Update 2017.02.07

利根川東遷の詳細
精密な地図で開削・締切・付替・廃川を示す
Googleマップで現場を見てみよう

関東の大河:利根川,渡良瀬川は,江戸時代以前は江戸湾に注いでいた。荒川は利根川に合流していた。鬼怒川と常陸川は銚子に注いでいた。利根川東遷事業で利根川の本流を銚子へ向けた。どこで工事が行われたのかGoogleマップ上に示す。

Googleマップに緯度経度を入力して検索する方法は次のサイトを参照。
『GoogleマップやGoogle EarthやYahoo!地図で緯度経度を入力して検索しよう』

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余談ですが:
高さがムサシ634メートルの東京スカイツリーがある墨田区押上は今の隅田川の東岸にあるが最初から武蔵国豊島郡であり下総国葛飾郡ではない。 武蔵国と下総国の国境は江戸時代以前の利根川・隅田川であり東京スカイツリーはその国境より武蔵国側にあったとWikipedia「隅田川」「豊島郡」「葛飾郡」「葛西」に書かれている。
武蔵国豊島郡;むさしのくに・としまごおり
下総国葛飾郡;しもうさのくに・かつしかのこおり

東京スカイツリーは最初から武蔵国に属していたことの解説は次を参照。
『東京スカイツリーの建つ所は江戸時代以前に武蔵国豊島郡であり隅田川の西遷・国境の変更後は武蔵国葛飾郡である』
『東京スカイツリーの建つ所は江戸時代以前に武蔵国豊島郡であり 隅田川の西遷・国境の変更後は武蔵国葛飾郡である』
このWebページの巻末でも詳細な解説があります。
武蔵国と下総国の国境東京スカイツリーはどちらにあったのか

【利根川東遷 精密全体地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


【利根川東遷 精密全体合成地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


【利根川東遷の歴史地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。

【中世の利根川】   【利根川東遷の直前】 【赤堀川通水前の利根川】【利根川東遷の完成】

【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


【利根川東遷 江戸付近詳細地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


【利根川東遷 江戸付近詳細合成地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


ここからは川名は今の名前と残っている名前を使います。
ここからの解説は「利根川東遷 精密全体地図」「利根川東遷の歴史地図」を主に参照してください。ダウンロードすれば川名が読み取りやすくなります。

◆◆江戸時代間近の利根川・渡良瀬川◆◆
江戸時代間近の利根川(とねがわ)は,中流域で浅間川(あさまがわ,あざまがわ)と会の川(あいのかわ)に分かれまた合流し古利根川(ふるとねがわ)となり,春日部,越谷をとおり,最下流部は今の中川(なかがわ),旧中川(きゅうなかがわ),古隅田川(ふるすみだがわ),隅田川(すみだがわ)となる。もちろん,当時は利根川といわれた。

江戸時代間近の渡良瀬川(わたらせがわ)は,古河をとおり,権現堂川(ごんげんどうがわ),庄内古川(しょうないふるかわ)そして金杉から今の江戸川(えどがわ)となる。権現堂川から下流側を太日川(ふとゐがわ,ふとひがわ)といわれていて,更級日記には太日川の名前が残っている。

今では,庄内古川は今の江戸川から切り離されており,庄内古川は今の中川となっている。

江戸時代間近の荒川(あらかわ)は今は元荒川(もとあらかわ)と呼ばれ越谷付近で利根川と合流していた。 春日部付近に今の古利根川と今の元荒川をつないでいる古隅田川があるが,これは江戸時代よりずっと前に利根川の本流から外れている。

鬼怒川(きぬがわ);毛野川(けぬがわ)と常陸川(ひたちがわ)は霞ケ浦(かすみがうら)南端をとおり,銚子に注いでいた。

◆◆1594:会の川の締め切り◆◆
利根川の中流域で二股に分かれまた合流するところがある。北側が浅間川,南側が会の川である。1594年に会の川が締め切られた。これが利根川東遷の始まりとされている。

会の川の川俣締切跡(羽生市上新郷と上川俣の境界)はここ
36.191092,139.51567
上の緯度経度をドラッグしてGoogleマップの検索窓にコピペするとそこが表示される。

川俣締切跡の記念碑は今は道の駅はにゅうに仮移転しているそうです。川俣締切跡のすぐ南に会の川が残っています。幅が数メートルの2筋の川が数十メートルの間隔で平行に加須市に向かい,古利根川の上流つまり葛西用水に合流している。

◆◆1615:綾瀬川の締め切り◆◆
1615年に備前堤が築造され綾瀬川(あやせがわ)が荒川;今の元荒川(もとあらかわ)から切り離された。
綾瀬川の起点の碑(桶川市小針領家1457)があるところはここ
36.025399,139.588228
綾瀬川の下流は古隅田川と合流?横断?している。

◆◆1621:浅間川の締め切り◆◆
1621年に利根川と渡良瀬川を新川通(しんかわどおり)でつなぎ(古河付近),渡良瀬川上流は利根川の支流となり渡良瀬川下流(権現堂川・庄内古川を含む太日川のこと)はそのまま利根川の本流となった。浅間川を締め切り(久喜市高柳)それまでの利根川は古利根川(ふるとねがわ)と呼ばれるようになった(のちにその上流側は葛西用水となる)。古利根川,元荒川の合流以降は中川と呼ばれるようになった。
新川通の起点/浅間川締切跡(加須市佐波)はここ。
36.17592,139.639342

【利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図】【浅間川・会の川の合成地図】を見てもらえば判るが,浅間川の締め切りによってできた古利根川は今の地図には掲載されていない。旧い会の川と旧い浅間川の合流地点(加須市川口)から下流が旧い古利根川である。この合流地点付近は今は北側用水路となっている。そしてその下流側は今は葛西用水路となっている。そしてさらに下流側が今は大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)となっている。

◆◆1629:荒川の瀬替え;荒川の西遷◆◆
1629年に武蔵国久下(熊谷市久下)で荒川と旧吉野川(よしのがわ)をつなぎ川越付近で入間川(いるまがわ)と合流,旧い利根川(古隅田川)と合流して隅田川となり,ほぼ現在の姿になった。元荒川は同じところで締め切られた。
元荒川の起点/締切跡(熊谷市久下)はここ
36.132502,139.398394

◆◆1647:江戸川の完成◆◆
1647年に権現堂川(ごんげんどうがわ)の下総国関宿(千葉県野田市)から金杉(埼玉県北葛飾郡松伏町)に至る水路の開削が完成し当時だけ新利根川と呼ばれた。これが,庄内古川(旧い太日川)のバイパスとなり赤堀川との接続を除いて今の江戸川が完成した(旧い太日川の金杉から下流側はそのまま江戸川となる)。ただし,この時点では江戸川は利根川でありすぐ西隣に旧い利根川;古利根川,中川が流れていることになる。

◆◆1654:赤堀川の開通,1665:権現堂川の締め切り◆◆
1654年に利根川と常陸川をつなぐ赤堀川(あかほりがわ)が完成し,これで利根川の水がはじめて香取海(かとりのうみ)(銚子付近)に注ぐ。

1665年に逆川(さかさがわ)により江戸川を赤堀川につなぎ(境町・関宿間),権現堂川(ごんげんどうがわ)を締め切った。これで霞ケ浦・関宿・江戸の水路が完成したことになる。「利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図」はこのころを示している。
権現堂川の締切跡/赤堀川の起点はここ。
36.135449,139.710388

逆川はさらに赤堀川の上流側に付替えられて,今の江戸川となった。
今の利根川と今の江戸川の分岐点(野田市関宿の少し上流)はここ
36.109311,139.776242

◆◆1666:新利根川の開削・締め切り,1676:将監川の開削・締め切り◆◆
1666年に新利根川(しんとねがわ)が開削され霞ケ浦に直結された。が,翌年洪水で廃止された,または,3年後に元の流路に戻されたという2つの説があるようである。いずれにしても排水路や用水路として使われているようである。

1676年に将監川(しょうげんがわ)が開削された。これも近年になってやはり洪水対策で締め切られている。

◆◆新川通・赤堀川開削図◆◆
幸手市のHPに利根川改修履歴図という旧い地図が掲載されていた。この地図には,新川通,赤堀川の流路が詳細に記されていたのでマップに書き直して紹介する。

「利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図」に今の中川は書いてありませんが,島川跡,東西の権現堂川跡,庄内古川跡に流路を狭くして存在しています。つまり,この開削よりずっと後に庄内古川は江戸川から切り離され古利根川に合流し(大正・昭和の庄内古川改修事業),ずっと上流まで中川と呼ばれるようになったのです(この中川は「利根川東遷 精密全体地図」には書いてありません)。

ということで,今の中川の上流は江戸時代間近の渡良瀬川(正確には太日川/庄内古川)であり,下流は江戸時代間近の利根川ということになります。今の中川の島川跡より上流は浅間川と会の川の間にあります(ここも島川と呼ばれることがある,「浅間川・会の川の合成地図」を参照)。

中川の起点の碑(羽生市東7丁目)があるところはここ(Wikipediaの写真は旧い?)
36.168918,139.547441

Googleマップを拡大してみると廃川になっても,水路が残っていたり,点々と溜池?が残っていたり,市町村の境界になっていたりして,その痕跡はよく残っている。

◆◆江戸付近詳細図◆◆
「利根川東遷 江戸付近詳細地図」で江戸川の流路の中で国府台付近は微高地の分水嶺になっています。自然川が分水嶺を乗り越えることは普通ないので,このあたりの江戸川は開削された人工水路であるという研究が他のいくつかのサイトにあるので確認してください。図中の太日川の流路は葛飾区・江戸川区の洪水ハザードマップからの推定です。概ね中川・新中川の東岸が低地になっています。一方,江戸川は旧い太日川そのままであるという説もあります。

「利根川東遷 新川通・赤堀川開削地図」の逆川にも微高地の分水嶺がありました。それで適度の勾配を得るために江戸川を赤堀川の1キロメートルほど上流側に付替えたのです。「利根川東遷 精密全体地図」を見ても判るように赤堀川付近は大分水嶺だったのです(ただし標高は10メートルちょっと:関東平野がそれほど平らであること)。正確には,大山沼(おおやまぬま)は権現堂川に(つまり江戸湾に),釈迦沼(しゃかぬま)は常陸川に(つまり銚子に)つながっていました。この間が大分水嶺です。

余談ですが:
日本一長い川である千曲川・信濃川(ちくまがわ・しなのがわ)の源流は秩父山地の甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)のそばにあり荒川の源流もほぼ同じところにあります。日本海と太平洋に注ぐ2本の大河の源流を分水しているのが秩父山地であり日本の大分水嶺です。

◆◆1930:荒川放水路の完成◆◆
1930年(昭和5年)に荒川放水路が完成した。1965年に荒川の本流となる。つまり放水路の言葉が取れて,それまで荒川の本流であった隅田川が支流となった。この荒川が総武線鉄橋の近くで中川を突っ切り中川と旧中川に分断しているのをご存じだろうか。川が川を横断することは利根川東遷の工事ではよくあったのではないだろうか。
今の荒川と今の隅田川の分岐点(岩淵水門)はここ
35.787723,139.732189

荒川が中川を横断しているのはここ
35.719026,139.842138

◆◆浅間川・会の川の合成地図◆◆
【浅間川・会の川の合成地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


とりあえず,今の中川との合流点まで浅間川,会の川としている(水路の今の名前は地図からは読み取れない)。

会の川締切はここ
36.191092,139.515742

会の川締切の記念碑は道の駅はにゅうに仮移転している
36.189013,139.510992

浅間川締切はここ(新川通の起点でもある)
36.17592,139.639342

新郷駅の東にある会の川(二筋の川が平行して流れているがこれが元の川幅なのか?)
36.172424,139.512806

会の川親水公園はここ(このあたりは会の川跡がわかりにくい)
36.127093,139.598293

浅間川・中川の合流(残っている水路の合流点である)
36.11725,139.664957

◆◆古隅田川(埼玉県)の合成地図◆◆
【古隅田川(埼玉県)の合成地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


江戸時代よりずっと前の中世の利根川・隅田川の流路は「利根川東遷の歴史地図」の1つめと「下総国葛飾郡の葛西の地図」に示されていて一部に古隅田川の名前が残っている。春日部の古隅田川は中世では西進していた。江戸時代間近に利根川の本流から外れた後,いつか不明だが,元荒川との接続点が下流から上流に付替えられ,東進するようになった。つまり,下流の合流点から上流の分岐点(分流点)に付替えられたのである。

付替えで西進から東進に替えられた理由は,古利根川と元荒川との高低差がほとんどなかったため適度な勾配を確保するためと考えられる。グーグルアースで確認したところ,古利根川との接続点と元荒川との合流点の標高が同じ6メートル,元荒川との分流点が標高7メートルであった。

上の図の古隅田川の流路は,明治時代の地図の古隅田川の堤防や流路の周囲の村名や道名と今の地図に残っている痕跡を参照して決定した。

古利根川・古隅田川分岐点はここ(標高6メートル)
35.984656,139.751651

元荒川・古隅田川合流点はここ(標高6メートル)
35.934357,139.732758

元荒川・古隅田川分流点はここ(標高7メートル)
35.974264,139.694713

◆◆古隅田川(東京都)の合成地図◆◆
【古隅田川(東京都)の合成地図】この図はダウンロードすれば大きくなります。


古隅田川と中川の分流場所はここ(土手に痕跡が残っている?)
35.764518,139.855775

古隅田川と今の隅田川の合流場所はここ(隅田川神社は合流場所の中洲にあったそうです)
35.732797,139.812688

【隅田川分流 推定図】一説によると旧い隅田川分流東側流路は須崎村(向島5丁目)と寺島村(東向島1丁目)との境の須崎村側を流れ今の北十間川を越えてからは今の横十間川とほぼ同じ流れであった。この東側流路と宮戸川に囲まれているのがちょうど本所・深川地区である。東側流路の締切は牛島堤の最北部分(向島高速道路入口あたりか?)である。


【下総国葛飾郡の葛西の地図】
マゼンタ色の筋は中世の利根川(とねがわ)・隅田川(すみだがわ)である。古河付近では合の川,渡良瀬川,古利根川であり,春日部付近では古利根川,古隅田川,元荒川であり,江戸付近では中川,古隅田川,(旧い)隅田川である。

赤色の筋は旧い渡良瀬川(わたらせがわ)・庄内古川(しょうないふるかわ)・太日川(ふとゐがわ,ふとひがわ)である。金杉より上流は今の中川,金杉より下流は今の江戸川である。

中世の利根川・隅田川が武蔵国と下総国の国境であり,その東岸側は旧くは下総国葛飾郡と呼ばれていた。北は古河市から南は旧い隅田川以東,船橋市までである。

葛飾郡はさらに2つに分けられて,旧い利根川・隅田川以東,旧い渡良瀬川,庄内古川,太日川以西を葛西(かさい)(黄色の部分)といい,葛西の東側を葛東(かつとう)という。

江戸時代に武蔵国と下総国の国境は旧い利根川・隅田川(マゼンタ色の筋)から当時の利根川(旧い渡良瀬川,太日川;今の中川・江戸川)(赤色の筋)に変更になり葛飾郡の葛西全部が武蔵国になった。さらに葛東のうち今の江戸川の金杉から上流の西岸側(庄内古川;今の中川との間)は葛西と同じく埼玉県になった。



◆◆武蔵国と下総国の国境東京スカイツリーはどちらにあったのか◆◆
高さがムサシ634メートルの東京スカイツリーがある墨田区押上は今の隅田川の東岸にあるが最初から武蔵国豊島郡であり下総国葛飾郡ではない。 武蔵国と下総国の国境は江戸時代以前の利根川・隅田川であり東京スカイツリーはその国境より武蔵国側にあったとWikipedia「隅田川」「豊島郡」「葛飾郡」「葛西」に書かれている。
武蔵国豊島郡;むさしのくに・としまごおり
下総国葛飾郡;しもうさのくに・かつしかのこおり

◆◆Wikipedia「豊島郡」「葛飾郡」「葛西」によれば◆◆
Wikipedia「豊島郡」「葛飾郡」「葛西」によれば,東京スカイツリーがある押上(おしあげ)を含む本所・深川(ほんじょ・ふかがわ)地区は最初から武蔵国豊島郡に属していた。 下総国葛飾郡の葛西(かさい)全部が武蔵国に編入され武蔵国葛飾郡になったとき牛島堤はできあがっていて本所・深川も武蔵国葛飾郡の葛西と称するようになったようである。両国橋が架けられたのもこの時代であり今の隅田川の東岸全部が元の下総国葛飾郡であったと誤解されたようである。
「葛飾郡」「葛西」の詳細は「下総国葛飾郡の葛西の地図」の解説を参照。
手元の江戸時代中ごろの武蔵国の地図では本所・深川は「城下」に属し郡から外れている。「城下」の東端は亀戸天神である。

◆◆Wikipedia「隅田川」によれば◆◆
Wikipedia「隅田川」によれば,江戸時代以前の隅田川は向島(むこうじま;本所地区)あたりから分流していて,今の隅田川を宮戸川(みやとがわ),東側流路(今の横十間川(よこじっけんがわ)付近;押上と亀戸(かめいど)の間)を隅田川と称していてこの東側流路の隅田川を武蔵国と下総国の国境とするようである。この東側流路は江戸時代に牛島堤で締め切られ,宮戸川が隅田川本流となる。これを隅田川の西遷という(「利根川東遷 江戸付近詳細地図」を参照)。そしてその東岸はきれいに埋め立てられてしまうのである。

◆◆豊島の由来は旧い隅田川の河口にあった◆◆
江戸時代よりずっと前の隅田川の河口は,西は浅草,東は中川あたりまで広がっていて,河口の多くの中州が十島(としま)と呼ばれていてそれが豊島(としま)の由来となったそうである。その痕跡は今も残っていて,寺島,牛島,柳島,亀島(亀戸)などがありこれが江戸時代に本所・深川地区となる。つまり,江戸時代よりずっと前の隅田川の広い河口の多くの中洲が豊島郡に属していた。最初は海の中の島であるが,陸地化するにつれて川筋がはっきり3本くらいに分かれ西筋を宮戸川,東筋を隅田川と称した(らしい)。

◆◆「武蔵風土記」には旧い隅田川の河口の地名がある◆◆
「武蔵風土記」には古き地として須崎(洲崎),請地,牛島(これらは今の向島;押上の北隣)など上記の十島と川べりの地名が掲載されていて,武蔵国と下総国の国境はこれらの東側にあったことは間違いない。 隅田川の西遷(牛島堤の締切)と葛飾郡の武蔵国への編入が元の豊島郡境を曖昧にしてしまい誤解されるようになったと考えられる。

◆◆誤解の大元はWikipedia「両国橋」?◆◆
いやそうではなくて両国橋ができたときから誤解されていたのである。「古隅田川(東京都)の合成地図」を見ればわかるように江戸時代より前の古隅田川の西岸側が武蔵国足立郡であり東岸側が下総国葛飾郡である。何度も言うが本所・深川地区よりもさらに上流まで海であり,古隅田川と今の隅田川(元の入間川・宮戸川)が合流していない時代の河口の中州が武蔵国豊島郡である。

それの陸地化につれて寺島(東向島1丁目)は東側に川筋がないのでたぶん自動的に葛飾郡と誤解されたかもしれないのである。 さらに陸地化されて須崎(向島5丁目)以南つまり本所・深川地区は東側に川筋が残ってこれが宮戸川の東にあるので自動的に隅田川と呼ばれるようになったと推定される。武蔵風土記には本所の須崎,柳島などと本所に含めてもよいと思われる寺島,亀戸(亀島)の名前もあり武蔵国であったことはまちがいないのである。

いつの時代でも隅田川の東は下総国葛飾郡という認識があるので,牛島堤の締切,隅田川の西遷の後は本所・深川も武蔵国ではないと誤解されやすくなるのは止むを得ない。そもそも両国橋はできた当時は俗称であり誤解した人がそう呼んでいただけのことである。

余談ですが:
皆さんのパソコンで葛飾の「葛」という字はどのように見えますか?掲げるという字のつくりにくさかんむりを付けたものではないですか?これは旧いJISフォントが間違えていたために起こるミスです。JISフォントを更新すれば正しくなります。

◆◆東京都内の古隅田川◆◆(「古隅田川(東京都)の合成地図」を参照)
東京都内では古隅田川の東岸側が葛飾区(下総国葛飾郡)であり西岸側が足立区(武蔵国足立郡)である。古隅田川の流路は概ね区の境界であるが,綾瀬駅の北側と今の荒川を横断するところは区の境界と一致しない。そして旧い入間川(今の隅田川)と合流してすぐ宮戸川と隅田川(東側流路)に分流する(「利根川東遷 江戸付近詳細地図」を参照)。この東側流路の旧い隅田川が下総国葛飾郡と武蔵国豊島郡の境であった。

◆◆諸説ある旧い隅田川の流路◆◆
旧い隅田川の流路の詳細は諸説ありますが,東京スカイツリーの東側にあったことでは諸説は一致しています。諸説あるのは更級日記や伊勢物語の時代には向島よりさらに上流まで海であったことに原因があります。陸地化の過程で諸説ができます。このHPでは冒頭に書いたWikipedia「隅田川」「豊島郡」「葛飾郡」「葛西」と「武蔵風土記」の説を採用しています。

旧い隅田川が東京スカイツリーの東側にあるとするWebサイトがいくつかあるので確認してほしい。 次のHPもその一つです(D/Lお薦めです)。
越谷市立図書館主催「越谷市内とその周辺の河川の歴史」
上のHPのリンクが切れていたなら次のPDFを直接ダウンロードしてください。
越谷市立図書館主催「越谷市内とその周辺の河川の歴史」

◆◆「下総之国図」(船橋市立船橋西図書館蔵)について◆◆
この図は今の隅田川の東岸側が下総国葛飾郡に属していたと主張する人たちがその証拠とするものである。次のHPからD/Lしてみてほしい。
500年前の江戸川の流れ
上のHPのリンクが切れていたなら次のPDFを直接ダウンロードしてください。
「下総之国図」(船橋市立船橋西図書館蔵)

上の記事で何度か触れているが,宮戸川が隅田川の本流になったあとはその東岸全部が葛飾郡に属すと誤解されても止むを得ないのである。であるので反論のしようがないのである。

この図の特徴を述べると,
・古利根川と庄内古川が合流していて古隅田川と中川と江戸川に分流している。会の川はない。
・牛島堤は締め切られていて宮戸川が隅田川の本流となっている。
・江戸川(庄内古川のバイパス)も赤堀川もないが逆川が権現堂川と常陸川をつないでいる。

逆川を考慮しないと,会の川の締切の1594年から牛島堤の締切の1600年の間に書かれたことになる。どんなに遅くても浅間川の締切の1621年より前である。

逆川を考慮すると,逆川と常陸川が接続された1654年以降の可能性も否定できず,両国橋が架けられた1659年または1661年よりも後かもしれないのである。

いずれにしても,宮戸川以東を下総国として,この図からは地名が読み取れないが,宮戸川の東岸に牛島など本所・深川の地名が書かれていても反論のしようがないのである。

以上

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