太平記(愛別離苦)

越中国(えっちゅうこく:富山県)には、守護・名越時有(なごえときあり)、その弟・有公(ありとも)、その甥・貞持(さだもち)の3人がいた。出羽(でわ:東北地方の日本海側一帯)と越後(えちご:新潟県)の倒幕勢が北陸道経由で京都へ攻め上ろうとしている、との情報に、その途中でこれを遮ろうと、彼らは越中の二塚(ふたつづか:富山県高岡市)という所に陣を敷いて近隣の武士たちを呼び集めた。そうした所に「六波羅庁すでに落ち、関東でも戦起こって反乱軍が鎌倉に押し寄せ」などと様々な情報が入ってくる。そこで、催促に従って集合していた能登国(のとこく:石川県北部)や越中国の武士たちは放生津(ほうしょうづ:富山県新湊市)へ退却し、態度を一変して逆に名越の陣を攻めようと企てはじめた。

この情勢を見て「わが身に代えても、わが命に代えても殿をお守り!」と、今まで義を持って忠節を示してきた郎等たちまでもが、しばらくするうち皆、逃亡してしまった。中には敵軍に加わってしまう者まで出てくる始末。朝に来たり暮れに往って交わりを結び深い情けを通じてきた朋友たちまでも、たちまちに心変りしてしまい、かえってこちらに危害を加えようという思いまで持ちはじめたのであった。

今となっては残り留っているのは三族(父方、母方、妻の実家)に連なる親戚と、代々の重恩を被ってきた譜代の家臣たち、総勢わずか79人だけである。

5月17日の正午、「倒幕軍すでに1万余にて接近」との知らせに、「我らのこのような小勢で合戦してみたところで、いかほどの事が出来ようか。なまじいな戦いをしてつまらない敵の手に掛かり、縄目の恥を受けるともなれば、後代までの嘲りを受けるであろう」という事で、敵の接近せぬうちに、女性・幼少の人々を舟に載せて沖で沈め、自分らは城中にて自害しようと、館を出立した。

時有夫人は華燭の儀を挙げてから今年で21年目、二人の男子を懐の内にいつくしみ育ててきたのであった。上の子は9歳、下の子は7歳である。

有公夫人は結婚してすでに3年余り、妊娠数か月の身であった。

貞持の奥方はつい4、5日前、京都から迎えた身分高い女性である。彼女の絶世の美貌を玉飾りのすだれごしにほのかに見た時から、何とかして彼女をと思いこがれて3年経過、ようやく手だてをめぐらして彼女を盗み出し嫁に迎えた貞持であった。

やっと夫婦になれてわずかに数日、「何とかして彼女に会いたい」と嘆き暮していた日々も今となっては惜しまれる。恋に悲しんでいた月日は天人が羽衣で石をすり減らす時間よりも長く(注1)、やっと一緒になれた後の時間は、春の夜の夢よりもなお短い。たちまちにしてこの愛別離苦に会わねばならぬ前世からの悲しい定め。木の葉末から落ちる露、木の根本から落ちる雫、どちらが先に落ちて行くか、愛する人に後れ、あるいは先立つ事こそ、悲しいものと聞いてはいたが、浪の上と煙の底に沈み焦がれる別離の悲しさ、これをいったい何とせん・・・互いに名残を惜しみつつ、伏し倒れて泣き続ける若い二人であった。

そうこうするうち、敵が早くも押し寄せてきたのであろうか「馬が蹴立てる土煙が東西に上がっている」とみなが騒ぎだした。

女性と幼い人々はみな泣きながら舟に乗り込み、沖合遥かめがけて舟は漕ぎ出した。ああ、何と恨めしき追い風や、しばしも止まずに去り行く人を波路はるかに吹き送るとは。情け容赦無き引き潮や、ただひたすら漕ぎゆく舟を浜から遠くに引いて行こうとするか。かの松浦の佐用姫(さよひめ)が玉嶋山の頂からスカーフ振って、沖を行く恋人の舟を引き戻そうと試みたその哀れな心中、今にしてよくよく思い知られる。

船頭は櫓をかいて舟を波間に留めた。間もなく、一人の女が二人の子を左右の脇に抱きかかえ、二人の女は手に手を取って、同時に海に身を投げた。紅色の袴が暫く浪の上に漂うその様、吉野川や立田川の流水に落花紅葉の散乱したるごとくに見える。やがてそれも寄せ来る浪に呑まれ、次第に沈み行くのを見果てて後、城に残留の人々79人みな一斉に腹かっ切って、兵火の底に焼け死んでいったのであった。

(柳田注1)仏教の話の中には「劫(こう、ごう、Kalpa)」という時間の単位がしばしば出てくるが、これは以下に見るような、想像を絶するような長い時間なのである。

1.古代インドでは

 梵天(ぼんてん)の世界の1日を「劫」と呼んだ。 梵天界でその1日が経過する間に、 我々人間の世界では4億3200万年が経過するのだという。

2.仏教では

 「劫」の長さを次のようなたとえで表現する。

A.芥子粒(けしつぶ)による表現:

 (1)まず、1辺40里の正方形の城の中に芥子粒を一杯に満たせ。
 (2)次に天上界にお願いして、長い寿命を持つ天人に3年に1度、 天上界からこの世に来てもらって、芥子粒を持って帰ってもらえ。 ただし、来訪1回あたり1粒だけ。
 (3)「最初の天人来訪」から「最後の天人来訪」 (その時点で城の中の芥子粒がすべて持ち去られて皆無となる)までの 所用時間を[1劫]とする。

B.岩石摩耗による表現:

 (1)1辺40里の正方形の巨石を定位置に据えよ。
 (2)次に天上界にお願いして、長い寿命を持つ天人に3年に1度、 天上界からこの世に来てもらい、来訪の都度、 重さ3シュの天衣でもってその石を1回だけ拭いてもらえ。
 (3)「最初の天人来訪」から「最後の天人来訪」 (その時点でこの巨石は、天衣の布による摩滅により消滅する)までの 所用時間を[1劫]とする。

彼ら名越家の男女の魂魄(こんぱく)は亡霊となり、なおもかの地に留まりて夫婦互いに合い引き合う妄念を遺したのであろうか、最近、越後から京都への旅の途上、ある舟人がこんな体験をしたという。

そこの浦を過ぎる頃、にわかに風が強まり波がとても荒くなってきたので、碇をおろして沖に舟を留めた。夜更けになってようやく波は静まったのであったが、松の梢を吹きぬける風といい、葦(あし)の花の上に輝く月といい、旅の途中の停泊、何かうす気味悪いものが感じられてくる。

その時、はるか沖合いから女の泣き悲しむ声が・・・いったいあれは何だろうかと怪しんでいるうち、今度は汀の方から男の声がする。

声>頼む、そこの舟、この岸まで寄せてくれ!

このように男の声の数人が叫ぶのである。やむを得ず舟人は舟を汀に寄せた。すると、立派な風体の男が3人、船室に乗り込んできた。

男A>あそこの沖までこの舟で連れていってくれないか。

彼らを載せて舟を漕ぎ出し、指定された沖の潮が満ちくる地点で舟を止めた。すると、この3人の男は舟から海上に降りていくではないか。何と、広々とした波の上に彼らの体は少しも沈まずに立っているのである。

しばらくすると、年の頃16、7歳から20歳くらいまでの、様々な色の衣に赤い袴をはいた女が3人、波の底から浮かび上がってきた。なぜか分からぬが彼女らはしきりに泣いている。男たちは彼女らをいとおしそうに見つめ、男女は互いに近づこうとする。そこへ猛火にわかに燃え出でて、その炎が男女の間をさえ切った。

やがて3人の女たちは男たちに思い焦がれる様を示しつつ、波の底に沈んでいった。男たちは泣きながら波の上を岸に泳ぎ帰り、二塚の方へ歩み去ろうとした。

あまりの不思議さに舟人は彼らの後を追いかけ、男の袖を引いて問うてみた。

舟人>あんたらはいったいどういうお方なんですか?

男A>私は名越時有だ。

男B>同じく、有公

男C>貞持。

このように各々名乗った後、男たちはかき消すように消えてしまった、というのである。

インドのジュッバガは王女に懸想して恋慕の炎に身を焦がし、わが国の宇治の橋姫は夫を慕ってわが身を淵に投じたという。これは皆、大昔の不思議の出来事、古い記録に書かれている事である。しかし今、目の前にこのような事が現実となって現われたとは、名越家の男女らのその妄念の程、まことに救われないものがあるではないか・・・ああ哀れなり。



太平記より http://www5d.biglobe.ne.jp/~katakori/e01/e11s04.html

訳:柳田 俊一  99年3月13日訳