
|
ほんとうの開墾 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
===このページは制作途中です。当面、制作時間がとれず、暫定アップロードさせて頂きます。=== 明治初期、八街に入植した人達により開墾が進み、地域の基盤が作られたと郷土史本に書かれています。 ところが八街の原点であるはずの開墾事業について、地元と周辺の郷土史本とでは表現が異なります。八街の本では史実を歪曲した箇所があります。 ほんとうの開墾事業はどのようなものだったのでしょうか。類似の地域と比べてみましょう。 比較のため、次の本を使います。
二和三咲 明治政府の開墾局が千葉の原野に入植者を送り込むとき、1〜13までの土地に字名(あざめい)を付け、ほぼ開墾の順番に数字を含んだ事はよく知られています。 現在の船橋市の一角を占めた「二和、三咲」、そして現在の八街市の約3分の2を占めた「八街」を比べてみましょう。 三咲と八街の開墾会社は同じN氏が指揮しました。 「二和三咲の歴史」という本があります。全125ページA5版で写真と図絵を豊富に取り入れ、二和三咲地域の歴史を先土器時代から現代まで解説しています。 特に明治の開墾事業の解説に力点が置かれており、八街市内の郷土史本では書き表せない事柄が含まれています。 著者は天下井恵 氏。発行は1983年、船橋市の市立中学校です。 多くの資料を参考にされ、地元の聞き取り調査を行なわれ、分かり易い文面で中学生から大人までを読者対象としています。 はしがき 書籍「二和三咲の歴史」の「はしがき」に開墾の様子がダイジェストで書かれています。これが本当の開墾の基線とも言えるでしょう。
八街は明治3年(1870)入植。 八街は開墾地の約半分を在住の大地主が占め、残りの約半分を不在の大地主が占めた。
東京の現状 開墾計画
開墾会社
開墾の様子 自然環境は 自然環境の他に、開墾会社と移住者の間に大きなあつれきがありました。
当時は開墾会社が警察の役割も担っており、規約上は重役だけが刀を腰にさすのを認められていましたが、この文では規約に反して番頭手代もさしていたと書かれています。 会社の解散 ここがポイントです。
草銭場...少額を支払って草を刈らせてもらう場所。 3町歩...3ちょうぶ(ぼ)。約 2.98ヘクタール。 5反5畝...5たん5せ。約 0.55ヘクタール。 八街の本では、開墾会社の元社員が土地を分け合った説明が非常に少ないです。また具体的資料を殆ど載せていません。
解散後の開墾 開墾者は5反5畝だけ与えられても生計を立てていくのは困難でした。 この面積は耕作地として絶対的に少ないうえ、当時は肥料も乏しく、入植者は農業経験が殆ど無く、収穫が少なかったのです。
八街の適正な耕作規模について、八街で一生を農業で過ごした人は分家と耕地面積について次のように記しています。ただし昭和30年代の八街町を表現しているので、肥料は格段に改善されており、しかもプロの農家の話です。明治初期の開墾と比較は困難ですが参考にあげておきます。
八街市勢要覧では史実の歪曲が見られます。 要覧では「八街開拓史」として32頁から漫画で描いています。
間違いは3つあります。 (1) 五反五畝をもらって満足する入植者の姿が描かれている。現実は五反五畝では生活できず、開墾事業の転換点となり、この後、急速に入植者は村を出ていった。漫画のように喜ぶ姿は無かった。怒りと悲しみを描く必要があった。 (2) 「独立農夫と認められる・・・」と書いてあるが、これは形骸化したもので、現実は五反五畝では少なくて生活できないので、村に残った人は小作人になった。 (3) 五反五畝を間違えて約550アールと換算している。現実は10分の1の約55アール。 [この違いに注目!] 八街開墾物語の最重要ポイントと言っても過言ではない入植者と開墾会社の関係を、史実に反した内容で全世帯に伝えているのです。 これに対して市内の農業/教育関係者が問題視しない現状を考慮する必要があります。
また市内小学校の社会科で使用する副読本では次のように表しています。
八街では明治3年の入植時の世帯数479に対して、明治25年には世帯数106まで減ってしまったそうです。(町史99頁) 郷土史では離村の理由を「やる気のない者」の逃走を強調しているようにも思えます。現実は五反五畝しかもらえず独立農夫として生活できないので離村した人が多かったのです。 離村した人の土地は開墾会社の元社員等の手に渡りました。 ここに至って開墾地は元社員が大地主になり、東京移民と周辺の農民が小作人となり生産を開始します。(東京移民は五反五畝は自分の土地として耕しますが、それだけでは食べていけないので大地主の小作人になりました) つまり、才覚のあるごく少数の富豪がビジネスとして利益を追求した結果が八街の開墾だったのです。それにのせられ、理想の新天地を夢見た東京の窮民は、現実を知らされ多くが脱出しますが、残った人は小作人になり、中世の荘園のような制度の下で働くことになります。 農民運動 入植者は耕した分だけ最大三町三反まで自分の物にできる約束でしたが、契約を破棄され、会社に取り上げられた訳です。 こんな不条理を農民が黙っているはずはありません。
農民は団結して、開墾当初の約束を守って欲しいと大地主に頼みました。しかし法律上は大地主の立場が正しいと立証されていました。当時の開墾会社の元社員 (大地主) は政財界に太いパイプがありました。 巨大権力を持つ大地主と、東京の窮民から出発した農民とでは立場が違いすぎます。圧力を受けて八街を追われた農民の指導者もいました。
周辺との相違 東京からの入植者は周辺の農村から嫌われていたようです。 入植者はプロの農民でなく、何か異質な面が感じられたのでしょう。 当時、二和三咲と周辺の農村が合併して八栄村になっていましたが、南部の旧村が分離したいと県知事に請願しました。
別頁には「移民の中には性格が荒い者や暴れ廻る者がいた」ことが書かれています。二番と三番のトラブルで一人が斬殺され数人が負傷する事件や、四番で家族全員が殺害される事件も起きています。 主に生活上の底辺層の人達が困窮を脱する目的で入植した訳であり、以前の職業は「誰でもすぐに就ける仕事」が多かったようです。 ”第二次”開墾 多くの開墾者が離村したので荒地が広がり始めます。ある面で初期の開墾は失敗だったといえます。
周辺の村々の農家で次男三男が分家する頃まで年月を待って、彼らが小作人として開墾地に入ってきて耕しました。 また他の地方からも入ってきました。武蔵の国 (現在の東京都と神奈川県と埼玉県の一部)、甲斐の国 (現在の山梨県)、三河の国 (現在の愛知県東部)、そして県内各地からです。特にN氏の郷里である埼玉から入植者が多かった、とする書籍と冊子が見られます。 明治20年代後半に鉄道開発が決まりますが、この頃から県外の移住者が急増したようです。 農家の分家で入った人達は、農業のプロとして東京移民よりもずっと効率よく耕作しました。初期の入植者達は農業技術を真似て収穫が増えていったそうです。 ”第二次”開墾の入植者は、初めから小作人として入ったのでトラブルは少なかったようです。 このように、現実の「開墾物語」は、東京窮民の新天地とは殆ど関係無く、もっと現実味を帯びた農業のプロによる再開発で成功したのです。 八街の4つの開墾 このページでは千葉の原野13地域で行なわれた開墾について、その中の三咲と八街を比較しました。 八街は柳沢牧の開墾がこれにあたり、八街で普段語られる開墾史のメインになっています。 しかし八街では同規模の小間子牧の開墾があります。これは「鍋島開墾」と呼ばれ、まったく別の開墾です。 通常、この2つを八街の開墾と呼びますが、少し分けて4つの開墾として表にまとめました。
つまり 八街紛擾史料に出てくる「二大地主」とは、旧・柳沢牧を”制圧”したN氏と、旧・小間子牧を外部から所有した鍋島家です。牧の地図を見るとその広大さが分かります。 農地解放 あとがき 八街町史の「あとがき」は次のように書かれています。
その後、八街市の編纂者に委託されて完成をみますが・・・
これを隠されたメッセージと受け取るのは僭越でしょうか。訳すと、「志士の血涙・八街紛擾史の解釈も採用したかった。」「簡明な解説で子孫に伝えたかった。」となるのですが。 地元エスタブリッシュメントが参画した町史編纂。地域の秘匿と公開の狭間で苦悩した結晶として町史は輝いています。 参考資料 このページを制作するにあたり、次の書籍を参考にさせていただきました。 厚くお礼申し上げます。
制作: 2003年6月
===このページは制作途中です。当面、制作時間がとれず、暫定アップロードさせて頂きます。=== |
