足利市におけるポテト入り焼きそばに関する歴史的考察
/ヤマポン総研・研究論文
(2008.3/9UP)
ポテト入りやきそば/栃木県足利市@

はじめに
2004年にこのサイトを立ち上げた際、足利のポテト入り焼きそばのルーツに関して、

@「古くから焼きそばを売っているお店数軒で聞いた話では、足利のポテト入り焼きそばは、戦後の食料事情が悪い時代に、何とかボリュームを出そうと、蒸かしたジャガイモを入れたのが始まりではないかと言われていて(終戦後はご飯にイモを炊き込んだり食べ物に何かとイモを投入したとの話)、具はジャガイモと長ネギが一般的だったとのこと。」

A「また、私の母親が子供の頃(終戦直後)には、足利ではリヤカーの引き売りで「ポテト」という名前の、蒸かしたジャガイモと長ネギをソースで炒めてゴマをかけたおやつを、新聞紙を三角にに折った袋に入れて子供相手に売っていたらしい。私の勝手な推測では、「ポテト入り焼きそば」という呼称は単にジャガイモ入りという意味ではなく、ジャガイモと長ネギをソースで炒めた「ポテト」が入った焼きそばなので「ポテト入り」と呼んだのではないかと思うのだがどうだろうか? 鋭く核心を突いた説だと自負しているのだが。」

という2つの説を紹介した。

2004年の時点では、Aに関しては、母から聞いた話から想像した安直な推論にすぎなかったが、その後、足利市内の年配者が多いある会合でポテト入り焼きそばの話題を振ってみたところ、爺さん婆さんからオジさんオバさんくらいまでの様々な年代の人の間でポテト入り焼きそば談義が盛り上がり、「ポテト入り焼きそば」=「ポテト」+「焼きそば」説を裏付けるような貴重な証言を得ることができた。

まずは80代男性から、いきなり核心に迫る発言。
「君ねえ、あれは元々別の食べ物だったのが、いつの間にか合体しちゃったんだよ、知ってる?」

別の80代男性からは、終戦直後くらいの時期に関する貴重な証言。
「自分は戦後になって東京からこっちに引き上げて来たのだが、東京では浅草辺りの闇市で焼きそばを食っていたんで、足利に戻ってすぐにアチコチとずいぶん探して歩いたけど、その時分には足利には焼きそばを食える店は、まだどこにもなかった。」

私の母と同年代の70代?女性の方からは、
「最初はリヤカーの引き売りで「ポテト」という茹でたジャガイモと長ネギを炒めてソースをかけたおやつが売られていたのが、そのうちに焼きそばも売る引き売りの人が増えてきて、いつの間にか焼きそばにポテトを乗せるのが普通になった。」

と、母に聞いたのとほぼ同じ証言。ちなみに私の父は、終戦後数年経ってから祖父が実家を継ぐことになって一緒に戻って来た「ひ」と「し」の発音ができないような下町生まれの江戸っ子なので、当時の事については全くの不案内。

60代?女性
「当時、引き売りのおじさんは何人もいて、注文すると焼きそばにポテトを乗せてくれる人や、最初からポテトが入っている人や、まれに絶対にポテトを入れてくれない人など、色々だった。」等々。

話題は次第に、「ばくだん(ポン菓子)」の引き売り等、焼きそば以外の様々な業種の引き売りの話へと広がって、当時の引き売りの活況の様子を肴に大いに盛り上がった。当時は豆腐売り・納豆売り・魚屋・八百屋などの生鮮日配食品も各戸や路地を巡回しての行商が半分主流の時代で、リヤカーや自転車による行商は、ごく当たり前の業態だったということも、私くらいの歳ならうっすらと記憶に残っているが、昭和末期以降生まれの人たちには想像することも出来ないのではないかと思う。

当サイトとしては、以上のような証言や、数年間にわたって継続的にフィールドワークを重ねてきた焼きそば調査における様々な聞き込みから判断して、少なくとも足利における「ポテト入り焼きそば」の発生に関しては、「ポテト」と「焼きそば」が合体して自然発生?したものでガチ。という学説?を、強く確信するに到った。


終戦直後の食糧難の時代
ひとくちに「戦中戦後の食糧難」という言い方をする事が多いが、食糧事情が本当に逼迫したのは、戦時中よりもむしろ終戦直後の数年間の方だという。

昭和20年8月の終戦後、食糧の一大供給地だった朝鮮・台湾等の旧植民地を失うと同時に、戦地からの復員兵・外地からの引揚げ者による人口の急増が重なり、国内は戦時中にも増して極端な食糧難に陥った。

主要な食品は食糧統制法によりすべて配給制であったが、横流しが横行して、配給されるはずの食糧の多くが闇市に流れた。配給の遅配・欠配で食べ物に困った一般庶民が闇市に集まり、それを警察が法律違反でしょっ引くという見事な悪循環が発生し、昭和21年からの3年間で、食料の闇取引での逮捕者は400万人に達した。

昭和22年10月には、法律を守るのは裁判官の義務だとして闇米を食べず、正しく配給される食料だけに頼った生活を送った結果、東京地裁の判事が餓死するという事件が起きた。つまり、「法律を守ると餓死する」というのが当時の日本の食糧事情だったわけです。

足利のような地方の小都市の場合は、郡部には農地が多く、自宅の畑や庭を耕して野菜を育てる余地も多い分、東京等の大都市部と比べると、かなりマシな状況と言えたが、戦時中から終戦後の時代には、米や麦など決定的に不足している穀類の代用食として、栽培が簡単で収量も多いジャガイモ・サツマイモ・カボチャなどが、積極的に栽培された。低温に弱く貯蔵性が低いため秋の収穫から初冬くらいまでしか食べられないサツマイモと異なり、6月に収穫してからほぼ丸1年貯蔵できるジャガイモは、美味しい上に調理法も多く大変重宝な作物であった。現在まで脈々と続く足利を含む両毛地域のジャガイモ好きは、戦中戦後の食糧難の時代に下地ができたと考えられる。

昭和24年になると国内の食糧生産も徐々に回復し始め、昭和24年12月にサツマイモ・ジャガイモの統制が撤廃。昭和25年6月に米・小麦・砂糖以外の全ての食品価格の統制が撤廃。また、昭和25年には業務用小麦粉が特別配給となり、パン・うどん等は外食券なしで自由に買えるようになり、昭和27年には砂糖・小麦の統制が撤廃された(以上は、ネット検索により調査)。

戦中戦後の食糧統制と統制撤廃の時期から判断して、足利における「ポテト」及び「焼きそば」の発生は、合法的には昭和25年以降ということになるが、「ポテト」に関しては昭和22〜23年頃には食べた記憶があるという話も聞く。米や小麦といった統制が特別厳しかった穀類と違って、ジャガイモはそこいらじゅうで自家栽培されていたこともあり、統制が緩かったのではないかという可能性も考えられる。


「ポテト」の発生
上記のような戦後の食糧難の中、足利では「ポテト」という茹でた(もしくは蒸かした)ジャガイモと長ネギを炒めてソースで味付けし、ゴマや青のりを振りかけた子供相手のおやつが、リヤカーの引き売りによる行商で売り歩かれるようになる。おそらくはジャガイモも長ネギも地元の農家から年間を通して割と安く仕入れやすい野菜だったため、生まれたメニューなのだろう。質問した人の年代により、時代が下がると具の構成が長ネギからキャベツに変化する傾向が見られるが、戦後の発生期?からしばらくの間は、ジャガイモと長ネギという構成が「ポテト」のデフォルトであったようだ。現在とは違い、まだキャベツはごく短い時期しか出回らない季節野菜だったので、時代が下って流通が整った頃から使われるようになったと考えるのが自然であろう。

「ポテト」が出現した時期については、昭和22〜23年頃には食べた記憶があるという話も聞くのだが、国によるジャガイモの統制撤廃が昭和24年12月だったことを考えると、あくまでも合法的に商売できるようになったのは、昭和25年以降ということになるだろう。

ちなみに、「ポテト」の発生期については戦前という説も有力だが、間違いなく存在したことが確実な時期ということで、取り敢えず立てた仮説が「終戦後」ということです。当初、私の思い込みで「ポテト」は戦後の物と最初から決め付けていて、終戦後の状況に関する質問ばっかりしていたために、戦前の状況についての聞き込みが全く足りず、裏付けとして判断できるほど充分な証言を得ることが出来ませんでした。戦前の状況に関しては、聞き込み調査の不手際による今後の研究課題ということで、現時点では、はっきりしたことは私には分かりません。

「焼きそば」の発生
昭和25年に業務用小麦粉が特別配給となり、パン・うどん等の小麦粉を使った食品が外食券なしで自由に買えるようになる。逆に言えば、それ以前は小麦粉を使った食品を扱う飲食店は、自由に営業することができなかったということである。

「ソース焼きそばは第二次世界大戦直後の闇市の屋台で生まれたとされる。」という、ソース焼きそばに関するウィキペディアの記述(信用できる記述なのかどうかは不明)や、その他の様々な情報から総合的に判断すると、ソース焼きそばは戦後に誕生した料理である可能性が極めて高いと思われる。
だとすれば、前記の「終戦後、東京では浅草辺りの闇市で焼きそばを食っていたんで、足利に戻ってすぐにアチコチとずいぶん探して歩いたけど、その時分には足利には焼きそばを食える店は、まだどこにもなかった」という証言もすんなりと説明が付き、かなり信憑性の高い話であると考えることができる。

いずれにせよ、戦後の闇市の中で誕生したとされる「ソース焼きそば」は、その調理の手軽さからアッという間に屋台のメニューとして全国に広がり、業務用小麦粉が特別配給となった昭和25年から、小麦の統制が撤廃された昭和27年前後の時期には、足利では上記の「ポテト」を販売していたリヤカーの引き売りによる行商というスタイルで焼きそばが販売されるようになったものと推測される。

「ポテト」と「焼きそば」の合体
「ポテト入り焼きそば」が発生した経緯について、はっきりしたことは今となっては誰にも分からないが、

1.「当時、引き売りのおじさんは何人もいて、注文すると焼きそばにポテトを乗せてくれる人や、最初からポテトが入っている人や、まれに絶対にポテトを入れてくれない人など、色々だった。」等々、当時の人たちの鮮明な記憶があること。
2.昔のポテト入り焼きそばに関しては「具はジャガイモと長ネギが一般的だった」という証言が多く、ジャガイモと長ネギという具材は「ポテト」そのものであること。
3.足利には現在でも「ジャガイモ」と一緒に「長ネギ」が入った焼きそばを出す店が数軒あり、いずれの店もかなり高齢の爺さん婆さんが作っていて、長ネギは明らかに、かつての「ポテト」の名残りと思われる状況証拠であること。

などから推量して、少なくとも足利においては、リヤカーの引き売り屋台の鉄板の上で「ポテト」と「焼きそば」とがトッピングという形で自然発生的に合体を果たし、「ポテト入り焼きそば」が誕生したものと思われる。「ポテト入り焼きそば」という呼称は単にジャガイモ入りという意味ではなく、ジャガイモと長ネギをソースで炒めた「ポテト」が入った焼きそばなので、「ポテト入り」と呼んだと考えれば、ネーミングについても納得がいく。

また、「ポテト入り焼きそば」は、結局はジャガイモによる焼きそばの嵩増し以外の何物でもなく、小麦の統制が撤廃されたとはいえ、まだまだ食糧事情の悪い時代であることに変わりはなかったので、「ポテト」と「焼きそば」を合体させた動機としては、量を補うために嵩増しする目的が大きかったことは、まず間違いないであろう。

戦後誕生したばかりのソース焼きそばというメニューが、足利で「ポテト入り焼きそば」として急速に広まった背景としては、

1.足利には「月星ソース」という、明治28年創業で大正元年(1912年)からソースを製造している地ソースメーカーがあったこと。
2.足利を含む両毛地域は米と麦の二毛作による小麦の生産が非常に盛んで、もともと製粉業(足利市の笠原産業は大正8年(1919)の創業)や製麺業が発達していた地域であること。
3.焼きそばが普及し始めた時期に、リヤカーの引き売りで「ポテト」というジャガイモと長ネギを炒めてソースで味付けしたおやつが売られていて、売り手となる屋台のおじさんがたくさんいたこと。
4.足利では戦後の復興期から高度成長期にかけて繊維産業が絶頂期を迎え、子供のおやつとしてだけでなく、猫の手も借りたいほど忙しい仕事の合間に摂れる手軽な食事としても、屋台の引き売りが重宝されたこと。

などの条件が揃っていたということが考えられる。


リヤカーの引き売り屋台による行商(チンチン屋台)
誕生の経緯についてはあくまでも想像することしかできないが、戦後まもない時期に紛れもなく誕生した「ポテト」&「ポテト入り焼きそば」は、足利ではまず最初に、リヤカーの引き売り屋台による行商によって売り歩かれた。チンチンと鐘を鳴らしながら売り歩いていたことから「チンチン屋台」と呼ばれ、屋台の鉄板で焼いた焼きそばを新聞紙を三角に折った器に入れて、主に子供相手に販売していた。

足利の地ソースメーカーである「月星ソース」のホームページには
「月星ソースといえばやっぱり焼きそば、当時足利近辺にはリヤカーの屋台の焼きそば屋さんが50人以上いたそうです。月星ソースを持ち、おやつにおかずにと自分の家の前に屋台をとめて焼きそばを焼いてくれました。それも包装紙は新聞紙で…。当時の子供たちはいい香りがすると屋台の焼きそば屋まで走っていき、競って親に頼み買ってもらって食べていたそうです。」
という記述があり、最盛期には、相当数のチンチン屋台が足利市内のアチコチで営業していた様子をうかがうことができる。

チンチン屋台によって市内各地に広まった「ポテト入り焼きそば」は、じきに駄菓子屋や食堂などの実店舗でも売られるようになり、その後、お好み焼き/もんじゃ焼き店・焼きそば専門店・軽食/喫茶店・居酒屋などの定番メニューとして定着していったものと推定される。
また、私が実際に聞き取り調査をした中には、お店を始めた頃はポテトを入れていなかったんだけど、「ポテトが入らないのは焼きそばじゃねえ!」という年配のお客さんがあんまり多かったんでポテトを入れるようになった、というような店が数軒あり、「ポテト入り」の普及には顧客サイドからの非常に根強いニーズも作用していることが感じられた。

しかし、その最盛期には50人以上もいたというリヤカーのチンチン屋台は、時代と共に徐々に姿を消して行き、はっきりとした時期は分らないが、昭和が終わる頃にはリヤカーの引き売りという販売形態は完全に姿を消したものと思われる。

足利市総合グランドの南側に、おそらく足利市民の大半が知っている「とみや」という軽トラ屋台の人気焼きそば店があるが、「栃ナビ」の紹介ページにある「店主からのメッセージ」には、
「36年間続く焼きそばやです。昔は沢山あったやきそば屋台も、今ではウチだけになってしまいました。昔ながらの味をどうぞご賞味ください!」(以前の記事から)
「45年程前にリヤカーで引き売りを始め、今でも屋台販売とゆうスタイルを変えずに営業しています。昔ながらの味をご賞味ください。スタッフ一同心からお待ちしております。」(最近の記事から)
と、記述されている(以前の記事と最近の記事とで年数が異なるのは、単純にそれだけ年数が経ったということでしょう)。

リヤカーから軽トラックへと姿を変えているが、「とみや」は、かつてのチンチン屋台の流れを汲む最後の移動販売店であり、チンチン屋台を知らない世代にとっても、既に「とみや」の軽トラ屋台という形態そのものがノスタルジーを刺激する存在になっている。

また足利では「とみや」の他に、蔵王様(神社)の境内に出ている「パンヂュウ」や、足女高の西北に出ている屋台のコーヒー店「アラジン」も非常に有名な屋台で、市民から殊に親しまれ続けている。これらの屋台は、一部のB食家(B級グルメ愛好家)の間では秘かな人気スポットになっていて、これらを目当てに市外から訪れるマニアも少なくなく、現在では足利の隠れ観光名所としての役割も果たしている。


駄菓子屋での販売
リヤカーのチンチン屋台の引き売りによって市内各所に広まった「ポテト入り焼きそば」を実店舗のメニューとしていち早く取り入れたのは、おそらく駄菓子屋であったと推定される。

1.もともとチンチン屋台も子供相手の商売であり、「ポテト入り焼きそば」は駄菓子屋の顧客である子供との親和性が非常に大きいメニューだったこと。
2.駄菓子屋では「もんじ焼き(もんじゃ焼き)」「いもフライ」「みそおでん」「ところてん」なども商っているケースが多く、焼きそばを調理して商うことに対しても特に違和感がなかったこと。
3.蒸かしたジャガイモの皮をむいて一口大に切る所までは「いもフライ」と共通なので、調理する上でも非常に都合が良かったこと。
4.現在、足利で古くからポテト入り焼きそばを商っている店には駄菓子屋が多く、ほとんどの店主がかなりの高齢者であること。

根拠とできるかどうかは別として、思い付くままに以上のような理由を列挙してみたが、当らずとも遠からずと言っても良かろうと思う。

また、足利市内の焼きそばの値段が全体的にやたらとリーズナブルなのは、子供相手のメニューという位置付けを、現在でも地域の中で無意識のうちにそういう物として共有しているためではないかと思われる。

子供の頃の駄菓子屋に関しては、個人的には「いもフライ」と「みそおでん」が特に好きでしょっちゅう買い食いしていたが、当時、日本中の子供の間で大ブームになっていて、私もまんまと虜にされていたスーパーカーの話題や、シン・ブッチャー・シーク・ファンクスなど個性的な外人レスラーが豊富だったプロレスの話題とかに夢中になりながら、「もんじ焼き」の鉄板を囲んで友だちとワイワイやるのが、何と言っても楽しかった。

私が中学校1年生の時だったと記憶しているが、駄菓子屋に大きな時代の変化の波が押し寄せてきた。当時大ブームを巻き起こして一世を風靡していたインベーダーゲームの機械が、ちょうど「もんじ焼き」の台と同じくらいの大きさだったせいで、駄菓子屋のフロアから「もんじ焼き」の台を駆逐して一掃してしまい、多くの駄菓子屋が完全にコインゲーム中心のミニゲームセンターのようになってしまった。その後はコインゲームの退潮とともに、駄菓子屋そのものも徐々に姿を消して行く運命を辿ったように思う。それだけに昔と変わらないような超激安のリーズナブルプライスで「ポテト入り焼きそば」を商っている駄菓子屋が、今でもまだ何軒か存在すること自体が、非常に貴重であると言えよう。


両毛線沿線地域に分布する「ポテト入り焼きそば」
「ポテト入り焼きそば」という呼称の焼きそばは、隣接する群馬県桐生市にも存在し、足利の「ポテト」と同じおやつが桐生では「子供洋食」と呼ばれている。「ポテト入り焼きそば」という呼称に注目した場合、足利の場合には、まず「ポテト」というおやつがあり、その「ポテト」が入った「焼きそば」なので「ポテト入り焼きそば」と呼んだということで、すんなりと説明が付くが、桐生の場合には「子供洋食」が入った「焼きそば」をなぜ「ポテト入り焼きそば」と呼ぶのか? また、桐生ではルーツに関してはある特定の店から広まったと言われているようだが、あくまでもそれは桐生においての元祖ということであって、足利の人々が記憶している時系列的に見てもかなり整合性が高い発生の経緯から考えると、個人的には桐生のポテト入り焼きそばは、足利から伝わっていったと考えるのが妥当ではないかと推測している。

栃木市では、ジャガイモが入った焼きそばは、「じゃがいも入り焼きそば」または「いも入り焼きそば」と呼ばれ、ルーツに関しては、やはり戦後の食糧難による嵩増しのためと言われているが、詳しいことはあまり分からないらしい。私が現地調査した時の聞き取りでは、栃木市では「ポテト」に該当するような単独のおやつは存在せず、また、焼きそばに長ネギは入っていなかったという話だった。

また不思議なことに同じ両毛線沿線の町でも、佐野市ではポテト入り焼きそばは受容れられなかったのか、佐野にはポテト入り焼きそばを売る店は僅か数軒(実際に確認できたのは1軒のみ)しかない。

両毛地域に点在するジャガイモと焼きそばのコラボに関しては、おそらく足利で「ポテト入り焼きそば」という形態が発生した戦後の同時期に、両毛線の沿線地域に一気に広まり、その後は各地で独自に根付いたり根付かなかったりしていった物ではなかろうかと、まあ、どのみち断定することなど出来はしないので9割方は贔屓目ではあるが、個人的にはそのように考えざるを得ない。


結び
ここまで長々と大論文?を書き連ねて参りましたが、結びまでたどり着いたヒマ人…もとい、奇特な方はいるのでしょうか?

調査不足や認識不足、贔屓目な思い込み等による誤りは多々あるかと思いますが、どこぞの町の「いもフライ」による町おこしと違って、恣意的なウソは絶対につかないというのが当サイトのポリシーですので、たとえ間違いはあっても、記述にウソや捏造は一切ありません。この論考が「ポテト入り焼きそば」に関心がある方への参考に、少しでもなることが出来れば幸いです。


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