おひな様の始まり  
ひな遊び
源氏物語にも「ひいな遊び」というのが出てきますので、ひな人形というのはかなり古くからあったようです。
ただし当時のひいな遊びというのは今で言えばおままごとのようなもので、人形もずいぶんシンプルなものだったようです。
女の子だけでなく男の子も一緒に遊んでいたようです。
流しびな
おひな様のもう一つの起源は流しびなです。
これは人間の「ひな型」の紙人形や土人形に諸々の罪・汚れ・病魔などを封じて川に流すもので、
初期の頃は単純な形代(かたしろ)であったのが後には天兒(あまがつ)と呼ばれる顔を描き簡単な服を着たものなども作られていました。
なお、人形を流せるような大きな川のない山間部などでは村の道祖神のところに捨てる「捨て雛」も行われました。
淡島様と流し雛
雛祭りの起源伝説のひとつに淡島様と関連したものがあります。
婦人病などに霊験あらたかな淡島様という女神様は出自がよく分からないのですが、
そのひとつの説に住吉の神様の奥方であるという説があり、
女神様が大阪の住吉から和歌山の加太神社まで船に乗ってやってきたのにちなんで、
お雛様を船に乗せて流すようになったというのがあります。
しかしこれはどちらかというと流し雛の伝統に淡島様を絡めて作られた説のような気もします。
ひな祭の始まり
お雛様が3月3日の行事となっていくのはだいたい江戸時代の初期の頃です。
元々3月3日は上巳(桃の節句)といい、曲水の宴が行われるとともにお祓いをする慣習があったようです。
これに流しびなが結びついて長い間に雛祭りの下地ができていたようです。
寛永6年(1629)の3月3日上巳に後水尾天皇の中宮東福門院和子の方が、娘の興子(おきこ)内親王、
すなわち後の明正天皇のために雛遊びを催したという記事が西洞院時慶卿記に書かれており、これが記録されている最古の雛祭りとされます。
徳川家光の長女千代姫は寛永14年3月5日の生まれでした。
そこで正保元年(1644)の桃の節句を直前に控えた3月1日、7歳の佳儀のお祝いと兼ねて諸老臣より千代姫にひな人形のプレゼントがありました。
以後大奥では女の子が生まれる度にひな人形が贈られる風習が生まれました。
雛祭りが3月3日に定着したのは延宝年間(1673-1681)の頃のようです。
このころから俳句の歳時記に「ひな」が3月3日の言葉として必ず取り上げられるようになってきています。
この手の本への初出は寛永18年(1641)の誹諧初学抄ですが、それより後に出た同種の本で全く触れていないものもありますので、
その頃はまだ民間では定着には到ってなかったようです。
11代将軍将軍家斉の治世の大奥は大変な騒ぎでした。この将軍はたいへんな子沢山で、女の子だけでも20人以上もうけていますので、
そのそれぞれの女の子たちにあちこちからひな人形がプレゼントされる訳で、人形職人も立派なひな人形を作り上げるのに大忙しであったと言われます。
ひな人形の形式の変化
もともとひな人形というのは子供達がおままごとをするためのものでしたので、初期の頃は非常に簡素なものでした。
これは今でいえば立ち雛の形式です。ところが江戸時代に入って、大人がプレゼントするものとなった時に質的な変化が起きます。
それまではひな人形をかざるにしてもせいぜい床の上に毛氈を敷いてその上に並べる程度のものだったのが、きちんと台を付けたり段を組んだりして、
立派な飾り付けをするようになります。そして雛人形も豪華な衣装の座り雛が登場してきます。
この座り雛が登場した初期の頃のひな人形が寛永雛です。女雛・男雛ともに同じ模様の小袖を着て、袖を広げて手は見えていません。
サイズとしては10cm程度の大きさです。
これがやがて享保雛になりますと、サイズも40cmから60cmくらいと巨大なものも作られるようになり、女雛は唐衣に裳姿、天冠を付け檜扇を持ち、
男雛は束帯様装束で白平絹袴をつけ、烏帽子をかぶって笏を持っていました。巨大なものになると等身大のものまであったそうです。
江戸で享保雛がはやっている頃、京都に雛人形作りの大名人岡田次郎左衛門が出ます。
彼及びその弟子たちの作った雛人形は次郎左衛門雛と呼ばれ、やさしい曲線をうまく使って顔も可愛いらしかったため、大人気となりました。
他にも京都の人形作りの名家には山科家・高倉家というのがあり、それぞれ山科雛・高倉雛として人気がありました。
現在のひな人形の主流につながる形式のものは古今雛といわれ、明和・安永年間(1764-1781)頃に江戸で流行しはじめたようです。
お道具がたくさん加わり、人形の容貌は写実的で、装束は益々複雑になりました。