
過去と未来の境界面。
喘ぎ苦しむ自分が居る。
右腕にはめた腕時計が、午後二時十五分を告げた。待ち人はいまだ姿を現さない。JR池袋駅の構内は人通りが激しく、もしかしたら擦れ違ったのに気づいていないのかも知れなかった。少しだけ不安になり、電話をかけようとPDAを取り出すが、電話番号を聞いていないことを思い出し「ちっ」と舌打ちした。昔からそうだ、自分は要領が悪い。
出しかけたPDAをポケットに仕舞い、長身の青年――桑古木涼権は周囲を見渡した。だが目に入るのは見知らぬ人の頭。金や銀、茶色や緑。様々な色が氾濫し、無数に蠢いている。この中から一人の人間を見つけるのは極めて難しい。こんな状況に陥ってから、涼権は自分の準備の悪さを呪った。
「はあ……」
深いため息を一つ。だがそんなため息も、誰も気に留めてくれない。二十一世紀に入ってから人は冷たくなった、と思う。尤も、二十世紀を生きていたわけじゃないから判らないけど。
(場所が悪かったのかなぁ……)
ポケットのPDAを玩びながら、もう一度ぐるりと周囲を見渡した。週末とあって人は何時も以上に多い。もちろんこんなことは涼権でも予想は付いた。だからこそ有名どころを選んだのだったが、逆効果だったかもしれない。涼権は後ろを振り向き、シンボルに向かって言った。
「頼むぜ……オィ」
JR池袋駅で待ち合わせるといったら“いけふくろう”しかない。前世紀から立つこれは、渋谷の忠犬ハチ公ほどではないが有名な待ち合わせ場所だった、だが、致命的に場所が判りにくいという欠点を持つ。初めて来た人は、北口入り口に立つ天使の像をいけふくろうと思い込むのだ。だが実際は、構内に入ったすぐ目の前に立っている、小さなふくろうの像がそれだ。
造られてから長い時間が経ち、塗装は所々剥げ落ちて、全体的に丸みを帯びている。そろそろコイツも引退時だろう。などと勝手な想像を膨らませていた。だがその前に――
彼は周囲を窺うようにして辺りを見回し、駅員が居ないことを確かめると、ポン、と像の頭を叩いた。
「もっと有名になれよ」
目立たなな過ぎなんだよ、と愚痴を零した。何か装飾でもすれば目立つようになるのに。例えば、いきなり動き出すとか。
少しだけそんな想像を膨らませてみるが、
「ダメだな」
即行で却下された。
(にしても……)
苛立ちを隠すように涼権は腕を組んだ。約束の時間から四十分が過ぎようとしている。待つのは好きではない。特に、こういった人通りの激しい場所では。それが過去のトラウマだとか、ただ単に誰かに見られているというありえない被害妄想とか、そういう訳じゃないけど。
「遅い」
涼権は呟くように言った。
松永沙羅の姿は、まだ何処にもない。
"或る週末/去る終末"
「ごめんなさーい」
結局――。
「遅すぎ」
「……ぅ、でも、仕方ないですよ、見つからなかったんだから」
沙羅が“いけふくろう”にやってきたのは、時計がさらに二十分ほど進んだ、午後二時四十分のことだった。一時間も待たされた涼権は不機嫌で、口端が軽い痙攣を起こしていたが、表情は柔らかいままだった。尤も、そのほうが逆に沙羅に罪悪感を抱かせたのは言うまでもない。
「呼んできたくせに……」
涼権は気付かれないほどの小声で不満を垂らした。沙羅は必死に言い訳を述べているが、それはあまり練られているように思えなかった。
曰く、電車を一本乗り過ごした。
曰く、電車が逆走していた。
曰く、ハーゲンダッツが高いので値切っていた。
曰く……。エトセトラ、エトセトラ。
今時の子供でもそんな言い訳しないぞ、と思ったが口にしなかった。
「あーはいはい。判りましたよ。沙羅は、池袋初めてなんだよな?」
いい加減永遠に続くかと思われた沙羅の言い訳を遮ると、涼権は腰に手を沿え、先輩然とした態度で聞いた。沙羅はうんと頷いて、
「うん。あんまり、遠出しなかったから」
学校は都内にあるのにね、と笑顔で言った。
「ほー。俺は学校茨城だったけど、結構東京には出てたぞ……尤も、連れて行かれた、が正しいけど」
「あ、似非東京人」
「言うな」沙羅の軽口に、涼権は顔を顰めた。「茨城人だよ」
「へぇ」その答えに沙羅何故か笑顔を浮かべた。「茨城人、ね……」
「……ったく」
似非東京人疑惑の払拭を早々に諦めた涼権は、しばらく不満そうにしていたが、沙羅の笑っている姿を見るとそんな感情も薄らいできた。
不思議な子だ、と思う。どうしてこんなに笑っていられるのだろう。どうしてこんなに、平然としていられるのだろう。
刹那の間、目を閉じて呼吸を落ち着かせた。
少しだけ、昔のことを考えた。
涼権もライプリヒに軟禁させられていた過去を持つ。十七年間――今までの人生の約半分は軟禁生活だった。その後ライプリヒ生態力学研究所で働くようになってからは、監視の目は多少薄らいでいたが。
軟禁生活は苦痛の連続だった。全ての行動が監視され、束縛され、食事一つとっても、カロリーから食材、含有化学物質などを“調整”したものが出された。モルモットだ、と当時の涼権は愚痴を零していた。この扱いは、人間じゃない。彼の中の憎悪が肥大していき、BW召還計画のバネになったのは当然の帰結だった。ライプリヒによる軟禁生活は、ただひたすら――ココを救うことだけを願って耐え忍んでいた。
沙羅はどうなのだろう? 六歳から――或いは七歳――からライプリヒの研究施設に入らされ、実験の毎日。兄であるホクトの存在が支えであったとしても、耐えられる物なのだろうか?
自分は耐えた。だがそれは、自我が完全に根付いた状態――つまり見も心も成長していたからだ。外部の影響に左右される年代は過ぎていて、自分の中で自分を見つめることができるようになっていた。だから、耐えられた。
幼い少女。冷たい部屋。温かみを失った言葉。温もりのないベッド。様々な言葉が連想され、脳内にそのイメージを気付き上げていく。
実験。実験。試験。試験――そして、哀哭。そのときノイズのような何かが駆け抜け、視界を白濁させた。光の集束――スパーク。今度は一転、視界が数百の色で埋め尽くされる。
「……っ、ぎ……さん?」
「――え?」
不意に世界が温もりを取り戻した。
驚いたように顔をあげ、周囲を見回して、ようやく自分が想像の世界に居たことを知った。沙羅が不思議そうな表情で覗き込んでいる。何か聞きたいような、それでいてどこか遠慮しているような、そんな表情。
「なんでもないさ」頭を振って冷たい考えを追い払う。「なんでもない」
そう言って笑いかけ、沙羅の不安を払拭する。けれど、心のどこかに引っかかった「何か」は取れてくれなかった。
「いきなりボーっとしちゃうんだもん。ビックリした」
「考え事をしてたんだけどな」
「ま、いっか。それじゃあ行きましょう」
苦笑する涼権を置いて、沙羅は一人出口へ向かって歩き始めた。人波に姿が霞んでいく。
「あ……待てっての」
その小さな背中を、涼権は見失わないように追いかけた。
しばらく歩いていると、小洒落た喫茶店を見つけたので二人で入ることにした。微かに流れるクラシック音楽が店内を淡く満たし、人で溢れる都会の小さなオアシスを作り出していた。店員に案内され窓際の席に着くと、沙羅は早速メニューを見開いた。目の前に氷の入ったコップが置かれる。
「おいおい、食べに着たんじゃないんだから」
店員が一礼して店の奥へ消えていった。その姿を視界の端で捕らえながら、涼権は沙羅に言った。
「えー?」その言葉に、顔の倍もあるメニュー表の端から顔を覗かすと、沙羅は露骨に表情を歪ませて、「注文もしないでいるほうが、よっぽど変だよ」
「それはそうだが……」
「そうでしょー、そうでしょー?」
「だからって……」
いきなり開くこともないだろう、と言う言葉を氷水と一緒に飲み下した。ほぅ、と息を吐く。冷たい液体は食道と胃を満たし、脳に冷静さを振り分けてくれた。
しばらくの間、沙羅はメニュー表と格闘していたが、やがて「これにする」とデザートの項目からフルーツサンデーを指差した。涼権の視線が値段に行く。七百五十円は妥当な価格なのだろうか。しばらく逡巡したが、その程度なら問題ないので近くを通りかかった店員を捕まえて注文する。涼権はコーヒーを頼んだ。
注文を終えて沈黙が訪れようとしていたが、
「――で、今日はなんの用だ?」
その間を与えないように涼権が本題を切り出した。椅子に深く座りなおすとキィと軽く軋む音がした。
沙羅は俯くと、何か哀しいことがあったような表情で、膝の上では指を絡ませている。
「朝いきなり連絡よこしたんだ……何があったんだ?」すっと目を細める。沙羅の考えていること、或いは悩みを読み取るように。
「実は、ですね」
おずおず、といった感じで沙羅が言葉を紡ぐ。
「あのぉ、来週の土曜日なんですけど」
「ああ」
「えっと……パパの、誕生日なんですよ」
なんですと? 涼権の表情が険しくなる。沙羅の父――それは倉成武のことだろうが、誕生日がもうすぐだというのは初耳だった。だが表情が険しくなったのは、そんな理由だからではなかった。
沙羅の表情に真剣みが帯びてくる。
「それで……桑古木さんなら、パパの好きなもの知ってるんじゃないか……というわけで、連絡したんですよ」
しばらく涼権は固まったままだった。沙羅は真剣な表情のまま涼権の答えを待っている。
と、不意に前頭葉から痛みが漏れ始めた――そんなイメージが沸いた。その痛みは徐々に脳全体を侵蝕しながら、涼権の思考を奪い去っていく。ため息が漏れた。
「それで、俺に連絡を?」
痛みに耐えるように、涼権は一字一句確かめるように聞いた。沙羅がうんと頷く。
「ええ、きっと桑古木さんなら、詳しいと」
「何故?」涼権は問いかける。物事の真理に近づこうと。「俺以外も、たとえば月海とかいるんじゃないか?」
「それは……」そこで沙羅は、意味ありげに一拍置いた。「忍者としての勘でござる」
脳を襲っていた痛みはいつの間にか消えうせていた。当たり前だ、あれは幻想なんだから。代わりに額に鈍い痛みがある。こちらは現実の痛みだった。涼権は沙羅の答えを聞いた途端、全身から力が抜けて額をテーブルに強打していたのだった。
「痛い……」
呟きつつ顔を持ち上げ、沙羅の顔を確認する。今までの深刻そうな表情はどこかに消えうせ、今は歳相応で可愛い笑顔を振りまいている。
「それが理由?」
「そうですよー」
「それ以外には何もない?」
「何にもないでござるよ。忍者、嘘ツカナイ」
「なんで十七歳の沙羅がそのネタを知っているのかが疑問だが」涼権は薄く痛む額に手を置いて「まあ誕生日を祝ってやるのは娘として当然だな」
「それは桑古木さんだって」
これはネット上で見つけたんです、と沙羅は苦笑しながら言った。可愛いでしょ、付け加え、
「それはともかく、誕生日プレゼントですよ。プ・レ・ゼ・ン・トっ」
「ああ、そうだな」
丁度良くやって来た店員が、フルーツサンデーとコーヒーを置いていった。フルーツサンデーのボリュームは多く、その量に沙羅は目を輝かせていた。やはり女の子は甘い物が好きなんだなと、コーヒーに砂糖二杯は必須の甘党な涼権は思った。
「おいしーっ」
トップに乗ったクリームを食べて沙羅が言う。その嬉しそうな表情だけで、フルーツサンデーを頼んだ斐があったものだ。涼権も少し嬉しくなった。
「良かったな」
涼権は微笑いかけた。
「ニンニン」と沙羅は言った。
「――で、沙羅はどういうのを買ってあげたいんだ?」
サンデーを半分ほど食べ終えたところで涼権が言った。
「そうですね……高い物より、むしろ想い出に残る物がいいですね」
「やっぱり、手作りになるんじゃないか? そうなると」
「うー、私不器用なんですけど……」沙羅は口の周りについたクリームを舐めとり「やっぱそういうのでも嬉しい物なんですかね?」
「嬉しいだろぅ。愛娘の手作りなんだから」
土曜日の夜――夕飯が終わり、一家団らんのひと時。不意に沙羅が席を外す。続いて、ホクト、月海。困惑する武に、笑い声を垂れ流すテレビ。最初に戻ってくるのは月海。そして沙羅、最後にホクト。全員が武の周りに立つ。そして――手作りのプレゼントを手渡す。困惑と歓喜の入り混じった武の表情。そんな微笑ましい光景が簡単に思い浮かべることができる。
「うーん」しばらく考えるように天井を仰ぎ「そうですね。そうします」と沙羅は言った。
そして、
「ところで、桑古木さん」
「なんだ?」
「パパは、どんなのが好きなんですか? 特定の物じゃなくても、傾向とか、属性とか」
属性ってなんだよ、と思ったが口にしない。
その問いに涼権は困ってしまった。武の好みなんて、全く知らなかった。何と言っても知り合ったのが五月一日。そして約一週間の付き合いだが、好みの話なんて一度も交わしていなかった。だが沙羅が自分を頼ってきてくれている以上、その気持ちを裏切ることはできない。
「そうだなぁ」
事件の出来事を回想する。なるべく思い出さないようにしていたが、今はそんなことを言っていられない。
何か言っていなかったか、何か言っていなかったか。何度も自問する。
だが思い出すのは辛い想い出ばかりだ。無論楽しい想い出もあったが、それは数少ない。徐々に、深海の海水のように冷たい物が心を満たしていく。その感覚が、涼権には知覚できた。
息苦しさを覚え、涼権は回想を中断させた。急いでコーヒーを飲み込み、冷たさを吹き払おうとしたが無理だった。心臓が冷たい血液を送り続け、全身が震える。もう十七年/一週間前の出来事だというのに――その感覚は酷くリアルだ。
「どうしたの?」沙羅の声が聞こえる。あの時――LeMUで聞いたときのような元気な声ではなかった。「顔色悪いけど……」
困惑する沙羅の表情は見ないでも判った。当たり前だ、突然目の前で人が苦しみ始めれば、誰だって困惑する。
「大丈夫だ」と涼権は言い「しばらくすれば落ち着くから」
背もたれに身体を預ける。大きく息を吸い、そして吐き出す。精神を落ち着けるための儀式は、いつも不意に必要になる。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。もうここはあの深海じゃない。
そうしてどれほど時間が経っただろう。沙羅の目の前にあるサンデーはちっとも減っていなかった。ポケットからPDAを取り出して時間を確認すると、五分ほど経っていた。その間ずっと、沙羅は待っていたのだろうか?
――待っていた。その言葉が。脳に擦り傷みたいな疼痛を描いていく。或いはそれは、何かの前触れだったのだろうか。
不意に沙羅を視線が合う。一瞬驚いたように瞳を広げると、今度は安心したように微笑んだ。
「もう大丈夫?」
「ああ、おかげさまで……」
涼権は冷え切ったコーヒーを飲み干した。少しだけ土の味がしたが、表情は変えなかった。
それからプツリと話題が途切れてしまった。沙羅はあんなことがあったばかりなのか、俯いたままだ。涼権は何を言っていいか判らず、外の世界に救いを求めていた。だが外の世界はあくまで外の世界だ。何の解決にもなってくれない。
(やっぱ男がリードするもんだよな……)
うんと涼権は頷き、コーヒーのお替りを頼むと、一口飲んで自分を勇気付けた。
「なあ、沙羅」
「………」
「俺を頼ってくれたのは嬉しいけど、プレゼントって言うのは自分で決めたほうがいいぞ……それが特に、武に対する物ならな。それが、気持ちの篭った贈り物なんじゃないか。自分が一生懸命選んで、悩んで、そして決めた物は――他のなりよりも勝ると、俺は思う」
沙羅は俯いたままだった。だが、話は確り聞いていると涼権は思った。
「プレゼントっていうのは不思議なもんで、ああ、これは手を抜いてるな、とか、これは一生懸命作ったな、とか判るもんなんだよ。貰ってみるとさ。娘として……父親にプレゼントを贈るんだ。俺が子供持ったら、手作りのプレゼントは嬉しいと思うぞ。それが一番、武の想い出に残ると思う」
違うか? と涼権は聞いた。
やや間があって、
「うん」と沙羅は言った。「やっぱり、私が決めたほうがいいよね」
そして、ようやく沙羅は笑顔を作った。まだまだ硬い笑顔だったが、涼権にはそれで十分だった。
ふと、涼権は違和感を感じた。まるで青の中の蒼を観たような、そんな微細な違和感だった。硬い沙羅の笑顔の奥に何かが隠れている。直感がそう告げていた。だが、何が隠れているのかは判らない。それに、それは自分が知る領域ではない。涼権は頭をふってその違和感を追い払った。
「ところで……」
「ん?」
涼権は答えながらコーヒーを飲み下した。
「第三視点、ですか? それって、今一良く判らないんですよね。なんなんです?」
第三視点――ブリックヴィンケル。それに関しては、涼権も断片的な情報しか知らない。知っているのは優――田中優美清春香奈とココくらいだ。
「ブリックヴィンケルのことか?」
「うん。その……ブリンクですか?」
「ジュースじゃない。ブリックヴィンケルだ」
「はあ。で、それはいつもは何してるんです? まさか、覗き?」
いや、と涼権は首を振った。
「詳しいことは知らんが――次元の裂け目の間に住む、時間と空間を超越した者。門にして鍵であると言われている」そう言って、涼権はコーヒーをぐいと飲み干した。「こっちから呼び出さない限り、奴は干渉してこないらしい」
基本的にはな、と、付け加え、
「まあ……時々、不意急襲的に現れるらしいが。現れる期間は限られているらしい」
それが二〇一七年だったわけだ、と涼権は言った。
「詳しいですねぇ」
「そんなことないさ。優からの受け売りだ……詳しく知りたかったら論文を読んでくれ」
沙羅は苦笑する。
「それは厳しそう」
「厳しいどころじゃないな」無理やり読まされた第三視点に関する論文の記述が、頭の中に甦ってくる。複雑怪奇。専門用語の呪文と化した文章は、思い出しただけで頭痛を引き起こす。「俺には無理だ」
頭痛を追い払おうとカップを傾けるが、既にコーヒーは切れていた。お替りを頼もうにも、近くに店員は居ないので諦めるしかない。
はあ、とため息が漏れた。
「なんで突然そんな事を?」
「えっ……別に、全然意味なんか……」
何気ない質問だったが、沙羅には聞かれたくない質問だったらしい。
(なんだ?)
涼権は首を傾けた。沈黙を嫌うために出した、と言われれば違和感はない。だが――
ブリックヴィンケル。おそらくこれが関連しているのだろう。涼権は数少ない知識から、ブリックヴィンケルと沙羅の共通点を見出そうとした。
まず、奴――とここでは言う――は二〇一七年に降臨した。そして倉成武と桑古木涼権の視点から世界を視ていた。
しかしこのあたりは関係ないだろう。では、“今回”か。“今回”ブリックヴィンケルに視点を貸し与えたのは、ホクトだ。
――その時、突然ノイズの意味を悟った。
俯いている沙羅を見つめる。心臓が強く鼓動を打っているのは、自分の辿り着いた考えに起因しているのか、涼権にも判らなかった。
「ホクトがなんかあったのか?」
沙羅の身体が揺れた。間違いない。考えの確証は無かったが、これしかないと思った。
「………」
沈黙が二人に覆い被さった。
涼権も、沙羅も、何も言わない。動かない。冷えた冷房の空気が、まるで冷たい海水のような妄想が浮かんだ。
この話は禁句だったか……涼権は今更ながら後悔した。誰にだって触れられたくない場所がある。恐らく――いや、絶対に、俺は沙羅の触れられたくない部分を触ってしまったのだ。酷く胸が痛んだ。肉が抉るほど掻き毟りたい衝動を、何とか抑えた。自分の要領の悪さに、嫌悪感さえ抱いた。
何で言ってしまったんだろう。その果てに何か在るか知らない無知がために犯してしまった罪。
謝らなければいけない。いま、すぐに――
「お兄ちゃんがね……」だが沈黙を破ったのは沙羅の方だった。微かに声が震えているのは、きっと哀しいことだからだろう。「今日、なっきゅ先輩とデートだって、張り切ってて」
「………」
「なんか、わかんなくなっちゃって……」
そこまで言うと、沙羅は頭を振った。遠心力で髪が揺れる。
「それで、気付いたら連絡入れてて……でも、やっぱいきなりだったから、土壇場で怖気づいちゃって……遅れたのは、その性」
涼権は何も言わなかった。言えなかった。ただ苦しげな表情のまま沙羅を見つめていた。
「ごめんなさい」
それっきり沙羅は黙りこくってしまった。
俺は何が言えるだろう? 涼権は自問した。何が言える? 何を言うべきか? 数百もの疑問が浮かんでは消えていった。だがそのどれもが、正しくないように思え、内心で毒気付いた。
視線を落す。手元を彷徨う視線。空から降り注ぐ陽光が手元に影を作っていた。――不意にその影が揺れる。涼権は顔を上げた。
「ごめんなさい」
殆ど消え入りそうな声で沙羅は言うと、立ち上がって領収書を手に取った。
「今日は――」
「待て」
「――なん、で……?」
涼権は立ち上がって領収書を取り上げた。客の視線が二人に集中するが、気にならなかった。涼権の頭の中は沙羅で一杯になっていた。自分の一言で傷付き、それでいて自分で何とかしようとする一人の少女が。自分ひとりでは何もできないことを知りながら、それでも他人に助けを求めないその姿が、とても哀しく思えた。そういう人間に見られていないという事実が、とても悔しかった。
「馬鹿。金なら俺のほうが持ってる」
「でもっ!」
「でもじゃない。――なんでもない。こういう場合、男が払うもんだ」
憮然とした態度で涼権は言う。その瞬間、沙羅の中で何かが切れた。
黙り、俯き、
「うん」
と答えた。
涼権は黙ったまま会計を済ませると、一瞬の躊躇いも無く店を出た。そのあとすぐを沙羅が続く。
カラン、と甲高い音を響かせ、世界は一変した。
「なあ沙羅……」
店を出てしばらく歩いていた。池袋の街は人が多く、休まる場所は少ない。
二人とも表情は沈んでいたが、涼権はある覚悟を決めていた。
「……ん」
「哀しいのか? ホクトが秋香奈とデートするのは」
沙羅の表情が強張る。いつもならここで謝っていた、だが、涼権はそれでも続けた。
「でも嫌われたわけじゃないだろ。かつて交わした約束も、いつか色褪せてしまう。……永遠はないんだよ。常に“今”という刹那の連続。不確定未来を誰が識ることができる? だから――」
「もういいの」涼権の言葉を最後まで聞かないで、沙羅は少し沈んだ、だが何かが吹っ切れたような声で言った。「なんだかスッキリしちゃった」
待ち望む兄の姿に恋をしていた、それは決して不思議なことではない。軟禁生活という過酷な状況下で、自分を護るための当然の行動なのだ。鏡像段階で鏡となる相手――ホクトを失った沙羅は、想い出の中のホクトを鏡として成長していった。そのため沙羅の中で他人とはホクトであり、最も信頼できる相手だった。だから、当然のように恋をした。信頼が恋に変換されるまで時間は必要とされなかった。そしてごく当たり前のように、ホクトも自分に恋をしているのだと思っていた。
そうでないと気付いたのは、いつだったか――?
「本当に」涼権は聞いた。「本当にそう思っているのか?」
その言葉が、不思議と沙羅の心の中に染み渡っていく。
自問自答――そんな無意味な自慰行為を繰り返して、結局答えは見つからなかった。見つからなかったのではなく、最初から無かったのだ。そんなことに、今更ながら気付いた。そんなことを、気付かせてくれた。正面から向かい合えるようにしてくれた。だから――
「うん、本当だよ」
沙羅は少しだけ泣いた。
「それじゃ、私、パパの誕生日プレゼント買ってくる」
泣き止んだ沙羅の顔は晴れ晴れとしていた。微かに後悔が滲むものの、陽光の元で照らされる笑顔は何時も以上に魅力的だった。
「おう」
涼権は手を上げて答える。どうやらもう心配は無いらしい。
寂寥感と愛しさと、少しの解放感。
頭を振ってそれらを追い出した。
「それじゃ、さらばでござる」
ぺこりと一礼すると、沙羅は人込みの中に駆けて行った。その足取りは軽く、今にも飛んでいきそうなほどだった。
「全く、世話の焼ける……」
眩しそうに沙羅の背中を追い、涼権は逆方向に歩き出した。
と、何か大事なことを忘れていることに気付き、眉間にしわを寄せる。立ち止まって脳の中で散乱した思考をかき集め、整理していくが、朧気に外郭が作られるだけでそれがなんなのか判断がつかない。
――ここまでやっておいて、それで終わりか?
そんな言葉が聞こえた。
――そしてまた、後悔するのか?
しるかっ! と口の中で叫んだ。そんなのは関係ない。……けれど、本当にそうなのだろうか?
「ったく!」
一瞬の躊躇いの後、身体の向きを百八十度回転させ、沙羅の背中を追った。
いつしか声消え去り、初夏の風が背中を追い越していく。人の波を掻き分け、突き進み、視界の端で歩いていた沙羅を見つけて声を掛ける。
「おーい、ちょっと待ったーっ」
突然呼び止められた沙羅は怪訝そうな、それでいて少し驚いたような顔で涼権の顔に振り返った。
「どうしたの? やっぱ、サンデーの料金……」
「馬鹿、違うよ」
涼権は頭を振り、沙羅の元へ駆け寄った。すぐ傍に沙羅の顔がある。
「俺も買っていく」
「え、なにを?」
「だから――」
あの時感じたノイズと、今ここにある笑顔。そのどちらもが、とても大切に思えた。
「買い物に付き合え」
「えーっ!?」と沙羅の悲鳴が木霊した。
「えー、じゃない。サンデー奢ってやったじゃないか?」
「桑古木さん、プレゼントは自分で選ぶべきだって言ったじゃないですか?」
沙羅は相当嫌なのか、涼権の矛盾点を的確に突いてくる。が、その表情はいままでで一番明るく、そして楽しそうな雰囲気に満ちていた。
「あれはあれ、これはこれ」
「ひどっ!」
「うるさい、うるさい」
これ以上は自分に不利だと感じたのか、涼権は話を無理やり断ち切ると沙羅の腕を掴んだ。ぐいっと自分のほうに寄せる。
虚を突かれた沙羅は体勢を崩し、涼権の胸に飛び込んてしまう。
「行くぞ」腕を掴んだまま涼権は言った。「善は急げ、だ」
「ええ〜っ!? ちょっと待ってくださいよっ!」
と答えながら、沙羅は涼権の手を握り返していた。
おわり。
あとがき
まあこんなもんなんじゃないでしょうか、と。初SSにしては及第点を突破している思います。
涼権×沙羅は余りにマイナーで、勢力も弱いですが何とか応援したいですね。だって彼、エロネタ以外で活躍できそうにないし(ぉ
今回は雰囲気四割くらいです。こんくらいが丁度いいような気もしますが、次はもっと増やしてみようかと。予定では沙羅と優秋。もしだめなら月海あたりを攻めようかと。あくまで予定ですがね。
10/21:誤字脱字修正