一の虹

虹は龍の「化身」であるという

一の虹

 カルタは幾多の禁令をくぐりぬけてきたが、その度に変態をした。つまり、それが賭博に使われるのではなく、「公認」された遊びに用いられるかのような擬装をしたのである。使用だけではなく、製造も禁じられたので一目では賭博用具と見えない工夫は、製造業者の命運に関わる重要事だったのである。最後に残った花札にはカルタが生んできた種々の擬装の痕跡があり、それは花札の運命とそれに関わる時代を反映しているといえよう。

 前稿でも述べたが「めくりカルタ」のシステムは「貝覆い」のそれを導入したものである。「貝覆い」は平安末期から貴族を中心として行われた遊びであり、鎌倉時代以降は武士の間でも行われるようになった。蛤の貝殻の二葉が決して他の貝殻と合わないことを利用したもので、貝殻をばらばらにしてそれに合う物を探す遊びである。実際に一葉の貝殻を2枚手にとって合わせてみて、それが合うようだったら得点になるのだが、後期になって合致の判定を容易にするために貝殻の内側に絵図や和歌を記すようになる。絵図ならば関連のあるふたつの絵だし、和歌なら上の句と下の句が記された。  また、貝殻の一対が決して他の貝とは合わない所から貴人の嫁入り道具とされ、結果漆塗りや金装など華美なものになってゆく。江戸時代の高貴の身分にある人の花嫁道具の特徴に遊技具があり、三面といわれる「囲碁」、「将棋」、「本双六」(今でいうバックギャモン)が使われ、その他に「貝覆い」の道具である貝桶、香道具(お香を焚く道具ではあるが当て物などのゲームに使われた)が含まれた。「貝覆い」は360個の蛤が必要であったし、高価なものなので貝の内側に描かれた意匠そのものが独り歩きするようになる。それらを紙や木板に記すことによって容易に作られ、そこから「合わせ物」が始まり遊びや賭博の主流となっていくのである。

 和歌の上の句と下の句を合わせる遊びは和歌の学習にもなったため色々な物がつくられ「歌カルタ」と呼ばれた。初期の百人一首も現在の読み札・取り札の構成ではなく、上の句札と下の句札の2枚構成で合った2枚を合わせるものだった。花札の古い物、あるいは地方に特有の地方札と呼ばれる物には素札(カス札)の2枚に和歌が上の旬と下の句に別れて人っていて「歌カルタ」の擬装であることがあきらかである。しかし、決して「歌カルタ」に用いられなかった証拠にすべての札に歌が入っている訳ではなく、季節あるいは風物に相応しい和歌が無い月には歌が人っていないのである。ではどのような歌が入っているかを見てみよう。

 1月は「とき葉なる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりけり」と古今集の春歌上の源宗干の歌が入っている。古今集で松を詠んだ歌は他にないため無条件にこの歌に落ち着いたものと思われる。地方札の金時花(鬼札のかわりに金太郎の札があるのでそう呼ばれている)の松の素札には2枚とも「ときハきハみどり」と人っていて古今集の和歌が形骸化した様子がうかがえる。

 2月は「鴬の鳴音はしるき梅の花色まがえとや雪の降るらん」という歌で、まったく同じ歌は古今集や新古今集には見当たらず、続後拾遺和歌集の巻第一春歌上に紀貫之の「鴬のなくはしるきに梅花色まがへとや雪のふるらむ」という歌があり、それが出典と思われる。歌意は、紛れて見分けがつかなくなるというものだから白梅詠うったものだと思うのだが、花札には紅梅しか描かれていない。

 3月は最も多く歌材に用いられている桜だが、なんと歌が記されていないのである。もっと古い札が残っていれば桜を詠んだ歌が見られたかもしれないが、現在残存しているものにはない。少々不自然ではある。

 4月は「わがやどの池の藤波さきにけり山時鳥いつかきなかむ」で、古今集巻第三夏歌の冒頭にある歌である。読み人知らずといわれているが、一説には柿本人麿ともいわれている。時鳥は良く歌材になっているが、この歌は藤と合わせて詠まれているため格好の歌であったはずである。

 5月はあやめという人もあるが、本来は菖蒲である。しかし、詠まれている歌は「かきつばた」なのである。有名な在原業平の「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」で、古今集巻第九にある。

 6月の牡丹には歌がない。もともと牡丹を詠った和歌は稀で、万葉集にも古今集にも新古今集にも見られない。中国原産であるためか姿形が派手なためか不明だが、元禄俳句にも見当たらない。牡丹の意匠そのものは家紋などに使われているので日本に渡来したのが最近であるとは思われないが。

 7月の萩は秋の七草のひとつでとても親しまれ、多くの歌にも詠まれているにもかかわらす、花札に歌は記されていない。これも不自然である。

 8月は「行くすゑは空もひとつのむさし野に草の原より出づる月かげ」と、新古今集巻第四秋歌上にあるこの歌集の代表的選者でもある藤原良経の歌である。花札の古い異名に「むさしの」があるが、この名はこの歌からきたのかもしれない。百人一首カルタを賭博用に改造したものに「むべ山」(1700年代中頃以降に登場)というカルタがある。読み札と取り札があり、取り札には下の句が記されていた。「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ」の文屋康秀の札が高得点のため「むべ山」と呼ばれるようになったが、花札より古いのでその呼び名が「むさしの」の伏線になったかもしれない(「むべ山」は配られた自分の札を読み札によって伏せてゆき、速く伏せ終わった者が勝つという遊びで、札の並べ方で得点が異なった。)よって素札に読まれた歌は案外親しまれていたと思われる。

 9月の菊も歌がない。もともと菊が中国から渡来したのが平安時代初期で、万葉集にも菊を詠んだ歌はないが、古今集・新古今集にはいくつかあるので説明がつかない。

 10月は「下紅葉かつ散る山の夕時雨濡れてやひとり鹿の鳴くらむ」と、新古今集巻第五秋歌下の冒頭にあり選者である藤原家隆の歌である。

 11月と12月には歌は無い。11月は例の定九郎であるから相応しい歌などあるはずもないが、12月の桐の歌はいくつかあるが秋の歌で詠まれているので季節に合わないため採用されなかったのかもしれない。

 以上花札に描かれた和歌について見たが、この擬装で始まった行為が花札に美しさを与えているのである。花札を収集するに足る美術品に高めたのは、その存在を秘匿するための擬装であったという、他に例を見ない歴史がここにはあるのである。

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