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美しい村とは? |
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大正13年、あの文豪、芥川龍之介が当時の八街村に降り立ちました。 取材で旅行することは珍しいと言われた芥川が何故、八街に来たのでしょう・・・
未完・美しい村 芥川龍之介は八街村で取材を行ない、東京に戻り執筆を始めました。しかし途中で筆を折り、未完原稿だけが残されました。 この原稿は筑摩書房「芥川龍之介全集」第6巻に収められており(←「八街市の文学」に記述)、八街町史にも全文が掲載されています。
「浅井(八街)は美しい村である」から書き始め、村の位置を上空から立体的に描写しています。流れるような美しい文です。 そして村の歴史を「浅井が原(佐倉牧、柳沢牧か)」から解説し、村誕生の経緯と明治35年頃までの発展の様子を述べています。 この光景を「自身鮮かに記憶してゐる」とした上で、念を押すかのように新聞記者の旅行記を引用しています。 つまり大正13年の取材時を原点として、それより20年以前の八街村について描写しています。 現 実
紛 擾 史 (ふんじょうし) では「八街紛擾史」とは何でしょうか? 紛擾とは、乱れもめること/ごたごた、を言います。(大辞林より) 郷土史には「志士の血涙・八街紛擾史」あるいは「志士の涙痕・八街紛擾史料」と記されていますが、同内容と解して良いようです。八街市立図書館に原本のコピー製本があり、自由に閲覧貸出を行なっています。 町史では八街紛擾史の出版を小竹元吉、図書館のコピー製本版・八街紛擾史料では出版を石田濱吉としています。 八街紛擾史料は明治43年4月7日に発行された全77ページの冊子で、明治の文体でびっしりと書かれています。大まかに言えば、明治中期〜後期の腐敗した八街村政の為に、計略により告訴された当時の村長(下村充)を弁護した内容です。裁判関係者に八街村の現状と下村氏の行動を知ってもらう為に書かれています。 村政の危機 当時の八街村で何が起きたのでしょう? 明治期、財政を巡る多くの混乱が村で続いたようです。 税金滞納者の激増/選挙活動の妨害/巨額な公金の紛失/公務員の給与不払い・・・ 紛擾史によると、当時は「村役場が毎年の収支決算を行なわず、財政の概況さえ把握していなかった。帳簿は不明確で、証票は散逸していた」そうです。 また「書記等は納税切符で税金を村人から受領し、この金で自分の給料を立て替えていた。しかもその決算は年月をへて曖昧になり、長い間、税金額が収入役の帳簿に記載されなかった。ここ数年間(明治30年代後半)、会計の年度決算報告が無かった。」 これらトラブルの主因は不公平な税制にあったと見られています。現在と違い、当時の八街村は「戸数割」「戸別割」という各世帯が同額の税金を支払うシステムでした。 つまり、所有する土地の広さに関係なく、世帯ごとに一律の税金だったようです。 地主のように広大な土地を持っていても、借地人でも、同じ金額を納める決まりでした。 当時は村の土地の約半分を村外居住者(村外の大地主)が所有していました。残りの半分の土地は村内居住者の所有ですが、その多くは地主/大地主のものだったのです。 八街村は「戸別割」なのに、他の地域は「地価割」(反別割・固定資産税)なのです。 つまり、八街村の面積に見あう分の財政を確保するには、村民の税金負担が極端に大きかったのです。それで未納者が増え、財政が逼迫して会計がメチャクチャになった、と考えられています。 こんなに不公平でも、なぜ税制を改正しないか・・・それは大地主にメリットがあるからです。当時の村政は大地主に支配されていました。 それを奪還する為に村民が立ち上がり、互いの攻防が何度も繰り返されます。その策略の詳細を記述したのが紛擾史です。
策 略 このように当時の八街村は「地主派」と「農民派」に分かれていました。 地主派が圧倒的に強かったようです。 はじめ、村長は地主派でしたが、何度目かの攻防の末、農民派の下村充に変わりました。 村に金が無いので、下村は立場上 給与を受け取らず、自費で生活していました。自宅は八街村滝台にあり、役場から約2里離れているので通勤時間が惜しく、役場の近くに下宿し、仕事の経費等も自宅の妻に手紙を宛てて催促しました。度々催促するので、妻は農業の種代を理由に出金を拒んでいたことが紛擾史の中にある下村の手紙から読み取れます。 下村は積極的に財政の立て直しをはかりました。特に、税制を公平な「反別割」にするため奔走しました。 村議会は地主派が多く、新税制に反対するので進捗せず、仕方なく国に頼み込みました。そして明治41年、やっと大臣の認可を得ました。 新税制で推算すると村の税収は前年の2倍以上になるので危機を脱するかに見えました。 増えた分は大地主からの税収です。 しかし紛擾史には、地主派が「無知な村民を煽動して」下村に対抗したと書かれています。村民の為の最重要な新税制ですが、小作料の値上げ等が伴ったので、当時は村民の理解が一部得られなかったようです。 また下村は無就学の子供を無くする政策をとったので、当時は子供が農作業に必要な時代であり、学校に行かれては困ると反対の理由になりました。紛擾史には「従来から当村は県下に稀なる不就学児童が多い地だった。」と書かれています。 地主派にとって下村村長が邪魔でした。 そこで策略を練り、村長を公金横領の罪で告訴したのです。 以前から帳簿は記載があやふやで、村の金庫の金額と合わない現実は続いており、皆が知っていたようです。下村より前の村長の時期から金額が合わなかったと想像されるのに、計略で罪を負わされた訳です。 弁護も空しく、下村は投獄されました。 代わりに地主派が村長に就任しました。 八街紛擾史料(復刻版)の巻末に下村充が獄中で詠んだと思われる句が書写されています。
開墾の真実 じつは、紛擾史には明治初期の入植の事情から解説されており、自治体刊行物による郷土史とは異なる側面が見えてきます。これにより疑問点の一つが一瞬にして解けるのです。 たとえば紛擾史の冒頭は次のように書かれています。
また、紛擾史のなかに当時の「社会新聞」が引用されており、記事では八街村誕生の経緯と危惧を伝えています。 未完小説「美しい村」に出てくる「黎明新聞」は、この新聞だとされています。
ここで注視したいのは、一対多ではなく、勢力同士の駆引きとぶつかり合いなのです。土地と農業に関して自ずと土着化が進み、子孫の多くは地域を生活の場とされています。 たとえば禁忌というものがあって、新住民が流入して禁忌と知らずに暮らしながら、ある日その深淵に落ち込むよりも、周知の事実として事前に回避する智慧のようなものは必要だと感じます。 未 来 諸事情によりこれ以上説明できません。 この地域は特異な存在理由がありました。現在の街に甘んじている光景も誕生からの経緯と関係がありそうです。街で生まれ育った人も、新住民も、加工された歴史書以外の真実を、お互いが共有の場に提示したいものです。そうする事で摩擦の少ない緩やかな発展が辿れるのではないでしょうか。 しかし町史編纂で地域の内情を解説した努力は特筆されるべきです。 そして芥川龍之介の存在が無ければ私たちが八街の原点を垣間見るチャンスは無かったでしょう。その意味でも文豪に感謝したい気持ちです。 大地主は世代の交代と共に、街の産業、経済、教育に著しい貢献をされた事が各記録に残ります。 未完「美しい村」原稿の最後、「黎明」を引き継ぐように私立高校が改名され、現実と幻想が交錯する地域を担う次世代に期待をつなぐかのようです。 参考資料 このページを制作するにあたり、次の書籍/冊子/絵図を参考にさせていただきました。ここに厚くお礼申し上げます。 なお、芥川龍之介・未完小説の一般的な解釈は、紛擾史料を元に八街の矛盾点等を描き出そうとしたのではないか、とされていますが、「芥川龍之介と房総」「八街市の文学」では、新聞の「××游記」に心引かれて八街まで足を運ばせたのであろう、と解説されている事を書き加えておきます。
制作: 2003年5月
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