随筆『鴨の浮寝』

 

鴨が水に浮きながら寝ること。転じておちおちしていられないことにいう。-広辞苑より

 

 

about me

鴨沢祐仁。1952年岩手県北上市に生まれる。マンガ家、イラストレーター。

趣味は、フリークライミング、アイスクライミング。座右の銘は「棚から牡丹餅」。


about this diary

日々折々に感じた随筆です。

 

 

2006/5/25  1013

●自作解題 Vol.4                                        ●

自作解題 鴨葱堂のカモフラージュ・ノートー4−
『お父さんのクリスマスツリー』●「ガロ」1976年十二月号

 この物語は勿論フィクションだが、とりわけ父との思い出をネタにして描いた。
 父は、若い頃に銀座で修行して郷里でテーラーを開業した。銀座時代に身に付けたのだろう、おしゃれでハイカラ好きだった。昭和30年代の田舎町では浮いていたと言った方がいいかも知れない。いつもベレー帽を被り、カフェやキャバレー通い。学歴は無かったが、本好きで、絵は玄人はだし。大の犬好き(それも洋犬ばかり)。家は襖と障子で仕切られた典型的な日本家屋なのに、茶の間の一角にホーム・バーを作り、自分だけ特注で誂えたベッドで寝ていた(家族は畳に布団)。安普請で増築した仕事場では一日中ラジオが鳴っていた。
 父が仕事で盛岡に出掛ける度、必ず買ってくる土産は最大の楽しみだった。今でもその幾つかは座右に有るが、フィンガーチョコの入った木の樽だとか、陶器で出来たインディアンのトーテンポール型物入れだとかゲテモノばかり。でも当の所有者である自分が・#20107;な物入れ・#12375;て未だ愛用しているのだから、父は子供のぼくの好みを熟知していたのだろう。そんな父の口癖は、奇抜なアイデアやバカバカしい工夫が浮かんだ時に発する「漫画家は考えました!」だった。
 件のクリスマス・ツリーもその語を連発した果てに出来た。父にしてみれば、昨今の分解出来る樅の木と同様、毎年使える画期的発明だったに違いない。しかし実際のそれは、回転もしなければ、モールの巻き方も美しくなく、やたらがんじがらめに巻き付けた感じで、見苦しく無様なツリーだった(ぼくのゲテモノ趣味に合わせてくれたのかな?)。が、ぼくとしては大喜びだった。
 とまれ、こうしてホーム・バーのある六畳の和室の掘炬燵の上に据えられた奇妙なクリスマス・ツリーを囲んで、我が家でもささやかなイブの夜が営まれたのだった。
 こんなわけで、ぼくは幸福な子供時代を過ごさせて貰った。子供の頃の父に唯一つ不満が残るとすれば、それは余りに早くに「サンタクロースはお父さんだ」と知らしめられた事だろう。

1998
年発行CD-ROM「キネマトコミックス」ブックレットより抜粋

 

 

2006/5/24  1444

●自作解題 Vol.3                                        ●

自作解題 鴨葱堂のカモフラージュ・ノートー3−
『ムーンライト・シネマ』●「ガロ」1975年十月号

 今回は外したが、元版の扉には、タイトルの下に「6ラ6FILM」と入れ、正方形の枠の中に、三日月を背に肩に二眼レフカメラを提げた紳士を鏡像のように配した寓意図を描いている。その意味する処は、父が弄っていた二眼レフカメラとそのブローニー判6ラ6センチフィルムに由来する。
 父の撮影した、自分の赤ん坊の時から小学生頃までのそのサイズのモノクロ写真を見ていると、あの二眼レフカメラの不思議を思い出す。
 今のカメラの明るい正像のファインダーに対象への違和感は無いが、上から覗く二眼レフのそれは違っていた。磨硝子にぼんやり浮かぶ倒像は、目の前の対象が蜃気楼のように思え、まるで別世界を覗き見している感じがした。
 「ムーンライト・シネマ」は、そんなカメラで捕えたスナップを並べて、活動写真(初期サイレント・ムービー)のようなドタバタを作りたかった。モチーフは、やはり幼少からの一種の模型癖(高い所から見下ろす町がおもちゃのように見えると、むやみに喜ぶというような)に拠る処が大きい。
 幼稚園の劇で、舞台に月が昇るシーンがあった。銀紙の星をちりばめたビロード張りの夜空に、紐で吊ったボール紙製の薄っぺらなお月様を皆で引っぱって昇らせるのだが、子供心にも「なんてちゃちな仕掛けだろう」と思った。しかし同時に、いたくリアルにそのイメージが・#12501;ェヴァリット・#12395;なってしまったのだ。
 宇宙を玩具に見立てる気分? 実際、夜空を見上げても、宙はプラネタリウムのような天蓋であり、月は球体と分かっていても、やはり円盤にしか見えない。そんなことが「月にぶつかった子の話」を作らせた。
 現在の合理的なカメラに「別世界」を覗かせるもう一つのレンズは要らない。しかし、最先端の宇宙論が高度な宇宙模型を構築するのに似て、本質的なものというのは「無駄なもの」「チープなもの」の裡に在るように思えてならない。

1998
年発行CD-ROM「キネマトコミックス」ブックレットより抜粋

 

 

2006/5/23  1247

●自作解題 Vol.2                                        ●

自作解題 鴨葱堂のカモフラージュ・ノートー2−
『キチンポット氏の土星旅行』●「ガロ」1976年五月号

 同じく4コマものだが、「クシー君の発明」にあった表現上の鈴木翁二の影響や、ある種の文学臭を極力排し、より機械的おもちゃ的世界を構築したかった。「Kitchen-pot」というネーミングは文字通り「台所のやかん」で単なる語呂合わせ以上の意味は無い。ただカタカナ表記の時「ッ」が重なるのでキチンとした。特にモデルは無いが、自分のことを「自分」と称し、生真面目で固い、そこが却ってギクシャクしたおもちゃっぽい紳士像を作りたかった。当然1950年代の間でのお父さん達の典型的な外出着である背広にソフト帽というスタイルにした。この辺は父の職業上、家に豊富に有った紳士服のスタイルブックやポスターを見て育った影響が強いかも知れない。
 オートバイで土星にジャンプする話はタルホからの剽窃だが、土星に関しては特別な思い出がある。
 町外れの高台にあった幼稚園の隣に奇妙な天文台が建っていた。それは、平等院鳳凰堂のような純和風寝殿造の堂々としたシンメトリー構成の正面左端に銀色に光るドームを載せたコンクリート三階建て純白の塔がドッキングした実にエキセントリックな建物だった。小学生になって天文に興味を持ち何度かそこを見学した。そして、当時東北最大と自慢していた65cm屈折赤道儀で覗かせてもらったのが土星だった。
 それは想像していた。太陽、木星に次ぐ大きさを誇るカッコイイ土星とは大違いで、驚くほどの小ささだった。しかし確かにミニチュアのリングも付いていて、ぼーっと儚げに光るチャーミングな姿はまるで模型だった。後に土星が自分の星座・山羊座の守護星であることも知り、ぼくはすっかり土星ファンになったのだ。この天文台での体験は、他のマンガや様々な創作シーンでのヒントにもなっている。
 今回、全面的に着色を施し、線画部分でも随所に手を加えた。

1998
年発行CD-ROM「キネマトコミックス」ブックレットより抜粋

 

 

2006/5/22  1413

●自作解題 Vol.1                                        ●

自作解題 鴨葱堂のカモフラージュ・ノートー1−
『クシー君の発明』●「ガロ」1975年4月号

 完成形でのマンガ処女作。
 身のよんどころのなさゆえに上京。ふらふらしていたぼくが何かしなくてはと考えた時、浮かんだのがマンガだった。
 当時、稲垣足穂の「一千一秒物語」にイカレていたぼくは、最初「一千一齣物語」というマンガを考えたが、それは単純計算でも百頁は優に越え、しかも1コマずつ独立した作品として完結していなければならず、コンセプト上一千一コマ揃わなければ成立しないというものだったから、頭脳的にも物理的にも敢え無く挫折。そこでトラディショナルな4コマという俳句のような定形ジャンルに目を着けた。取り敢えず4コマで完結していれば作品として成立し、あとは出来高次第で何篇でもアンソロジーを組むことが出来るからだ。それまで4コママンガのジャンルではギャグかペーソスや風刺に少し哲学が入ったものが主流だったが、そのどちらにも属さないものを目指した。つまり、無意味なもの、ノンセンスなもの、タルホ的なるもの、という意味において。
 作品は月刊漫画雑誌「ガロ」の発行元である青林堂に持ち込んだ。他にこのようなマンガを採用してくれそうな雑誌は無かったからだ。当時の名物社長・長井勝一氏自らその場で眼を通してくれた。そして有名なしわがれ声でこう言った。「面白い。採用します。」と。やがて、青林堂から次回作も頼まれた。投稿作にギャラが出ないのは承知していたが、正式な依頼原稿もタダだった。しかしその後も「ガロ」には10回マンガを描き、表紙イラストも一年以上描いた。苦難の道の始まりである。「クシー君の発明は、ぼくにとって正に・#36939;命の一作・#12392;謂えるかも・#12290;フハッ!(水木しげる風に)
 尚、今回のために、「訪問者」のラスト・カットを描き改めた他、各タイトルに発明的(?)オブジェを描き加えた。

1998
年発行CD-ROM「キネマトコミックス」ブックレットより抜粋

 

2005/8/17  1257

●『一千一秒物語』と『クシー君の発明』                          ●  

 通った幼稚園の隣にアナナイ教(?)という宗教団体の奇妙な天文台があった。見学に行くと先ず玄関の壁面いっぱいに作られた太陽系の模型に歓迎された。駅の案内板のようにボタンを押すとボールで出来た太陽や火星が点灯する仕組みだった。子供心にもなんてちゃちな仕掛けだろうと思った。それから、ビーチパラソル程の玩具のようなプラネタリウムを見せられた。最後に、当時東北一と自慢していた65センチ屈折赤道儀で土星を覗かせてもらった。それは想像していた、太陽、木星に次ぐ大きさを誇るカッコイイ土星とは大違いで、手の平に載る程の小ささだった。しかし確かにミニチュアのリングも付いていて、ぼーっと儚げに光るチャーミングな姿はまるで模型だった。
 その時のイメージがフェヴァリットになり、一種の模型癖(宇宙を模型に見立てるというか、高い所から見下ろす町がおもちゃのように見えると、むやみに喜ぶというような)が自分に植え付けられたと思う。
 稲垣足穂を知るのは19歳だった。『一千一秒物語』に忽ち感電した。詩とも散文ともつかない荒唐無稽のハチャメチャな文学があったのかと驚いた。絵を志していた自分も、このような世界を描いてみたいと思った。
 最初、『一戦一齣物語』というパラパラマンガを思いついた。しかし、方法論的にも物理的にも敢え無く頓挫。そこでトラディショナルな四コママンガに目を着けた。それまでの四コママンガのジャンルでは、ギャグかペーソスや風刺に少し哲学が入ったものが主流だったが、そのどれらにも属さないものを目指した。つまり、無意味なもの、ナンセンスなもの、タルホ的なるもの、という意味において。
 1975年『クシー君の発明』、1976年『キチンポット氏の土星旅行』という二編の四コママンガのアンソロジーを描いた。稲垣足穂の永遠性、少年性、宇宙的郷愁、物質の将来といったテーマに遥か及びもしないが。
 あれから二十年以上経って、思いがけずこの二作品のヴァリアント描く機会を得た。98年『キネマトコミックス』としてCD-ROM化されたのだ。マンガにはコマ割りという文法があり、基本的にページをめくって読み進むものだから、デジタルでは読むスピードやタイミングの再現が難しい。アニメーションとも違う。幸い四コママンガという「起承転結」の特徴を生かして、何とかデジタル化に成功したと自負している。言葉で映像の説明は難しいが、『クシー君の発明』の方は・#12486;キストあぶり出し方式・#12434;採用し、『キチンポット氏の土星旅行』には・#12461;ャラクターはめ込み方式・#12434;応用した。その結果、紙のマンガ以上にちゃちで駄玩具的な作品になったと思う。
 いつの日か、どのような方法かは解らないが、自分なりの『一千一齣物語』を描いてみたいと思っている。

「美術の窓」2001年4月号掲載

 

 

2005/7/21  808

●ズパングルについて                                     ●

 

 窓、鏡、グラス、電球、銀輪、宝石、水滴から大気まで。作品には光を透過、屈折、反射することによって光そのものの存在を際立たせる装置が多数描かれていて、それらによって光のとりわけ物質としての性質、正に光の「粒」としての硬質な存在を感じさせられる。同時に光の粒を伝わる音というものが在るかどうか分からないが、そうとしか考えられない音をもはっきりと聴き取れる。宇宙を旅して届く音楽。天上のピアニッシモが。
 この作品は紙に印刷されていますが、実は一齣一齣が少年たちの結晶世界(ミクロコスモス)を顕微鏡で覗くための薄い薄いプレパラートで出来ていて、ピンセットで抓んで爪で弾けばキンと音がするはずです。

鳩山郁子「スパングル」(青林工藝舎)帯文

 

2005/7/17  1536

●酒と犬の日々その6                                    ●

 

今年(2004年)の9月2日に、ぼくはペロの五周回忌を迎えた。今だに、ぼくの手の中で息を引き取った瞬間のペロの感触を憶えている。想い出すと胸の奥がキーンと冷たくなる。
 しかし同時に、5年という歳月は、ペロと過ごした筈の様々な思い出やディティールに、何か薄い膜を掛けたようで、はっきりしないのだ。まどろっこしいのだ。ぼくは偶に近所の犬の頭を撫でたり、手を擦ったりする。すると初めてリアルに想い出すのだ。ペロはこうだったなあと。あと、夢に出て来た時。夢にペロが出てくると、何だか切な嬉しいのだ。
 今は、ペロを亡くしたのが悲しいんじゃない。ペロを忘れてゆく自分が、何だか堪らなく悲しいのだ。ペロの不在がぼくを苦しめる。
 今年、そしてぼくは未だ一滴も酒を飲んでいない。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)

 

 

2005/7/17  1532

●酒と犬の日々その5                                   ●

手術後、ペロは全く問題無いように見えた。食欲も有り、運動も活発だった。手術の後遺症など微塵も感じられなかった。一年もの歳月が経ち、二年が経過し、ぼくの頭の片隅に在った「癌」という懸念も殆ど払拭されていた。しかし、そいつは確実にペロの身体を蝕んでいたのだ。
 三年目の秋、ペロの腹部に再度しこりを発見。10月2日、ペロ診察。新たに七箇所にも転移しているのが判明。特に腋の下のリンパ腺付近が気掛かり。ペロの年齢的なこともあり、手術に耐え得るか肝機能と腎機能検査のため血液採取。翌3日、検査結果出る。やや貧血傾向にあるものの、他の数値は概ね許容範囲。手術に決める。執刀日は8日。この日から抗生物質を飲ませる。8日、予定通り手術。亡き父、山の神、仏、あらゆる神仏に無事を祈る。夕方、病院に電話。未だ麻酔から覚めてないが手術自体はうまくいった様子。18日、退院。事前に確認されていた8個の腫瘍は全て摘出。極小さなものが2個取れなかった由。生体検査の結果は、やはり乳腺癌。ペロは少し痩せたが予想していた以上に元気そうだった。26日、抜糸。ペロ、食欲も旺盛でしっかりと散歩する。順調に思えた。しかし、1216日、診察のため病院を訪ねると、手術後にもしこり。腫瘍であることが判明。他に早くも10箇所位転移していると言われる。ショック。 1999年1月30日、動物病院。前回の手術の記憶が新しいのか、ペロは何時もより怯えている。腫瘍はもう外見からもはっきり見える位大きい。腋の下とお腹のはゴルフボール大。腋の下のは割れて石榴の様。3度目の手術を決める。最後の手術だ。先生に、延命のためにではなく、残りの生を少しでも快適にしてあげるための手術だと言われる。覚悟の上だ。その日から抗生物質服用させ、2月8日、手術。27日退院。痩せたが元気(11㎏、元々は13㎏)。
 それからペロは驚くべき恢復力を見せ、進んで散歩したがった。ペロの散歩道は概ね3本在って、それぞれ畑コース、園芸場コース、ゴルフ場コースと名前を付けていた。どのコースを行くかは、その時々、ペロが決めていた。しかし、その足取りは、腋の下のリンパ腫を大きくえぐり取った所為で、跛を引いての痛々しい姿だった。近所の顔見知りには「ペロちゃんえらいわねえ」と同情も買った。それでも3月4月は何とか頑張ったが、5月半ばから、各コース共、途中で引き返すようになった。我が家は山のてっぺんに在り、どのコースも下り坂になり、それがペロの脚には負担なのだ。ペロは特別躾けた訳でも無いのに、家の中は疎か、庭でさえ、決してトイレはしなかった。ほって置けば、一日でも二日でも我慢しているのだった。だから、最低一日一回でも外に出してやらなくてはいけなかった(元気な頃は最低3回、多い時だと5回も6回も散歩した)。6月から、散歩は裏の畑に放してやるだけにした。そして、週に一回の診察も動物病院の車で送り迎えして貰う様になる。6月末、ペロ一時入院。腋の下の手術跡が化膿。毎日一回、化膿箇所をイソジンで消毒。それが7月からの日課になる。ペロはこの消毒作業に悲鳴も上げずに、じっと耐えた。暑さ対策の為、クーラーも一日中つけっぱなし。
 そうしてもペロは、日を追う毎に弱っていった。何時も寝ているソファーにさえ上ることが出来なくなった。ぼくは、床に座布団を2枚並べ、その上にペロを横たえた。枕元にはいつでも飲めるよう水のボールを用意して。最早、裏の畑さえ壗ならなかった。抱っこして家の前の地面にそっと降ろした。立っているのさえ辛そうだった。それでもペロは自力で排便した。食物も段々口にしなくなった。毎日スーパーでこれなら食べるかも知れないというのを買い物した。たとえ一口でも食べてくれれば嬉しかった。希望になった。8月からは、車の送迎さえ心臓の負担になると言って、動物病院から週に一度、ドクターが往診してくれた。そんな状況の中で、ぼくは9月2日を迎えたのだった。三度もの手術に耐え、13歳8ヶ月という寿命は、癌という病気を考えるなら、長生きした方だと思う。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)

 

 

2005/7/17  1527

●酒と犬の日々 その4                                    ●

 

ペロが我が家に来たのは86年。ゲージでもバスケットでも無く、手提げの紙袋に入って電車でやって来た。紙袋の底で丸くなって昏々と眠る小さな小さな毛玉にこんなにも夢中になるとは思いもよらなかった。
 ペロ、は尖った口吻、立耳、差尾、といった特徴を備えた日本犬。チャームポイントは(顔は当たり前なので省くと)三つ。手、耳、しっぽだ。お手をする手。塀から顔を出す時、前に垂れる手。骨を器用に挟む手。飛びついて戯れる手。ピンと立て、正確に音源に方向を定める耳。撫でられて嬉しいと、震えるように後になびく耳。遊び相手に対峙して、左右に開く耳。叱られて、塞ぐように垂れる耳。得意そうに立てて、歩みと一緒に穂先だけゆらゆら揺れる絶好調時のしっぽ。嬉しくて千切れんばかりに振るしっぽ。怖くてぺったりお尻に貼り付くしっぽ。威嚇の時に重々しく振れるしっぽ。犬は勿論言葉を話さないが、その仕草や態度から、何となく気持ちや考えていることが分かる。また、犬の方が賢いというか、遥かにこちらを理解しているように思える。実家では延べ9匹の犬を飼っていたが、ペロほど細やかな感情を示し、優しい性格の犬を他に知らない。ペロはぼくにとって理想のワンちゃんだった。
 ともかく家にペロが来て、忽ちその魅力の虜となり、ぼくの生活はペロ中心に一変した。「犬のお嫁さん」と揶揄されるほどに、ペロべったりの犬馬鹿生活・#12290;その間、お注射失神絆深まる、置物になったペロ、晩酌のお相手、サッカー乱入事件、雪中ねずみ捕り、恒例青大将居座り、お供え餅窃盗事件、奇蹟の帰還、奇蹟の帰還2、救急車パニック鮭大喰い事件、恐怖の祭の太鼓とピザ宅配スクーター、等々エピソードを挙げれば切りが無い。
 そんな楽しいペロとの暮らしの一方で、ぼくの内にある問題が進行していた。アルコーリズム(俗にいうアルコール依存症)が深刻化したのだ。アルコーリズムは習慣飲酒1015年経てから症状が現われる厄介な病気だ。20代に不安神経症から酒に逃げたぼくは、何時しか酒無しの日常は考えられなくなっていた。ブラックアウト(一時的な記憶の途切れ)や酒をめぐっての失敗(多くは約束の反故)が目立つようになり、ついに連続飲酒発作(飲み出すと止まらなくなり倒れるまで一週間でも飲み続ける)が現われた。これは非常に危険な兆候で、この発作が現われると引き返すことは困難で、多くはそのままアル中の階段を転げ落ち、死(社会的にも)に至る。ぼくは、どんどん連続飲酒発作を繰り返すようになり、ご多分に漏れず、仕事を失い、友人を失い、恋人を失った。ペロだけが変らぬ態度で傍に残った。
 アルコーリズム専門の病院の門を叩いて数年になる。先生に君のような患者の例は珍しいと言われた。アルコーリズムに治癒は無い。が、恢復はある(ほんの数%に過ぎないが)。

しかし、それには家族の協力が必要不可欠なのだ。ぼくのような一人暮らしで、ボーダーラインに踏み止まっているのが不可解らしい。でも、ぼくの傍にはペロが居て、ペロがぼくを助けてくれた。連続飲酒の最中でも、ぼくは辛うじてペロの散歩と世話は欠かさなかった。が、最後ぼくが危篤状態で動けなくなると、ペロもぼくの傍らにうずくまったまま動こうとしなかった。食事も水も用意しているのに、決して摂ろうとしなかった。ぼくと運命を共にしようとしているのだ。ペロを道連れにするわけにはいかないという気持ちが、ぎりぎりの処でぼくを支えた。ペロが居なかったら、ぼくは存在してないか、廃人になっていただろう。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)

 

 

2005/7/17  1522

●酒と犬の日々 その3                                    ●

最初は95年に遡る。
 95年の暮れ、何時ものようにペロの散歩していた時のことだ。公園のベンチにペロをお座りさせて、ぼくも横に並んで座り、おやつのビスカルをあげていた。ペロはいつも通り美味しそうに食べ、ぼくも嬉しくなってペロの身体を撫でた。その時、一瞬ぼくの心臓が凍った。ペロのおっぱいにしこりを発見したのだ。大きめの梅干し大のしこりだった。何故今まで気付かなかったんだろう。ペロの身体は毎日撫で回して遊んでいたのに・#12290;
 兎に角、かかりつけの動物病院で診てもらう。先生は乳腺腺腫の可能性大と言う。しかし、単なる乳腺炎の希望もあるとのこと。取り敢えず4〜5日抗生物質を投与して様子を見ることに。
 ペロの様子に変わりは無く、一日三度の散歩もこなし、食欲旺盛。至って元気。しこりに触れても、痛がる様子は見られない。ペロ自身、しこりは全く意識していない様子だ。
 けれども、決断しなくてはならない。切るかどうか。このままでは腫れは大きくなる一方。しかも、もし悪性だった場合、手遅れになる可能性も。ペロには可哀相だが、切ることに心を決める。
 1219日、愈々手術。何時もの散歩を装い、ペロを病院へ。「がんばってね」と声を掛けるのが精一杯で、僕自身は不安で押しつぶされそうだった。夜、動物病院に電話。膣の近くまで切った由。更に左にも小さな腫瘍発見、それも含めて発見しうるものは全て取ったと。ペロは麻酔から覚めぼんやりしていると。
 その後、安静のため退院の日まで面会出来ずずっと不安だったが、年も押し詰まった30日、漸く退院に漕ぎ着ける。迎えに行くと、17㎝ほどの手術跡は痛々しいが、思っていたより、覚悟してたより、遥かに元気。診察台の上から頻りにぼくの顔を舐める。手術自体は成功だった。翌日31日大晦日。ペロはもう、普通に散歩をこなし、普通にドッグフードを平らげる。ぼくはペロを相手に晩酌し、しみじみとペロの無事を喜んだ。
96
112日、ペロ抜糸。正式には乳腺腺腫で良性。境界線は明瞭で湿潤性は認められず。ただ、病理検査の結果、一部に悪性化傾向も見られたとの由。その「一部悪性化傾向」との一言に、ぼくはショックを受ける。何故ならそれは「癌」を意味するからだ。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)

 

 

2005/7/17  1447

●酒と犬の日々その2                                    ●

9月2日(木) 晴れ

 朝5時、トイレに起きると、ペロ君しっかと(そう感じられた)立ち上がり、じっとぼくを見詰めている。ペロ君もトイレかなと考える。しかし、自分の用を済ませトイレから出ると、何事も無かったように布団に横たわっている。よく眠っているように見えたので、そっとして、自分も二階に上がり寝直す。
 7時起床。ペロ君も目覚めている。クーラーつけ、ササミあげると三切れ食べた。自分から立ち上がり、水を飲み、玄関の方へ。すかさず抱っこして外へ。大工さんちの前の日陰にそっと降ろす。おしっこと少量の排便。下痢ぎみ。しんどそう。直ぐ抱っこして戻る。水を飲み、直ぐに布団にへたり込む。片方の座布団の上に寝かせ、いつもの様に一方の布団カバーを取り替える。急にペロ君の息が荒くなる。ハッハッハッと苦しそう。どうした? と新しいカバーの座布団にそっと移そうとしたら、ペロ君はぼくの手の内で頭をかくっと垂れた。小さな頭が重い。呼吸が止まっている。胸に耳を当ててみる。鼓動が聴こえない。もう一方のカバーも替え、二つ並べた上に、あらためて静かに横たえる。半開きの目蓋。キヤノンレンズのような碧の水晶体が深い光を湛えたままだ。指でそっと閉じてやる。垂れた舌も口の中に納めてやる。ユカリにもらったタオルケットを掛ける。赤いバンダナの首輪を着け、昨日買ったアヒルの編みぐるみを結わえてあげる。
 病院に電話。何度もペロ君を送迎してくれた看護婦さんが出る。経緯を話し、「ペロが呼吸してないんですけど、死んでるのでしょうか?」と訊ねる。自分では冷静なつもりだが、「鴨沢さん、しっかりしてください。大丈夫ですか?」と何度も言われる。ドクターが出勤したら直ぐ向かわせるので、待って居て下さいと。火葬のパンフレットも持って来てくれると。
 ペロ君を撫でる。暖かい。肛門が弛緩したのだろう、お尻から便が流れている。しっぽを持ち上げ、メリーズおしり拭きで何度も何度も丁寧に拭う。ワンちゃんの財布におやつを持たせてやろうと一緒に胸元に置く。ビスカル、ササミジャーキー、その他。ペロは未だ温ったかい。
 カーテンを開ける。朝の光の中にペロがいる。三脚を立て、レリーズを使い、自然光でペロを撮る。花が無い。庭に出る。朝顔が盛んに咲き誇っている。一番きれいな一輪を手折り、ペロの両掌に持たせるように添える。忽ちEOSのフィルム使い切る。今度はIXEで写す。見る間に朝顔が萎えてゆく。
 ドクターは未だ来ない。ペロを撫でる。頭を撫でる。冷たい。でも、タオルケットの下の胴体は充分温ったかい。目蓋の隙間から覗く瞳は宇宙のように何処までも澄んでいる。蘇生するのではと思う。
 11時、ドクター到着。ペロの胸に手を当て、マグライトで瞳孔を調べる。「残念でしたね」と言う。やはり駄目なのだ。ペロは死んだのだ。霊園のパンフレット見せ、色々説明してくれるが頭に入らない。個人葬か合同葬かだけ、お金が無いので合同葬に決める。ドクターはぼくが動揺していると見て取り、自ら霊園に電話してくれる。今日中に引き取りに来てくれるとのこと。ドライアイス等無くてもよいか訊ねると、クーラーつけてれば一日位大丈夫とのこと。ドクターが用意してくれた段ボールの棺にペロを納める。さっきまで縫いぐるみの様にくたっとしてたのが、もう手脚がつっぱって固くなっている。ドクターに手伝ってもらう。おやつも財布に詰め一緒に入れる。来てもらって本当に良かったと思う。蓋は自分で閉めるからと伝え、今までお世話になった礼を言う。
 ドクターが去り、棺の中のペロもIXEで撮り、後はずっと傍に付き添う。ずっと見詰め、ずっと、頭を胸をお腹を手脚を背中をしっぽを撫でる。何度も何度も。ペロはペロで有ってペロで無い。可愛らしいお人形さんのようだ。涙が溢れる。しかし、それが悲しみなのか、分からない。
 昼休みのKYONちゃんから電話。動揺しないようにと前置きし、ペロの死を告げる。電話の向こうで泣いているのが分かる。ぼくは大丈夫だからと伝える。
 霊園から電話が有り、以外に早く1時半、引き取りに来る。段ボールの蓋を閉じ、ガムテープで止める。胸が張り裂けそう。霊園の人が領収書(?)を渡し、納骨が済んだら葉書で連絡すると言う。そして、ペロを乗せたワゴン車が走り去るのを手を合わせて見送る。
 何時ものようにカバー洗濯。撮ったばかりのポジ、新宿のヨドバシまで現像に出しに行く。他に用も無く、真っ直ぐ家に戻る。悲しいのか、未だ分からない。まるで夢を見ているようだ。
 夜、心配してKYONちゃんが駆けつけて来てくれる。

 秋の朝死し犬の身の温さかな

 朝顔の死し犬の掌に萎へにけり

 以上は、ペロを亡くした日までの三日間の日記をここに書き写したものだ。死因は乳癌だった。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)

 

 

●酒と犬の日々その1                                    ●

酒と犬の日々         鴨沢 祐仁
1999年8月31日(火) 快晴

 ペロ君下痢。全然食べない。生ハムもローストビーフも駄目。夜、チーズを買ってきてやると、ほんの少し食べる。


9月1日(水) 快晴後曇り

 不眠。ペロ相変らず全く食べず。心配で堪らないが、自分の検査結果の出る日なので行かなくてはならない。ふと思いつき三脚を立て、EOS kissで寝ているペロの傍らに横たわりツーショット撮る。
 勿論クーラーつけっぱなしで、子育て地蔵尊と九郎明神社には何時もより入念にお祈りして病院へ。五月台の駅から山がすっきり見える。何時もより流れが澄んでいるので、大栗川で病院の写真撮ろうとしてリモコン落とす。欄干の下の桁で川に半分身を乗り出した形で奇蹟的に止まる。こんな軽いリモコンが弾みもせずにこんな危うい体勢で止まるなんて、ペロも一命を取り止めるという神の啓示のように思える。検査結果はコレステロール値がまた上がり、膵臓も弱っていると。他の値は許容範囲。
 新宿へ出、ヨドバシへ(何の用か忘却)。近くの手芸屋の店先で小さなアヒルの編みぐるみが目に留まり、ペロのアクセサリー用に(ペロはもう首輪も負担で外しているほど衰弱しているのに)とワンちゃんの顔形の財布買う。
 ビブレで牛肉タタキとササミ買って帰る。 タタキ少し食べてくれたので、いくらかほっとする。しかし、トイレ無し。今夜からキャンプ用のマット出し、ペロちゃんの横に添い寝しようかと考えていたが、取りあえず少し食べたし、明日は往診もあるし、ペロも眠っているしで明日からと決め、10時半、自分も早めに就寝。

「虹の橋」で逢おうね(イーグルパブリッシング刊より抜粋)