二の影

影とは闇であり、すなわち「謎」の部分である

二の影

 花札は1月から12月までの季節に花をあしらった海外には例を見ない美しく、優雅なカードである。また、礼の高低を示す鳥・獣・月の配置も見事で、まさに花鳥風月を具現しているといえる。

 1月は松、2月は梅、3月は桜、4月は藤、5月は菖蒲、6月は牡丹、7月は萩、8月は薄、9月は菊、10月は紅葉、と続くが11月が柳で12月が桐であるところが不思議だ。なぜなら柳も桐も春のものなのである。

 柳が芽吹くのは春であるし、種札(10点札)に描かれている燕は紛れもなく春を告げる鳥である。素札(カス札)に描かれている雷は初夏の風物であるし、光札(20点札)に小野道風と共に描かれている蛙も初夏のものである。桐は晩春に白や紫の花をつける植物で、花札の桐はすべて花が咲いているのである。これらのことから11月と12月は花札の中で異彩を放っている。また、柳は素札が1枚で桐は素札が3枚と、他の月に共通な素札を2枚の構成とは異なっている。その謎を解く鍵は花札の出生の秘密にあるかもしれない。

 花札の前身はもちろんカルタであるが、そのカルタ自体はポルトガルから伝わったものである。それは日本では南蛮カルタと呼ばれた物であるが、南蛮船が渡航した16世紀後半に渡来したと考えられている。南蛮カルタの原形は14世紀にタロットカードを母体としてヨーロッパに登場したプレイングカードである。南蛮カルタが現存していないので札の確かな構成は分からないが、それを国産化したものがありそれから推測することはできる。日本で模倣した物の初期は「うんすんカルタ」と「天正カルタ」であろう。

 「うんすんカルタ」は5スーツ各15枚合計75枚の規模の大きなものだが、この構成は南蛮カルタにスーツを加え、また数枚も増加させたものと思われる。ほとんど南蛮カルタと同様であろうと思われるのが「天正カルタ」あるいは「初期型うんすんカルタ」で4スーツ各12枚合計48枚の構成である。スーツはイス(剣)、ハウ(こん棒)、コップ(酒杯)、オウル(貨幣)であり、これは現今のカードのスペード、クラブ、ハート、ダイヤモンドに対応している。「うんすんカルタ」ではグル(巴紋)のスーツが加わることとなる。1702年に博徒の大掛かりな一斉検挙があって「大正カルタ」が消え「うんすんカルタ」が登場する。寛政の改革(1789年)まで「うんすんカルタ」は禁令の対象とならない公認の存在であった。

 「よみ」という遊び方に代わり「めくり」という遊び方が主流になって「めくりカルタ」が爆発的人気を獲得した。「めくりカルタ」は「天正カルタ」と同じ物と考えられている。その「めくりカルタ」の流行で「うんすんカルタ」が衰退した。「よみ」という遊びは3人で行い、1枚の場札を合札にしてそれに関係のある(例えば続き数の)手札を捨てていき手札をなくすことが目的である。現在の花札にもその遊びの痕跡が「いすり」「ポカ」「ひよこ」などに見られる(現代に残っているこれらの「よみ」系のゲームは古来のものと違って2人用で、オールマイティである化け札も多様で、手役などもあり複雑なゲームになっている。先に決められた点をあげたほうが勝者となる)。しかし、この遊びは単純である上にすべての札を用いない(36枚にオールマイティの役目をする鬼札を加え37枚)、スーツの概念が無い、などの理由から「めくりカルタ」にとって代われてしまう。「めくりカルタ」の遊び方はまさしく現在の花札と同じシステムである。このシステムの発案者は定かではないが、「貝覆い」を下敷きにしているとはいえ大発明と言えるものであった。

 「天正カルタ」および「めくりカルタ」が御禁制品となり地下に潜行した後に花札がその代用品として登場したと思って誤りはないであろう。それは寛政の改革の後であろうから1800年代の初頭から中頃にかけてのことと思われる。「天正カルタ」1スーツ12枚を数字を使わずに表現したのが花札である。数字のかわりに12ヵ月を表す風物に置き換えたのだが、冬である11月と12月がむずかしい。冬であり花が少ないからである。

 「天正カルタ」には絵札が4種あり、1が「あざ」、10が「釈迦十」、11が「馬」、12が「きり」と呼ばれている。「あざ」は元来龍の絵でそれが誇張され龍の横腹だけが残り、それがあざのように見えたためそう呼ばれた。「釈迦十」は南蛮カルタでいうところの宣教師で、それが日本風になり後光がさし釈迦になぞらえられた。「馬」は騎馬兵士で現代のカードのジャックに対応する。「きり」はキングであったと考えられるが、最後の札なので「きり」と呼ばれたと伝えられている(これっきり、うちきり、などの「きり」である)。花札の12月の桐は「天正カルタ」の「きり」と同音ということからもってきたものであろう。また、桐は菊と並んで皇室の紋章であり神紋であるのでキングの札に相応しいのだが、これは偶然かもしれない。

 「天正カルタ」の花札への影響はスーツにも見られ、ハウは青、イスは赤で彩色されているが、これは花札の短冊として残ったと思われる。出来役にもそれは言えて、花札の赤短に相当する役の「赤蔵」という役があり、赤札(イス)の7・8・9を揃えるのである。赤札(イス)の2が海老のヒゲに似ていることから「海老二」と呼ばれ、その札でできる役を「海老蔵」といった。その上役あるいは類似役に相当するものに「団十郎」がある。もちろん、歌舞伎役者初代団十郎の息子が海老蔵と名乗ったからだが、「海老蔵」の赤2が青2に代わったものが「団十郎」である。そのバリエーションに「仲蔵」という出来役があり、それが花札の11月の柳に関係あるというのが筆者の推理である(参考までに説明しておくと、現在でも行われている「八」という花札ゲームの出来役に「仲蔵」というのがある。7月8月9月の上札でできる役で、まったく同じである)。

 「仲蔵」という出来役は花札の青短に相当するもので、青札の7・8・9を揃えるものである。先の「赤蔵」の例にならうなら「青蔵」になる訳だが、海老蔵・団十郎のように歌舞伎役者の名前となっている。初代市川団十郎は荒事形式の完成で人気をとり、1704年に没するが確かに「天正カルタ」の登場の変遷の時期に合致している。その当時の仲蔵といえば、初代中村仲蔵をおいて他に無い。仲蔵は1736年生まれで1790年に没してるので「めくりカルタ」の流行時期である明和年間(1764-1772)に合う。仲蔵は明和3年に仮名手本忠臣蔵の定九郎の役で大当たりをとった役者であるが、定九郎の解釈を変え現在に続く定九郎の人物像を形成した人でもある。

 定九郎は現在でも若手歌舞伎役者なら演じたい役柄の筆頭であり、また演じるにはそれなりの名跡が必要となる。

 定九郎は仮名手本忠臣蔵の五段日の雨の夜の山崎街道の場に登場する。出初は、おかるの父から金を奪う山賊にすぎなかったのを、仲蔵が新解釈を加え、重要な挿話の主人公に仕立てあげたといわれている。それにもエピソードがある。若く才能のある仲歳は人間関係の不器用さから端役の定九郎をやらされることになるが、それに腐らずアイデアを求め町へ出て人を観察しようとする。突然降りだした雨に蕎麦屋で雨宿りをしていると、雨に降られた浪人がそこに飛込んで来る。その浪人の風体に装束のヒントを得て、従来夜具縞の広袖に頭巾という山賊風から黒羽二重に博多帯という浪人風に定九郎の衣装を変えた。それは仲蔵の力量にもよるが、判官びいきとアウトロー好きの江戸っ子の支持を得て、仮名手本忠臣蔵に無くてはならない白塗りの役の登場となったのである。この役作りのエピソードが講談や落語になって語り継がれるほど人気があった。

 花札の11月は小野道風であるが、それは明治以降に登場した。その前は雨の中の浪人で、定九郎であると言われている。つまり、「めくりカルタ」の出来役名が札の意匠に残ったと考えられるのである。仮名手本忠臣蔵の山崎街道の場は6月29日ということになっているのであきらかな季節ハズシに他ならないが、「めくりカルタ」の痕跡を留めることに愉快さを求めたのではないだろうか。

 話を元に戻して「よみカルタ」はその後どうなったのであろうか?スーツの概念が不必要であるため、もっと簡略化され「キンコ札」を経て「カブ札」になってゆく。1から10までが各4枚合計40枚で、おいちょかぶ系の遊びに用いられた。また、各地方で作られ使われた特有の地方にも残っていて「九度山」(山陰地方)、「人の吉」(紀州地方)「目札」(四国地方)「大二」(九州地方)「黒札」(津軽地方)「黒馬」(静岡地方)「小松」(北陸地方)などがあって、いずれも「よみカルタ」の姿を留めているカルタである。また、「よみカルタ」に使われていただろうことは実像の鬼が描かれている鬼札が1枚含まれているものが多いことからも分かる。それらの遊びは今ではほとんど廃れかろうじてカブ系統のゲームだけが残るが、カブ札などは「手本引き」などの本格的賭博で生き残っている(実際に「手本引き」でカブ札が用いられることはなく1から6までの専用張札が用いられる)。

カテゴリートップへ