安房山

  宿からしばらくは昨日の跡をたどれば良かった。先行者の刻んだ深い
トレースに助けられて、もうすぐ高天原へ突き上げる尾根というところ
で左に逸れる。それが不幸の始まりになることなど誰も予想してなどい
ない。
 しかし予兆はすぐにあった。好天が続き硬くしまった斜面に昨日から
の雪が降り積もりシール登行には厳しい斜度に。ある者はクトーを、あ
る者はツボ足と苦闘を余儀なくされた。それも数m上の車道に這い上が
るだけのはずが。
 さらにその時、「しまった。」という声が遠く霞沢岳に反射するほど
の大きさで響いた。仲間の一人が昨夜の宴会の残り、置いてくるべき酒
やビール、梅酒などをザックに入れて来てしまったのだった。気がつか
なければ何ともないことが分かってしまうとその実量よりも重く感じら
れたのだろう。
 なんとか雪に埋もれた車道までたどり着くと、それらはみんなで分散
して持つことにした。

 ここからはさらに急角度になる。止めるのなら今しかない。このまま 昨日のように焼岳を目指し、下堀沢を滑るのでも良いではないか。しか し誰もそれを言い出さないのは新ルートだけに諦めがたいのだろう。斯 くいう私は地図さえ見ておらず、それがどれだけ大変かなど知る由もな かった。  急斜面は目に見えている所までで、やがてなだらかになるだろう。そ れまでの辛抱。  そう思って硬い斜面にブーツを蹴り込んだ。  ザックザックザック、しっかり足がかりが取れればそれなりに登って 行けるが、突然吹き溜まりのように柔らかな雪が現れると始末に負えな くなる。力を込めれば込めるほどそれは頼りなく、身体は深く埋もれて いく。ストックを突いても底なし沼のように反応がない。いや、それど ころか誰かが雪の下からそれを引っ張っているようにさえ感じる。  足だけでは登れない。手を着き膝を着き、四つん這いになる。それで もダメで足を広げて腿から全部ぴったりと雪面に沿わす。  とうとう腹から腕まで投げだし五体倒地の姿勢になっても、その先に メッカも山頂も見えてはこない。  急角度で降ってくる雪の大波をその格好で越えて行く。いくつもいく つも。振り乱した髪を透かし、上だけを見つめて・・・、まるでサダコ のように。
 翌日、物を取ろうとして身体を屈めた途端左の肩に激痛が走り、以後 今日まで咳やラーメンをすすっても痛い。  どうやら私もサダコの呪いに取り付かれてしまったようだ。