中津高等小学校?(中津高女 中津商業)

麗澤大学の創立者の広池 千九郎が一時教員をしていた中津高等小学校の校舎です。
この建物はその後中津高女 中津商業の創立時の校舎として使われたようです。

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この写真は提供者の加来さんの説明によると.。

中津商業学校 第二回 卒業記念写真集の初めにあり、
下の説明に【校舎】と記載、学校の住所は記入されていないそうです。
校長(故・前・現)の三人の胸像写真、次が6名の先生、次が5名の先生の胸像写真、
次に同じ大きさで一ページ6名ずつ最後は2名計38名の卒業生の胸像写真で、
最後に【大正10年3月、中津 和田写真館謹写】。

今永さん編集の写真集「中津」に同じ写真があり、中津商業学校は大正5年開校、片端町角の中津高等小学校跡の建物を流用したとある。

元々は中津高等小学校の校舎だったと思われる。
中津商業が出来る前は下毛郡立高等女学校(現中津北高)の創立時の校舎として使われた可能性が高い。

大正10年版の中津町地図にはこの位置は商業学校になっている。
詳細は中津の古い地図と出来事を参照ください。

なお自分が入学した頃の中津南高の図書室の建物はおぼろげながらこんな雰囲気の建物だったような気がします。
まさか移築したわけでは無いでしょうが、明治の建物はこんな形だったのでしょう。

場所は旧藩時代の藩校 進脩館の跡であり、学校の敷地にふさわしい。

中津高等小学校は明治20年4月に進修館の跡地に開設。
この当時麗澤大学創立者の広池 千九郎が教員をしていたそうだ。

なお南部小学校のホームページで「1934年4月, 高等科を中津高等小学校に移し、中津市南部尋常小学校と称す。」
とあるが、これは上記の学校とは別である。
北部小学校豊田小学校のホームページにも同種の記載があるので、市内の小学校では昭和9年に一斉に変更したらしい。
ここで云う中津高等小学校は現在の中津中学の敷地で、校舎などは戦後新制中学に移行したと思われます。



旧中津市役所 上記と同じ場所と思われる。
厳密には手前の公会堂の位置ではと推定される。

昭和37年5月撮影。



現在の同所  中津市立小幡記念図書館。

(以下作成中  メモ )
南部100年史より抜粋中ですが、記載内容に矛盾がありそうで、頭の中を整理しています。

学制発布後の小学教育。
明治5年12月堀川 諸町(後殿町と改称)の二小学校が36番中学(片端中学校)の管理の下付属小学校として設けられる。


明治8年から10年前後には、小学校 4校 上等小学校1校(片端中学付属) 中等学校一校(中津市学校 校長 小幡 篤次郎)。
中津高等小学校が明治24年4月 片端町(進修館あと)に開校。



別資料

明治5年11月片端町中学校開校。
小倉県庁の命を受け宇佐 下毛 上毛を学区域とし創設、森 秦坪校長、 富永 衛二 副校長 皇学は渡邊 重春、漢学は白石 常人。
明治6年3月小倉県庁の命を受け。大江 春水、藤野 玄洋、大江 雲澤で医学校と病院を片端町に創設、 大江 春水が校長。
明治7年11月 片端中学校長 津田 興二 小倉県に建言して改革を行い、片端養成校と改め、小学師範科及び、上等小学を併設す。
明治9年4月中津支庁廃止され、宇佐郡と共に福岡県に編入される。
明治8月8月宇佐郡と共に大分県に編入される。

明治10年11月片端養成校 師範学科を廃止し、上等小学を存す。
これより先、大分県庁 新に師範学校を大分に設立するにこの経費をあつるに文部省支給の補助金をもってする事を決め、
本校の補助金を大分に転用した。
11年7月 文部省委託補助金を再び我が旧中学区に回収す。
9月をもって第九大区会の決議をもって中学校を片端に開き、かつ県庁に建議してして委託金の下付をこいて。

明治10年12月中津支庁廃止。
11年11月大小区廃止、下毛郡役場を金谷笹御殿におく。
明治15年中津中学校 高等中学科を廃止、普通文科を代設す。
明治16年3月中津市学校 閉校す。





大分県立中津商業高等学校のホームページ。

お礼
このページの写真は黒瀬 戦一様 加 来 和 彦様のご協力いただきました。
2005年7月4日
2005年7月20日説明追加。
2005年7月22日

城下町中津

中津の古い地図