家城城               Topへ

北畠氏譜代の臣である家城主水正が築城。 
天正年間に末裔の主水祐が、北畠家再興を唱えた北畠具親の挙兵に加わり討ち死にして
この城の使命が終わった。

道無き道を登ること30分で頂上に。 幾つもの堀切で防御を固めていた。

☆所在地 一志郡白山町南家城字雇谷


 
      堀切                                堀切

 
   郭内                               切岸

 
     腰郭                              腰郭

 
       見張り台                           全景
                                               2003.2.23 撮影

〈追記〉
家城城の近くにお住まいの橋井さんという方からメールをいただきました。
それによると、家城城を地元でももっと知ってもらいたいと、案内看板を作り立てられたとのこと、地域の
史蹟家城城を大切に思われるお気持ちに頭が下がります。
その時、地元に伝わる伝説を教えていただきましたので、ここに原文のまま掲載させていただきます。
                                                     2007.7.7

※家城主水正物語
 
 その昔、家城には、家城城というお城がありました。
  私たちは、家城城を探検しました。
 県道久居美杉線ぞいに、青山工業があります。その南の山が、家城城があったところです。
 コロリン坂のような道をよじのぼると、平らなところに着きました。そこが昔、城があったところです。

   石垣のあとがないか。 のろしのあとはないか。
 みんなで探しました。
 でも、それらしいものは、どこにも見当たりませんでした。

 さてさて、この城に だれが 住んでいたのでしょうか。

 今から およそ 六百年前のことです。槍を持ったら だれにも負けないという槍の名手がいました。
 その人の名は、家城主水正(いえき もんどのしょう)といいます。

 その頃のわらべうたに、
     長野もんどは うたいもんど
      家城もんどは やりもんど
 と うたわれたほど、家城主水正は、槍の使い手でありました。

 家城主水正は、伊勢の国(今の三重県中央部)をおさめていた
北畠氏(きたばたけし)のとても強い
武将でありました。主水正は、
この家城に城をかまえて、そこに住みました。

 その頃、伊勢の国は、北畠軍と織田軍(おだぐん)が戦争をしておりました。
 大河内(おおこうち)というところでは、とてもはげしい戦があり、両軍ともつかれはてて、仲なおりを
しました。

 しばらくの間、戦争がなく、平和な日が続きましたが、この間に、
北畠軍の城が、織田の人に一つ一つ
つぶされていきました。
 この中で、曽原城(三雲町)だけは、織田のさしずに従わず、とうとう戦になりました。
 家城主水正は、曽原城に入って、織田軍と戦いました。
 曽原城は、なかなか落城せず、とうとう一年がたちました。
 織田軍は、仲なおりをした北畠軍に曽原城を攻めるように命じました。今まで曽原城に入って織田軍と
戦っていた 主水正は、
  「自分の主人に弓を引くことは、できない。」
と考え、曽原城を出ました。
 今度は、北畠軍といっしょに曽原城を攻めました。曽原城はついに落城しました。

 北畠軍は織田軍の作戦によって、すっかり力を失ってしまいました。
 しばらく後、北畠具親(ともちか)が、織田軍と戦うために、森城(飯高町)で兵をあげました。
 家城主水正は、さっそく森城に入って織田軍と戦いました。
 しかし、織田勢の強い攻めによって敗(ま)けました。
 戦に破れた具親は、遠くの毛利家をたよって落ちのびることになりました。
 主水正は、全軍が落ちのびるときのしんがりをすすんで引き受けました。しんがりは、ほとんど命を落とすと
いうたいへんきけんな役目です。
それは、味方がぶじに逃れるように、敵の先頭軍をくいとめる仕事だからです。
 主水正は、
   「今こそ 主水正の力を見せてくれるわ・」
と叫びながら、敵の先頭軍の中へ飛びこんでいきました。
   「わあー。」
 敵は、ときの声をあげてきりかかりました。
 主水正は、とくいの槍をふるって戦い、壮烈な切り死をしてしまいました。
 具親は、ぶじに落ちのびることができました。その頃の武士の中には、勝ちそうな方へ味方する者が
多かったそうです。
 その中で、ほろびていく北畠家にいつも変わらぬ味方をした家城主水正は、りっぱな武士として
ほめたたえられました。


家城城再訪     2010年3月22日

先年、当城の近所にお住まいでらっしゃる橋井様からメールをいただき、城跡に様々な標示をされた由の
ご連絡もいただきました。 今回は、以前訪れた城の再訪第2弾として、この城を選びました。


 前回は家城城の東北部から登ったのですが、今回は西側から登りました。 適当なところに駐車し、藪を
 掻き分けて行くと、それらしき小道が通っています。 その中に、橋井様からの連絡の通り 家城城の防御

 施設が白い枠を持つ板で標示されていました。 まず現れたのは、『家城城  石垣跡』の標示です。
 径10cm程度の小石を敷きつめて(城道を保護して)います。※1

 この通路を通り、なお城道を探しながら登ります。 すると程なく削平された地形に出ます。それが腰曲輪です。
 主曲輪は北畠式のもので、先週見た一志小山城のものよりは明らかに防御性に劣っている気がします。

 城跡は、家城盆地の入り口で雲出川南岸の高さ約80mの丘陵頂上に存在している。 東北部から入り城の
 後方に回り込む谷は、頭ヶ谷(こうべ)といい、信長との戦いの際この谷が討死にした死体で埋まったことから
 名付けられ、この城の別名ともなっている。

 主曲輪は東西20m南北30mのいびつな三角形をしており、副曲輪は北東側尾根上に二重の堀切を挟んで
 東西20m南北10mの削平地となっている。 主曲輪の周囲には腰曲輪が幅7・8mで廻っていたのだろうか、
 今は西側と東側の一部に残っている。 南側尾根上には、3本の堀切があり、城域を区切っている。 
 現在その中には2個の檻が設置されていた。 5・6年以前の熊騒動の名残であろうか。 その外側は改変されて
 おり、防御施設を認めなかった。 腰曲輪から主曲輪までの高さは、5〜6mはあったでしょう。 また主曲輪の
 中には、見張り台と名付けた微高地(1m×2m 0.3mH)がありますが、本当は烽火跡ではないでしょうか。
 海岸側から攻撃されるとき、家城の小盆地に入る入り口に在る、という城の立地から考えて見張り台も良いの
 ですが、高さがありませんので烽火場のほうが納得できると思います。

 今回訪れてみて、前回とは違い、主曲輪上やその周囲が綺麗に下草を払ってもらってあったことに感謝したいと
 存じます。 より綺麗な写真が撮れますしご紹介できるからです。 これは、多分橋井様を初めとする地元の方の
 熱意、地元の史跡家城城に対する思い入れの結実したものと思い感謝いたします。 ありがとうございます。

     
※1  小生はこの意見には賛成できかねます。 この時代には城道を見せることが無かったと思います。 むしろ、隠して
           攻撃されにくくしていたでしょう。 14世紀第1四半期に築城され、15世紀半ばに廃城となる城の歴史から考えて、
           城道を明示するには少し早すぎると思います。 これは、後世の人がその辺に落ちていた飛礫石などを集め、山仕事が
           しやすいように利用したのではないでしょうか。
 

 

 

 

 
2010.3.22 撮影