108.「格差はつくられた」を読む(1)  (2008年11月28日記載)

 サブプライムローンの破綻から、アメリカ経済のバブルがはじけ、未曾有の経済危機が世界を襲っている。この危機を招いたのは、ブッシュ政権の経済運営の失敗であり、フリードマンに代表される「新自由主義経済」が誤った理論であったからである、という見方が大勢を占めつつある。さらに、ブッシュの経済政策は、アメリカを世界最大の「格差大国」にしてしまった。
 今回は、アメリカの共和党が進めてきた政策が、アメリカの格差拡大をもたらした、という事を鋭く追及した、ポール・クルーグマン教授の著書「格差はつくられた」の内容を紹介しながら、政治と格差の関連を分析してみた。日本でも格差の拡大が指摘されるようになったが、それはやはり、自公政権が進めてきた「構造改革」「小さな政府」等々の「耳触りのよいキャッチフレーズ」のもとに進められた政策の結果である、と言えるであろう。そうした点も、今回と次回のコラムを通じて分析してみたい。
 今回は、(1)として、第1章から第7章までを紹介する。
 次回は、(2)として、第8章から最終章(第13章)までを紹介する事としたい。

1.第1章 あの時代の追憶

 著者のクルーグマン教授が生まれたのは1953年、その頃から1970年代初めにかけては、アメリカは、「中流階級の社会」であった。共和党と民主党の対立も穏健であったし、「ニューディール政策」の成果で、格差も小さく、まさに古き良き時代そのもであった。
 しかし、1980年代に入ると、エコノミストが、不平等と格差が急拡大している、と指摘するようになった。そして、それと同時に、政治学者が、政治が両極に分裂し始めていると指摘していた。
 ③この傾向は今も続いており、所得格差は1920年と同等の高さになり、共和党と民主党の対立も先鋭化している。この政治的対立は、二つの政党がそれぞれ両極に動いたからではなく、共和党が右に動いた(富裕層に有利な政策をとり、ニューディール政策の成果を逆転させようとしている)ためである。
 ④
その原因は、グローバリゼーションや技術革新といった時代の趨勢が、所得配分の不平等と格差を作り出したからであり、そして、共和党がその「勝ち組」を代表する等となり、民主党が取り残された人々を代表するようになったからである、というのが「一般的説明」であった。
 ⑤
しかし、実際は、党派主義という政治の変化こそが経済的な不平等と格差の大きな要因である。急進的な右派が力を得た事で、経営者側は大きな力を獲得した。その結果、労働者の交渉力は劇的に減退し、経営陣の高い報酬に対する抑制力は消滅し、そして、高額所得者に対する税金は劇的に軽減された。それが、経済的不平等と格差を拡大したのである。

 注: 私は、日本社会は、アメリカに約20年ほど遅れて、アメリカ社会と同じような変化をしている、と思っている。その関連から言うと、日本は、アメリカにほぼ20年遅れて、1970年代から1990年代初めにバブル経済が崩壊するまでは、「一億総中流」の社会であった。ところが、2000年代に入ると、格差の拡大が指摘され、格差社会の到来が危惧されるようになってきた。そして、その原因として、経済のグローバル化や技術革新があげられているが、「小泉構造改革」の結果である(つまり、政治の変化が主たる原因)という指摘もある。クルーグマン教授の指摘と類似した現象が、アメリカより20年ほど遅れて、ここ日本でも起こっているのである。

ルーズベルト大統領

(1)不平等と格差の新経済学

 政治環境が、経済的な不平等と格差を生み出した決定的な要因である事の証明として、クルーグマン教授は以下の4点の事実を挙げている。

 第二次世界大戦後に中産階級が大量に生まれ、格差が縮小し、比較的平等な社会が実現したのは、ルーズヴェルト政権の政策(ニューディール政策)のおかげである。とくに、戦時中の賃金規制が大きく貢献していた。つまり、政治状況や規制や制度のほうが、一般的な市場の力よりもはるかに所得分配に対して影響力がある、ということである。。
 政治と経済の変化のタイミングを見ると、政治の変化が経済に先行している。不平等と格差の拡大が真剣に論議され始めたのは1980年代初めであるが、それより先に、1970年代半ばには、右派が共和党を乗っ取り、その乗っ取りを可能にした「保守派ムーブメント」の組織は1970年代の初めには誕生していた。
 ③技術革新によって教育レベルの高い仕事需要が増え、より教育レベルの低い労働者の需要が減少したために、経済的な不平等と格差が拡大した、と思われているが、事実はそうではない。教育レベルの高いアメリカ人でさもえも、所得が大幅に増えた者はほとんどいなかった。勝ち組となったのは、ほんの一握りのエリート(人口の1%くらい)だけであった。いまでは、技術革新のせいではなくて、平等を促進してきた規制や制度が損なわれたために、不平等や格差が拡大した、と理解されるようになった。
 ④
国際比較をしてみれば、このことは容易にわかる。もし、一般的な市場の勢いやグローバリゼーション、技術革新が、経済の不平等や格差拡大の周原因であるならば、他の先進諸国でもアメリカと同じような所得の不均衡が起きているはずである。しかし、サッチャー時代のイギリスですら、アメリカほどに格差は拡大しなかったし、ましてや、日本やヨーロッパ諸国では格差拡大はそれほど大きくなかった。

 注: 日本でも、格差の拡大は、規制緩和や構造改革のせいではなく、技術革新やグローバリゼーション(あるいは、人口の高齢化)のせいである、という論調がある。しかし、やはり、規制緩和や構造改革が格差拡大に拍車をかけている、と考えるべきであろう。


(2)不平等と格差の政治

 ブッシュJr. とチェイニーのコンビが、アメリカを支配するようになった始まりは、半世紀ほど前に、「ニューコンサーバティズム」と呼ばれていた小規模な運動が生まれた頃に遡る。この運動は、当時のアイゼンハワー大統領を筆頭とする共和党のリーダーたちが、ニューディール政策を受け入れたことへの反発から生まれたものである。
 その小さな運動が,
強力な政治勢力へと成長し、「保守派ムーブメント」と呼ばれるようになった。この「保守派ムーブメント」が抱える人的ネットワークや組織は、従来の政治活動の枠を大きく越えて、政治家のみならず、メディア、シンクタンク、出版社等々、広範囲にわたる多数の組織に広がっている。したがって、「保守派ムーブメント」に忠誠を尽くしていれば、次の雇用先を心配することなく、勝手な事ができる。(たとえば、ポール・ウォルフォウィッツの場合、ブッシュ政権のひきで、世界銀行の総裁に就任したが、愛人を厚遇した事で引責辞任に追い込まれた。しかし、辞任後は、一流シンクタンクに就職している)。

 ③こうした事から、共和党の有力政治家も「保守派ムーブメント」に属するようになり、今では、ほとんどの有力者が属している。「保守派ムーブメント」を結びつけているのはカネであり、その資金は、非常に裕福な一握りの個人と、いくつかの大企業が提供している。彼らの目的は、ニューディール政策が確立した福祉制度を崩壊させて、所得税や死亡税(相続税など、死亡によって課せられる税)、法人税などを大幅に軽減させることである。

レーガン大統領

 ④「保守派ムーブメント」に資金が集まるようになったのは、彼らが選挙に勝って、アメリカ政治の脇役から主役へと移ってきたからである。「保守派ムーブメント」が選挙に勝てる、という事を最初に証明したのがロナルド・レーガンである。彼の1964年の演説「選択の時」は、彼の名を政治家として知らしめたばかりではなく、「保守派ムーブメント」の政治家に対して、有益な政治戦略を予見させるものであった。
 ⑤
レーガンの政治的成功は、つまるところ、公民権運動と、その結果としての黒人解放運動の成果に対する白人の反発を巧みに利用したところから得られたのだ。結局、すべての根源は、アメリカの人種差別問題なのである。それこそが、先進諸国の中でアメリカだけが、国民に対して医療保険制度を提供していない理由なのである。言い方を変えれば、貧しい白人の不満を黒人への反感を利用して、そらしたからなのだ。

 注: 日本でも、小泉構造改革が、「聖域なき改革」を打ち出して「福祉予算の削減」を強行出来たのは、「弱者は優遇されすぎている」、という一部国民の反感をうまく利用して、国民を対立させたからでもある。つまり、貧しい者同士を連帯させるのではなく、対立させることで、格差拡大につながる政策を実行できる環境を整備した、というわけである。

(3)新しいニューディール政策

 保守派ムーブメント」にとって、2004年の大統領選挙は、いわば「最後の万歳」となった。共和党は、2002年の中間選挙でテロ事件を最大限に利用して圧勝した。そして、2004年の大統領選挙では、イラク戦争のおかげで、ブッシュの再選に成功したわけである。
 「保守派ムーブメント」はすべてを政治化し、政治的忠誠を何よりも優先するために、腐敗と仲間びいきがはびこる原因となる。ブッシュ政権もごまかしと混乱を利用して支持者へ気前よく利益配分をしていたが、不満層は徐々に増大し、2006年の中間選挙では、民主党が圧勝する事となった
 ③その背景として、アメリカ有権者における白人の数が減少してきた、という事実がある。アフリカ系アメリカ人と、ヒスパニックとアジア系の有権者を、味方につける事に、「保守派ムーブメント」は失敗した。こうした、新しい移民層には、伝統的白人とは違い、公民権運動に対する反発はないのだ。
 ④
したがって、2008年の選挙では何が起こっても不思議はないが、2009年には、民主党の大統領と、民主党が過半数を占める下院が誕生しているだろう。この新しい政権が取り組むべきは、アメリカのために、不平等と格差を是正し、社会のセイフティネットを拡大する政策の実行である。言いかえれば、新しい「ニューディール政策」の実行であり、その第一歩として、「国民皆医療保険制度」を導入する事である。

 注:
 日本でも、小泉改革が格差と不平等を拡大した、という認識はほぼ定着しつつあり、次の総選挙では、政権交代が起きる事が予想されている。その新しい政権がやるべき事は、クルーグマン教授がここで指摘している事と同じく、「不平等と格差を是正し、社会のセイフティネットを拡大する政策の実行」である、と言える。とくに、小泉改革で、ズタズタにされた社会のセイフティネットの再構築は、待ったなしで実行されなければならない


2.第2章 長期の金ぴか時代

表1 富の集中度合い
最高所得10%が占めている富
最高所得1%が占めている富
1920年代の平均データ 43.6% 17.3%
2005年のデータ 44.3% 17.4%


 ニューディール政策以前のアメリカは、現在(21世紀初頭)のアメリカと同様、富と権力の分配において非常に大きな格差社会であった。その事は右の表1が示している。
 富の集中に関して、1920年代の平均データと2005年のデータは、驚くほど近似している。最高所得10%の人で、アメリカの富の44%前後を占めており、たった1%の最高所得者が、17%強の富を占めているのだ。
 ③歴史家の間では、南北戦争終了後から19世紀末頃までを「金ぴか時代」と呼び、それが、1900年頃からの「革新時代」への道を開いた、というのが通説になっている。しかし、実際の所得や富の格差是正の向けての政策は、1930年代のニューディール政策までは、ほとんど皆無に等しい。そこで、クルーグマン教授は、南北戦争終了からニューディール政策が登場するまでの70年弱を、「長期の金ぴか時代」と呼んでいる。

(1)長引いた「金ぴか時代」の格差

 「長期の金ぴか時代」の富と所得の分配に関する詳細な統計はほとんどないが、1900年頃のアメリカは極度の格差社会であった事を裏付ける証拠はたくさんある。そすて、驚くべきは1920年代を通じてその格差がほとんど是正されなかった事である。つまり、中産階級は、経済成長につれて自然発生的に誕生するのではなく、政治によって「つくられなくてはならない」という事である。
 この「長期の金ぴか時代」の極端な格差は、今日と同様、労働者の交渉能力の弱さを反映したものであった。当時は、経営者が勝手に賃金と労働条件を決める事が出来た。1924年、労働組合の組織率は17%以上であったが、1920年代の後半には、11%に下落している。これは、今日とほぼ同じ水準である。
 ③1920年代に至る時代、累進課税や福祉国家の考え方がなかったわけではない。ドイツでは、1880年代にビスマルクが、老齢者のための年金、失業保険、そして医療保険までも導入している。フランスやイギリスも、アメリカの数倍公的支援を実施していた。1925年のアメリカは、それなりに豊かな国ではあったが、「富裕層からより多く取り、恵まれていない者たちを助けよう」という政治的動きは起こらなかった。それは、一体なぜなのだろうか?次に、それを考えてみよう。

(2)富豪階級の政治

 ①共和党は、元々は自由な労働者の党として出発したが、1870年代になると富豪と大企業のための政党になっていた。その共和党は、南北戦争から大恐慌の間の16回の大統領選挙のうち12回も勝っているし、また、32回開会された連邦議会のうち、上院では27回過半数を占めていた(下院でも、民主党と競合はしたが、共和党がほぼ支配していた)。民主党も、当時は、共和党同様、富裕層の利害を擁護し、政府が貧困層を支援する事に反対であった。
 それでは、なぜ「ポピュリスト(労働者や農民、都市中間層などに、所得分配や政治的権利の拡大を唱える政治家)」が長期にわたって、政治的力を持てなかったのであろうか?その原因としては、以下の3点が考えられる。
  ⅰ)最も貧困であった、黒人と移民を合わせると人口の4分の1ほどになるが、彼らのほとんどは、事実上選挙から占めだされていた。
  ⅱ)選挙資金は、常に、共和党のほうが大幅に潤沢で会った。
  ⅲ)選挙違反が横行していた。
 ③結局のところ、ポピュリズムは、人種と文化の多様な「るつぼ」の中に飲み込まれてしまった、という事であるが、「長期の金ぴか時代」で虐げられていた人々(いわゆる「弱者」)は、以下の三つの要因で分断されていた。
  ⅰ)最も重要なポイントは、「都市と地方の断絶」である1890年、アメリカ人の64%は農村地域に住み、その他の14%は人口25,000人以下の町に住んでいた。こうした農村や地方の田舎町に住んでいる貧困者と、都会に暮らす貧困者とが共通の目標を持てなかった。それは、都会の貧困者の大多数は移民であり、文化的・社会的な断絶があったからである。
  ⅱ)別の観点から言うと、最も重要な分断は、貧しい白人と黒人の分裂であった。(ただし、これは、実質的には南部のポピュリストだけの問題だったのだが)。南部では、人口の3分の1は黒人であり、その圧倒的多数は貧困に喘いでいた。その黒人と、白人の農民は、多くの点で経済的利害を共有していたが、肌の色が違う、という事で、共闘する事が出来なかった、のである。
  ⅲ)「長期の金ぴか時代」のもう一つの特徴は、「保守的な反政府イデオロギーの知的支配」であるが、それについては、次項で解説する。

(3)保守派の知的支配

 保守派が喧伝し、白人社会で受け入れられた「反政府イデオロギー」とは、次のようなものである。
  ⅰ)税金は経済に対して悪影響をもたらす。
  ⅱ)貧困と格差を是正しろ、と主張するような者は、ヨーロッパの思想に毒された危険な過激派である。
 この時代、ロシア革命という動きもあり、アメリカ国内には、今とは比較にならないくらい多数の共産主義者やアナーキストがいた事は事実であり、そのために、保守派に改革を排除する口実を与えてしまった。その結果、アメリカでは、自由経済が金科玉条だとされ続けてきたのである。

(4)ニューディール政策のルーツ

 このような状況をすべて変えたのは、大恐慌であり、そのおかげで「ニューディール政策」が可能になったのである。大恐慌の前には、州レベルでの格差是正の動きはあったが、連邦政府がそのような動きを起こすまでに強硬派何年も続いたのである。
 そしてついに、真にリベラルな制度を創設する政治的な志とリーダーシップの双方がアメリカに誕生する。ルーズヴェルト大統領は、適時における適材であった。彼のリーダーシップの下、アメリカ社会は、良い方向に向かって質的に大きく変化したのである。

 注: この本が書かれた時は、まだ、アメリカの大統領選挙は終わっていなかった。しかし、“CHANGE”を掲げる民主党のオバマ候補が、黒人初の大統領として当選した今、アメリカは再び、格差是正に向けて動き出すであろう。翻ってわが日本の状況をみると、格差拡大は叫ばれているものの、その処方箋を書けるような力強い政治的リーダーシップを持った指導者は生まれそうにない。日本の政治の貧困さは嘆かわしい限りではある。

3.第3章 大圧縮の時代

 1950年代から1970年代初めにかけてのアメリカは、中流階層社会であった。人種差別や女性差別はたしかに存在していたが、一般の労働者やその家族は、それまでは無かったような形でアメリカの豊かさを実感できた。その一方で、富裕層は、一世代前よりは金持ちではなくなっていた。
 アメリカの一部の経済歴史家は、1920年代から1950年代にかけてアメリカで起こった所得格差の縮小、つまり富裕層と労働者階層の格差、そして労働者間の賃金格差が大きく縮小した事を「大圧縮」と呼んでいる。この「大圧縮」は、「大恐慌」と同じように、アメリカ社会と政治に重大な質的変化を与えたが、アメリカ人には、ほとんど忘れ去られている。
 ③「長期の金ぴか時代」は、実態として「揺るぎない階級社会」であった。金持ちは自分を労働者よりもましな人間だと思い込み、労働者はボスに対して恐怖と敵意を抱いていた。しかし、「大圧縮」の結果、そのような階級意識は消滅していった。戦後のアメリカでは、優れた労働組合がたくさんあり、その庇護下にあった労働者は、それなりの高所得を手にしていた。


(1)金持ちはどうしてしまったのか

 1971年にノーベル経済学賞を受賞したサイモン・クズネッツは、所得分配の変化について「クズネッツ循環」と呼ばれる周期的変動を発見した。その論理は以下のとおりである。
  ⅰ)発展の初期段階では、お金持ちの投資機会は増大するが、地方から都市に流入する労働者の賃金は低く抑えられる。その結果、国が工業化するにつれて、格差は拡大する。
  ⅱ)しかし、次第に資金はより潤沢になり、地方からの労働者の流入も減少し、賃金は上昇するようになる。その結果、国の繁栄は広く浸透するようになり、経済の中流化は広範に行きわたる
 1980年代初めまでは、たしかに経済の中流化は進んでいたが、1980年代半ば以降、縮まったはずの格差がまた広がり始めた。この原因を、多くの経済学者は技術革新とグローバリゼーションのせいにしているが、そうではなくて、真の原因は、「政治権力のバランスの変化なのである。こうした変化を調べるには、富裕層(所得分配においてトップ1%に入る人々)の所得推移を検討すればよい。

表2 税率の変化
最高所得税率 不動産に対する相続税率
法人税率
1920年代 24% 20% 14%
ルーズベルト大統領時代 63%、79%(第二期) 45%、60%
1950年代半ば 91% 77% 45%

 ③富裕層の最高所得は1950年代にかけて急激に減少した。その最大の理由は税金である。1920寝代から1950年代半ばにかけての税率の変化を右の表2に示す。
 ④
最高所得税率も、「長期の金ぴか時代」にはわずかに、24%であったのが、冷戦たけなわの1950年代半ばには91%にまで上昇した。そして、不動産税率も法人税率も同じように急激に上昇したのである。
 ⑤
その結果、1929年には、最も裕福なアメリカ人の0.1%が国富の20%以上を所有していたが、1950年代半ばになると、その比率は10%にまで下がったのである。
 つまり、金持ちはそのお金と資産の多くを税金として国に持っていかれたのである。そのため、ルーズヴェルト大統領が、彼の階層の人々から「裏切り者」として見られたとしても、何の不思議もないのである。

(2)労働者と組合

 大圧縮時代の最大の犠牲者は「富裕層」であり、最大の受益者は「労働者」、それも工場労働者であった。なぜ、それほど、ブルーカラー労働者にとって良い時代であったかというと、その理由として以下の3点が挙げられるであろう。
  ⅰ)その当時のアメリカの製造会社は、海外からの競争にあまりさらされていなかったために、高い給与を払う事が出来た。
  ⅱ)1924年の移民法により、移民が厳しく制限されていたため、労働力が不足していた。
  ⅲ)そして、最大の理由は、労働組合の隆盛である。1920年代の終わり頃には、組合運動は停滞しており、1933年には、組織率も10%そこそことなって最低を記録していた。しかし、「ニューディール政策」によって、組合員の数と影響力は大きく増加した。1933年から1938年までの5年間に、組合員の数は3倍に増大し、さらに、1947年までには2倍に増えた
 なぜ、組合員が増えたかというと、「ニューディール政策」によって、政府が労働者の団結権の擁護者となったからである。「ニューディール政策」が始まる前までは、政府は常に経営者の味方であり、その結果、経営者は、いつも、ストライキを中止させるのに成功していた。
 ③しかし、組合の組織化だけでは、格差の是正には不十分であり、完全なる変革には、第二次世界大戦という特殊な状況が必要であった。

(3)戦時下の賃金統制


 第二次世界大戦の間、アメリカ経済の一端は、多かれ少なかれ政府の指導下にあった。政府は、その影響力を行使して、所得格差を大きく是正しようとしたのである。その政策の一つが、全米戦争労働委員会(NWLB)の設立である。この委員会は、第一次世界大戦後に一旦解散したが、ルーズベルト大統領はそれを真珠湾攻撃の1ヶ月以内に復活させ、以前よりも強い権限を与えた。
 当時、戦争のため強いインフレ圧力が存在していたため、政府は多くの主要商品に対し価格統制を実施すると共に、賃金も統制した。賃金の上昇は、すべてNWLBの承認が必要であった。NWLBは、ルーズヴェルト政権の政策に従い、高い賃金ではなく、低賃金労働者の賃金を上げる傾向が強かった。
 ③たとえば、NWLBは、職業別の賃金幅をつくり、雇用主はそれに従い、賃金をその幅の最低線にまで引き上げる事が許されていた。こうした事も、低賃金労働者に有利に働いた。そして、NWLBは、工場内の賃金格差をなくす賃上げも許可していたため、賃金の底上げにも寄与した。
 ④
経済歴史家が指摘しているように、NWLBが「用いた賃上げのための基準は、産業間、そして産業内の賃金格差を縮小させた」のである。そして、驚くべき事に、そのような変化は戦後も定着したのである。

(4)格差是正と戦後の急成長

表3 戦後の時代区分とその特徴
時代区分 世帯の実質収入の年平均成長率
時代の特徴
急成長時代(1947年から1973年まで)
急成長(2.7%) 中産階級が増えて、庶民が豊かになった
混乱の時代(1973年から1980年まで)
停滞状態 石油ショックとスタグフレー
ションで経済が停滞
格差拡大の時代(1980年以降現在まで)
緩やかな上昇(0.7%) 経済は成長したが、格差は拡大した

 もし、今、民主党が「大圧縮」政策の実施を提案したら、そのような反応があるだろうか?今までの経済通念からすると、以下のごとき反応が予想される。
  ⅰ)需要と供給の法則に反する政府の介入は、必ず失敗するだろうし、政府の統制が無くなれば、また元に戻って、格差は拡大するだろう。
  ⅱ)そのような過激な格差是正策は、労働意欲を減退させ、経済をダメにしかねない。高い法人税は企業投資を大幅に減少させる。個人の所得に対する高い所得税は、起業家精神と個人の労働意欲を減退させる。強い労働組合は、度を越した賃上げを要求し、失業を増大させ、生産性の向上を阻害する。
  ⅲ)つまり、これらは、かって鋭く批判された「ヨーロッパ病」(高い失業率と低い成長率)をもたらすものだとして反対されるであろう。
 しかし、「ニューディール政策」がもたらした収入の劇的な格差是正政策は、第二次大戦後のアメリカに、歴史に前例のないほどの繁栄の時代をもたらしたのである。そこで、戦後を右の表3のように、三つの時代に分けて、分析してみよう
  ⅰ)1947年から1973年まで(急成長時代) 典型的な世帯の実質収入は、この期間でほぼ2倍となった(年率2.7%の成長率)。そして、すべての層の収入がほぼ同じ比率で上昇したので、「大圧縮」で達成された比較的平等な収入配分はそのまま維持された。
  ⅱ)1973年から1980年まで(混乱の時代) 1973年10月に勃発した第四次中東戦争に端を発した「第一次石油ショック」、、1978年からのイラン革命がもたらした「第二次石油ショック」、そして、そうした混乱がもたらした「スタグフレーション」により、経済は長期にわたって停滞した。
  ⅲ)1980年以降(格差拡大の時代) 世帯当たりの収入(中央値)は、年率 0.7%しか増加していない。この間、1982年から1989年まで(レーガン時代)の景気拡大、そして、1993年から2000年まで(クリントン時代)の急成長等を経て、経済規模は大きく成長したが、一般庶民の懐は、戦後直後の「急成長時代」ほどは、豊かにならなかった。
 ③こうした時代区分概観して言えることは、今、現役を引退しているアメリカ人のほとんどは、自分の親には想像も出来なかった豊かさを満喫した世代である、という事である。しかし、今、彼らは、自分たちの子供や孫が、自分たちより豊かな生活を送れるか否か、確信を持てないであろう。

表4 戦後日本の時代区分とその特徴
時代区分 時代の特徴
1960年代末から1990年代初めまで 高度成長から安定成長、バブル経済の時代
1990年代 失われた10年(デフレ経済で停滞)
2000年以降 格差拡大が始まる

 ④結論としては、ニューディール政策」と戦時中の「各種の規制」が、収入格差縮小に素晴らしい効果をあげ、その結果、戦後の急成長時代をもたらし、大多数のアメリカ人が「中流階級」として、自分の親よりもはるかに豊かな生活を送る事が出来た、ということである。

 注: 表3の時代区分をほぼ20年遅らせると、日本も同じような傾向が見て取れる
。これを右に表4として示す。アメリカは、オバマ大統領の誕生により、来年以降、格差縮小に向けた政策が実行されるであろうと、期待されているが、日本は、20年待たないと、そのような方向にならないのであろうか?そうではなくて、次の総選挙で、格差縮小を目指す政権が誕生する事を心から希望するものである。

4.第4章 福祉国家の政治 

(1)選挙権が与えられた国

 「長期の金ぴか時代」では、多くの労働者(とくに低賃金労働者)は、法律上ないしは実際の問題として投票できなかった。選挙権が与えられていなかった最大のグループは、南部州のアフリカ系アメリカ人たちである。こグループは「大圧縮」後も30年間も投票権がなく、今日でも、いまだ一部では選挙権が認められないままである。
 大圧縮時代」、アメリカに帰化していない移民たちも選挙権を与えられていなかった。この事を考慮に入れると、1920年、アメリカに居住する成人の2割は選挙権を持っていなかった。彼らのほとんどは、貧しい人たちであったから、不平等を無くし、格差を是正するように要求する政治勢力は、その分少なくなっていたわけである。
 ③1924年に厳しい移民規制が施行されてからは、移民の比率が減り、さらに、選挙権をもたない移民の比率は大幅に少なくなった。黒人が選挙権を与えられていない状態はあまり、改善されなかったが、少なくとも、白人移民のほとんどは、1950年代にかけて選挙権を持つようになった。この結果、白人ブルーカラー労働者の政治的影響力が強まり、広い意味での福祉国家を支持する有権者が増えていったのである。

(2)南部州の特殊な役割

 ①南部州は、今でも他の州と多くの意味で異なるが、1950年代にはまったく別の国のようであった。人種隔離政策と差別はあからさまで、黒人の低い社会的地位は法律や公的政策によって明記され、暴力によって押し付けられていた。
  ⅰ)黒人に対する人種隔離教育の廃止を命じた最高裁判決が出たのは、1954年。
  ⅱ)最高裁判所が公共の交通機関における人種隔離政策の廃止を命じたのは、1956年末。
  ⅲ)黒人に投票権を与えた「投票権法」が成立したのは、1964年。
 こうした、国家レベルからの法的強制があっても、「暴力的」差別はなかなかなくならなかった。
 ところが、こうした暴力的な人種差別を行っていた極めて保守的な南部州は、長い間、「ニューディール政策」を推進してきた重要な一派でもあった。その「醜い」理由として、以下の2点があげられる。
  ⅰ)1950年代の民主党は、経済的格差をなくそうとする党ではあったものの、暗黙のうちに黒人差別政策を受け入れていた。民主党が人種的な平等を唱える党になってから、共和党はそれに対抗するようになったのだ。当初、共和党は奴隷制度に反対していたが、後に富裕層を擁護する党へと変身した。
  ⅱ)南部州は他の州よりも貧しく、「ニューディール政策」によって、他州よりも多くの補助金を得る事が出来た。つまり、南部州の人種対立は、地方の反動的な政治と結びついていたが、貧困のために福祉国家から得るものが非常に多く、国家政策レベルでは北部州のリベラル派を支持した、ということである。
 ③しかし、トルーマン大統領が「ニューディール政策」を完成させるために、国民皆保険制度を導入しようとした時に、南部州の白人は、「ニューディール政策」に反対する方向へ転換した。南部州の政治家たちは、国民皆保険制度の導入によって、病院での人種隔離がなくなると思いこんだのだ。つまり、南部州の政治家たちにとっては、貧しい白人に医療を提供するよりも、黒人を白人の病院に入れさせたくない事のほうが重要であったのである。
 ④
トルーマン大統領の国民皆保険制度の導入が頓挫させたのは、南部州の政治家(民主党も含む)だけではない。現在の貨幣価値に換算すると2億ドルほどをつぎ込んで反対したアメリカ医師会(AMA)の責任も大きい

(3)格差是正時代の政党

表5 収入別、白人有権者の大統領選における民主党への投票率
1952年から1972年 1976年から2004年
最も貧しい3分の1 46% 51%
中間の3分の1 47% 44%
最も裕福な3分の1 42% 37%

 近年の選挙では、党派への投票行動は有権者の収入と非常に深く関連している。有権者の収入が低いほど、民主党へ投票する傾向が強い。しかし、「急成長時代」には、収入レベルと投票行動にはほとんど関連がなかった。(右の表5参照)。
 この急成長時代、収入レベルで大きな投票行動の違いがあったのは、1964年の大統領選でゴールドウォーターが共和党の候補になった時であった。彼は、真の「保守派ムーブメント」の一員であり、そして、その後に訪れであろう事の前触れでもあった。
 ③急成長時代、共和党は何にもましてWASP(アングロサクソン系プロテスタントの白人)の党であった。ただし、アングロサクソン系というのはそれほど重要ではなかった。(アイゼンハワー大統領はドイツ系だったが、それは関係なかった)。
 ④
「ニューディール政策」が始まるまで、アメリカでは白人プロテスタントが支配的な人種であった。しかし、「ニューディール政策」で大きな役割を果たしたのは、カトリックの組合員やユダヤ系のインテリ層であった。そして、そのような変化に対して多くのアメリカ人は懐疑的であった。1960年の大統領選挙において、ケネディに投票しなかったアメリカ人の多くは、単に彼がカトリックだから、投票しなかっただけなのである。
 ⑤
結論を言えば、「急成長時代」(つまり、不平等や格差が是正された1940年代末から1970年代始めにかけての「格差是正時代」)においては、共和党も民主党も、「ニューディール政策」を受け入れて、社会保障制度の充実や失業保険、メディケアなどを進めてきたのである。このバランスは、1970年代に崩れるのだが、その芽は1960年代に表れてきたのである。そして、1960年代とは、アメリカにとって、経済はすべてうまくいったにだが、政治的にはすべてがうまくいかなかったように見えた時代であった。

 注: 日本が高度成長を続けて、「一億総中流」と言われるような国家へと発展した1980年代は、「日本の政治は3流だが、経済は1流である」とか言われたものである。自民党も、金持ち優遇とまではいかず、農家や中小零細企業者にも優しい政策をすすめており、それが結果的に、「中流階級」の増大をもたらし、日本を経済大国へと発展させたのである。

5.第5章 60年代 騒然の中の繁栄 

 1960年代は、経済的に見て、これ以上いい時代はなかったといえるほど、好景気に恵まれた時代であった。仕事も十分あったし、賃金も毎年上昇していた。低賃金労働者にとってもこれほどいい時代はなかった。1970年までに人口の85%以上が医療保険に加入できていた。

表6 1966年8月の世論調査
質問: アメリカは正しい方向に向かっているか、それとも間違った方向に進んでいるか
 回答1: 正しい方向に進んでいる  26% 
 回答2: 間違った方向に進んでいる  71% 

 ところが、経済的にこれほど反映していたのに、大多数のアメリカ人は、アメリカ社会が崩壊しつつあると感じ始めていた。1966年8月にAP通信とイプソス社が行った世論調査の結果を右の表6に示す。驚くべき事に、71%のアメリカ人が、「アメリカは間違った方向に進んでいる」と回答したのだ。
 ③その懸念が、選挙であらわれたのが、1966年のカリフォルニア知事選挙である。ロナルド・レーガンが、「福祉のだまし取り」「都市での暴動」「長髪の大学生」を攻撃し、人種などに基づく差別的な取扱いを禁じる「公平住宅法」に反対する事で、当選を果たしたのだ。
 ④
1966年当時の共和党は、今日よりもはるかに穏健な政党であった。「保守派ムーブメント」が存在し、1964年にはゴールドウォーターを共和党の大統領候補に選出させることに成功したが、まだ主流派にはなっていなかった。リチャード・ニクソンもあらゆる意味でリベラルな政治運営を行っていた。

ジョンソン大統領

 ⑤この当時の民主党はベトナム戦争に足をとられていたが、民主党の議会支配を揺るがすほどの影響力はなかった。共和党が、議会を支配出来るようになったのは、「黒人解放運動や公民権運動に対する白人の反発を利用する」ことを学んだからだ。その事によって「保守派ムーブメント」はついに政権を奪取し、議会を支配出来たのである
 「保守派ムーブメント」が力を伸ばしてゆく経過をこれからたどってみよう。

(1)公民権と南部州の背信

 ジョンソン大統領が、アフリカ系アメリカ人の公民権を推進すると決めた事は、多くの白人達に恐怖感を植え付けた。今日、北部・南部を問わず、どの政治家もジョンソン大統領の投票権法に公の場で反論する者はいない。しかし、1960年代から1970年代においては、かなりの白人は、まだ新しい事態に対応できない「人種隔離主義者」であった。そして、6割以上の有権者が、「公民権運動の変化はあまりに早すぎる」と感じていた。
 あからさまな人種隔離主義を唱えたほとんどは南部州の白人であった。その南部州では、アパルトヘイト制度が撤廃された後でも、公的な法制度ではないにしても、事実上。人種差別と隔離の現実は残っていた。そして、それは、法的な人種隔離政策とは異なり、アメリカ全土に存在していたのだ。多くの白人は、州政府が黒人を平等に扱わないのは違法だと思っていたが、人種偏見のために民間の地主や家主が住宅を黒人に売らないのは違法ではない、考えていた。白人たちは、それは差別ではなく自由意思による選択だと主張していた。
 ③公民権運動家は、そのような不当な差別を撤廃しようとするあまり、必然的により多くの敵をつくってしまった。この点に気がついた目ざとい政治家がいた。ロナルド・レーガンが公民権法と投票権法に反対し、カリフォルニア州知事に立候補したのだ。彼の公約の一つは、州の公平住宅法を撤回するというものだった。
 ④
公民権運動に対する一般市民の受け止め方は、都市部における騒乱の高まりのために複雑なものになっていき、公民権運動への反対運動を強化し、正当化する方向へと動き始めた。

(2)都市での騒乱

 1967年10月、リチャード・ニクソンが、今日有名な「アメリカに何が起こったのか」という記事をリーダーズ・ダイジェスト誌に掲載した。その中で、諸悪の根源はリベラル派の寛大な自由放任主義にある、と指摘した。1960年代のアメリカ人は、法と秩序が崩壊している、と感じていた。1957年から1970年の間に、犯罪率が3倍に跳ね上がったのである。この犯罪の増加の真の原因が何であれ、アメリカ人の多くは、リベラル派の寛大な自由放任主義を、混乱と騒動の原因として非難した。
 公民権運動の高まりが、都市での暴動と関係があったのだろうか?1968年に発表された国家指紋委員会の報告書では、「関係有り」としている。最終的な責任は白人の人種差別にあるとしながらも、公民権運動によって醸成された期待感が暴動の原因として挙げられると述べていた。
 ③この報告書は、ジョンソン大統領に打撃を与え、ニクソンの役に立った。厳しい人種差別を撤廃しようとした事が、暴動の引き金になった、というのは、公民権運動にもともと反対であった人々を鼓舞したからだ。そして、白人有権者の間では、犯罪と暴動に加えて、「行き過ぎた福祉」も問題視されていた。

(3)福祉の爆発

 1966年にカリフォルニア州知事となったレーガンは、福祉のタダ乗りに怒っていた白人有権者の指示を集めるのに成功したのだ。国民は、福祉をだまし取っている連中のお陰で、税金が上がっている、と思いこんでいたのだ。実のところ、だまし取っていた部分はほんのわずかであったが、福祉予算は急激に増加していた。1966年には10年前の倍以上のアメリカ人が福祉の恩恵を受けていた。そして、福祉予算は、1960年代末から1970年代初めの「福祉の爆発」によって、10年前の倍以上に跳ね上がっていた。
 急増した福祉をうけるようになった多くは黒人であった。なぜ、福祉予算が急増したのかと言うと、それまで多くの貧しい黒人は福祉を受けられないようにさせられていたのに、公民権運動によって福祉を受けれるようになったからである。つまり、福祉予算の増大は、公民権運動の副産物でもあったのだ。
 ③結局のところ、公民権運動によって、黒人は恩恵を受けたかも知れないが、多くの白人は、社会が不安定になり、税金は増え、しかも増えた税金は黒人のために使われている、と感じて、反感を抱くようになっていったのである。

(4)セックス・アンド・ドラッグス・アンド・ロックンロール

 1960年代には多くの事が起こったが、戦後のベビーブームで生まれた若者たちが大量に大学に入学し、既成の価値観に抵抗する「カウンターカルチャー」が脚光を浴びた時代でもある。若者たちの反抗は、多くのアメリカ人を怖がらせ、そして怒らせた。レーガンは、カリフォルニア州知事選挙中、「カリフォルニア大学バークレー校における目に余る成功と共産主義の影響を調査する」と、公約していた。
 共産主義とセックス!今となってはマンガみたいな結び付けであるが、当時の中流階層のアメリカ人にとっては、現実的不安要素であった。自分たちの子供がヒッピーになり、麻薬をやり、社会からドロップアウトすることを恐れていた。実際にそうなった例も多々あったからである
 ③レーガンの例が示しているように、若者の反逆に大きな幻滅と不安を抱く者たちがいた。そうする理由は、彼ら自身は認めたくないかもしれないが、他人の性生活に対する非常な興味があるのであり、それが、「保守派ムーブメント」の永続的な特質なのである。

(5)ベトナム

表7 民主党の過半数維持の推移
議会 民主党の上院議席数(定数100)
民主党の下院議席数(定数435)
第90回 1967・68 64 248 (57.0%)
第91回 1969・70 58 243 (55.9%)
第92回 1971・72 54 255 (58.6%)
第93回 1973・74 56 242 (55.6%)
第94回 1975・76 61 291 (66.9%)

 ベトナム戦争はアメリカを激しく分断した。ニクソンは、そのベトナム戦争を利用して政権を奪取した。一般から嫌われていた戦争を自らの目的のために利用し、政治的な成功を収めたのだ。そのやりかたは、2004年の大統領選挙でのブッシュ陣営の勝利においても繰り返されている。一般のアメリカ人は、圧倒的にベトナム戦争に反対であったが、ニクソンは民主党の大統領候補であったマクガヴァンのベトナムからの撤退を無責任で弱腰だと思わせる事に成功した。
 しかし、ベトナム戦争をアメリカ政治の転換点だったとする考え方は正しくない。反戦運動は、1960年代から1970年代初めにかけて、アメリカに重くのしかかっていたが、1973年に徴兵制が終わり、アメリカ軍がベトナムから撤退してからというもの、驚くほどのスピードで消え去った。反戦運動家は、他の事に関心を移し、過激な左派勢力は、重要な政治勢力として根付くことなく消え去っていった。
 ③他方、ニクソンは反戦運動に対する反動を大きな議会勝利に結びつける事ができないでいた。右の表7が示しているように、ベトナム戦争たけなわの1960年代後半からベトナム戦争が終結する1970年代前半まで、アメリカ議会を支配していたのは、上下両院ともに民主党であった。ニクソンがマクガヴァンに圧勝した1972年でさえ、民主党は上下両院で過半数を上回っている。
 ④
ベトナム戦争終結後の数年、民主党が安全保障問題に弱い、という認識は一般アメリカ人には広がっていなかった。

(6)60年代が生んだもの

 1960年代は、ヒッピーと過激派学生、戦争と平和、そして、保守主義者が長髪の若者を殴っていた時代であった。これらの事は、政治的にはあまり大きな影響を与えなかったが、より重要なのは、共和党が、黒人解放運動や1960年代の若者文化に対する白人の反発をうまく利用する方法を学んだ事である。そして、それは「保守派ムーブメント」にとって、それから数十年間役立つことになる。白人たちの反発がヒッピーと犯罪から、妊娠中絶と同性愛結婚へと移ったとしても、本質的には同じ事である。
 だが、長期的に見た場合、人種問題で、ニューディールを支持してきた諸勢力が分断した事が問題だった。この人種にまつわる政治の変化が、「保守派ムーブメント」を復活させたのだ。その最終的な目的は、ニューディールの成果の逆転であり、全国の選挙で勝利する事であった。
 ③「保守派ムーブメント」は、中流・低所得層のアメリカ人ではなく、少数のエリートの利益に有利に働く政策しか支持していないのに、全国的な選挙で勝利するようになっていった。その基礎はどのようにして築かれ、共和党を掌握するようになっていったのか、それを次の第6章で検討しよう。

6.第6章 保守派ムーブメント

 「ニューコンサーバティブ(新しい保守派)」と呼ばれるようになった人たちは、自らを体制に挑戦するアウトサイダーだと捉え、当初からその運動資金は潤沢であった。その運動の先鞭をつけたのは、保守派の重鎮として名高いウィリアム・バックリーであった。彼は、1951年に、イェール大学がキリスト教に対して批判的な教授を雇っている、としてイェール大学を避難して、一躍名を馳せた。
 彼は、ケインズ経済学も批判しており、1955年には、保守派のオピニオン雑誌「ナショナル・レビュー」を創刊した。この雑誌を使って、南部州が黒人の公民権をはく奪している事を支持する論説を掲載したり、スペインのフランコ将軍を「本物の国家的英雄である」と、讃辞を送ったりした。
 ③現在の「保守派ムーブメント」は、発言を慎んでおり、自由と個人の選択を擁護している、と主張している。とはいえ、「保守派ムーブメント」は、何よりも「宗教と資産を守る事」に熱心である。その裏返しとして、累進課税や福祉国家を提唱するケインズ経済学には批判的であるそのムーブメントが、共和党を掌握し、選挙に勝つようになっていった足跡をたどってみよう。

(1)大衆の支持を求めて

 1964年、保守派は共和党を牛耳り、ゴールドウォーターを大統領候補に指名させることに成功したが、大統領選挙では大敗した。その過程で、大衆的支持基盤を獲得する必要性を感じ取ったが、それを実現させたのがロナルド・レーガンである。
 レーガンは、1964年に「選択の時」と題する演説を行い、「大きな政府の罪悪」について、大衆の怒りをあおりたてる方法で攻撃した。彼が用いた統計データや逸話は誤解と偏見に満ちたものであったが、大衆の共感を呼び、支持された。つまり、レーガンは、「保守派ムーブメント」が掲げる政策を、一般大衆の偏見と感覚に訴えかける方法を見出したのだ。小さな政府というレトリックを使い、あからさまに人種差別的にならずに黒人解放運動に対する白人の反発をくすぐることができた。
 ③またレーガンは、共産主義の脅威に対する大衆の被害妄想をくすぐる事にも成功している。アメリカ人は、国を危ぶませるものは、非常に簡単に軍事力によって排除できるものと思い込んでいる。だから、自制を唱える者は、よくて弱腰、悪くて国家への反逆だと思っている。だから、冷戦時代の「封じ込め政策」を支持している者は、「勝利なき空想的な平和決着」を夢見ている弱腰の愚か者でしかなかった。
 ④
つまり、「保守派ムーブメント」は、一般大衆の感情にアピールする二つの方法を見出し、広い大衆支持基盤を掘り起こす事に成功したのである。その二つとは、「白人の黒人解放運動に対する反発」と「共産主義に対する被害妄想」を利用する事であった。そして、その支持基盤の広がりは、他の異なる支持基盤の登場によって強化される事になる。それはビジネス界からの熱い支持であった。その支持基盤は票を集める事は出来なかったかもしれないが、カネを集める事ができた

(2)ビジネス界の支持基盤

 今日、ビジネス界のほぼ全般が最右派を強く支持している事は、当然のように受け止められているが、1960年代は必ずしもそうではなかった。「保守派ムーブメント」を支持していたのは、主に中小零細企業と個人経営のビジネスであった。そして、その不満は何よりも組合に向けられていた。
 一方、大企業は政治に慎重であった。というのも、組合の要求を受け入れる余地があったからだ。1960年代は、まだ海外企業との広範な競争が始まっていなかったので。組合の賃上げ要求に応えても、それによるコスト上昇分は価格に転嫁できた、つまり、消費者に肩代わりさせる事が出来たのだ。ところが、中小零細企業の場合、海外とは競争していなかったが、組合に加盟していない同業他社との競争があり、組合からの増大し続ける要求は、脅威となっていた。
 ③現状からは理解しにくいかもしれないが、1960年代は、組合問題が極めて重要な問題だったのだ。組織化された組合運動は強力で、経済的影響だけでなく、政治の舞台でも大きな役割を果たしていた。そして、その南部州以外では、組合の活動が民主党勢力の屋台骨となっていた。
 ④
「保守派ムーブメント」は、反組合主義をうまく活用する事によって、ビジネス界での最初の強固な支持基盤を獲得するようになる。。

(3)知識人の支持基盤

 「保守派ムーブメント」が大衆の支持基盤を獲得し、ビジネス界からも強固な支援を受けるようになると、「ニューコンサーバティズム」以外の知識人からも支持を得るようになる。それは、「ネオコンサーバティズム」と呼ばれる保守派と、「ニューコンサーバティズム」とが合流してからの事である
 「ネオコンサーバティズム」の起源は、大きく二つのグループにたどる事が出来る。
  ⅰ)一つは、ケインズ経済学に対抗したミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ派のエコノミストたちであり、
  ⅱ)もう一つは、ジョンソン大統領の「偉大な社会(人種や性などの差別を撤廃した福祉社会)」の建設に反対した雑誌、「パブリック・インタレスト」に関わっていた社会学者たちである。

 ③フリードマンは完全なる自由市場主義経済を信奉しており、大恐慌さえ、市場の失敗ではなく政治の失策であると主張していた。そして、自由市場主義エコノミストたちは、ニューディールだけでなく、その後の改革も否定するようになり、政府が食糧や薬品の安全を取り締まる事さえ不当であると攻撃した。
 ④
「偉大な社会」の建設に反対した社会学者たちの主要な論点は、「貧困に対する戦いに含まれていた左派的な考え」に反対する事であった。つまり、彼らは共産主義に強く反対しており、その結果として、「保守派ムーブメント」を支持するようになっていったのである。

(4)ニクソンと偉大な展開

 レーガンが1966年、カリフォルニア州知事選挙に勝利した事が、「保守派ムーブメント」の最初の大きな勝利であった。しかし、その後のニクソンの登場により、一旦、勢いはそがれた。ニクソンが進めた政策はリベラル色が強く、「保守派ムーブメント」の望むものとは明らかに違っていた。内政面では、増税をしたし、外交面では、共産中国と対話を行った。
 1970年代半ば、「保守派ムーブメント」はある意味で、1920年代後半のニューディールと同じ立場にいた。つまり、権力を掌握する上で残されていた事はただ一つ、危機の発生であった。そこに、タイミングよく、内外の危機が訪れたのである
 ③外交面では、1975年4月のサイゴン陥落後、共産主義は東南アジア諸国やアフリカで勝利し続けているかのように見えた。そして、1979年12月、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻した。また、共産主義とは別であるが、同じ1979年1月にイラン革命が起き、同年の11月にはテヘランでアメリカ大使館人質事件が発生した。
 ④
内政面では、エネルギー危機(1973年第一次石油ショック、1979年第二次石油ショック)に端を発してスタグフレーションの悪夢が襲いかかり、高失業率と二桁インフレが生まれていた。
 ⑤
こうした内外の危機に乗じて、「保守派ムーブメント」は、リベラルな政策は信頼できないと糾弾し、権力を掌握する事に成功した。そして、すぐさま、ニューディールの成果を逆転させる事に成功したのである。

ビル・ゲイツ氏

7.第7章 大衆格差社会

 現代のエコノミストたちは、アメリカの所得の中央値が1970年以降上がったのかを議論している。平均所得が、急成長最後の1973年以降も、大幅に上昇したのは間違いない。しかし、平均所得はほとんどの国民の経済状態を必ずしも正確には伝えていない。たとえば、ビル・ゲイツがバーに入ってきたら、バーの顧客の平均収入は急上昇するが、各顧客が急にお金持ちになったわけではない。。
 一方、所得の中央値は、ビル・ゲイツがバーに入ってきても上がらない。したがって、あるグループの典型的な構成員の経済状態を知ろうとする際、所得の「平均」ではなく、「中央値」に言及するのである。1970年代後半から30年間、アメリカでは平均所得は大いに上昇したが、所得の中央値はほとんど変化していない。この事は、極めて少数の人々だけがとてもとても裕福になった事を示している
 ③戦後の急成長時代の恩恵は、ほとんどのアメリカ人によって共有されたが、1970年代後半以降の経済成長の果実は、一般大衆には与えられず、一握りの富裕層が独占してしまったのである。経済成長の成果が広く平等に分配されている、という感覚は二度と戻ってくる事はなかった。

(1)勝者と敗者

 ビル・ゲイツの比喩でわかるように、格差の拡大のために普通のアメリカ人労働者は生産性向上の恩恵を受ける事が出来なかった。では、誰が勝者で、誰が敗者なのだろうか?勝者は、驚くほど限られた一握りの人々で、敗者は、残りほとんどのアメリカ人であった。
 1970年代以降、第二次大戦以降の世代と比べて所得が伸びたのは、所得階層の最高位1%の人々だけである。その上の階層を見るとそ伸びは目をみはるものがある。上位0.1%の人々の所得は5倍に増え、さらに上位の0.01%のアメリカ人は、1973年に比べて7倍も金持ちになっている。
 ③1905年ごろの典型的な富裕層は、工場を所有する大企業のオーナーであったが、100年後の現在の富裕層は、ボーナスとストックオプションなどで、たっぷりと報酬を受け取っている経営のトップである。
 ④
なぜそうなったのかについては、以下の二つの相反する説明がある。
  ⅰ)一つは、前述の、技術革新とグローバリゼーションが原因である、という説明である。
  ⅱ)そして、もう一つは、制度や規範、政治権力の変化を強調する説明である。


(2)高度技術への需要

 パソコンやインターネット等 IT 関連産業の発展は著しく、それに伴って単純労働は激減し、今日のオフィスでは事務処理作業をこなす労働者はほとんどみかけなくなった。その代りに増えたのが、管理職である。また、小売業をみても、レジや在庫管理の担当者は少なくなったが、マーケティング・コンサルタントは増えている。
 技術革新が格差を拡大させたという仮説が、広く受け入れられる背景として以下の3点があげられる。
  ⅰ)技術革新が広まったタイミングと格差拡大が始まったタイミングが合っている事。インテルが初のコンピュータチップを1971年に導入するまで、現代の IT の普及は始まらなかった。それまでは、メインフレームコンピューターが主力であり、それが、一般労働者(とくに、事務担当者)の仕事の仕方に影響を与える事はなかった。
  ⅱ)この仮説はエコノミストを安心させるものであった事。この仮説を使うと、需要と供給だけで説明でき、制度・規範・政治権力など、社会学者は問題にするが、エコノミストは自らのモデルに組み込めない事項を対象にする必要がない。
  ⅲ)この仮説は、格差の拡大は誰の責任でもないとしている事。つまり、テクノロジーが見えざる手を操っている、というわけである。

 ③しかし、技術革新が格差を広げたという直接的な証拠は驚くほど少ない。テクノロジーがマーケットに与えた影響を直接測定する簡単な方法はないのである。エコノミストが用いている仮説は、“格差の広がりは、「技術革新」「国際貿易」「移民流入」の三つの要因で引き起こされた”とする。これ自体が偏向した仮説なのだが、まず最初に、データの得られる貿易と移民から格差拡大への影響を推定する。そして最後に、これらのデータでは説明できなかった部分を「技術革新」のせいにするわけである。つまり、「技術革新が格差拡大の原因である」とする仮説は、消去法で得られた結論であって、なんら、理論的根拠がないものなのである。
 ④
重要なのは、「技術革新」「国際貿易」「移民流入」という三つの要因は、格差拡大の原因の一部であって、他にも要因がある、と言う事なのである。そうでなくては、所得の伸びが、非常に巨額な所得を得ている限られたグループにだけ生じ、大多数のアメリカ人は、生産性の伸びに見合うだけの所得上昇には至っていない、という事実を説明できないのだ。たとえば、1970年に平均的な労働者の約30倍だったCEO(最高経営責任者)の所得が、今日では300倍にまで跳ね上がったのは、技術革新のせいだろうか?。

(3)「デトロイト協定」の終わり

 エコノミストの間で、「格差拡大をもたらしたのは、技術革新ではなくて、制度や規範の変化のせいである」、という説に支持が広がりつつあるのには以下の二つの大きな理由がある。
  ⅰ)「大圧縮時代」に起きた事(1930年代と1940年代における劇的な「格差是正」)と、現在の格差拡大状況を関連付けて説明しようとする場合、「制度と規範の変化」を用いると、その実態解明に役立つのである。
  ⅱ)「制度と規範の変化」という説明は、アメリカだけが例外である、ということを示すのに役立つのである。「技術革新」は他の先進国でも同じように怒っている。しかし、他のどの先進国においても、アメリカでおこったような格差拡大は見られなかった
 「大圧縮」そのものが、そして、それが戦後数十年も続いたことが、所得分配を決定するのは「見えざる手」ではなく、社会的な諸制度である事を、何よりも明白に物語っている。戦争中に実施された比較的平等な所得配分が戦後も持続した理由の一つとして、フォーチュン誌が「デトロイト協定」と呼んだ、1949年のGM(ゼネラル・モーターズ)とUAW(全米自動車労組)の間で結ばれた画期的な労使協定の存在があげられる。
 ③「デトロイト協定」の下では、UAW組合員の賃金は生産性に伴って上がり、医療手当や退職金も支給された。その見返りとしてGMが得たものは、安定した労働力だった。そして、その協定内容はアメリカ全土の労使関係に波及し、非組合員の労働条件にも強い影響を与えた。
 ④
同時に強力な組合の存在は、株主と経営者の収入に対する抑制としても働いた。トップの経営者が巨額な報酬を得るような事をすれば、労働者との間で問題が起きただろう。同様に、大きな利益を上げた企業が賃金を上げない場合には、労使関係を損なう恐れがあった。
 ⑤
1969年のGMのトップの年収は、現在の貨幣価値に換算すると約430万ドル、一方、GMの労働者の年収は、現在の貨幣価値換算で4万ドル以上で、さらに、好条件の医療手当と退職金も得ていて、まさに中流階級の労働者であった。
 1960年代の代表的大企業がGMであるとすれば、現在の代表的大企業はウォルマートである。2005年、ウォルマートのトップの年収は2,300万ドル(かってのGMのトップの5倍以上)、労働者の平均年収は訳1万8千ドル(かってのGM の労働者の半分以下)であり、医療手当を受けている従業員数の割合は低いし、その内容も貧弱である。この両者の比較が端的に示しているように、「デトロイト協定」が無くなった現代では、トップは大きく肥り、労働者は痩せ細っているのだ。つまり、格差が「金ぴか時代」に逆戻りしてしまった。
 この制度と規範による説明は、各国ごとの格差の傾向の違いをよく示している。たとえば、ヨーロッパでは組合の力は依然として強く、経営のトップが巨額の年収を得る事を非難し、労働者の権利を擁護しようとしている。だから、技術革新やグローバリゼーションが及ぼす影響は、アメリカとヨーロッパでそれほど大きな差がないのに、格差の広がりでは大きく違っておるのである。
 つまるところ、技術革新やグローバリゼーションよりも、制度と規範がアメリカにおける格差拡大の大きな原因である、という強い状況証拠が存在するのである。制度的な変化のいい例は、アメリカの労働運動の崩壊である。

(4)どこまでも上がるCEOの報酬

表8 CEOと経営者 対 平均労働者の年収比
   1970年代  2000年 倍率
CEOの年収 120万ドル 900万ドル 7.5倍
平均的労働者の年収 3万ドル  2万4千ドル  0.8倍
CEO対平均的労働者 40倍 367倍  9.2倍 
 CEO以外の経営者の年収  90万ドル 420万ドル 4.7倍
経営者対平均的労働者 31倍 169倍 5.5倍

 規範の変化と格差の拡大を結びつける、具体的な例として、エコノミストが思い浮かべるのは、際限なく上がるCEOの報酬である。右の表8に、1970年代と2000年との、CEO、平均的労働者、CEO以外の経営者、それぞれの年収の比較を示す。
 1970年代、102の代表的な大企業のCEOが受け取っていた年収は、今日のドル価値で約120万ドルであった。これは、平均的労働者の約40倍の年収であった。それが、2000年には、平均で約900万ドルとなり、平均的労働者の約367倍跳ね上がった
 ③つまり、平均的労働者の年収が2割も減収となっているのに、CEOの年収は7.5倍にも上昇したのだ。CEOほどではないが、他の経営者の平均年収もやはり5.5倍と大きく伸びている。

表9 欧米主要企業の経営トップの年収
出典: プレジデント 2007年12月3日号
年収 比率
ゴールドマン・サックス・グループ  50億4,000万円 100.0%
フォード・モーター 32億4,060万円 64.3%
IBM 31億 730万円 61.7%
ウォルト・ディズニー 30億3,160万円 60.2%
シティグループ 29億6,270万円 58.8%
GE 20億1,750万円 40.0%
GM 11億7,100万円 23.2%
ファイザー 10億4,990万円 20.8%
ダイムラー 8億3,940万円 16.7%
ドイツポスト 6億9,870万円 13.9%
ルノー 4億3,380万円 8.6%
フォルクスワーゲン 2億3,950万円 4.8%

 ④このように、CEO並びに経営者だけが大きく収入を増やし、平均労働者が収入を減らしているのは、経済的要因というよりは、社会・政治的な要因によるところがところが大きいからである。経営トップのみが収入を増やすことへの怒りにも似た反発(株主、労働者、政治家、あるいは、一般大衆からの激しい反発)が消え去ったからである。その要因としては、以下の3点が考えられる。
  ⅰ)マスメディア: CEOが巨額な報酬を受け取ったとしたら、以前は、報道機関により激しく非難された。ところが、今ではビジネスの天才として褒め称えられるようになった。大企業のトップは、以前はチームプレイヤーとして考えられていたが、今では、一種の著名人となり、ロックスター並みに扱われるようになってしまったのだ。
  ⅱ)政治家: 以前は、巨額を得ている経営者がいたら一般大衆とともに、その経営者を糾弾していた。しかし、経営者が政治献金を行うようになると、彼らを褒め称えるようになった。所得税の最高税率が、1970年代初頭の70%から、現在の35%まで下がっている事を考えれば、経営トップが、政治献金をするのも当然ではあるが。
  ⅲ)労働組合: 経営者の巨額の報酬に抗議していた労働組合は、何年にもわたった「組合潰し」の結果、骨抜きにされてしまった。その結果、いまでは、経営者の巨額な報酬に正面切って抗議を行う組合はなくなってしまった。

表10 日米欧のCEO報酬の比較
 出典: 週刊ダイアモンド 
2008年9月13日号 
 平均年収 比率
アメリカ 12億1,203万円 100.0%
ヨーロッパ 5億9,624万円 49.2%
日本 1億3,500万円 11.1%

 ⑤ところが、ヨーロッパでは、アメリカのような規範や制度の変化を経験していないため、経営者の年収はアメリカと比べると驚くほど少ない左の表9に欧米の主要企業トップの年収を示す。ヨーロッパの大企業ダイムラーのトップの年収は、アメリカの大企業ゴールドマンサックスのトップの2割未満(16.7%)の年収である。フォルクスワーゲンに至っては5%未満(4.8%)である。
 ちなみに日米欧の主要企業のCEOの年収の比較を右の表10に示す。ヨーロッパはアメリカの半分未満(49.2%)、日本はアメリカの1割強(11.1%)である。あるヨーロッパの企業コンサルタントは、次のように指摘している:「ヨーロッパでは(CEO巨額な報酬に対する)社会的な反発がかなり考慮されるが、アメリカには羞恥心というものがないのだ」。

(5)変化の理由

 このような「規範と制度の変化」をもたらした最大の原因は「政治の変化」である。たとえば、労働組合の影響力が大きく低下した結果、格差拡大を阻止する上で重要な勢力が一つ消えてしまった。この労働組合の衰退の原因は、一般に信じられているような「産業の構造変化」などではない。経営者側による組合運動への弾圧の結果であり、そして、その弾圧を助長した政治がもたらした帰結なのである。
 かってはアメリカ経済の主力は製造業であり、労働組合を引っ張ったのはUAWや全米鉄鋼労組などであった。製造業内での組合加入率は、1973年には39%だったが、2005年には13%まで落ちており、もはや昔日の面影はない。また、現在のアメリカ経済の中心はサービス産業に移っている。ところが、そのサービス産業では労働組合の組織化がほとんど進んでいないのだ。
 ③たとえば、ウォルマートのような会社は、海外からの競争に直面していないわけだから、製造業の企業よりも労働運動が活発になってよいはずである。しかし、実態は、製造業では労働運動は衰退し、サービス産業では組合運動は発展しなかった。その理由は単純で残酷である。1960年代、経営者側は労働運動と利害を調整していたが、1970年代になると、労働組合を暴力的に攻撃するようになった。労働運動を支持、組織しようとした者は、しばしば不法に解雇された。政治は、そのような不法解雇を許したのである。

表11 賃金・給与労働者の組合組織化比率
1960年 1999年
アメリカ 30.4% 13.5%
カナダ 32.3% 32.6%

 ④1970年代から始まったアメリカにおける労働運動の崩壊は、他の欧米諸国では見られないものである。右の表11に、アメリカとカナダとの対比を示す。
  ⅰ)1960年代、アメリカとカナダの組合組織化率にはほとんど差はなかった。
  ⅱ)しかし、1990年代の終わりになると、アメリカの労働組合は民間セクターからほぼ消滅しているが、カナダにおいては、労働基本的には変化していない。

 ⑤
このアメリカとカナダの変化の違いは、政治から生まれたものである。アメリカの政治状況は、組合潰しに都合がいい方向に向かったが、カナダはそうではなかった。
 つまり、第格差社会を理解するためには、「保守派ムーブメント」がアメリカ政治において、どのようにして力強い勢力に発展したのかを理解する必要がある、ということだ。この部分は、第8章以下でのべられているが、それは、次回のコラムで紹介することしたい。

8.ちょっと休憩

 今回は、「格差はつくられた」の前半部分を紹介した。アメリカは、世界最大の経済大国であると共に、先進諸国の中ではダントツの格差社会である。(たとえば、87.格差大国アメリカの貧困 を参照)。その原因として、エコノミストは往々にして、技術革新とかグローバライゼーションとか、「当たり障りのない」事象を取り上げようとする。しかし、クルーグマン教授は、格差拡大の本当の原因は、「規範と制度の変化」にあるのであり、その背後には、それを許した「政治の変化」があるのだ、と言う事を様々な事例をあげて「証明」しようとしている。
 教授が指摘した背景の中で、マスメディア、税制、労働組合、といったポイントは日本でも同じような状況にあり、日本の現在の格差社会を生み出した原因でもあると考えられる。
 
マスメディア 思い起こすのは、2005年9月11日の郵政選挙である。ほとんどすべてのマスメディアは、夢遊病者のように、郵政民営化を支持し、反対する者は「守旧派」として断罪した。その結果が、格差社会の発展に手を貸した事は、今となってはほとんどの人は認めざるを得なくなっている。(その反省から、今年9月の自民党総裁選挙には極めてクールに対応した、と思えるのは、失敗から学んだ、と言う事で喜ばしい事ではあるが)。(7.小泉劇場大成功を参照ください)。
 
税制 相続税と所得税が、金持ち優遇の方向で大きく変化していった。詳細は、79.所得格差と格差拡大税制に記載しているが、
  ⅰ)たとえば、所得にかかるの最高税率は、1974年には93%(所得税75%、住民税所得割18%)であったのが、2007年には50%(所得税40%、住民税所得割10%)までに下がっている。
  ⅱ)最高相続税率も、1987年までは75%であったのが、2003年には50%に引き下げられた。
 これらの「税制改革」が格差拡大に寄与したのは疑いのない事実である。
 
労働組合 1975年の日本における組合組織率は、34.4%であった。それが2006年には、18.7%にまで低下した。(詳細は、49.労働組合の衰退を参照ください)。その原因は、暴力的弾圧というよりは、「労働ビッグバン」とも称される「規制緩和」により、経営者が、派遣や請負労働といった多様な雇用形態を抵抗感なく採用できるようになった事が大きい。(例えば、 47.正社員システムの崩壊 を参照ください。


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参考文献: 1.「格差はつくられた」、ポール・クルーグマン著、三上 義一 訳、東早川書房
         2.「プレジデント 2007年12月3日号」、プレジデント社
         3.「週刊ダイアモンド 2008年9月13日号」、ダイアモンド社

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