世田谷城(せたがや)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 吉良治家か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 東急世田谷線上町駅または宮の坂駅徒歩3分


       <沿革>
           奥州管領として活躍した東条吉良氏吉良貞家の子治家は、父亡き後の家督争いに敗れたが、後に鎌倉
          公方足利基氏に招かれ上野国飽間郷を領した。貞治五/正平二十一年(1366)、治家は基氏から武蔵国
          世田谷郷を与えられ、移り住んだとされる。このとき、世田谷城の原型となる館が築かれたともいわれるが
          確証はない。
           応永三十三年(1426)の記録に「世田谷吉良殿」とあることが知られ、このころまでには吉良氏の本拠が
          世田谷に営まれていたと推測される。
           吉良氏の動向が明らかとなるのは、治家の5代後とされる成高の代からである。成高は当初太田道灌
          と同盟を結んでいたが、北条氏の勢力が伸張すると、成高の子頼康の妻として北条氏綱の娘(高源院)
          を迎えた。さらに北条氏は、今川氏一族の堀越貞基の子氏朝を頼康の養子として送り込んだ。頼康は、
          世田谷のほか蒔田にも所領をもち、「蒔田殿」や「蒔田御所」とも尊称された。
           こうして吉良氏は北条家の家臣団に組み込まれていったが、北条氏は名門の名声を利用するため、表
          向きは吉良氏を丁重に扱った。氏朝に嫁いだ北条氏康の娘松院に、氏康の叔父幻庵が与えた「幻庵
          おほへ書」には、吉良家中での立場や振る舞いに関する諸注意が細かく記されている。そこには、北条氏
          と吉良氏の関係について、お互いを立てるものの、付かず離れずの距離を保つよう細心が払われている
          ようすが窺える。
           天正十八年(1590)、豊臣秀吉が北条氏を攻めると、世田谷城は抵抗もなく秀吉軍に占領された。北条
          氏が滅亡すると、世田谷城はそのまま廃城となった。
           ちなみに、忠臣蔵でおなじみの吉良上野介義央は西条吉良氏の後裔であり、世田谷吉良氏とは同族で
          はあるが別系統である。


       <手記>
           「世田谷に吉良氏が住んでいた」というのは、あまり知られていないことと思いますが、世田谷城址その
          ものは意外と良好に遺構が残っています。世田谷城は、周囲に散在する小台地の1つの先端に築かれた
          城で、西から南、東へと城を囲うように烏山川が流れています。北側も小さな谷戸となっていて、この谷戸
          を望む場所に井伊直弼の墓や招き猫で知られる井伊家の菩提寺豪徳寺があります。世田谷城の城域に
          ついては未だ諸説あるようですが、この豪徳寺が吉良氏の館跡に建てられたものとする点では一致してい
          るようです。上の地図では世田谷城址公園の位置のみを示しましたが、全体としては上図のポイントから
          豪徳寺の寺域までを含めた範囲が城域であったと、おおむね推測されています。
           現在、城の南東端近辺に、土塁や空堀が残っています。土塁は高く、空堀は深く、なかなか見ごたえが
          ありますが、周辺の開発によりかなりえぐられていて、城の縄張りをうかがうのはいささか困難です。恐らく
          南東端の曲輪を詰とし、北と北西に最低2つの副郭をもつ縄張りであったと思われます。
           『日本城郭大系』には、藤井尚夫氏の説として、深大寺城との縄張り上の類似を指摘する説を紹介して
          います。しかし私が見たところ、各曲輪の狭隘さや比高差があまりないことなどから、防御能力については
          深大寺城よりかなり劣るものと思われます。それどころか、はっきりいって世田谷城には防御施設としての
          役割はほとんど望めないように見受けられます。おそらくは、名家の居館として、物見程度以上の軍事施設
          は初めから必要と考えていなかったのではないかと推測されます。


           
 世田谷城址公園角。
東南端の曲輪と土塁(左手)。 
 土塁(左)と空堀(右)。
 同じく2条の空堀と土塁。 


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