宝蓮坊  浄土真宗大谷派 獅々吼山 中津市寺町

中津市史によると

細川三斎公 豊前国主たる時、高300石を浄喜寺に寄付あり、寛永年中 小倉京町の末において、浄喜寺を建立あって良慶に賜る。
この時 今井村浄喜寺は看守を守らしめ、良慶小倉の浄喜寺に在住す。
その後三斎公中津に隠居したまうの時、浄喜寺の住職を嫡男の慶安に譲り、良慶は三斎公に属し、中津に往く、
ここにおいて慶長12年(1607年)一寺を建立しこれを宝蓮坊という。
(行橋 今井浄喜寺の由来記による)



境内左側 には安随寺があります、浄土真宗大谷派。
弘冶元年(1555年)建立。







宝蓮坊本堂内

説明板の内容は

慶長5年(1600年) 細川忠興が中津城に入封の際、行橋 浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。
これが後 宝蓮坊と改称されたものである。
宝蓮坊は代々名僧が続き、第3代村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、
天皇より非常なお褒めの言葉を戴き、大阪四天王寺の奥の院に祭られていた太子の尊像を拝領した。
この尊像は室町時代初期の傑作と言われている。
良道は帰国後堂をたて、多くの信者に講義を続けたが、長年の風雨により堂は消滅し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。

管理人の注
@ここで書かれている御典医の村上家は現在も続いていて、江戸時代の住まいは村上医家資料館になっている。
自分が幼児から小学生まで随分お世話になりました、その後 新しく病院を建設し移転したので、建物は昔のままに保存されています。
A太子堂 昭和20年頃まで存在したと思います、子供の頃 壊れかけたお堂が参道の右側にありました。
これが該当するのかは不明です。


宝蓮坊裏の外堀跡(写真右側の家屋の部分も外堀跡です、昭和20年代に家が建てられました)。
中津の寺町は城下町の守りとして計画されていました。
したがってこの墓域は江戸時代お囲い山の1部があった可能性が高く、川は外堀の跡です。
江戸時代の地図を見ると この橋も道路もありません。
この川は金谷の東側  大江八幡の裏を流れてきます。

黒瀬さんに説明板と鐘の写真を撮っていただきました。

こちらに移転しました。

2005年7月26日
2005年9月2日
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2006年2月13日

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