付嘱ではなく、

   リーダー上行を代表者とした全民衆への付嘱であると、執拗に固執して教義を改変する狙いは何か?

   そして、「南無妙法蓮華経如来」という宇宙の根本仏を真仏と立てて、宗祖日蓮大聖人を教主とした目的はどこにあるのか?

   それは、日蓮正宗に寄生していた過去の創価学会の教義では遵守せざるを得なかった「日蓮本仏論」を捨てて、

   教義的にも宗教法人創価学会の完全独立を図ることにある。


    次回は創価学会の【脱・日蓮本仏論】に焦点を絞って、荒唐無稽の妄説“創価学会の三宝論”を炙り出す。

H19.4/28
H19.5/27訂正

(訂正 * 調査の結果、「南無妙法蓮華経如来」という如来の名は御書にも法華経にも記述されていないものであるが、
      日蓮正宗でも「南無妙法蓮華経如来」の語を使用した例がありました。
       したがいまして、公開時に記載していた「南無妙法蓮華経如来は創価学会の造語」という批判の一行に関しては、
      当館管理人よりお詫びして訂正するものです。)

(「脱・日蓮本仏論」を破すAへ続く)

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