新湊弁財天
 放生津から少々離れていますが、片口にある「新湊弁財天」を紹介します。
 富山新港が出来る前には「放生津潟」と呼ばれ、内川など水を利用した生活には重要な役割を果たしていました。当時の「放生津潟」の中に人工島が設けられ「海竜社」が祀られていました。富山新港が建設されたときに、それが移設され「新湊弁財天」になったと言われています。

下記に「新湊市観光協会」が設置した案内板の写しを記載致します。参考に・・・
新湊弁財天場所情報
はココから
「新湊市観光協会」設置案内板より
                  昭和61年8月3日
 その昔、放生津潟の深淵に竜王が住むという伝説があった。
 夕闇に包まれた夏空に光芒一閃、鳴動して落雷が湖面を走るという現象は放生津潟でよく見られ、これは竜神が昇天した一瞬と信じられた。
 潟回りの村々では田造りのため、湖底の泥土を肥料として掘上げる方法がとられていたが、しばしば舟が転覆して命を失うものが続出したので、明和4年(1767)7月、附近27ヵ村が協議して潟の中心に弐拾間四方(1,300u)の島を築き、海竜大明神を祀ったのが始まりである。
 築島の岩石に亀に似た形が多く、また潟中に大亀が棲むとも言うことから、この島をがめ島とも呼んだ。
 祭神も、初めの海竜大明神に弁財天を合祠し、さらに明治に入ってからは伝説の浦島太郎も祀り、社号も改めて、少童社と称し、少童命(わだつみのみこと)を祭神とした。
 毎年7月30日の潟祭りには花火を上げ、参集する数百艘の舟は思い思いの装飾をほどこし、灯火が湖面に映えて、笛・太鼓など弦歌歓声で夜遅くまで賑わった。
 この潟祭りも富山新港造成のため、昭和39年をもって終わりとし、昭和42年に潟南の片口地区に遷座を余儀なくされ、更に社殿の老朽化に伴い、同61年8月、現在地に高純度アルミ製の立像として姿を変えて建造されたものである。
 少童命は、伊弉諸命(いざなぎのみこと)の御子で、海を掌る神である。
 日本書紀には少童命、古事記には大海津見神(おおわたつみ)、神武天皇紀には海童(わたつみ)とある。
 少童命は、その姿を弁財天像に応現していることから、既存の社殿を弁財天像そのものにした。弁財天は印度で最も尊崇された女神で、河川を神格化したものであり、それから発して水の神、また農耕の神となった。さらには音楽・弁舌・知恵・財福・延寿・除災・得勝を掌る。別名を妙音天・美音天ともいうが、日本では七福神の一人として厚い信仰をあつめている。
 弓・刀・斧などの武器を持つ勇猛な姿もあるが、我が国では琵琶を弾く優美な天女として知られている。
 昔から安芸の宮島・大和の天の川・近江の竹生島・相模の江の島・陸前の金華山の弁財天を五弁天と称するが、これに次ぐのがこの「新湊弁財天」である。
 木製着色の坐像がほとんどのなかで、アルミ製の立像というのは類例が無く、その大きさ(本体9.2m)からも日本一の弁財天像といえよう。
 水の神として農作物の豊穣を、また商売繁盛や音楽・弁才・知恵など学問にもかかわり、除災という労災防止、交通安全の面、さらに海の神様として海上安全・大漁祈願、そして古くは放生津潟の鎮守として、今は富山新港の守護神であり、シンボルとして、そのご利益は広大無辺であり、ますます敬愛をあつめている。
放生津潟海竜湖八景
しんみなとの歴史より引用
【雑学】
明治16年(1883)に石川県から富山県が独立したときに治水事業の技師として招かれたオランダ人のルーエン・ホルスト・ムルデにより新しい運河の建設が提言されました。

        その運河計画は

伏木港より射水川(小矢部・庄川)を渡り
             ↓
           西内川
             ↓
           東内川
             ↓
           放生津潟
             ↓
    陀婦野潟
(だふのがた)-現在の富山新港東側
             ↓
           足洗潟
             ↓
           神通川


結局、提言だけで却下されたようですが、本当に出来ていたら凄かったでしょうね。
海竜社と立山連邦
しんみなとの歴史より引用