や ち ま た

地名・八街のルーツ


開墾事業

 千葉県の下総台地には江戸末期まで馬の放牧地が広がっていました。
 明治に入り、旧武士階級の職が無くなり、新政府は対策を迫られました。
 そこで旧幕府が管理していた広大な牧を開放して、東京に住んでいた窮民や旧武士達に開墾させ、畑に変えて作物を生産させる事業を計画しました。
 この開墾事業により、明治2年から約8千人が13の入植地に移り住んだと伝えられます。

 入植にあたって、開墾局は13の入植地に字名(あざめい)を付けます。
 このとき、洒落た夢のあるアイデアが生まれたようです。
 それは入植順に数字を含んだ希望が湧く地名を付けることです。

番号 字名 かなよみ 現在市 旧・牧名 旧・牧総称
1 初富 はつとみ 鎌ケ谷市 中野 小金牧
2 二和 ふたわ 船橋市 下野 小金牧
3 三咲 みさき 船橋市 下野 小金牧
4 豊四季 とよしき 柏市 上野 小金牧
5 五香 ごこう 松戸市 上野 小金牧
6 六実 むつみ 松戸市 上野 小金牧
7 七栄 ななえ 富里市 内野 佐倉牧
8 八街 やちまた 八街市 柳沢 佐倉牧
9 九美上 くみあげ 佐原市 油田 佐倉牧
10 十倉 とくら 富里市 高野 佐倉牧
11 十余一 とよいち (*1) 白井市 印西 小金牧
12 十余二 とよふた 柏市 高田台 小金牧
13 十余三 とよみ (*2) 成田市 矢作 佐倉牧
 (*1 または とよひと (現在は とよいち)) (*2 または とよみつ (現在は とよみ))
 明治2年5月25日、1〜10までの入植地の字名が命名される。
 明治4年6月28日、十余一、十余二、十余三の字名が確定。
 明治5年11月2日、字名を村名とする許可を得る。(九美上を除く)
 明治9年10月23日、九美上の字名を村名とする許可を得る。
 地名表と年表は 八街市史研究 創刊号、八街町史、八街市勢要覧を参照しました。

 地名の先頭に付く数字は入植の順序を表します。
 ところで、地名として味わう時、数字を「量」と見てもよいのではないでしょうか。
 たとえば「5つの香り」「6種類の実り」「10の倉」など、ボリュームがあって繁栄を表し、命名者の意図に叶うように感じます。

 荒地を切り開く作業は想像を絶したと言われます。多くの入植者は途中で挫折して開墾地から離れて行きました。
 しかし努力した人達は土地を手に入れ、農業も軌道に乗りはじめました。


八 街

 八街には明治3年4月に第1団として東京から約200人が到着しました。
 そして8月までに1740人(479世帯)が入植したと記録されています。

 「八街」は8番目の入植地として命名された字名(あざめい)ですが、どのような意図を持って命名されたのでしょうか。

 八街 を や・ちまた (Ya-Chimata) と分解して、8番目の街を意味すると解釈されています。
 やちま なら分かりますが やちま としたのは何故でしょうか。

 国語辞典(*1)で「ちまた」を引くと、「...分かれ道、まちなか、町の中の通
り道、世間、場所」となります。
 では八街の「」を引くと、「まち/ちまた、大通り」となります。
 (*1...清水新国語辞典)
 いずれも まち を表します。

 ところで、日本各地の地名のいわれを求める時、その多くは、まず言葉(発音)があり、後世に漢字を割り振ったと考えられています。
 「八街」は明治期という比較的新しい地名ですが、言葉(発音)からも考えてみましょう。
 インターネットで「やちまた」を検索すると、当地のページだけでなく、様々な情報が飛び込んできます。


 当地に関係したページを除けば、日本の古語としての やちまた=幾重にも枝分かれした辻 (道の分岐点) に関係したページが主にヒットします。
 または古事記や日本書紀で語られる日本の神話に登場する あめのやちまた もヒットします。
 そして、やちまたひこのみことやちまたひめのみこと もヒットします。
 古事記や日本書紀は奈良時代であり、明治期に命名された地名の「やちまた」は、この影響を受けているのでしょうか。

古語・やちまた
[デイリーコンサイス国語辞典] 八衢 8つに(いくつにも)道が分かれる地点。 (雅語的 *2)
[大辞泉] 八衢 道が八つに分かれている所。また、道がいくつにも分かれている所。分かれ道が多くて迷いやすいことにたとえる。
[大辞林] 八衢 道が八つにも分かれる所。また、数多くの方向に分岐する所。
あめのやちまた=天の八衢 天上界にある八路の辻。(または天と地の間の分岐点)
やちまたひこのみこと=八衢彦命
やちまたひめのみこと=八衢姫命
二神で一対。道祖神。 道路、交通を司る やちまたじんじゃ=八衢神社 に祀る。 (八街神社とは違う)
 (*2 雅語(がご) 上品な正しいことば。おもに和歌などに用いる古いことば)


神 話


あめのやちまた
↑クリック
 神話の中の「やちまた」とは何でしょうか。
 日本の神話は歴史の中で特別の扱いを受けて来た経緯があり、これを宗教の1つと考える場合もあるようですので、別ページとしました。
 インターネットでサーフィンすると、だいたい このようなストーリーですね。



八街町史

 では、古語「やちまた」と地名「やちまた」が関係する"証言"はあるのでしょうか。インターネットで調べてもこれ以上分かりませんでした。
 それじゃ図書館に行くしかない・・・と、・・・・・・・・・・ おぉ! ありました!!

 郷土唯一の総合的な史本「八街町史」の中で、「第九章 交通・通信」→「第一節 道路」→「一 「八街」という村名」に次のように書かれています。

 『八街という村名が誕生したのは明治五年十一月二日であるが、これは八街地区が小金佐倉両牧の中で八番目に開墾された事によって名付けられたものであることは別稿で述べたとおりである。しかし、この村名の起こりについては単に八番目に開墾されたというだけではなく、八街は交通の要衝である、八街を交通の要衝にするという意味も含められていたといわれている。八街が交通の要衝であるという意味は、八街が当時次のように八つの地区に通ずることを目標に道路づくりをしていたことを示すものでもあった。』 (引用)

八街町道路元標
八街十字路の北西角にある道路元標。すり減っているが「八街町道路元標」と読める。

 そして 8本の道路説が掲載されています。現在の八街十字路を中心として、周辺の主要市街地に通じる 東京道、八日市場道、成田道、佐倉道、千葉道、芝山道、東金道、成東道です。
 この八街道路説は、浜田寛十郎という明治3年に入植した人の遺稿に『八道有るを以て八街と称す』と書かれており、後世の人達が説に納得して、それを裏付ける解説をされているようです。

浜田寛十郎 16才の時、明治3年8月1日、父親と最後の集団入植者の一人として八街へ入植。開墾会社の測量助手として村内で働いた。その遺稿に、字実住四ツ角 (あざ みすみ よつかど) (現在の八街十字路) を起点として「八道有るを以て八街と称す」と書かれている。

 興味深いのは、八街町史には県道も書かれていて、八街を交差する県道は短いものを含めてやはり8本になっています。

 なお、当時の道路設計では、現在の八街十字路から西へ4区、5区に延びるあたりを将来の市街地と定めて、幅10間(約18メートル)の大通りにする予定だったと書かれています。

 そして今も残っている実住小学校のケヤキと、道路を挟んで正面の忠魂碑の近くのケヤキが当時植えられたもので、計画した大通りの両側の目印としたそうです。
明治期の道路計画
県道22号線を八街十字路方向に見る。
向かって左が実住小学校 校庭のケヤキ、右が忠魂碑 敷地内のケヤキ。
明治期に この幅の道路を計画していた。


 現在の道路事情から考えると、とても壮大な計画だった訳で、当時の開墾会社と住民の先見性が光りますね。

忠魂碑 西南の役から第二次世界大戦までに亡くなった郷土の英霊を祀った碑。

実住 「八街町史」に実住の由来が書いてあるが、幾つかの説がある。
 現在の八街十字路は開墾当時はまだ三差路で、三角(みすみ・ワープロで一発変換しますよね)と呼んでいたのが、いつの時代にか「実住」に変わった。
 別の説として、現在の実住小学校がある周囲の土地に「みすみ」という字(あざ)が多く、地域全体を「実住」と呼ぶようになった。



八街市史研究

 「八街町史」の続編ともいえる「八街市史研究」にも八街の命名の由来が書かれています。 
 「八街市史研究 創刊号」の中で、八街市内「字名」研究 (竹内 繁 著) には次のような解説があります。

 『「八街」の「八」については前述の通りであるが(8番目の入植地) 「街」(衢)については「ちまた。四方に通じる道、道股、道のわかれるところ」の意がある。「交通の要衝、四通八達の地」に、という願いもこめられていたと考えられる。』 (引用)

 『八街の名を付けた人物は開墾局の役人と考えられる。開墾場に充てられた各牧とも好字・佳名がつけられていることから、相当の教養を身につけていた人々だったと思われる。』(引用) として、次のような「やちまた」が登場する書物と内容を上げておられます。
  • 万葉集 巻第二 百二十五
  • 万葉集 巻第六 千二十七
  • 良寛の和歌
  • 古事記
  • 日本書紀
  • 本居春庭 「ことばのやちまた」
八街十字路の位置
赤マーク 八街十字路を中心に四方八方に道路が延びている。

 現在の住民達は、古語「やちまた」との関連をなぜ"消去"してしまったのでしょう。日本の神話との関係を配慮してでしょうか。
 しかし、古語「やちまた=八衢」は独立した言葉であり、神話とは切り離して考えるべきです。
 命名者と先人の意図を後世に正しく伝えていきたいものですね。

 「八街」は、明治初期からの街づくり、道づくりを期待して命名されたようです。
 こう見てきますと、八街のいわれを県外の人に説明するとき、次のようにまとめてはいかがでしょうか。
八街のいわれ ←クリック



参考資料

八街町史 昭和49年7月31日 八街町史編纂委員会 編集 八街町(現市) 発行

八街市史研究 創刊号 平成6年11月2日 八街市史研究会 編集 八街市 発行

八街市勢要覧「やちまた魅力探検・Human Field マイタウン八街」 平成12年3月 八街市 発行

 このページを制作するにあたり、上掲の書籍/冊子とウェブ上の様々なページを参考にさせていただきました。ここに厚くお礼申し上げます。

 制作: 2002年7月  保地
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